横須賀の碑を訪ねて-後編

道
祖
神 塔
後 編
道祖神塔。標識に「道祖神」とあることから出た俗称である。
正しくは道祖神供養塔であろう。
横須賀市域内には道祖神塔はきわめてすくない。その数は5基。しか
も道祖神の発祀は、例年正月 14 日(また 13 日)に行じられたドンド焼の行
事も近年諸種の社会的事情があってした火になってきた。
かつてはドン
ド焼が道祖神まつりと考えられるほどに各地で盛んに行われ、横須賀市
内でも今にその名残りがある。野比のドンド焼は神奈川南部では指折り
の民俗になっている。道祖神塔はその信仰の対称として建立されたもの
であるが、横須賀市では意外にすくないのは何故だろうか。ドンド焼は
道祖神まつりの無形の表現であり、道祖神塔はその有形の表現である。
横須賀市内の道祖神塔を訪ねると、少数ながら個々の特色がある。長
吾妻神社の道祖神塔
嘉永5年(1852)長浦
浦吾妻神社の道祖神塔は境内入口に祀られる。変成岩質の偏平自然型で
基礎上の高 65cm、碑面の上方の梵字
ウーム)は不動明王と
同じ系列の諸尊に共通するものであるところから、道祖神も怒りをもっ
た神と見立てたのであろうか。建立銘は嘉永五子歳(1852)八月吉日と
ある。浦郷正禅寺の道祖神塔は参道入口右に万治2年庚申塔と並び建っ
ている。火成岩質、尖頭角柱型、基礎石上高さ 46cm、塔身前面に「道祖
ひのえうま
神」
「弘化三丙 午 年(1846)十二月吉日」とある。長沢本行寺の道祖神塔
は今に建立当初の原位置にあるらしい。尖頭角柱型で総高 47cm、造立
み どし
銘に「道祖神」「文政四巳年(1821)五月吉日」とある。芦名十二所神社の
1基は笠塔婆型で、「弘化4年(1847)建立」
。
塔身に三猿像を彫り添え
まつり の り と
祭神に猿田彦命と天鈿女命の2神名を併記して、一見道あい 祭 祝詞の意
に近い道祖神塔の感じがするが、しかし三猿像を添えているところは猿
田彦命を本尊に仕立てた庚申塔である。道祖神は日本の古典には塞の神・
つき た つくなどのかみ
ちまたのかみ
衡立船戸 神 ・ 岐 神 などと書かれて、災厄防衛の神として集落路の入口に祭
祀されたのであった。しかも三浦半島における祭祀は、信仰としてのもの
本行寺の道祖神塔
文政 4 年(1857) 長沢
三猿像を備えた猿田彦命・
天鈿女命併祀塔
弘化 4 年(1847)芦名十二所神社
よりも、むしろ農村儀礼としてのいろあいが強かったと私は観ている。
つき た つくなどのかみ
衡
立船戸 神 :道祖神の発展したもの
ちまたのかみ
岐 神 :辻の神とも云う
甲
子
塔
甲子塔、キノエネトウと訓むのだろう。甲子の日を祭って建立した供
養塔に相違ない。横須賀市域内に残っているものは極くわずかで、全市
域を調査してようやく3所5基を見出した。
林宇黒石は林村の村名とおり、かっては山仕事を重視した土地柄であ
る。一般信仰としては日蓮宗信者が多く、題目講を結衆し、その講中に
よる題目供養塔が現存する。そのなかで延享元年(1744)銘の題目塔は
林村住人甲子講中同行 10 人が建立したのである。また、同所甲子供養塔
は寛政4年(1792)林村作右衛門以下6人と太田和村与市、根岸丈助ら
が結衆して建立した。おそらくこの人びとは木挽など山仕事を専業とし
佐野の甲子塔
元治元年(1864)佐野妙栄寺
た仲間であったろう。
佐野妙栄寺に甲子塔が2基ある。凝灰岩質の尖頭角柱型。1基は元治
元甲子(1864)十一月建立で、基礎に妙栄寺藤右衛門以下9人、佐野講
中、永島登司以下 11 人の連名がある。ただし後の 11 人は大正 13 年改修時
の講中であったろう。他の一基は大正十三甲子二月五日の建立で、塔身
前面に「甲子塔」とあるが建立者名は見えない。さきの佐野講中の建立
であろう。
大矢部満昌寺に「庚申・甲子」塔がある。明治十六年二月日建立で、
建立者名は彫られてないが、庚申講中と甲子講中の結集で建立されたも
のである。
甲子年また甲子日に大黒天を祭る習俗があって、その祭祀を甲子待と
称し、その信者の結衆を甲子講と称した。甲子日は年六度あることから
これを六甲子とよんだ。日本では中国風にならって 11 月を「子の建月」
とよんだ風習があり、甲子待はそれから発しているといわれる。大黒天
黒石の甲子供養塔
寛政4年(1792)林
満昌寺の庚申・甲子塔
明治 16 年(1883)大矢部満昌寺
を甲子待の祭神とするのは、大黒天、すなわち大国主命の危難を鼠が救
ったという故事から、干支の子(ね)と「鼠」とを音便によって附会し
たことに発したと考えられる。林の黒石は大黒天信仰に関連ある地名か
も知れない。
聖徳太子供養塔
職人衆の間に「たいし講」とよばれる結社がある。この講は、もと大
工・石工・屋根ふき(かやて)
・左官・木挽などの職人衆がそれぞれ仲間
つくりしたが、後には各職人が大同団結してつくった職人組合である。
そして毎年幾度か集会して親睦をかため、職業についての取りきめなど
をしたが、大同団結後は単純な親睦団体に成長した。集会には、まわり
