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【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】
【Historiographical Institute, Okinawa Perfectual board of Education 】
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土器製作からみた沖縄先史時代
比嘉, 賀盛
史料編集室紀要(23): 115-130
1998-03-27
http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/okinawa/7484
沖縄県教育委員会
土器製作か らみた沖縄先史時代
比
嘉
賀
盛
は じめに
土器 との出会い
私が一番最初 に土器 を作 ったのは、浦添貝塚か ら出土 した鹿児島由来の市来式土器
をモデルに した もので した。この市来式土器が発見 された時には、全国的にもたいん話題 にな りま した。当時高校生の私にとって、その土器のかけらが こんな大騒 ぎに
な り、新聞にも載 り、沖縄 中の学者だけでな く九州か らも学者がみえるのを見て、こ
んなに凄い土器 なのか と思った ものです。
そこで図書館 な どで本土の縄文土器を見てみます と、意外 なことに九州の縄文土器
とい うのは載 っていな くて、長野県方面の縄文中期の火炎土器などが載っているので
す。 また縄文土器の実物破片 を見せて もらった ら、感 じが まるで違 うのです。硬 さが
瓦の ような堅 さです。ずっと後で知ったことですが、水が漏 らない土器 もあるとい う
のです。脆 い沖縄 の土器 と比べて、これはどうい うことか と思いました。
浦添貝塚の次 に体験 した発掘 は、大里村の稲福遺跡で した。そこはグスク時代の遺
跡で浦添貝塚 の土器 を見た後だけに、模様のない土器ばか りにはウンザ リした もので
す。土器は時代 によって違 うのだということを一応認識 して きたのですが - ・。両
遺跡の土器の一番決定的な違いは土器の厚 さです。 さらに割れ口を見ると、浦添貝塚
の土器は中が黒い。一方、稲福遺跡のグスク土器はどうしてこんなに厚いのに中の方
まで焼けているように見 えるのか と、基本的な疑問がいっぱい出て きました。
大学入学後の研 究テーマは、タイムスケール としての土器編年においていました。
ところが、土器その ものについて、 どのように して作 るのか、模様はどういう順序で
施 されたかについて誰 も書いていません。それぞれの破片 に施 された文様 などの説明
は書いてあ ります。 しか し、部分ではな く壊れる前の完全 な形の土器 を復元する必要
を感 じました。机 の上だけであれこれ検討 して も問題の解決にはならない。実際に土
器 を作 らなければ手がか りは得 られない と思い、土器作 りを始めたのです。
当時の沖縄 は海洋博 に伴 う工事で賑 わっていました。 とくに西海岸各地の工事現場
では切 り通 しに何層 もの地層が剥 き出 しになって見 えていました。その地層のなかで
は石英 を含んだ層 、千枚岩がある層、粘土だけの層など、土器 を作 る素材 としてほ最
適 な条件がそろっています。そこで切 り通 しの地層か らサ ンプルをどんどん集めてい
きました。
採集 した粘土 を袋 に入れてオー トバ イの荷台一杯 に積み上げて運んだ ものです。六
十以上のサ ンプルを集めました。 ところがオー トバ イの荷台がひん曲がるほどの粘土
のサ ンプルを運んで も、実際にはそれがそのままこねて土器が作れるというわけでは
ないのです。ほとん どの粘土が土器作 りには使 えませんで した。
「
水簸」(
すいひ) という方法で純粋 な粘土だけを取 り出す必要があ ります。 まず
バケツなどに水 と土 を入れか き回 します。粘土が水 に溶け濁 ります。不純物の石 など
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1 15
-
は沈み、根や枯れ葉 などは浮 きます。ゴミを除 き粘土で濁 った水 をタンクなどに入れ
て沈殿 させ ます 。 2、 3日もおいて置 くと底の方に粘土がたまります。そこで上澄み
の水 を捨 てます。それで も、かな りの水分が残 るので、底 をふ さいだ植木鉢 などにい
れて蒸発 させ水分 を抜 きます。 しか し、ここまで精製 して得た粘土で も、土器作 りに
使 えないのがほ とん どで した。
水簸 して も、繰 るだけで ヒビ割れて使 えない土 もあ ります。なんとか形が作れて も
乾燥する と脆 くなる土 もあ りました。6
0
種類以上の土の中で :土器作 りに使 えた土 は
gと して 、 300k
g以
恩納村の瀬良垣 と :谷茶で採集 した二つだけで した。一袋が約 5k
上の土か ら使 える粘土 として残ったのはわずかに 8k
g程で した。
1。沖縄本島の土について
クチ ャ風化土
クチ ャと呼ばれる島尻層の青灰色泥岩があ ります。沖縄本島の中南部は、急速 に都
市化が進み、の どかな農村地域 も宅地化が急速 に進んでいます.以前はジャーガル土
壌地域では、集落近 くの川 に行 くと土手 にあざやかな青灰色の粘土が取れる場所が各
地にあ りま した。 この粘土 を洗髪に使 うと髪がスベスベす るので、昔は良 く利用 した
そ うです。
戦後の物資の乏 しいころは、小学校の図工で粘土の工作 に利用 されました。非常 に
扱いやすい粘土で、土器作 りにも適 しています。沖縄の伝統的な赤瓦は、このクチ ャ
で焼かれてい ます。 ところが、これで土器 を作 って野焼 きすると淡黄褐色の白っぽい
色 に焼 き上が ります。グスク時代の土器などには、このような色 もあ りますが、貝塚
時代の土器 に特有 な赤褐色 にな りません。
野焼の土器は、火の中に放置する時間が長い と赤 くなる傾向があ ります。 しか し、
クチ ャで焼 いた土器は1
2
時間以上 も燐火の中にあって も、伊波 ・荻堂式のような赤褐
