サンディエゴ計画の終焉 - メキシコ革命と日米関係

203
サンディエゴ計画
サンディエゴ計画の
計画の終焉
南テキサスでは、
テキサスでは、誰にも罰
にも罰せられる事
せられる事のないレンジャースの横暴
のないレンジャースの横暴な
横暴な行為が
行為が、「モリン
「モリン事
モリン事
件」としてウイルソン大統領
としてウイルソン大統領を
大統領を巻き込んだ歴史
んだ歴史的大事件
歴史的大事件に
的大事件に発展した
発展した。
した。1916年
1916年4月の終、
折から5
から5月の初めにかけて、
めにかけて、メキシコ人
メキシコ人ホセ・モリンはJ
ホセ・モリンはJ.M.レアルの偽名
レアルの偽名でサンアントニ
偽名でサンアントニ
オから国境
オから国境までのテハノやメキシコ
国境までのテハノやメキシコ人
までのテハノやメキシコ人を組織しようと
組織しようと奔走
しようと奔走していた
奔走していた。
していた。以前ビ
以前ビヤ派として戦
として戦
闘経験があった
闘経験があった彼
があった彼はデ・ラ・ロッサの従弟
はデ・ラ・ロッサの従弟から
従弟から勧誘
から勧誘されて
勧誘されて陰謀
されて陰謀を
陰謀を企画し
企画し、5月10日
10日を実
行日とし
行日とし、
とし、同志を
同志を募っていた。
っていた。一度実行部隊を
一度実行部隊を組織したら
組織したら、
したら、サンアントニオ周辺
サンアントニオ周辺の
周辺の鉄道と
鉄道と
通信回線を
通信回線を切断し
切断し、町に火を放つ、続いてブラウンズヴィル、
いてブラウンズヴィル、ミッション、
ミッション、キングスヴィ
ルでも同
ルでも同じ事を実行するつもりであった
実行するつもりであった。
するつもりであった。モリンは1914
モリンは1914年
1914年、カランサ軍
カランサ軍ジェネラルに
なったことを後
なったことを後で認めた。
めた。不覚にも
不覚にも仲間
にも仲間の
仲間の一人、
一人、サルバ
サルバドール・セルバ
ドール・セルバンテス大佐
ンテス大佐が
大佐が米国
捜査局への
捜査局への通報者
への通報者であったことから
通報者であったことから、
であったことから、彼の陰謀が
陰謀が明るみに出
るみに出た。セルバ
セルバンテスの通報以外
ンテスの通報以外
に、スペシャル・レンジャー・ハンソンとキング農園主
スペシャル・レンジャー・ハンソンとキング農園主シーザー・クレバーグも
農園主シーザー・クレバーグも既
シーザー・クレバーグも既に情報
を掴んでいた。
んでいた。
5月10日
10日、モリンはキングスヴィルでパン屋
モリンはキングスヴィルでパン屋を営む、元兵士ビ
元兵士ビクトリアノ・ポンセを
訪ねるため夜行列車
ねるため夜行列車に
夜行列車に乗った。
った。セルバ
セルバンテスが駅
ンテスが駅まで送
まで送りに来
りに来ていた。
ていた。ハンソンと捜査局
ハンソンと捜査局
の秘密情報員ハワード・ライトも
秘密情報員ハワード・ライトも同乗
ハワード・ライトも同乗していた
同乗していた。
していた。モリンはキングスヴィル駅
モリンはキングスヴィル駅から降
から降りる直
りる直
前、二人に
二人に逮捕された
逮捕された。
された。ライトはモリンをキングスヴィルの刑務所
ライトはモリンをキングスヴィルの刑務所に
刑務所に入れる手配
れる手配をし
手配をし、
をし、保
安官にポンセの
安官にポンセの逮捕
にポンセの逮捕を
逮捕を依頼した
依頼した。
した。二人はもちろん
二人はもちろん容疑
はもちろん容疑を
容疑を否認したが
否認したが、
したが、警察側は
警察側は二人から
二人から証
から証
拠書類を
拠書類を押収していた
押収していた。
していた。数度にわたる
数度にわたる尋問
にわたる尋問で
尋問で一部罪状を
一部罪状を認めた二人
めた二人をキングスヴィルの
二人をキングスヴィルの刑
をキングスヴィルの刑
務所に
務所に残したまま、
したまま、ライトは連邦
ライトは連邦大
連邦大陪審への
陪審への報
への報告書を作成するためにサンアントニオに
作成するためにサンアントニオに帰
するためにサンアントニオに帰
った。
った。その間キングスヴィルの保安官
キングスヴィルの保安官はメキシコ
保安官はメキシコ人
はメキシコ人関係者
関係者十七人
十七人を拘束し
拘束し、留置所
留置所は溢れ
かえった。
った。
5月24日、サンアントニオ・エックスプ
サンアントニオ・エックスプレス紙
レス紙がモリンの写真
がモリンの写真入
写真入で、モリンとポンセ