持ちに当番(やど)がきめられ、講の本尊に酒食をささげ、それから講
中ともに酒食し歓談した。本尊に聖徳太子を祀るについて、講中の間で
は、職人衆はもとは聖徳太子によって育てられた恩にこたえるためだと
伝えるが、それは、聖徳太子は法隆寺はじめ多くの寺院を建立したので、
常光寺の聖徳太子像塔
大正4年(1915)長浦
長坂の聖徳太子塔
明治 29 年(1896)武4丁目
それがやがて土木関係の職人が起こる所以になったのであるとの解釈ら
しい。
ふな だま しん
船頭衆が船魂神を祀り、紺屋衆が愛染明王を祀り、大工職が聖徳太子
たいとう
を祀る風習が江戸時代に、町人の抬頭にともなって聖徳太子中心の信仰
にかたまったのであろう。
太子講は毎年 10 月 10 日恵比寿祭に行われた例が多いが、横須賀市域で
は、江戸時代には 10 月が多く、明治以後は1月が多い。この講は大楠・
武・林・芦名・長浦・長坂・秋谷・長沢・太田和などの職人衆の間に多
く結ばれている。供養塔は現在 20 基ほど見出されているが、芦名1丁目
の寛政9年(1797)が古く、武4丁目の聖徳太子塔は武山・長坂木挽連
の建立、一騎塚聖徳皇太子塔は太田和・林・武・長坂の大工・左官組合
の建立、長浦常光寺聖徳太子像塔は大工・石工・左官組合の建立であ
る。
一騎塚の聖徳太子塔
明治 19 年(1886)林
芦名の聖徳太子塔
寛政9年(1797)芦名1丁目
勧進僧の建塔供養
江戸時代、相模の地に仏法勧進して目立った足跡を残している4人の
た い ま むりょうこうじ
た
あ
もくじき かんしょう
とく
僧がある。それは当麻無量光寺第 52 代他阿・木食観 正 、木食最賢、徳
ほん
本、願海等である。しかし当麻山他阿の念仏勧進は当麻山を拠点に相模
北部・中部に集中して海辺には及ばなかったようで、横須賀市域に勧進
の足跡をとどめたのは他阿上人を除いた他の3人ということになる。
木食観正は淡路島の出生といわれる。観正が木食を冠するのは、木食
の苦行を遂げた修行者としての通称による。木食の行は宋僧智封伝によ
ると、智封は安峯山に禁足すること十年、木食澗食したとあるが、日本
おう ご
では高野山興山寺の開山応其が木食上人の最初である。観正が相州での
足跡は、文政2年(1819)真言木食行の勧進の目的で小田原に来たり文
政3年(1820) 2 月に鴨居に
木食観正の勧進塔
文政3年(1820)鴨居能満寺
徳本上人の勧進名号塔
文化 12 年(1815)西浦賀常福寺
字塔を建てた。
(阿・ア)字は人間の本
有を表わし、刻しては胎議大日如来の表示をされている。この阿字塔は
観正の勧化に浴した講中世話人によって建立された。一説にはこの碑は
観正自身が建立したとも解釈されているが、出資者はすべて講衆であっ
たことはその他の例によっても明らかである。観正は講中とともに光明
かんげ
真言を唱え、不動真言を誦して勧化した。なお観正は同年六月に湘南の
辻堂・川名にも阿宇塔を建立し、その他の地にもその例が見られるが、
このように一所不住の動的活動が勧進僧の使命だったのである。
徳本の念仏勧進はもっと積極的であった。徳本は紀州に生まれ、27 歳
で出家して、一途に念仏を修した。文化 14 年(1817)増上寺典海大僧正
に懇請された東国に化益し、各国に念仏勧進したが、結願にはきまって
結衆と共に念仏碑を建てて結衆名を記録し、一切平等、必生安楽国を祈
念した。その間相州にも化益した。横須賀市域には走水覚永寺、武東漸
寺、東浦賀法福寺、西浦賀常福寺など、浄土宗寺院に徳本流の名号を彫
りこんだ念仏供養塔が建立されてある。
願海行者の勧進名号塔
鴨居西徳寺
願海行者の墓碑
安政5年 10 月 27 日武東漸寺
木食とは米穀(べいこく)を断ち木の実を食べて修行すること
願海も勧進僧の一人である。願海は、鴨居地区で海難者供養塔を建て、
武東漸寺の地で入寂し、同寺に墓がある。安政5年(1858) 10 月 27 日で
ある。
順礼供養塔
順礼霊所としては、西国では四国遍路八十八ケ所と西国三十三観音礼
所があり、東国では秩父観世音礼所、北奥では出羽三山の順拝、また三
浦半島には三浦三十三所観音礼所順礼が流行した。
鴨居観音寺の西国三十三所観音勧請は、33 所観音順礼願を一所ではた
させようとの願望から各礼所の観世音像を偏平な稲井石面に線刻し、その
きのと い
奉安寺を銘記したもので、元禄八歳 乙 亥(1695)六月、三浦郡沼間の八郎兵
衛が施入したものである。それとは別に西国三十三観音礼所と西国八十
八ケ所弘法大師礼所を併せ供養した石塔が市内の諸寺に多くみられる。
三浦三十三所観音順礼はもっとも身近な礼所として親しまれ、その順
拝供養塔が市内各所に残っている。それには、三浦観音礼所を単独に供
西国三十三観音霊場勧請
観音寺
鴨居
養したものと西国・秩父観音礼所とも併わせ供養したものがある。
出羽三山の信仰も盛んだったようである。それには江戸時代、修験者
が各地に不動堂を起こし、密教寺院に住持して神社の別当となっていた
ことなどの関係もあって、彼等が自ら先導し、またその供養塔建立にも
