第二次世界大戦後の復興と安定の歴史的位相

2015 年 10 月 18 日
福島大学
第二次世界大戦後の復興と安定の歴史的位相
浅井良夫(成城大学)
1
救済・復興・開発
今回の共通論題では、第 2 次世界大戦後の経済復興をテーマとしてとりあげる。第 2 次
大戦後、各国は自力で経済復興を実現したわけではなく、アメリカや国際機関の援助が大
きな役割を果たした。本報告では、戦後の復興と安定を、経済援助の問題に焦点を当てて
論じ、戦後の国際経済秩序形成の歴史像を再検討す る。
まず、私の基調報告では、第 2 次大戦後の復興のための援助計画が、冷戦の開始、朝鮮
戦争による冷戦の「熱戦」への転化によって変容していった過程を概観し、マーシャル・
プランに関する西川報告、世銀愛知用水借款に関する永江報告、1950 年代末の米国の援助
と韓国の安定化に関する林報告を繋ぐ視点を提示したい。
第 2 次大戦期に構想された戦後の復興は、戦争による破壊からの生産能力の回復にとど
まるものではなかった。このことは、
「大西洋憲章」
(1941 年 8 月)に「世界の通商および
原料の均等な開放」、
「労働条件の改善、経済的進歩および社会保障をすべてのものに確保」
するための「経済分野におけるすべての国家間の完全な協力」が謳われていたこと にも明
瞭に示されている。「復興」(Recovery)とは、短期的な救済措置ではなく、長期的な改革
を意味した。飢餓からの脱出や生活基盤の修復といった 、戦争の直接的被害からの回復に
は、救済(Relief)という言葉が用いられた。1943 年 10 月に連合国の機関として設けら
れ、後に国連の管轄下に移行した UNRRA(United Nations Relief and Rehabilitation
Agency)は、まさに「救済」のための機関であった 1 。
また、「復興」と「開発」との関係も問われなければならない。 次の節で述べるように、
ブレトンウッズ会議の頃には、「復興」と「開発」と はともに追及されるべき目標とされ、
両者の境界も必ずしも明確ではなかった。
最後に「安定」を定義しておきたい。
「復興」が国民経済の長期的な改革を 意味するなら
ば、
「安定」を、たんなるインフレの収束といった狭い意味でとらえることはできない。マ
ーシャル援助や他の経済援助においてもつねに念頭に置かれた終着点は「経済自立」
(援助
を必要としない経済状態)にあった。したがって、
「安定」の指標としては「国際収支の安
定」、すなわち、対外経済関係を持続的・安定的に維持できるような貿易構造の樹立と言う
点が重視されなければならない。
2
ブレトンウッズ体制の成立
1944 年のブレトンウッズ会議と、IMF、世銀の成立に関する歴史解釈は、この 20 年間
ほどの間に大きく変わった。過去の通説的なブレトンウッズ会議の見方は、銀行原理に立
つ ケ イ ン ズ 案 ( International Clearing Union ) と 基 金 原 理 に 立 つ ホ ワ イ ト 案
ただし、UNRRA は Relief だけでなく Rehabilitation も掲げており、たんなる「救済」
のための機関ではなかった(Ruttan[1996]p.46,Ekbladh[2010]p.116)。UNRRA は 1947
年に廃止された。
1
1
(International Exchange Fund)案との対立、経済力を背景にしたアメリカ論理の貫徹
と い う 視 点 で あ る 。 そ う し た 視 点 は 、 古 典 的 な Richard N.Gardner の 著 書 の タ イ ト
ル ”Sterling-Dollar Diplomacy” に、端的に示されている。その後の研究では、ケインズと
ホワイトの思想的な共通性が強調され、さらに最近では、アメリカ、イギリス以外のブレ
トンウッズ会議参加国が注目されるようになった。前者の側面は、ブレトンウッズ体制を
自由貿易と福祉国家とを両立させる国際システム(「埋め込まれた自由主義」)として John
Ruggie[1982]によって定式化され、定説になりつつある 2 。後者の側面は、ブレトンウッズ
会議ないし初期の IMF・世銀における「開発主義」を発掘した Michele Alacevich[2009]
や Eric Helleiner[2014]によって強調されている。ここでは、後者の「開発」の側面に絞
ることにする。
開発主義の源流は、世界の各地域に見出されるが、開発主義思想の形成にとりわけ大き
な 役 割 を 果 た し た の は 、 東 欧 と ラ テ ン ア メ リ カ で あ っ た 3 。 ポ ー ラ ン ド 生 ま れ の Paul
Rosenstein-Rodan は、第 2 次大戦中にはイギリスにおいて東欧の経済問題の研究に従事
し、伝統的部門における過剰人口問題に着目した。また開発経済学の祖の 1 人である
Rugner Nurkse はエストニア生まれである。しかし、東欧は戦時下にはナチスの支配下に
あり、その後ソ連の影響下に入ったために、東欧諸国が第 2 次大戦後、「開発主義」の推
進役になることはなかった。
ブレトン ウッズ会 議 に おける後 進国の影 響 力は皆無で あったと い う通説に、 Helleiner