の死を報じた。
じた。秘密情報員
秘密情報員ライトは驚
ライトは驚いて真
いて真偽を確かめるため、
かめるため、キングスヴィルの保安官
キングスヴィルの保安官
スカーボ
スカーボロウに電話
ロウに電話を
電話を入れた。
れた。モリンは殺
モリンは殺人容疑、
人容疑、ポンセは1915
ポンセは1915年
1915年のブラウンズヴィ
ル列車襲撃
列車襲撃事件
襲撃事件に
事件に加わったとして、
わったとして、ウィラシー郡
ウィラシー郡保安官が
保安官が身柄確認
身柄確認のために二人
のために二人を
二人を引き取
ったことが判
ったことが判明した。
した。次に電話したウィラシー
電話したウィラシー郡
したウィラシー郡保安官クリント・アト
保安官クリント・アトゥ
クリント・アトゥキンスは単
キンスは単に、
ブラウンズヴィルへ送
ブラウンズヴィルへ送るためにレンジャーに渡
るためにレンジャーに渡した、
した、レンジャーの名前
レンジャーの名前は
名前は知らない、
らない、と言
った。
った。ブラウンズヴィル捜査局
ブラウンズヴィル捜査局の
捜査局の秘密情報員は
秘密情報員は八方手
八方手を尽くしてモリンとポンセを探
してモリンとポンセを探し回
ったが、
ったが、何一つ情報は
情報は得られなかった。
られなかった。
ウィラシー
ウィラシー郡保安官アト
保安官アトゥ
アトゥキンスはモリンとポンセを町
キンスはモリンとポンセを町の外へ連れ出すと、
すと、キャプ
キャプテ
ン・JJ
ン・JJサン
JJサンダ
サンダースのレンジャースA
ースのレンジャースA部隊に
部隊に二人を
二人を引き渡した。
した。捜査局から
捜査局から電
から電報で問い質
されたキャプ
されたキャプテン・サンダ
テン・サンダースはモリンとポンセが殺
ースはモリンとポンセが殺された事
された事は知らないし、
らないし、何処にいる
何処にいる
かも知
かも知らない、
らない、と回答した。
した。ライトはテキサス・レンジャース
ライトはテキサス・レンジャース副
はテキサス・レンジャース副官ハッチ
ハッチンスに釈
ンスに釈明を求
めたが、
めたが、一月待
一月待っても回
っても回答を得られないため、
られないため、オースティンの本
オースティンの本部へ出向いて、
いて、サンダ
サンダー
106
107
204
スからの報
スからの報告書を読んだ。
んだ。それによると、
れによると、5月22日
22日、ウィラシー郡
ウィラシー郡保安官ブルックスの
保安官ブルックスの
許可を
許可を得て、サンダ
サンダースとレンジャー・モスレーの
ースとレンジャー・モスレーの三人で、モリンとポンセを連
モリンとポンセを連れて、
れて、検
証のためにノリアスに向
のためにノリアスに向かった。
かった。そこからブルックスとモスレーは二人
こからブルックスとモスレーは二人を
二人を車に乗せて、
せて、レ
イモンドゥ
イモンドゥヴィルへ向
ヴィルへ向かった。
かった。その途中、
途中、検証している間
している間に二人は
二人は突然走
突然走って藪
って藪の中に逃
げ込んだ。
んだ。辺りは暗
りは暗かったため二人
かったため二人を
二人を見つけることが出来
つけることが出来なかった
出来なかった、
なかった、とブルックスとモス
レーから報
レーから報告を受けた。
けた。翌日皆で手分けして探
けして探したが行
したが行方は分からなかった、
からなかった、と報告書は
結ばれていた。
れていた。
ラレドのスペイン語新聞
ラレドのスペイン語新聞はレンジャースの
語新聞はレンジャースの暴
はレンジャースの暴挙をトップ
をトップで報じ、リオグランデ・
リオグランデ・ヴァレ
ーのテハノは懸命
ーのテハノは懸命に
懸命に抗議した
抗議した。
した。キングスヴィルではフ
キングスヴィルではフェノン・モライダ
ェノン・モライダ牧師が
牧師が教区民の
教区民の嘆
願書を携えて巡回裁判所
裁判所判事ウェスレー・ホックに、
ウェスレー・ホックに、大統領へ
大統領へ手紙を書くよう訴
よう訴えた。ホ
ックはそ
ックはそれを認
れを認め、訴えを英訳してウイルソン
英訳してウイルソン大統領
してウイルソン大統領へ
大統領へ送付した。
した。モリンとポンセは、
モリンとポンセは、他
の多くの者と同じように、
じように、メキシコ人
メキシコ人であるが故
であるが故に、無実でありながら裁判
でありながら裁判にもかけられ
裁判にもかけられ
ず殺されたと
されたと訴え、この国
この国の法の下で当然受けられる
当然受けられるべ
