古写本類 - DTI

八幡宮縁起絵巻
一巻 一八、〇〇〇、〇〇〇円
八幡大菩薩御縁起 室町時代初中期頃写 絵四図
紙高…三〇・五
本巻は外題も内題も持たないが、本文から『八幡大菩薩御縁起』
と判断され、書出しが「其後件乃所より一里去て皇后御身煩給…」
で、「…阿弥陀如来即我身これなり」で終わことから判断すると、
二巻本の後半一巻である。
『室町時代物語大成』(角川書店)第十に載る「八幡大菩御縁起」
の挿絵の説明書きを比較するに、
第八図(本巻第一図)
箱崎松は東西うくる→箱崎松は東西うへる
第十図(本巻第三図)
宇佐八幡者南をうく→宇佐八幡者南をうく
第十一図(本巻第四図)
男山は南をうくる→男山は南をうへる
となっており、少し違っている。本文にも少しく移動が見え、『大
成』でマゝの箇所も本巻では殆ど文字意味共に明瞭である。
挿絵四図は簡潔な図に見えるが、それが却って古い時代の絵巻
物の雰囲気を残して好ましく、また本文の文字からも室町時代中
期かもう少し古い時代にまで遡れそうで、八幡宮縁起絵巻として
は古い時代に位置付けされる一巻と思われる。
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奈良絵本 伏見常盤
幸若舞奈良絵本 一冊 八、八〇〇、〇〇〇円
桃山時代写 本文初少欠か
挿絵十二図(内見開き四図、一図半葉失)
幸若舞舞台図入
表紙改装
大型本(三二・八×二五・三)
鎌倉時代末期から起こった幸若舞は室町時代に流行をみて、能楽な
どと同じように歌って舞う芸能として人気を得た。室町時代末期から
江戸時代初期にかけて書物文化の高揚により、これ等の幸若舞は見る
芸能としてだけではなく読む物語として、数々の奈良絵本や絵入木版
本が制作された。本書は秀吉が天下を治め、世に桃山文化が花開いた
文禄慶長ころの制作と思われ、自由にのびのびと書かれた字と、他に
例をみないほど強い色彩で描かれた独特な絵は活力に満ち溢れてい
る。
また本文最後に幸若舞を演じる舞台と思われる一図が加えられ、一
人の童子が何やら語りながら踊るさまと、それを見る二人の童子が拍
手喝采するさま、また五匹の鳥までが楽しそうに囀るさまを見るに、
この芸能自体の楽しみもさることながら、長い戦乱を経てようやく世
の中が落ち着き始めた時代の人々の心の発揚さえも感じ取れそうであ
る。
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空 花論(ぼろぼろの草子) 別名…柿袋・観音化現物語・明恵上人革袋 素眼筆?(室町時代の書家・連歌師・時宗の僧)
二七・六×二一・二
一冊 八、五〇〇、〇〇〇円
題簽に「空華論 素眼筆」とあり、明恵上人が著したとされるこの物語を素眼が筆写し
たというのであろう。素眼法師の筆跡は「一遍上人縁起」や古筆切に残っているから実在
の人物であったことは確かと思われるが、本書が彼の書写とするには少しく躊躇される。
がこの大振りな字は意外と古いのかも知れない。室町時代物語として貴重である。
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包丁刀故実次第
一冊 二、〇〇〇、〇〇〇円
江戸時代初期写 墨付け三十八丁
一頁十二~三行 振りかな付
横本 一七・七×二四・二
本書は表紙に「包丁刀故実次第」という題が付けられ、奥書
には大永六年に多治見備前守から山脇新右衛門尉元貞へ相伝さ
れた旨が記されて一見料理秘伝書のような形態をとる。多治見
備前守の名は『四條流包丁書』
(長享三年奥書)に見えていて、
俎の寸法から魚貝類の調理法・膳の盛り方等々四條流の料理法
を書いた料理本の魁ともいうべき本であるらしいが余り世に流
布しなかったようである。
本書も題自体を見れば料理の作法書のようだが、本文を一瞥
すれば、包丁刀故実次第なる秘伝書とはまったく異なる書物で
あることが直ちに理解される。本書の記述は常に「漁翁」なる
人物が料理に関するあらゆる質問に答える方法で進み、俎・包
丁・橋の歴史から鯉や鱸等の海川魚や獣類の調理方まで何でも
答えられるから不思議である。話は遂に中国や天竺迄にも広が
りゆくも漁翁は逸話を交えながら具体的に説明し、はては八幡
神や住吉明神・諏訪大明神の乗迹話をも引っ張り出し、神宮皇
后・薬王菩薩なども登場させる始末で何とも奇抜で面白い。こ
うなるともう漁翁なる古翁の昔語りというほかない。しかも漁