色 にはな りません。 ところが蕪で焼 くと一変 して赤瓦や レンガの ような色 に焼 き上が
ります。
島尻マージ
島尻マージは琉球石灰岩の上 に堆積 している赤土です。島尻マージの畑の土は粒状
になってい ます。そのために島尻マージは排水性が良いのです。これは収縮率が大 き
く塊粒状 にな りやすい性質のためです。以前の農家のカマ ドは、石 と島尻マージの粘
土で作 っていま した。これは土が乾 くと塊粒状 にな り粒の間に隙間がで きるので、高
温で も割れた り破裂 しないか らです。
ところが、カマ ド作 りに使 っていた くらいだか らと安易 に考え、土器作 りに便お う
とすると大変なことにな ります。 まず、場所 を選び純粋 な土だけ取って きて水 を加 え
て繰 ろうとして も、粘土の粒の中まで柔 らか くな りません。 まるで生煮 えのご飯粒 を
繰 っているようで均質にな りません。それならと水簸すると粘土 はで きますが、練板
や手 にべ 夕とつ き練れません。 まるで トリモチを扱 っているようです0
この粘着性 を解決 しない と成形はで きません。そこで微細なニービ砂 (クチ ャと互
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層 をな している小禄層細粒砂岩)を加えてみました。ところがかな り加 えて も変わ り
ません。粘土の数倍 ものニービ砂 を混ぜて、ようや く扱えるようにな りました。
こうして何 とか粘土 らしくした土に、混和材 を混ぜて土器を作 り焼いてみました。
焼 き上がった土器 を見て 「
唖然 !」
。土器の表面は早魅の後の水 田の ように無数の ヒ
ビ割れです。 ヒビ割れは深 く、厚 さの半分以上 もあ ります。これでは土器 とは言えま
せ ん。それまでに実験 した粘土は、ニービ砂 を多量 に混ぜ ると明るい黄褐色 にな りま
す。 ところが島尻マ-ジの焼 き上が りは、少 しツヤのある 「どす黒い赤褐色」にな り
ます。他の土 と混ぜて も、独特な焼 き上が り色やヒビ割れを生ずる性質が簡単には消
えません。信 じられないほど 「アクの強い土」で、単独では土器作 りに使えません 。
国頭マージ
那覇か ら名護向けに国道五八号を走ると恩納村多幸山付近か ら国頭マージの赤土が
見 られます。沖縄貝塚時代の土器は、そのほとんどがクチャが主体の粘土で焼いた と
は考えられません。焼 き上が りの色が違 うか らです。貝塚時代の人々が使った粘土 を
求めて、沖縄本島西海岸の土 を採集 したことはすでに述べ ました。
なお、ここでは簡単に 「
国頭マージ」 と呼んでいますが、このなかには性質の異な
る色々な土が含 まれます。切 り通 しや崖などに見 られる粘土層、窪地に流れ込んで堆
積 した土なども一括 して扱っています。土の色だけで も灰 白色、黄褐色、赤褐色 と変
化 に富んでいます。
現在、沖縄で焼かれている陶器は、恩納村や石川市以北の土です。土器作 りに使 え
る粘土は、だいたい陶土 として採集 されている土 と同 じです。土の見方がわからない
最初の頃は、土器作 りの粘土は赤い土が非常に理想的だと思っていました。 ところが
実験 を続けるうちに、赤い土は粒子が租いのが多 くて使えないものが多い と解るよう
にな りました。最初の予想 とは逆に、やや黄色や白っぽい土のほうに良い土が多いの
です。
混和材 について
私 もそうで したが、「
適当な所 を選んで土 を取って くれば土器 は簡単 にで きる」 と
考えている人が多いのに驚かされます。砂 などの混和材 と粘土が適当に混 じっている
所 をさがせばよいと思われるで しょう。偶然、手にした土が混和材 と粘土が適当に混
じっている。そんな場所 を見つけた経験が三度あ ります。水 を加えて繰 っただけの土
で、土器が割れずに焼 き上が りました。何れ も畑の土で、偶然に砂層 と粘土層が耕 さ
れてで きた土 と考えられます。
こんな場所は簡単 には見つか りません。例 えあったとして少量 しか得 られない場合
がほとんどです。混和材 と粘土が伊波 ・荻堂式などのように、何世代 もの長い期間を
とお して採土で きる所のある可能性は少ない と思われます。その理由として、良質な
粘土の堆積 は濁った水 に溶けた粘土が沈殿 ・堆積 したもの、つ まり自然が行 った水簸
と理解 されるからです。これは地層を観察 して見れば明 らかです。裸は磯層、砂は砂
層、粘土は粘土層 と別々の層 となって堆積 しています。
伊波 ・荻堂式土器の破片 を砕いて見ると大半が石英で、チャー トもかな り混 じって
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います。その次に千枚岩などが含まれています。そこで混和材 を作るために石英やチャー
トな どを砕 いてみま した。すると意外 なことがわか りました。輝線岩や砂岩などの石
では、ある程度の大 きさまでは割れます。 さらに細か く粉砕 しようとす ると叩いてい
る石の粉や粒が多量 に混 じって しまい ます。それではと鉄のハ ンマーを使 うと、ハ ン
マーの方が凸凹になって しまいます。
この ままでは硬す ぎるので、これは焼かない とだめなん じゃないかなと考え、焼い
て熱い うちに水 をかけて冷や し割れやす くしました。 ところが今度は実物の土器の混
和材 と全然違 うのです。石英やチ ャー トに細かいひび割れ (クラック)がで きます。
どうや ら土器作 りとい うものは、そんなに簡単なや り方でで きるものではない と思い
知 らされ ました。
強度 と水漏れ
そ こで手軽 に得 られる川砂 に変えた とたんに、まず土器の強度が まるっきり変わっ
て しまい ました。同 じ粘土で も石英 を混ぜ た ものより簡単 に割れます。沖縄の川砂 は
9
0%以上が千枚岩の砂粒 です。伊波 。荻生式土器の混和材の主成分である石英は、い
くら焼 いて も強度が変わ らない理想的な材料 なのです。
縄文土器作 りの実験 を続けた新井司郎 によると、土器作 りの技術のひとつに 「
つぶ
し」 とい うのがあ ります。土器が渇 く寸前 に徹底的に土器の内側 を磨 くと表面 にツル
ツルの膜がで きるようにな り、水が漏 らない土器がで きると書かれてい ます。
