ハンナ・アレント――『人間の条件』を読む ハンナ・アレントはドイツ系

ハンナ・アレント――『人間の条件』を読む
ハンナ・アレントはドイツ系ユダヤ人の家系に生まれ、ハイデガーに師事して哲学を学んだのち、ナチスの迫害
を逃れるためにフランス、そしてアメリカへと活動の拠点を移した女性政治哲学者である。本書は「人間の条件」
を〈労働〉
〈仕事〉
〈活動〉の三側面から捉えることで明らかにしようと試みると同時に、共産主義および資本主義
の根本的な問題を共に批判している。こうしたアレントの試みは彼女の問題意識、すなわち”全体主義の基盤とな
った大衆社会の思想的系譜とは何か”という問題を解決するための試みでもあるように思われる。なぜなら、本書
では常に古代と近代の対比を通して論が展開されていくからである。かつて労働はいかなるものであったか。仕事
とは、活動とは。こうした探究と対比の作業はまさしく思想的系譜を辿る作業であるといえるだろう。
では大まかに本書の流れを追ってみよう。第一章では、
「活動的生活」と人間の条件について考察を行い、第二章
では公的領域と私的領域について詳細な分析を行っている。第三章はマルクス批判を通して労働の本質的な姿を明
らかにし、第四章では仕事について第三章で扱った労働の観点を踏まえつつ、
〈工作人〉といった概念も加えて考察
している。第五章は活動について広い角度から分析を行っており、今までの労働、仕事についての考察も含めて、
古代とも対比させつつ、人間活動の様々な側面を明らかにしようとしている。最後に、第六章ではこうした人間の
活動と近代を結びつけて、どのように我々の生きる社会の中で労働が台頭し、現代の枠組みが構成されてきたのか
というテーマを背景に持ちながら、その思想的系譜をアレントなりに定義付けしている。
本書での彼女の試みは非常に重要な示唆を含んでいると思われるが、その要因は主に以下の三つに分けられるの
ではないだろうか。第一に、労働、仕事、活動を通して公的領域、私的領域についての詳細な見取り図を提示した
点。第二に、現代に生きる我々は労働することに何の違和感も持たないが、労働=「労働する動物」
、仕事=「工作
人」といった枠組みを用いて労働と仕事を明確に区別することで、資本主義に生きる我々に自らの労働観の再考を
促しているように思われる点。第三に、かつて我々の社会は共産主義と資本主義(民主主義)というイデオロギー
対立の下で新たな世界観、社会観の展望を試みたが、その決着がつく前から両者の根本的な問題点を批判している
点である。こうした観点から再び読み返すことで新たな発見があるのではないだろうか。実際この本は非常に読み
進めるのがしんどい本であり、また淡々と論が展開していくために、アレントが言わんとしていることをついつい
見逃してしまいがちである。しかし、その根底には彼女自身がユダヤ人であるがゆえに経験した様々な疎外、およ
び全体主義の恐ろしさがにじみ出ているのである。おそらく古典との対比が多くなされるのも、近代(現代)に対
する絶望と無関係ではないだろう。
本文では以上の三つの要点のうち、特に第一の点、すなわち公的領域と私的領域に着目して私なりの考察を行い
たい。アレントがここで扱っている公的領域は今後我々が共同体社会、生活世界といった概念を扱っていく際に非
常に参考になると思われるからである。ではその前に、簡単にアレントの立場を確認しておこう。
アレントは〈労働〉
〈仕事〉
〈活動〉の三側面を「活動的生活」という大きな枠組みでとらえ、労働の人間的条件
を生命それ自体、仕事の人間的条件を世界性、活動の人間的条件を多数性と定義した。中でも活動における多数性
は全政治生活における最大の条件であるとして重きをおいている。こうした「活動的生活」は伝統的に見れば「観
照的生活」に由来しており、
「すべての人間の活動力を内含し、観照という絶対的な静との対比において定義 p.29」
されているものであった。
加えて、アレントは不死性について印象深い言葉を紡いでいる。
「不死の偉業に対する能力、不朽の痕跡を残しう
る能力によって、人間はその個体の可死性にもかかわらず、自分のたちの不死を獲得し、自分たち自身が『神』の