らは異議を唱える。Helleiner によれば、ホワイト案は「開発」を重視しており、それは、
1930 年 代 末 ~ 40 年 代 の ロ ー ズ ヴ ェ ル ト の ラ テ ン ア メ リ カ に 対 す る 「 善 隣 外 交 」 Good
Neighbor Policy と密接に関連している。アメリカ政府や連邦準備制度理事会(FRB)は
ラテンアメリカに使節団を派遣して、開発計画の立案に 積極的に協力した。こうしたロー
ズヴェルトの政策は、戦間期の金本位制的=銀行家的な「ドル外交」と は対照的であった。
また「善隣外交」において活躍したホワイトやトリフィ ン(当時 FRB)は、プレビシュな
どのラテンアメリカの開発経済学者と協力関係にあった。
このようにラテンアメリカ等の開発主義者は、アメリカの政策に一定の影響力を持って
いた。しかし、「復興」を重視する西欧諸国の力の方がはるかに強く、世銀協定において、
「復興」と「開発」のいずれが優先されるかは明記されなかったものの、実際には「復興」
が優先されることになった 4 。また、ナチスのラテンアメリカへの影響力への対抗という「善
隣外交」の政治目的が、第 2 次大戦の終結によって消滅すると、アメリカの「開発」への
関心は後退した。
3
冷戦の開始とマーシャル・プラン
冷戦の開始はアメリカの対外援助政策に大きな転換をもたらした。第 1 に、アメリカが
2
「埋め込まれた自由主義」論に対しては、アメリカの世界支配の正当化の論理であると
いう批判もなされている(Steffek[2006])。
3 東欧とラテンアメリカにおける経済開発思想の源流を発掘した研究に、Love[1996]があ
る。
4 Mason&Asher[1973]pp.22-23.
2
もっとも戦略的に重視した西欧に対する援助の拡大である( マーシャル援助)。
マーシャル援助が西欧の生産の回復に決定的な役割を果たしたという説、アメリカ型の
資本主義システムを欧州に植え付けたという説に対して 、西欧諸国は自律的に復興を果た
したという反論が提起されている。高度の工業国であった西欧の「復興」が自律的性格を
持っていたことは間違いないだろう。しかし、戦後ヨーロッパの「復興」がアメリカナイ
ゼーションであったことも確かである。ここでは、その問題には立ち入らず、マーシャル
援助を受けた国の生産が、1951 年には戦前水準(1938 年)を 35%上回ったことを確認す
るにとどめ 5 、マーシャル援助とヨーロッパ諸国の「安定」との関係について考察してみた
い。
ミルワードは、1947 年の西欧の危機は、生産面での危機ではなく、急激な資本形成の結
果生じた流動性危機=外貨危機(payments crisis)であったと指摘する。また、第 2 次大
戦直後の西欧の外貨危機は、アメリカへの大量の短期資金の逃避によって起きたという推
測もなされている(ただし、実証的根拠は十分ではない)。もし、そうであるならば、1947
年の危機は「アジア通貨危機」に似ていることになる。
マーシャル援助は、1948 年 4 月から実施されたので、47 年の危機の救済には間に合わ
な か っ た 。 47 年 の 外 貨 危 機 の 際 に は 、 ア メ リ カ 政 府 機 関 で あ る ワ シ ン ト ン 輸 出 入 銀 行
(EXIM)と、創立間もない IMF、世銀が対処した。世銀の第 1 号借款は、1947 年 5 月
に承認された 2 億 5000 万ドルの対仏借款である。世銀のオフィシャル・ヒストリーでは、
「復興融資」の段階と、「開発融資」の段階に分けられ、「復興融資」の段階は、世銀がそ
の役割をマーシャル援助に引き継ぐまでの時期とされている。マーシャル援助以後の世銀
は、
「開発融資」に専念するようになったと記されている。しかし、対仏借款は、流動性不
足を補填する短期的な為替安定化資金であり、復興のための長期的資金ではない 6 。
マーシャル援助は、中期的な「ドル不足」(復興に必要な原材料・機械等 の輸入に必要
なドルの不足)を緩和し、資本投資を促進する役割を果たしたと見ることができる。1948
年 4 月から 51 年 12 月までの間に供与された 135 億ドルのマーシャル援助が存在しなかっ
たとすれば、西欧諸国の近代化投資のペースは落ちたことは確実であり、また、西欧諸国
は強い引締め政策の実施を余儀なくされたと考えられる 7 。
このように、緊急ないし中期的な「ドル不足」を緩和する役割を果たしたのが、マーシ
ャル援助であり、IMF、世銀の融資であった。こうして西欧諸国は、1949 年頃までにはイ
ンフレを克服し、通貨価値を維持し得る「安定」状態に達した。
マーシャル援助は、より長期的な「安定化」にも役立った。マーシャル援助から 3 億 5000
万ドルを割いて、1950 年に発足した欧州通貨同盟(EPU)は、IMF よりも柔軟なシステ
ムにより、同盟国間の決済を促進し、1950 年代末までに「ドル不足」の解消と、為替自由
化を実現するのに貢献したのである。
途上国はマーシャル援助の圏外にあったが、冷戦の開始とともに、
「開発」は冷戦の文脈
で再定義された。1949 年 1 月のトルーマンの大統領就任演説中で提起した「ポイント・
5
6
7
Eichengreen[2007]p.57.