翁は料理全般を司る神様のような存在である。その神様が日本
に垂迹して日本料理が生まれ育っていく漁翁の料理譚に他なら
な い。 室 町 時 代 の 御 伽 草 子 に 入 れ ら れ て も よ さ そ う に 思 え る
が、如何なものだろうか…。
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謡曲 高砂・鍾馗
一帖 一、二〇〇、〇〇〇円
江戸時代初期写 箱に松平対馬守筆とあり
全料紙に金銀泥草花地模様入
墨付高砂八丁 鍾馗六丁 升形本 一七・〇×一八・三
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謡 本
二十五冊 一二、〇〇〇、〇〇〇円
桃山時代写 金銀泥地模様入黒色表 二番綴り 七行本
一冊に「主 四郎左衛門花押」の墨書有
「高砂、三王、うのは、錦木、江口、兼平、井筒、貴船、玉かつら、
角田川、三井寺、ばせを、富士太鼓、のゝ宮、二人閑、杜若、女郎花、
楊貴妃、老松、おしほ、当麻、浮舟、呉服、軒端、たゝもり、うねめ、
あま、朝がほ、賀茂、舟弁慶、長郎、関寺、なにわ、羽衣、籠太鼓、
ふちと、吉野静、御裳濯、ゆふ顔、東岸居士、弓八幡、西行桜、遊屋、
恒正、百万、蟻通、田村、通小町、重衡、果月」以上五十番
三井寺・ばせをの奥に「主 四郎左衛門 花押」とある
本の大きさ 二三・四×一六・八 古い箱入(痛み)
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伊 勢 物 語
伝光悦筆 七行 墨付け一百五丁
羅織花模様表紙
宗達作忍草・桐葉摺模様見返し
一冊 七五、〇〇〇、〇〇〇円
箱題簽は後陽成天皇御筆か 本の題簽の筆者不明
二七・〇×一九・三
本書伊勢物語であるが、最初にこの本の表紙に使用された「羅」という薄
い絹織物のことに触れてみたい。羅は古く日本に入って飛鳥時代には生産が
始まり高位の貴族の冠などに使ったようだが、特殊な織で手間がかかるため
次第に紗にとって代わられ応仁の乱以後は生産が途絶えてしまったという。
江戸時代の初めには貴重品になっていたはずで、本書の表紙にその羅が用い
られたことは、然るべき高貴の人へ贈られた証ともなる。
次に表紙の見返しに用いられた美しい装飾である。片方は忍草でもう一つ
は蔦の葉の模様、両者共に手で描かれたものではなくも少し手間をかけて版
で摺られたものである。これ等の装飾模様については近年研究が進み、俵屋
宗達の作と認められている。しかもこれ等と全く同じ模様料紙の上に光悦が
書いたと伝えられる巻物数点が今に残ることからも明らかである。
最後に本書の筆者である。一頁七行にゆったり書かれた本書の字は実に丁
寧で、肉付けされる字されない字の強弱の加減が見事に調和されて言いよう
のない美しさである。これぞまさに光悦の真跡也、と言いたい処だが、よく
考えてみると書物に書かれた光悦の字を我々は見たことがない。つまり光悦
の署名がある冊子本など一冊も存在しないのだから、誰にも判らないのであ
る。仕方がないので、「大虚庵光悦」「徳友斎光悦」の署名を持つ宗達下絵模
様料紙の上に書かれた正真正銘とされる光悦の字と比べてみる。確かに似て
いるし、字も素晴らしい。装飾料紙と素紙、巻子本と冊子本の違いこそあれ、
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非常によく似ている。それからもう一つ、昔から光悦筆とされるものに「嵯
峨本」の謡本や伊勢物語がある。正確にはこれ等は木活字で摺られていて、
その元の字を光悦が書いたことになっている。そこでこれ等二つの嵯峨本
とも比較してみる。似ているのは分るが、肉筆と木活字版の字ではやはり
判断するに無理がある。しかも謡本と伊勢物語の字も微妙に違っているよ
うに見える。活字版の字は肉付がないのでおとなしく、肉筆の迫力に圧倒
されてしまう。それでも毎日繰り返して見る。何度も何度も見ているうち
に、不図この両者の間に何等かの関係があるように思えて来た。
嵯峨本伊勢物語は慶長十三年に嵯峨の分限者角倉素庵によって木活字印
刷で刊行された日本初の文学書である。漢籍類は既に『孝経』や『錦繍段』
が後陽成天皇の勅版で、『孔子家語』『貞観政要』等が家康の伏見版で出さ
れていて、次には日本独自の著作の刊行が待たれていた。しかし当時の書
籍出版は国家事業並の大事業で、莫大な費用がかかる時代であったため、