性格をもつものであることを証明する p.34」アレントにとってこの不死性の獲得はかなり重要な位置を占めていた
ように思われる。なぜなら、アレントは第一章の最後で「不死への努力を、忘却の中から救い出すことはできなか
った p.34」としているからである。ここには「観照」という永遠なるものの経験に与えられた言葉が人々の不死性
を得ようとする熱望を貶めたために、人々が不死性を忘却し、永遠に対する関心を優先することになったという背
景が存在している。ここから、後ほど紹介する公的領域への思い入れが読み取れるようにも思われるのである。
以上、アレントが本書で「人間の条件」について論じる上での基本的な考え方、立場である。次に、公的領域お
よび私的領域に関するいくつかの要点を確認しておきたい。
アレントの公的領域、私的領域に関する考察は単なる現状の解釈にとどまらない。むしろ、古代ギリシアにおけ
るポリスから社会的領域の勃興、さらには近代の分業が発生するまでの大きな流れの中で捉えており、その一連の
流れは必ず理解しておく必要がある。なぜなら、アレントの解釈はおよそ我々が習ってきた近代勃興の歴史とは大
きく異なっているように思われるからである。
かつての古代ギリシア、プラトンやアリストテレスが生きた時代では、公的領域と私的領域の区別は明確であっ
た。簡単に言えば、公的領域とは”人間存在”が生きる場であり、私的領域とは、”ヒト”が生きる場だったのであ
る。このような公的、私的の枠組みは時代が経ても変わらず、政治的領域と家族の領域という形に対応しており、
近代と共に現れた社会的領域に取って変わられるまで続くことになる。近代と共に社会的領域が現れたという解釈
は特別に新しいものであるとは思えないが、こうした社会が勃興し、私的領域において営まれていた生命過程が流
れ込むことで公と私の区別が曖昧になり、画一主義による一様化が進んだ結果、
「近代の共同体はすべて、たちまち
のうちに、生命を維持するのに必要な唯一の活動力である労働を中心とするようになったのである p.71」という解
釈は、近代資本主義の病理に苦しむ我々にとって見過ごすことが出来ないものであるように思われる。
またアレントは公的領域とリアリティの関連についても次のような解釈を行っている。我々が世界や私たち自身
のリアリティを感じることが出来るのは「私たちがみるものを、同じように見、私たちが聞くものを、やはり同じ
ように聞く他人が存在するおかげ p.76」であり、私生活の親密さは主観的な情動と私的感覚を充実させるかわりに、
世界と人々のリアリティにたいする確信を犠牲にする。このアレントの指摘は現代に生きる我々にとっても無関係
とは言い切れないだろう。ここまで公的領域に関するアレントの指摘、解釈をいくつか見てきたが、最後に共通世
界に関する彼女の指摘を引用しておきたい。
共通世界は、私たちがやってくる前からすでに存在し、私たちの短い一生の後にも存続するものである。それ
は、私たちが、現に一緒に住んでいる人びとと共有しているだけでなく、以前にそこにいた人びとや私たちの
後にやってくる人びととも共有しているものである。しかし、このような共通世界は、ただそれが公的に現れ
ている限りでのみ、世代の流れを超えて生き続けることができる。P.82
アレントは「活動的生活」における政治的な意味(すなわち公的領域)について多く考察してきたが、けして人
間の活動基盤をすべて公的領域に移すべきだと考えていたわけではない。大衆社会が問題なのは公的領域も私的領
域も失われてしまったからであり、アレントはむしろ、人間の活動力はそれぞれ適切な場所を占めるものだと考え
ているのである。
今回私が以上の内容を取り上げたのは、私自身が常々問題にしている生のリアリティと深く関わる問題であるよ
うに思われたからである。私の近代形成理解は、人々は近代化の過程で孤立し、加えて資本主義が孕む病理によっ
て(アレントは社会による画一化としたが)
、自らの”かけがえのなさ”を喪失した。そのことで我々はもはや労働
によってしか、すなわち自らが生みだす金銭的価値によってしか自己充実を図ることが出来ず、資本主義は加速し、
