シンポジウムの内容

日乗連 AA 委員会
航空安全シンポジウム inTOKYO
安全な社会の実現を目指して~事故調査はどうあるべきか~
進行
本日は多数ご参加頂き、まことに有難うございます。それではシンポジウムを始め
たいと思います。
さて、航空関係以外の方にとって日乗連とはどういうものかとお思いのことでしょう。
簡単に言いますと、日本の航空、エアラインのパイロットあるいは(航空)機関士の組織
する組合の集合体のようなものでございます。従いまして、当シンポジウムを立ち上げた
スタッフも全員乗員として日々乗務しておるものでございます。
この日乗連という組織ができる前は、航空に関する事故が起きると、どうも機長の操縦
ミスとかという風に片付けられがちでありました。我々としては「乗員のせいとばかりは
言えないだろう」というところがありますが、なかなかその辺りは世間が動かない。社会
も変わっていかない。そこで我々自身が安全な運航環境を作っていくしかない。そういう
ところから日乗連が発足して活動しているわけです。
日々、世の中で起きている事故、航空機以外のものも見ているわけですが、とりわけこ
こ最近見ていて何と瑣末なことが原因での事故が多いのだろうと嘆いている毎日です。
例えば竹ノ塚の事故、あれは踏み切りの操作をした人が結果的には業務上過失致死とし
て逮捕されましたが、これは果たして安全な社会の実現に寄与しているのでしょうか。
我々はそうは考えておりません。結局踏み切りを操作した人だけが逮捕され、危険な踏切
を放置しただけでは全然解決にならないとに我々は考えています。さらに乗員の組織とい
うものは今までは、「結局あなた方は責任を逃れたいがためにやっている活動でしょう。」
と色眼鏡で見られがちな傾向がこれまでありました。
ところが、そういう風潮に最近変化が起きてきました。資料の中にもありますが、“安
全な社会を目指して、事故調査対策と責任追及のあり方”を見ますと、これは日本学術会
議つまり日本の最高レベルの知識集団が唱えている提言で、一言でいえば、我々の主張と
ほぼ同じです。「現場の行為者、直近行為者を刑事処罰としても再発防止には何の役にも
立たない。」ということを仰っているのを見て、我々は大変驚きました。
こんなに素晴しい方々が同じ主張をしている。こういうことに我々は気付いて、同じよう
な主張をしている人がいないかと動いたところ今日のお二人に巡り会ったという形にな
っております。直近行為者や直接の現場労働者を処罰しても、全く再発防止にはならない。
こういうことを今、日本中で知識人が、有識者や遺族や事故関係者の方々も考えるように
なりました。こうした動きを大きくしていくべく、今日のシンポジウムはその第一歩とし
て位置づけられます。
今日、わざわざお出でくださいましたパネリストの方々のプロフィールをご紹介いたし
ます。
最初の基調講演でお話頂くのは、元検事の郷原先生でいらっしゃいます。桐蔭横浜大学
大学院教授そしてコンプライアンス研究センター長、かつ事前の資料の訂正になりますが
同時に弁護士もなさっています。
今日は主に勤めておられた検察の内情や刑事責任の日本の現状であるとかを、鋭い角度
で切り取ったお話が伺えるものと期待しております。
■基調講演 1
「重大事故の原因究明と責任追及」
桐蔭横浜大学コンプライアンス研究センター
郷原 信郎 先生
お手元に桐蔭横浜大学コンプライアンス研究センターの HP からいくつか用意した資料が
ございます。
六本木ヒルズの 17 階にコンプライアンス研究センターという、コンプライアンス全般に関す
る教育の拠点を置いておりまして、2 年半くらい活動しています。
私どものコンプライアンスに関する基本的な考え方は、コンプライアンスというものは一般
に考えられているのは「法令を遵守すること」ですが、
「社会的要請に応えること、適応する
こと」、それがコンプライアンスだという考え方で活動しています。そういう意味でのコンプ
ライアンスにとって、‘事故の防止をどのように行っていくのか’‘安全な社会をどのように
構築していくのか’というのは最も大きな社会的要請に応える問題です。
<事故原因の究明と責任追及>
そういう観点から事故の問題・事故防止の問題・事故の責任追及と原因究明のあり方の問
題、これらを我々は一つの大きなテーマとして取り組んでまいりました。
その中にも、配布資料にもありますが昨年 12 月 10 日には「安全・安心な社会と事故防止の
あり方を考える集い」というものを開催いたしまして、その際我々の呼びかけによって開催
されるようになった、一般の方々、様々な立場、様々な組織の人々が集まって開催した事故
防止のための自主サークル活動を総括するシンポジウムを先週の土曜日に開催いたしました。
コンプライアンスという観点からの事故防止の活動は、一つのベースになっています事故防
止のための法制度をどのように考えていったらいいのか、ということについてこれからお話
いたします。
まず最初に日本では事故防止に関して、そして事故の責任追及についてどのような法制度
が存在しているのか、大まかにお話します。
事故が起きた場合、とりわけ重大な事故が起きた場合、原因究明・責任追求のための制度と
して存在しているもの。
第一に刑事事件について捜査が行われます。この根拠となるのが刑法の業務上過失致死傷
罪、そして何か特別法違反の疑いがあった場合は特別法違反、その両面から行われます。
その一方で事故の原因究明のために、事故調査委員会による調査が行われます。現在では航
空機の事故、鉄道事故では、航空機・鉄道事故調査委員会という独立した委員会―これは国
土交通省のもとにある委員会ですがーが調査を行い、また原子力発電所に関連する事故であ
れば原子力安全保安委員会が調査を行います。
事故調査委員会の調査とは別に、これも行政上の調査ですが、いわゆる行法に基づいて監
督官庁が必要に応じて、行政調査ということで、事故調査に関連する調査を行うこともあり
ます。
またその事故が労働災害であれば、労働基準監督署の捜査調査。火災であれば消防署。海
難事故である場合には海難審判庁による調査が行われます。
私は今年の春まで 22 年間、検事の身分で仕事をしていました。その中で色々な事件事故に
関わってきましたが、ちょうど 4 年前、長崎地検で次席検事をしておりましたが、長崎港で
ダイヤモンド・プリンセスという大きな大型客船が燃えました。あの事故は一応、海上で船
が停泊している状態で起きた事故でしたから、海難審判庁による調査の対象になりました。
また火災でしたから消防署の火災調査の対象にもなりました。そして失火ということで、死
傷者は出ませんでしたが刑法犯の捜査の対象になりました。
こうした様々な機関が様々な根拠に基づいて捜査や調査が行われる、そのいくつかは交錯
して行われることによって、現在の事故の原因究明・責任追及のための方策の特徴がありま
す。
過失犯、刑法の過失犯、業務上過失致死傷罪、これはどういう用件で成立するのか。おお
まかにはこの三つが用件になります。
1 番目に結果が発生したこと。業務上過失致死傷罪であれば、人が怪我をしたとか亡くなっ
たということです。
2番目に過失があること。そういうような結果が生じると予見すべきであった。そして、
そういう結果を予見して、そういう結果を回避するために何らかの行為を行うかあるいは行
わない義務があるか。それに反して何らかの行為を行った、あるいは行わなかった。これは
過失です。
そして 3 番目は過失と結果との間に因果関係があること。そういう過失行為がなかったら
結果が発生したかどうか、因果関係があるかどうか。この三つが業務上過失致死傷罪の用件
となります。
そこで原因究明と責任追及はどういう関係になるのか。
まず一つ言えるには刑法の業務上過失致死傷罪というのは、個人の責任追及のための
ものです。刑法には法人を処罰する規定はありません。ですから、仮に大規模な企業組織の
活動の中で事故が発生した場合でも、その企業組織自体の責任を問うことはできません。す
べてその中の個人の責任について、今言った過失と結果と両方の因果関係が要件になった責
任追及が行われるよいうことです。
大規模な企業組織の事業活動の中で起こる事故というのは、たくさんの人の行為が関わっ
ていますから、その中の特定の行為の因果関係を立証するのは容易ではありません。しかし
刑法犯は個人の責任の追及ですから、あくまで個人の行為について、今言った三つの要件を
考えることになります。
次にもう一つの問題として、このように刑法犯の処罰の前提となると、処罰されるという
ことによって当事者が捜査・調査などに非協力になるということが指摘されます。本来事故
の原因究明になることを、記憶していることを全てありのままに話してもらう。事故から近
いところにいた人が全て詳しく話してくれるということが重要なわけですが、詳しく話した
結果が個人の責任追及に結びつくということで供述を強いるということが往々にしてありま
す。
そもそもそういう処罰されるということ、そういう可能性があるということで記憶自体が
歪んでしまうということを、心理学の専門家の方から指摘されています。
このような犯罪捜査が行われる場合、犯罪捜査のためには証拠をできるかぎり詳細に、全面
的に収集することであります。それによって捜査機関のほうに証拠が集中してしまって、事
故調査に支障をきたすことも言われています。
これらが、事故の責任追及によって原因究明に様々な問題が生じている点です。
<刑事事件の捜査・公判の実情>
実際に過失犯に対する刑事事件の捜査はどのように行われているのか。大まかにお話しま
す。
まず、事故が起きます。当然のことながら現場の状況を証拠化することが求められます。
現場検証です。
同時に、例えば企業組織に関わる場合、企業組織の中でどのような活動が行われたのか、
ということに関して物的な証拠を収集するために、事務所などの捜索という手段が講じられ
ます。必要に応じて、ですね。
それとは別に、客観的にどういうことが原因で事故に至ったのかを確定する必要がありま
す。そのための捜査は、専門家に鑑定を嘱託するとかが一般にまず行われるわけですが、事
故調査委員会が入って事故調査をするような重大な事故の場合、事故調査報告書を中心に客
観的事故原因が確定されていく場合が多い
重大な事故の場合、一般的には初動捜査、
客観的な事故原因についての捜査が一段落
した段階で、どういう個人を被疑者として特
定して、どういう過失で過失事件を組み立て
ていくのかということを検討していきます。
