かなであん No.271

浄土真宗本願寺派 慈雲山龍溪寺 奏庵
ざい
2015.11.20 発行
kanadean
No. 271
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故大原性実師の次のような法話を
色々なことに思いが巡らせられ
生かされる命を見つめて 思い出します。
るようになってきます。それは、
変わる、変わらん、 …「ご信心をいただいたら、ど
直接的な命のことであったり、
変わらん、変わる。 のようになるのでしょうか。前と
経済的なことであったり、やは
変わった人間になるのでしょうか」
一番多かったのは、身近な家族、
今年も「報恩講」をお迎えいた
と質問をいただくことが良くあり
友やご門徒のへの思いでした。
します。何事を置いても勤めさせ
ます。私は決まったように「それ
時には殊勝な心でいっぱいにも
ていただいてきた「報恩講」、そ
は、変わる、変わらん、変わらん、
なりましたが、その思いも継続
の一つ一つを思い返すと色々なこ
変わる、ということになります」
しないのです。 とが蘇ります。
と答えます。それは本来、凡夫の
しかし、身に沁みて味わった
ご門徒の人たちでお寺が賑わっ
機相は性得の機といい、生まれ落
気づきがありました。一刻一刻、
て嬉しかった幼い頃の報恩講、ご
ちたときから最期まで変わらない。
命を思わずにおれない状態にあっ
本山奉職時代の盛大な報恩講、カ
欲しい、惜しい、憎い、可愛いな
ても、我が身というとらわれの
ナダで、日本では失われてしまっ
どという、三毒五欲の本能の支配
心から出る欲から離れることが
た家庭の報恩講や地域の報恩講な
を受けているのが人間の姿であり、
できない「変われない」私です。
どの伝統が、言葉も違う国にきち
これは「変わらない」という一面
そして、そのような「変わる、変
んと受け継がれているのに接した
です。それでは「変わる」ところ
わらん」ままの私に、ずっと親鸞
感動、父が亡くなり葬儀と併せて
はどこかというと、今まで、両舌、
聖人のお念仏のみ教えの優しさ
勤めた報恩講もあり、この奏庵も
悪口、妄語、綺語、を平気で吐い
が届いてあったことです。 報恩講から始まりました。 ていた同じ口からお念仏「南無阿
ご法義は、幾度重ねてお聞か
そして今年は自らが命に直面す
弥陀仏」が出てくること、そして
せいただいても増えていくわけで
る病を得て迎える報恩講です。思
また、時には、人様の頭を叩こう
はありません。聴いても聞いても、
い出深い報恩講の一つになること
としたり、ものを盗ろうとした同
気づいても気づかされても、自分
と思いますが、先立っては北海道
じ手が、自然に合掌されて仏さま
中心の三毒五欲の中に生き続け
の自坊の報恩講を勤めてまいりま
を拝むようになる。これは大変わ
ているお互い、「変わる、変わ
した。お参りのご門徒は髪の毛の
りであり「変わる」面だと。… らん」を繰り返す私たちです。 無くなった私に涙しながらも、今
* * * だからこそお念仏申し、気づき
確かにお互い命あって集えること
身体の変調を自覚し出したのは
直させていただくのです。親鸞聖
を喜び合い、例年の通り粛々と勤
お盆過ぎ頃からでした。その症状
人はいつも、「力なく命終える
めさせていただくことができまし
は日に日に悪くなり、食べること、
とき、必ず掴みとってお浄土へ
た。毎年勤め終える度に「ありが
飲むこと、息を吸ったり吐いたり
生まれさせて下さる如来の大慈
たく」思う報恩講ですが、今年の
することが困難になっていき、そ
悲にお任せして、安心していのち
報恩講にはまた違った「ありがた
の原因が悪性の腫瘍であると判り
を全うせよ」と、力づけて下さっ
入院加療が始まりました。すぐさ
ただきました。 ま始まった過酷な化学治療でした
ていたのです。 * * * が、それでも少しづつ体調が改善
づきのご勝縁です。どうぞお参り
ハワイの開教総長も勤められた
されてくると、考える余裕が生れ、
