1.戦後復興期におけるIMFとマーシャルプラン

戦後復興期における IMF とマーシャル・プラン
横浜国立大学 西川 輝
Ⅰ. はじめに
1944 年 7 月、連合国はブレトンウッズ協定に調印し戦後世界に多角的貿易決済体制を築
くことに合意した。しかし協定は、多角的貿易決済体制の構築を目標として掲げながらも
その実現に至る具体的な道筋については明示しなかった。実際ブレトンウッズ協定は、同
時代のコンセンサスではなかった。すでに計画立案の段階でケインズとホワイトの対抗に
還元しえない諸利害が英米の戦後構想に織り込まれることになり、それゆえ戦後の展開過
程においても、ブレトンウッズ機構(IMF・世銀)以外の多様な主体が多角的体制の構築
に役割を果たすことになった。とりわけ 1950 年代初頭に至る時期は、経済的にはドル不足
が、政治的には冷戦体制の始まりがマーシャル・プランを要請し、マーシャル・プランが
欧州域内の多角的決済機構である EPU の成立へと展開していったことから、協定と現実の
政策展開との関係性が問われた時期であった。
すなわち、これまでの研究は、
『戦後復興期の問題解決におけるブレトンウッズ機構の役
割が消極的であったという事実を以て、ブレトンウッズ協定の「理念」までもが否定され
たとみるべきか否か』という問題を論じてきた。ブレトンウッズ協定の「理念」とマーシ
ャル・プランから EPU の創設に至る政策の「目標」との距離感が専ら争点とされてきたの
である1。一方、こうした議論は、多角的貿易決済体制の構築における各主体の「主導性」
に着目しているために、戦後復興期において「機能不全」にあったブレトンウッズ機構(本
報告との関連ではとりわけ IMF)の側が事態の推移をどのように把握しどのような役割を
摸索しようとしてきたのか、という点にはほとんど踏み込んでこなかった。マーシャル・
プランから EPU に至るプロセスがブレトンウッズ協定からの逸脱か否かという問題は2、
マーシャル・プランの登場をブレトンウッズ構想の挫折として捉える研究としては、Gardner,
Richard, Sterling-dollar diplomacy: the origins and the prospects of our international
economic order, McGraw-Hill, 1969(村野孝・加瀬正一訳『国際通貨体制成立史――英米の抗
争と協力』東洋経済新報社, 1973 年)、マーシャル・プランから EPU へ至るプロセスをブレト
ンウッズ体制(固定相場制と多角的貿易決済体制)成立への一階梯として捉える研究としては、
Bordo, Michael D. and Barry Eichengreen eds., A retrospective on the Bretton Woods
system: lessons for international monetary reform, University of Chicago Press, 1993 が代表
的である。
2 周知のように、マーシャル・プランについては、冷戦史観にもとづく外交史研究以来、ホー
1
1
ブレトンウッズ機構の側の視点を欠いたまま論じられてきたのである。
そこで本報告は、マーシャル・プランと西欧の為替自由化過程に対し、為替安定と為替
自由化の担い手であった IMF がどのように応じようとしたのか明らかにすることを目的と
する。そうすることで、新たな視座からブレトンウッズ体制の確立過程を展望したい。以
下、
「Ⅱ.マーシャル・プランの発動と IMF」では、ブレトンウッズ協定の成立とマーシャ
ル・プランが登場する歴史的背景を簡潔に整理したうえで、戦後復興期における IMF の役
割の低下と OEEC・EPU の台頭を対比的に論じる。そして「Ⅲ.IMF 復権に向けた試み」
では、IMF 内部においてどのように「開店休業」状態の克服が模索されていたのか明らか
にする。なお、本報告で用いる一次史料は米国ワシントン D.C.の IMF アーカイブスにおい
て収集したものである。
Ⅱ. マーシャル・プランの発動と IMF
1. マーシャル・プランへの道
戦時中より始まった英米間の戦後構想をめぐる交渉は、1944 年、ブレトンウッズ協定に
ひとつの妥協点を見出した3。IMF は、「加盟国に対し内外均衡の同時追求がもたらす矛盾
を緩和するための短期融資を供与しながら経常取引に係る通貨交換性回復を促す」との使