角倉素庵に白羽の矢が立ったものと思われる。角倉は元々京嵯峨の地を本
貫とする土倉で父了以の時代にその財は最高に達していた。
「嵯峨本出版事業の背景に宮廷が存在する」と早くから指摘したのは『角
倉素庵』の著者林屋辰三郎氏である。氏は素庵の国学漢学両方を修めた学
者としての素養をも同時に説かれたが、この偉大な歴史学者の慧眼を国文
学会は余り重く見なかった感がある。嵯峨本伊勢物語の刊行を発案し願っ
たのはもとより後陽成天皇であった筈で、天皇は漢籍ではない日本の本の
印刷刊行を強く願われた。その資金を武士の家康に頼るのもやゝ憚られる。
そこで当時の京随一のお金持ち角倉家をそのスポンサーに選ばれたのであ
ろう。本書は恐らくその為に「勅命」によって用意された特別の本だった
と推測される。光悦直筆かどうかは別として、豪華に装幀された本書は当
の天皇に献上されるにこそ相応しい状態になった。この本を基本に、嵯峨
本伊勢物語出版の大事業が始まったことであろう。ただこれは一古本屋の
想像である。本書の出現が嵯峨本全体の解明に繋がっていければ、大なる
幸いである。
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嵯峨本伊勢物語初丁
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源氏物語・系図
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五十四帖・一冊 二八、〇〇〇、〇〇〇円
本文五十四帖 ・・・白河殿雅陳王筆
源氏之系図 ・・・
阿野殿公業筆
外題五十四枚 ・・・
後陽成天皇筆
(以上古筆家高弟川勝宗久の證文による)
金泥鳥花木模様表紙及び金泥模様見返し
朱校及び色紙の小片貼付 大々本(三一・三×二二・七)
伝足守藩旧蔵品 漆塗模様箱 保存極美
本書の筆者とされる雅陳王は、白川伯王家の末裔で、文禄六年に生ま
れ 寛 文 三 年 に 没 し て い る。 従 っ て 本 書 の 書 写 は 寛 永 年 か ら 寛 文 年 の 約
四 十 年 の 内 と 思 わ れ る。 外 題 が 後 陽 成 天 皇 筆 と す る の が 少 々 古 過 ぎ る と
思えるが、或いは書籍を制作する業者側で時の天皇や有名公家に予め書
物の外題のみを依頼して書いてもらい、それを取り置いて後の重要な注
文に応じる、というような事があったのかも知れない。
ともあれ、何をおいても本書は美しい。とてつもなく美しい。全冊、
金泥で描かれた花木鳥装飾表紙といい金泥模様の見返しといい、これぞ
贅の限りを尽くした大名本と言うにふさわしい豪華さである。見ている
だけでも感動を覚えそうな美術品とさえ言えよう。
本書は、足守藩木下家の旧蔵品という。足守藩は小藩ながら秀吉夫人
高台院ねねの実家杉原家より出て秀吉から木下の姓を得て木下家定が初
代藩主となった。後、二代藩主となった木下勝俊(長嘯子)は、武将と
して秀吉に仕えたが、秀吉没後は武将として生きるのをやめ源氏物語や
和歌の世界に身を置いて一生を風雅の内に過ごした。本源氏物語の制作
に当たって、この長嘯子が何らかの形で関わっていたと想像するのは、
あながち的を外しているとも思えない。
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栄花物語
二十五冊 四、五〇〇、〇〇〇円
江戸時代天和貞享頃写
鳥の子紙
二四・六×一八・三
黒漆塗箱入
栄 花 物 語 は、 宇 多 天 皇 よ り 堀 川 天 皇 に 至 る 十 五 代
二 百 年 の 宮 廷 社 会 の 歴 史 物 語 で、 全 四 十 巻( 正 編
三十巻と続編十巻)、一般には三巻より登場する藤原
道長を長とする藤原氏の栄華物語である。
本書は江戸時代前期から中期にかけて書写された
保存状態の良い嫁入り本である。
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保元・平治物語
江戸時代前期写 鳥の子紙
金泥草花模様表紙
金泥模様朱題簽
金紙押型丸紋蝶模様見返し
大型本(二九・三×二二・四)
六冊 三、〇〇〇、〇〇〇円
保元の乱・平治の乱を素材とした軍記物語の走りで、後白河天皇を
取り巻く諸貴族や平家一門を中心とする武士団の葛藤を記す。両書と
もに成立は承久二年以降とする説が有力である。
本書は江戸時代前期明暦万治頃の書写で、各ページ十行にゆったり