我々はますます絶望していく、というものであった。おそらくアレントとおおむね同じような近代形成観――資本
主義の勃興から共産主義とのイデオロギー対立、その過程で共同体は解体され、人々は全体主義に走ったのち、個
人主義へと向かう――を共有しているはずである。しかし、その根底にある本質的な認識は大きく異なっているよ
うに思われるのである。必ず避けて通れない事実は、アレントが生きていた時代は依然としてイデオロギー対立が
解決していない時代であったという点である。つまり、私の近代形成理解は結局後から歴史を俯瞰的に眺めて形成
したものに他ならないが、アレントはまさしく変遷の時代を生き、人々が全体主義に走る病理も、労働力に身を委
ねる姿も、すべて見てきた上で語っているということである。また、戦前の日本人は軍国主義によって一つになる
ことを強制されていたというイメージは恐らく大多数の日本国民が共有出来るものだが、当時の人間がどのように
受け止めていたのかを考える機会はほとんどないように思われる。私は今までこうした大戦前後の出来事を単にイ
メージとしか捉えていなかったが、今回のアレントの試みに触れて、次のような問いにぶつかることになった。す
なわち、
「当時の人々は近代化の病理が結実した出来事を経てもなお、なぜ依然として共産主義、資本主義体制を受
けて入れてきたのか?」というものである。アレントと重ねて考えるならば、ホロコーストは人々が全体主義に走
った最大の悲劇であるように思われるが、こうした悲劇を経てもなお、なぜ人々は同じ構造を受け入れ続けてきた
のだろうか、という問いとなる。当然当時の人々は受け入れていないと反発するだろう。それでも、今日まで続く
近代化の影響とその病理からはとても当時の人間が”拒否”したようには思えないのである。彼らはおそらく断固
として拒否しようと試みながらも、濁流のような時の趨勢に巻き込まれ、問題を多く抱えた構造であると理解しな
がらも”批判的継承”せざるを得なかったのではないだろうか。
私がこのような近代形成観にこだわるのは、我々の生のリアリティを獲得するためにはその根を張るための足場
が必要だからである。今まで私は共産主義と資本主義の弁証法的解決こそがポストモダンを考えていく上で適切な
視点だと考えていた。しかし、アレントの時代からそれら個別の問題点が明らかとなっていた以上、もはや弁証法
的解決を試みても、それぞれの病理を引き継がずに新たな構造を構築することは不可能であるように思われるので
ある。おそらくアレントも新たな構造の構築より、古典、古代の世界への回帰を希望するのではないだろうか。科
学技術が発達し、あらゆるものが簡単に手に入り、簡単に消費される現代は一見幸せな世界にも思える。確かに幸
せな側面もあるだろう。しかし、そんな世界に生きていても我々は断絶を感じ、人間存在としてのリアリティが成
り立たないと感じている。かといって森の生活に戻ることも出来ない。この絶望的なまでの閉塞感の中で今後我々
などのような社会を構想し、構築していくべきなのだろうか。今の段階ではまだ答えを出すことが出来ないが、少
なくとも、新たな社会観、価値観を提示することと、現状の病理を解決し我々一人ひとりの生の実感を回復するこ
とは同じ枠組みで考えられるべきことであろう。
奇しくも私が追い求める人間像はアレントが示した人間像に限りなく近いものであった。私のいう生のリアリテ
ィとはまさしく”人間存在”としての実感に他ならない。したがって、どうしても”ヒト”としての枠組みを見失
い、抽象的な議論に陥りがちである。しかし本書でアレントが示した「人間の条件」は地に足ついた現実的な考察
であり、人間を論じる難しさを改めて教えてくれるようにも思えるのである。
アレントはおそらく不死性を求めて仕事をしたというだろう。不死性への努力とは、一人間存在として共通世界
へ想いを託していくことではないだろうか。過去から連綿と続いてきた人間存在の営みを受け止め、それをまた未
来世代へと繋げていく。この本を読んだ私もまたアレントの想いを受け止め、未来世代へと繋げていく努力をして
いくことで、図らずも不死性を求め、彼女が描いた共通世界へと重なっていくように思えるのである。
2014 4/11