禅 談 <禅 談> 在家禅者のプライド(一) 浦野 祖燈 え じゅん 私が入門した学生の頃、内田慧 純 さんからこう言われた。 「坐禅をしたからって普段は特別何かがある訳ではないけれど、長い人生 の節目でそう多くはないけれど、坐禅をしていて本当に良かったと思う時 がきっとあります。」 既に慧純さんとご主人の智鏡さんは帰寂された。あの頃からもう38年の 時が流れ私も59歳になった。 自分の人生を振り返って見ると、慧純さんは「そう多くない」とおっし ゃったけれど、私の場合は「坐禅のお陰」と思えることが数多くあったと 思う。けっこう波乱に富んだ人生を送っているのかもしれない。 今回のエピソードはその一つで、30代前半の若かりし頃の人生の「節目」 であり、そしてまた在家禅者としてのプライドを賭けた奮闘記でもあります。 1.妻との打合せ 学校を出てF生命に入社して10年が過ぎようとしていた。 理系出身の私は入社当初は数理関係の事務職をしていたが、性格が営業 向きだということで営業分野に転向させられ、その頃は千葉中央営業所の 所長をしていた。 11年目の新年度を迎える前のある日、千葉市内の社宅で妻と子供を前に して話を切り出した。 「俺にはこの仕事は性格的に向いていないと思う。しかも転勤も多い。営 業の場合はおそらく定年まで転勤は続くだろう。転勤拒否して事務職に戻 らせてもらうという方法もあるけど、ずっと窓際にいる訳にもいかない。 - 35 - だから会社を辞めようと思っている。」 妻は5歳と3歳の子供を抱えて、私の言うことを静かに聞き入っていた。 「ただこの10年の間、会社には面倒を見てもらった恩義がある。しかしま だ会社に恩返しするほどの仕事はしていないと思う。だから1年先になる か2年先になるか判らないけど、恩返しできたと思ったら辞めるつもりだ。 辞めたら取りあえず実家の建設業でも手伝えばいいと思っているんだが、 ……それでいいかい?」 妻はしばらく間を置いて、一言「いいわよ」と答えただけだった。 2.人事異動 それからしばらくして、新年度に入った4月に人事異動があり、長野県の 松本営業所々長の辞令を受けた。 松本営業所は所属外交職員38名程(全員女性)で、今までの千葉中央営 業所より陣容も大きくなるため、一応形の上では栄転ということであった。 長野は私の実家があるところで、おそらくそれが異動になったきっかけ なのだろうけれど、松本市は実家から遠くて通うことができないので、妻 と相談して結局単身赴任することとした。 辞令があった時は千代田区内幸町の本社人事部で辞令を受け取り、営業 所を管轄している業務部に挨拶に行くことになっている。辞令書を持ちな とたん がら業務部のドアを開けた途端、知り合いの職員から声を掛けられた。 「浦野さん! しゅうしょうさま 今度は松本営業所だよねェ。ご 愁 傷 様です。」 驚いて「えェ、どうして?」と聞き返すとこう言われた。 「松本営業所はねェ、……ここ10年以上業績を達成したことがないんだよ。 それで何人も所長を入れ替えしたけれど業績が上がらないんだ。ひどいと きは赴任した所長がノイローゼになって、半年持たなかったこともあるし、 今回も所長は1年でクビになって左遷されたよ。可哀想だけど仕方ないね。 あとがま ……その後釜が浦野さんあなただよ。……松本は全国の中でも問題児の一 つで、業務部でも頭を抱えてるんだ。……大変だと思うよ。……ご愁傷様。 せいぜい頑張ってネ。」 - 36 - 3.松本営業所の実態 長野県内には20箇所の営業所があり、松本営業所の県内の業績順位は8番 目だった。松本市は長野市に次いで県下第2の都市であるにもかかわらず、 業績が8番目とは確かに低い。松本へ赴任した私はなぜ業績が上がらないの か調べた。原因はすぐに判った。 きぐらい ① 松本は城下町だが気位が高く、閉鎖的でよそ者を極端に嫌う。松本ぐ らい商売がやりにくい所はない、と松本にやって来た業者は口をそろえ て言う。従って転勤族の所長の言うことをなかなか聞かない。 ② 給与は一定以上は歩合給で、保険を取れば取るほど給与は上がるのだ が、収入に対する欲が薄いというか、欲はあるのだがガツガツ稼ぐこと に嫌悪し、欲がないよう振る舞っている。ある種の見栄っ張りである。 従って前の千葉中央営業所では年収1千万以上の職員は何人かいたが、松 本では月収10万~20万が殆どで、クビにならない程度に仕事をしている という状況。 あせみず た ③ かせ 自分が家計の柱ではないので、汗水垂らして稼ぐ必要がないし、もし そういう仕事を強いられるなら、すぐに退職してもいいと思っている。 