平成27年度 草津市立老上小学校通信 №117 (7月1日号) ~『いのち・人権・生き方』の大切さを学び合う学校 ~ よ う こ 耀湖学校から「おいかみ山」まで く さ つ し り つ しょう ちゅうがっこうこうめいとう せんてい い い ん か い その2 しんせつこう こうめいあん とうしん 先ごろ、草津市立 小 ・中 学 校 校名等選定委員会から市教育長へ新設校の校名案が答申されま かいこう よ て い ち こうしゃ がいかん すがた した。また、開校予定地では校舎の外観が 姿 を見せるようになりました。 く さ が わ く に あ き 6月1日第115号に引き続き、草 川 邦 章先生が書かれた「耀湖学校から『おいかみ山』 れ きし りゃっき まで〈老上小学校の歴史に学ぶ〉」(本通信では「耀湖学校から」と略記させていただきます。) と をもとに、老上小学校の歴史をひも解いてみようと思います。 明治22年(1889年)に野路、矢橋、 がっぺい 橋岡、新浜、南笠の5つの村が合併して新 あ しゅうがくりつ 数が挙がっています。やはり、就 学 率 は高 くありません。 しい村ができたことは前回書かせていただ そのことについて、市史では当時の人々 いたとおりですが、そのことについて、滋 の教育の軽視、特に女子には教育が不必要 のこ しんちょうそんぞうせい じ ゆ う し ょ 賀県が当時残した「新 町 村 造成事由書」と きろく いう記録には、 「新村名 ゆうめい 老上村」とあり、 おおかみがわ こせき 「本部内ニ有名ナル 狼 川アリ、古昔老上 い ゆえ その な と 川ト云フ、故ニ其名ヲ採リ新村名トナサン けいし ふひつよう ろうどうりょく というそのころの考え方や 労 働 力 として ゆうようせい ひんこん しゅしゅ りゆう じゅぎょうりょう ふ た ん の児童の有用性、貧困による 授 業 料 負担 こんなん の の困難など種々の理由があったと述べられ ています。 しる トス」と記されているそうです。校名等選 つづ 続いて「耀湖学校から」は、明治 29 年 しりょう 定委員会の資料のなかからみつけました。 いぜん こ じ ん てき 以前から個人的に気になっていたのです かんけい が、老上と狼川とはやはり関係があったよ よ うです。また、この地を老上と呼ぶように ぎょうせいじょう こんきょ なった 行 政 上 の根拠を知ることもできま した。 ただし、そもそも何故に狼(川)なのか、 も じ あ その名に老上の文字を充てたのかというこ とについては、わからないままでいます。 く さ つ し し だい かん く おいかみ 改 めて、草津市史 第 3巻 を繰 ると老上 じんじょうしょうがっこう 尋 常 小 学 校 は明治24年(1891年) しゅうぎょう ねんげん ぎ む きょういく 4 月 1 日 に 修 業 年限 4 年 の 義務 教 育 がっこう たんじょう 学校として 誕 生 したとのことです。 ねんだい ふ び わ こ だいこうずい 琵琶湖大洪水(明治29年9月) やく わた こうう 約 1か月に亘 る降雨 のため、琵琶湖の すいい ひごと じょうしょう メートル 水位が日毎に 上 昇 し、ついにプラス3 米 じどうすう のですが、そのころであろう児童数として、 じょじ きょういんすう ひじょう じ た い 7 0 セ ン チ に 達 す る と い う 非常 事態 が はっせい や ね のきした みずびた 発生 。当時の話では屋根 の軒下 まで水浸 し こんきゅう きわ ひなん よ ぎ となり、生活は 困 窮 を極め、避難を余儀な ちゅうりゃく くされた。… 中 略 …避難生活は約1か月 およ に及んだという。当時の老上小学校では、 こうてい じょうたい うんどうじょう 校庭 がぬかるみの 状 態 となり、 運 動 場 の しよう みなみかさりゅういき なが 使用が困難となって、南 笠 流 域 を流れる狼 かせんじき じっし 川の河川敷 にて運動会が実施 されたと記録 ふめい 市史では、はっきりとした年代が不明な だんじ だいこうずい のことに触れています。 