そこで沖縄の土器で もと試 してみると、実際には不可能に近いのです。石英あるい
は石英質の多い川砂、砂粒 を混和剤 としてを使 うのなら可能で しょう。 しか し、沖縄
本島の川砂 は九割以上が千枚岩です。 これを混和材 に使 うと貝殻や玉石のようなもの
で磨いて も、千枚岩 自身が水 を通すために、どうして も潜み出 しによる水漏れは防げ
ません。完全 に水の漏 らない土器は、沖縄本島の川砂 を使 う限 り不可能に近いのでは
ないか と思われます。
なかには 「これは漏 らない らしい」 と見 られる内面が見事 に研磨 されている土器 も
あ りますが、そj
Mま数点 しか見たことがあ りません.沖縄のほとんどの土器の内面 に
は、ヘ ラや木の皮などで仕上げた擦痕や条痕が残 されています。新井氏の言 う 「
つぶ
し」が行 われたなら、内面がツルツルになるので条痕などは残 りません。
土器 に対するイメージを壊す ようですが、焚 き火の中の土器 に水 を入れると表面が
濡れて きます。やがて表面か ら湯気が立つのが見えます。その時に気化熱が奪われ、
内部の温度が上がるのを妨 ざます。なかなか煮 えた ぎるまではい きません。そこで温
度計 をワイヤーで吊る し、最高で約九五度 まで確認 しました。 もう少 しは温度が上が
るだろうと、炎を上げるほど燃や した ら炎で温度計が割れて しまいました。最初か ら
温度計 を土器 に設置 して も、こんどは湯気が邪魔 をします。邪道ではあるのですが、
ガス コンロを使ってみ ま した。その結果、やっと水の染み出る土器で も1
0
0℃で沸騰
するの を確認で きま した。
各時期の土器 に見 られる胎土の違い
大学へ入学 して間 もない頃、首里の沖縄県立博物館へ行 き、新田重清先生へあい さ
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1
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つにいったところ、考古資料の整理のアルバイ トを紹介 して もらいました。博物館の
地下収蔵庫で、ほぼ同時期の地荒原貝塚 と大山式土器の土器 を比較観察する機会があ
りました。大山貝塚の土器は沖縄の土器編年の上で、層位による土器形式の変化を明
らかにした重要な遺跡です。両遺跡の土器は、いずれ も大山式からカヤウチバ ンタ式
を経て、宇佐浜式に近い土器-無文化の進む時期の土器が出土 しています。土器型式
はほぼ同 じですが、土器の胎土や混和材がまった く異なるのです。両者の土器はナン
バーリングを見ないで も、1
00%に近い確率で 「これは大山貝塚 の土器、 これは地荒
原貝塚の土器」 と明確 に分けられることに気づ きました。
博物館 には嘉手納貝塚の土器 も展示 され、収蔵庫で展示 された以外の資料 も見るこ
とができました。すると嘉手納貝塚の土器 とも胎土が違 うのです。三遺跡の土器は、
それぞれ別の土 を使っていたのかと思ったのですが、その他の遺跡の土器を見ている
うちに、嘉手納貝塚の土器 と似たような胎土の土器が結構多いのに気づ きました。
それは 「
伊波 ・荻堂式」あるいは 「
伊波 ・荻堂系」 と通称 されていた土器のグルー
プです。その後、沖縄国際大学考古学研究室に収蔵されている熟田原貝塚の土器をじっ
くり観察 してみました。そうすると、また面白いことに気づ きました。それはちょっ
と見ただけでは判 らないことですが、一つの遺跡の土器 を全体的に見ると、浦添貝塚
-熱田原貝塚-嘉手納貝塚の順 に混和材の粒が租 くなるようです。 しか し、個々の土
器片だけで、どの遺跡の出土か判別するほどの違いではあ りません。
さらに各遺跡の資料 を見ているうちに、先生方や先輩達が文様 もない小 さな破片 を
見て 「これは古い (
前期)土器」、「これは後期だろう」 などと見分ける 「
違い」が少
しは理解できるようにな りました。また、「
多 くの遺跡の土器を見れば、時期別の土
器の違いが自然 にわかるようになる」 と教えられ、暇 さえあれば各地の遺跡 を廻 り立
地環境などを調べて行 きました。
そうすると確かに各時期の土器を見てい くと、時期別に厚 さ ・胎土 。固さ (
焼成)
に違いが見 られます。極端な言い方をすれば 「
沖縄本島中南部の土器に限れば、爪ほ
どの小破片で も、およその時期の推定は可能」だったのです。
土器の胎土に含 まれる混和材 ・手触 り ・色調などの違いに注 目した研究は、復帰前
後 に琉球大学考古学研究会がグスク土器の研究で行っていました。当時の沖縄では、
年に一、二回の発掘調査が行われる程度で した。当然、県立博物館 日中縄国際大学 。
琉球大学などに収蔵 されている各遺跡の土器資料 も表面採集や小規模 な試掘で得 られ
た資料が大半で、発掘調査で得 られた資料は数える程 しかあ りません。
戦前に発掘 された伊波貝塚 。荻堂貝塚 などの資料は県外に持ち出されています。戟
後 に発掘調査が行われ、資料が地元にある場合で も報告書などが出ていたのは数例だ
けで した。沖縄前期の遺跡では大山貝塚 。嘉手納貝塚 ・地荒原貝塚 。久里原貝塚など
の報告書です。そのために地元沖縄で研究するには、小 さな土器片を中心に追求する
しかない状況だったのです。本来ならば復元 した各時期の土器を器形 ・文様 ・製作技
法などをもとに分類編年を行 うの理想です。
多和田先生の 『
琉球列島の貝塚分布 と編年の概念』は、資料の増えた今振 り返って
見て も大幅な変更はあ りません。戦後の不利な状況のなかで、編年研究が可能だった
のは、時期別に胎土 ・混和材や製作 ・焼成技術の違いがあったからです。
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ユ19 -
21サンゴの海 と土器
各時期の土器 を見て行 くと貝殻などの石灰質の粒が混和材 になっているものがあ り
ます。新 しい方ではグスク時代の土器 (フェンサ上層式)で、地表に長年 さらされて
いた土器片の場合、表面の混和材が溶けて無数の空洞になっています。このような破
片を割 ってみると中の方には、貝殻 を砕いたような粒が残 っているの もあ ります。宇