ゆうせきしゃ ④ 会社は成績に対し様々な懸賞や優績者招待旅行などを企画している われかん ふえ おど が、我関せずで「笛吹けど踊らず」という冷めた雰囲気。営業所のモチ ベーションを上げるのは至難の業である。 なるほどこのムードでは業績が上がらない筈である。しかし会社は担当 所長に業績を厳しく要求してくる。所長がノイローゼになったとしても不 思議ではない。 4.先ず取りかかった仕事 じょうとうしゅだん 先ずは営業所内の雰囲気を変えなければならない。そのための常 套手段 ないきん は、人を入れ替えることなのだが、外交職員(セールスレディー)は内勤 の転勤族とは違うため、人事異動によって人を入れ替えることは出来ない。 従ってやれることは一つしかなかった。新人を採用して育成し、そして自 こ が 分の言うことを聞く子飼いを作ることである。そして更に陣容、業績を落 - 37 - とさずに、足を引っ張る職員を排除してゆくことである。 赴任して2ヶ月間はそのことに専念した。新聞で募集すると同時に、夜 中に電柱に「奥様募集」の看板を掛けて歩いた。ただし電柱の看板は軽犯 罪法に触れる。気をつけていたのだが、パトロール中の警官に捕まってし しぼ まい、警察署内で厳しく油を絞られた。 「立派な大学を出ているし、大企業 に勤めていて、何で夜中にこんな事をするのかね?」と警官に問い詰めら れた時は答えようがなかった。 なんぱ またバス停で品のいい女性を見つけると声を掛け、軟派してお茶に誘っ す た。もちろん飲み屋で会った女性にも声を掛けて擦り寄った。 またあるときはヤクザの組長の奥さんと知らずに親しくなり、知人から だんな 「もうすぐ彼女の旦那がアメリカ(刑務所)から帰ってくるよ」と教えら せすじ れた時は背筋が寒くなった。この知人がいなかったら誰も知らない山奥で、 一人寂しく埋められていたかもしれない。この知人、はいつも飲みに行っ ていたスナックのマスターで命の恩人である。 か い そしてその甲斐があってか新人は何人か採用になった。殆ど人妻だが中 には看護師を辞めて入社してくれた20代の独身女性もいた。 これで少しお膳立てが整った。ベテランの職員に厳しい事を言ったとき 「そんな事言うなら私辞めちゃうわよ。それじゃ所長さん、困るわよネェ、 おど それでもいいのォ? もんく ウフフフ……。」という脅し文句が言えない状況を徐 々に作り上げていった。 5.鬼所長に変身 新人採用は下準備であって、業績を回復するにはそれだけでは難しく、 きぞん やはり既存職員の意識改革は必須であった。そのため赴任して3ヶ月目か みこみきゃくついせき ら、新人を採用育成しながらある作戦に打って出た。それは「見込客追跡 表」の作成と日々の実践である。 営業所では所長が毎日朝礼をする。職員は約30分~1時間の朝礼を受け た後にセールスに出掛ける。その毎日の朝礼の大半を「見込客追跡」の時 間に充てた。 - 38 - 普通見込客の打合せは職員と所長またはグループ長(班長)が1対1で行 も ぞ う し はりだ うのだが、私は朝礼中に「見込客追跡表」を模造紙に大きく書いて貼出し、 わざと全員の見ている前で一人一人の職員と、見込み客追跡のやり取りを した。やり取りは以下のようになる。 ●(所長)Aさん貴女は高橋さんの所へ4回も行ってるけど、まだ返事が もらえないの? (A職員)だって旦那に聞いてみるって言っていて、まだ聞いてないみ たいだから……。 (所長)貴女が旦那の所へ行って聞けばいいだろう。 (A職員)わたし、あの旦那あまり好きじゃないの。 (所長)じゃ好きになればいいだろう。遊び半分で好き嫌いで仕事をし てもらっては困るんだ。今日旦那さんの所へ行きなさい。 ●(所長)Bさん貴女は田中さんの所へ先月から毎日のように行っている けど見込みがあるのかね? (B職員)保険の話は良く聞いてくれるのよね。 (所長)これだけ訪問していて成約にならないのはどうもおかしいね。 (B職員)…… (所長)お茶のみ話をしに行って仕事をさぼってるだけじゃないのか? (B職員)そんなことないです、ウー。 (所長)時間の無駄だからもう行かなくていい。見込み客から外して新 規見込み客を作りなさい。 ●(所長)Cさん貴女の見込み客は先月と全部同じじゃないか。新しい名 前が出て来ないが? (C職員)それじゃいけないのォ? (所長)いけなくはないが見込みはあるのか? (C職員)そんなの……やってみないとわかんないでしょ。 (所長)新しい名前が出てこないのは、同じ人の所をグルグル回ってい - 39 - たねま るだけで種蒔きしてない証拠だ。気休めになるだけで仕事しているこ とにならないよ。もっと種蒔きしなさい。 ●(所長)Dさん貴女は鈴木さんが契約してくれそうだと言っていたがど うなったの? (D職員)ご主人が東京へ出張で、来月じゃないと帰らないんです。 (所長)それなら貴女が東京へ行けばいいでしょう。すぐ行きなさい。 (D職員)…… (所長)行くのか行かないのかどっちなんだ? (D職員)わかったわよ。行けばいいんでしょうー! モー! こんな調子である。簡単そうに見えるが実際はけっこうきつい。これを 全員が見ている所でやる。毎日やる。新人には優しく、ベテランには厳し かんぱつ くする。そして相手が言ったことに対し間髪を入れず即座に指摘する。間 わる ぢ え かんきわ が開いてしまうと悪知恵が働くし、迫力がなくなるためである。中には感極 まって泣き出す職員もいる。せっかくの化粧が流れてお化けのような顔に なるが決して容赦しない。 あいそ 職員はこの朝礼の時間が相当苦痛だったようだ。赴任当初は私に愛想が 良かったが、この「見込客追跡」を朝礼でやるようになってから、あまり 私に口をきかなくなった。 しかしお客さんへの挨拶は欠かさなかったし、契約になりそうな時は応 さ 援のため職員に同行したり、特に採用した新人には多くの時間を割いた。 また飲食店経営のお客さんの所へは、出来るだけ飲みに行くようにし、職 したざさ 員が営業しやすいよう下支えをした。帰りは午前様になることが多かった。 そしてしばらくすると少しずつ変化してきた。それは職員の給与が少し ずつ増えてきたのである。15万円の人が20万円に増え、20万円だった人が 30万円もらえるようになってきた。月収100万円を超える人も出てきた。職 員からは煙たがられていたが、月に一度だけ感謝される日があった。その 日は給料日である。 - 40 - 6.驚異的な業績の進展、そして職員との別れ 赴任して半年が経過した頃から、業績は加速度的に進展し、年度末の3 月達成予定の業績目標は12月の初旬には完成し、その後も進展し続けた。 その後もう私は何もする必要はなかった。何もせず放っておいても成績 は止まらなかった。結果的に松本営業所の業績は長野県内で8位から2位に 浮上し、業績進展率ではダントツの1位となった。また職員の脱落も覚悟 していたが、脱落者は2名だけで逆に新人採用により陣容も拡大した。 そして年度末3月に入ったとき、妻との約束どおり会社に辞表を提出し たところ、本社業務部から課長があわてて飛んできた。 しょせん 「実家に戻って建設業をやるそうだが、所詮中小企業だろ?中小企業は 大変だよ。後悔することになるぞ。もし君が退職を考え直すなら、次の異 動で所長から支社次長に昇進させてやるが……どうだ」と言われた。 実家は中小企業どころか地方の小さな零細企業の土建屋である。その小 いとな は さな会社を 営 み、私を育て大学まで出してくれた両親のことに思いを馳せ みじん ながら、課長の有難い誘いをその場で丁重にお断りした。迷いは微塵もな かった。 営業所内では私の後に配属される所長がやりやすいように、あまり職員 と仲良くしないよう心掛けたつもりなのだが、退社を所内で発表した時、 看護師を辞めて入社していた彼女には泣かれた。 応接室で二人きりになったとき、彼女から、 「私はこの仕事が好きで入っ たのではないのです……所長が辞めるなら……私も辞めていいですか。」と 泣きじゃくりながら言われたとき、私は返す言葉がなかった。 この後私は建設業に転職し、実家の仕事を手伝った後、平成12年に建設 会社を自前で設立し、平成23年の東日本大震災の年に東北に会社の一つを 移転し、自らも単身赴任して現在に到っている。 7.在家禅者のプライド 朝礼での「見込客追跡」の手法は、実は私の発案ではなく先輩所長に教 - 41 - わったやり方である。しかし実践している人を見たことはなかった。それ はリスクが大きすぎるからである。下手をすると職員から総スカンをくら い多くの退職者を出し、自分の立場を危うくするからである。 当時は必死になっていただけで、なぜ成功したのか解らなかった。今に して思えば、 「退職前に会社に恩返ししたい」という一念だけが私を突き動 かしていたように思う。出世競争などもう全く関係なかったし、何の見返 む く ど く りもいらなかった。「無功徳」が彼女達の心を動かしたのかもしれない。 また赴任してエゴイズムの渦巻く営業所の状態を見たとき、職員一人一 れんさ ふっしょく 人がそのエゴの連鎖を払 拭しないかぎり、業績は伸びないだろうと直感 し、朝礼でもぐら叩きの如く一人一人と対決したのも禅の修行のお陰だと 思っている。 実は私は20年間禅の修行を中断していた。