深く関係したようである。
もと順礼は、平安時代中期に弥勒下生の信仰が盛んになり、それにと
もなって弥勒菩薩が 56 億 7000 万年後に第二の釈迦として出生した際にそ
なえるため、人跡未踏の深山霊地を諸国にもとめて写経を地下に埋納し
たことに発祥している。これが真実の納経であったが、後にはそうした
霊地を順拝するという霊地行脚に変化した。これがいわゆる後世の順礼
であり、その功徳にあやかるうと建塔供養したものが順礼供養塔として
残っている。納経も順礼札を納め、あるいは読経するというかたちに変
っている。しかしこの順礼供養塔はその功徳を一切の同信者にわかとう
出羽三山、
日本大小神祇順拝供養
文化 10 年(1813)久里浜天神社
日本回国供養塔
大正4年(1915)鴨居西徳寺
という大乗的信仰の表現なのである。
山嶽信仰と石造物
山嶽信仰といえば、江戸時代には富士山が第一であった。それに次い
で東国では木曽御嶽の信仰があり、相州では大山信仰があった。出羽三
山詣りは一般には秩父・西国の観世音菩薩の礼所と併せて順礼霊所とさ
れているけれども、その実は羽黒権現を中心とした山嶽信仰である。ま
た僅かな例としては清瀧不動、八海山、三笠山信仰があった。
横須賀市域では、そのなかで出羽三山信仰が最も多く石造物にあらわ
れている。出羽三山は修験の道場で現在は当山派(真言宗系)に属して
いる。湘南の地は真言宗古義が隆盛し、三浦半島は当然その教勢圏にあ
ったため、横須賀地区は江戸時代には当山派修験道の影響によって、出
富士山開開輿樗地蔵尊
明治2年(1869)武 一騎塚
羽三山の信仰が盛んであったと考えられる。久里浜内川天神社、秋谷瀧
不動、鴨居西徳寺等にある出羽三山供養塔はいずれもその遺産である。
富士信仰に関るものとしては長浦吾妻神社と林八幡社に各一基ある。
ともに丸山教信者の建立に関わる。この教団は教祖禄祐が富士登山して
そこを教義発揚の道場としたことにならって、講人信者もまた年々富
士登山を例としている。長浦吾妻神社の一基は明治 40 年教導職試補鈴木
八右衛門等が建立し、林八幡社の一基は昭和 36 年講元鈴木遠等が登山記
かいびゃく き や り じ ぞ う
念の建立である。また武一騎塚の富士山開 闢 輿樗地蔵尊像は明治2年に
勧請建立したものである。長沢の浅間社は新編相模国風土記稿にも記録
されて、当地の富士信仰の中心として例年6月8日の祭礼は盛大に行わ
れた。同所には「二社あり、一は野比村持、一は津久井村持」と伝えら
れる。
緑ケ丘には御嶽大権現碑が建てられている。明治 45 年、18 度目の登山
を記念して建てられた。それからすでに 74 年経ったが、その一画はこの
めいりき
富士山御縁年登山記念碑
大正 11 年(1922) 不入斗
御獄神社
御嶽山登山 18 回記念碑
明治 45 年(1912)緑ケ丘
碑を中心として保存されていて、信仰の冥力の強さを示している。
冥力:神仏の蔭の力。御加護
墓碑・供養塔の形のうつりかわり
市制施行 80 周年を迎えた横須賀市は、面積 99.47k㎡、人口 42 万
7千余人、世帯数 13 万1千6百余。市民が群居するところにかならず
寺があり、墓地がいとなまれ、墓碑が林立している。
およそ日本の墓碑は群馬県山上ノ碑(681)に源を発する。その碑形は
長円形の河原石である。しかしこの碑をもって後山の山ノ上古墳に結び
つけるには問題がある。ついで栃木県那須国造碑(700)がある。この碑は
整形された前面拝の立石である。この二基はまた墓誌とも解釈される。
日本の墓誌は中国隋・唐の墓誌文化を受容して起こり、奈良時代を盛期
として平安時代初頭(784)に絶えている。当時の墓誌は骨蔵器を使用し
せん
た例が多いが、金銅板・塼・石造を含めて、表面だけの使用に限られて
尖頭扁平型墓碑
天正6年(1578)津久井法蔵院
板碑型墓碑
寛文7年(1667)秋谷妙忍寺
いるのが特徴である。また最初に河原石を使用した山ノ上碑の様式は鎌
倉時代に復活して、碓氷川流域に上州型板碑を出現させ、さらに江戸時
代墓碑の形式として伝承されている。
他方、仏教の流伝にともなって伝えられた建塔の信仰は近江国石造寺
に三重塔を出現させた。奈良時代から平安時代、さらに中世期にわたり
三重ないし十三重の優美な多重塔の建立が盛行したが、そうした時代の
風潮に即応するかのように、平安時代後期ころに宝塔、宝篋印塔、五輪
塔が出現した。これらの諸塔は、いずれも印度に発祥した舎利塔に本源
し、その特徴は四方拝形式を適性とし、本質はともに供養塔である。し
かしそのような半永久性をもった石造物を墳墓の位置に即して建立する
ことは、やがて墓標としての性格をもたせることになるが、あるいは最
初建立の目的にそのような志向があったとも解釈できる。板碑もまたそ
れらの諸塔と相前後して発現した。板碑もまた発祥当初の建立目的は現
ひさしつき
廂 付 墓碑
延宝2年・寛文7年寄墓碑
走水覚栄寺
世利益を祈願した逆修塔であったが、やがて菩提供養の性質が濃くなる
舟型墓碑
明暦3年(1657)芦名浄楽寺
