HIKONE RONSO_064_049

第百三十三国立銀行の緩簿に
ついて︵二︶
経営資料舘
二 いわゆる﹁成冊﹂について
第百三十三国立銀行の帳簿は、現存の約一七〇冊のほとんどのも
のが洋式帳簿である。その帳簿の構成は eいわゆる大蔵省印刷局
活版部製のっ成冊﹂で諮り、⇔第六十四国立銀行より資産分割の際
である。
これら大蔵省より申受けた﹁成立﹂は、発行紙幣記入帳を除く前
記三冊とも一様の体裁のものであり、背表紙の下端に﹁印刷局活版
明治四年八月に大蔵省内に設けられた紙幣寮であり、同十年一月に
部製﹂なる金箔押しの表示がみられる。すなわち、印刷局の濫筋は
は、官制改革によって同寮は紙幣局と改称され、翌十一年十二月に
②
至って紙幣局は更に印刷局と三転したのである。従って前記四冊の
ることが確証ざれる。以下これら帳簿について説明しよう。
帳簿は、明治十二年中に印刷局活版部において製造されたものであ
記 帳 期 間
株敷勘定元帳 明治三三三八−互・五・丑 縦四一・八糎、横言・四糎
軽羅補讐蕪L 轟 ︸縦三遷横二五糎
発行紙幣記入帳 四〇〇頁
譲渡されたもの、及び㊨第百三十三国立銀行独自で作成したもの、
の三種類に分けられるのである。以下eより国まで順次説明を加え
現在はやや赤味がかった紫色をしており、背革及び表紙角革は赤腿
たいと思うが、’これに関連して帳簿材料、記帳用具及び民間製造業
大蔵省銀行局よりいわゆる﹁成冊﹂として、開業前より必要の株式
色であり、背表紙に大きな綴山が四ヵ所ある。用紙は民間製造のも
色を識別することはむずかしい。濃紺であったかとも思われるが、
勘定元帳以下一四冊、開業後必要の割賦金記載帳以下一八冊、営業
のに比較してよく漂白され、また光沢も割台にあって、インキの滲
みがほとんどみられない。借方貸方同頁打ちで三〇一頁からなって
出納帳第一号は丸背・つぎ表紙で、表紙クロースは変色し、元の
拡大に従って必要とするもの=冊、合計四三年分を申受け、また
①
その直接指導を受けているのであるが、第百三十三国立銀行の帳簿
いる。
者にも言及したい。
の場合は、大蔵省製の﹁成冊﹂は今までに判明したところでは、僅
は右の二冊に較べて大型であるが、回数はやや少く、両面見開きで
日記帳第一号は出納帳とほぼ同型式のものである。株敷勘定元帳
無恥で考察したように当時国立銀行では一般にその開業に際して
のうち、出納帳・日記帳・株式勘定元帳及び発行紙幣記入帳がこれ
四九
か四﹁冊にしか過ぎない。すなわち、営業開始前より必要とするもの
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
その他のマーブルを施した豪華な内偵である。
一五一頁のも
のである。口
・ろ・は順で
座は氏名のい
五〇
明治三・六・三〇一瞬・九・三〇 縦四二・四糎、横三〇三糎
明治三・二三八一三・7三 縦三八糎、横二四糎
次に類似の体裁をもち、しかも製造正名のないものを掲げる。
第 一 号
総勘定元帳
熊離隔魏
明治三・甲一−三・三三も 縦三六糎、横三八糎
ールにマーブル紙を貼ったものを用いている。背には帳簿名・銀行
右の三冊はともに茶色裏革にて背表紙・角革を装し、表紙は厚ボ
当座預金元帳
第 一 号
り広くとり、
名がなく、表紙中央に横一〇糎、縦六国の、飾枠を施した嚥脂革が
いる。これら三冊には製造属名の明記がないので、大蔵省製か否か
の﹁成冊﹂に較べて粗悪であり、 ﹁黒インキ﹂が裏側にまで滲んで
いる。以上の
はいますぐには証明する手懸がない。
貼布され、それに金文字にて銘記されている。帳簿用紙は出納帳等
三冊とも各項
か。また国内産のものであったか、輸入品に依存しなければならな
さて、当時の帳簿材料はいかにして供給されていたものであろう
ゆったりした
は活版印刷さ
ので、当時の一般的事情から類推してみたいと思う。ます、帳簿用
かったか、第百三十三国立銀行について直接それを明かにし得ない
シ工場ヲ府下王子村二経営シ将二本月十六日ヲ開業シ各種ノ西洋
明治六年二月紙幣寮ノ允准ヲ受ケ社ヲ結ヒ器械ヲ英国ヨリ購求
紙広告案として次のような記載がある。
根簿用紙 王子製紙社史第一巻には、明治七年十二月六日の新聞
◎
てみたいと思う。
紙及び表紙用板紙について考え、次いで使用インキについて考証し
る。背表紙の
箔押しの紋様が入れてあり、見返し、用紙の三方とも四色刷の孔雀
④
その上と下に草花と星型を散らした模様が描かれ、高い綴山にも金
の左横書きで
行名は金文字
帳簿名及び銀
れたものであ
目欄、罫線等
ものになって
一一粍もある
納帳の九粍よ
る。行間は出
設けられてい
出納帳第1号。背表紙下端に「印刷局活版謹製」の認載がある。
紙ヲ製造シテ広ク発売セントス 凡ソ印行用紙帳簿用書籍用紙類
ヨリ諸雑用紙二至ルマテ精巧ニシテ且廉価ヲ専一トシ傍ラ印刷ノ