と本文を記す大型の良本である。
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平 家物語
十二冊 六、五〇〇、〇〇〇円
江戸時代前期写 金泥草花模様表紙
金泥模様朱題簽 金紙押型丸紋蝶模様見返し
大型本(二九・三×二二・二)
琵琶法師によって語られ伝えられた平家物語は、古い写本が少なく
室町時代以前の本は特に貴重であるが、安土桃山時代から江戸時代に
かけて書物文化の高まりにより写本や古活字版などが制作され読まれ
るようになった。
本書は江戸時代前期の明暦万治頃に書写された本で、大型本一ペー
ジにゆったりと十行で書かれた堂々たる本である。前の「保元平治物
語」、後の「曽我物語」と見返し等同じ装幀であることから考えると、
三部共に、同じ書物所で同じ時期に制作された書物と推測される。
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曽我物語
江戸時代前期写 十二巻
金泥草花模様表紙
金泥模様朱題簽
金紙押型丸紋蝶模様見返し
大型本(二九・三×二二・四)
十二冊 四、五〇〇、〇〇〇円
本書は厚手のやゝ茶色がかった料紙に、細身の仮名交り文で書かれ
た十行本で、江戸時代前期の書写にかかる。金泥で草花模様が描かれ
た表紙と金泥模様朱題簽、金紙押型丸紋蝶模様見返しは全て前出の二
つの軍記本と殆ど同じ装幀で、長い間同じ人に蔵せられて近年に至っ
た。今後は別れて離れ離れになるかもしれない運命は、人も物も同じ
ようなもので全て縁あってのことだろう。
曾我物語もまた軍記の部類に入れられるが、本物語が集団より個人
の闘いを主にすることより準軍記物語とされ、『義経記』と同様に扱
われる。本書は真名本が原形態に近いとされるが、この種は非常に少
なく古鈔本も殆どない。本書は仮名本の十二巻本であるが、大振りの
好ましい本といえよう。
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奈 良絵本 ぶんしやう 三冊 二、五〇〇、〇〇〇円
延宝天和頃写 間に合い紙
奈良絵各五枚 二丁極少痛み
横本 一六・二×二三・五
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奈 良絵本 鉢かつき
三冊 三、五〇〇、〇〇〇円
延宝天和頃写 間に合い紙
奈良絵各五枚 一図少痛み
横本 六・〇×二三・四
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装 束抄九種
①源氏男女装束抄
九冊 三、〇〇〇、〇〇〇円
墨付五十丁 天正十四年宗硯本写 元禄頃朱校入
②次将装束抄
墨付十五丁
③西宮記臨時之五 人々装束
墨付三十一丁 元禄頃朱校入
④餝抄目録
墨付九十二丁 元禄頃朱校入
墨付八十三丁 図入 元禄八年朱校入
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⑤装束抄
⑥衣服事
墨付九丁
⑦女官餝抄
墨付十五丁
⑧当家着用装束以下事
墨付八十五丁
⑨物具装束抄
墨付十一丁 西園寺実輔自筆本
元禄十五年壺井良知朱校合
本書九冊はいずれも江戸前期に書写された本で、元禄頃に校合され
朱線点が付され又書入れが入れられた。大体保存の良い上本である。
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① 源氏男女装束抄
② 次将装束抄
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③ 西宮記臨時之五 人々装束
④ 餝抄目録
⑤ 装束抄
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⑥ 衣服事
⑦ 女官餝抄
⑧ 当家着用装束以下事
⑨ 物具装束抄
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漫 吟集
四冊 六、五〇〇、〇〇〇円
契沖著自撰家集 契沖自筆かどうか不明
契沖自筆の朱校、書入れ等多し
二十巻本 年記等なし
二四・〇×一六・九 木箱入
漫 吟 集 は 契 沖 の 自 撰 家 集 で、 一 巻 本・ 十 巻 本・ 二 十 巻 本 の 三 種 類
が あ り、 本 書 は 二 十 巻 本 で『 漫 吟 集 類 題 』 と い う よ う だ が、 本 書 の