と、自然的に墓側に建立されるようになり、ついには墓標としての性格を 本早雲寺墓地に寛永7年(1630)から同 18 年にわたる7基および酒匂上
もつようになり、後には墓標・墓碑として建立されたものも出現した。
輩寺の元和5年(1619)などが知られ、横須賀市内では走水覚栄寺墓地
しかし板碑が他の諸塔との根本的な相違は前面拝であることである。こ
に寛文7年(1667)・延宝2年(1674)の連碑がある。しかもこの近世
れは先きに述べた山ノ上碑に共通する性格でもあって、多重塔ないし五
初頭における新時代向きの墓碑の革新は、西国地方では織豊時代また安
輪塔などの諸塔婆が印度伝来の性格であるのとちがって、形式的には中
土・桃山時代ともいわれる天正ころには実現されていたようで、例えば
国発祥の碑の性格に本源するものと考えられるのである。
大分県東国東郡朝来村金剛院には、走水覚栄寺の寛文7年銘連碑や、領
板碑は近世初頭を限りとして廃絶するが、あたかもそれと前後する時
期に、近世型墓碑が出現した。いわゆる板碑型墓碑である。これは本質
郷東陽院の慶長 10 年銘墓碑に先行する天正 12 年(1584)在銘のものが報
告されているのである。
的には板碑の供養塔性から派生した墓碑または墓標性を率直に押し出し
また横須賀市内で、板碑型墓碑や尖頭型廂付墓碑とは異なった近世型
たものである。形式的には板碑の変形である。その初は板碑と同じく尖
墓碑が見出された。それは津久井法蔵院の一般墓域内にあって、天正 18
頭形であり、前面だけの一方拝性格であった。その模式的例を神奈川県
年(1590)在銘が判読される。これは横須賀市内では近世型墓碑の最古
内では慶長・元和(1596―1623)ころに見られる。表面の構相は、板碑
に位置するものであろう。この型式は、中世の常総型板碑の影響による
に見られた頚部の二条の横線は、二条横線ながら中央で尖頭にあわせて
と考えられる。また江戸時代初頭に舟型墓碑があらわれた。これは仏像
上方にふくらみ、その曲線は複雑である。碑面は外廟を細線でくぎり、
彫刻をそのまま石造墓碑に転化させたものであるので、おもに阿弥陀仏
かまち
また左右下の三方を 框 取りして整然と区切り、そのなかに銘文を配分よ 像、地蔵菩薩像を彫刻して、菩提供養を目的として建立された。それに
ほ
く鐫りつけている。この碑型は近世初頭の模式的なものであり、享保こ
続いて笠塔婆型墓碑がうまれる。それはやがて角柱型墓碑を派生させる
ろ(1735)まで襲用されたが、おもに村方三役など旧家の墓域に多く見
ことになった。
られる。なおこの墓碑型には、流行の半ばころに二連、また三連碑の形
式が出現した。現行している夫妻一碑の寄墓碑はこれを原型とした近代
型墓碑である。
ひさし
他方、それとは別に、時を同じくして尖頭部 廂 を付けた形の墓碑があ
らわれた。本質的には板碑の変形ながら、上部の二条横線を廃している
様態は、武蔵型板碑の末期的な様式に拠っている。その著例として湘南
かわうそごう
地帯では藤沢市 獺 郷に慶長 10 年(1605)銘2基があり、足柄郡内では
湯
美化された墓碑・供養塔
中世、すなわち鎌倉時代から室町時代までの間に墓碑・供養塔の類は
それぞれの形式が出つくした観があり、また時勢の変化にともなった形
式の推移は各基の表情にあらわれている。近世以後は、そうした前代の
遺産を選択しながら継承し、工夫を加え、かつ美化し、荘厳し、時代に即
応した形態を造り出したのである。墓碑についていえば、板碑型墓碑が
それである。この墓碑は武蔵型板碑の頸部の二条の横線に曲線を加えて
創案したなどはその例である。また笠塔婆墓碑・笠塔婆型供養塔は中世
の笠型に破風を付け、軒下を飾り、棟の笠木を重ねるなどは型式上の荘厳
である。板碑型墓碑の双碑にともない、その分画線に立蓮華を陽刻し、
あ か う け
碑面を花頭框に刻り込み、また基礎に蓮葉を彫り出し、閼伽請を作り出
したなどは荘厳的表現である。また碑面花頭框内に仏像を陽刻し、五輪
諸尊像彫刻の墓碑
正徳5年5霊寄墓碑(1715)
秋谷円乗院
五輪塔彫刻の墓碑
正保3年(1646)芦名浄楽寺
塔形を彫り添えたなどの趣向は、それらを拝することによって、造塔供
養の功徳を加増しようとはかった修善であるが、それは同時に碑面の美
化にもつながるものである。しかもそれらの仏像にはすぐれた彫刻が
ある。例えば、秋谷円乗院の正徳5年(1715)5仏像は瞬覚・願生・浄
願・蓮秀・理性の5霊に供え、久里浜伝福寺の寛保2年(1742)、宝暦5
年(1755)双体地蔵像塔は寿岳・稚覚の童女霊のためであり、走水大泉
寺の寛政2年(1790)円頭角柱型墓碑は如意輪観音像に添えて法名心月
妙円信女を刻し、芦名浄楽寺の正保2年(1645)板碑型墓碑は五輪塔に
添えて帰真光誉妙順信女霊位とある。
他方、石仏像を先霊菩提の為に建立し、併せてそれを墓碑とした例も
すくなくない。浄楽寺参道左側に連立する明暦三年(1657)・貞享五年
(1688)銘阿弥陀像(全高 132cm)は享心信士・法住信女のため、寛文五
