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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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江戸時代の朝鮮通信使と日本各地の風物
糟谷, 政和
茨城大学人文学部紀要. 人文コミュニケーション学科論集
, 19: 1-11
2015.9
http://hdl.handle.net/10109/12702
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江戸時代の朝鮮通信使と日本各地の風物
糟谷 政和
要約
最近の日本の日韓(朝)交流史に関する研究および歴史教育の中では、江戸時代の朝鮮通
信使を善隣友好の使節として理解することが多い。そのこと自体は、極めて意味のあること
であり、かつ現在の日韓(朝)交流にも積極的な意味を持つといえる。そして日本各地の祭
礼や民芸品の中に朝鮮通信使との関連性を見出す研究も現れているし、三春人形と朝鮮通信
使との関連性の理解も意味のあることである。しかし現代の私たちが持つ韓国(朝鮮)理解
やイメージと、江戸時代の朝鮮理解やイメージを同じものとみることはできない要素がある
ことを理解することも大切である。
1 .はじめに
朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代にわたる時期に日本に対して、朝鮮王朝が派遣し
た使節である。しかし本稿では江戸時代の朝鮮通信使(1607年から1811年までに計12回派
遣)を通じた文化交流について改めて考察したい。
江戸時代の朝鮮通信使は釜山出発後に対馬に到着後から江戸まで、ときには日光まで往来
したが、立ち寄った日本各地の人々や朝鮮通信使の往来の情報を見聞した人々によってさま
ざまな形で記録されている。そして朝鮮通信使の往来は日本社会に多様な影響を与えるが、
とりわけ日本各地の祭礼や民芸品に取り込まれていった。なお祭礼には、江戸時代から継承
されて現在も行われているものもあれば、過去のある時期に実施が中断されて現在は行われ
ていないものもある。また民芸品には現在も製作されているものもあれば、過去のある時期
に製造が中断されて現在は製作されていないものもある。
2 .朝鮮通信使と日本各地の風物
それらの祭礼や民芸品に関する情報の収集につとめてきた辛基秀氏(1)は、1993年に出版
した『朝鮮通信使往来』(2)の中で、現存するものだけを「今に残る朝鮮通信使の風物一覧」
(同書、133頁)としてまとめた。現在から見ると修正が必要な箇所もあるが、出版当時の
『人文コミュニケーション学科論集』19, pp. 1-11.
© 2015 茨城大学人文学部(人文学部紀要)
2
糟谷 政和
ままに掲載するとつぎのようである(3)。
「今に残る朝鮮通信使の風物一覧」*1(市町村名は当時)
▽祭り
長崎県対馬 厳原夏祭りの朝鮮通信使行列(8月第1日曜日)
岡山県牛窓町 紺浦の疫神社祭礼の唐子踊り(10月第4日曜日)
三重県津市 分部町の唐人行列(10月10日)
三重県鈴鹿市 牛頭天王社祭りの「唐人踊り」(4月第1日曜日)
▽人形*2 広島県沼隈町 宮本喜孝 沼隈張子人形の唐人
岡山県牛窓町 牛窓唐子人形
大阪府島本町 伏寓舎 唐子人形の展示
奈良県桜井市 水野美津子 出雲人形(初瀬人形)
京都市右京区 さがの人形の家 衣装人形の唐子
伏見区 丹嘉・大西重太郎・時夫 伏見人形の通信使
滋賀県五箇荘町 細井源悟 小幡人形の唐子
長野県中野市 奈良久雄 唐人馬乗り人形
東京都港区 サントリー美術館 唐子衣装人形
埼玉県寄居町 笛畝人形記念美術館の唐子人形
