39-2 - インディアナ日本語学校

インディアナ日本語学校
No39-2 号
学 校 だ よ り
ま し早
本いいえわごくわ
をっつにたとかた
よしもかしをらし
んょよえがしよの
でにるっねてるパ
く にてるいおパ
れ 、きすまそは
ま
まこすく、
すし。まあ
す
。
でさ
。
5分間作文
ホ
ー
バ
ス
モ
ナ
&
2015 年(平成 27 年)2 月 28 日(土)
ぼくのかぞく 1年1組
はの あ
目がはり ぼ
と上はま く
は手とす に
ななに。 は
ととて か
口こい ぞ
でろる く
ち に見赤 らに でさ すでと と
だ そたちけんまゆすんち。すこ に
っ っらゃどぼっり。すち 。ろ て
あは
た く、ん、うたち うと
い
け りいのこもくゃ がに とえ る
と
ど でまとののにん とて 、
にさ こ
わ 、のきまだては くい て
と
ら へゆのえかいか いる いく が
い んりビ、らまぞ なと る文 い
ま なちデぼ。せく とこ とを っ
し 気ゃオく んな ころ こか ぱ
たもんを が 。 の ろ は ろ く い
要約文
。
ふ
じ
わ
ら
有
吾
大大 い
いすすなまわ
っききおすた
しででは、し
ょすす、なは
に。。すおい
ね わごはも
て たくいう
い しわたと
ま もたず、
す なしらな
。 おがでお
が すが
し
ま
だ
ゆ
ず
き
4 年2 組
滝本ありす
「ついに見つけたぁ。」と、私と仲の良いツチノコそうさ官がいきなりさけんだ。何かと思って
近くに行ったら、そうさ官の目の前に五百ぴきぐらいのツチノコの大群がいた。いろいろな色で、
体長十センチ。写真をとってから、家に持って帰ってペットにしようとした。
だが、にげ足が速く、「待て待て。待て待て~。」と二人で追っかけたら、あら不思議、
まわりの木や草、花がすごく大きくなっていった。そうしたらツチノコに、「さぁ。ボクたちのか
くれがへおいで。」と言われて乗った。ツチノコのかくれがに着いたとき、
大声をあげた。「顔と体がツチノコ化している・・・。」
「やだぁ。」と、二人でさけんだら、ぱっと目がさめた。
ゆめだったから急いで学校へ行った。
(ここで時間切れ)
中島虎太郎
「ついに見つけたぁ。」と喜んでいった。ぼくは、ついにツチノコを見つけたのだ。
そのツチノコを家にニコニコしながら持って帰ると、お母さんが、「テスト100点だよ。」と言
った。これは、ツチノコのラッキーパワーだった。次の日は月曜日なのに、お母さんに起こされな
かった。これは、ぐう然休みだったからだ。「今日は最高だぁ。」と思った。
これもツチノコのラッキーパワーだ。「イェーイ。」なんて言ったら、
お母さんが、「動物園に行くよ。」と言った。ツチノコ最高です。(ここで時間切れ)
要約文を書こう
「ウナギのなぞを追って」
吉尾亮太朗
ウナギは、おいしい食べ物として知っているでしょう。でも、実は、どんな一生を送る生き
物か分からないのだそうです。「ウナギのなぞを追って」は、ウナギの赤ちゃんのレプトセフ
ァルスが生まれる場所を明らかにするために、七十年以上の年月がかかったという調査の話で
す。
筆者は、マリアナの海でウナギがどんな一生を送る生き物なのかを調査しました。日本中の
ウナギは、マリアナの海に集まってきて卵を産みます。調査グループは、レプトセファルスと
よばれるウナギの赤ちゃんをさがすことから始めました。
最初に台湾で、五十四ミリのレプトセファルスがとれました。そして、北赤道海流で、十ミ
リ前後のレプトセファルスを約千びきつかまえました。近くの三つの海山が卵を産む場所を決
めるのに役立っているのかもしれないと筆者は考えました。それに、新月のころに合わせて、
いっせいに卵を産むのかもしれないとも考えました。2005年にマリアナ諸島の西にある海
山付近を調査したら、ウナギが卵を産む場所にたどりつくことができました。
知りたいことはまだまだふえるばかりなので、筆者は毎年マリアナの海に