ツテ只管改良ヲ待ツノ状アリ。﹂ と慨歎せざるをえなかったのであ
る。かかる状態であったから、同年発行の東京経済雑誌でも次のよ
東京第九大区六小南王子村
子︷辛ヒニ愛顧ヲ椚賜ン事ヲ
に過ぎず。抑我邦に製紙所の設ある僅々数年周に過ぎず。然り而
紙類の総原価は僅か其日分一︵三万二千八百四十四円四十二銭︶
原価は拾万零五千余円に至れり、而して此上半ケ年間に輸入せし
此上半ケ年︵明治十二年一月−六月︶間に製造したる紙類の総
うに述べるを余儀なくされたのであろう。
⑦
抄 紙 会 社
して今斯の如き景況を見る所以のものは実に該業進歩の速かなる
業ヲモ営ミロハ管便利ヲ謀り工業ノ撲伸ヲ期ス 庶幾クハ四方之君
東京海運橋兜町
分 社
度奉叢誌
を。
今一層奮発勉励して克く外国品に勝れる紙類を製出せられんこと
もみたように﹁之に墨汁を以て文字を書するに汚染するの歎なきを
やはり当時の国産洋紙は、前述の第百三十三国立銀行の諸帳簿で
た。
年四月に洋風抄紙機たる第﹁号機の運転を開始したばかりであっ
った明治政府側においても同様の状態であり、印刷局では漸く十二
脱かれ﹂なかったようである。もちろん民間尊老に較べ先進的であ
﹁紙面ヲ緻密.平滑に為す事、紙質に水産は墨汁の滲透するを防ぎ止
﹁外国ノ製紙ヲ見ルニ晶質滑沢緻密ニシテ且光輝アリ﹂と云わしめ
更に﹁之ヲ水晶投ズルモ、乾燥ノ後日本洋紙ノ如ク、甚シク其様ヲ
要するに第百三十三国立銀行の営業開始当時は、簿記用の日本洋
変ズル事ナク、之ヲ火二燃スニ其残儘亦大二日本洋紙二異ナル所ア
リ⋮⋮新聞社印刷所ヲ論ゼス、総テ紙ヲ以テ生計ヲ営ム者ハ其紙ヲ
状況であったと考えられる。東京経済雑誌所構の内国製紙及輸入紙
五一
紙はいまだ完全なるものといえず、ほとんど輸入洋紙に依存するの
豊
りニ日本紙ヲ用ヒント渇望スルモ前述ノ害アルヨリシテ深ク望ヲ失
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
外国二仰グヨリハ日本二求ムルノ廉価ナルト便利ナルトニ依リテ頻
⑧
そ、十二年に圭冠大川平三郎が会社に提出した建白書においても、
める事﹂等の要件を充分に満足させるものではなかった。さればこ
しかし実際に抄紙されたものは、同社の抄紙命令書中に記された
に汚染するの歎なきを脱かれずと。請ふ此所に従事する諸君よ、
り之に及ばざる所ありて之に墨汁︵インキ︶を以て文書を書する
の美なる恐くは外国製に一歩を譲らざるべしと錐其質の良否に至
を徴するに足れり。然れども曾て我輩が聞く所に拠れば内国製紙
第一国立銀行内
抄 紙
横浜弁天通四丁目八拾六番地
社⑥
紙類又ハ印刷物御用之御方ハ右之内何レヘナリトモ御沙汰被下
抄 紙
A瓜
∼
半年報︵明治十二年一月−六月︶によれば、有恒祉、西京製紙所、
.⑨ −
第百三十三国立銀.行の帳簿について︵二︶
実用化されるまでには至らなかった。 ﹁当時これらはみんなドイツ
⑬
勧業博覧会に出品して鳳紋賞牌を受けるまでに成長はしたが、まだ
五二
沼間守一・鈴木良輔・島田三郎・田口卯吉その他の堂々の賛成をえ
といふのを使い、国産では出来なかった。﹂のであり、明治十九年、
⑭
から輸入した剣付ボール︵マークに剣の記号があったのでそういう︶
大阪製紙所、王子製紙会社、三田製紙所の中で、帳簿紙を抄紙して
いるのは王子製紙の]社だけであり、その製紙高総原価は三千二百
て一万円の資本金にて東京板紙会社を設立したが、同社が麦桿にか
二十七一十↓銭八厘、売捌高は一千七百六円四十銭六厘である。当
ては質・量とも舶載のものに敵うべくもなかったのである。次に舶
八銭
ことであった。
あり、使用ボール紙の枚数も相当であろう。第一国立銀行の残存し
第百三十三国立銀行の日記帳第二号などは、表紙の厚みが八粍も
+銭
+銭五厘
+五銭
りドイツ臣事の輸入品に挨たなければならなかったのである。
ている古い帳簿でも、厚ボール七枚を重ねているもののあることを
⑰
明らかにしている。これら帳簿装領に嵌くをえない板紙類も、やは
+ご銭五厘
二+銭
次に記帳用具のうち、インキ及び吸墨紙について考察してみよう。
インキ・吸取紙 ﹁日本国立銀行事務取扱方﹂における﹁簿冊二
ノ金額ヲ掲グルトキハ紅汁ヲ用ウベシ 例ヘハ借方ノ鼻面二於テ貸
黒血︵インキ︶ヲ用ウベシ 唯タ損益勘定帳ノ内時々反対セ〃性質
関スル規程﹂第八項に、記帳に際しての注意として、 ﹁数字ハ総テ
⑱
であり、漸く﹁苦心の末に発見した原料の麦桿で漉いたボール紙も
小エ場を建て、﹁肺患を押しての研究も実を結ばす、﹂
インキ及び赤インキの使用を規程している。第百三十三国立銀行に
方ノ金額ヲ示スノ類ナリ﹂とあるように、すべて敢引の記帳には黒
だし開業当初の帳簿に使用された黒インキは、相当年⋮数を経た今日
おいても、記帳にはすべて黒インキ及び赤インキを用いている。た
いきな紡績 小いきな羅紗場
つぶれかかりは 板紙会社