佐浜式の頃に も似たような土器があ り、通称 「アバ タ土器」 などと呼んでいます。
グスク時代 の遺跡で出土する二枚貝で、一番多いのはアラスジケマ ンガイです。そ
こで海岸で集めて きたアラスジケマ ンガイを砕 いてみました。貝 を砕 くのも結構大変
な作業です。 しか も割口が手が切れる くらい鋭いのです。これを粘土に混ぜ ようとす
ると大変です。厚手のゴム手袋 を使 って混ぜ て練 ったとして も、土器作 りは素手でな
い と上手 くで きません。ただで さえ粘土 を扱 っている手は、水分で柔 らか くなってい
ます。血 をみるのは明 らかです。これはシュリマイマイやオキナワヤマタニシなどの
カタツム リ類で も同 じです。
近 くの工事現場の砂 を見ると、多量の小 さな月が含 まれています。 どこで取れたの
か聞いてみると那覇の西、チ-ビシ付近で取れた沖の砂 との答えです。アラスジケマ
ンガイと比べ ると五分-以下の殻厚 しかあ りません。この砂 をフルイにかけて混和材
としてクチ ャに混ぜて大小二個の土器 を作 ってみま した。
たまたま薪が少なかったので、大 きな土器の中に小 さい土器 を入れて焼いてみ まし
た。焼 き上がった土器の灰 を洗い落 として、新聞紙の上に置いて乾かす ことに し、そ
ろそろ乾いたかなと見 に行 くと大 きい方の土器は崩れ落ちて形があ りません。 ところ
が小 さい方は しっか り残 っています -
・?。わずか二、三時間の間に何が起 きたの
か、想像 もしていない現実です。崩れた破片 を手 に取 ると簡単 につぶれます。残 った
方は指で弾 くとコツンと硬そうな音です。
同 じ砂 を使 って何度か実験 を続けて見 ました。その結果、土器が鉄 を焼いたように
真っ赤 になるまで焼 くと、水 に濡 らした ら一時間ほどで くずれます。濡 らさずに置い
て も、 日数が経つ と混和材が空気中の水分 を吸収 して膨張 し簡単 につぶれます。高温
にならない ように枯れた草やススキを使って焼 くと、何 とか焼 き上げることがで きま
す。そのためには山ほ どの燃料が必要です。土器の上に枯れ草 などを積み上げて燃や
して も、火は上の方か ら燃 えるので生焼けにな ります。少 しづづ 時間をかけて燃や さ
なければな りません。何 とか焼 き上げて も、ススで真っ黒の見栄 えの しない土器がで
きるだけです。
そこで海岸や波打 ち際か ら砂 を採 るのではな くて、ずっと内側の内陸部の砂 を使 う
事 に しま した。左官屋 さんや建築工事の人が陸砂 と言っているものです。風化 して中
の堅い部分だけが残 っている砂です。建築工事 に理想的な砂 と言われ、内陸部にある
ので土の色が染み込んで汚れた色 を しています。
陸砂 を使 って も炭火の ような燐火が残 るような太い枯れ枝 などは、燃や し初めの3
0
分 くらい しか使 えませ ん。野焼 きではどんなに慎重 に焼いて も、簡単 につぶれる土器
にな りやすいのです。それを被片に して庭の花壇 に混ぜて置いた ら、いつのまにか消
えて粒 さえも残 りませ ん。 どうや ら貝殻 などの石灰質の混和材 を用いた土器は、焼 き
-1
2
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方などに相当な工夫 を したようです。可能性 として、土器 を小石 などで包んで焼 く方
法、あるいは窯 に近い ものを作 ったか も知れません。
貝殻あるいは海砂が混入 された理由
古代の人々 も、貝殻や海砂が混和材 として適当な材料でないことを体験 したようで
す。それはアバ タ状の土器が登場 して も、す ぐに別の混和材 に変わって しまうことで
明 らかです。 どうして、混和材 に適 していない石灰質の混和材が使われたので しょう
か。 どうも沖縄本島周辺だけでは、この間題は解決で きそうにあ りません。そこで徳
之島 ・奄美大島などの海岸や川の砂 の情況を見てあるきました。そ うすると、徳之島
では驚 くべ きことが分かったのです。徳之島の東海岸のほぼ中央 に母間があ ります。
そこか ら北の事々にかけての海岸は、ほ とん ど純粋 な石英の砂浜だったのです。
それ も 1n
l
l
n
以下の粒が揃 った石英がなのです。これは とんで もない海浜があった も
のだ と思い ました。いろいろ調べてみると、徳之島の手々の砂浜は、戦前 までは歩 く
とキュキュと鳴 ったそ うです。このような砂浜は本土では、琴 ガ浜 ・鳴砂 などと呼ば
れ、純粋 な粒 のそろった石英砂でない と鳴 らないそうです。今 は不純物が混 ざって鳴
らな くなっています。 もし、この海浜に古代人がた どり着いて来たならば、一番理想
的な混和材 だ ということに気づいた と思います。
沖縄の土器 は北方か らの影響 を何度 も受けています。明 らかになっているだけで も
縄文前期の曽畑式、同後期の市来式、弥生土器などがあ ります。南九州あた りか ら南
下 して来た人々は、海岸の砂が良好 な混和材 として使える徳之島などを経由 して沖縄
まで来た と考えられ ます。沖縄の浜辺の砂が混和材 に使 えない と解 った らどうす るで
しょうか。この辺 を手掛か りに土器 を調べていけば、土器についてかな りの ことが解
明で きるのはないか という大胆 な着想が湧いて きました。
土器 に見 られる規格性
伊波式 ・荻堂式の土器の場合、沖縄本島だけではな く、久米島 ・渡名喜島 ・伊平屋
島などの各島々の貝塚か ら得れた土器 を同 じような条件で破砕 した ら、 どこの島の土
器か区別がつかないはずだということに気づ きました。冗談ですが伊波 ・荻堂式 には
JISマークが付 いていないのがおか しい、それ ぐらい沖縄本当周辺の島々の土器が
一定 しているのです。
さらに驚 くべ きことに、一番古い と言われるヤプチ式土器 については、奄美大 島の
ヤーヤ洞穴採集例、読谷村の渡具知東原採集例、さらに与那城町のヤプチ式土器 を比
m以下の黒い鉱物が入 っている し、厚
べ ると、いずれ も土器破片の中に同 じような 1m
さも約 4mmで色 も似ています。