福島県郡山市 恵比寿屋・橋本広司 三春張子「踊る唐子」
山形県米沢市 相良隆 相良人形・通信使の楽人
宮城県仙台市 芳賀強 堤人形の唐子
青森県弘前市 高谷充治 下川原人形・朝鮮通信使人形
▽笛・こけし
長野県野沢温泉 あけび細工の唐人笛
宮城県白石市 弥治郎こけし 唐人笛
秋田県 木地山こけし・唐人笛
▽絵馬
大阪富田林市 美具久留御霊神社の「船絵馬」
栃木県小山市 大川島神社の絵馬
羽生市*3 小松神社の絵馬
佐野市 沼鉾神社の大絵馬
大田原市 福原八幡宮の絵馬
茨城県伊奈町 清安山不動院の葛飾北斎の唐子舟遊び絵馬
江戸時代の朝鮮通信使と日本各地の風物
3
▽凧
千葉県富津市 富永梅吉 上総唐人凧(東京都中央区・凧の博物館所蔵)
福島県会津若松市 会津唐人凧(同上)
郡山市磐梯熱海 会津舌出し唐人凧(つくし工房作)
引用者注:*1市町村名は当時
*2右の欄は、製作者/所蔵者/人形名など
*3羽生市は埼玉県
3 .各地の風物の過去と現在
この1993年時点でまとめられた「風物一覧」には、「祭り」4例、「人形」14点、「笛・こ
けし」3点「絵馬」6点、「凧」3点があげられている。辛基秀氏の功績は、日本各地に今も
残る風物(祭礼や民芸品)の中に、江戸時代の朝鮮通信使との関連性を読み取ったことであ
る。その後、江戸時代の日本における朝鮮認識状況を知る上での貴重な証しとなった。
この「風物一覧」は「今に残る」ものを網羅したものであるが、一方、辛基秀氏自身、氏
の『朝鮮通信使往来』の116-124頁の「各地の祭りに伝わる朝鮮通信使」の中で、その朝鮮
通信使を真似た江戸時代の祭礼時の仮装行列だけでも、江戸の神田明神神田祭り・日枝神社
山王祭り・根津権現の祭りをはじめとして、過去に存在しながら過去のある時点で消滅して
しまった朝鮮通信使関連の風物が紹介されている。
それゆえ朝鮮通信使関連の風物の全体像は、過去に存在したが今は存在しないものと、今
も残るものと、さらに朝鮮通信使との交流を活かして新たに創出したものとを総合的に捉え
ることが必要であることは言うまでもない。辛基秀氏が1993年に発表した「風物一覧」を
基に、ほかの文献による追加と辛基秀氏確認後に新たに始まったものも含めて分類してみる
と以下のようになる(4)。
各地の祭礼における朝鮮通信使を題材にした奉納舞いや仮装行列(付祭、練物)の消長
(1)江戸時代に存在したが今はないもの
神田明神の神田祭り(東京都)、日枝神社の山王祭り(東京都)、根津権現の祭り(東
京都)、川越の氷川神社の祭り(埼玉県川越市、なお2004年以降新たな構想で始まっ
ている。
(3)を参照のこと)、土浦祇園祭(茨城県土浦市)、国府祭り(神奈川県二宮
町)、名古屋東照宮祭り(愛知県名古屋市)、大垣の八幡神社の祭り(岐阜県大垣市)
、
紀州東照宮の祭り(和歌山県和歌山市)
糟谷 政和
4
(2)江戸時代に存在し今もあるもの(中断含む)
牛窓の疫神社の唐子踊り(岡山県瀬戸内市)、分部町の唐人行列(三重県津市)、牛頭
天王社祭りの唐人踊り(三重県鈴鹿市)
、安岡の住吉神社の祭り(山口県下関市)、計
石の唐人踊り(熊本県芦北町)
(3)江戸時代に存在しその後なくなったが、新たな構想で始まったもの
川越の川越祭り「唐人揃い」
(埼玉県川越市、2004年以降)
(4)通信使との交流を活かして新たに始まったもの
牛窓の朝鮮通信行列(岡山県瀬戸内市)
、対馬のアリラン祭り(長崎県厳原市、1980
年以降)
4 .朝鮮通信使と唐人・唐子
改めて考えてみると、辛基秀氏は1993年段階において、日本各地に現存する祭礼や民芸
品の中に朝鮮通信使との関連性を読み取ったのであり、そのことは極めて重要なことであっ
たが、江戸時代の朝鮮認識・朝鮮理解は現在と同じであったのだろかという問題がある(5)。