@
と謳われる仕末であった。しかし、やがて明治十年東京第一回内国
ぶくぶくで物にならす、﹂ 友人である牛込岩戸町の久貝正路邸内に
刷︶創立者佐久間貞一が、その国産化を目途に灘苦精励していた頃
板紙 当時板紙と云われた厚ボール紙は、秀英社︵後の大日本印
との出来ない厚ボール紙はどうであったろうか。
わり、わが国に豊富な稲藁を用いて洋式による板紙製造を開始した
輪その板紙の自給自足に成功したのは、明治二十︼年を迎えての
⑯
時製紙会社の洋紙は一封度十四銭であったが、それも簿記用紙とし
⑫
下等新聞紙用
来洋紙値段︵明治十三年十二月。横浜商舘入荷相場表︶を掲げよう。
同近畿同同洋
銀
.帳簿用紙が以上のような状態であったとき、洋式装釘には敏くこ
上等簿記用
下等簿記用
中等簿記用
上等翻朋︵兼・︶
中等印刷︵兼る︶
一
一
一
一
一
一
によって、その使用材料にも相違があり、インキが用紙に甚しく滲
大蔵省印刷局活版部製のものと、民間の帳簿製造業者によるもの等
あるか、黒インキであるかの判定はつきにくい。また、帳簿用紙が
では色も槌せているので、使用インキについては容易に青インキで
記用インキは黒色に限られていたようである。それが現在のように
﹁簿冊二関スル規程﹂において決められているように、当時の簿
一 拾八銭 簿記用吸玉紙三枚
﹁ 壱円 黒インキ 壱本代
んでいるものとそうでないものとかある。かかる用紙の関係もあっ
ンキを用いている。それでは第百三十三国立銀行では果して如何で
青インキをもって記帳し、それ以前の帳簿は、国立銀行と同様黒イ
替えられている。私立八幡銀行の日記帳では同十五年八月二日より
⑳
り同十二年七月頃までは黒インキを使用しており、以後青インキに
ていない。次に第十六国立銀行︵岐阜︶では、明治十年十月開業よ
が、変色か甚だしいため、いつ頃より黒から青にかわったか判明し
ンクの色は当初は黒であったが、次第に三井銀行分と似てきている
青ンイキを使用するに至る時期は、もちろん各銀行によって違うで
⑳
あろう。三井物産の前身である先牧会社の帳簿についてみると、イ
て、同一種類のインキで各冊が記帳されているかどうかも、綿密な
一定していない。
鑑定を行わない限り断定出来ないほど、帳簿によってインキの色が
務用品を次のように購入している。すなわち、筆・墨・紙のほか、
第百三十三国立銀行では営業開始時より翌十三年末にかけて、事
⑲
簿記用インキ、吸墨紙三枚、算盤一六丁、罫引道具二本、頭取名義
印判、印判ご八、湘虎石七、水入三、印肉長螺、陶剛器印肉入一、ビン
あったであろうか。日記帳、出納帳とも最初は黒汁を用いているが
壷二、小刀一〇、公債入子一等がある。その他ランプ、寒暖計、簿
用インキ、吸墨紙についての明細を次に記載しよう。
記机等の什器類も多々あるが、これらは省略する。以上のうち簿記
のみ二十四日の途中より青インキに替えられているが、二十五日は
ビン壺 弐ツ
五三
を受けた。このインキ製造者は安井敬七郎であって、彼は当社の
﹁丸善に於ては明治十一年インキを創製販売して江湖より高評
ていた。この間の事情については同社史に次のような記載がある。
⑫
当時丸屋商社では舶来インキの輸入の他に、インキの製造を始め
用することになったものと云えよう。
記入されている。同行では六月二十六日からは一斉に青インキを使
休日のためか記載なく、二十六日からは第一行目より青インキにて
明治十五年六月二十六日より青インキにて記帳されている。出納帳
弐拾銭
赤インキ壱壺
明治十三年一月中
弐円
二月中
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
上等赤インキ壱タス
壱円四拾銭
インキ代
明治十ご年九月中
.参拾銭
十月中
で
N
一
一
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
命を受け引続き製晶を納めつつあったが明治十八年に至り入社し
た。⋮⋮二十年よりは名称も工作部と改称され⋮⋮安井敬七郎の
五四
、
々の奇説とともに、 ﹁簿記印記無用論﹂もあらわれ、 ﹁我国を傷め
⑳
たるは舶来品なり﹂ときめつけている。当時の反動的思想家によっ
て簿記用インキもかく採り上げられていることを思えば、丸善商社
等が取.扱った舶来インキが、あるいは地方国立銀行等にも広く購め
製造にかか⋮キ患の了・を以て売出され、色は赤専
青の三色で、その容器の種類により一オンス入に三銭五厘、五銭
右活版用﹁インキ﹂は勝島活版所製肉部に於いて製煉し、其製
く、そして需要が少なかったことが推知され、吸取紙に対する認識
いてもその総額が三十三円三十銭とあって、当時としては価格が高
も製造及び売上高の記録がみえないのである。更に輸入吸取紙にお
八十三銭五厘となっている。しかも同社の他はどの製紙所において