室川下層式の場合 も、奄美大島で出土 した土器、沖縄本島か ら出土 した土器の胎土
や混和材 、それに色 まで非常 に似ています。 これは面縄前庭式などで も同様です。土
器作 りに用いる土が違 えば、焼 き上が りの質や色 に反映 され ます。沖縄本島の場合 、
国頭マージ系の土 とジャーガル (
島尻層青灰色泥岩風化土)では大 きな違いがあ りま
す。それぞれの遺跡の近 くで得 られる粘土 を用いたならば、違いがあって当然です。
土器 はどこの土で も簡単 に作れる訳ではあ りません。例 えば混和材の川砂 を例 に取
-
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ります と、いつ も砂が取れた川で も大雨などによって流 されているか も知れません。
これは実際に何度 も経験 しています。辿 り着いた島で土器が作れないでは困 ります。
粘土 ・混和材 まで一定 ということは、そういう材料が入手で きるある島で素地土 を
作 り、各島々に人々が渡っていったのではないか ということが想定 されるのです。器
壁の厚 さがわずか 3- 4mmほどの薄い土器を舟で運んでい くには、割れを防 ぐために
革や木の葉などのクッシ ョン材 を必要 とします。 しか し、調合 した 「
素地土」にして、
それを持ち運びすれば、船が揺れて土器が割れても簡単に作れます。そう考えると運
搬手段 まで含めて一気 に解決で きると言 うことに気づ きました。
3.各時期の土器 について
A ヤプチ式土器
渡具知東原遺跡の爪形文土器に続 く土器はちょっと厚手にな ります。器壁の厚 さが
8mmか ら 1c
m近 くの土器に変質 してい くのですが、その時にとんで もない変化が見 ら
れ ます。この土器には多少は沈線文のようなものが入っていますが、基本的な作 り方
はヤプチ式 と変わ りません。土器の割れ口を見ると、細かな気泡状の空洞があ ります。
これは、沖縄では別に珍 しいことではあ りません。
ヤプチ式は 3- 4r
n
mの非常に薄手な土器です。それから一変 して海砂 を混ぜたと考
,c
mと厚手 にな ります。その理由は海砂 を混ぜて 3- 4mmの薄
えられる土器が 8か ら 1
手土器 を作 って焼いてみると納得することがで きます。薄手は焼 くと温度が急 に上が
ります。たちまち土器の表面にある貝殻の粒 などが弾けはじめます。さらに始末の悪
いことに中まで しっか り焼けて石灰 になって しまいます。運 よく割れずに土器が焼 き
上がったとしても、水 を入れ終わって しばらくすると崩れ落ちて しまいます。それを
少 しで も防 ぐには、厚手に作 るのが手っ取 り早い方法なのです。
ヤプチ式は鉛筆ほどの太さの粘土紐 を、指でひね りなが ら積み上げています。一段
の積高は 1-1.
5c
mほどです。この積み上げた指のあとが、そのまま文様 の ように残
されているので 「
爪形文土器」 とも呼ばれています。渡具知東原遺跡の発掘調査で、
ヤプチ式土器に続 く東原式への変化が確認 されました。それは沖縄の地で土器の材料
を調達するときの 「
試行錯誤」 を反映 しているようです。
なお、ヤプチ式などの爪型文系統の土器を出土する嘉手納町の野国貝塚の土器片を
見 ると、渡具知東原の最下層で出土 したヤプチ式土器 と違 うのが多いことに気づ きま
した。肉眼観察では厚 さを除いて胎土が、時期の下る伊波 ・荻堂式 と似ています。
ヤプチ式土器以後の変化 というものが よく判かってないののが現状です。すでに述
べたように奄美諸島か ら沖縄本島まで分布する同様な胎土 ・混和材の土器 と、沖縄本
島付近で作 られた在地のヤプチ式土器、それが多少変化 したもの (
東原式)などが見
つかっています。 しか し、これ らに後続する土器形式-の型式変化を把振で きるよう
な資料が発見 されていません。
B 室川下層式 と面縄前庭式
室川下層式はロ緑部近 くで も 1cmと厚手の尖底土器です。作 り方がヤプチ式 とは大
きく違います。一段が 3- 5cmの積み高です。台などの上で帯状 に作 り、それを一段
-
1
2
2
-
一段積み上げたようです。この積み上げ方法は沖縄の土器に一般的な方法です。なお、
底部の資料の中に粘土紐 を渦巻 き状 に巻 き上げた様子が見 られる例 もあ ります。この
底の作 り方はヤプチ式 と共通するようです。この点はまだ十分に検討 していませんの
で、今後の研究課題 と考 えています。
渡具知東原遺跡で、ヤプチ式土器の上層 に室川下層式や曽畑式土器が出土 してい ま
す。それ らに続 く型式は今 の ところはっ きりしていません。 この土器の出土 した各遺
跡の土器 を見 ると、突然 に途絶 えて別の型式が登場 しています。
今の ところ室川下層式土器 に続いて登場する土器は面縄前庭式です。この型式の土
器 は不思議 なことに、ヤプチ式土器 とそっ くりな作 り方です。平均の厚 さも 4- 5m
m
ほ どでヤプチ式 より少 し厚い程度です。
C 伊波 ・荻堂式
縄文時代後期 (
約3
5
0
0-3
6
0
0
年前)に伊波式土器が沖縄 に登場 します。この頃に奄
美諸島の土器 と沖縄諸島の土器が分かれ、それぞれ地域色が顕著 にな ります。沖縄諸
島では文様 をつける道具はおそ らくリュウキュウテクなどの竹 を利用 した二又や半裁
竹管の施文具が多用 されます。奄美諸島では爪先の ように丸みのある形や三角に尖 っ
た施文具が主流です。これは、その前のヤプチ式 。室川下層式 。面縄前庭式が沖縄か
ら奄美諸島に広 く分布 している状況 との大 きな違いです。
伊波式土器以後 に定住が始 まった と考 えられます。その理由として、伊波式以降の
遺跡 には明確 な文化層、ゴミ捨て場 としての貝層が見 られる点です。 また、伊波式土
器の次 に、荻堂式へ 。大山式 ・カヤウチバ ンタ式か ら宇佐浜式土器へ と至 る過程の層
が連続 して堆積 している遺跡 (
複合遺跡 )が多いことを見れば納得で きるのではない
で しょうか。
一定の場所 に住むようなったか らで しょうか、伊波式土器は平底です。奄美地域の
土器 も同様 に平底です。伊波 。荻堂式土器の口縁部は、山形あるいは突起などが見 ら