そして通常はこういう事故の場合、第一義的
には警察が行いますが、警察がこういう組み
立てでこういう立場の個人を過失犯として
立件したいと、まず考え、それを、検察官に
相談するのが普通です。
そういった中で、先ほどの業務上過失致死
傷罪の三つの要件に当てはまるかどうかと
いうことについての検討を行って被疑者を特定していくわけです。
ここで一応の過失犯の組み立てが行われた後で、取調べが開始されることになります。こ
こでいう取調べというのは、実際に被疑者を特定して、その被疑者について過失犯が
成
立するかどうかを明らかにする、被疑者の目的を持った取調べです。事故の発生直後も色々
な関係者の取調べも行われますが、それはもう幅広く事故を直接見聞きした人の話を聞くと
いうことですけれども、本格的な取調べは被疑者に対して行う、被疑者の取調べです。
どういうことが取り調べ
の中で中心になるかという
と、ここにあるように、予見
できたか・・ということ。先
ほどから言いますように過
失犯の要件には三つの点が
要件になります。結果が発生
していることは明らかです、
事故が起きているわけです
から。
そして、次に問題になるのが
その結果を予見できたか、そ
れによって過失犯かどうか決まるわけです。まさに予見可能性のところが一つのポイントに
なります。そういう予見可能性があるかどうかも含めて、被疑者の側が「私に過失がありま
した、私の落ち度です。」と言って自認するかどうか。これは実は捜査のかなり大きなウェイ
トを占めます。
なぜかというと色々理由があります。検察官がその後、起訴をするか不起訴にするか決め
る際に有罪の確信が、通常起訴の要件という風に検察では考えています。有罪になるかどう
かはっきりしない、確信が持てない時は不起訴になるということです。そうすると、まず有
罪になる確率は、否認事件と比べたら圧倒的に自白事件の確率が高い。裁判所に行っても事
実関係を争わずに、「私が悪うございました。私の落ち度です。」と認めてくれれば有罪にな
る可能性が高いし、起訴される可能性も高い。一方で否認をしている場合は不起訴になる場
合が多い。そういった処分を反映した形で、捜査の最終段階の調べは、とにかく「自分の落
ち度だ。自分の過失だ。」と認めさせるための押し問答がかなりあります。必ずというわけで
はありませんけれども、それが捜査官、そして処分を与える検察官に安心をあたえることは
確かです。
もう一つの予見可能性のところは、結局予見できたかどうかということは、
「その前に、事
故に至る前にこういったことが起きたから、その段階で結果を予見すべきだったでしょう。」
と言えるかどうかということがポイントになります。そうすると「事前に何かこんなことが
あったんだから結果を予想できたでしょう。」ということに承服する人は、どちらかというと
敏感な人が予見することが多い。最初から何の問題意識もない鈍い人間は予見する根拠が見
つからないということも少なくありません。
こういうと刑法学者の方は「そうじゃない。予見可能性は、
『本人が予見してるかどうかじ
ゃなくて可能性』なんだから、鈍感だからといって予見可能性が認められないわけじゃない。」
といいますけれども、実務的には何にも根拠がないと、
「あなたこういうことがあったんだか
ら予見できただろう」とは調べで言いにくい。ですからそういう意味で<結果発生について
ある程度のセンシティビティを持っている人間のほうが逆に起訴しやすい>ということが必
ずしも間違ってはいないのでは。というのが私の実務上の感想です。
そのあと検察官の処分が行われまして、有罪の確信が持てる場合に起訴されることになり
ます。公判の段階で否認事件の場合、とりわけ重大事故の業務上過失致死事件は立証が複雑
困難で長期化することが多いと言えます。
このような経過を辿って事故の責任追及ですね、それが事故の原因究明とどういう関係に
なっているかというと、先ほどもいいましたように客観的事故原因については、重大事故の
場合には事故調査報告書がベースになる場合が多い。それを上回るような専門性のある立証
はなかなか捜査機関・検証機関には行いにくいということが原因です。
事故の原因という意味では本当は人的、組織的な原因、ヒューマン・ファクターや組織自
体の体質とか、そうしたことも重要な原因となりえます。しかし、刑法の業務上過失致死傷
罪はあくまで個人の責任を追及するものですから、基本的にはそういう組織的な要件や背景
は捜査の主たる解明の対象になりません。
取調べは最終段階で個人の予見可能性、そして経営者の過失責任を追及する場合には経営
上の判断との間で、‘これが適切だったかどうか’という価値判断が出てきます。
そういうようなことで過失を認めるか認めないか、押し問答を繰り返すケースも多いわけ
です。そういうような取調べは、はっきり言って事故の原因を究明する機能はほとんどあり
ません。その取調べの中から劇的にあらたな事実が判明することはありません。頭を下げる
か下げないかという問題です。
初動捜査の段階から様々な事故についての情
報収集が行われるのですが、それが最終的に事故
原因の究明、事故調査に活用されるかというと活
用されない場合が多い。証拠として活用されない
部分が相当多い。活用される場合というのは事件
が起訴されて、判決が確定した時点です。刑事事
件の‘確定事件記録の閲覧’といいます。しかし
重大事故の場合、複雑・多様な事故の場合には、
往々にして公判が長期化します。ですから実際に
確定記録が閲覧できるようになるのは、事故が起
きてから相当後になってしまいます。
それから収集した証拠が全部見られる
わけではありません。あくまで公判に提出
された証拠だけです。ですから検察官の立
証上、不要だと考えられたところは出てき
ません。不提出記録というのは閲覧ができ
ません。
不起訴の場合、起訴されなかった場合は
全くその収集した証拠は閲覧できません。
閲覧できないものは事故調査には活用で
きません。
そういう風に考えますと、事故の責任追及のための証拠収集はあまり原因究明には役立て
られないといえます。
<事故の原因究明と責任追及の関係に関する問題>
改めて何が問題なのか基本的に整理してみますと、まず「責任追及を前提として原因を追
究しない。」ある意味で当たり前のことが、
「原因が究明できて初めて責任が追及できるはず。」
ですから「責任追及ができるということは原因究明に役立っているじゃないか。」という風に
なんとなく思い勝ちですが、ではそれが本当に事故再発防止のための原因究明になっている
かどうかというとこれは相当大きなずれがあります。赤と青と色を変えていますが、これく
らい大きなずれがあります。
なぜかというと、「日本の刑事司法制度での責任追及に固有の問題がある。」というべきで
はないかと思います。<再発防止のために原因を究明すること>と<責任追及のために原因
を追求すること>は相当大きな違いが出てくる。
一つは実態的真実の追究というところに責任追及の前提としての事実の解明が行われる。
それは結局のところ、
‘正義の実現’というような、何か非常に大きな目標のために行われて
いて、身近なところの<事故の原因を究明して再発を防止すること>とは少し次元が違う問
題になってしまっていること。
二つ目に、責任追及の対象が個人に限られている。本当の事故原因は個人だけではなくて
色々なファクターが混じりあっているはずです。積み重なっているはずです。そういったも
のを全体的に解明するのではなくて、あくまで刑事司法の目的は個人の責任追及。それに関
する部分だけが原因究明の対象にされるということです。
<責任追及の前提としての原因究明>と<再発防止のための原因究明>の大きなずれが、
最近大きな事故が起きるたびに、責任追及が行われてもそれがなかなか再発防止に活かせな
いという実情につながっているのではないかと思います。
具体的な問題として指摘できるのは、事故調査委員会における事故原因の究明がどのよう
に行われているのかということに関して、情報の集中の問題であるとか、処罰の可能性があ
ることによって当事者が十分に供述してくれないとか、様々な形で事故調査委員会の調査が
妨げられているということが一つの問題だと思います。
調査報告書が刑事事件の証拠として活用されているのが現状ですが、果たしてそれが適切
なのかという問題もあります。そのこと自体が、事故の調査に対して協力する形で協力した
人の供述が、処罰に用いられる。これは憲法の保証する黙秘権の侵害との関係で問題ではな
いか。
結局のと
ころ、そうい
うものに頼
らざるを得
ない。事故の
責任追及の
ための捜査
の中で自己
完結的に原
因究明がで
きないこと
は、刑事司法
の領域の検
証に関わっ
ている人達
が、そういった面において専門性を持っているのかどうか。持っていないということです。
では果たしてそういう専門性がないところで、本来的確な、本当に真実の原因を前提にして
行われるべき責任追及が適切なことができるのかという問題があります。
刑事事件の記録、証拠が不起訴記録は開示されない。しかも不提出記録も開示されない。そ
ういった形で事故の原因究明に役立っていない。これをどう考えるのかという問題がありま
す。
そしてもう一つの問題は、黙秘権の問題とも関連しますが、原因を究明して事故の再発を
防止していくためには「一定の範囲の当事者については免責をすべきではないか。」という意
見があります。
一定の範囲の当事
者を免責することに
よって始めて、真実
の事故原因が究明で
きる。先ほど心理学
者の指摘として言い
ましたように、そも
そも処罰の可能性が
あることによって記
憶が歪んでいたので
は、いくら気合を入
れて取り調べをした
ところで真実は明ら
かにならない。それ
であれば、あらかじめ一定の範囲の当事者には免責を与えてしまうのが効果的だといえます。
しかし今言ったような具体的な問題からすると、今の責任追及のやり方には色々問題があ
り、改めるところが多いように思うのですが、残念ながら刑事司法の世界において、こうい
った問題を改めようという動きは現実化していません。
<日米司法制度と運用の相違>
なぜなのかということです。少なくともアメリカにおいては単純な過失犯の処罰はほとん
ど行われません。航空機の事故でもパイロットの処罰は行われていません。単純な過失犯は
処罰よりも原因を究明して再発防止を図ることのほうが重視されます。しかし日本ではなぜ
かそういう考え方はとられない。処罰が優先されます。
なぜなのか。ここにどういう考
え方の違いがあるのか。
まず基本的な考え方として、日本