下さい。 合掌
さ」と「気づき」を味あわせてい
報恩講は報恩感謝の集い、気
お 礼 宗祖親鸞聖人報恩講
ご心配おかけしておりま
したが通院治療できるまで
日 時
になり、ひとまず退院する
11月26日(木)
ことができました。おかげ
午前11時より さまで今のところ治療は順
調に進んでおり、感染症な
「真宗宗歌」
どに気をつけながら2月ま
正信偈 で予定された化学治療が滞
法 話 りなく受けられるよう養生
ご文章拝読
するのが、今の私の仕事だ
「恩徳讃」
と思っています。皆さまの
∼*∼
お心遣いありがたく、心よ
おとき り御礼申し上げます。お一
お抹茶接待
人お一人にお礼できません
こと紙面を借りてお詫びい
浄土真宗のみ教えを開いてお
たします。
示し下さった親鸞聖人のご苦労
ありがとうございました。
を偲びお慕いして営まれる浄土
真宗の大切な法要をお迎えしま
す。ご法事なのに、朱の蠟燭に
最も華やかなお荘厳でお勤めす
るのは、私たちがお念仏を申す
人生を歩ませていただく何より
の勝縁だからです。本来ご法事
とは、縁ある人々が集いそのご
縁に遇えることは、親様と呼ば
れる親鸞聖人とご先祖のおかげ
と感謝し、ご恩に報いるためお
勤めさせていただくものです。 どうぞお参り下さい。
仏教が生んだ日本語 【入院】 この入院という言葉も、
もとは仏教語である。老病
死、という誰も避けること
のできない存在の課題を正
面から引き受け、その苦悩
を超克するために出家して
寺院に入ることを、入院と
言うのである。入院中は、
日頃は忘れていることが多
い、生老病死という人生の
厳粛な事実を思い知らされ
ていた。病院に入ることと
寺院に入ること、それらが
妙に重なって、ふと気がつ
くと、今でも難しい90年
という長い人生を生き抜い
た親鸞聖人の生涯に思いを
馳せていた。 (参考、大谷大学編
「仏教が生んだ日本語」)
編 集 後 記
はからずも見舞いを受ける身になって、
単にありがたいという単純なものでは
ない、その方々の「見舞い上手」に感
心することしきりだ。■もちろん恩着
せがましさなどは決して感じさせない。
その中には黙って見守ってくれる人も
いるが、何もせずに案ずるという気遣
いの大変さも伝わる。ことさらに同情
するものでもない。むやみに明るすぎ
もしない。悟りきったようなことも言
わない。確信のない情報で治療を惑わ
せるようなことはしない。心を寄せて
くれる皆が案じてくれているのを病床
でひしひし感じながら、自分はこのよ
うに出来ていただろうかと省みる。■
その誰もが、自分もしくは大切な家族
がその立場になったことがあるからだ
うか。思えば皆、その経験を通り抜け
てきた人ばかりだ。経験がそうさせる
人間を育てたのか…、もともと下地が
あったからそう消化でき、思いやりを
上手く相手に伝えられるようになった
のか…。寸前の命を思う病を経験して
も自分はその優しさを返せるようにな
れるのだろうか…。■親鸞聖人の口伝
抄を思う。家族を亡くし、うろたえ嘆
き悲しむ人たちに、信仰深く帰依した
念仏者と言われる人が「取り乱すな。
往生したのだから、めでたく、喜ぶべ
きだ」と言うのを聞いて、「飾らずに
嘆き悲しむことこそ、他力を信ずる凡
夫の姿だ」と親鸞聖人はおっしゃって
いた。■日頃から人間の素直な心の働
きを感じ大事にしなければ、血の通っ
た人間味あふれる言葉や行動は出てこ
ないし伝わらないだろう。人間の善悪
の脆さを超え、本当の悲しみというも
のを理解させ気づかせる深い心を育む
のが宗教のはずだが、「宗教」を傘に
きた、パリの同時多発テロ、ロシア機
の爆破など、テロの恐怖が世界中に広
がっている。■相手に同情するのを善
とするのも思い上がり、自分が正当化
されず虐げられているから戦うという
のを善とするのも思い上がり、戦いは
いつも両方が善だと言い張って起こっ
ている。「善行」と思ってやることが
過ちを犯させているのだ。「善」こそ
難しいものだと思わされる。(N)