六月置での期間に、王子製紙会社にて取扱った総評捌高は僅か一円
掲の東京経済雑誌第十六号所牧の内国製紙及び輸入半年報中に、吸
⑱
取紙産額についての記載がある。それによれば明治十二年一月より
次にインキ使用と切り離せない吸取紙について簡単に述べる。前
みである。
記載によって、黒・赤インキを購入使用していた事実を知り得るの
の場合詳細を明かにし得ないのは遺憾であるが、前出﹁諸雌羊﹂の
られ、記帳事務に使用されていたに相違ない。第百三十三国立銀行
大瓶四合入は四十銭であった。﹂
十銭の四種があり、小瓶一合入は十五銭、中瓶二合入は二十五銭
更に明治二十年三月よりニヵ月に亘って東京上野公園に開かれた
東京府工芸品共進会には、丸善部長安井敬七郎の名をもって、簿記
用インキ赤・黒・青色・腰中煉インキ赤・青・紫、インキ壺旛円形
携帯インキ壷、硝子製、インキ壷自鋼・亜鉛その他が出品され、こ
⑳
の時の簿記用インキは褒状を得ている。同二十年代には各所にイン
キの製造業者も現われ、二十四年二月発行の﹁印刷雑誌﹂第一巻一
⑳
,号に次のような広告が掲載されている。
法は欧米の製造法に基きたるものにして廉価なるは舶来品に優
の﹁諸払簿﹂にみえる﹁吸墨紙三枚 拾八銭﹂の記載は、王子製紙
もまたほとんど普及していなかったものであろうと思われる。前出
活版用各色インキ簿記用インキ
るも、品質は決して舶来品に劣らず。
ないだろう。
会社の売上高と対比してみても、甚だ珍らしい記録と云わねばなら
以上考察したように明治十年代には既に民間においても、簿記用
インキの国産化は進んでいたが、一方、わが国の化学工業の指導的
①片野一郎氏著、日本・銀行簿記精説、七五頁。第四銀行八十
全書附録三三四頁参照。
年史、一八頁。日本金融史資料︵明治・大正編︶第三巻、銀行
立場にあった造幣局では、 ﹁製造する所のインキを諸官衙学校に頒
おいて使用したインキ類は、国産・舶来品のいすれであったろうか。
⑳
布して事務の進捗に寄与﹂していた。しかし第百三十三国立銀行に
明治十四年刊佐田介石著﹁栽培経済問答新誌﹂第三十八号には、種
、
ソンという。
マーブルの技術を初めてわが国に伝えたのは御雇教師米人バテ
④改訂増補明治事物起原、下巻、一五〇六頁参照。明治六年、
③王子製紙社史、 第 一 巻 、 一 四 三 頁 。
②:印刷局沿革録︵明治四・○年刊︶による。
し、後に勝島洋紙店と合併した。
師等について印刷インキの製造法を伝習している。十六年印刷
郎は、明治六年十六才で紙幣寮製肉課に就職、十年間を外人技
⑳ 印刷インキ工業史、二七八頁。勝島洋紙店製肉部久保田音次
⑳⑳ 前掲書、一一一−一一三頁。
⑫一d丸善社史、六五頁及び一一〇頁。
⑳ 造幣[局六十年史、 一二八頁。
局を退いて印刷所を開業、国産印刷インキの製造の研究に没頭
社と改む。抄紙局との混同を避くるが為なり、とある。
研究、 七六二頁。
⑳ 本庄栄治郎博士、 ﹃明治初期の反動思想L旨明治維新経済史
⑤ 王子製紙社史、第一巻、八三・八四頁。及び一四三、一四八頁。
⑦東京経済雑誌、第ツ巻、五四七−九頁。
⑳ 東京経済雑誌、第一巻、五四九頁。
説明しよう。すなわち、大津第六十四国立銀行の彦根支店が閉鎖さ
続いて第六十四国立銀行より譲渡されたと思われる帳簿について
三 第六十四国立銀行の帳簿について
⑫前掲書、五六二 頁 。
れ、分離独立した新立の国立銀行としてその業務を引継いだのであ
るから、銀行簿記の伝習についてもその指導を受けており、なお必
①
ある。
要な資料及び帳簿類の一部なども譲渡されている。これについては
②
﹁明治十二年 営業用什器仕訳書 附地所家作土蔵﹂に次の記載が
⑱ 目本金融史卿貫料、 第六巻、 一二・ 一一二頁。
内訳
高金六円九拾壱銭弐厘五毛 書籍費
五五
金壱円七拾弐銭五厘 銀行条例 拾部
⑳ 三井銀行調査部長松延敬雄氏の教示による。
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
⑳ 十六銀行企画調査部長の教示による。
⑲滋賀銀行所蔵、﹁明治十二年従四月諸割田﹂による。
⑰第一銀行史、上巻、七四二頁。
⑯日本紙業綜覧、九〇頁。
⑮大日本寒寒・七十五年の歩み、︷六頁。
⑭ 東京製本組合五十年史、五一一頁。
⑬ 大日本印刷・七十五年の歩み、 一五頁。
⑪東京製本組合五十年史、五一﹁頁。
⑩ 王子製紙社史、第一巻、 一八六・一八七頁。
⑨ 東京経済雑誌、第一巻、五四七−九頁。
⑧ 日本紙業綜覧、八二・八三頁。及び印刷局五十年略史、三八頁。
⑥日本紙業綜覧、六三九頁。明治九年五月、抄紙会社を製紙会
、
紫色背革表紙に縦書にて﹁第六十四国立銀行﹂と金文字で押されて
五六
実験論 壱部
いる。
ママ
︵伊賀上野、資本金五万円、明治十一年十一月開業︶名の入ったも
壱部五冊ヅツ
壱ツ
・弘世の検印があることでも明白である。また別に、諸元帳差引残