行きます。
ぼくは、「ウナギのなぞを追って」を読んで、ウナギが卵を
はるか遠くのマリアナの海で産むということを教わりました。
「海の家」を読んで
6年2組
池田 七望
まず海の命とは、瀬の主クエのことをさしているんだと思います。201ページの「大漁はこ
の海の命だと思えた。」という主人公太一もそう思うように、この物語読んでいる私もこのク
エは海の命だと思ったからです。
それから太一、おとう、与吉じいさにはそれぞれきょうつう点があると思います。それは海
に感謝する、海のめぐみを大切にするのだと思います。おとうや与吉じいさは死んでしまいま
したが、その二人の死んだ悲しみを背おっての漁師太一はやっぱり、ほかの漁師とは一味違う
、村一番の漁師だけあると私は思いました。
私は太一が瀬の主をつきささないなんて、おどろきました。私だったら、絶対にうごこうと
もしない瀬の主クエをつきさしてしまうと思ったからです。これがまぼろしの魚、村一番の漁
師の父をやぶった瀬の主なのに、父のかりもあるのに、私だったらつきさします。
でも太一はつきささなかったということについては、私も少しぎもんであるけれど、太一に
とって、この大漁は海の命だと思えたから、つきささなかったという理由が
あるのなら、つきさすことはないかもしれないと、この物語の最後まで
読んで思いました。
太一はおとうや与吉じいさのように、海のめぐみを大切にするんだなと
思いました。そして、私も海のめぐみを大切にしようと、この物語を
読み終えて、あらためて感じました。
卒
中崎
玄
ぼくの将来の夢は、バレーボール
選手です。ぼくはバレーボールを 1
年生から始めました。姉の友達が姉
をバレーボールにさそったことが、
ぼくとバレーボールの出逢いです。
姉の練習中にボール拾いをしてい
て、1 回だけサーブをうってみたらサ
ーブが決まりました。それをコーチ
が見ていて、
「バレーボールやってみ
る?」とさそってくれたのがバレー
ボールを始めるきっかけとなりまし
た。
しかもそこのバレーボールのグル
ープが、ゆいいつ男子のバレーボー
ルがあるクラブでした。それからバ
レーボールにはまって、今まで続け
ています。
ぼくは今もバレーボールを続けて
います。続けていられるのはコーチ
のおかげです。男子のバレーボール
クラブがないのに、女子バレーボー
ルメンバーと一緒に練習をさせても
らっています。
でも同じ歳の女子とやると力がち
がうので、2 歳上の 14 歳の
人たちとやっています。
ぼくは今まで支えて
くれた人たちに、感謝を
こめてありがとうを
言いたいです。
業
に
向
け
て
「6年1組」
橋爪
佐和
私はお父さんの仕事で10ヶ月の時からアメリカに住んで
います。アメリカの学校に幼稚園からずっと通っています。
日本語学校もそうです。
アメリカの学校で一番楽しかったことは、学校が終わった
あとのドラマクラブです。日本語学校で一番の思い出は、運
動会です。特に、今年の運動会はリレー選手に選ばれたので
とてもきん張しました。1組の優美ちゃんには勝てなかった
けれど、自分のベストの力を出したので嬉しかったです。
わたしは2年生の夏に日本の学校に行ったことがあります
その時、図工でロボットを作りました。
それがすごくおもしろかったです。
いつかまた、日本の学校に行って
みたいと思います。
小林
和花
みなさんは先生の仕事を知っていますか。先生は、生徒た
ちに算数、国語、社会、理科などを教えてくれます。ですが
その他にも、人にあいさつをするようにしたり、勇気を出し
てくれたりします。
私はこの6年間、お世話になった先生たちに感謝します。
私は、幼稚園の時から話すのがきらいでした、でも今は、話
すのはとても大切だと分かりました。これは先生方や友達の
おかげだと思います。これからもいっぱい
学んでいきたいと思います。
先生方、ありがとうございます。
これからもがんばっていきます。