それは後に見るように、江戸時代の時間的な経過の中で、「唐人」と言葉で表現される人々
の中に、南蛮人/西洋人や中国・中国人や朝鮮・朝鮮人を含むことになり、いわゆる外国人
の理解の仕方が曖昧なこと、さらに祭礼の「付祭」「練物」という今で言う仮装行列の中に、
「朝鮮人来朝」「三韓攻の山車 神功皇后」
「三国志」「玄宗皇帝」等が出し物として混在して
いること(6)は、 朝鮮通信使への憧れ だけでは説明できない、当時の異国観の中身という
問題がある。さらに現在の私たちは朝鮮通信使を善隣友好の使節として評価し、日韓(朝)
交流史研究や歴史教育において積極的に評価し、江戸時代の祭礼における通信使仮装行列の
存在を当時の友好的な日韓(朝)関係の証しであると手放しで受け入れることは難しいよう
に思う。同様に、各地の民芸品についても、
「唐人」「唐子」と「朝鮮通信使」とを直ちに無
条件に結びつけることは難しいのではないかと思われる。
さらに辛基秀氏が現代も残る朝鮮通信使関連風物をまとめた各地の祭礼や民芸品について、
果たして江戸時代の各地の祭礼や民芸品が成立当時どのように朝鮮通信使と関連づけられ、
その関連性というものに対する意味づけが変化せずに、現在の関係者たちにも同様に意識さ
れてきているのかを検証する必要があると思われる。その関係者というのは、日本各地の祭
礼の主催者や参加者や見学者、そして民芸品の製作者と購買者とが現在のような朝鮮認識を
抱いていたのかどうかを明らかにすることである。つまり江戸時代から現代に至るまでの日
本社会における朝鮮認識状況の変化を明らかにする必要がある。
そのような課題は徐々に解明されつつあるが、何よりも辛基秀氏が日本各地の祭礼や民芸
品の中に朝鮮通信使と関係の深いものがあることを主張してきたことが、その後、辛基秀氏
江戸時代の朝鮮通信使と日本各地の風物
5
以外にも、各地の祭礼や民芸品の成立背景の要素として朝鮮通信使との関連性を語る研究が
出てきている。
例えば、1996年に完結した『大系 朝鮮通信使』全8巻(明石書店)では、各地の祭礼や民
芸品と朝鮮通信使との関連性が触れられており、また2001年4月と6月に京都と福岡で開催
された、「21世紀記念特別展 こころの交流 朝鮮通信使−江戸時代から21世紀へのメッセー
ジ−」で出版された図録『こころの交流 朝鮮通信使』(京都文化博物館・京都新聞社編集発
行、2001年4月)にも、朝鮮通信使と関連のあるものとして、多数の祭り、人形、笛・こけし、
絵馬 例、凧が挙げられている。
そこで、後に三春人形について考察する関係上、『こころの交流 朝鮮通信使』の中で人形
と朝鮮通信使との関係性を論じた部分にだけ注目すると、その説明は次のようになっている。
○沼隈人形(常石張子人形) 通信使が寄港した福山市鞆の浦の西、沼隈町常石で現在も作られている張子人形。
(中
略)通信使を模した人形が製作されたのは、その昔鞆の浦に立ち寄った通信使と関係があ
るのだろうか。帽子含めた服装・髭・ラッパは通信使を示す特徴である。
○高松土人形
牛乗童子は唐子を表現しているものの、直接的には通信使と関係づけることは難しい。
しかし、唐子と通信使は、「唐子と象」、「象と通信使」という線で結びつく可能性もある。
○伏見人形
京都市伏見で、400年以上も前から継続して製作されてきている郷土玩具。
(中略)全国
に散在する約300以上の土人形に何らかの影響を与えていて、土人形の祖と言える。
(中略)
軍配持はいわゆる唐人人行で、象に乗った唐人はその帽子の形から見て通信使と判断され
る。後者の服には釦が表現されている。象と通信使が結合した民芸品の一例である。
○出雲人形
奈良県櫻井市出雲で製作されている土人形で、ほとんどは伏見人形をまねたものである。
(中略)その中に、唐人人形と言われるものがある。帽子・服装・髭などから見て、通信