字 引 壱冊
第六十四国立銀行の帳簿と同一体裁のものに、第八十三国立銀行
簿記制法 弐部
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
同壱円
同弐円九拾銭
一金六拾五円九拾銭
同壱円弐.拾八銭七厘五毛
安全箱
壱冊
のがある。総勘定元帳差引残高記入帳︵明治一二・四・一一一,五
金五拾五円
銀行条例
簿記精法
高記入帳︵明治一五・九・七 二二・一二二二〇︶も同様の型式
内訳
同壱円拾銭
壱部
のものであるが、これには背表紙の銀行名を削去し、代りに朱筆で
但明治十二年二月一日負債分割二二第六十四銀行ヨリ
合計金参百弐拾壱円七拾四銭六厘也
前項でみたいわゆる﹁成冊﹂たる諸帳簿と違って、これら両銀行
簿を、第百三十三国立銀行において流用したものである。
国立銀行の帳簿であったと推定されるが、そのいすれかの銀行の帳
﹁百三十三﹂を書き入れしている。元来は第六十四または第八十三
っている。第百三十三国立銀行で使用した帳簿であることは、伊関
・六・三〇︶がこれであり、表紙は暗紫色、用紙は紅罫木版刷とな
同六拾銭
壱部
同四円九拾五銭
貨幣史
興参考
同四円弐拾五銭
引請候下灘此
のものは特に綴山がないのが特徴である。第六十四国立銀行の帳簿
︵中略︶
この内訳のなかには帳簿の記載がないが、しかし、出納帳・日記
わ礼る。この点からしても、明治十二年以降における帳簿と、それ
以前のものとの区別が、量る程度明瞭になるのではないかと考える。
はこの両野冊によって、その大体を類推することが出来るように思
①滋賀銀行二十、年史、一四・一五頁。
帳等にして第六十四国立銀行より譲与された帳簿を使用した場合は
名のない帳簿を用いており、その時何らかの都合によって、帳簿の
すべて第三号に当り、開業当時には﹁印刷局活版部製﹂又は製造書
余部がなくなった時期に、これを代用したのではないだろうかと考
② 滋賀銀行所蔵記録。
以下説明する帳簿は、第百三十三国立銀行が独自で民間の帳簿製
四第百三十三国立銀行の帳簿について
えられる。,そのためか、日記帳第三号︵明治一四・ご二七i同五
一四・二・三−同九・五︶も七カ月間で比較的短期間である。両
・二五︶は約三カ月間の短期聞の記帳であり、出納帳第三号︵明治
匿
冊ともに製造者名がなく、ことに用紙は木版手刷の紅土であり、黒
造業者に発註したものである。もちろん、これらのものは大蔵省の
四四二頁よりなっている。印刷自製に較べて用紙の質が劣り、その
が打たれ、各頁三二行、行間区長、項目欄は朱線で分けられ、総計
にある帳簿名・銀行名は金文字の左横書きである。用紙の各葉に頁
④
日記帳節二号 明治三・三・六−菌三二六 縦三八・三千、.横二六糎
ため黒インキが惨んでおり、湿気によるためでもあろうか、紙全体
指示による統一帳簿雛形に基いて作成したであろうと思われる。
この帳簿は印刷局製に較べると、やや大型になり、用紙の大きさ
いので、帳蠣そのものよりしては何処製であるか確認する訳にはい
に波を打っている。この日記帳第二号は製造者名が記入されていな
かないのであるが、前項で述べたように、 ﹁明治十二年従四月諸払
は縦三八二二糎、横二六糎、厚さ五・五角で、ことに表紙の厚みが
片手では容
かろうと思う。
第百三十三国立銀行の用度掛において記帳した﹁明治十二年従
簿﹂に記載された﹁大阪真嶋製紙場﹂製造のものと考えて差支えな
ある。背革
四月越払腰﹂に、初めて帳簿製造業者として記載されている大阪
易に操作し
及びコーナ
は、明治三年大蔵少輔伊藤博文に従って渡米した平野屋五兵衛の
真嶋製紙場について少しく考察してみたい。もともと真嶋製紙所
一族百武安兵衛が、翌四年に西洋紙の国産化を目標に創設した洋
ーの革は黒
紙は黒紫色
二郎等によって設立された蓬秦社へ譲渡の運命となった。そこで
法楮製商社がその前身をなすもので、同社が資金に窮し、後藤象
同社は中之島玉江町旧熊本藩邸敷地の払下けを受け、同七年四
で、金箔紋
見返し及び
月工場を建設し、翌八年には漸く製紙業を開始する運びとなった
施・これまた忽ち資金難に堕ち入り・さきに工場建設に際し英語
マーブルも
印刷並製に
比して地味
になってい
る。背表紙
五七
紙場は大阪紙砂糖製造会社と改称せられ、間もなく真島製紙所と
④
なったのである。真島はかくて独力にて引受けた中之島工場をま
通訳を担当し、また創業以来の工場主任であった真島裏一郎に、
O
同九年四月以降その経営を委ねることとなった。ここに蓬莱社製
用紙三方の
様も少く、
褐色、継表
難いほどで
八粍もあり、裏表紙とともに一・六糎の厚みがこれに加わるので、
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
左より日記帳第2号,同第3号(第六十四国立銀行のもの).