題築には「漫吟集巻上本(下本末)」とのみ墨書されている。契沖の
和 歌 の 集 大 成 で あ る が、 歌 数 が 多 す ぎ る の と 行 間 に 沢 山 の 書 入 れ が
入れられて正確には数えきれないのが遺憾である。また奥書もなく、
年 紀 等 の 記 述 も な い の で 書 写 年 も 特 定 で き な い が、 恐 ら く 長 く 契 沖
の手元にあって自分で最終校をなした本と言えそうである。
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古 葉略類聚鈔
五冊 一、五〇〇、〇〇〇円
安永六年浪速江田世恭序 巻八、九、十、十二、不明巻
大々本(三一×二一・二) 少虫あり
江田世恭の序によれば、「もと奈良の春日若宮神主の家に『古葉略柴』という古
本が在ったが、其処に住む井上昌軌という人が尋ねた時には、先祖が建長年に書
写した『古葉略類聚鈔』という本しか残ってなく、しかも十二巻の内の五巻のみ
であった。そこで昌軌が二巻を写し、植村禹言が二巻写し、世恭が一巻写して、
最初に写した五冊を昌軌の家に伝えて元本となす」と。本書が江田世恭の自筆か
どうかは解らないが、朱・青筆の多くの書入れが見られる。
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、
二冊 四五〇、〇〇〇円
古今和歌集抄 江戸時代前期写
二條為氏系本、文明十三年於種玉菴受之宗
其後宗祇聞書きを以て夢庵加筆
寛文元年校合畢長地黒印 二〇・六×一四・一
新撰朗詠集
一冊 八〇〇、〇〇〇円
伝飛鳥井雅章卿筆 江戸時代前期写 上下二巻
薄様楮紙 墨付六十四丁 二一・五×一六
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古今抄
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源 氏物語河海抄
一冊
十二冊
一冊
源 氏新釈惣考
十四冊 三、五〇〇、〇〇〇円
源 語雲穏六帖
① 海河抄
正六位源惟良(四辻善成)著
第十二冊目の奥に本写本の原本の奥書を記す
「勧修寺殿亜相経広之本預拝借令写之遂校合之切耳
寛永十八年前出納華菴」
数冊の奥に「寛文元年・二年書写之
葆真堂佐々木庸敬」と記す
大本二七・二×一九・四
② 源氏新釈惣考
賀茂真淵著 寛政年海量(馬淵の弟子)写
墨付十九丁 大本二五・九×一九・二
③ 源語雲穏六帖
曽我部式部持本尤自筆也、と書いた紙片入
墨付二十六丁 大本二七・四×一九・二
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一冊 一、五〇〇、〇〇〇円
安永七年入江昌喜自筆及び朱校 墨付六十六丁
金銀泥模様表紙 金銀泥箔模様見返し 大本二七・三×一九・二
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長 明四季物語
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長 明海道記
一冊 三〇〇、〇〇〇円
江戸時代中期写
墨付四十四丁
升形本 粘葉装
一六×一五・四
か な法華経
享保五年七月十四日脚?花押
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五
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一七・八×四二五
一巻 四五〇、〇〇〇円
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古 今集師抄
二十冊 二、〇〇〇、〇〇〇円
村田春門稿本 天保二年殿村茂済序 全二十巻 大本 保存良
『古今集師抄』は序文に殿村茂済が記すように、師村田春門が古今餘材抄・古今集内聴や古注釈書
を参考にし、また鈴屋翁の説を参考にして著した門人教導の書である。全二十巻というこの大部の注
釈書が世に広く普及した形跡はないが、それ故に返って本書は珍しく貴重である。誰か春門の門人に
よって書写された本に、茂済が序を付けて伝わってきたようである。
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草 木名所考
一九冊 一、〇〇〇、〇〇〇円