使を模した人形と判断される。
○小幡人形
滋賀県五個荘町小幡で現在も製作されている郷土人形。
(中略)ラッパを持つ通信使で
あるが、彩色のバランスが良く、顔の表情がいきいきと表現されている。
○中野人形
長野県中野市で、現在も作られている郷土玩具。
(中略)馬に乗った人物は、帽子・衣
装・髭から見て、通信使を模したと考えられる。
○三春人形
福島県郡山市で現在も作られている郷土人形。
(中略)中央は唐人踊、両脇は扇持である。
糟谷 政和
6
扇持は、帽子・服装などからみて明らかに通信使を模した人形と判断される。三春人形の
製作地は通信使の道筋からはずれているが、通信使をモチーフとした人形にその影響の強
さを見ることができよう。
○相良人形
山形県米沢市で現在も作られている郷土玩具。
(中略)帽子・髭・服装・ラッパから通
信使を模したことは明らかであるが、農民の雰囲気も多少感じさせる。
○堤人形
宮城県仙台市堤町で現在も製作されている郷土玩具。
(中略)この人形は、象に唐子の
意匠である。直接的には通信使と結びつかないが、通信使と象という図案に通ずるものが
ある。
○下川原人形
青森県弘前市で現在も作られている郷土人形。
(中略)帽子・服装・楽器などから、通
信使を燃したものであることは明らかである。しかし、通信使の道筋から遠く離れた弘前
で通信使の土人形はいつから、そしてどのような経緯で製作されるようになったのであろ
うか。
ここでは、10種類になる各地の人形のなかの特定の人形と朝鮮通信使との関連性をかなり
断定的に述べていることが分かる。なお、上記10種類の人形の所蔵場所は、中野人形が岡
山県牛窓町(当時。現在瀬戸内市)の「海遊文化館」であり、それ以外の9種類の人形はす
べて広島県下蒲刈町の「御馳走一番館」となっている。
すでに見たように辛基秀氏は1993年段階で、江戸時代の朝鮮通信使往来時の姿をモチー
フとした人形を14点紹介した。そして辛基秀氏も監修者として関わった2001年4月京都文化
博物館開催の21世紀記念特別展図録『こころの交流 朝鮮通信使』段階では、上で見たよ
うに10種類の人形と朝鮮通信使の関連性について明確に論じられた。
しかしこの辛基秀氏の指摘以前、これらの人形はどのような題名がつき、どのような意味
があったのだろうか。おそらく後に見るように、断定はできないが、辛基秀氏は「唐人」「唐
子」という類型で製作・販売されていた人形の姿に、中国の要素だけでなく、朝鮮通信使往
来時の姿の要素を見出したということなのかもしれない。
5 .江戸時代の「唐人」とは何か
このことを考える時、考えなければならないのは、江戸時代の外国認識の問題である。周
知のように、当時の日本で朝鮮人を唐人と呼ぶことについて、1719年の第9回朝鮮通信使の
製述官として来日した申維翰と雨森芳洲との問答がある。申維翰が「貴国人は我を呼ぶに唐
江戸時代の朝鮮通信使と日本各地の風物
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人といい、我が国人の筆帖に題して唐人筆蹟という。また如何なる意図なのか」と質問する
と、雨森芳洲は「国令では、信使を客人と称し、あるいは朝鮮人と称す。しかし日本の大小
の民俗は、古くから貴国文物を中華と同等にいい、ゆえに指すに唐人をもってし、これを慕
うのである。
」と答えている(7)。
さらに内藤敏氏が紹介する、池田定常の唐人に関する見解「唐人と称する事」には次のよ
うにある(8)。
「…笑うへきは鮮人をも琉人をも蘭人をも俗にハすべて唐人と覚たるなり、婦人小児は
さもあるへし、班白にいたれる土人尤らしき顔にて唐人々々とひとつに心得たるハ捧腹
にたへす、されどよくよく思へば是が彼の正朔を受ざるしるしにして概して島人のよう
