コラム霧ーーウラル桜木紫乃

霧ーーウラル
氷平線 ――
。
この造語は花村萬月氏の長編小説﹁紫苑﹂のラストシーンで使われている。
桜木紫乃どこに向かって歩きだせば陸なのかわからぬほどの、見渡す限りの﹁氷平線﹂が描かれていた。網走に住んでい
たときに手にした一冊だ。
オホーツクブルーを覆い隠した氷の世界はただ眩しく、目が痛くなるほどの﹁白﹂は、人の心に果てのない不安
をかきたてる。そんな景色がありありと目に浮かぶような氏の作品に出会い﹁自分もいつか文章を書く人間にな
ろう﹂と思った。あの日胸を打たれた、言葉による﹁景色﹂を追い求めてから、もう二十年が経とうとしている。
﹁氷平線﹂というタイトルで短編を書いたのは二〇〇七年のことだった。もう一本短編がないと本が出せない、
というせっぱ詰まった状況だった。タイトルも寒々しいが、置かれた状況も温かくはなかった。担当が半年から一
年で替わるという心許ない五年間を経てのデビューは、新人賞受賞作収録という枠がもう通用しないほど時間
が経っており、正直なところ一冊出せれば本望だった。
とにかく今まで書いてきた時間にひとつケリをつけなくてはという思いから、タイトルは﹁氷平線﹂に決めた。
果てのないところに、果てを見たかったのかもしれない。
＊
虚構だけれど虚構を疑うような物語を切り取ろう、と思うとき、北海道の果てにある景色はとてもつよい味
。そこには置き忘れられた、
――
方になる。
﹁この世に在ってこの世ではない景色﹂は、道東のそこかしこに残っている。そのひとつが野付半島だ。
道東の海縁は半島あり岬あり山あり崖あり湿原あり、ありがたいことに人影なし
。
――
あるいは誰かが落としていった物語が、名もなき草のように生えている。誰もいない、ということが贅沢なことだと
知ったのは、四十を過ぎてからだった。
人と関わり、煩わしい思いを抱えてささくれ立った心になにがいちばん効くか
不安になるほどの﹁独り﹂だと思えたのは人生の収穫に他ならない。生きてて良かった。
秋の野付半島で経験した﹁にわか独り﹂は自分の存在さえ﹁ない﹂状態に近かった。声を出しても誰にも届かず、電話
は不携帯、人影もない。ススキの間を縫ってたどり着いた海はべた凪で、生まれ育った太平洋とはまったく違う浜だっ
エンジンがかかった一瞬だ。
――
た。ふと振り返ると、車を置いた場所からずいぶんと遠いところにいた。今ここで倒れたら誰も気づいてくれないだろ
うな、と思った。
野付半島のお話を書こう
＊
。野付半島には、文章に落としてみたいものすべてが無造作に置かれていた。
――
本当の孤独は道具を必要としない。自分の足で、なにひとつ自由にならないところに行けばいい。音、色、におい、手
触り
この世にあるあの世の景色を感じながら書いたお話は、なぜか﹁生きる﹂ことが前面に出た。この秋一冊になる。タイ
︵２０１５年６月︶
トルは﹁霧︵ウラル︶﹂と名付けた。見えるとき、見えないときを楽しむのが道東の景色だろう。人と同じだ。終始、道
さらに同年﹃ホテルローヤル﹄集( 英社で) 第一四九回直木賞を受賞。
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東の霧が物語を引っ張ってくれたと思う。
桜木紫乃プロフィール
1 9 6 5 年北海道生まれ。
年﹃ラブレス﹄新( 潮社で) 第一回﹁突然愛を伝えたくなる本﹂大賞、年に第一九回島清恋愛文学賞を受賞。
2 0 0 2 年﹁雪虫﹂で第八二回オール讀物新人賞受賞。年、同作を収めた﹃氷平線﹄文( 藝春秋で) デビュー。
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