著者筆者不明 江戸時代中後期写 大本
百首歌杜間菫菜 寂蓮法師
夫木鈔春六 いろふかき しのたのもりの つ不菫 ちえのしつくや 袖に染らん
和泉国 信太杜
草木の一つを選び地名を記して歌をあげる。例えば「菫」でみると、
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草 庵和歌集
八冊 二冊 大本二九・五×二一・〇 十冊 一、〇〇〇、〇〇〇円 雲紙表紙
十巻
頓阿家集
栄 曜和歌集
烏丸光栄自選集 春夏秋冬恋雑集六冊 仙洞御着到百首(宝永二年)一冊
句頭百首(享保十二年)一冊 雲紙表紙 大本二九・五×二一・〇
草庵和歌集・栄曜和歌集共に同じ箱入 - -
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雷 琴記・雷琴式
一帖 八五〇、〇〇〇円
平安大雅堂筆 明和五年四月廿四日於和州法隆寺弥勒院記之 墨付け見開き九面
紙面二四・〇×三二・〇
渦と錨の模様入絹織物の表紙に蒹葭堂他諸家の印を十五~
六捺し、中央に「雷琴記幷式 大雅堂筆」と墨書された題簽
を貼る。書出しは
明和五年の春和州法隆寺所蔵の古器を
出して諸人に見せしむる事あり みな上宮太子の
御物なり その中に高麗より奉りし琴ありといふ…
と あ り、「 私 は も と よ り 琴 が 好 き で 数 人 を 誘 っ た が、 当 日 に
なって皆都合が悪くなり自分一人で行く」と言う。この雷琴
記には別に「琴の図譜」があったようだが、今はこの一帖を
残すのみである。
尚本書には広瀬旭荘の箱書があって、「大雅書病滑稽如是端
荘流麗亦希覯可珍」とある。
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體 源抄 二十冊 八五〇、〇〇〇円
豊原統秋著 雅楽・楽器・装束等図入
江戸時代中後期写 一冊虫食痛み
大本二七・四×一九・九 箱入
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雲
上図画録
二冊 五〇〇、〇〇〇円
御即位図式画本 目録は全三十九図 解説入
江戸時代中後期写 半紙本二三・五×一五・七
言
葉の珠衣
六冊 三五〇、〇〇〇円
六巻 小国重平(遠江国一宮小国神社神主鈴木弾正)著
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享和元年自序 天保六年及び十年朱線他校
天保十四年殿村茂済跋 大本
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稿 本
魂胆夢輔譚 初編・四編
教訓
滑稽
六冊 二、五〇〇、〇〇〇円
一筆葊主人戯作 溪斎英泉画 願人板元丁字屋平兵衛 初編天保十五年春三月、四編弘化三年願書
初編三冊、四編三冊
本書は版本『滑稽教訓魂胆夢輔譚』の稿本で、一筆葊主人の戯
作、絵は溪斎英泉によるものだが、実はこの両人は同じ人物なの
で英泉の自画作と言う方が早い。本書の版本は初・二編が弘化二
年に刊行され、三・四・五編が嘉永元年に刊行された全十五冊の大
作であった。元々英泉は才能があった人だから自分の環境に合う
ように何でもこなすことが出来たようだ。絵も上手いし戯作も書
くが一番彼に適していたのはやはり浮世絵だったようである。
本稿本は英泉をこよなく愛した今中宏氏の旧蔵品で、英泉関係
の版画や絵本等々は生前に千葉市美術館に入り、本稿だけは最後
まで手元に置かれていたものを最後にふと私に譲ってくれた。奇
人といわれたこの天才は、私に古書の面白さを教えてくれた大恩
人 で も あ っ た。「 一 期 一 会 」 こ の 世 の 人 の 出 会 い ほ ど 不 思 議 な も
のもないが、それにも増して人と物との出会いはまた何とも不思
議で楽しいことか。
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医 心方校本
二十冊 五、〇〇〇、〇〇〇円
江戸時代中期頃写 全漢文
巻一、二、四、五、六、七、八、十、十四、
十七、廿、廿二、廿三、廿五、小児、薬性、服石、
欬逆之巻、食禁之巻、養性之巻の二十巻
朱墨校合書入れ有 大々本二九・四×二〇・五
我国最古の医学書『医心方』三十巻は平安時代の中期に丹波康頼が中
国の医書を参考に著したもので、その原本は朝廷に献上されたが室町時