に心得たるハいとめてたき事なり、儒者のミならずにして文才あるものハ彼を中華中国
なといふハ正朔を受るやうに聞えて却ていとふへき称なり、世俗概して異国人を唐人と
いふハ尤なりといふ説狩谷棭斎ハすてに余にさきたちていへり。
」
また文政6(1823)年の神田祭絵巻を分析・解説した福原敏男氏は、湯島一丁目旅籠町「附
祭」出し物のうち、題名「唐人衣装かげん行列小のぼり二本」の解説の中で、 上り龍、下
り龍の幟は朝鮮通信使の先頭に付きものである異国を表す徴 、「異国の人々全般を意味して
いた「唐人」は、鎖国以降、主に中国・朝鮮人を指すようになった(9)」としている。
同様に、江戸時代の「唐人」について考えるとき、文楽や歌舞伎との関係も重要である。
有名な「国性爺合戦」の中国人である甘輝の装束と、和藤内が鄭成功になった時の装束がと
もに同一。ただし、鄭成功は隈取りが残っているが(10)。さらに「漢人韓文手管始」の幸才
典蔵が珍花慶の装束を借りて着るので唐冠、唐装束、唐団扇を持っている(11)。
さらに、任東権『朝鮮通信使と文化伝播』
(2005年)では、上記の、 今に残っている朝
鮮通信使の風物 だけでなく、過去に存在して今は存在しないものも含めてより多くの関連
対象へ考察が広がった。その結果、「祭り」 例、「人形」 例、
「笛・こけし」 例「絵馬」 例、
「凧」 例が朝鮮通信使と関連性があるものとして挙げられている。
とくに「虎踊り」の中にある「唐人踊り」まで取り上げた点が特徴的である。しかし、任
東権氏が「虎踊り」に登場する 唐人 を朝鮮通信使と関連づけている点については疑問が
ない訳ではない。例えば、神奈川県三浦市浦賀の叶神社(現在は為朝神社で実施)(12)の「虎
踊り」の一場面で虎と和藤内と 唐人 が同時に出てくることから、この「虎踊り」は江戸
時代中期に人気を博した近松門左衛門作で人気を博した文楽・歌舞伎の「国性爺合戦」が基
になっていることは明らかであり、 唐人 も、中国へ渡った和藤内一行が出会う唐人が基
になっていると考えられる。
糟谷 政和
8
6 .三春人形と朝鮮通信使
現在の福島県郡山市三春町の三春人形について 『三春市史』には次のように書かれてい
る(13)。
張子人形類は、およそ、
(一)歌舞伎やこれを源流とする錦絵類に題材をとって作ら
れているもの、
(二)天神やえびす・大黒など民間信仰に結びついているもの、(三)だ
るま、(四)兎・虎・牛など動物を玩具化したもの、の四群となる。だるまは、(二)の
部門に含めてよいのであるが、三春の場合は、だるまに限ってみても、さまざまな形態
がみられ、また、一時期においては、張子製作の中心でもあったから、一応別個に扱う
に値するであろう。
伏見人形や堤人形などを別にすれば、だるまとか天神だけを産する地方が多く、この
ように多種多様な張子類を一地方で産するという例は、三春以外では、ほとんどみられ
ないといってよい。
しかも、それぞれの部門で、いずれも第一級の美しさと風格をもっていて、郷土玩具
界のトップクラスを占めている。三春は、まさに玩具王国といってよく、郷土玩具の世
界における名門なのである。
この三春人形を紹介した小沢太郎『三春人形』
(東峰出版、1964年)の中で、特に後の議
論との関係で、特に朝鮮通信使との関係が推測できそうな人形として、「唐人姿」と名づけ
られた3つの人形が紹介されている。
さらに1984年に三春町歴史民俗資料館が開催した企画展「みちのくの古人形−三春人形
とその周辺」の冊子である『みちのくの古人形−三春人形とその周辺』
(俵有作編、三春町
歴史民俗資料館発行、1984年)によれば、同企画展では三春人形78点、根子町土人形14点、
堤土人形14点が出品されたことがわかる。ここでは、特にこの三春人形78点の中にある、
「2 .
