7 「里海づくり」の先にあるもの-試論として- 松田 治(広島大学名誉教授、瀬戸内海研究会議顧問) 7.1 はじめに 里海の語感には、 「なつかしさ」さえ感じられるが、実は比較的新しい言葉であり同時に 概念でもある。しかし、里海が沿岸域の環境再生や資源管理の場に登場して以来 15 年程の 間に、人が海と密接に関わりながら豊かな海づくりを目指す里海の考え方と里海づくりの 実践は、着実な広がりをみせている。 このような初期の、いわば、里海づくりの第1期には、それぞれの地域で「どのような 里海をつくるか」 、 「いかにして里海をつくるか」など里海自体のつくり方が主眼となった のは当然である。しかし、その後、年月も経って各地での里海づくりが様々な経験を積み、 活動も成熟してくると、新たな課題も見えてきた。 それは端的に言えば、里海づくりを将来にわたって持続的に続けるためにはどうしたら よいかという問題である。やや具体的には、里海づくりの将来の担い手をいかにして確保 してゆくか、さらには、人口減少時代に突入した日本全体の社会構造の変化の中で、里海 づくりを里山づくりとも合わせて、地方や地域コミュニティのあり方、さらには、国の将 来にどのようにつなげてゆくかという問題である。本稿では、これらのテーマを、今回の 里海活動調査の結果も踏まえて、これまでの里海づくりの“先にあるもの”として考えて みたい。 7.2 「里海づくり」における「担い手づくり」 初期の里海づくりの中で、環境省がモデル海域で実施した里海創生支援事業の果たした 役割は少なくない。国が「21 世紀環境立国戦略」を 2007 年に閣議決定すると、取り組む べき施策の一つである〝豊穣の「里海」の創生″を受けて、環境省は早速、里海創生支援 事業(平成 20-22 年度:2008-2011 年)を開始した。支援事業の準備段階として、事業開 始の前年度には「里海の視点」や様々な関連情報の整理も行われた。さらに、支援事業の 一環として「里海ネット」 (ウェブサイト)や里海づくりの手引書が作成されたことは、里 海づくりの普及啓発の面でも大きかった。この手引書では、例えば瀬戸内海に関しては次 のような特長的な里海づくりの取組みが紹介されている。 ・やまぐちの豊かな流域づくり構想(椹野川流域から河口干潟) ・厳島神社境内の禁漁区の設定 ・赤穂海岸及び相生湾における自然再生を中心にした里海づくり ・中津干潟における環境学習 ・岡山県日生町におけるアマモ場の再生活動 このような里海づくりの成果として、例えば、椹野川河口干潟では森川海をつなぐ取組 みによる干潟やアサリ資源状況の改善が、また、日生地区では消滅したアマモ場の大幅な 回復などが実現している。 里海づくりを長期的に考える際の要点としては、活動の持続性を確保する必要がある。 これは、里海創生支援事業の準備段階で整理された前記の「里海の視点」で、持続性がキ 157 イ・ワードとして重視されていることからも分かる。その背景として、里海づくりが必要 となるような、つまりは沿岸域の本来の豊かさを損なう環境や生態系の劣化は、第 2 次大 戦後の高度経済成長期を中心にして、50~60 年かかって生じた場合が少なくないことがあ る。従って、里海づくりの目的が数年で達せられることはほとんどなく、多くの場合、長 期間の持続的な取組みが必要となる。いわば、本格的な里海づくりには「百年の計」が必 要なのである。 もう一つの要点は里海づくりがなされる場所・地域の置かれた社会的な状況の変化であ る。里海づくりの適地は、元来、自然環境に恵まれたところが多いが、一般には地方の小 さな自治体や漁村、島嶼部など、過疎・高齢化・少子化の先行しているところが少なくな い。このような、キイ・パーソンやリーダーになる人材に恵まれているとはいえない状況 のもとで、里海づくりの担い手を質量的にいかにして確保してゆくかは将来の大問題であ る。なお、里山と里海では自然条件が大きく異なるのみならず、所有権や利用・管理体制 など社会経済的な条件も異なるものの、里山づくりは中山間地の集落や山村の状況と関係 が深く、里山づくりも基本的には同様の担い手の問題を抱えている。 この問題を考える際にさらにもう一つ重要なのは、先の「里海の視点」でもキイ・ワー ドとして重視されている里海づくり活動における多様性の確保である。換言すれば、里海 づくりへの多様な人々の参画を、いかにして実現するかということである。例えば、漁村 を中心にした里海づくりでも、 漁民だけでなく都市住民や水産物の消費者、生活協同組合、 その地域に関心を持つ個人や企業など、多様な関係者をいかにしてつなげてゆくかという ことでもある。 7.3 里山・里海ライフスタイルのすすめ 里海づくりと基本的に同じ問題を抱える里山づくりも合わせて考えるならば、里山づく り・里海づくりを長期間持続させるためには、良質な担い手の確保が是非とも必要である。 この問題を解決するためには、里山づくり・里海づくりの実践者のみならず、その推進者・ 支援者・理解者など多様な関係者からなるグループを大きくし、その連携や協働の輪を拡 げてゆく必要がある。