資料1 台湾概史 - livedoor Blog

資料1
台 湾 概 史
台湾(フォルモサ・美麗島)の概略の歴史は以下の通りである。
近世以前
18世紀頃までの台湾は、中国本土の支配を受けた他、オランダやスペインの植民地であっ
た。以前より、中国大陸から漢人が入植していが、清の時代になると、政府の政策もあり中国
本土からの移住が一段と進んだ。もともと台湾に居住していた先住民族(台湾では原住民と呼
ぶ)は10民族余りだが、いずれも少数民族であるため、人口の大半は漢人が占めるようになっ
た。
台湾に渡った漢人の出身地は福建省が多く、福建地方の言葉が、現在は台湾語と呼ばれ、
広く使われている。また、北方からの漂流民である客家人も台湾に移住してきましたが、客家語
を話す。清の時代には、台湾にもその支配が及んだが、大陸政権は中華思想の政権であり、
中央との距離は遠いほど文明度が低くなるという思想により、台湾は小さな僻地の島に過ぎ
ず、十分な統治を行わなかった。そのため、近世以前の台湾は、混沌とした状態が長く続いた。
日本統治時代
19世紀末、日本は日清戦争に勝利し、台湾の統治権を得た。これ以後約50年間、台湾は日
本の植民地となった。日本の統治に対して、当初は台湾住民の抵抗が強く、約5年間続いた紛
争では、1万人以上の台湾人が戦死したり虐殺されるなどした。
台湾に対する日本の植民地政策は、植民地経営での欧米との対抗意識や、南進政策もあ
り、道路、鉄道、港湾、上下水道、電気、通信などのインフラの整備や、教育の普及、治安の維
持に注力するもので、そのレベルは当時の日本本土を上回るものだった。こうした政策により台
湾の公共インフラや教育水準はこの時期に飛躍的に向上し、経済的にも発展した。 ※第2項
で「台湾開発に貢献した日本人たち」を述べる。
日本統治時代は、台湾人の日本同化政策により、台湾での学校教育は日本語で行われたた
め、この時代に学校教育を受けた世代は、日本語を話すことができる。
中華民国時代の始まり
中国大陸では1911年に、現在の台湾のルーツとなる中華民国が成立した。現在の台湾は、こ
の1911年を元年とする中華民国暦が用いられる。
太平洋戦争で敗戦した日本は、台湾の領有権を放棄し、戦勝国である中国(中華民国)がそ
の領有権を得て、中華民国の台湾統治が始まった。当時の中華民国は蒋介石が率いる国民党
の政権だったが、毛沢東率いる共産党との内戦に疲弊しており、台湾に進駐してきた国民党軍
も統治意識が低く、略奪や粗暴行為が頻発した。台湾人は当初、統治が日本から中国に移っ
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たことを喜んだが、進駐してきた国民党軍のこのような振る舞いを見て「犬が去って、豚が来た」
などと揶揄した。日本の旧植民地でありながら、現在、日本に対する国民感情が比較的良いの
は、ここに起因すると言われる。 国民党進駐前から台湾にいた漢人を「本省人」といい、これ以
後大陸から渡来した漢人を「外省人」という。共産党との内戦に敗退した国民党は、蒋介石ら多
くの政治家、官僚、軍隊が台湾に逃れ、台北を臨時首都とし、中華民国の政権を形成した。総
統である蒋介石は、台湾の日本色を排除する政策をとった。学校では大陸の言葉である北京
語による教育になり、日本語は禁止され、また、学校教育は徹底した反日教材となった。また政
治的には、徐々に独裁色が強まり、強圧的な政権へとなった。こうした政策への反発を抑える
ため、国民党政権は知識層を中心とした弾圧事件を相次いで起こし、次第に恐怖独裁的な政
権となって行き、戒厳令が布告されるといった事態になった。 このような独裁色の濃い政権
だったが、一方で、戦勝国として国連安保理の常任理事国であった中華民国は、工業の発展
や国際化により経済が飛躍的に発展し、国民の生活水準は次第に向上した。
1970年代になると、中国大陸では中国共産党の支配による治安維持が進み、国としての体裁
が整ってきたこともあり、国連では、中華人民共和国に対して中国を代表する国家として承認す
ることになった。このとき、中華人民共和国、中華民国の双方とも、大陸と台湾は一つの中国と
いう国家であると主張したため、中華民国は中国の中の台湾という地域を占拠している集団と
いうことになった。中華民国は、このとき国連を脱退し、代わって、中華人民共和国がその地位
に就いた。それ以来、台湾は、国際的には中国の一地方として位置付けられることになり、台湾
問題は中国の内政問題という位置付けになった。日本でも田中首相の時代に、中華人民共和
国と国交を樹立し、同時に中華民国と断交した。中華民国の国連脱退後、多くの国は中華民国
と断交したが、政治的、経済的に台湾とのパイプの維持を図った。日台間でも、民間の機関とい
う名目で、大使館の役割を担う組織が相互に置かれ、経済的、人的な交流が続いている
現代
政権が蒋介石の息子である蒋経国総統の頃になると、情報化社会や国民の所得水準の向上
により、政府が国民の批判を押さえつけることは困難になった。そして1987年に38年間という世
界史上例の無い長きに亘り続いた戒厳令が解除され、台湾の自由化が始まった。1988年1月
蒋経国の急死により副総統であった李登輝が自動的に総統に就任した。李登輝時代に自由化
は一段と進み、議会が解散され、中華民国初の普通選挙も行われた。 一方経済的には、一時
は外貨準備高が世界一になるなど、潤沢な資金を背景に、ハイテク産業を中心にした莫大な投
資を行い、台湾で経済奇跡と呼ばれる経済発展を成し遂げた。
1996年3月初めて総統直接選挙が行われ、李登輝が第9代総統に選出された。2000年3月の
総統選では野党民進党の陳水扁が総統となったが、民進党は国民党などの野党連合に過半
数を押さえられ国会運営に支障を来し、政治は停滞状況に陥った。2008年には再び馬英九率
いる国民党に政権が戻った。近年台湾企業が中国進出を積極的に進め、資金が持続的に海外
に移行した結果、国内投資率が殆ど上がらず、雇用機会の海外移出が続いた。馬政権が過度
の中国経済への依存を進めたことで、格差拡大がより深刻化した。更に中国とのサービス貿易
協定を強引に進めるため、猛烈な反対運動が起きた。東アジアを震撼させた抗議運動「太陽花
学連(ヒマワリ学生運動)」も発生した。このような状況下で馬政権は国民の支持が全く無くなっ
た状態になった。 ※2016年1月の総統選・立法委員選挙については第3項及び資料2で述べる
参考
2016年1月末人口 全土23,496,068人
新北市3,971,250人・高雄市2,778,279人・台中市2,746,112人・台北市2,704,974人・桃園市
2,108,786人
2
台南市1,885,550人
以上
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