れます。 ところが大山貝塚の第 Ⅱ類土器 (
大山式土器)になると平口縁の土器にな り
ます。平口緑 は後続するカヤウチバ ンタ式にも受け継がれます。 この平 口縁への変化
は、奄美地域か らの影響ではないか と思われます。奄美では大山式土器 と同時期 と予
想 される面縄東洞式以降に、沖縄 と同様 に平口縁- と変わるようです。
D 肥厚 口緑土器の時期
平口緑土器が主流 になった頃、沖縄の土器に大 きな変化が現れます。その前の伊波 。
荻生式土器は、沖縄各地の土器 に規格で もあるかのように均質性が見 られます。 とこ
ろが大山式以降の土器は、遺跡 ごとに胎土 ・混和材が違 って しまい ます。
すでに述べたように地荒原貝塚 と、大山貝塚の土器 を比較観察する機会があ りまし
た。二つの遺跡の土器は、表面の色や砂粒の量や質 まで違 うのです。調べて行 くと、
この現象 は沖縄各地の遺跡 にも見 られるようです。 どうや ら、大山式やカヤウチバ ン
タ式などが出土する遺跡の特徴 らしい判 って きました。
どうや らカヤウチバ ンタ式が登場するころに混和材 に石灰質の粒が用い られた り、
8-1
0
m
mの厚手が登場 した りします。それまでの土器作 りの技術が突然途絶 えたよう
-
123 -
な状況が見 られます。浦添市の仲西貝塚の場合、包含層の断面に大山式土器が見えて
いるので、取 り出そ うとすると埋 まっている粘土の方が固 くて、取 り出すことを断念
しました。知念村のクルク原貝塚で も同様な経験 をしました。このように脆 くて壊れ
やすい土器が見 られるのは、琉球石灰岩台地やその近 くに形成 された遺跡です。
次に驚かされたのは、古座間味貝塚の土器を見たときです。最初の印象は 「
信 じら
れない くらいへ タクソな土器が多い」 と思ったものです。しか し、これは見当違いだっ
たようです。座間味島では国頭マージが得 られます。国頭マージ系の土には、何 とか
土器の形はで きるが積み上げている途中で形 よくしようと手 を加え過 ぎると、亀裂が
生 じた り崩れる例が よくあ ります。これは粘土の粒子が粗い土 を使ったからです。
この一連の不細工な土器 も、やは り大山式に続 く土器で、東海岸の津県鳥キガ浜貝塚
で も厚手の土器や石灰質の混和材 を用いた土器が登場 しています。
遺跡間の交流が活発なら、このような現象は見 られないで しょう。より良い土器の
材料 を求めるのが自然です。沖縄諸島各地の遺跡の土器を見てい くうちに、縄文時代
後期の末か ら晩期の時期 に、沖縄 に何か異変があったとしか思えません。
E 宇佐浜式
カヤウチバ ンタ式-面縄西洞式-宇佐浜式 にかけての時期 は、口縁部 を厚 く作 る
「
肥厚口緑」が主流です。宇佐浜式土器には石英系の混和材で作 られた良質の土器 と
石灰質の粒 を使った脆い土器の二種類があ ります。これは器種の違いではありません。
土器の材料が全 く異なるものが、一つの遺跡に混在 しています。
この時期は奄美 と沖縄が共通の土器型式 「
沖縄では宇佐浜」、「
奄美では宇宿上層式」
に統一 されます。無文土器が多 く、底部は丸底ない しは尖底です。ロ縁部に大 きな特
徴があって、玉線状 に口の周囲が膨 らんだ形になっています。
宇宿上層式あるいは宇佐浜式土器の中には、表面をテカテカに磨 きあげたものが見
られます。これは今 までの土器には無かったことです。「
磨 き」 とい う新 たな技法が
入って きています。研磨は土器がやや固 くなってからでない と効率的に行えません。
面を磨 く技法の登場は、土器の 「
無文化」を伴います。文様があっては研磨 しに くい
のです。
磨 きのテクニ ックを日本全体で見てい くと、縄文時代の後期から晩期に 「
磨消 し縄
文」に思い当た ります。縄文の一部を擦 り消す技法です。晩期には全面に磨 きをかけ
る 「
黒色磨研土器」があ ります.技法 としてはこれと一致 しているのではないか。宇
佐浜式土器の年代か らすると、縄文晩期の磨研土器の影響が十分に予想 されます。縄
文文化の南端、沖縄本島地域 にも全国的な 「
磨 き技法」が伝わったと考えられます。
石鉄の問題 宇佐浜式に石鉄が伴 うことは良 く言われます。その前の伊波式 ・荻堂
式土器の時期には、石鉄は見当た りません。また、宇佐浜式土器 より後の時期にも石
鉄は使われていません。 どうや ら、沖縄の貝塚時代には、宇佐浜式土器の頃を除くと、
少な くともチャー トや黒曜石の鋲 を使 う文化は見当た りません。
この時期だけの石鉄の出現は、「
石鉄は狩猟採集の道具」 と単純 には考 えるには問
題が多す ぎます。おそらく弓矢 を持った人々が北の方か ら侵入 してきて、奄美か ら沖
縄本島までを一つの土器文化に統一 して しまったのではないで しょうか。沖縄各地で
-
124 -
大山式以降に土器の規格性が崩壊する現象は、北か ら来た人々への脅威や何 らかの圧
迫が宇佐浜式以前の時期か らあった事 を語っているのではないで しょうか。
縄文時代晩期の宇佐浜式土器の時代 に、九州方面 との交流が活発になったらしい と
いうことがいえます。九州 とか日本に限 らないか も知れません。例えば、那覇市の城
岳貝塚か ら中国の 「明刀銭」が出土 しています。中国大陸か ら朝鮮半島経由できたの
か、直接 中国か ら渡ってきたのか不明ですが、多 くの方々の言われるように何 らかの
交流があったことを示す もので しょう。
弥生文化の波及
縄文時代晩期から弥生時代へ変わる頃、沖縄本島では内陸部に住んでいた人々がサ
ンゴ樵の発達 した海岸へ移住するという大 きな現象があらわれます。沖縄市の室川貝
塚では、仲原式土器に続 く土器が見当た りません。仲原式 とともに約千年住み続けた
土地を離れて しまいます。沖縄市全域で遺跡の有無の調査 を行いました。けれども、
仲原式に続 く先史時代遺跡は見つか りません。
この現象は沖縄市だけではあ りません。沖縄本島内陸部の琉球石灰岩台地に分布す
る貝塚時代遺跡に共通する現象です。そのため、沖縄貝塚時代後期の遺跡 を 「
後期砂
丘貝塚」 と呼ぶ場合 も多かったのです。住み慣れた土地を去 った人々は、サ ンゴ礁の
発達 した海岸部に遺跡 を残 しています。