同第4号,右の2冊は明治22,23年度のものである。
経営にかかる三田製紙所を譲受け、真島第二製紙所と称してい
五八
もって鋭意経営に努めたが、 ﹁当時洋紙に対する需要未だ起らず
聯合会が開.催された記事があって、業界に方ける真島の指導的地
る。同社史には十四年四月、この三田製紙所の斡旋て第ご回製紙
第百 二十三国立銀行の帳簿について︵二︶
たる三田製紙所︵東京︶がその製造の援助を申込み、叉西南戦争
後の事歴を探ってみた。
位を窺うことが出来る。以上簡略であったが真島製紙所とその前
経営困難を極めたが、偶々紙幣寮より地券紙の製造を委嘱せられ
勃発して新聞紙の需要俄に起りしを以て、真島製紙所は最初の活
第百三十三国立銀行がいわゆる﹁成冊﹂を大蔵省印刷局に求めな
いては、これを明らかにする資料を持たないけれども、当時同行の
いで、独自で帳簿の作成方を大阪の真島製紙所へ依頼した経緯につ
︵京都︶神戸製紙所︵神戸︶等の有力なる競争者が現われ、東京
況に際会した。然るに製紙業界のこの好況に乗じて梅津製紙所
には官営の印刷局抄紙部が設けられて地券紙・葉書用紙を自ら抄
大阪製紙場と改称し、 ︵土佐の志士岡本健三郎を社長に︶漸く燐
.寸箱の藍紙製造に息をつぐ有様であった。﹂ しかし、十六年末に
阪において製造せられたのは明治十年頃であり、前記の真島嚢一郎
業の紙商を廃業したが、製紙業者・帳簿製造業者についての知識は
敢締役支配人弘世助三郎は、彦根において養父助市の代より紙商を
営んでいた豪商であり、同行の経営に専心努力するに至って遂に家
造することとなり、加ふるに明治十四年以降の財界不況により本
邦製紙業は︼般にその影響を蒙りし際なりしを以て真鳥製紙所は
至って岡本も遂に工場買却を決意し、これを大津の前川文平に告
も同十二年に、 ﹁印刷局系の佐々木某を罫線引に、長谷川某を製本
経営困難に陥り、十五年住友家へ︵十五万円にて︶譲渡せられて
げ、同氏はまた長浜の事業家下郷伝平に勧説した結果、下.郷は第
おり、後に製紙所はその経営を住友に譲渡したか、住友の伊庭貞剛
方に雇い入れて、﹂ 製紙所と兼ねて帳簿印刷専業者として創業して
⑩
相当に持っていたであろうことも推察される。洋式帳簿が初.めて大
六十四国立銀行の秋田弥右衛門・森弥三郎等と謀って買類するこ
ととなった。やがて十七年大阪製紙会社となり、十九年には全財
あろうと考えても無理ではなさそうである。なお真島の創設した帳
近江商入と﹁大阪・真嶋製紙場﹂との連関も密接なものがあったで
こ緬や、更に下郷・秋田・森等との関係は云うまでもない。これら
は二十三年国会創立に当って二世助三郎を有力な後援者としている
十九年には組織を改めて中之島製紙株式会社となったのである。
なお真島については王子製紙社史の中にもしばしば記載があり、
産を下郷伝平が引受けて、ここに.下郷製紙所と改称した。更に三
明治十四年二月、洋紙商十五人が集って東京洋紙売捌商組合を結
行の明治二十年代の帳簿は、同製造所の作成にかかるも訪である。︶
簿製造所は、十六年には吉田帳簿製造所となり︵岐阜第十六国盛銀
⑥
成したとき、その申合定規中に三田製紙所、大阪製紙所の両代表
同三十九年には株式会社大林帳簿製造所に継承されている。
を兼ねて真島裏一郎か渋沢栄一等とその名を連ねている。この前
年真島は鹿児島士族林徳左衛門︵第五国立銀行支配人︶よりその
日記帳第四号 明治一四・五三六一同価・三 縦三八三糎、横二五糎
際し.てもほとんど得るところがなかった。全国工場通覧によれば
大阪国文社は古記録類が今次の戦災に罹っているので、調査に
大阪国文社についてその閲歴を略記する。
σ
・隈革はともに嚥脂色であり、黒色クロ∼ス貼り継表紙で、縦三八
右の帳簿は大阪国文社製造にかかるものである。背革.及び.表紙革
業しているのであるが、その淵源を辿れば明治六年に遡りうる。
明治十二年、東京国文社大阪支店として此花区上福島南の地に開
と右横書きに変更されているのである。しかも﹁日記帳﹂、﹁第百三
いる場合もあるが、これが明治二十三年度には﹁大阪国文社製造﹂
記帳第四号以下のものには﹁大阪﹂を、時には﹁大坂﹂と使用して
勢力を背景として頗る繁昌した。やがて大阪支店は同十六年十月
円の会社となり、東京に三支店、大阪に一店を設置し、改進党の
三月に至って竹中邦香が入って経営するに及び、資本金九万五千
地活版、製紙分社、秀英奪取とともに、わが国における印刷業の
⑯
先駆である。八年には紙幣寮より技師高未栄三を招聰し、十二年
に移って国文社と改称したに始まっている。すなわち、同社は築
⑮
京本所区御竹蔵に啓蒙舎・活版印刷所を設立、翌七年神田淡路町
わが国活版印刷の大膳と云われる本木昌造の門生山田栄蔵が、東
・二糎、横二五糎、表紙五粍厚と第二号よりやや一回より少ない感
は金.色の桜紋様が鎖状に連っている。帳簿名・銀行名が金文字左横
じである。しかし背表紙には高い冬山が四ヵ所あって、その表面に
書きで入っているのは第二号と同様であるが、その上・下に金箔押
十三国立銀行﹂の文字は従前のとおり左書きを用いている。この事
﹁大阪国文亡国ロと製造業者名が金文字で左横書きされている。日、
しの菊紋様を飾った頗る華麗なものである。これには背表紙下端に
例は日記帳に限らすその他帳簿類についても同様であり、明治二十
んになった。 ﹁大阪府工業総覧﹂所掲の大阪国文社に関する記事
二十年頃簿記の利用が普及するに及び、帳簿の製造は次第に盛
隠している。
大阪国文社として独立し、帳簿印刷の専業者として.その製造に従