たっ な ぜ あらた おそ (1896年)9 月に老上を襲った大洪水 男児141人、女児58人、教 員 数6人の には残っている。 ばっすい 「耀湖学校から」から抜粋 し し み ぞ う だいさいがい 市史にも残る未曾有の大災害で、その年、 ふ 7~8月に多くの雨が降ったところに9月 やまだむら かさぬい 7日の台風による豪雨のため、山田村、笠縫 ときわ めん えんがん 村、常盤村など琵琶湖に面する村々の沿岸 いったい つ つつみ けっかい すいぼつ て村の大半が水没し、小学校は9月18日 さいきん とこないかもしれません。けれど、最近の し ぜ ん さいがい たん 全国、世界各地の自然災害などを思うと単 むかし に 昔 の話で、もうありえないなどというも のでもありません。 しょうわ あつか たいしょうき てからの出来事が 扱 われています。大正期 きじゅつ の記述がありません。 じだい 市史でもその時代の老上や子ども、学校 の記録をみつけることはできませんでした。 じんこう せたいすう そこで、草津市域の人口や世帯数を手がか ようす たのがわかるのは平成7年調査ですから、 たことになります。 はつ 市史によると、わが国初の国勢調査が行 し づ の草津町、志津村、老上村、山田村、笠縫 村、常盤村を合わせた人口は 21,029 人、 全世帯数は 4,342 世帯です。 がっく そんいき 老上村(現在の老上学区よりも広い村域 になります。)でいうと、人口 3,444 人、 この後、 「耀湖学校から」では昭和に入っ くさつしいき とっぱ われたのが大正9年(1920年)で、旧 今の時代に生きる私たちには今一つピン で き ご と まんにん 国勢調査で市の人口が10万人を突破し きゅう まで休みになりました。 せかいかくち こくせいちょうさ それから20年ほどでおよそ3万人が増え 老上でも狼川の 堤 が何か所かで決壊 し ぜんこく す。 ふ 一帯が水に浸かったのです。 たいはん 129,216 人、54,483 世帯となっていま うかが りに当時の様子 を 窺 っておこうと思いま す。 684 世帯でした。 いがい たしょ じんこうりゅうにゅう 草津町以外は他所からの人口 流 入 が少 なかったとのことで、老上でも村に生まれ、 その地で生を終える人がほとんどであった のでしょう。 にぎ そうぞう 当時の老上の人々に今の賑わいを想像す ることなどとてもとてもできるはずなかっ たと思います。 (清 水 康 行) 草津市によると、平成27年(2015 年)5月31日現在の市の人口は ごじつ この続きは、また後日にさせていただきます。 いよいよ新設校の外観が姿を見せてきました。 もくしつか いしき とお 新設校は木質化が意識されており、遠くからでもそ かいま のような感じが垣間見えます。 草津市立小・中学校校名等選定委員会からは新設校 く さ つ し り つ おいかみにししょうがっこう の校名案として『草津市立老上西 小 学 校 』が答申され こんしゅう せいしきけってい ました。 今 秋 に正式決定されるのだそうです。 ほんこうピーティーエーじゅんび い い ん か い せいりょくてき かつどう (建築中の校舎 H27.6.18 撮影) 本校 P T A 準備委員会も精 力 的 な活動をされています。 じ ど う か い かつどう 学校では、子どもたちに見える動きとして、7月15日に学校分離に向けた児童会活動を よてい ぼたいこう 予定しています。母体校に残る者にとっても、新設校に通うことになる者にとっても、そし そつぎょうせい て、現在の老上小学校での最後の卒 業 生 となる6年生にとってもよい分離にしたいとの願い きかい こうくうしゃしん さつえい けいかく ずあん によるものです。また、この機会に航空写真による全校児童の撮影を計画しており、その図案 も児童会が考えようとしています。
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