弥生時代が始 まったころの沖縄の遺跡は、今 までの遺跡 と比べると大規模 になって
います。具志川市の字堅貝塚や伊江島のナガラ原西貝塚 などは、遺跡の範囲が海岸線
に沿って1
0
0-2
0
0メー トルもあ ります。広範囲に土器や貝殻などが散らばっています。
0-3
0m
ところがその取の時代の遺跡は、内陸部の貝塚では貧弱なものです。わずか2
四方の広 さの貝層 しかない遺跡が多いのです。これは決め られたゴミ捨て場があった
と考えられます。
なぜ、伊江島のような、 どう見て も猪や ドングリなどの食料が豊かと考えられない
島に移って大規模な遺跡 を残すようになるのか、大 きな疑問です。 もし、弥生時代の
沖縄 に稲作が始 まって、食料が豊富になったとしても疑問が残 ります。沖縄の水田に
ついては、1
7
世紀の 『
琉球国高極帳』が最 も古い記録です。これを見ると伊江島には
水 田があ りません。それは水田に適 しない島尻マージ土壌 だか らです。同 じように遺
跡の多い読谷村の海岸部 も稲作には適 していません。そればか りか、この時期の遺跡
の多 くは稲作 に適 しない島尻マージ土壌地域に分布 しています。
これをどう理解するか。このような海浜に沖縄本島や奄美諸島、そ して九州あた り
か ら大勢の人間が、貝の取れるシーズンに集中的に来たとしか考えられません。弥生
時代の九州や西 日本の遺跡か らゴホウラや大形のイモガイで作 られた貝輪が出土 しま
す。これらの貝取 りのシーズンが終われば帰るのですか らゴミ捨て場は適当な場所で
良いのです。その結果 として、伊江島などに広範囲な遺跡が残 されたのではないで しょ
うか。
一
125
-
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恩納村熱 田貝塚の土器
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フェンサ下層式
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12 6
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我樹退路
我 鮒 遺 跡
F 後期尖底土器
この時に桁外れに大 きな土器が出現 します。沖縄でバーキと呼ばれる竹のカゴに近
い大 きさと形です。口径が4
0-5
0
c
mほどの大 きな広口で、底は尖底の土器です。一段
一段の積みあ とがはっきり残 されています。積高 も 7c
m位あ ります。非常に大 ざっぱ
な作 りで、いかにも作 るのが簡単なように思えます。
ところが外開 きの大 きな土器 となると、技術的にはたいへん難 しいのです。 ものす
ごいベテランでない とで きません。これを作 るには、手足 どころか全身を使って作 る
しかないのです。沖縄の土器の中で、この期の土器に補修孔 と見 られる例が最 も多い
のは、作 るのが一番難 しいことを物語っていま。
G アカジャンガ一式 ・フェンサ下層式
沖縄後期の時期はおよそ千年 ぐらい続 きます。初期の土器は宇佐浜∼仲原式の流れ
で、無文の尖底土器が主流です。この無文尖底の時期は、どうや ら弥生中期の須久式
の頃まで続いていたようです。やがて弥生土器の影響が色濃 く反映 されて、平底の聾
形 に変わ ります。
土器作 りの面で見て も、この時期は沖縄の土器の中でも一番堅 くて しっか りしてい
ます。土器の割れ口見ても伊波式 ・荻堂式のように中の炭化物が焼け切らずに黒 く残っ
た りするのが少な くな ります。混和材 も 3mm以上の粒が殆 ど見えません。何 らかの方
法で、窯のように温度 をコン トロールする焼 き方が行われてきたものと考えられます。
しか し、土器が どういう風 に焼かれたかなど、技術的な問題 を含め沖縄の弥生か ら古
墳時代相 当期の解明は不十分です。
最後の土器は、文様がほとんど無い 「フェンサ下層式」土器 と呼ばれています。久
米島の北原貝塚では、中国の 7.8世紀頃の開元通宝 と一緒 に出てきた土器にも、口
の方に二本の角のような突起があ りました。この特徴的な突起の土器は、糸満市の真
栄里貝塚 にもみ られます。残念なが ら、北原貝塚 と共栄里貝塚 とも調査報告書が未刊
行です。将来報告書が出て きて、その図面を重ねれば、まった く同 じだということは
明白です。
室川貝塚や西原町我謝遺跡 。具志川市喜屋武グスクなどか らは、フェンサ下層式土
器が出土 しています。我謝遺跡のように、それまで貝塚時代遺跡が発見 されたことの
ない地域 に、貝塚時代の土器作 りの伝統 を持った人々が移 り住んでいます。室川貝塚
の場合、弥生時代の始 まりのころに人々が去って、千年以上 もの長い空自期間が過 ぎ
ています。
H グスク時代の土器
グスク時代の土器は、貝塚時代の土器の伝統 をまるっきり受け継いでいません。貝
塚時代の土器はフェンサ下層式で断絶 し、グスク土器に移ってい く中間の形式が見当
た りません。弥生時代の葉形に近い格好か ら、いきな りナベ形にに変わっています。
グスク時代の遺跡か ら炭化米や炭化麦が出土 します。農耕の始 ま りによる食生活の劇
的な変化は、煮炊 きの道具である土器にも反映 されています。
グスク土器の作 り方には 「
削 り」 と言 う新たなテクニ ックが見 られます。底か らの
-
127 -
立 ち上が りを厚 く作 ります。口に近づ くにつれて薄 くしますか ら、一気 に作 り上げる
ことが可能です。最後は生乾 きの状態 になってか ら、余分 な部分 を削 りなが ら仕上げ
てい くとい う方法です。慣れた人なら底か らロまで、1
0
分 もあれば作れます。フェン
サ下層式の場合 は、1時間前後はかか ります。
恩納村の熱田貝塚では、九州の石ナベの取 っ手に似た土器の破片 も見つかっていま
す。奄美や沖縄諸島では石ナベの破片 も出土 しています。グスク時代の最初の土器 に
は、その石ナベ を砕いた粒が混和剤 として使われている例 もあ ります。沖縄で石ナベ
片の出土が少 ないのは、おそ らく混和剤 として利用 されか らと考えられます。
グスク時代研究の課題
グスク土器-移 る際に中間形態がな く、突然 にナベ形 に変わっているとい うことは