年(1665)地蔵像(総高 148cm)は松貞信士・浄貞信士の為増近也とし、
金谷大明寺には寛永廿年(1643)・寛文十二年(1672)休安信男・貞久
大姉のために阿弥陀像が建立され、小矢部大松寺には延宝二年(1674)
奉造建釈迦如来尊像為傾入法悟居士と銘した釈迦如来像がある。後年女
双体像彫刻の墓標
寛保2年・宝暦5年寄墓碑
久里浜伝福寺
如意輪観音像を彫刻した墓碑
寛政2年(1790)走水大泉寺
子の墓碑には観音像が建てられ、童児の墓碑に地蔵像を起こしたなどは
その源を江戸時代初頭に発していたのである。
笠塔婆の推移
笠塔婆は鎌倉時代に発祥し、室町時代に隆盛になり、さらに近世にお
よんでいる。そのなかでも奈良般若寺(弘長2年)
、大分県富貴寺仁治
2年(1241)の塔婆が名高い。中世期のものは五輪塔の地輪を伸ばした
ような簡単な形であり、建立趣旨も供養的な志向であったが、近世にな
ると、変形五輪塔風の形は失われて、笠部が極度に荘厳されて、あたか
も寺院建築の破風付屋根を縮少して角柱上に載せた形となり、建立趣旨
も変り、また庚申供養塔にも変形して形式・内容ともに中世時の様相は
見られず、ひたすら江戸時代石塔中随一の豪と美を誇る石造物に変化し
た。後には塔身の両側面に立蓮華を陽刻する趣向もこらされた。基礎
前面にアカ受けの池を彫り出し、香華立ての穴を彫り込む工夫も笠塔婆
笠塔婆型庚申塔
大善寺
衣笠
重頭型庚申塔
寛政8年(1796)武路傍
型墓碑が起こってからにわかに流行したようである。これ一つには不断
の香華奉仕の発意であろうが、一般には普及しなかった。また盛行期も
短かく終っている。しかし、笠塔婆型墓碑が後代に残した事績は数々あ
る。アカ池と香花立ての彫りつけは板碑型墓碑にもあったが、後世の角
柱型墓碑を派生的に発達させた根元は笠塔婆墓碑の塔身である。
笠塔婆型墓碑は、笠部を取りのぞけば、残るものは頂上にホゾを持っ
た角柱型の塔身が残る。その故に、笠を取り除いた後の墓碑は、塔身上
にホゾ型の名残りとして饅頭型としてとどまり、あるいは重頭型に変形
した。江戸時代中期から明治時代に流行した尖頭方柱型の墓碑や供養の
形式も同じくその名残りと見ていいだろう。さらにそれらの工夫も簡略
されて、現在多く見られる平頭角柱型墓碑の塔身は、笠塔婆塔身の名残
り、またその変形をもすっかり取り捨てた形式に外ならない、謂わば近
代前期の墓碑からの完全な脱皮である。しかしなお、アカ請池、香華立
尖頭角柱型供養塔
享保 18 年(1733)久比里宗円寺
平頭角柱型供養塔
寛政3年(1791)久比里宗円寺
ては依然として残されている。
向井氏の墓碑
向井氏の墓所は走水覚栄寺・馬堀貞昌寺後山とにある。向井氏と走水
との関係は6代正綱にはじまる。向井氏はその先祖仁木尾張守長宗が伊
勢国度会郡向井に住し、その地名を家号としたといわれる。6代正綱、
き
か
徳川家康の麾下に属し、食禄二百俵を給い、天正 18 年(1590)小田原の
陣に御座船国一丸を供した功によって相模上総両国のうちに二千石を賜
い、同年御船奉行となり、大阪両度の陣には相州の海辺を衛り、三崎お
よび走水等に住した。寛永2年(1625)没して三崎見桃寺に葬られた。
その子忠勝は徳川秀忠に仕え、慶長6年(1601)相模国において釆地
五百石を賜い、御船国一丸をあづかり軍功があった。寛永2年(1625)
父正綱の遺跡をつぐにおよび、さきの釆地を併せて五千石を知行し、父
が隊下の同心を増し預けられて百人を支配し、釆地の朱印を賜わり、相
もうだ
心誉崇珀信士の墓碑
(施主向井五左衛門)
寛永9年(1632)走水覚栄寺
眞窓性空居士供養地蔵像
(施主向井半七郎)
万治3年(1660)走水覚栄寺
す
す ぐん
模国三浦郡および上総国望陀・周准郡において六千石余を知行し、翌年
新造御船天下丸を預かった。寛永 18 年(1641)没し、江戸東叡山の本覚
院に葬られた。忠綱の後、忠宗を経て右衛門太郎の時に嗣無くして廃絶
した。
以上の記述は寛政重修諸家譜によったが、向井氏と走水の地との結び
つきは明瞭でない。強いてもとむるならば、慶長 15―16 年大阪陣中に正
綱が相州海辺守護の間に走水に住したとあることであろう。走水の墓は
寛永9年(1632)向井五左衛門・権十郎の逆修碑に起こる。これが家祖
である。次いで寛永9年に宝篋印塔が建立された。正綱没後7年に相当
する。万治3年(1660)には地蔵尊像と燈籠を奉立した。向井半七郎が
真窓性空居士菩提のためである。
馬堀の向井正方夫妻の墓および夫人像は、その先向井正方が母貞昌院
追福のために同寺を再建したことに由来する。正方の墓碑は笠塔姿型、
総高 330cm 余、銘に相州三浦之郡数箇所領主・向井左衛門将監忠勝五男・
きのえ とら
延宝二 甲 寅歳(1674)七月十日とあり、内室の墓碑は同型で総高3m余、
かのえ いぬ
建立銘に向井氏将監正方内室・寛文拾 庚 戌歳(1670)九月十四日逝去と
向井正方(延宝2年)夫妻の墓域
馬堀 貞昌寺後山
あり、ともに巨大なものである。
もうだ
す す ぐん
上総国望陀・周准郡:上総に明治にあった郡名。