矢後和彦[2010]
Eichengreen[2007]p.65.
3
フォア」構想 8 においた、はじめて「低開発」underdevelopment という言葉が用いられた
という説は誤りであるが 9 、トルーマンは「開発」に「科学技術の進歩と産業の発達」の支
援の意味を付与した。アメリカの「科学技術」の象徴は、ニューディール期の TVA であっ
た 10 。
「ポイント・フォア」には、アメリカの技術優位を背景に、アメリカが工業・科学技
術を用いて後進国の貧困を救いうるというメッセージが籠められていた 11 。
「ポイント・フ
ォア」は、金額的には小規模な技術援助にすぎなかったが、イデオロギー的な面での影響
はけっして過小評価できない。
4
「熱戦」による変容
1950 年 6 月に勃発した朝鮮戦争は、アメリカの対外援助を経済援助から軍事援助へ大
きく転換させた。51 年 10 月に制定された相互安全保障法(MSA)により、対外援助は軍
事援助のもとに統合された 12 。53 年にかけて、アメリカの対外援助は経済援助から軍事援
助に大きくシフトした。第 2 次大戦後、朝鮮戦争勃発までのアメリカの対外援助はほぼす
べて経済援助(その中心は西欧)であったが、52 年には軍事援助が経済援助を上回り、そ
の傾向は 56 年まで続いた。
アメリカは、
「冷戦国家」とも言える韓国を、自国のソ連に対する優位を示すショーウイ
ンドウと位置づけ、軍事援助のみならず、多額の経済援助を供与した。アメリカの経済援
助全体が縮小するなかで、韓国に対する経済援助は増大した(ピークは 1957 年)。韓国の
経済復興に立ちはだかる壁は、日本人が引き揚げた後の深刻な技術者不足と、38 度線以北
からの送電が途絶えたことによって生じた極端な電力不足にあると、アメリカは認識して
いた。アメリカは技術者を派遣し、電力を補給することによって、ソ連が技術の輸出のモ
デルケースとする北朝鮮に対抗しようとした。しかし、この時期にはアメリカの開発戦略
は実を結ばず、韓国の不活発さにアメリカは苛立ちを隠さなかった。
マーシャル援助の終焉とともにアメリカの西欧への経済援助は激減し、それに代わって、
西欧への軍事援助が急増した。西欧に対する軍事援助は 1953 年のピーク時には、31 億ド
ルに達した。西欧、アジア、中近東、南アジアといった共産圏の周辺地域とは対照的に、
ラテンアメリカをアメリカは「無視」するようになった。
世銀は「熱戦」とは距離を置いていた。世銀においては、1947 年に総裁に就任したマク
ロイによりニューディーラーのコヤード理事が排除され、その後 52 年の組織改革で開発
「ポイント・フォア」構想の名称は、大統領演説の「第 4 項」でこの構想が述べられた
ことに由来する。この構想は、1950 年 6 月に「国際開発法」(Act for International
Development)として具体化され、国務省内に国際技術協力庁(Institute of International
Technical Cooperation)が設けられた(Ruttan[1996]pp.50-51)。
9 グスタボ・エステバ[1996]。
「開発」ヴォルフガング・ザックス編(三浦清隆訳)