何 を意味するのだろうか。今 までの土器作 りの伝統的な技術が全部失われて しまった
ともいえます。一番知 りたいのはその点で、この時期 に新たな技術が導入 された可能
性があって も良い と考えられるか らです。
沖縄貝塚時代の後期の土器か らグスク時代土器への変化 を理解するには、石ナベや
亀焼が どの ように沖縄 に登場 して くるのかが問題 とな ります。一つの仮説 としては、
フェンサ下層式 +石ナベ (
熱田貝塚)- グスク時代のナベ形土器+亀焼 (
我謝遺跡な
ど)の ようなモデルが考えられます。
グスク時代の早い時期 に、沖縄では類須恵器 と呼ばれていた陶質土器が各地で出土
します。その焼 き物の産地は長い間不明で したが、徳之島で窯跡が発見 され、現在で
は亀焼 と呼ばれるようにな りました。その亀焼 は還元炎 とい う特殊 な方法で焼かれて
い ます。焼 き上が りの最後の段階で空気 を遮断する。酸素 を遮断することによって、
鉄分 を含 んだ粘土であって も、赤 くなっていた焼 き物が黒 く還元 して しまって、 くす
んだネズ ミ色の焼 き物 になっています。
この亀焼 は沖縄本島だけではな く、い ままで越えられなかった沖縄本島 と宮古 島の
間を飛 び越 え、さらに与那国辺 りまで分布 しています。また、滑石製の石ナベ も同様
に分布 しています。グスク時代の農耕社会 になると、一気 にこのような焼 き物の勢力
圏が拡大 します。
ところが嚢 を作 る技術 は、当時の社会 に全然伝 えられていないようです。おそ らく
この亀焼の技術 は、朝鮮半島系の人々が もた らしたのであろうと考えられます。浦添
城跡 ・勝連城跡 ・首里城跡などで出て くる高麗瓦の中に、「
突酉年高麗瓦匠造」 の銘
2
世紀 まで さ
が見つかっています。「
突酉年」の該当年代の一番古い年代でみる と、1
かのぼ ります。ほとんど同時期 に、高麗瓦 と亀焼が還元炎で焼かれていたことにな り
ます。
亀焼の製作 には、「叩 き」の手法、回転台あるいはロクロの使用の ような高度の技
術が見 られ ます。 ところが、その技術 はグスク時代の土器作 りには反映 されていませ
ん。そればか りか、沖縄本島各地で出土するグスク時代の土器には、貝塚時代 に一時
的に出現す る 「
石灰質の混和材」が再び登場 します。なお、土器の仕上げの削 りには
鉄の刃物 を使 ったのだと思います.その削 りの技術 は、稲作文化 と一緒 に伝 わったと
考 えられる技術です。稲作の始 まった後 に何故、耐火性や耐久性が劣 る土器が作 られ
-1
2
8-
たので しょうか。『
琉球国由来記』によると、窯業は1
7
世紀 になって新 たに導入 され
4。5世紀 まで陶磁器は、輸入 ・交易によって賄われています。 しか し地
ています 。1
元沖縄で作 られた土器は、その前のフェンサ下層式などよりも質的に劣ったものが多
いのです。
」 と質問された
土器作 りを行っているので 「グスク時代の土器で米が炊けたのか ?
ことが何度 もあ ります。その疑問に対する答えの一つが、グスク時代初期の石ナベ と
考えます。土器で炊飯が十分に可能なら、高価 な石ナベは必要あ りません。なお、グ
スク土器では、現在のようなふっ くらとした御飯は無理で、オカユに近いものや雑炊
なら可能です。
鉄ナベの普及は以外 と早い時期 に始 まったのではないで しょうか。少な くとも1
4か
ら1
5
世紀には相当に進んでいたと予想 されます。沖縄のグスク時代遺跡は、今帰仁城
跡 ・勝連城跡 ・浦添城跡 。首里城などのような支配者の居城だけでな く、一般の集落
遺跡か らも青磁などの輸入陶磁器片が出土 します。多 くの粗雑 な土器片 に混 じった高
価な陶磁器片。富める支配者階級 と鉄ナベさえ手に入 らない下層の人々。土地に縛 り
つけられた農民は、近 くで得 られる材料で土器を作 る しかなかったようです。
おわ りに
本稿は安里嗣淳氏か ら、「
土器作 りについて書いて欲 しい !」 との依頼があって書
くことにな りました。時間的にゆとりがな く、同氏 に録音翻字 して もらった原稿 を基
に修正 。加筆 した ものです。
日本復帰は沖縄考古学にとっても、大 きな転換期で した。浦添貝塚の発掘調査は、
ち ょうど復帰前夜のあわただ しさを迎える直前に行われました。同貝塚か ら出土 した
市来式土器は、その後の曽畑式に続 く一連の大発見の前触れだったか も知れません。
しか し、同時に遺跡保存連動の幕開けで もあったようです。
その後、沖縄海洋博や開発などに伴い緊急発掘調査が次々と行われてきました。調
査体制が何 もない状況の中で、記録保存 という名の下で次々と遺跡が失われました。
発掘 された資料の多 くが収蔵庫の中に埋 もれています。誰が資料 を整理 。報告するの
で しょうか。発掘に参加 した関係者だけでな く、多 くの方々が気 にかけていることで
はないで しょうか。
最近は狂乱の発掘 ラッシュも一段落 したようです。このような時期 にこそ、収蔵庫
に埋 もれたままの発掘資料の報告書作成 を急 ぐ必要があると思います。多少の恥は覚
悟の うえで速やかに報告書 を出す。そ うで もしなければ、後に続 く者は 「
何が どの遺
跡で出土 したか」知ることがで きません。大規模な発掘で重要な資料が出ていること
がわかっているのに、報告書 もな く、資料 を見る機会 さえ得 られない状態が続いてい
ます。
文化財が国民の共有財産であるというのであれば、発掘に関わった人たちの手弁当
でで も、どんなに簡単な形で もいいか ら、報告書 を出す ような努力が今後の研究を進
めるうえで非常に重要だと思います。遺跡の破壊や抹殺 に手を染めた一人 として、せ
めて遺影だけでも残 したい心境です。
-
1 29
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査報告書第6
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宮城 島遺跡分布調査報告』沖縄県教育委員会
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