中根東里一家の墓碑
中根東里は江戸時代、相模国を本貫とした儒者である。その一家の墓
は東浦賀顕正寺墓域にある。同寺過去帳明和三戌(1766)
に「東里居士 中根孫平」
、併せて宝暦 11 巳年(1761)
2 月7日の面
10 月 29 日の条に
「冬月普明居士 中根常右衛門」
、明和元年(1764) 9 月 14 日の条に「松
庵達海 中根氏」の記載がある。世の所伝には、「江戸の儒者、名は若
思、字は敬夫、貞右衛門子、伊豆下田の人、父医を業とす、13 歳、父を
喪い、母の命により郷の一禅院に入り、剃髪して證圓と云う。のち宇治黄
檗山に入り、また江戸下谷蓮光寺に寓して浄土宗を学し、傍ら荻生徂徠
に就て儒学を受けた。寺に住すること数年、遂に髪を蓄えて俗に還り、
中根貞右衛門と称した。のち徂徠の学を去って室鳩巣に師事した。延享
中根東里の墓碑
明和2年(1765)西浦賀顕正寺
中根権右衛門重勝の室墓碑
西浦賀顕正寺
年中(1744―1747)上州下仁田に遊び、清閑の郷地を愛して天明に居を
移し、ここにまた旧学を捨てて王陽明の学を私淑し、もって郷学振興に
寄与した。朝日天神社碑文は東里が選として現存し、佐野の誇りとされ
ている。後年浦賀に居し、明和2年(1765)
2 月7日、72 歳をもって没
した」
、と伝えられる。
顕正寺に中根氏一族の墓碑があり一画を保っている。その一基は中根
かまち く
権右衛門重勝の室浅野氏の墓で、塔身前面を花頭 框 刳りして「龍榮院妙
健日明」を刻す。他の一基は中根常右衛門が墓碑で、前面花頭枢刳して
その中に「冬月普明居士」左側面に「居士諱孔唱、字戒徳 伊豆人也、
かのとみ
宝暦十一年辛巳(1761)冬十二月九日以疾卒、千西浦賀而葬地内、六十
五)とある。二基同形、碑銘の書体も相似し同時の建立と推定される。
その碑文と顕正寺過去帳記載文等を総合すると、後年東里が浦賀に移住
したことには誤りなく、それは中根松庵が死後2年目である。松庵は法
中根孔唱の墓碑
宝暦 11 年(1761)西浦賀顕正寺
名から医を世業としたようである。
幕末の海防武士の墓
幕末、江戸湾防衛のためには四民を挙げて多大の犠牲を強いられた。
武士は肥後藩士にまで及んだが、横須賀市城内に現存するもっとも顕著
な足跡は会津藩士、次いで川越藩士がある。
会津若松藩がこの大役を命じられ、任務に当ったのは文化7年(1810)
から文政3年(1820) 12 月 28 日まで満 10 年間。任務の内容は三浦海岸の
警備と大筒台場の建造にあり、これに動員された人数はいまだ明確にさ
れないが、実際の任務地域は走水から三崎域におよび、その間およそ8
所に墓地が存在する。この事実は武土たちはそれぞれ任務地に寝食した
ことを証明している。またその墓碑には老人、女子、小児がある。これ
は武士たちは家族を挙げての服務であったことを物語っている。
会津藩士の墓地
西徳寺後山 鴨居
いまこれを横須賀地域についてみると、走水円照寺 6 基、腰越墓地 23
基、鴨居西徳寺後山 11 基、鴨居能満寺 11 基、墓碑の合計 51 基。このほか、
各寺の過去帳にもその他の武士及び家族の戒名が記載されている。これ
を身分別にみると、武士、妻、父、母、男、女、童子、童女、嬰児、伯
父という内訳となる。任地にあっても身分による相違がはっきりとあら
われており、また童児の墓碑に武士また男子名が後刻された例もある。
これなどは主をうしなった一家のわびしい生活をそのまま表現している
ように思われる。
川越藩士については、現存の墓碑にみる限りでは、その任務範囲は鴨
居・大津・追浜の地域で、任務の期間は文政7年(1824)ころから嘉永
3年(1850)ころにまたがり、その間、武士のほか妻・童子の死亡が確
認される。肥後藩士については、深田台龍本寺清正公廟前に奉納した石
狗基礎石に肥後藩中また肥後藩士の人名が彫り付けてあることによって
大概が推案される。
会津藩士石沢義則三女の墓碑
文化 14 年(1817)走水円照寺
川越藩士加藤紀祗の墓碑
文政7年・天保3年追浜自得寺
海難者供養塔
これは海港をもつ地域の特殊例かも知れない。江戸時代の江戸は弘化
4年(1847)には町数 685 を数え、その人口は天保盛時には武家等を加
えて 200 万に達したであろうといわれる。それをまかなうための食料は
もとより、薪炭類までもそのほとんどを海上運送に頼らなければならな
かった。そのためには、東廻り航路はもっぱら菱垣廻船によっていた。
初め伊豆下田奉行によって取扱われた江戸入船の検問体制が、享保5年
(1720)浦賀に移され、ここに西浦賀の地域はにわかに発展することに
なった。しかし海運は遭難を避け難く、その事実は、東岸においては長
井の勧明寺等、西岸においては西浦賀常福寺その他の寺々の過去帳の記
気仙屋船客海難者供養塔(寄墓碑)
嘉永2年・安政4年 西浦賀常福寺
録によって如実に知ることができる。ことに常福寺は、浦賀奉行の役宅
にあてられたという関係もあって、当寺過去帳には月々の遭難者が記録
されている。また、境内墓地には難船者の墓碑も見られる。気仙屋の墓