『脱「開
発」の時代』晶文社
10 民主的で分権的な開発というイメージを強調することで、アメリカ型開発( TVA)をソ
連型の集権的な開発に対置した。
11 Ekbladh[2010]p.97.
12 この方向転換は、朝鮮戦争によってはじめて起きたのではなく、すでに 1949 年の総合
防衛法(The Mutual Defense Act of 1949)によって軌道づけられていた(川口融[1980]
pp.35-36)。
4
8
志向の経済局 Economic Department は解体され、ブラック総裁の下でニューヨークの投
資 銀 行 家 主 導 の 経 営 体 制 が 確 立 し た 13 。 こ の 組 織 改 革 で 、 技 術 者 集 団 の 技 術 局 ( Loan
Operations Department)が大きな力を持つようになり、世銀は「会計士」と「技術者」
の組織になった。世銀は融資の安全性を優先し、世銀は援助機関と言うよりも商業銀行に
近づいた。また、世銀は政治的な中立性を標榜し、韓国や台湾のような紛争の生じている
地域を融資対象としなかった。しかし、世銀が「冷戦」と無縁であったとはみなすことは
できない。ブラック世銀総裁は、インドやエジプトへの融資には熱心であったし、何より
もアメリカの TVA 型開発を世界各地に広める役割を果たした。
5
冷戦型「開発」の完成へ
1953 年 7 月の朝鮮戦争停戦、54 年のインドシナ停戦によって「熱戦」の時期は終わり
を告げると、「開発」をめぐる状況には変化が現れた 。
新たに独立する国が相次ぐなかで、国家建設の設計図を示すことがソ連との「冷戦」の
主戦場となって行き、アメリカの対外政策は「開発」重視に回帰した。トルーマンが「ポ
イン ト・ フォ ア」 で掲 げた 路線 は、 ロス トウ 、ミ リカ ンら によ って 理論 化さ れ た 。1957
年に両者が開発経済学者ローゼンシュタイン=ロダンの協力を得て作成した「効果的な外
交政策のための一つの提案」は、アイゼンハワー政権に影響を与え、開発援助政策の見直
しにつながった。アメリカの対外援助政策の変化を示すのが、1957 年 8 月の開発借款基
金(DLF)の創設である。DLF は、現地通貨(local currency)での返済を認めるソフト・
ローンである 14 。同じ時期に世銀においても、融資のソフト化が始まった。
アメリカの「開発」軽視の姿勢に対するラテンアメリカ諸国の反発は、国連の場で高ま
った。1957 年には国連経済社会理事会(ECOSOC)は経済開発特別基金(SUNFED)の
設立を総会に求める決議を行い、世銀とは別に、新たな開発機関を樹立する構えを示した。
アメリカはラテンアメリカ諸国で高まる反米感情に配慮して 15 、経済援助拡大に舵を切っ
たが、ラテンアメリカ諸国との溝は広がるばかりであった。1944 年のブレトンウッズ会議
の前後には開発思想はまだ萌芽的段階にあり、プレビシュの構造主義も、ローゼンシュタ
イン=ロダンの開発経済論も、イギリスの植民地主義的な開発思想もまだ未分化な状態に
あったが、50 年代後半には相互に相容れない思想に分岐した。
1958 年に西欧諸国は通貨の交換性を回復し、61 年 2 月に IMF8 条国には移行し、国際
収支均衡を達成した。これによって、先進諸国では最終的に安定化が実現したと見ること
ができる。(日本も西欧諸国に続き、1964 年に IMF8 条国に移行した)。
一方で途上国の多くは、朝鮮戦争後の一次産品価格の下落、急激な輸入代替化政策の結
果、1950 年代末に国際収支危機に直面した。ラテンアメリカでは、開発政策の行き詰まり
からペロン政権が崩壊するなど、各国で外貨危機が起きた。南アジアでは、累積ポンド を
保有していたインドは国際的な信用度も高かったが、1957 年以降、深刻な国際収支危機に
13
この体制は、1968 年にマクナマラが総裁に就任するまで続いた。
川口融[1980]pp.42-45.
15 1957 年のニクソン副大統領のラテンアメリカ訪問の際に示されたラテンアメリカ諸国
民のアメリカに対する反感は、米国に衝撃を与えた。
5
14
陥った。東アジアにおいては、韓国は輸出が振るわず、60 年代に入っても援助と特需に依
存する状況が続いた。比較的順調に輸入代替工業化を進めていた台湾も、60 年前半には、
まだ米国の援助から脱却できる状態にはなかった。 国際収支の安定を指標とするならば、
途上国は 50 年代末には、むしろ「不安定化」したと見ることが出来る。
1950 年代後半に姿を現した冷戦型「開発」政策は、こうした状況を背景に、60 年代初
めにケネディ政権の下で、ひとつの完成形態に達するが 16 、本報告の範囲を超えているの
で、それに関しては別の機会に譲りたい。
(未定稿)
[参考文献]
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AID の発足、同年 9 月の国連総会でのケネディ大統領の「国連開発の 10 年」の提案。
6
16
浅井良夫[2008]「1950 年代における経済自立と開発」『年報 日本現代史』第 13 号
エステバ、グスタボ[1996]「開発」ヴォルフガング・ザックス編(三浦清隆訳)
『脱「開発」
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川口融[1980]『アメリカの対外援助政策』アジア経済研究所
廣田功・森建資編[1998]『戦後再建期のヨーロッパ経済』日本経済評論社
矢後和彦[2012]「 世界 銀行の対仏借款
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ブレトンウッズ秩序におけるフランス
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7
-」