の刑事司法の考え方は実態的真実
の追究が刑事訴訟法の第一条にも
書かれています。
「本当に何が起き
たのかということをとことん究明
するのだ。」ということです。
それに対してアメリカの刑事司
法の考え方はむしろ、適正な手続
きが優先されます。適正な手続き
のもとで司法上真実だとされたこ
とを真実とする。その典型的な例がシンプソン裁判です。アメリカ人にとって陪臣裁判とは、
国民の代表によって裁かれる適正な手続きです。その結果、仮に真実が究明されなくても、
それは司法上の真実として受け入れようということです。ここに大きな考え方の違いがあり
ます。
日本の場合は真実があり、そこで犯罪が成立するということであれば、必ず処罰しなけれ
ばいけない、それこそが正義だという考え方です。
では本当の真実、100 パーセントの真実は明らかにできるのか。これはおそらく「神」で
なければ明らかにできないと思うのですが、しかし日本の刑法の枠の中ではそれが出来るよ
うな幻想のもとで手続きが行われているわけです。そこに基本的な考え方における大きな違
いがあります。
刑事裁判はこのように基本的考え
方によって大きく方法が違います。日
本の場合は職業裁判官による精密司
法です、有罪率が非常に高い。そして
自白が重視される。供述調書中心の立
証というところに特徴があります。
アメリカの場合は陪臣による素人
の事実認定、そして手続き保障が非常
に厚いので黙秘権が保障されます。取
調べに対しても弁護人の立会いも認
められる。その一方で司法取引という
柔軟な手段も与えられている。そして調書ではなくて法廷での証言が中心です。このように
刑事裁判に非常に大きな特徴があります。比べてみたら分かるように、
「手続きの保証は与え
る。その代わり色々な手段を活用して目的を達成していこう。」という機能重視の考え方です。
それに対して日本の場合はとことん閉
じ込めておいて、否認する被疑者は保
釈もなかなかしてもらえない。よく言
われますように、ずっと長期間拘留さ
れる。その間に自白を得る。そのこと
によって始めて真実が究明できるとい
うような考え方が採られているわけで
す。
その結果、日本の場合は被疑者側の
自白率が圧倒的に高いという特徴があ
ります。アメリカと比べて。身柄拘束
が長いことにも影響されています。
アメリカの場合は黙秘権を行使するこ
となど弁護人も色々な法廷戦術を使います。弁護人の活動によって結果が大きく左右される
のがアメリカの特徴です。
アメリカと日本の違いをトータルで考えますと、日本の場合は、とことん正義を実現しよ
うとする。政策的にこうするとかああするとかは、ほとんど考えられない。アメリカの場合
は、処罰も一つの政策。機能を重視するところに一つの特徴があると思います。
<日本社会における司法の機能>
日本の社会における司法の機能、図で例えます
と、私は刑事法・民事法含めてこのような図で
考えていますが・・円は経済社会全体を表して
います。この中では様々な企業や様々な個人が
せめぎ会いぶつかり合い、色々なトラブルを起
こしたりします。
それらに対して司法がどういう機能を果たし
てきたかというと、刑事司法は異端者や逸脱者
をこの社会からポーンとはじき出す機能。民事
司法はこの円の中の真ん中にいる人達は普通は
やらないような感情的なもつれ、近親憎悪的な
いがみ合い、こういうようなものの後始末を付ける。それが中心。
いずれにしても司法が果たしてきた機能は社会全体からすると、外縁の部分に限られていて、
社会のスイートスポットで問題を解決するようなものではなかった。それが日本の司法の特
徴ではないかと思います。ですから法律家の存在は、そういう外縁のところで、普通のやり
方では解決できないような問題を、霊験あらたかに解決してくれるところに特徴があります
今までの司法の世界、法律家が使う言葉はやたら難しくてよく分からない。しかし「何やら
難しい試験を合格している人で、大変賢いはずだからあの人達の言うことに従っておこう。」
というような機能を今まで日本の司法は果たしていたわけです。
そういう日本の司法の機能を前提にして、それが刑事司法において検察がどういう機能を
果たしてきたかというと、なんと言っても通常の事態ではない、異常な犯罪現象の後始末に
関して、絶対的な権威として信頼を確保してきたというのが検察の今までの大きな機能では
ないかと思います。
それは事故の事件に関しても基本的に同じような考え方を維持してきた。「真実を究明し、
処罰すべきものがあるから必ず処罰するのだ。」という考え方です。だから「絶対的に例外を
認めない。」ということに結びつくわけです。
機能を重視すれば、
「この場合は良いじゃないか。」
「トータルで考えれば処罰することより
も処罰しないことのほうが、社会にとってプラスになるのではないか。」という考え方はこの
世界ではなかなか通用しません。
<揺らぐ「検察の正義」>
よく検察の事件の処理に関して、国会で答弁に立った刑事局長が口にする言葉は「法と証
拠に照らして適正に処理されている」。これはそういう考え方を端的に表す言葉だと思います。
「検察は正義を独占している。その正義はあらゆる面で無謬でなければならない。完璧でな
ければならない。だから一部分について譲ることは出来ない。」これが今まで検察が独占して
きた‘正義の作用’ではないかと思います。
だから検察庁が不起訴にしたということは、「これは正義なんだ。」という考え方が出てき
ます。それを、
「不起訴記録を見せてくれ。その中身がどうなっているのか本当に不起訴が正
しかったかどうか確かめてみよう。」ということは御神体の中身を暴くような話だからなかな
か認められない。
“検察の正義の独占”
“刑事処罰の例外も認めない”ということ、それを抑えているような
考え方がここに挙げた三つのものです。刑法学者だとかはこういう風な考え方で説明します。
事故の場合においても、
「刑事処罰は例外なく行われるべきなんだ。処罰をすることには意
味がある。」とする理由として、一つは、
「処罰を行うことによって社会を沈静化させるんだ。」
「重大な事故では社会を沈静化させるためには処罰が不可避だ」と。
しかしそれに対して、果たして‘沈静化させること’が事故で犠牲になった方、あるいは
遺族にとって正しいことなのか。
‘沈静化’とは遺族を納得させることも含みます。「遺族は
そんなことを求めているのか?」ということが一つ。
二つ目の根拠として挙げられるのが、
「過失犯を処罰することによって関係者は注意深くな
る。」ということがよく言われます。果たして人間の心理として、処罰されるから気を付けよ
うと考えているでしょうか。日常生活の中で。むしろ人間としての当然の良識が、通常は事
故を防止しているのではないか?
三つ目には犯罪捜査が行われることが、真実の原因究明のための最終手段、犯罪捜査のパ
ワーは一番役に立つ。それが必ずしもそうは言えないことは今までお話してきたことからも
明らかだと思います。
今までの話をトータルしてみますと、結局、過失犯の刑事処罰がなぜ例外なく維持される
のか?というと、検察の正義がそこに大きな山となって立ちはだかっているのではないかと
思います。
では、その検察の正義が今どういう状況にあるのかを考えてみたいと思います。
今までは検察が不起訴にした事故について不服があれば検察審査会に審査を申し立てること
ができましたが、その検察審査会は起訴が相当だという記述をした場合でも検察庁が不起訴
にしてしまえば、どうにもなりませんでした。
ところが「検察審査会での起訴相当の議決が二回行われた時には、起訴が義務化される。」
という検察審査会法の改正が行われました。しかしこいいう義務化された起訴が行われた場
合でも、<指定弁護士が公判立会する。検事が公判立会する。>のではありません。なぜな
ら、検事が検察の世界が不起訴だと結論を出した事件が、国民の代表である検察審査会によ
って起訴されたというのは「検察の正義」の枠外だからです。
「検察の責任の範囲外で公判立
会をやってもらおう。」という考え方です。
しかし果たしてそういう風にして例外を作っていくことで、本当に検察の正義が維持でき
ていくのだろうか。すでにこのことによって「検察の正義」は大きく揺らぎつつあるのでは
ないかと私は思います。
現実に起きている事件の中では、検察が今までは不起訴についても、処分についても十分
なアカウンタビリティを果たしてきませんでした。そのこと自体がかなり大きな批判を受け
つつあります。
例えば日歯連事件の無罪判決では、ずいぶん地裁の無罪判決では捜査のあり方が批判され
ました。かなり手厳しく。結局、犯罪が成立すると認められるものの中でも検察官が、
検察官の裁量の範囲内で処分を決めていたことが、「それでは納得できない。」という声が大
きくなりつつあるということじゃないかと思います。
それから最近ずいぶん大きく
なってきているのが、国策捜査
への批判です。佐藤優氏の
事件やライブドア事件、村上フ
ァンド事件に対しても国策捜査
への批判があります。これらは、
今まで検察がどこを中心に事件
にしていくのか?と任意に選ん
でいた。そのこと自体が大きな
綻びを生じているということで
はないでしょうか。
「経済社会で起きた現象は面
で捉える必要がある。」というよ
うなことが徐々に徐々に「検察
の正義」に大きな動揺を生じさ
せてきている。これらのことは
事故自体の問題解決とは直接関係ありません。しかし世の中が複雑化、多様化する中で今ま
でかたくなに検察が守り続けてきた「検察の正義」、独占してきた「正義」。これが大きな転
換点を迎えているように思います。
それはおそらく事故の責任追及のあり方に大きな影響を与えていくのではと思います。
改めて“何のための責任追及なのか?”ということを根本的に考えていく必要があります。
大量交通機関の利用者や遺族の視点から再検討していく。それをバックにして、
‘検察による
正義の独占’の是非を考えていく必要があるのではないかと思います。
社会の環境の急激な変化の中で、検察の役割が変化してきたこと。これらの中でアカウン
タビリティの確立をめぐる動きは、おそらくこれから先、事故の責任追及なり事故調査の抜
本的な見直しを迫ることになるのではないかと思います。
司会
有難うございました。続きましてこのまま、佐藤先生の基調講演に移ります。こちら
にご意見の用紙を準備させて頂きました。佐藤先生の基調講演が終了後、受付のほう
にご提出ください。その後のパネルディスカッションにおいて、いくつか使わせて頂
く予定です。
■基調講演2.
