「土木技術者が体験した地雷除去事業」 国建協情報

国建協情報
No.777
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所
感
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協会活動
CONTENTS
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2007
土木技術者が体験した地雷除去事業
●小池
豊
タイ UNESCAP 主催専門家会合に参加
中国 ETC 専門家会議を開催
当協会個人会員の中込氏が外務大臣表彰を受賞
測量部会を開催
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調査報告
カンボジアにおける援助方針策定調査を実施
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海外事務所から
フランス、建設業における資格認証システムを改革
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小沢賞受賞記念寄稿
海外工事を振り返って
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国土交通省
国土交通省関係専門家派遣状況(6 月派遣)
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外 務 省
パナマに円借款を供与
●京野
忠
インドネシアなど 9 カ国に無償資金協力
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JICA
8∼9 月に実施予定の調査案件
所 感
土木技術者が体験した地雷除去事業
私は 2005 年から 2006 年にかけてプロジェクトマネージャーとし
て、タイ・カンボジア国境に位置するカオ・プラ・ヴィーハン遺跡
ジオ・サーチ(株)
周辺での地雷除去事業に従事しました。国際技術協力としての地雷
企画開発室リーダー
除去事業の特徴と私の現地での体験について紹介させて頂きます。
小
池
豊
JAHDS との出会い
国内 14 年間のコンサルタント業務の後、1998 年から 7 年間、国
際協力機構の社会開発調査で特に地震防災計画などに従事してきま
した。それらの業務実績と経験を今後発展させるために、少し違っ
た視点で国際技術協力の形を経験したいと考えていた折に出会った
のが、ジオ・サーチ(株)の会長であり、認定特定非営利活動法人人
道目的の地雷除去支援の会(JAHDS)の事務局長をしていた冨田
洋氏でした。冨田氏のお誘いを受けて、私はジオ・サーチ(株)に転
職すると同時に、2005 年から 2006 年末まで JAHDS に 1 年 8 ヶ月
出向しました。
冨田氏は、1990 年に地中レーダを用いて路面下の空洞を探査する
技術を、建設省(当時)の要請で(財)道路技術保全センターととも
に開発していました。その技術に注目した国連からの要請を受け、
自前で地雷探査装置の開発を始めたのです。カンボジアでの実地試
験を行う中で、地雷除去に必要なものは車両・通信も含めた総合的
な支援であり、一企業ができるようなものではないという結論に至
り、当時(株)セコムの会長であった飯田亮氏の協力のもとに 1998
年 JAHDS を設立しました。企業の社会貢献活動として各企業の得
意技を集結させるという発想は、後に個人会員 1,500 名、250 団体
が支援する大きな活動に展開していきました。国建協からは「2001
年度
地雷除去後の復興を目的とした地理情報システムによる土地
開発計画事業」として事業支援を受けています。設立当初の活動は
広報活動、地雷除去団体への後方支援活動などでしたが、成果や効
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率性を高めるため、2002 年に自ら地雷除去チームを編成して活動を
開始しました。2004 年からはアジアの平和へ続く道「ピース・ロー
ド」を合言葉にカンボジア国境付近のタイ国で事業を進めていまし
た。
JAHDS はその名の通り、
人道目的の地雷除去を実施する NPO で
あります。私を一番惹きつけたのは「地雷除去は手段であって、最
終的な目的は地域の復興」という考え方でした。地域の復興の可能
性があり、地雷除去によって地域への経済インパクトのある場所を
選定し、地雷除去が地域の平和の構築に直結する、ということです。
また地雷除去事業は企業の社会貢献活動として実施されるもので、
最終目標は現地への技術移管、現地組織の自立化にありました。資
金調達についてはプロジェクト費用の 1/3 を外務省の日本 NGO 支
援無償資金協力に、残り 2/3 を企業と個人の支援で賄っていまし
た。そして私に課せられた任務は、JAHDS の最後の地雷除去事業
を無事故で完成させ、現地に移管することでした。
地雷除去現場−タイ王国カオ・プラ・ヴィーハン地域
現場は「山上の聖なる寺院」という名前のカオ・プラ・ヴィーハ
ン寺院の周辺です。ここはアンコール・ワットより古く、9 世紀後半
から 300 年かけて建立された巨大な遺跡で、バンコクから北東へ
600km、ラオス・カンボジア・タイの国境の交わるダンレッグ山脈
