1 「限界を超えて」

 神の歴史−36 「限界を超えて」 2016.3.20
創世記 50:15-21、マタイ 18:21-35、Ⅰヨハネ 4:7-17
1155 ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たち
をまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。1166 そ
こで、人を介してヨセフに言った。 「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。 1177『 お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、
どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神
に仕える僕たちの咎を赦してください。」 これを聞いて、ヨセフは涙を流した。1188 やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフ
の前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、 1199 ヨセフは
兄たちに言った。 「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。2200 あなた
がたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うた
めに、今日のようにしてくださったのです。2211 どうか恐れないでください。このわた
しが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」 ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。 Ⅰ. 虚無の世紀
ただ今お読みした創世記50章15節以下をもちまして、私が楢山教会で聖書を解き明かすのは最後とな
ります。最後の解き明かしで、このような御言に巡り合わせたことは、言葉では言い尽くせない喜びです。
この喜びは、ヤコブの死を契機に、ヨセフの復讐を恐れる兄たちに語られたヨセフの言葉、「恐れることは
ありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神
はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」から溢れ出てくるも
のです。
私は、この聖句はイザヤ書53章「苦難のしもべ」と共に旧約聖書の最高峰であると考えています。旧約
の闇の中から、これほど鮮明に十字架のキリストを照らし出す神の言葉はないと! 旧約の民はこの神の言
葉に養われて、過酷な歴史を生き抜いたのです。旧約の民は、この言葉によって開かれる扉の先に何がある
かを知っていたのです。それを端的に伝えているのが、エジプトを脱出したイスラエルが、神の山シナイで
契約を結んだ時に行った神との会食です。御言にこうあります。「モーセはアロン、ナダブ、アビフおよび
イスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御脚の下にはサフ
ァイヤの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たち
に向�かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」
私たちが毎週、主の晩餐で味わっている至福を、旧約の民も味わったのです。その記憶で彼らは、荒野の
旅を続けることができたのです (申命記 8:2−4)。その意味で、きょう、わたしたちに開かれた御言は、ヨセフ
物語の頂点であるだけではなく、創世記の、さらに言えば旧約聖書の、そして新約聖書の頂点でもあるので
す。共に裁きの座 (十字架のキリスト) を見上げ、心を高く上げて御言に聞きたいと思います。
それにしてもなぜヨセフは、このように語ることができたのでしょうか。この言葉が語られまでの経緯を
ざっとみたいと思います。それは、土の塵で造られ人間が、ある日、蛇の誘惑に落ちて、園の中央に生えて
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いる「善悪の知識の木」_神は、この木の実を決して食べてはいけない、死んではいけないからと言われた
のですが_、その実を食べたことに端を発しています。ここで善悪を知るとは、倫理的なことではなく、
「神
のようになる」(3:4、22) ことを意味してます。結果、人間は神と共なる生活を棒に振り、エデンの園から追
放され、女は、産みの苦しみと男への隷従、男は、額に汗してその日の糧を得、ついに塵に帰る苦渋に満ち
た生活が始まったのです。そして、この夫婦から生まれた最初の子カインは弟アベルを殺し、カインの末裔
レメクは受けた傷のために77倍の復讐を誓ったのです。
こうして闇が際限なく広がる中、天地がひっくり返る決定的なことが起きました。天上の神の子たちが、
地上の人間の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻としたのです。それによって天と地の界が破
壊され、地上に人の悪が満ちたのです。それをご覧になった神は、人を造ったことを後悔し、心を痛め、人
だけではなく全ての生き物を地上から滅ぼすことを決意し、実行されたのです。
洪水後、神の恵みによって残されたノアとその家族から全地に人が広がるのですが、人間は、「善悪の知
識の木」から取って食べたことの帰結として、天に届く塔を立て始めたのです。それを見た神は狼狽し、天
を引き裂いて地に降り、言葉を乱し、互いに意思が通わないように全地に散らされたのです。フォン・ラー
トはこの時の神の狼狽について、次のように言いました。「バベルの塔建設の物語の中では、人間の恐るべ
き可能性に直面したときの真の古代人の恐怖を感じることができる」と。
そして思います。高度に発達した科学・技術文明の時代を生きる私たち現代人は、あのとき古代人が感じ
た恐怖以上の恐怖を感じていると。1900年、ニーチェはひたひたと押し寄せる虚無の足音を聞きながら