大事故と被害者
~組織事故・システム性事故における刑事責任追及や
事故調査から被害者の求めるものを考える~
弁護士
佐藤
健宗
先生
私は弁護士経験 18 年目です。今から 15 年前に、滋賀県信楽町で信楽高原鉄道の列車事故
が起きました。志望者 42 名、負傷者 600 名を超える大事故です。私は他の弁護士と一緒にそ
の時のご遺族から権利の実現、権利の救済のための依頼を受けるという機会を承りました。
その時に遺族と一緒に「なぜこの事故が起きたのか?知りたい。」ということを第一の出発
点として色々と孤軍奮闘といいますか、悪戦苦闘を続けて参りました。そういう中で信楽の
事故のご遺族は、今の日本のこの制度のままでは「遺族が知りたいことは何一つ教えてもら
えない。知ることが出来ない。」さらにアメリカやヨーロッパに行って海外の事故をめぐる捜
査や調査の制度がどうなっているのか?ということを調べる中で、日米欧ずいぶん違う。日
本にアメリカやヨーロッパのような事故調査のための仕組みを作る必要があるのではないか
ということを考えて鉄道安全推進会議、TASK(タスク)という民間団体を立ち上げました。
そして日本の鉄道の安全を市民レベルで日常的に監視をするとともに、当時は、日本にその
片鱗すらなかった「鉄道事故調査のための常設専門の国の調査機関の設置を求めよう。」とい
う運動を続けて参りました。
幸いながら今から 6 年前にその法律が成立をし、5 年前から航空鉄道事故調査委員会とし
て活動をつづけています。
さらに私は今から 5 年前に、生まれ育ち弁護士事務所を持っております兵庫県明石市にお
いて発生した、
“明石の花火大会の歩道橋の事故”で、やはりご遺族の皆さんから依頼を受け、
その権利の実現救済のための活動をする機会を与えてもらいました。
また昨年 4 月に起きました JR 福知山線の脱線事故で、遺族や負傷者の皆さんから色々と相
談を受け、現在その支援のための活動に従事をしております。
そのような経歴から、私
は大事故における遺 族や
被害者が、どのようなこと
を求め、どのような法制度
の中に置かれている のか
ということをささや かな
がら体験してきた者 とし
て、本日のお話をしてみた
いと思います。
まず、本日の私の話のポ
イントですが、 <組 織事
故・システム性事故>につ
いてお話したいと思います。二つ目に<大事故の被害者・遺族の心情、そしてその心情に応
じた本当に必要な支援>についてお話したいと思います。三つ目には被害者の支援として、
日本とはずいぶん違った例である<アメリカやオランダの実例>をご紹介したいと思います。
四つ目は<被害者から見た刑事責任の追及>。先ほど郷原先生が元検察官の経験を踏まえて、
刑事責任の追及の舞台裏も含めてずいぶん鋭い問題提起をされましたが、それを被害者のほ
うからはどういう風に見えるのかということをお話したいと思います。最後に<事故調査の
理想と現実>ということをお話します。
<組織事故、システム性事故>
一つ目に組織事故、システム性事故の問題です。組織事故というのはイギリスの心理学者
であるジェームス・リーズンが提唱した言葉であろうと私は理解しています。日本では労研
の加納先生がそういう概念を提唱された言葉だと思います。いずれにしても巨大・複雑・高
度に発達したシステム、その典型例は鉄道であったり、航空システムであるわけですが、原
子力発電のシステムや巨大プラントもまた含まれると思います。そういうシステムがあらわ
れ、そういうシステムを動かすために多人数の人が有機的に結合して、役割分担をしながら
組織を動かしている。こういうことが現代社会の色々なところで動いている。
その結果もし不幸にして事故が起きた時には、非常に大きな被害とともに、原因分析はなか
なか困難を極めるといえます。これらが現代社会における事故の特徴といえると思います。
<特に処罰感情について>
大事故に巻き込まれた被害者、これは必ずしも大事故でない自動車交通事故でも共通する
と思いますが、被害者の心情を横からお聞きしたり、支援に従事する中で実感しましたこと
は、「色々なスペクトルを見せる。」と思っております。
愛する家族を失った絶望、昨日まで今朝まで一緒に生活していた家族がいないことによる
喪失感、激しい気持ちの落ち込みによる抑うつ、さらにはその家族を奪ったもの・奪った組
織に対する怒り、怒りからくる処罰感情。さらには」なぜ家族が死ななければならなかった
のか?」を知りたいという気持ち。これは単に「事故の原因や責任の所在を知りたい。」だけ
ではなくて、「家族の最期」を知りたいという気持ちで現れることもあります。
例えば航空事故でも、「自分の家族はどの座席に座っていたのか?」「最期はどのようにな
くなったのか?」。鉄道事故でも、航空事故に比して返って家族の最期を知ることが難しいな
と最近、私は実感しております。
尼崎の福知山線脱線事故では、家族が何両目のどの辺りに座っていたかということが、正
確に分かっている人はほとんどいないです。かろうじて何両目に座っていたかということが、
あと数人のところまで来ました。逆にいうとあと何人は、何両目に座っていたか?すら分か
らない。そういうことをする度に、
「私の夫が、私の子供が何両目のどこに座って、どんな景
色を見ていたのか」ということを知るために、遺族の皆さんは負傷者の皆さんや同乗の生存
者の皆さんに呼びかけて、何度も何度もフォーラムを持って写真を掲げて、
「この人見なかっ
たですか?どこかに乗っていなかったですか?」と警察の事情聴取の機会にそういうことを
訴えて、すさまじい努力をしているのを私は横から拝見しておりました。
もちろん何両目のどこに座っていたかが分かって、何になるわけではないんです。しかし
ながら「家族が死んだことを見送るために、自分が出来ることを少しでもするために、それ
はどうしても必要です。」と言われる方が非常に多い。そういう「知りたい。」という気持ち
も大事なんだということも申し上げておきたい。
‘安全への願い’を訴えられる遺族の方もたくさんおられます。
「このような苦しい嫌な気
持ちになるのは私たちで十分だから、この事故を最後にして欲しい。二度とこのような事故
を起こさないで安全な鉄道、安全な空にして欲しい。」ということを強調される遺族の方もた
くさんおられます。
このようにいくつもの種類のいくつものスペクトルの感情は事故から何年経ったかとか、
事故とちょっとした周囲の言葉によってずいぶん変わります。
例えば日本航空 123 便の遺族の方とお話をしていますと、事故から 20 年経っても、20 年
前の経験は今でもまざまざと甦ると。15 年前の信楽の遺族の方も同様です。5 年前、1 年前
の明石の事故や、福知山線の事故の遺族の方ももちろんのことです。
こうしてみますと従来のステロタイプな被害者観が、色々な被害者にたいする理解を歪め
ていると私は思います。
例えば「被害者は加
害者の処罰を求めるん
だ。処罰をすることが
被害者の感情に報いる
ことだ。」という認識も
ステロタイプだと思い
ます。一方でそのよう
な気持ちを必死で乗り
越えてきて、
「私は処罰
よりも安全を求めるん
だ。」という風に乗り越
えてきた被害者の気持
ちを、
「処罰よりも再発
防止を願うんだ。」と一面化することもまた逆の意味で問題であろうと思います。
処罰感情について少しだけ述べますと、被害者が関係者の処罰を望むのは、ある意味では
私は当然だと思います。それを持たないように何らかの事をするのは無理だと。まずそこか
ら考えなければいけないと思います。考えてみれば、自分の大事な家族が、今日の朝まで一
緒にいた家族が突然何かによって奪われる。この奪われた気持ちを何とかして欲しいという
何とかの中に、もしも責任者がいるならば、悪いことをした人がいるならば、その人が何ら
かの報いを受けるべきと思うのは人間として当然だろうと思います。
しかしことは、それほど単純ではないことも事実です。処罰を求める中には色々な気持ち
が混ざっています。処罰を願うだけではなくて、「真実を知るために刑事裁判を行って欲し
い。」また「裁判によって処罰をされることによって再発防止が実現される。」と、そういう
ことを願って再発防止という言葉を口にされる方もいる。こういう色々な気持ちが複雑に絡
み合った中で、処罰とかの言葉が出てきます。こういうことが被害者から見た真実だろうと
思います。
<被害者への支援の視点>
「被害者と社会における被害感情を沈静化させるために処罰を行う。」という発想には、こ
の複雑な気持ちになかなか応えられないという限界があると現在は考えております。
被害者に対する支援を考える時には、被害者の持つ感情が実に複雑・多様で、しかもその時
期や環境によって非常に複雑・微妙に揺れ動くという現実をまず見ておきたいと思います。
したがってこのような被害者に対する支援ということは、被害者の心情の実情を踏まえ、
事故の直後から切れ目のない丁寧なものでなければならない。切れ目のないということは、
被害者が何らかの支援を求めてメッセージを出した時には、すぐにその被害者に応えられる
態勢を、継続性をもっていること。丁寧なものということは、被害者が持つ感情が違う、置
かれる環境が違う、痛いところに手が届くような態勢と経験を持ったものでなければいけな
いということです。
しかしながら従来の日本の被害者支援は、これに全く応えられるものではありませんでし
た。例えば 15 年前の信楽高原鉄道のことを思い出しますと、トラウマとか PTSD という言
葉自体が存在しませんでした。被害者遺族に対するメンタルヘルスだとか、精神的なケアが
必要だということも、我々の不勉強もあって誰からも何からも教えられることはありません
でした。
「被害者が何を求めているのか?」ということに対して「警察が処罰をするからそれ
でいいじゃないか。」というのが世間一般の反応でした。しかし現在はそういう反省にたって、
日本では色々議論が行われています。その議論を考え、また反省する材料として二つの対照
的な例をご紹介したいと思います。
一つはアメリカの事故
被害者の支援の仕組みで
す。アメリカでは 1996 年
航空災害家族支援法とい
う法律が出来ました。これ
は 、 96 年 に 起 き た