唐人姿(橋元四郎平所蔵) 」「3 .唐人姿(静岡市立芹沢銈介美術館所蔵)」「4 .唐子(高久
田マサ所蔵)」「56 .唐人姿(本出健夫所蔵)
」「57 .踊る唐人(芹沢銈介所蔵)」
「77 .象乗
り唐子(高久田マサ所蔵)」に注目したい。これらに共通する「唐人」について特別な指摘
は見当たらない。
しかし2001年に三春町歴史民俗資料館が開催した企画展「三春人形と木型」の冊子であ
る『三春人形と木型』(三春町歴史民俗資料館、2001年)には、これまでとは異なり、三春
人形と朝鮮通信使との関連性が主張されている。『三春人形と木型』では、特にこれまで三
春人形の「唐人姿」が「国性爺合戦」の登場人物である中国の「甘輝」とされてきたことを
紹介する。しかしここに至って、三春人形の「唐人姿」を「甘輝」とすることは断念すると
し、次のように主張した(14)。
(なお引用文中の「韓人韓文手管 始 」は「漢人・・・」が正しい。)
江戸時代の朝鮮通信使と日本各地の風物
9
朝鮮通信使の都訓導・崔天淙が宝暦14(1764)年に殺された事件を題材にした歌舞
伎・並木五瓶作「韓人韓文手管 始 」の登場人物である。1968年12月国立劇場で上演さ
れた際の姿が写真に残されており、よく似ている(6)。そこで、現段階では「唐人姿」と
しておいても差し支えなかろう。
この引用文中に付された注(6)には、 辛基秀『朝鮮通信使往来』(労働経済社、1993年
1月)の70頁’ とあり、辛基秀氏の所説に依拠して三春人形の「唐人姿」を江戸時代の朝鮮
通信使との関連性の中で説明することを提唱していることがわかる。そこで辛基秀氏が三春
人形と朝鮮通信使との関連性をどのように述べているのか見ることとする。
7 .三春人形と朝鮮通信使
辛基秀氏は『朝鮮通信使往来』の中で、「福島・三春張り子の唐子人形」のタイトルで次
のように述べている(15)。
福島県三春に古くから庶民のための人形がつくられてきた。三春は、梅も桃の桜も一
時に咲き誇る春がくるところから三春と呼ばれるという。
江戸時代の半ばころ、農業生産力が発展して一日二度の食事が三度になるころから、
農民たちは土俗的な人形をつくり始めた。金銀綾錦の上方の人形はとうてい無理だった
ので、土や紙をつかっての土人形や張子人形をつくった。
京都の人形の情報は、北廻り船の海路や、陸路の伝播で伝わってくる。宮城県仙台の
堤、山形県米沢の相良、岩手県の花巻、福島県三春はすぐれた人形を産んだが、ひとき
わ目立つのが朝鮮通信使人形である。土人形を改良してうまれた三春の紙人形・張子人
形は不思議な美しさがたがよっている。なかでも朝鮮通信使の正使と小童の人形は気品
があふれ、庶民の美意識の結晶と言える。京都や江戸から遠く離れたみちのくの民衆が、
屏風や浮世絵で垣間見た朝鮮通信使のイメージを紙張子で表現している。
通信使の高官と思われる張子人形は、右手と左手を水平にひろげ、左手に軍扇を持ち、
肩に壺をのせている。頭の紗帽は文武百官が官服とともに併用するもので、特徴をよく
とらえている。紗帽は在日同胞の伝統的な結婚式で新郎がかぶるもので、見た人も多い
ことと思う。三春人形の服も、朝賀の時に着用する赤の官服で、胸には官職を示す「胸
背があり、デザインは細部がわからなかったとみえ、鶴ではなく幾何学模様が描かれて
いる。紙を使った張子人形は、凸型の木型の上に和紙を何枚も貼り合わせて張り抜いて
形を得るので複雑な形が可能であり、優雅な朝鮮の衣裳、装身用の表現がダイナミック
