武 蔵 野 に まつわ る 歴 史 を 楽しみながら 学ぶ 吉祥寺村・西窪村とは 異なる成り立ち の の武 蔵 野エ 江 戸 時 代に入 ったか頃 やか り ば ふだ リアは、幕府御用の萱刈場である札 つ の 村 が、現 在 の 武 蔵 野 市 れた吉祥寺・西窪(西久保) ・関前・ 野に指定されており、その後開発さ 境の 江 戸 期 の 4つの 村 の 武 蔵 野 市 の 基 と なった 村 は こ れ と は 異 な り、 「 他 地 域や し た も の で す 。 一 方 、関 前 村 と 境 により武蔵野の原野に移住し開村 の住民が大火とその後の都市政策 2 0 1 4 年 夏 号 で 紹 介 し た よ う に 、吉 祥 寺 村 と 西 窪 村 は 、江 戸 念 入りに分 担することをあらかじ 納 金 3 0 0 両を、百 姓たちの間で 仲間定書」を作成し、年に 衛 門 は 息 子 ら 数 名 と と も に「 新 田 す。 寛 文 (1 6 6 8)年、八 郎 右 に広がる札 野の開 発に乗り出しま の練馬区関町)に帰農し、関村の前 して住まいを、その裏(北または南 れ ぞ れ 長 方 形 に 区 切 り、街 道 に 面 日 市 街 道を挟んだ土 地の両 側をそ して関前の4地域でした。 田 前( ともに現 在の三 鷹 市 内 )、そ (現在の杉並区内)、無礼前、連雀新 の基となっています。 成 り 立 ち を 紹 介 す るシ リ ー ズの 2 回 目 。 周辺の村の農民により開拓された め定めました。 吉祥寺村 井口新田飛地 境新田 玉川上水 4つの村と新田の 位置。吉 祥 寺 村、西 窪村に続き、享保年間 ( 1716 ∼ 1736)には関前新田、境新田も開かれていった。 小田原北条氏の家臣 井口八郎右衛門らが開拓 関前村は、かつて武士であった人 たちが帰農して開発した新田村落、 側 )に畑を作り、さらにその奥を林 区 分に と 称 さ れ て い ま し た が、元 禄 元 (1688) 年に「関前新田」 と改称さ 行い、幕府の許可を受けます。この こうした動 向をとらえた八 郎 右 衛門らは、翌年、開発許可の出願を ばれるようになったのです。 田」と区別するため、 「関前村」と呼 田開発で新たに開拓された「関前新 れました。さらにその後、享保の新 として成立しました。 とき開発された札野新田は、大宮前 たのです 。 新 田 開 発に適した土 地を探してい 県南東部)や下野国椿海(現在の千 村 の 名 は、開 発 を 始 め た 当 初 は であることから「関村前」 葉 県 東 部 )、武 蔵 野 な ど に 派 遣 し、 “関村の前” 1 1 8 小 田 原 北 条 氏の家 臣であった井 口八郎右衛門が、豊島郡関村(現在 いわゆる「 土豪開発新田 」のひとつ 田畑の地割りは、吉祥寺村・西窪 村と同じような短 冊 型でした。 五 今 回 は 、関 前 村 と 境 村 を 土 地 」で し た 。 今 回 は 、関 前・ 境 に し ま し た。 そ の う ち の 千川上水 度の上 紹 介 し ま す。 の歴史をひも解いてみましょう 。 建てられたのが関 前 八 幡 神 社と延 品川用水 境村 関前村 関前新田 関前村 そ の 頃、幕 府 は 財 政 の 立 て 直 し を 図 ろ う と、積 極 的 に 新 田 開 発 を 現在の旧関前村名主役宅 ( 八幡町) 。関前村名主を 世襲した井口家の役宅で市指定有形文化財。庭内 には、亨保の新田開発にあたって八代将軍・徳川吉 宗から下賜されたといわれている 「サンシュユの樹」 が残っており、市指定天然記念物となっている。 奨 励 し て い ま し た。 勘 定 奉 行 の 役 第11大区4小区関前村・同新田全図 (地引絵図) 。 命寺です。 ルーツを探る 関前と境 4 人 数 名 を 上 野 国 掛 野( 現 在 の 群 馬 西窪村 08 M U S A S HI N O M USA SH I NO H ISTORY さかい も と ち ま た ゆう 説は、上保谷村の農 もうさひんとえつもの ん 民・三右衛門が、松平氏の下屋敷跡 ます。 ているのではないかともいわれてい いう地名は、境本氏の「境」 に由来し れて開発したという説です。 「境」 と が幕府に開発を請願し、それが許さ された地域です。