“TWA800 の事故”と“バ
リュージェットの事故”を
契機として出来た法律と
言われております。その後、
大統領令によって家族支
援法は鉄道・船舶などにも
拡大適用されております。
時間の関係で全部ご紹介できません。本日配布した資料の中にこの家族支援法の全文を紹介
しておりますので、後ほど興味、お時間のある方は、是非じっくりとお読み願いたいと思い
ます。
ポイントを申し上げますと、事故調査機関である NTSB が支援の中心に立っています。な
ぜ事故調査期間が支援の中心に立つのかということで、法律が出来た後で我々はアメリカに
ヒアリングに行ったのですが、従来 NTSB は 1966 年に発足してからアメリカの航空を中心
とする事故調査の最前線に立ってきました。NTSB が最もたくさんの情報を持ち、事故の調
査については最も最前線に立つ。その NTSB に遺族や家族が質問をする。NTSB は出来るか
ぎり丁寧にこたえようとする。そういう中で、NTSB が遺族との正面に立つことが歴史的に
長くあったと。そういう実情のもとにこの家族支援法を作る時に、「FIFA がいいのか?危機
管理庁がいいのか?赤十字がいいのか?それともボランティアの連絡組織が良いのか?」と
議論は色々あったわけですが、「やはり事故の遺族との接点と経験が最も長くて多い NTSB
が中心になるのが良いだろう。」という議論のなかで、NTSB の中に新しい部局である家族支
援局というものを作って事故被害者の中心的なものにしました。
この NTSB が赤十字、ボランティア、メンタルヘルスの専門家、さらには事故を起こした
鉄道事業者や航空事業者を使って、時機に応じた非常に細かい支援内容を行っております。
例えば現場への家族の移動の手助け。グアムで KLM の飛行機が落ちた時には、アメリカ人
が本土からグアムに行きたいという家族のために、NTSB が航空券の手配をし、グアムのホ
テルの予約をしたという例を教えてもらいました。
それから他人に邪魔されずに悲嘆にくれる環境を提供する。つまりホテルの部屋で「私は
そこでしばらく泣いていたいんだ。」ということを希望される方には一切のコンタクトをシャ
ットアウトして、静かに出来る環境を提供する。さらには追悼行事を希望する遺族の色々な
要望を聞いて、その協議と段取りを行う。
NTSB が事故調査を行った
結果について、事故調査結果の
優先的な提供をする。つまりマ
スメディアが調査結果を報告
するよりも前に、丁寧な説明を
行う。NTSB が行う公聴会や委
員会に遺族が傍聴を希望した
場合には、遺族に優先的にそれ
を実現する。慰霊碑を作りたい
と遺族のグループが希望を出
した場合には、その慰霊碑の文
言の相談まで中心になって行
う。
次にオランダの例をご紹介します。
「なぜオランダか?」という疑問をお持ちの方も多いと
おもいます。もちろんヨーロッパの大国であるイギリス、フランス、ドイツにはそれぞれ立
派な被害者支援組織がございます。いずれも日本が学ぶべき点が非常に多い。ただオランダ
という国はアメリカとともに、事故調査について何度も法律を変え体制を変え、少しでもい
い制度をと努力をしている真最中です。そのオランダが議長国になって、アメリカの NTSB、
カナダの TSB と一緒になって国の事故調査委員会の国際的な連絡組織である
YTSA というものを立ち上げてその議長国になっている国でして、事故調査の先進国である
とともに、被害者支援への努力も非常に盛んな国ということでオランダを紹介します。
オランダは、事故調査機関は被害者
支援に当たっていません。むしろ被害
者支援の組織が、事故調査の先頭にた
っています。図の中にありますように、
ビクテムサポートと英語では読めま
す。まさに被害者支援という風に書か
れています。「いまは雨が降っている
けれど、そのうち晴れることもありま
すよ。」という絵です。その左側には
自動車事故と書かれています。自動車
事故が起きて、ずいぶん大きな被害が
出て、相談があったりして、自動車事故の被害者にこのパンフレットを配って、
「被害者支援
の相談があればいつでもどうぞ。」としています。
またこれはカードです。オランダの被害者支援組織はこ
のカードを大量に持っていて、全国の警察にも常備してい
て、何か犯罪や事故・事件があればどこにでも行ってこの
カードを配ります。小さいカードですが、オランダの被害者支援組織がどうなっていて、ど
ういうことが出来るかが電話番号と一緒に書かれてあります。
「鉄道事故が起きたときはどうするんだ?」と質問しますと、例えば尼崎のような事故が
起きると、事故現場と遺体の安置所の近くに現地事務所を作って、ボランティアの専従スタ
ッフが大量にこのパンフレットを持っていって、「慌しいけれど一段落したらお読みくださ
い。」と皆に配ります。その場でメンタルヘルスを何とかして欲しい、トラウマについて相談
したいという人がいれば、すぐに専門家につなぎます。後日これを見て電話をしてくれば、
色々なサービスを提供していく。その中にはもちろんメンタルヘルスの相談から、
「気持ちが
落ち込んで買い物すら、洗濯すらできません。」、そういう場合は買い物や洗濯のお手伝いを
する。
「被害者の保障や政府からの保証金の手続きをして欲しい。」「弁護士を紹介して欲しい。」
「警察に行くのに付き添って欲しい。
」「裁判傍聴が心細いから一緒に行って欲しい。
」など、
どんなお手伝いでも出来ますよというメニューがここに書かれている。その場その場に応じ
て、電話があればボランティアや専従スタッフを派遣する。そういう仕組みです。
そういう仕組みのためにオランダは常勤職員 300 人、ボランティアが 1500 人、全国に 75
の地方事務所、そのほとんどは警察の中にある。そのための予算として 1500 万ユーロ、日本
円に換算すると 22 億円。年間 11 万人の被害者を支援しているということでした。
ちなみにオランダの人口は日本の 8 分の 1 です。単純に人口規模で比べることはできません
が、8 倍するとどれほど手厚い支援が、日本では信じられない規模で被害者支援をやっている
ことがお分かりいただけると思います。
<刑事責任追及は、被害者を救済しているのか>
「刑事責任追及が色々な思いを持つ被害者を救済しているのか?」という点から考えてみ
たいと思います。従来の発想は「事故の加害者を処罰することによって、被害者の被害感情
や処罰感情に報いるのだ。」ということで刑事責任の追及が位置付けられてきたと思います。
しかしそれは「本当に被害者の救済になっているのか?」ということが問われています。
まず、被害者の複雑な心情に
応えられているのだろうか。つ
まり、刑事責任の追及は“事故
原因の解明”、“遺族の知りたい
という気持ち”、これに十分対応
が出来ているのだろうか。
そもそも処罰できているのだろ
うか。さらに処罰によって安全
性は向上しているのだろうかと
いうことが問われていると思い
ます。
<過去の大事故と刑事責任の追及>
ここで過去の大事故の刑事責任の追及がどのように行われているか、代表的な事故・事件
を見ていきます。
20 年前の日本航空 123 便の事故。これは製造メーカーと修理メーカーがアメリカのボーイ
ング社だという事情がありましたが、結果的には不起訴でした。
15 年前の信楽列車事故は、JR と信楽高原鉄道の正面衝突でした。JR 側の関係者は、送検
はされましたが、全員不起訴でした。
12 年前の中華航空機事故。飛行機のメーカーはエアバス、運航していたのは台湾の中華航
空。そういう特殊な事情があり、またパイロットが全員死亡したということもありますが全
員不起訴になっております。
6 年前の営団地下鉄日比谷線の事故。これはオペレーターは誰も死亡していませんでしたが、
様々な複合的な要因が重なった事故ということで、送検された 5 人について全員不起訴にな
っています。
明石花火大会の歩道橋の事故。これは警察側の最高責任者といわれていた警察署長は不起
訴になっております。なぜ所長は不起訴なのか、検察の正義を問うということでパンフレッ
トを本日の資料に含めていますので、後からお読みくださればたいへん有難いです。
昨年起きた JR 西日本の福知山線の脱線事故。これまでの新聞報道を見るかぎり、ブレーキ
をかけなかった運転士が死亡している。それ以外の人の過失はなかなか事故との因果関係を
認め難いということで、おそらく誰も起訴されないだろうという見込みがぽつぽつと新聞・
テレビで出てきています。
このように概観しますと、20 年間日本の中で社会の耳目を集め、大注目を浴びた事故の刑
事責任の追及がいずれも中途半端か、結局追求できないで終わっている。という注目すべき
事実がお分かりいただけると思います。
<刑事責任追及の限界>
刑事責任追及の限界ですが、
「なぜ不起訴が多いのだろうか?」―その中の一つの要因とし
て、組織事故・システム事故であるが故の事故原因の複雑さ、高度な技術があると思います。
123 便の事故や営団地下鉄の事故がこれに該当すると思います。また多数の人間による分
業ということもあります。明石の事故も該当するでしょう。
そして不起訴という結果は色々不都合な事態をもたらします。まず捜査資料はほとんどロ
ッカーの中に眠ってしまって。安全のために活用できません。例えば営団地下鉄の事故を振
り返ってみますと、運輸省が設けた事故調査検討会、つまり当時はまだ航空事故調査委員会
になる直前、
「法整備するまでひとまず運輸省鉄道局の一諮問機関として事故調査委員会を作
って対応しましょうか。」という段階でした。事故調査委員会と警察が合い並んで調査・捜査
に入ったわけですが、もしその時、運輸省が事故調査検討会を作っていまかったら警察しか
調べなかった。警察は調べたけれど不起訴にしたから結局出なかった。とすると、あの事故
は一体何だったのか。結局誰
からもきちっとした事実と
原因の提供がない。 そして
それは安全のために使われ
ないという非常に忌むべき
事態がそこに生じたと思い
ます。
遺族も研究者も誰も閲覧
できない、営団地下鉄でも中
華航空でもその資料が閲覧
できないということです。そ
の結果安全性の向上にも寄
与できないということにな
らざるを得ない。
<欧米の刑事責任の追及>