零した。 ﹁明治大正大阪市史﹂にはその後の情況を次のように記
⑱
り、教育勅語の漢発、議会開催等のことか相継ぎ、徳富蘇峰の﹁日
には﹁十九年十二月頃より各官衙.銀行.諸会社の諸帳簿製造の
る。当蒔は十年代の欧化主義に対する批判、反省が極った時期であ
三年以降のものについては全て製造業者名のみを右横書きとしてい
本人﹂等にみられる国家主義が拾頭し、遂には日清戦争期の国粋主
⑭
請負ひ続々顕れ、加之原料品の価格非常に低落し、其製作物の結
果頗る良好にして﹂云々と記されている。国文社の外に大阪活版
行の帳簿の名辞にかく表現されたのであろう。
第百三十三国立銀行では真島製紙所が経営困難になるに従い、そ
刷所︵三十四年︶等も前記大林帳簿製造所、国文社と並んで.明治
所︵明治十八年創立︶大阪製本印刷株式会社︵二十九年︶三和印
義時代に至る前触れであって、これら.の風潮が地方における国立銀
の帳簿のほとんどを大阪国文社に求めたのである。日記帳の説明に
五九
おいてみたように十四年以降には真島製のものは見当らない。次に
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
六〇
取引金額
37, 830. 757
113, 023. 905
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
28. 8
年間の主たる帳簿製造業者であった。
R2
叙上のように明治十四年以降の諸帳簿はほとんど大阪国文社製造
26
の銘記があるか、あるいは表紙見返しに同社のラベルが雪布してあ
横(c皿)
るので、一見して判別することが出来る。すなわち、明治三十年代
99
の総勘定元帳差引残高日計表に貼られたラベルには、同二十八年京
18
都において開催された第四回内国勧業博覧会に出品の際に賞牌受領
44
取引件数
の旨が記載ざれている。
6
(記帳開始日)
要するに国立銀行時代の日記帳は、第一号︵下口局製︶、 第二号
38. 2
21.4
44
g654
36
32
︵大阪・真嶋製紙場製︶、 第三号︵第六十四国立銀行帳簿︶の三冊
のみならず、第四号︵大阪国文社製︶以下においてもその形態は統
一ざれていないばかりでなく、その装頃も不揃いであり、強いて表
おのおのあい半ばしている。そのうち最も代表的な大冊を次に掲げ
33
9
紙革の染色によって大別すれば、一畳及び濃緑色を使用した場合が
7
行Ffi (mm)
35. 2
38. 3
日記帳 第一− 四七号 大阪活版製造所製
ている。
となり普通銀
行に移行した
立銀行事務取
場合、日本国
扱方﹁簿冊二
関スル規程﹂
の後の帳簿製
が、いかにそ
作上に影響を
与えているか
に述べよう。
について簡単
株式会社百三
ってからは、
十三銀行とな
かえって同規
程第三﹁同名
ノ簿冊ハ其装
一ナルヲ要
釘様式必ズ同
スしの項目が忠実に守られ、特に日記帳においては次のようになっ
日
9
行数
よう。
日記帳︵嚥脂︶ 明治二二一一三 縦三八糎、横二九.五糎 見開き六9頁
日記帳︵濃緑︶ 明治三〇1三二 縦四四糎、横 三二糎 見開き五9頁
右の両冊とも片手操作は容易でないほどの大部のものである。特
350
態
に後者は下表のように用紙三惑の行間は六寒国、五四行となり、営
業開始当初の帳簿が九粍巾、三二行であったことと比較すれば、一
日当りの取引件数が二十年の歳月を閲して、はるかに増加した乙と
に対する帳簿の、ひいては経営技術の適応であろうと推定したい。
以上わたくしは地方における国立銀行帳簿のうち、主として日記
帳を中心に考察を進めて来たのであるが、明治三十年代に営業満期
202
頁数
明治31年
縦(cm)
形
442
明治13年
噸1:踊陣禦ら?2
記帳期間
他店勘定元帳
帳
記
⑫ 十六銀行企面調査部長の教示による。
⑪ 如水釜煎助太郎翁、ご一頁。
⑬明治大正大阪市史、第二巻、六七八頁。
同第四八一七二号京都・似玉堂製
これらの帳簿は右の三業者の製造にかかるものであるが、一号よ
同第七三一一二三号大阪・谷口印刷所製
はこの反動で、活版印刷から木版手刷へ逆行、クロース装から
郎博士前掲書、 ﹁明治の反動思想﹂参照。明治二十年後の数年
紙装へと戻ったが、その後は木版と活版の併用によって、それ
⑭図説日本文化史大系、明治時代、一五一頁。及び、本庄栄治
類似した装頗のものである。
り一二三号まで全て濃緑表紙革装の同一形態を維持したしかも堅固
以上の諸点は﹁簿冊二関スル規程﹂を、当時の地方銀行において
合五十年史、五二七頁。︶
ぞれの特長を生かしたものが出るようになった。’︵東京製本組
な製本であり、外見のみからしては製造業者名を判別しがたいほど
さえも、政府の統制指導をまつまでもなく、自から進んで履行した
改訂増補明治事物起源、下巻、九ニ先芯。
同掲書、一五〇六頁。
同掲書、六七九頁。
明治大正大阪布史、第二巻、六七三頁。
日本金融史資料︵明治大正編︶第六巻、︸二・
加藤俊彦氏著、本邦銀行史論、一四一頁。
記帳期間
=二頁。
ことを証するものである。すなわち産業資本確立期と関連して﹁い
まだ高利貸的な貸付会社の性格を全く脱しているわけではなかっ
た﹂が、ようやく近代的銀行として確立されつつあった当時として
は、経営の近代化の上からも、銀行諸帳簿に対するこれら要求は、
必然の帰結であったと解されるであろう。
日本金融史資料︵明治大正編︶、第六巻、=一・一三頁。
日本紙業綜覧、六三八頁。
明治大正大阪市史、第二巻、五七七頁。
②帳①
第百三十三国立銀行帳簿目録
帳 簿 名
一一六 六 三.