丁度この頃は人間禅とは縁が 遠くなってしまっていた頃だった。人間禅には10年程前に復帰したのだが、 今思うに修行を中断して道場から遠ざかっていた時でも、若い頃の禅の教 えは心の中で生きていたように思う。 学生の頃房総支部の智鏡さん、慧純さんの坐禅塾でお世話になっていた ことが財産になっていたのだと思う。 そしてまた禅は即効性がないと言われるが、それは違うと思う。確かに ご が 人間のエゴイズム(吾我)にどう対応するか等は、難しい問題だし、 「吾我」 こうあん み を扱う公案も修行がある程度進んでからでないと看ることはできないの か で、即効性がないのではと思われがちだが、25年前のまだ駆け出しでしか も修行を中断していた時でさえ、そこら辺の対応はできていたように思う。 たとえ修行歴が浅く全体像が見えなくとも、実社会で仕事や人間関係で 悩んだりしながら、修行を通して見えてくるものがある筈である。実生活 から離れて禅の修行などあるわけではないので、当たり前のことだがそこ が在家禅の優れた特徴だと思う。 しんずい 8.おわりに――松下幸之助の「経営の真髄」―― てんてき そして事業経営に於いて、この「吾我」が天敵であることは言うまでもない。 ある人が経営の神様と言われる松下幸之助に対し、 「経営の真髄とは何で - 42 - すか?」と尋ねたところ、松下幸之助は「雨が降ったら傘を差す」と答え たということである。 「雨が降ったら傘を差す」とは「当たり前のことを当 たり前のようにする」という意味だが、簡単そうに見えて実は大変難しい。 それは人間の内面に「当たり前のことを当たり前のようにする」ことが じゃま できない、何かブレーキをかけるもの、邪魔をする何かがあるからだ。そ れが「吾我」と言われているものだと思う。 そしてまたこの当り前すぎる一言は「大法に不可思議なし」と言われて いるのと同じように、 「経営に不可思議なし」とも暗に言っているのではな いだろうか。 きょうがい 松下幸之助は「経営の真髄」として自分の境 涯を示した。それが「雨が 降ったら傘を差す」だと思う。しかしこれは所詮松下幸之助自身のもので あって、他人の財産を眺めて見たところで意味がない。やはり自分の財産 は自分で築き上げないといけない。 ではどうすればいいのか。ここに人間形成の道筋を明確に示している点 とくひつ において、禅の修行の特筆すべきところがあるのではないかと思う。 <あとがき> もみじ 良寛の句に <裏を見せ表を見せて散る紅葉> というのがあります が、たとえ過去の体験であっても、自分の私生活を人に見せるのはやはり 抵抗があるものです。 私もそういう思いがありましたが、禅誌45号で、 「仙臺飲み屋考」を投稿 したとき、遊び半分の話でご批判を受けるのかなと思っていたら、ある道 友から「我々は在家禅者だから世の中でどうやって生きているかが問題な んだよね、……だからああいう庶民的な話もいいと思う。」と言われ随分喜 んでいただきました。 それで気を良くしたのとそれだけでなく、最近うちの社員で現場監督を していた者が、脳血管破裂で52歳の若さで急死することがあり、また私も 今年の12月で還暦を迎えることになり、先が見えてきたこともあります。 人間などはいつ死ぬかわかりませんし、またいつ死んでもかまわないの ですが、書けるうちに書いておこうと思い、後で赤恥をかくであろうこと - 43 - も覚悟して筆を取った次第であります。 へ た 私の拙い体験談でまた文章も下手ですが、新しく入会された方の参考に こうじん なれば幸甚の至りです。 なお、続編は次のような内容を考えています。 (二)【建設業転職後の落差。自分との戦い。】 ほうかい (三)【バブル崩壊後相次ぐ会社倒産と同業者の死。】 こくふく き し かいせい (四)【不況下で会社設立。倒産の危機を克服した起死回生の一手。】 (五)【リーマンショックで方針転換。関東進出に立ちはだかる壁。】 (六)【東日本大震災。そして東北の地へ。】 (つづく) ■著者プロフィール そ とう 浦野祖燈(本名/喜一郎) 昭和30年生まれ。千葉大学理学部卒業。建設 業その他の会社経営。昭和53年、人間禅白田 劫石老師に入門。現在、人間禅布教師。(東 北禅会) <禅 談> 案山子頌 井本 光蓮 秋も深まる頃、本部摂心会に参加したら、道場の茶室に耕雲庵老師の案 山子のお軸が掛けられていた。墨一色の枯れた案山子の墨画の上に讃語が 添えられている。老師の『新編碧巌集講話』の「孩子六識」の則にこの讃 - 44 -
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