翻って欧米の刑事責任の追及を概観しておきますと、アメリカでは原則として過失犯の処
罰規定が存在しないと言われております。もちろん故意犯の処罰規定はありますので、故意
に犯した場合は処罰されると。実際にバリュージェットの事故では、バリュージェットの会
社が故意に比すべき重過失ということで処罰されたと聞いております。
ヨーロッパはイギリスを含めて、過失犯の処罰規定はほぼ日本と同じ規定を持っておりま
す。しかしながら色々と調べたりしますと、航空の分野ではパイロットミスで航空機事故を
起こした時にパイロットが処罰されるのは極めて稀であると聞いております。
私は鉄道の分野に興味関心がありますので、ヨーロッパの国に行く度に、
「鉄道事故の処罰
はどうなっていますか?」と関係者に聞きますが、ほぼ同じ傾向で「運転士が赤信号を見逃
したり、仮に規定された速度をオーバーしたりしてもほとんど処罰はされないよ。」という説
明を聞いてきました。
最近では注目すべき二つの事故の結論が出ましたので、ご紹介します。
ドイツの高速鉄道の事故で、101 人の方が亡くなりました。3 人が起訴されていますけれど、
控訴棄却、無罪にも行かず裁判を途中で打ち切りという形で終わっています。
オーストリアのザルツブルグのケーブルカーの事故、これは約 170 人の方が亡くなっていま
す。日本人の方も含まれた大変痛ましい事故ですが、16 人が起訴され全員が無罪になってい
ると。
こういう例をみる
と、大事故は場合に
よっては起訴される
けれども、それでも
無罪が出ている。私
はここから、
「ヨーロ
ッパの鉄道の現場で
は厳罰によって臨む
よりも、事故調査を
充実させるという緩
やかな流れがそこに
起きているのではな
いか。」という感想を
持ちました。
<事故調査の理想と現実>
事故調査の問題があります。
「刑事責任の追及で、事故の原因解明や安全性のための調査が
十分出来ないということならば事故調査なのか。」という問題であります。
一つの理想としての事故調査はあります。これは事故原因をそのシステムや組織の背景に
おいて徹底的に明らかにする。そして被害者を含む関係者にその事実を明らかにする。その
結果社会の安全性の向上に
大きな役割を果たすことが
出来る。これが刑事責任の
追及の限界との対比におい
て考える、一つの理想の‘事
故調査の像’であろうと思
います。
<日本の事故調査の現状>
果たしてその現実はどうなんでしょうか。日本の事故調査の例を挙げて考えてみたいと思
います。日本の航空事故調査委員会はアメリカの NTSB をモデルに作られたといわれていま
す。ただし検証におけるいくつかの事例ように、なかなかアメリカのような社会的に信頼さ
れる事故調査委員会になるのは容易ではないと思われます。
例えばここには航空関係の方が多いでしょうが、日本航空 123 便の事故では「本当にあれ
が圧力隔壁のゆがみを基点とする墜落事故なのか?」という疑問が遺族や航空関係の方から
問題提起が何度も何度も繰り返し行われて、再調査を要請しますがなかなか進んでいません。
福知山線の脱線報告、いわゆる中間報告が昨年の 10 月に公表されました。その公表の記者
会見の場で事故調査委員会の委員が「事故調査の公正を欠いてはいけないので被害者にはこ
の経過報告は説明しない」と見事に弁明しました。アメリカの NTSB では考えられないよう
な言葉を、日本の事故調査機関の委員から聞くのは日本に事故調を作ろうと呼びかけてきた
一人として、悲しいものがありました。
東武竹ノ塚の踏切事故、これ
はお二人の方が亡くなられ、お
二人が重傷を負われるという
非常に痛ましい事故でした。そ
れだけではなくてこの事故は
東武を含めて全国に開かずの
危険な踏み切りがたくさん残
っているという意味で裾野が
広い潜在的な危険性が高い、ま
たいつ同じような事故が再発
するかしれないというタイプ
の事故だと思います。
しかしながらこの事故に対
して事故調査委員会は、「踏切事故は 5 人死傷の場合にしか事故調査をしなくていい。」とい
う形式的な理由で事故調査をしていません。私に言わせれば、「5 人死傷ではなくても特異な
事故であれば事故調査が出来る。」という法律になっているという解釈をしますので、裾野が
広い潜在的な危険性が高いことに鑑みれば、事故調査委員会は是非とも事故調査をするべき
であったと思います。
<それでもやはり事故調か>
現在の日 本の事故調査は
問題点がいくつもあります。
「それでもやはり事故調査
委員会か?」ということにつ
いて。冒頭でも申し上げた通
り、私は事故調査機関の設立
に向けて色々な運動を行っ
てきました。その運動の中心
人物は信楽の事故の遺族で、
臼井さんという方です。臼井
さんはこの事故で娘さんを
亡くされました。京都の西陣
の伝統工芸に携わる芸術家
ですが、自分の芸術家としての才能をこの娘が継いでいるのではないかという、最も将来を
楽しみにしていた長女の方がこの事故で命を奪われました。臼井さんは事故後、ほとんど仕
事を止めてしまわれて事故の運動に後半生の全てを捧げつくされたと私は思いました。
臼井さんが私のところにいらした頃、当時柳田先生の本などで NTSB のことを知り、NTSB
のことを、一度話を聞きにいきましょうかといいますと、臼井さんは目を輝かせて是非行き
たいと。何人かの遺族と何人かのメンバーでアメリカの NTSB に行きました。そこで我々は
カルチャーショックを受けたわけであります。
遠い異国、しかも白人ではない我々に対して NTSB は本当に心温まる対応をしてくれまし
た。丸三日間のセミナーを用意してくれまして、担当者が代わる代わる出てきて、NTSB は
こうやっていますと、30 分くらいのプレゼンテーションを次から次にやってくれました。鉄
道の事故のシグナルの担当者が 10 分話すとレールの担当者が 10 分話して、報告書はこうや
って作っていると。一番最後にはエディターが出てきて、エディターは「まとまったラフな
事故調査報告書をもう一遍やさしい英文で書き直すんだ。」ということでした。アメリカ人に
は決して英語が得意じゃない人もいる。遺族の中にもいるから、分かりやすい英文に変える
のです。
NTSB の委員にアメリカの遺族団体を紹介してもらうというハプニングも起きました。ア
メリカはよく非難訓練しますが、我々がセミナーしている時に突然非常ベルが鳴って、
「今か
ら火災訓練するから全員建物の外に出なさい!」と本当に全員出されました。非常階段をず
っと下りていったら、日本で言う航空事故調査委員会の委員がたまたま横に来て、日本から
のお客様とはあなた方ですかと話かけてきました。「私たち NTSB が頑張れるのは草の根の
NTSB があるからです。もしもご希望があれば下支えしてくれる遺族グループをご紹介しま
す。」とボードメンバーが言ってくれました。
そこで運動している方のお話を聞きにいきました。臼井さんと同じ娘さんを亡くされた遺
族の方です。全国の色々な遺族と一緒になってグループを作って市民レベルのロビー活動を
して、鉄道の安全のために法律を一つずつ成立、可決させていって、かなり問題は解決され
つつあるということは聞きました。
「日本に帰ったらこの人達を真似て鉄道の安全を市民レベルから高めていきましょう。ま
ず NTSB のような心温まる日本の調査機関を作りましょう。」とワシントンのホテルで夜遅く
まで話あったことを覚えております。
その時に臼井さんがアメリカの遺族の方から教わった言葉が<安全には終わりがない>で
あります。私は事故の後始末をするような安全のための制度・機関を見て、
「やはり事故調査
制度なんだろうな。」と思います。
刑事責任追及、つまり処罰のシステムは先ほど郷原先生が指摘をされた通りです。日本を
除く欧米各国では、もはやここにあまり力点を置いていないだろうと思います。力点を置い
てきた日本でも、これまでの重大事故であまり機能してこなかった。そして最近は検察その
ものの機能不全がかなり目立つ。行政指導も決して十分ではありません。さらに企業の自助
努力とか外部監査というものも、やはり外部の専門的知識をもって本当に徹底的に調べ上げ
ることをしないと明らかにならないだろう。
ですから日本の事故調査機関というものが、今はまだ色々と問題がありますけれど、調査
能力を高め、遺族の思いにも応える、そういうものになっていくことによって、結果的には
日本の安全性は高まり遺族の思い、知りたいという気持ちが少しでも癒される、そういう社
会の仕組みになってくるのではないかと思います。
最後に日本の事故調査委員会も今年の春になってオランダやアメリカがやっている ITSA
(インターナショナル・トランスポーテーション・セーフティ・アソシエーション)に加盟
をしました。そのことによって事故調査の先進国から、日本もいい刺激を受けるでしょう。
きっと日本の、例えば今従事をしている福知山線脱線事故調査の報告書も、アメリカやオラ
ンダの目から検証され、さらにより良い事故調査の報告書になっていくのではないかと期待
していることを申し上げて、私の話とさせていただきます。
進行
第二部のパネルディスカッションを始めます。
■クロストーキング
テーマ「刑事責任追及は航空事故の再発防止となりうるか」
館野
ただいまご紹介に頂いた館野です。司会を勤めさせて頂きます。今日参加して頂い
た方は航空関連の方、マスメディアの方、航空管制官の方、各企業の方、国土交通省
の方など非常に幅広い話し合いができる顔ぶれだと喜んでおります。
前半の基調講演をうけてやはり大事なものは何かというと、心の問題がポイントだ
と思います。私達は 20 年以上色々な航空機事故は相当力を入れて勉強しました。理論
的なものについては相当自信を持って解析しているのですが、やはりここ数年の間、
壁に当たっています。それはなぜかというと自分たちは絶対正しいと思ってやってい
るんですが、どうもそれが社会に理解されていないという壁です。
その中でなにが大事かといえば社会の皆さんの理解、心の問題です。この心の問題に
真摯に取り組まないと、社会の理解に結びつかないと感じました。
また私達にとっても検察の方から起訴、不起訴の話、捜査の話などお聞きできて大変勉
強になりました。第一線の先生方の直接のお話をうかがえるのも非常に良い機会だった