けられるべき保護を求めた。
めた。
前年の
前年の暮れ、南テキサスでメキシコ系住民
テキサスでメキシコ系住民が
系住民が法律執行官
法律執行官により
行官により虐待
により虐待を
虐待を受けていたことを
具に報告を受けていた大統領
けていた大統領は
大統領は、法務省に調査を命じた。
じた。報告を受けると、
けると、大統領は
大統領は連邦
司法長官
司法長官に、このような問
このような問題が引続き発生しないよう、
しないよう、テキサス政府
テキサス政府と
政府と充分に
充分に打ち合わせ
をするよう申
をするよう申し付けると同
けると同時に、ホック判
ホック判事に感謝の
感謝の意を伝えた。更に大統領は
大統領は内密で、
法務省と司法省へ
司法省へ、囚人をテキサスレンジャーへ
をテキサスレンジャーへ引
レンジャーへ引き渡すことを禁
すことを禁じた。
じた。これで事
これで事は収ま
らなかった。
らなかった。ホック判
ホック判事が大統領に
大統領に申し立てをしたことを知
てをしたことを知ったキャプ
ったキャプテン・サンダ
テン・サンダース
は激怒した
激怒した。
した。彼は数ヶ月間塞
月間塞ぎこんでいたが、
こんでいたが、ある朝
ある朝ファリ
ファリュフリアスの
ュフリアスの裁判
リアスの裁判所
裁判所の中にあ
る判事室に押しかけた。
しかけた。サンダ
サンダースはホック判
ースはホック判事に散々悪態をついてから
悪態をついてから、
をついてから、お前が大統領
に書いたのか、
いたのか、と判事に詰め寄った。
った。判事が肯定すると
肯定すると、
すると、いきなりピ
いきなりピストルを
ストルを抜いて判
いて判事
の頭を殴った。
った。判事が武器を
武器を持っていたら殺
っていたら殺されていた。
されていた。サンダ
サンダースは判
ースは判事が無防備なの
無防備なの
を知ると、
ると、ブツブツつぶやきながら出
やきながら出て行った。
った。古参のレンジャー・キャ
古参のレンジャー・キャプ
のレンジャー・キャプテンが判
テンが判事室
でアングロの判
でアングロの判事を襲って罰
って罰せられない状
せられない状況下で
況下で、当時のメキシコ
当時のメキシコ人
のメキシコ人やテハノが受
やテハノが受けた仕
けた仕
打ちが、
ちが、どのようなものであったかは容
のようなものであったかは容易に想像できる
想像できる。
できる。
108
109
7月初旬
月初旬、PSD襲撃再開
PSD襲撃再開の
襲撃再開の僅か二週間後、
間後、南テキサスの国境
テキサスの国境はすっかり
国境はすっかり平静
はすっかり平静を
平静を取り戻
し、侵入してく
してくる武装集団も
武装集団も見られず
られず、攻撃もな
攻撃もなく
もなく、アングロ住民
アングロ住民の
住民の不安も
不安も徐々に解消し
解消し
つつあった。
つつあった。デ・ラ・ロッサとピ
デ・ラ・ロッサとピサニャはウエッブ・ステーションとサンイグ
サニャはウエッブ・ステーションとサンイグナチ
エッブ・ステーションとサンイグナチオでの
ナチオでの
屈辱的
屈辱的な失敗で
失敗で、落胆して
落胆して身
して身を引き、デ・ラ・ロッサの一
デ・ラ・ロッサの一団は解散した
解散した。
した。次の週、リカウ
トは更
トは更に数人の
数人の叛乱者
叛乱者を逮捕したことを
逮捕したことをブラウンズヴィル
したことをブラウンズヴィル防衛
ブラウンズヴィル防衛隊
防衛隊長に報告した。
した。こうして
PSDは
PSDは終焉した
終焉した。
した。
当時テキサス
当時テキサス州議会
テキサス州議会でただ
州議会でただ一人
でただ一人メキシコ
一人メキシコ系議
メキシコ系議員
系議員であったホセ・トーマ
であったホセ・トーマス・カナ
ス・カナレスは1
レスは1
877年
877年にブラウンズヴィルで
にブラウンズヴィルで生
ルで生まれた。
まれた。父親は
父親は裕福な
裕福な農場主であった。
であった。盗賊戦
盗賊戦争が収ま
り数年経った
数年経った1919
った1919年
1919年のはじめ、
のはじめ、カナレスは何
レスは何の罪もない多
もない多くのメキシコ人
のメキシコ人を、メキシ
110
205
コ人であることだけが理由
であることだけが理由で
理由で殺害した
殺害した残忍
した残忍なテキサ
残忍なテキサス・レンジャースを
なテキサス・レンジャースを糾弾
ス・レンジャースを糾弾し
糾弾し、テキサス・
レンジャースに関
レンジャースに関する法律改革案
する法律改革案を
法律改革案を議会に
議会に提出した。