地はその著例である。嘉永2年(1849)碑は客船之墓として、奥州相馬
棚塩平太舟水主儀右衛門、天明元丑年九月十八日、以下 15 人の法名、出
生地、没年を刻し、安政4年(1857)碑には隆海信士気仙丹治、以下7
霊を刻し、基礎名は 亀竜丸 安政四巳年閏五月廿八日気仙屋客船、施
主船頭助七とある。これは同時一船の遭難者らしい。
鴨居観音寺寄りの海辺には、念仏行者願海が尾張屋清助の発願に応じ
て建てた海上遭難者供養塔があり、また同所西徳寺墓地には、嘉永3年
(1850)同浦海上で遭難した乗願遊船信士らの「難船亡霊」碑が建て
られてある。
難船者之亡霊供養塔
嘉永3年(1850)鴨居西徳寺
汽船早丸遭難者追悼碑
昭和 11 年(1936)久里浜伝福寺
筆
子 塚
横須賀市域内に筆子塚とよばれる墓碑がある。その建立墓銘文から、
江戸時代、寺子屋教育をうけた てらこ が、師匠の菩提をとむらうた
めに建立したものであることがわかった。そして筆子塚とは、その建立
者は「筆子中」としてあるところから発した俗称であることもわかっ
た。そのような観点から近接地域をみてまわると、筆子塚はすくなくと
も湘南地域ではかなり広域に存在しているようである。
いま横須賀市域では、今度実施した文化財総合調査の結果として三基
の存在を確認した。林の林照寺跡、鴨居能満寺境内、深浦正観寺墓地で
ある。
林照寺跡の筆子塚は、当寺住職覚應栄弁の墓である。墓碑は尖頭角柱
あ じゃ り
型、総高 160cm、塔身前面に「権大僧都法印覚應栄弁阿闇梨」
、右側面に
能満寺の筆子廟
天保2年(1831)鴨居
正観寺の筆子塚
年銘欠(江戸時代)浦郷
かのととり
「萬延二年(1861)辛 酉 正月廿七日没」とあるから、栄弁示寂後、或る
年忌の建立と推定される。基台前面に「筆子中世話人」惣左衛門以下9
人が名をっらね、そのうち萬右衛門は「スカルヤ」とある。一般筆子は
武右衛門以下 38 人の名がある。その中の ヲヲツ林蔵、ウラガ周蔵、同
美三良、ナガサカ吉蔵、太田和傅右衛門、仙蔵、宇之助、権蔵、兵蔵、
千代松 など 11 人のほかは林在住者であろう。また、ヲヲツ林蔵等 11 人
も、寺子時代には林村の住人であったろう。林照寺は羽黒行人派の修験
寺、林村は江戸時代には林業がもっとも盛んであった。
かのと
鴨居能満寺の一基は切妻入の石廟で、総高 98cm、両壁面に「天保二 辛
う
卯歳(1831)四月是立」左壁面に別に「六月廿一日」とある。基礎前面
に
筆子中 とあるが、天神祠らしい。寺子らが修学成就を記念した奉
納らしい。深浦正観寺の一基は累石塔で、基礎前面に
深浦筆子中 と
ある以外には資料となるものはない。この林照寺の例、また他地の例に
林照寺跡の筆子塚
万延2年(1861)林
よっても多くの寺子屋教育は貧寺住職が経営の費、生活の資として開業
されていた様子が感じられた。
飯盛女の墓
緑ケ丘の寺の墓域に旅龍屋(はたごや)の墓がある。塔身は重頭角柱
型で、塔身高さ 76cm である。塔身の前面と左右面に 14 人の女子名を刻
し
た寄墓碑である。先ず前面上方に家紋を刻し、その下に越後産俗名小沢
よし明治廿三年二月十日、東京産富永ゆき明治廿二年六月十九日、仝稲
葉しん明治十八年六月九日仝浅見きん明治廿二年九月四日、仝広瀬千代
明治廿三年四月五日。右側面に京都産俗名黒川ヨシ明治三十一年三月廿
一日、伊勢産伊東タツ明治三十一年七月十八日、東京産早川ナミ明治三
十四年六月十二日、岐阜産田中松五郎明治三十九年十月卅日、天缶泰堂
信士俗名銀之助明治五年九月十五日。左側面に越後産俗名田中ヨシ明治
廿三年八月十九日、東京産長谷川みつ明治廿四年九月十一日、房州産吉
野とみ、仝小ふし。女子 12 人、男子 2 人の出生地、俗名、死没年月日を
列記し、碑背に永代日拝料金拾圓納、施主林花子と刻して、鄭重な亡霊
飯盛女の墓
明治 34 年以後緑ケ丘良長院
こうろ
の取扱い方である。前面に香瀘を供え、別に小型の墓碑一基あり、重頭
角柱型で、基礎ともに総高 85cm、家紋三ツ柏を配し、義泉了缶信士、明
治二巳年十二月廿三日、施主鉄之助とある。(註.この墓は、今年他所
に移されている)
不断の献華
江戸時代の墓碑には、墓碑の前面また側面に蓮華を彫刻したものを見
かける。これは墓碑を美化する意味とあわせて不断の献華を意図した発
想である。この墓碑は長井不断寺の万治元年(1658)、寛文7年(1667)の
寄墓碑であるが、その中間を、花瓶の立蓮華でくぎり、さらにその下の
基礎部にも、満開の蓮華を彫り出している。この二霊は、おそらく夫妻
不断の献華墓碑
長井 不断寺
であろう。夫妻の寄墓碑は現在もつくられているが、この墓碑ほどの配
慮はみられない。
みず子の墓
みず子供養のみずこ地蔵は、近ごろはなかば流行語のようになってい
る。みず子は、水子か、不見子か当て字に二様に考えられる。みず子は
母体のなかに生を受けながら、胎児のまま流産、また中絶の措置により
「陽の目を見ず」に失われた生命に対する呼び名であるから、この意味