狂い死しました。虚無の世紀20世紀が始まったのです。北森喜蔵先生が『神の痛みの神学』に記された言
葉が心に迫ります。「我々の生きている今日は、最も優勢なる意味において『死の時代』であり『痛みの時
代』である。私の眼には、今日世界は大空の下に横たわっているのではなく、痛みの下に横たわっているも
のとして映ずる。」
Ⅱ. 罪と激情のどす黒い闇
この痛みの下に横たわる死の世界を、命輝く世界に再創造するために神は「祝福の源」として、75歳の
アブラハムと不妊の女サラを選ばれたのです。この選びは、私たちの理解を超えています。神は死んだも同
然の夫婦に、天の星、浜辺の砂ほどの子孫を与えると約束されたのです。この私たちの理解を超えた祝福は、
アブラハムからイサク、イサクからヤコブへと継承されてゆくのです。その祝福が今、ヨセフ物語の結びで、
言葉には言い尽くせない、輝きに満ちた喜びとなって異様な光を放つのです。「恐れることはありません。
わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に
変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
神は、あなた方が企んだ悪を善に変えられた! それにしてもなぜヨセフは、このように語ることができ
たのでしょうか。そのことについて一つの示唆を与えてくれるのは、兄たちに殺されそうになり、九死に一
生を得て、エジプトに奴隷として売られ、囚人の世話をする最底辺の生活を13年続けていたヨセフが、フ
ァラオの見た夢を解き明かしたことで、エジプトの宰相に任じられ、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナ
トと結婚し、二人の息子を与えられた記事です。ヨセフは長男を「マナセ(忘れさせる)」と命名します。
「神が、わたしの苦労 (=エジプトで13年間、奴隷として囚人たちの世話をしたこと) と父の家のこと (=兄た
ちに憎まれ、殺されそうになったこと) をすべて忘れさせてくださった」と。
このことが実証されたのは、ヨセフが兄たちに正体を明かしたときです。飢饉に襲われ、エジプトに食糧
を買い出しに来た兄たちに、ヨセフはこう言ったのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨ
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セフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。
命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。…�…�わたしをここへ遣わした
のは、あなたたちではなく、神です!」
この言葉は、きょう私たちがヨセフから聞いた言葉と共に、ヨセフ物語の頂点です。しかし、このときの
ヨセフの言葉は兄たちの心に届いていなかったことを、きょうの御言は告げるのです。「ヨセフの兄弟たち
は、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕
返しをするのではないかと思った」と。
なぜ、兄たちはそう思ったのでしょうか。それとの関連で注目したい記事があります。それは、ヤコブが、
年老いて目の不自由な父イサクを欺き、兄エサウの祝福を奪った物語です。祝福を奪われたエサウはヤコブ
を憎み、「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる!」と心に固く誓った
のです。
かつてヨセフの兄たちは、父の寵愛を一身に受け、兄たちの支配者になる夢を見たと語るヨセフを憎み、
殺意さえ抱いたのです。「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たち
をまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った」とは、兄たち自身の経験か
ら出ている言葉なのです。受けた傷の記憶はそう簡単に消えるものではないのです。私たちは罪と激情のど
す黒い闇、77倍の復讐が渦巻く世界に生きているのです。その人の心に、「わたしはあなたたちがエジプ
トへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必
要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです!」という言
葉は届かなかったのです。この人間の深い心の闇を前にしてヨセフは、ただ、涙を流すほかなかったのです。
そして私たちは、涙を流すヨセフから、あの言葉を聞いたのです。「恐れることはありません。わたしが
神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多
くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
語り手はこの段落を、「ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた」と結びます。ここにあ
らわれる二つの動詞、「慰める」と「心に語る」は、第二イザヤが語る慰めの使信の冒頭でも対をなしてい
ます。「慰めよ、わが民を慰めよ…�…�ねんごろに(=心に)…�語り」と。
Ⅲ. 限界を超えて
ヨセフの兄たちは、それほどに心を固く閉ざし、みな心の砂漠で砂を噛む孤独を味わっていたのです。ヨ
セフはその孤独に触れて、涙を流したのです。その涙が言葉となって溢れ出たのが、「わたしが神に代わる
ことができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命
を救うために、今日のようにしてくださったのです」なのです! ヨセフはこれで、神の行為と人間の行為
を切り離すことで、何かしら極端なことを言明している、と言った人がいます。一見して分かるように、そ
れは極端に隠されたもの、遠く離れたもの、認識不可能なものとして、神の行為に言及しているのです。つ
まり、本当の赦しとは、純粋に人間と人間の間の事柄ではないと! ヨセフのこの言葉は、罪と激情のどす
黒い闇から、兄たちを救い出すのです!