した。彼はその聴聞会でレンジャース
聴聞会でレンジャースが
でレンジャースが犯
した非
した非道の数々を取り上げ、死の脅迫を
脅迫を受けながら改革
けながら改革を
改革を迫った。
った。その中で取り交わされ
たやり取
たやり取りの中
りの中に次のようなものがある。
のようなものがある。「ところで
「ところで、
ところで、カナレス議
レス議員、あなたの血
あなたの血統はメキ
シコ人
シコ人ですね、
ですね、違いますか」
いますか」「私
「私はメキシコ人
はメキシコ人ではありません。
ではありません。私はアメリカ市民
はアメリカ市民です
市民です」
です」「血
「血
統は?」「エー
「エー、
エー、あなたがそ
あなたがそう云うならばそ
うならばそうです
ばそうです、
うです、しかし私
しかし私はテキサス・メキシカンです」
はテキサス・メキシカンです」
法案は
法案は小差ではあったが
小差ではあったが否
ではあったが否決された。
された。南テキサスに配
テキサスに配属されていたレンジャースたちは
されていたレンジャースたちは
小躍りして喜
りして喜んだ。
んだ。カナレスは深
レスは深く傷つき、
つき、間もなく
もなく政治から退
から退いて弁
いて弁護士となりそ
となりその後、
虐げられたテハノやメキシコ人
られたテハノやメキシコ人を支えた。レンジャースの残虐
レンジャースの残虐行為
残虐行為を
行為を克明に記したテキサ
ス州議会カ
州議会カナレス法案審議
レス法案審議々
法案審議々事録は印刷されることな
印刷されることなく
されることなく直ちに機
ちに機密文書となり、
となり、197
1970
年代まで公
まで公開されなかった。
されなかった。しかも事件
しかも事件当時
事件当時は
当時は州政府が
州政府が厳しく報道管制
報道管制を
管制を布いていたため、
いていたため、
この盗賊
この盗賊戦
盗賊戦争は長い間忘れられていたのである。
れられていたのである。
1848年2月2日、アメリカの侵
アメリカの侵略戦争後締結されたグァダ
されたグァダルーペ・イ
ァダルーペ・イダ
ルーペ・イダルゴ条約
ルゴ条約に
条約に
より新
より新たに合意
たに合意された
合意された国境線以
された国境線以北
国境線以北に住むメキシコ
むメキシコ人
シコ人をテハノと呼
をテハノと呼んだ。
んだ。テハノの多
テハノの多くは国
家という概念
という概念が
概念が希薄で
希薄で、彼らは漠
らは漠然とメキシコとアメリカの二
とメキシコとアメリカの二つの国
つの国に属していると思
していると思っ
ていた。
ていた。テハノが自
テハノが自らをアメリカ市民
らをアメリカ市民であると
市民であると自
であると自覚する契機
する契機となったのがサンディエゴ
契機となったのがサンディエゴ計
となったのがサンディエゴ計
画による盗賊
による盗賊戦
盗賊戦争であったと言
であったと言われている。
われている。
111
106. James A. Sandos, “Rebellion in the Borderlands, Anarchism and the Plan of San Diego,
19041904-1904”
1904”, University of Oklahoma Press,
Press, 1992, P160
107.
Charlehs H. Barris III and Louis R. Sadler, “Texas Rangers and the Mexican Revolution”
Revolution”,
University of New Mexico Press, 2002, P304
108. Ibid. P306
109. James A. Sandos, “Rebellion in the Borderlands, Anarchism and the Plan of San Di
Diego,
ego,
19041904-1903”
1903”, University of Oklahoma Press, 1992, P161
110.Benjamin Heber Johnson, “Revolution in Texas, How a Forgotten Rebellion and its Bloody
Suppression Turned Mexicans into Americans”
Americans”, Yale University Press, 2003, P143
111. Ibid. P175