では「不見子」であり、また生命を水として流れ去られた胎児をいう解
釈からすれば「水子」である。これについて江戸時代から明治初頭には
がいし
ようにょ
孩子・孩児の用語いずれも墓碑銘に見られる用語であって、嬰女・嬰子
以前の死亡児に対するよび名である。この場合、嬰女・嬰子は男女の性
別が判明できた嬰児であり、孩子・孩児は男女性別出来ない嬰児のよび
名である。
水 子 の 墓
本行寺
長沢
現在流行している水子供養には、水子墓はきわめてまれで、その多く
は水子の霊に対する供養である。寺院で用意された地蔵像を買いもと
め、子育地蔵尊前に奉納し、香をくんずるというのが一般の様式であ
る。いまだ安住できる我が家を持たない若い父母としては、それが孩児
に対する最大の良心の表現であるかも知れない。
長沢本行寺墓地の水子塚は阿部氏によって供養されている。方形の碑
石を二個積み重ねた粗末な墓であるが、一本の木塔姿が奉納されて「南
う
ら ぼんえ
無妙法連華経 奉修付供養 為水子之霊于闌盆会水向供養 阿部絹代
誌」とあった。
平作妙伝寺墓地の水子塚は由緒ただしい墓である。二基のうち一基は
建立年銘を欠くが江戸時代の建立らしい。火成岩製、円頭角柱型で、地
上総高 46cm 余、碑面に「一合
妙明孩女 一乗水子
法露孩子」とあ
る。一合とは三霊を一基に合祀したことの意味である。他の一基は火成
玄露孩子の墓
明治 29 年(1896)深田台龍本寺
岩製、円頭角柱型で総高 34cm、塔身前面に「先祖代々各修水子明治三十
五年十一月一四日」とある。
蛇
神 石
蛇神石は立石不動尊境内にある。火成岩を材石とした大蛇体で、称し
様がないので便宜的に蛇神石と仮称した。二体あって、ともに基礎石上
に安置される。基台上高さ約 32cm、体身直径 30cm で、方形の切石を加工
したことがうかがわれる。長体を五重巻きし、その上部に大首をかまえ
た姿態である。建立を説明する銘文は無い。蛇神は通常、蛇を弁才天の
ほ ん じ すいじゃく
化身とする本地 垂 迹 的な思想から、通常、弁天祠に奉納されるが、ここ
は不動尊の浄域である。当地域は大楠山麓から発する岩川に臨み、そこ
に生じた水流を利用して、瀧不動の観念からこの浄域を造成したのであ
ろう。蛇神の奉納は、蛇と龍との連想信仰によったのかも知れない。新
編相模国風土記稿芦名村の条に「谷戸瀧」とも載せている。
蛇 神 石
江戸時代 立石不動
六角大亀の塚
良長院墓域の一隅に「六角大亀之塚」と銘する一基がある。潮の流れ
は、時として珍事をもたらすことがある。島崎藤村の「遠き島より流れ
よる榔子の実」詩は著名だが、良長院の六角大亀塚も横須賀港が漁場で
あったころの潮流の所産であるかも知れない。高さ 78cm の扁平自然型の
根府川石の表面に「明治四十二年八月三十日中根附近ニテ長サ六尺前幅
四尺目方八十貫有余大亀ヲ捕獲ス 明治四十二年十二月
横須賀市魚業
者逮之祠堂金五円納」と銘あり、大亀の遺骸をその地点に葬り、祠堂金
同寺に納めて永くその霊をとむらわんとした漁業者の温情の遺産として
記憶される。
六角大亀の碑
明治 42 年(1909)緑ケ丘良長院
本地垂迹:神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた神仏習合を
理論づけたもの。
三界萬霊供養塔・無縁仏霊供養塔
一般に無縁塔と称される供養塔は2種に分別される。一種は三界萬霊
塔であり、他の一種は無縁仏塔である。しかし無縁仏霊も終局的には三
界萬霊に含まれるものとの理解にたっている。
三界はもと仏教で、衆生の迷いの境界を欲界、色界、無色界と区分す
るが、それに関連して法華経には
三界無安、なお火宅の如し と説き、
こうむ
また禅刹では広く無縁の人びとに対して冥福を 蒙 せるために三界萬霊
牌を安置し、その牌文に「三界萬霊・十方至聖・六親脊属・七世父母」
と示されることでもわかるように、三界は広く有情・人間界の総称であ
る。この意味において、現在諸寺院境内の墓域に建立されている三界萬
無縁霊塔
独園寺・浦郷
霊塔は無縁塔では無く、禅刹の三界萬霊牌に見られるように、有縁無縁
の別なく、信不信を問わず、あまねく有情を摂して入仏得道させようと
する大乗的精神にのっとった真にしてもっとも素朴な供養塔である。
無縁塔
専福寺・東浦賀
いまその具体的な一例として鴨居観音寺境外の海辺に建立されている
念仏供養塔があげられる。総高 170cm、塔身は帆船の白帆型にかたどり
表面に願海流の名号をあらわし、背面に破戒罪根者を廻心念仏させる旨
を祈願し、三界萬霊のため、あわせて海難者に念仏回向した念仏供養塔
である。
また現在各寺院境内に新造されている無縁塔と称されるものは、本来
はもっとも有縁な仏教信仰者であったのである。それを後年回向者が絶
えたことを理由として無縁仏とされている。それがいわゆる今日の無縁
塔なのである。この意味において三界萬霊塔、また無縁塔建立はその他
の供養塔の終局につながるかもしれない。
施主を失った聖霊群
長徳寺・長井
三界萬霊塔
大久保地蔵堂・長井
ぜんさつ
禅刹:禅寺