元文元 (1736) 幕府による大規模な新田開発で開墾 吉宗の時代(1716~1745) に、 境村は玉川上水の北側にも広がって いますが、この土地は八代将軍・徳川 のではないことがうかがえます。 らひとつの計画のもとに開墾された ん。このことから、村全体が初めか 境村の地割りは、他の 村のよう に整 然とした短 冊 型ではありませ 境駅)が誕生。武蔵野発展の動脈と 道が開通し「境停車場」(現在の武蔵 ました。 この年の ( 現 在の八 幡 町 )の延 命 寺に置かれ て「武蔵野村」 となり、村役場は関前 年、市制 そして明治 (1889) 町村制という制度の施行に伴って、 下に置かれていました。 き、武蔵野の4村は「品川県」 の管轄 境村の成り立ちについては、他の 村のように明確にはわかっていま 地が、やがて一つの村となったのだ から、それまでの境新田村が「境村」 初めてその名が登場します。その頃 なっていきます。 寛文 4(1664)年 吉祥寺村、西窪村検地される。 寛文 10( 1670)年 関前村の開墾始まる。 寛文 12 ( 1672)年 関前村検地される。 延宝 6(1678)年 境村検地される。 享保 10(1725)年 武蔵野新田開かれる。 月には甲 武 鉄 つの村と井 口 新 田 飛 地が合 併し れ、その下屋敷跡を中心に開発され ろう」 という説もあります。 となりました。 明治 22(1889)年 4カ村と井口新田飛地が1村となり、武蔵野村となる。 わ のかみ たというものです。開発された時期 ただ、いずれの説も、この地が「松 江 藩 藩 主・松 平 氏の下 屋 敷 跡であ 明治 5(1872)年 4カ村が神奈川県に編入。 ま つだ い ら で 廃 藩 置 県が行われました。 このと を新田開発したいと幕府に願い出て 年の検 地 帳の中に「 境 新 田 」として ていた松江藩の家来・境本絺馬太夫 せん。有力な説としては、三代将軍・ 許されたという説です。さらに、「境 境村 徳 川 家 光の信 頼が厚かった松 江 藩 本氏と三右衛門により開発された土 もはっきりしませんが、検地帳など 明治 4(1871)年 吉祥寺村と西窪村は東京府に、関前村と境村は入間県に編入。 な おま さ から、寛文~延宝年間とみられてい 武蔵野村の誕生 る」 としていること、そして、この村 きづ き たいしゃ ます。 の鎮守が杵築大社(島根県の出雲大 明治 2(1869)年 4カ村が品川県の管下に入る。 松江藩主・松平直政の 下屋敷跡を開拓 直政が、このあたりに鷹場を与えら (現在の島根県) 藩主・松 平 出羽 守 22 社の古 名 )であることからも、松 江 明治 26(1893)年 武蔵野村が東京府の管下に入る。 年の大 その後、慶応 (1867) 政奉還、明治 (1869) 年の版籍 明治38 ( 1905)年の境停車場 ( 現在の武蔵境 駅) 。明治22 ( 1889)年の開通時、甲武鉄道の停 車場は新宿、中野、境、国分寺、立川の5駅の みであった。 ※境村の開墾年数は不明 4カ村 (吉祥寺、西窪、関前、境)の略歴 3 4 藩とゆかりの深い土地であることは 現在の杵築大社 ( 境南町)。松江藩藩主・松平 出羽守直政の御用屋敷だった江戸時代初期 に、松江藩の屋敷神として創建されたと伝えら れている。境内の 「 杵築大社の富士山」は市指 定史跡に、本殿前の 「 千本イチョウ」は市指定 天然記念物となっている。 2 奉還を経て、明治 (1871) 年に 取材・文/梅澤聡 監修/高尾善希 (武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館学芸員) 参考資料/ 『子ども武蔵野市史』 (武蔵野市立図書館) 、 『武蔵野開村120周年 連続歴史講演会録∼市内四カ村の成立と展開∼』 (武蔵野市教育委員会) 09 MUSASHINO 間違いないでしょう。 明治 元(1868)年 吉祥寺、西窪、関前、境の4カ村が武蔵知県事の支配となる。 4 3 開発の中心となった人物について も、いくつかの説があります。 ひ と つ は 貞 享 年 間(1684 ~ 1688) 、松平氏の下屋敷を預かっ 第11大区4小区境村・同新田全図 (地引絵図)。 4 元文 元(1736)年 境新田、関前新田を含む武蔵野新田83カ村検地される。 3
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