そのためには、初期の里海づくりで最も重要だった里海自体、例え ば再生すべき藻場、改善すべき干潟といった「もの」や「場」への視線を、もう少し「ひ と」 (担い手)へ向けてゆく必要がある。 これからの里山づくり・里海づくりを長期的に見た場合の最重要課題は、実は、全国的 な人口減少社会における里山コミュニティ・里海コミュニティの存続である。今、中山間 地や地方の小さな自治体では、集落はおろか自治体自体の存続が危ぶまれている。とすれ ば、地域の里山づくり・里海づくりが多様な担い手の拡がりを得て持続的に進展するか否 かが、地域コミュニティの存続自体にも関わる可能性が高いのである。そこで、この小論 では、まず「里山・里海ライフスタイルのすすめ」を論じてみたい。 考え方の骨子は「人と自然、人と人のつながりを大切にし、環境への負荷の少ない、そ して創意工夫に満ちた里山・里海ライフスタイルの良さを広く世の中に理解してもらい賛 同者を増やすこと」である。近年、特に、3.11 の東日本大震災と福島第一原発の事故以降、 若い世代やシニア層の一部を中心にこのようなライフスタイルへの関心が高まっている。 人口減少が続いていた中国地方の中山間地の小さな自治体では、アイ・ターン組などの移 158 住者数が転出者数を上回る事例も出てきた。これらは、金で利便性を買うような、あるい はマネー資本主義的な、そして環境破壊を依然として続けている現代文明のあり方に対す るささやかな方向転換の兆しかもしれない。そこで、 「里山・里海ライフスタイル」のイメ ージアップとこれに関する情報発信を進め、このライフスタイルに関心を持つ個人をいか にして増やすかの方策について考えてみたい。 基本的な方策は、 「里山・里海ライフスタイルに何らかの関心を持つ個人は、だれでもそ の立場に応じて、このライフスタイルの実践者のみならず推進者、支援者や理解者などと して、 里山・里海コミュニティにスムーズにつながることができる仕組みを開発すること」 である。これらの立場の組み合わせはできる限り自由にし、例えば、パートタイムの里海 づくり推進者とか、はじめは理解者でも時間的余裕ができたらスムーズに里海づくりの実 践者にもなれるといった具合にしたい。 全国で進められている里山づくり・里海づくり活動には、全く自発的な地域主導の取組 みがある一方、行政主導やイベント的な活動も少なくなく、予算の切れ目が活動の沈滞を 招く事例も見受けられる。あるいは、地域の里海づくりを中心的に推進している NPO に後 継者が育っていなかったりする。しかし、里山・里海ライフスタイルに関心を持つ人が一 定以上に増えると、里山づくり・里海づくりは、お題目やイベントから卒業して、初めて 自律的な「個人の人生」や「自分自身の暮らし方」と不可分な新たなステージに入るもの と考えられる。 7.4 本当の豊かさとは何か? 里海づくりは豊かな沿岸域を実現すること、あるいは地先の海を豊かにすることを目指 しているといってよい。しかし、この豊かさは、里海の恵みを受けて人間が感じるもので あるから、人間を抜きにしては語ることができない。そこで、しばし里海から少し離れて 本当の豊かさとは何かを考えてみたい。 国の豊かさはしばしば GNP(国民総生産)や GDP(国内総生産)のような経済指標で表現 される。しかし、このような指標で示すことができるのは、あくまで貨幣価値で表すこと のできる経済的な豊かさである。日々の感じることのできる自然の豊かさとか生活の充実 感などとは直接の関係がない。これに対し、別の豊かさの指標も考案されてきた。 ヒマラヤの小国ブータン王国が政策にも活用している GNH(国民総幸福量、国民総幸福 感)では、GDP では表現できない例えば精神的心理的な豊かさも指標化の対象とされてい る。イギリスで開発されてきた HPI(Happy Planet Index:地球幸福度指数)というものも ある。この指数では Human Well-Being と Environmental Impact がキイ・ワードで、この 指数は、概ね、環境への負荷が少なくかつ幸せに暮らせる年数が長いほど高まる仕組みに なっている。従って、国別の HPI を評価する場合には、例えば GDP は大きくても環境負荷 の大きい国の HPI はかなり低いものとなる。 ちなみ、 「幸福度の向上につながる 5 つの行動」 で最初に挙げられているのは意外にも「つながること」である。また、ここで GNH や HPI のような指標に触れたのは、里山・里海ライフスタイルは、貨幣価値による評価が必ずし も高くなくても精神的な満足度や環境への負荷などの面では高い評価が得られる可能性が 高いからである。 HPI で Well-Being (直訳では“良好な状態“:最低限度の生活ではなくて人間的に豊か 159 な生活が実現している状態)がキイ・ワードとなっていることは非常に興味深い。なぜな らば、日本の里山・里海評価(JSSA)の成果として出版された里山・里海に関する英文書 名は“Satoyama-Satoumi Ecosystems and Human Well-Being”(United Nations University Press、2012)となっているからである。