の陸の岬のように突き出た標高 657m の断崖の上に位置します。イ
ンドシナ半島の歴史とともにタイとカンボジアで領有が数世紀にわ
たり争われてきた場所であり、最後はポル・ポト派の拠点として使
われ、周辺に無数の地雷が敷設されていました。2004 年 3 月にタ
イ・カンボジア両国が友好と平和の象徴として共同開発をすること
で合意し、JAHDS はタイ国政府から地雷除去要請を受けたのです。
地雷除去は地道な作業
地雷除去事業は、除去対象地域に地雷や不発弾がないことを証明
する事業です。所定の手順に従って実施し、タイ国軍地雷除去セン
ター検査官による検査に合格する必要があります。検査では地表面
で金属探知機による金属反応がないことが要求されます。かつての
戦場には空き缶、釘、鉄条網、乾電池、薬莢、弾丸、地雷や手榴弾、
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そして砲弾の粉々の破片、さらにはタバコの銀紙とありとあらゆる
金属片が散乱しており、これをすべて除去しなくてはなりません。
よく地雷を何個除去したかという話を聞かれますが、それはあまり
重要でないことがわかります。遠隔操作の重機械で破壊させてしま
えばよいというアイディアもよく頂きます。実際にそのような重機
械は存在するし、日本の建機メーカーでも地雷除去装置を開発して
います。私の現場でも 2 種類の重機械を適用していました。しかし
岩盤が露出している丘陵地や森の中には、このような機械は適用で
きません。金属反応する物体をすべて取り除くためには、最終的に
は人力作業に頼らざるを得ない地道な仕事であります。
プロジェクトマネージャーとして
2002 年に地雷除去チームを編成するに当たり、国連の紹介を受け
て南アフリカ共和国の地雷除去専門家を招聘し、除去員は地元の農
民を雇用し、基本技術検討、除去チーム編成と技術教育が進められ
ました。
私が現地に赴いたのはチーム編成から 2 年が経過した時で、
地雷除去専門家は、もはや自立段階であり役目を終えたとして私と
入れ替わりで帰国しました。初めての現場で実感したのは、効率が
優先されるような雰囲気があり、一方で「安全第一」という意識は
薄かったのです。また地元社会との一体感も乏しく、会計管理、デ
ータ管理、さらに規律・規範意識についても問題がありました。そ
こで月例安全大会を開催し、日本から理事や支援者の方々、バンコ
クから日本国大使や公使の方々、タイ国の有識者、地元社会の代表
者、学校の教師、僧侶、さらにチームの家族親戚を御招待し、除去
員自らに事業の成果を説明させていきました。さらに地元の小学生
への地雷危険回避教育を担当させました。タイ国は階級制度の厳し
い封建社会で、普段接することのない方々とのふれあいは名誉なこ
とであり、除去員には徐々に自我が目覚め、地元の安全と平和を担
うヒーローとして生まれ変わっていく中で、当初の険しい顔つきは
自信に裏づけされた笑顔に変化し、地元の小学生たちから「将来は
JAHDS のユニフォームを着て地元との安全に貢献したい」という
声まで上がり始めたのです。データ管理には GIS データベースを最
大限活用し、現場報告を簡素化かつシステム化し、ウェブサイトで
逐次公開していきました。さらに除去員自ら編集させたタイ語のニ
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ュースレターやポスターはタイ国の関係者にも大きなアピールとな
っていったのです。そして 2006 年 7 月には無事故で除去活動を終
えることができました。地雷除去事業地は 2 年間の合計で 67 万平
方メートル(甲子園球場の 17 倍)に及び、地雷 30 個、不発弾 165
個、金属破片 35 万個を処理しました。そのような活動の中で、
JAHDS 支援企業の仲介を得てタイの著名な篤志家と出会うことが
でき、JAHDS の理念とスタッフ、機材、そして地雷除去活動を継
承してくださることに快諾を頂いたのです。「決心した最大の理由
は除去チームの目の輝きだ」と言われた時には感極まるものがあり
ました。新しく生まれ変わる団体名は JAHDS の理念の通り、
「ピ
ース・ロード・オーガニゼーション財団(PRO)
」となりました。
鎮魂と平和、そして地域の復興へ
国立公園事務所では地雷除去の終了検査が終わると同時に環境学
習施設を建設し始めました。2004 年には国境が閉鎖されていたにも
かかわらず、2006 年には 30 万人の観光客が訪問し始めたのです。
「地雷除去は手段であって、最終的な目的は地域の復興」の一助に
なることを実感しました。カンボジアの大平原を望む事業地の崖上
には、ここで亡くなられた方々の慰霊を兼ねた「ピース・ロード」
の記念碑を建立し、事業に参加されたすべての個人・団体、地雷除
去員など 2,000 の名前を刻みました。そして事業の完工式、PRO の
お披露目式を兼ねて 2006 年 11 月に現地で式典を開催し、JAHDS
は解散しました。数年後の世界遺産登録に向けた準備は進められて
おり、アンコールワットと結ばれるクメール文化の遺跡回廊が早晩
誕生するでしょう。平和への想いが未来に向かってさらに発展して
いくことを願ってやみません。
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