と思います。この休憩の時間に皆様から頂いた質問等についてご紹介して、先生方のご
意見を頂きます。それに加えて皆様方の声も上げて頂きたい。是非皆様とともに有意義
な話し合いにしたいと思います。
では最初にご紹介する質問です。「自動車のドライバーがわき見をして人を死亡させ
ると業務上過失致死罪に問われるのに、鉄道を運転していてわき見として事故を起こし
たら調査のために免責にするのは不公平だ。これは法の下の平等に反することにならな
いのか?―道路交通の大規模な複雑なシステムについて」という質問がきていますが、
これについては郷原先生お願いします。
郷原
自動車事故と鉄道事故は大きな違いがあると思われます。自動車は個人的に必要で
個人が運転している。それによって起きた事故の結果について、基本的に個人に責任
を負わせるべきだというのは極めて自然です。ただそれを単純に厳罰化するだけでい
いかというと、問題があると思います。最近は飲酒運転を始めとして厳罰化する傾向
にあり、それは絶対的に正しいのですが、一方で鉄道事故の場合大量輸送機関として
輸送をしているということ自体が社会的な機能を果たしているわけです。
問題なのはそういう鉄道輸送の中で事故が起きた時にそれでは処罰と原因究明を、ど
のようにして調和させていくのかということです。ですからちょっと違う問題が含ま
れていると思います。
館野
先ほどの講演のなかでもシステム性の事故という言葉が出ましたが、事故とはシス
テムが非常に複雑にからみ合った中で起きているというこの考え方に私たちもとても
注目しています。池田先生はその辺について色々と研究されていますので、ご意見を
お願いします。
池田
佐藤
館野
郷原
佐藤
システム性の事故は先ほど佐藤先生が仰ったように、ジェームス・リーズンの組織
事故という考え方が一つ、日本でも労研の先生が最初にお使いになったということで
す。ある意味では一般的にシステム性の事故と今は使われているようです。システム
の不具合が最終的に事故につながったためにという考え方ですね。システム全体の中
でどのような事故が、どうして起きたかという原因究明を優先すべきであって、どう
しても非難しなければいけないところは非難するけれども、事故の全体像を見るとい
う姿勢が日本では欠けているかなと。特に刑事責任の追求という面では欠けているか
なと、そういう印象を持っておりますけれど。
自動車事故については、わき見はやってはいけないことだと思います。それはうっ
かりとして見過ごしてしまったというよりも、前を見ていなければいけないにもかか
わらず、あえて前を見ずわき見をしたということですから、そこに質的な差があるか
なと思います。
交通違反の時どういう取締りをするかというと、アメリカは過失犯の処罰規定があり
ませんからわき見をして交通事故を起こしても、あまり重たい刑事処罰はないと聞いて
います。ドイツでは自動車交通事故を刑事処罰で裁くよりは、行政罰、免許取り消しと
かでやる傾向にありますから、交通違反に対して昨今の日本のように常に重罰で臨むの
が社会の公正を保つのかどうかという点についても疑問を持っています。
では次の質問。 「事故の調査ならば原因を一つに絞るのではなく、可能性がある
事故原因を複数挙げてそれぞれに対策をとればよい。しかしそれで遺族や社会が納得
できるのでしょうか?」というご質問です。
再発防止のために事故原因が明らかになるというのは、さまざまなファクターを抽
出して考え抜くということが必要だと思います。そのことと法的な意味での事故原因
の確定はやはり区別して考えるべきだと思います。
事故調査のあり方の最大の問題は、「法的な意味での責任の確定、刑事民事の責任とい
うことを意識した事故原因の調査に偏っていたのではないか?」、事故を一つの社会的
な材料と考えて、それを将来に返していくためには、「直接的な要因以外の様々なファ
クターも含めて考えるべきではないか?」、この二つのことが混合されてきたところに、
今までの事故調査の問題があると思います。
アメリカの NSTB では事故調査の結論の部分では「推定されるいくつかの原因」。つ
まり事故が一つの原因で起きたとはそもそも見ない。その発想の前提としてあるのは
事故が起きる前にはいくつもの事象が連鎖的に起きて、最後のほうで落ちて事故にな
る。これは法律家がみると一番最後に引き金を引いた奴が悪いとなりますから、一つ
の原因を出して終わる。そもそも事故はそんなに単純なものじゃない。ある失敗やミ
スの背景には機械の不具合がある。機械の不具合の背景にはデザインの失敗がある。
機械を作る環境の問題、教育・訓練をめぐる組織の問題。こういう事実、事象の連鎖
があった上に事故があるわけですから当然複眼的な発想でないと、事故が起きた連鎖
とさまざまな要因はわからない。
「推定される」ということは「可能性はいくつもある」という発想です。さてこれが
遺族や被害者にどうつながるか、調べることを一生懸命やること、調べたことの生資料
を持って社会に問いかける。これらが本当に真摯な行為であれば、私は遺族の理解に結
館野
郷原
館野
佐藤
びつきうると思います。そう簡単に遺族の理解を得られるとは思いませんが、複眼的な
視点でここまで頑張って調べましたという行為そのものが遺族の理解や立ち直りに利
するのではないかと思っています。
まさに私達は今まで遺族の感情を誤解していたところがあり、単純に処罰すれば遺
族感情は収まるように・・しかしそんなことではないということが、よく分かりまし
た。
私は IFALPA という国際的組織の中にいまして、つい先週その会議場でオーストラリア
の例があり、オーストラリアの事故調査報告書では原因を書いてしまわないそうです。
書いてしまうと最終的にはどうしても人に擦り付ける方向になってしまうからという
ことでした。これにはやはり色々な意見があり、世界の大勢ではないですが、実際にそ
ういう風にしている国もあります。
次の質問ですが、「検察の中には郷原先生のような考えの人はいらっしゃるのでしょ
うか?」
私も今年の 3 月までは一応検事」の身分のままで仕事をしていましたが、その時点
では一人です(笑)。他に誰が同じようなことを言っているかというよりも、むしろ発
言自体をしない。
「検察はどうあるべきか?」とか、そもそも「自分たちの事故の問題
に対してどう考えるべきか?」とかそういうような発想自体をしないわけです。目の
前にある事件を適切に処理する。ということは法務省の役人であれば立法を粛々と行
う。そういうところに発想は向けられていて、
「全体としてどうすべきか」ということ
を考える人間は残念ながら非常に少ない。だからそのこと自体が今の検察の状況に結
びついているのではないかと思います。
次は現役のパイロットの方からの質問です。
「検察や警察は 原因を究明するのであ
れば、航空や鉄道事故の捜査をするに当たって、事故調査報告書に頼ることなく独自
に調べて対策を出せばいいと思うのですが、方向性としてどうでしょうか?」という
ものですが、佐藤先生お願いします。
信楽高原鉄道の事故の時、担当者は滋賀県警と交通事故調査委員会でした。滋賀県
警は人間も少ないし、専門的な捜査能力を持った捜査官もいません。信楽の捜査が終
わった後、滋賀県警が「自分たちがどういう風に捜査をしたのか」300 ページの報告
書をつくりました。それを入手しまして、というのも全国の県警に滋賀の経験が活か
せないかと思ったからですが、それを読みますと「事故当初は信号のイレギュラーが
全然読めなかったけど、メーカーに協力してもらって、何度も勉強会して捜査中盤か
ら証拠を読めるようになった。努力したんです。」と書いてある。事故から 1 年くらい
かかって初めて証拠が読めるようになった人達が、本当に捜査をやっていいんだろう
かと思いました。滋賀県警が事故調査のために信楽高原鉄道を約 1 年半止めました。
もしも滋賀県警や岐阜県警や山口県警の管轄の中で新幹線が事故を起こしたら、1 年間
新幹線を止めて、新幹線のシステムの勉強を始めてから捜査するのかなと思って。や
はり無理なんだと思います。しかも滋賀県警の経験は岐阜県警にはいかないです。滋
賀は滋賀県警の中で完結した人員・予算・組織・経験であります。今の日本のシステ
ム、それから専門家がいないという現実の中で、鉄道や航空という高度に複雑化した
システムを調べるというのは、そもそも非常に難しい。基本的に無理じゃないかと思
います。
郷原
検察も実情は同じ、というよりもっと深刻かもしれないですね。検察はスペシャリ
ストを作ろうとしません。ジェネラリスト志向です。一時期ひとつの分野に秀でた人
がいなくはないですが、検察という組織で共有していこうというわけではない。警察
も都道府県警という垣根があるから組織的にも妨げられているわけですが、じゃあ検
察は最高検があり地検があり、組織的であるように一体であるように見えますが、検
察では知識や経験の共有や蓄積が横に行われるということはありません。典型的な例
がちょうど 4 年前、長崎県の談合事件をやりました。今福島でもあるああいった談合
事件のシステムはその時に解明し尽くしたと思います。しかしそういう知識はほとん
どその後の操作に活用されていない。同じことが事故の捜査についても言えるのでは
ないか。
専門的な知識を要する捜査は鉄道事故や航空機事故ばかりでなく医療過誤もそうで
す。そういった問題について十分に専門的知識を持つ警察の部内で持っているかという
とそうではありません。仮に専門家がいたとしても、もう一つの大きな障害があると私
は思っています。それは 決済です。重大な事件というのは最終的には地検の部長、次
席、次席正、そして高検、最高検と上のほうにいって、あとは特捜部の捜査になります
が、その時の意思決定に必要なのは問題の単純化です。難しいことは現場を離れた人に
はわかりません。ですからどうしても単純化しないと、「よし、これで行け!」とはな
らない。結局、今の何重にも重ねられている決済制度というのも、専門性を阻んでいる
要因であると思います。
館野
では会場の中からご質問を・・どうぞ。
質問者 起訴と成った事件としていくつか挙げられていますが、これ以外に起訴になってい
るものはありますか?