命を負って誕生した。しかしブレトンウッズ構想は必ずしも同時代のコンセンサスではな
く、むしろ当の英米両国内において強い批判にさらされていた。たとえばアメリカでは、
議会の保守層やニューヨーク金融界が国際機関を通した多角的貿易決済体制の構築に批判
的であった。また、国際機関を通した多国間協調よりもポンド・ドル間の安定と自由化を
優先すべきとするウィリアムス(John Williams)の「基軸通貨案」も有力な代案として支
持を集めていた。
これに対し政府は、
「アメリカの対外金融政策を一元的に管理し、IMF・世銀にアメリカ
議会の意向を貫徹させる」ために NAC を創設することで、これら反ブレトンウッズ層との
ガン・ミルウォードの論争を軸に経済史分野でも多くの研究が蓄積されており、その議論は、本
稿が射程に収める論点を遥かに超えた広がりを持って展開してきた。研究史の全体像については、
廣田功・森建資編著『戦後再建期のヨーロッパ経済――復興から統合へ』日本経済評論社, 1998
年, 2-6 頁および、河崎信樹、坂出健「マーシャル・プランと戦後世界秩序の形成」
『調査と研究』
第 22 号, 京都大学経済学会, 2001 年, 1-9 頁を参照されたい。
3 英米交渉の過程については、伊藤正直「IMF の成立」伊藤正直、浅井良夫編『戦後 IMF 史―
―創成と変容』名古屋大学出版会, 2014 年を参照されたい。
2
妥協を図り、協定を批准へと持ち込んだ。しかし創設早々に、NAC が直面したのは膨大な
復興需要と深刻なドル不足問題だった。1945 年 10 月に作成された試算では、1950 年末ま
でに 290 億ドルの対外融資が必要であり、政府(EXIM 含む)が 160 億ドル、世銀が 80
億ドル、民間投資が 50 億ドルを分担することが構想された4。しかし、EXIM の大幅な拡
充は困難であり、世銀もまた「保守化」するなかでその融資能力は著しく制限された。さ
らに IMF についていえば、もとより復興融資への融資は行わないことが協定で規定されて
いた。折しも、1946 年から 47 年にかけての厳冬の影響で欧州諸国の対米赤字は拡大して
おり、これにブレトンウッズ機構のみで対処することは困難だったといえよう。
アメリカ政府に欧州復興の必要性を認識させたのは、ギリシャ・トルコ問題を契機に顕
在化した共産主義との対抗であった。1947 年 3 月のトルーマン・ドクトリンを経て、国務
省内部では欧州復興構想が練られ、6 月のマーシャル演説へとつながった。他方、このマー
シャル演説への対応を協議するなかで、欧州において西欧と東欧の色分けが明確化してい
くことになり、7 月以降、西欧諸国は CEEC を軸に独自の復興計画を立案していった。こ
の計画はアメリカ政府との折衝を経て、最終的に 1948 年 3 月の対外経済援助法として成立
することになる。そしてこの援助法に基づき、借款 11 億ドルと直接贈与 91 億ドルの計 112
億ドル(見返り資金の総額は約 70 億ドル)が西欧に供給されることが決まり、援助を司る
機関としてアメリカ側に ECA が、援助の受け皿機関として西欧に OEEC が誕生した。
このマーシャル・プランの発動を受け、NAC は自らの対外金融政策を調整しマーシャル・
プランとの棲み分けを進めた。すなわち、世銀と EXIM による融資の中心を非西欧地域へ
と移すとともに、1947 年に欧州支援のための例外的な「つなぎ融資」を実行させた IMF
についても、1948 年 4 月に「ERP の決定」を断行し対欧融資を原則禁じる措置をとった。
結果、IMF の業務は低迷し、1950 年代半ばにかけて「開店休業状態の IMF」との見方が
広まっていくことになる。
では、マーシャル・プランはブレトンウッズ構想からの逸脱だったのだろうか。欧州復
興計画の台頭によって、アメリカ政府の対外支援政策における NAC の主導性が低下したこ
とは、当局者の認識するところでもあったようである5。一方、CEEC の結成を契機に、西
Casey, M. Kevin, Saving International Capitalism during the Early Truman Presidency:
The National Advisory Council on International Monetary and Financial Problems ,
4
Routledge, 2001, pp.95-96.
