百姓一揆の指導者 なか そ う ざ え もん 仲 惣左衛門 文化 6 年(1809)-明治 4 年(1871) 《 三田とのゆかり 》 下田中村(現・三田市下田中)の生まれ。若 いとき、大坂や京都へ勉学に出るが三田に帰り、 仲惣左衛門の墓碑 塾を開き、農民の指導的役割を果たす。一揆の責任を負わされ刑死。墓は下田中の神 明寺にある。 〈 どんな人? 〉 先祖は桑原出身である。少年時代より学問を好み、下田中村の和尚に仏教、論語、 陽明学を習った。18 歳で大坂、京都に出て学問を深めた。在阪中に、救民をかかげ幕 政を批判した「大塩平八郎の乱」が起き、強く影響を受けたといわれる。三田に帰郷 後は、自宅に塾を開き、多くの子弟に学問を教え、その才能と人望で農民の指導的な 存在となっていく。 明治に入り、三田藩は版籍奉還により明治新政府の治世下におかれるが、当時の農 民の生活は、幕末から引き継いだ財政難からくる重税と厳しい税の取立てにより貧し さを極めていた。 明治 2 年(1869)は全国的に大冷害に見舞われ、6 月に六甲山に雪が積もったと言わ れている。それにもかかわらず年貢米は 6~7 割にもなっていた。惣左衛門は庄屋を動 かして年貢の半減を訴え、また出来高によって税率を決める「検見(けみ)」を行なわ せたが、結局減免は却下された。耐えかねた農民は実力行使(一揆)に立ち上がる。 これを指導したのが仲惣左衛門とその門弟である北畑市右衛門、市田栄蔵らである。 明治 2 年(1869)11 月 15 日、各地(ほぼ現三田市)から集まった農民は約 700 人と もいわれ、藩側と衝突し、打ち壊しや交渉の結果、年貢の半減を認めさせた。しかし ながら、指導者は責任を問われ、その後全員捕らえられた。惣左衛門は、その首謀者 として絞首刑となった。享年 62 歳である。 著書に『銘言細理解』『性学』『集記』がある。
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