ちなみに、Well-Being は日本語に訳しにくいが、 同書の日本語版の書名は”里山・里海 自然の恵みと人々の暮らし“ (朝倉書店、2012)と なっていて、そのニュアンスは原題と微妙に異なっている。 この本の第 6 章「里山・里海の将来はどのようであるか?」では、里山・里海の将来像 として 4 つのシナリオが描かれている。このシナリオの取りまとめの論議には、JSSA の作 業の中で筆者も参加したが、4 つのシナリオの一つは「里山・里海ルネッサンス」と名づ けられている。この「里山・里海ルネッサンス」という将来像は、概ね、全国的な人口減 少が進む中でこれまでの都市化志向が見直され、地方への人口回帰と権限移譲(地方分権) が進む場合、経済や政策のグリーン化、環境保全型の経営、自然再生や伝統的技術、多様 な利害関係者による問題解決手法などが志向される場合に対応している。従って、里山・ 里海ライフスタイルの拡大はこのシナリオに沿っているものともいえる。 日本という国の将来の姿について、中央環境審議会が、最近、極めて興味深い幅広の「低 炭素・資源循環・自然共生政策の統合的アプローチによる社会の構築~環境・生命文明社 会の創造~」という意見具申をとりまとめた(2014 年 7 月) 。この中で、詳述は避けるが、 ビジョンとしては「環境と生命・暮らしを第一義とする文明論的認識の下、真に持続可能 な循環共生型社会(言うなれば「環境・生命文明社会」 )の実現を目指すというある種のパ ラダイムシフトを求めている。そしてその新たな方向性は、先述の「里山・里海ルネッサ ンス」という方向性に近づくものであるように感じられる。 このビジョンを実現するために、次の 6 つの基本戦略が掲げられている。 ① 環境と経済の好循環の実現 ② 地域経済循環の拡大 ③ 健康で心豊かな暮らしの実現 ④ ストックとしての国土価値の向上 ⑤ あるべき未来を支える技術の開発向上 ⑥ 環境外交を通じた新たな 22 世紀型パラダイムの展開 これらの 6 つの基本戦略のうち、特に②、③、④は、先の里山・里海ライフスタイルの 拡大と密接に関係しており、本稿で提唱する里山・里海ライフスタイルは、 「環境・生命文 明社会」の一つのありうるライフスタイルとも考えられる。実際、前述の意見具申の中で は、 「従来型のコミュニティの崩壊、里地・里山・里海の荒廃など」や「自然のつながりの 分断と恵みの喪失」 、 「人と人、人と自然とのつながりの希薄化」といった里山・里海関連 の問題提起もなされている。さらに、里山・里海ライフスタイルの拡大を最近の Satoumi の国際展開に結びつけるならば、 ⑥の 22 世紀型パラダイムの展開にも寄与できそうである。 7.5 これからの「里海づくり」に向けて 里海の概念が初めて九州大学の柳哲雄教授(当時)により提示されたのが 1998 年、初期 の里海づくりの大きな契機となった環境省の里海創生支援事業が始まったのが、前述のよ うに 2008(平成 20)年である。筆者が直接的に里海づくりに参画をはじめたのは、2003 160 年から英虞湾で開始された「新たな里海の創生」プロジェクト(JST/三重県、地域結集型 共同研究事業:2003-2007 年)からである。 事業の開始当初は、まだ平成の大合併前で英虞湾の海岸線は旧4町に分断されていたが、 合併で新たに志摩市が生まれると英虞湾の海岸線は全て志摩市に含まれることとなった。 この間、英虞湾には足しげく通い、地元の漁師やおばさん達とも親しくなった。はじめの 頃は、地元や三重県の行政サイドに里海とは何かを説明するのも大変であった。ようやく 担当者の理解が進んだかと思うと、人事異動で元の木阿弥になることも少なくなかった。 しかし、 共同研究事業の成果が、 次第に認められて行政施策にも生かされるようになる。 新生志摩市は市の公的な総合計画に里海づくりを取り入れ、役場に里海推進室をつくり、 里海創生基本計画を策定して今や「稼げる、学べる、遊べる、新しい里海のまち・志摩」 をキャッチフレーズにして先駆的な里海づくりが注目されるまでになった。 先の共同研究事業でも、当初はアマモ場をどのように増やすか、干潟の底質をどのよう に改善するかというような自然科学的な研究や技術開発に多くのエネルギーと予算、時間 が費やされた。しかし、次第に里海づくりを通じての環境学習とか政策提言といったソフ ト的な活動も合わせて重要であることが分かってきた。すると、自然科学的な思考方法だ けでは通用しない世界との情報交換や意思の疎通が必要となってきた。 このような 10 年余りの里海づくりのささやかな経験を経て、最近では、里海づくりが新 たなフェーズに入りつつあることを実感している。この試論が、持続的な「里山・里海ラ イフスタイル」の拡大につながり、ひいては里海づくりの経験を 22 世紀型パラダイムのあ り方に反映させる論議のきっかけになれば幸いである。 (2014 年 11 月) 161
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