一⊂⊃五四=三
番号 冊数
明治
一一三 三 三・
二二 琴
二〇 一五・
= 西・
11111
同旧掲心書、 六三九頁。
③
勘 定 元帳
記
④
差引残高日計表
六一
一二八五八
明治大正大阪市史、第二巻。
日本紙覇果妙杯覧、 六四三㎡貝。
王子製紙社史、第﹁巻参照。
日本金融史資料︵明治大正編︶第三巻、三九三頁、。
如水弘世助太郎翁、二〇頁。
改訂増補明治事物起原、下巻、一五〇七頁。
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
二ご六こ二六
二ごニヨミ三
@@@@@@
同同総同日
@
@@@@@@@@@@
二ニー一一一一一三一一一一E一一四六一一四一三五四一
E=・一−=三・二・三
E六・き⊥孝五三一一
三・四・一⊥三・六⊥〇
一六・九・七−三・六・三〇
三・三・一一二三・六・=一〇
増募仮株式勘定元帳
諸公債証書有高
種類内訳一覧表
公債証書有高仕訳帳 ニー三
天西三=
三九正五二
二 三五二 九三三九六ニニニー六
二八 九 四
一ノー j ⊂; 九
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
同残高他店勘定日計表
三差引残高記入帳
当座預金元帳
貯蓄預金元帳
公債証書受払帳
*発行紙幣記入帳
各 種 元 出
他店勘定元帳
町元帳差引残高記入帳
出張所勘定元帳
出 納 帳
*金銀有高拓帳
*金銀出入帳
新渡現金受払簿
現金受払簿
*未渡諸給与金記入帳
三 三−碁聖EI5正−充西宍三三三三=
K五〇六八=五6==八冗6
o /x
⊥1大⊥⊥
ー⊂ン
i目目目知一一一口
二丁一・四−二三ムニ上三
ご葺・弓二八−二七・で三
E三・一−三三・二・二
〒二八−二六・δ・三〇
三〇・︸∴三一三八・五・一
E=・充i三・三二五
一六・九二一T二〇・一〇・三
=ハ・九・七一一九・四・五
二九・一⊥六−三五・三・一五
一三・亨一−三三・三・晃
=ハ・=二⊥三・六・三〇
嚴オ・﹂一三二・一一・二〇
*代金取立手形記入帳
*預ヶ金記入帳
*貸付金記入帳
一ノー k 六 ニ
享享子〒≒琴脅舜享韓軒乖
御用当座預金元帳
同
同 四1七
⑥
乙部当座預金元帳
貯蓄預り金元帳
小口当座預金皿兀帳
預金受払簿
未渡預金差引簿
預金年度別戸
公債部預金元帳
公金預金元帳.
国庫預金元帳
国債元利預金元帳
E一・八⊥亨九三五
*諸支払手形日記帳
*諸受取手形日記帳
二六.一・九−二六・三三〇
Z⊥三・八こ八
計四三種一七〇冊
*振出手形記入帳.
Eτ九一曇︸∴二二三
E一一⊥三二一・一=
@一 一 一 ノ\ 一 二∠L _ 一 一晶 一 一
一一
一 一 一 一 _ 一 一 二】
一五
二五
三・二三八一天・三∴﹁〇
ニニ八九七七九七七二五二七一九一
= 遵用ー〇ニー三九八一六七六
西 定期預金元帳
別段預金元帳
七一
三一四
l1
6六九
二
二三
一七
二=
一九
]九
二七
二九
*別段預金記入帳
株敷勘定元帳
同
同
ノ\
銀行所蔵。
① 日記帳第一号︵明治一二・四・一一一二・一二・五︶は滋賀
ている。
④総勘定元帳差引残高日計表第二号は、﹁基岩﹂の文字を用い
⑥ 乙部当座預金元帳を流用している。
⑤当座預金元帳︵明治コニ・七−一五・二︶は欠冊。
⑦内容は当座預金元帳である。
②日記帳︵明治二一ニー二一・一〇︶欠冊。
︵数字は頁数を示す。︶
⑧事業勘定元帳は第二号より﹁株式﹂の歯型を用いている。
③総勘定元帳第︸号に設けられた勘定課目は次の通りである、
一株主勘定 三金藏公債証勘定 七起業公債証書勘定 八発行
次の六種の帳簿が所牧されている。
一二・ 七
八・ 二
一一・二廿
⑨諸公債証書有高種類内訳一覧表には諸公債証書の内訳の他、
1 ill
紙幣 九有高紙幣 一二御用当座預金 一五定期預金勘定 一
明治一三・
=二・
=丁
五 五五五
七当座預金勘定 二一秩豫公債証勘定 田螺仕払銀行手形勘定
約定預金記入帳
他所割引手形
当所割引手形
一五
一四
=二・
二
件 二七約定預金勘定 二九当座預金 三〇抵当貸付金勘定
八当座預金貸越勘定 五三雑勘定 五六当所代金取立手形勘定
四 諸買入元金四四期引過貸付金四六信用貸付金勘定四
別段預金記入帳
通知預金元帳
別段預金元帳
)一五六
補正勘定 一一八利息勘定 =一〇金銀勘定 一三七御用仕払
勘定 一一二雑益勘定 一一三公債証書売買損益勘定 一一五
割賦金勘定 一〇七旅費勘定 〇七役員賞与金 一︸○雑費
上げる。 高橋久 一
丸善調査部の方々からは懇切な御示教に与った。ここに厚く御礼申
部長松延敬雄氏、元第四銀行調査課長渡辺清吾氏、十六銀行調査部、
氏、同調査課長佐田標野に格別の御配慮を添うし・た。三井銀行調査
﹁附記﹂ 本稿作成にあたっては、滋賀銀行業務部長増田源太郎
税勘定 一五〇損益勘定 一五一手数料
第百三十三国立銀行の帳簿について︵二︶
六三
銀行手形 一三九創業入費勘定 一四〇交換打歩 一四一積立
⑪出納帳第三骨︵明治一四・ニー一四・九︶は滋賀銀行所蔵。
ノ\
五八他所代金取立手形 五九公債証買入元勘定 六〇諸買入元
金 六二大津第六十四国立銀行勘定 六六御用当座預金 六
九第六国立銀行東京支店勘定 七四第壱国立銀行西京支店勘定
七九大阪第規二国立銀行 八八営業用什器勘定 九二利息勘定
○(四一一
金勘定 一四二前半季繰越 一四五振出手形勘定 一四九銀行
九八手数料勘定 一〇三営繕費勘定 一〇五給料勘定 一〇六
同同好同母