糟谷 政和
10
で美しい。
岡山県牛窓の唐子踊りは、朝鮮通信使の「小童対舞」の置き土産としてよく知られて
いるが、三春の唐子は、それにとてもよく似た美しい人形である。
唐子が手にしている帽子は、牛窓のものより単純化されているが、反り返った縁、頂
点の麻糸の代わりに黒く彩色された房の帽子を手にした童子の表情がよい。上着も袖な
し羽織風のもので、「朝鮮服」そのものであり、緑色の縁どり、襟、ふっくらとしたズ
ボン等、よく似ている。朝鮮通信使の気品に満ちた小童の衣裳、帽子の唐子が、福島県
三春に生きていることの意義は大きい。
現在、三春のデコ屋敷、恵比寿屋十七代目橋本広司氏により「踊る唐子」
「象乗り唐子」
が復元されている。
以上見てきたように、同じ三春人形に対して、その評価が変化してきていることは分かる
が、しかしその評価の妥当性について確実な証拠が見出せず、評価を確定することができな
いのが現状といえよう。
8 .おわりに
本稿では、江戸時代の朝鮮通信使と日本各地の祭礼や民芸品等との関係の一端について
て考える際の論点の一端を提示した。今後、さらに検討を続けてゆきたい。
注
(1) 上野俊彦『辛基秀と朝鮮通信使の時代』明石書店、2005年。
(2) 辛基秀『朝鮮通信使往来』明石書店、1993年。
(3) 本書『朝鮮通信使往来』は2002年に明石書店から出版され、その133頁にはこの「風物一覧」があ
るが、1993年版と較べても修正加筆されていない。
(4) 作業にあたり、任東権『朝鮮通信使と文化伝播』(第一書房、2004年)を参照した。
(5) 朝鮮通信使と祭礼について考えるとき、ロナルド・トビ「近世日本の庶民文化に現れた朝鮮通信
使像」『韓』110号(韓国研究院・1988年)が示唆深い。
(6) 黒田日出男『王の身体王の肖像』平凡社、1993年、141-142頁、龍ヶ崎本神田明神祭祭礼絵巻[な
お黒田氏によれば、この絵巻は寛政改革以前の田沼時代を中心とした時の神田祭りを描いている
と思われるという。同書135-136頁]。
(7) 引用文は、申維翰著、姜在彦訳注『海游録』平凡社、1974年、317-318頁。)
(8) 池田定常「思い出草」続編巻4、『大名叙述集』270頁。なお、引用は内藤敏『「唐人殺し」の世界』
臨川書店、1999年、147頁。
(9) 福原敏夫男『江戸最盛期の神田祭絵巻』渡辺出版、2012年、61頁。
江戸時代の朝鮮通信使と日本各地の風物
11
(10)『国性爺合戦』(第270回歌舞伎公演 平成22年11月、国立劇場)
、「国性爺合戦」
『名作歌舞伎全集』
第1巻 近松門左衛門集一(東京創元社、1969年)、『国性爺合戦』(第190回文楽公演 平成27年2月、
国立劇場)を参照した。
(11)『漢人韓文手管始』(第20回歌舞伎公演 昭和43年12月、国立劇場)、「漢人韓文手管始」『名作歌舞
伎全集』第8巻 並木五瓶集(東京創元社、1970年)を参照した。
(12) 感見彦治著・菊池武改訂編著『叶神社史』叶神社創建八百年祭実行委員会[神奈川県横須賀市叶神
社内]発行、1981年。なお本書は神奈川県横須賀市立中央図書館所蔵。
(13)『三春市史』第6巻: 民俗、福島県三春市、1980年、615頁。
(14)『三春人形と木型』(三春町歴史民俗資料館、2001年、49-50頁。
(15)辛基秀『朝鮮通信使往来』労働経済社、1993年、126-127頁。