この真理を、譬えを用いて明らかにしたのがマタイ福音書18章21節以下です。「兄弟がわたしに対し
て罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」とのペトロの問いに、主イエスはこうお答え
になりました。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい!」この主イエスの答えは明らかに、七十七倍
の復讐を誓ったレメクの言葉に対応しています。復讐に際限がないように、赦しにも際限はないと、主イエ
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スは言われたのです。それは、明らかに矛盾しています。復讐に際限がないとは、赦しはない!ということ
だからです。赦しに際限がないとは、もはや復讐はない!のです。このことを極限まで抉り出したのが、一
万タラントンの負債を赦されながら、百デナリオンの貸しを赦せない家来の譬えです。
主イエスはこの譬えで、ペトロの問いの間違いを炙り出されたのです。本当の赦しは、純粋に人間と人間
の間の事柄ではないと。姦通の現場で捕らえられた女を、石で打ち殺せと騒ぐ群衆に語られた主イエスの言
葉が思い起こされます。主は言われます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に
石を投げなさい。」すると、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去り、この女に石を投げつけた者
は一人もいなかったのです。
私たちの中で、他者の裁判官になれる者など一人もいないのです。そうであるのにペトロは、「兄弟がわ
たしに対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と言ったのです。このペトロの言
葉は、ヨセフの言葉となんと違うことでしょうか。ヨセフは赦しを請う兄たちに、「あなたたちがわたしに
犯した罪はまだ七回に達していません。だから赦します」と言ったのではなく、「わたしが神に代わること
ができましょうか」と言ったのです。本当の赦しは、純粋に人間と人間の間の事柄ではないのです。ここに
私たちが主の晩餐で祈る〈主の祈り〉_「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」
_の真髄があるのです。FEBC の前代表吉崎恵子さんが、私たちの礼拝に出席され、礼拝後の挨拶で語られ
た言葉が印象的でした。吉崎さんは、主の祈りが、主の晩餐の中で祈られることに感銘を受けたといわれた
のです。ほとんどのプロテスタント教会では、主の祈りは聖餐式から切り離されているのです。罪の告白も
赦しを求める祈りもない礼拝がささげられているのです。
このことを黙想していた時、わたしの心を激しく捉えた言葉がありました。それはボンヘッファーが「教
会の本質」について語った言葉です。「教会は、宗教的な退修会や遍歴や、修道院やその他の共同体の体験
において経験されうるものではなく、わたしと他者との間の交わりは破れていること、しかしキリストがそ
の代理的行為においてわれわれを互いに招き寄せ、共に並んで保持したもうことを人が知るところで経験さ
れるのである。」こう言ってボンヘッファーはこう言葉を続けるのです。
「教会は恐らく、大都市における聖
晩餐を守る集まり (ゲマインデ) という状況において、最も確信をもって現われ出るであろう。自然的な結び
つきはほとんど何らの役割をも演じない。軍国主義者と平和主義者、資本家と労働者、その他これに類する
人たちの間には、最も深い対立が横たわっている。神がここキリストにおいて設定したもうたことは、最高
に逆説的な一致であって、それは人が宗教的共同体の概念をもってしては近づくことのできないものである。
宗教的な体験をもってしては、われわれは依然としてアダムの人間性にとどまっている。信仰における貧し
さは、豊かな体験をもって取り代えられてはならないのである。」 私たちが全力で聖餐共同体の形成に取り組んできたのは、本当の赦しは、純粋に人間と人間の間の事柄で
はないからなのです。
「私はあなたを赦します」という、
「宗教的な体験をもってしては、われわれは依然と
してアダムの人間性にとどまっている」のです。本当の赦しは、「わたしと他者との間の交わりは破れてい
ること、しかしキリストがその代理的行為においてわれわれを互いに招き寄せ、共に並んで保持したもうこ
とを人が知るところで経験される」のです。
結びに、第一ヨハネが奏でるこの福音を聞いて終わりたいと思います。「愛する者たち、互いに愛し合い
ましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っています。…�…�わたしたちが神
を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしに
なりました。ここに愛があります。…�…�神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の
内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持
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つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」
平和への道は厳しく、果てしなく遠い。それでも主の死を告げ知らせる〈主の晩餐〉という日常を営み続
けるしかないのです。祈りと懺悔と犠牲とに裏打ちされた輝き出る愛、即ち聖餐共同体の形成に励むしかな
いのです。なぜなら、御言が私たちにこう語りかけているからです。教会は、聖晩餐を守る集まり (ゲマイン
デ) という状況において、最も確信をもって現われ出るであろう。十字架のキリストを記念 (アナムネーシス)
する主の晩餐は、主イエスが開いた新しい世界の現象として「新しい」のです。その新しい世界が「互いに
愛し合う弟子たち」つまり聖餐共同体(教会)において現実となるのです。
「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こう
して、愛がわたしたちの内に全うされているので…�…�この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」
と。十字架に上げられることで、もはや復讐はないことを宣言されたイエスのように、愛、すなわち十字架
が世界を一変させると叫び続けたいととおもいます。このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られる
まで、主の死を告げ知らせる《平和の使者》でありたいと思います。それがキリストの弟子たちが生きる《今》
なのです!
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