5 1947 年 8 月、財務省のサザード(Frank Southard Jr.)は財務長官(NAC 委員長)スナイダ
ー(John Snyder)に書簡を送付し、
「この半年を通して NAC の役割は深刻なまでに低下して
いる」、NAC の低迷は「EXIM の資金枯渇、IMF の資金節約、世銀の保守化」に起因しており、
3
欧諸国は、双務協定を多角化するための域内決済機構づくりを巡って協議を開始しており、
アメリカ政府もまた、西欧諸国の復興のためには、域内の双務協定を廃止することが必要
であるとの認識を示していた。戦後西欧の域内通商は双務協定に依存して展開していたが、
そうした双務的な貿易拡大には限界があること、そのため域内決済の多角化が必要である
ことが次第に認識されるようになっていたためである。こうして 1950 年には、西欧を包含
する多角的決済機構である EPU が成立する。そして、この EPU をブレトンウッズ構想の
実現に向けた必要不可欠の一階梯として把握する研究は数多く存在する6。
一方、注意すべきは、こうした主要国間の動きをブレトンウッズ機構(本稿では IMF に
焦点を絞る)の側がどのようにみていたのかということである。
「過渡期条項」と呼ばれる
協定 14 条が IMF による復興業務への関与を原則禁止していたことからも、復興期におけ
る IMF の役割の低迷は当初の想定と矛盾しない。しかし次節以降で検討するように、当の
IMF の側に視点を移すと事情は異なっていた。西欧の動きは、限定的とはいえ IMF が本来
使命とする通貨の交換性回復を追求する計画であり、初代専務理事のギュット(Camile
Gutt)はじめ IMF スタッフたちはこのプロセスに積極的な関与を試みていたのである。
2. OEEC と EPU の台頭
(1)欧州域内多角化構想と IMF
IMF と西欧の接触は、西欧からのアプローチを契機に始まった。1947 年 7 月末、CEEC
は域内決済の多角化に向け始動することを正式に決定するとともに、この決定の中で「欧
州域内決済の多角化に向けて、IMF が果たすべき役割は重要である」との方針を明示した7。
こうして CEEC の検討委員会に出席を要請されたギュットは、オブザーバーとして、8 月
のパリ会議そして 9 月のロンドン会議に参加した8。
IMF による西欧への関与について、一つの在り方が示されたのは 10 月末のことだった。
ギュットと共に渡欧した調査局長のバーンスタイン(Edward Bernstein)が、理事会で
CEEC の計画について概説するとともに、計画に内在する問題点と IMF による介入の可能
「NAC が議会の期待に応えるにはマーシャル・プランで重要な役割を果たさなくてはならない」
が、
「NAC はマーシャル・プランに関与できていない」と、NAC の役割の低迷を危惧した。Ibid,
p.221.
6 Bordo M. and B. Eichengreen, A retrospective on the Bretton Woods system など。
7 Horsefield, John and Margaret De Vries, The International Monetary Fund, 1945- 1965:
twenty years of international monetary cooperation, IMF Vol.1, 1969, p.213
8 IMF Archives(以下 IA), Executive Board Minutes 47/203., European Committee for
Economic Cooperation, August 12th, 1947
4
性について明らかにしたのだった9。
計画に内在する問題とは、すなわち各国間の利害対立であった。そもそも西欧諸国の目
的は、双務協定の制約を打破しドル不足下においてなお域内貿易を発展させることにあっ
た。そしてこの目的を達するには、各国間の双務協定の収支尻を多角的に清算し決済する
機構の確立が必要だった。しかし二国間債権債務関係の多角的清算は域内通貨間の交換性
回復を意味しており、計画には巨額のポンド残高を抱えその交換性回復を回避したいイギ
リスが抵抗を示していた。さらに、域内の黒字国であるベルギーとフランスやオランダな
ど域内の赤字国との間の債権債務関係の決済の方法についても妥協点が見出されなくては
ならなかった。黒字国は金ドルでの決済を望み、金ドルを節約したい赤字国は信用供与に
よる決済を要求したのである。
こうした事情から、機構の成立は難航していた。ベルギーはじめ 5 カ国しか機構への参
加を表明していないという事態を説明した上で、バーンスタインは、これら諸国が、域内