佐藤
結論から言えば、起訴されたものはあります。福井県の越前鉄道で事故がおきてそ
れが起訴されたことがあります。私もそういう観点で事件・事故をまとめていなくて、
これほど著名な事故でもこんなに不起訴がありますよというところで若干まとめただ
けで、もちろん起訴されてその中で刑事責任について事実が解明されたものもたくさ
んあります。
館野
航空機事故で言いますと最近はニアミス事故の議案がありまして、その時の管制官
の人達が起訴されて現在事故裁判所で、東京地裁でやっているものもありますし、
さらに愛知県の知多半島上空での日本航空機 706 便事故もその時の当該機長が起訴
されております。それから管制官も機長も地裁では無罪となっていますが、両方と
も現在控訴されておりまして、特に 706 便は 9 月 22 日に初公判が行われて、現在公
判が進んでいる最中でございます。来年早々に判決が出る流れとなっております。
郷原
配布資料の中で、これについての追求を航空機の事故において考え方を見ますと・・
重要な問題点が含まれているような気がします。控訴審が行われておりまして結論が
わかるわけではありませんけれども、一ついえることはその事故は非常に珍しい航空
機事故で、起訴された。そこで責任の前提となる事故原因の認定根拠
とされた
のが、事故調査報告書です。この事故調査報告書は当然公判で事故原因について、そ
の証拠の信頼性が争われていると思います。これは最終的には一審では事故調査委員
会が決定した事実を排斥しているわけです。事故調査委員会の結論にかなり疑問を持
ったんだと思います。これは一つの重要なコメントではないかと思います。事故調査
委員会の報告書に、検事は事実認定を頼らざるを得ないというのが実情です。それで
は事故調査委員会の報告書が裁判で採用されないというのが実情です。これをどう考
えるかということ。
航空機事故においても例外なく検察の実現する正義を維持される。だからそれが処罰
の対象外とされる事例も作らなければ、検証が出来ない。それを可能にしてきたのが専
門家が集まって公的な権威を持っている事故調査委員会の存在。報告書があるから一応
その判断に乗ってきたわけです。もしこの事故調査委員会の報告書が使えないとなった
ら、すべての過失事件について例外なく、一応「処罰の可能性があるんだ」ということ
を若干言わなければならない。そういう検察のやり方について社会的な批判はなかった。
社会的には当たり前だと受け入れられてきた。しかし国際的にみるとかなり異様なこと
なんです。そういった事故の社会的責任について正当なのかと疑問を持っている。しか
し日本の実態には反映されない。
それはマスコミがそういう問題提起をほとんどしないことが一つある。背景には、で
はマスコミが物事を論じる時によって立つ根拠はどういうものか。どういう人達の話を
根拠とするかといえば、学者です。学者は諸外国で色々な議論やなにかあっても大体“今
の日本の制度を守っていくことに対して役に立つこと”ばかりをだします。彼らの意見
は大体当局寄りです。マスコミがそういった人達から取材をしようとすると、ほぼ当局
と同じような意見になってしまう。というわけで控訴審の判決でどうなるか分かりませ
んが、事故調査委員会の報告書がこの刑事裁判のなかでどのように扱われるのか、マス
コミも注目していく必要があるのではないかと思います。
館野
事故調査報告書というものは裁判で人を罰するために使ってはいけないと国際民間
航空協約で明確に規定されているんですね。国連の中の一つの組織で、日本は批准し
ているにもかかわらず、このような実態があるということを世界のパイロットも非常
に危惧しております。外国のパイロットは日本に飛んでくると(乱気流による負傷者
などが出た場合)日本の空港に降り立つな。米軍の基地に降りれば日本の司法の取調
べを受けなくて済む。そうまことしやかに話されています。実際に日本でトラブルが
あった時には、なるべく早く日本を離れようとしている、日本人としては非常に悲し
い実態があります。もっと社会全体で考えていく必要があるかなと思います。
共同通信の荒崎さん、メディアの立場から一言頂ければ大変有難いのですが、いかがで
しょうか。
荒崎
私も航空の取材をしたことがありますが、我々も専門性というものを意識しながら
仕事するのですが、どうしても“広く浅く分かりやすく”ということが最優先で記事
を書くことが多いのです。その時に足りない部分、分からない部分は一般的に知られ
ているところ、或いは役所で話を聞いて、それで自分なりに分かって書いているつも
りになって・・どうしても能力の範囲でやらざるを得ないところがあります。とする
と日々の業務に追われて、大局が見えない時が生じるのかなと。出来る限りそれは理
解しつつ、専門的な目から見た場合でも、方向性が誤っていないように書きたいなと
考えつつやっております。
館野
なかなか私どもも普段はマスコミの方や、司法の方と接することが少なく、そうい
う意味で非常にきょうはいい機会を頂き、有意義なシンポジウムを持てたと思います。
東京でもこういうシンポジウムは今回が初めてですので、今後も是非定期的に開いて、
皆様のご意見を聞かせて頂きたい。
■閉会のあいさつ
日乗連
議長代行
B777機長
石山
勉
今回のシンポジュウムには 103 名の方が参加して頂きました。皆様お忙しい中本当に有難
うございました。私達は 30 年近く前から刑事責任の追及と事故調査とは分離しなければ、真
の事故原因は究明できないとずっと主張して参りました。いかんせん孤軍奮闘の観は否めま
せんでしたが、この所随分状況が変わって来ました。昨年の 6 月 23 日に、日本学術会議が政
府に提出した「事故調査体制の在り方に関する提言」では、明らかに現在の法体系変を変更
すべき、と訴えています。また、郷原先生が中心となって行われている「事故防止の在り方
を考える集い」が行ったシンポジウムでは、私たちのような専門職でない一般の市民・国民
の方々が「警察による刑事責任の追及と事故調査は分離しなければいけない」という大変強
いメッセージが発信されました。これも大変大きな意義があるものと思います。
今日、郷原先生と佐藤先生のお話を伺い、更に色々なものが見えてきました。
お二人のプレゼンテーションの内容は事前に綿密にすり合わせた訳ではありません。凡そ
こういう感じでということは私達からお願いしましたが、一つの事故を検察側と被害者側か
ら見た場合に、<現在の刑法は全く機能しない>ということが全く異口同音にはっきりと説
明されました。
郷原先生のプレゼンテーションにあった、「司法あるいは警察の刑事捜査は社会の外縁部
で社会からの排除を目的に行われている」、という部分は非常に分かりやすい説明でした。事
故捜査というのは実は社会のなかで解決していこうということであり、全く異質のものだと
思います。変革が必要だということが良く分かりました。
佐藤先生の遺族の立場からのお話。先生が NTSB に調査に行かれた時、NTSB の事故調
査員は皆さん『事故調査は被害者のために、被害者に代わって行っている』と言っていた、
というお話を以前伺いました。この言葉は大変新鮮に聞こえました。私達は誰のために何の
ために事故調査をするのか。根本的なこのことをもう一回考える必要を感じました。そうし
ますと見えて来る物の一つに、被害者・遺族の方々へのサポートがあります。この部分は日
本ではまだまだ不十分です。是非とも改善していきたい、その力になりたいと思っておりま
す。
IFALPA という世界のパイロットの組織があります。私達日乗連は日本の定期航空に働く
パイロット 5200 名で構成されますが、日本の代表として IFALAP に加盟しています。その
IFALPA が 11 月 7~9 日まで日本で本部役員会を行い、会議最終日の 9 日に法務省に要請に
参ります。日本政府は事故調査に関する条約である、国際民間航空条約(ICAO Annex 13)
を批准しています。しかし、批准しているにもかかわらず、事故が起きた場合、事故調査報
告書は警察の証拠資料などに使われています。これは明らかに条約に反したことです。従っ
て日本の事故調査の実態を是非とも条約に沿った形にして頂きたい、という要請に行きます。
今回の要請で法務省に対する要請は 3 回目になります。今回は、日本学術会議の提言があっ
たこと、事故防止のあり方を考える集いのシンポジウムから強いメッセージが発せられたこ
と、という、前回の情勢と違う背景があります。これを契機に私達もさらに活動していきた
いと思います。
本日は国土交通省の方、学者の方、マスメデイアの方、ヒューマン・ファクター研究者の
方、非常に多くの方に参加して頂きました。
事故が起きた場合、刑事責任の追及と事故調査をどの様にしていったらいいのか、はっき
りした結論はまだ見えていません。私達は免責を要求しているものでは全くありません。た
だ安心で安全な社会の実現のために、どのようにしていったらいいのかということを提言し
ております。世論形成のために皆様方のお力添えを頂かなければ、この問題は前に進むこと
が出来ないと思います。今後とも皆様のお力と、国民の皆様のご理解を礎に、安心で安全な
社会を実現するために、私達も努力して参ります。どうぞ宜しくお願い致します。