代の後期に正親町天皇より典薬頭半井家に下賜され現在は国宝に指定さ
れている。また丹波家にも医心方が残されていたようで、これは末裔の
多紀家に伝わったが江戸時代末期にはその多くが失われていた。江戸時
代の後期になっても江戸幕府は医心方の重要性を認め、多紀元堅に命じ
て半井家本を以て校勘させ木版に摺って刊行させた程である。
本書は江戸時代中期頃に書写された堂々たる大本であるが、半井家・
多紀家のどちらの本の写しであるのか、また本書が二十冊で揃っている
のかいないのか、不明である。しかし処々に朱で「按…」「謹按…」と
入れられた注は相当な医学の知識の持ち主によって書き込まれたものと
みられ、多数の微妙な文字が朱文字できっちりと書き直されていること
や片仮名の訓や朱点等も処々に入っていて非常に重要と思われる。なお
内題の下に「詹溪」と読める小さな朱印が全冊に捺されていて、本書の
書写人か、持主のものと考えられるが直ぐには判明しない。
ともあれ医心方の写本が市場に出ることは極稀で貴重である。
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解
剖図
一巻 七五〇、〇〇〇円
文化十四年六月於浪速
城中仮岡氏之図摹写
紙高二五・五
長さ約八五〇
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夢 の斯呂
欠十一冊 二、五〇〇、〇〇〇円
山片蟠桃著 巻第三「神世」欠 巻一、二、四、五の四冊、巻六、七の二冊、巻八~十二の五冊は
本の大きさが不同
漢字片仮名本 頭注書き込み多数 末中哲夫旧蔵
本書は一冊欠ながらも片仮名で書かれており、また多くの頭注書入れがあること
より初校本に近い善本と思われる。本書は『夢の代』の第一研究者末中哲夫氏の旧
蔵書で、松泉堂百周年記念目録の為に特にお願いしてご出品を頂いた。先生は父堅
一郎とは一つ違いで大正十四年のお生まれ、俗称「蟠桃博士」と言われ、二つ下の
「蒹葭堂博士」こと水田紀久先生と大阪学の双璧でいられる。本を頂きに伺った日
わざわざ玄関口まで見送りに来られ、私の手をギュッと握り締めて「たのむ」と言
われた眼にはちらっと光るものがあった。
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夢 の代
十二冊 三、五〇〇、〇〇〇円
山片蟠桃著 天文、地理、神代、歴代、制度、経済、
経論、雑書、異端、無鬼上、無鬼下、雑論の十二巻
奥書
文政三中秋 播陽
山片芳秀輯
山片芳達
山片義道稿
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近藤秀実
二三・七×一六・八 保存美 帙入 末中哲夫旧蔵
の傑物は、日本の歴史上にも初めての独自の思想を示したのである。
され幕府から睨まれるほどであったが、自由都市大坂の船場が生んだこ
本書の第九巻の「異端」や第十・十一巻の「無鬼」は彼独特の歴史観が示
び 越 え て 異 域 の 世 界 に 踏 み 入 り、 そ の 結 果 本 書 が 著 さ れ た の で あ っ た。
せたのであるが、その並外れた頭脳は何時しか師の竹山や履軒の域を飛
場の商人によって創られた「懐徳堂」に入学させ朱子学や天文学を学ば
程の人物である。学門好きの主人が商人であった彼の才能を見抜き、船
貸しで傾いた升屋を持ち前の才覚で立て直し主人から山片の姓を貰った
は播州生まれで大阪の大米問屋升屋(山片平右衛門)の番頭となり大名
本書は享和二年山片蟠桃によって『宰我の償』として初稿本が成り、
師の中井竹山に校閲を求めた所『夢の代』と直されたという。山片蟠桃
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山 陵志
蒲生君平自筆稿
墨付 三十八枚 薄手の雁皮紙
二三・七×一六・五 帙入
一冊 六、〇〇〇、〇〇〇円
下野国宇都宮で生まれた蒲生君平は、先祖が蒲生氏郷だと祖母に聞かさ
れ発奮し十五歳で鈴木石橋の麗澤社に入り、この塾で『太平記』を読んで
楠正成に傾倒して勤王思想を身につけた。その後水戸の藤田幽谷の教えを
受け二十三歳の時高山彦九郎を慕って陸奥に行ったが、帰りに寄った林子
平との初対面の逸話は人口に膾炙される。文化四年北方警固を唱えた『不
恤緯』という本を書いて幕府に献上するも、却って警戒され閑居の憂き目
を見た。三十歳の頃より古墳の研究を始め日本各地を巡ったが、伊勢松阪
で本居宣長に会った時は大いに激励されたという。三十二歳の時京都に来
て歌人にして勤王家であった小沢蘆庵に会い、気に入られてその離れを借
してもらい著作に没頭した。享和元年三十三歳にして書き上げたのが天皇
陵に関する書物『山陵志』であった。
本自筆本は、訂正や書き込みが全く無いことからみて彼が最後に書いた
清書本であろうと思われ、薄手の雁皮紙に楷書で一字々々丁寧に正確に書
かれた文字はまるで版に彫られた字を見るようにきりっとしていかにも
清々しい。第二丁目の最初に「使前方後圓為壇光成…」とあり、この「前
方後圓」が後に前方後円墳の用語として考古学会に広く使用されるように
なった。天皇陵の歴史や現状を書いた本書は、結果的に江戸時代後期の荒
廃した天皇陵の姿を世に知らしめることとなり、明治以降の国家による墓
陵整備の道へと繋がって行くことになる。常に貧困と共に生きた蒲生君平
だ が 其 の 志 は 常 に 高 潔 で 多 く の 勤 皇 家 に 引 継 が れ て 行 っ た。 文 化 十 年
四十六歳でその人生を終えた。
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旅 日記
九冊 一二、〇〇〇、〇〇〇円
米花楼二幸著 江戸より東海道を上って伊勢・大和・若山を経て
大坂に到る道中絵日記 風景風俗歴史等々彩色絵多数 大本二七・四×一九・四
巻第一 … 東海道第一 日本橋より江尻
巻第二 … 東海道第二 府中より草津
巻第三 … 伊勢道 津より二見ヶ浦
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巻第四 … 大和道第一 初瀬寺より垂仁天皇陵
巻第五 … 大和道第二 唐招提寺より八木宿
巻第六 … 大和道第三 多武峰大職冠跡より吉野川
巻第七 … 紀伊道 吉野・高野山より若山
巻第八 … 浪華路 若山より大坂
巻第九 … 浪華路 大坂市中
メラを見るより面白い。
を描いて、天保山にて終わりとなす。その間約十五年、現代のビデオカ
生玉社等を巡り大坂市中に宿る。御城を見て大坂三橋を渡り大川の両岸
若山より北上して泉州堺よりいよいよ浪速の地に踏み入って住吉大社
に参詣、天下茶屋を通って今宮社・四天王寺・安井天神・清水寺・浮瀬・
え紀ノ川を下って若山城下に入る。
当麻寺等々を訪れる。此処奈良より吉野に向い、大峰・高野・那智を越
寺を経て奈良の古京に入り、春日大宮・東大寺・西大寺・薬師寺・法隆寺・
朝熊嶽より二見ヶ浦を見物しながら大和に向い、初瀬寺・三輪社・元興
天保十三年に江戸を発し、東海道を上って桑名より船にて四日市に行
き庄野亀山草津より勢州に入り下宮内宮に参拝する。そこから楠部峠・
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崎 陽蛮志
嘉永六年七月十七日長崎入港露西亜船風聞記録
一条鎮台府在番従臣吏到来之書簡写、長崎奉行所報告書、
オロシア国代一等摂政官「子ツセルロオデ」書簡和解入
蘭画翁筆ロシア使節八人、国旗他諸旗図入 大本二六・三×一八・八
一冊 八五〇、〇〇〇円
本書は、嘉永六年七月十七日に長崎湾に到来した大小四艘の露西亜船に関する記録で、その日の内に央神崎より
二里計付近に来て碇を卸し大船の帆柱にオロシヤと平仮名で書いた旗を吊るしたことや、十八日には日本の検使や
諸役が船に乗り込んだところ国王よりの書簡を持っていたので奉行所へ渡すよう命じたが渡さなかったので江戸表
へ御注進したこと、十九日には大村侯や筑州侯・肥州侯・嶋原侯の家中が大勢来てお台場は勿論大波止場・持場陣
所は御固めでてんやわんや、諸家警固の船々大小数艘着岸したこと、等々を記す。また蘭画翁(崋徳の朱印)なる
画人のロシア人正使・副使・兵士等の絵は非常に独特でかつ精確である。また「子ツセルロオデ」書簡和解の中に
魯西亜隊船の水師提督として「ヨアレムホウチヤチン」の名が初めて登場する。
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御書物方朱印 江戸前期筆 紺表紙 金ちらし題箋付 大本 箱入
一〇五冊 二、五〇〇、〇〇〇円
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御 書物方 謡曲百五番
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