決済用の資金を IMF に依存する可能性があることを示唆した。理事会は、現段階では何ら
かの方向性を打ち出すべきではないとしながらも、スタッフに IMF 融資の利用可能性につ
いて検討するよう要請した。
それから 1 ヶ月後の 1947 年 11 月、ベルギー初め 5 カ国は、
「第一次多角通貨相殺協定」
を締結した。協定の実施期間は、1947 年 12 月から翌年 6 月までと決められた。参加国が
少なかったこと、参加国間の債権債務関係の不均衡が著しかったこと等の理由から、双務
協定の制約を打破することはできず、十分に収支尻の清算が進むことはなかった。
12 月末、調査局のスタッフによって、欧州域内決済に対する IMF 資金の利用可能性につ
いてメモが作成された10。このなかでスタッフは、次の二点に触れ、西欧への積極的なアプ
ローチを提言した。①欧州の機構に対し、IMF が信用を供与することは可能である。域内
債務国に債権国通貨を提供すれば、当該債権国の IMF からの引出権は拡大する。域内債権
国は、IMF の保有するドルを利用することが出来る。②双務協定の多角化は IMF にとって
も喫緊の関心事である。多角化の地理的範囲を拡大していくためにも、信用供与を行うこ
とで、また決済機構の代理人となることで、この動きに積極的に関与すべきである。
さらに 1948 年 1 月の理事会では、バーンスタインが欧州への信用供与を実行するよう理
IA, Executive Board Minutes 47/218., Committee of European Economic Cooperation,
October 23th, 1947
10 IA, Staff Memoranda 47/160., The unresolved problem of financing European trade,
December 16th, 1947
9
5
事たちに訴えた11。彼は、CEEC5 カ国間による第一次多角通貨相殺協定の下での清算の進
展がはかばかしくない現状を説明し、IMF 融資の供与によってこの閉塞状況を打破するこ
とが可能であると主張した。その一方でバーンスタインは、二つの要因が、欧州諸国によ
る IMF 資金の利用を妨げていると述べた。一つは、仮に米ドルの引出を行わなくとも、IMF
資金の利用によって米ドルの引出可能枠が低下してしまうことを欧州の債務国が懸念して
いるということ、いま一つは、資金の利用によって生じる買戻しの義務には米ドル等の交
換性通貨で対応しなくてはならないということだった。これに対し理事会は、具体案につ
いて検討するようスタッフに要請した。
(2)「ERP の決定」と対欧融資計画の挫折
こうした状況に影を落としたのが、マーシャル・プランであった。1948 年に入りマーシ
ャル・プランの発動が近付くと、IMF 内部では、アメリカ政府から復興支援を受ける欧州
諸国に、IMF 融資の利用を認めるか否かが論点となった。すでに述べたように、NAC の方
針は IMF を欧州の復興に関与させないものであり、こうした本国の意向を受け、アメリカ
理事のオーバビー(Andrew Overby)は、IMF が欧州に対して米ドルで融資を実施すれば
アメリカ政府の対欧支援計画を混乱させることになると述べ、マーシャル・プランの被支
援国は―復興目的にとどまらず国際収支調整も含め―全般的に IMF 資金への依存を控える
べきであると主張した。
これに対し欧州諸国の理事たちは、マーシャル・プランによって直ちに IMF 資金の利用
権が削られることはないと述べて抵抗した。すなわち、戦後復興期における IMF 融資の利
用については、協定 14 条 5 項で「IMF は、戦後過渡期が調整期間であることを認め、調整
期間であることに起因する加盟国の要請の受理について決定するにあたり、相当の疑義に
対しては加盟国に対し有利な決定を下すこと」と規定されていたが、援助の存在が「相当
の疑義」を巡る評価を厳格にすべきではないとの主張であった12。
しかしオーバビーは、アメリカ政府による復興計画が始まった以上「相当の疑義」に対
する解釈を厳格化させざるを得ないとの考えを譲らなかった。さらに根本的な問題として、
IMF の資金は欧州の復興需要によって消尽されるべきではなく、復興期が終了した後の資
金需要にも対応してゆかなければならないという事情があった。欧州の理事たちは、この
11
12
IA, Executive Board Minutes 48/253., European Recovery Program, January 21st, 1948
IA, Executive Board Minutes 48/253., European Recovery Program, January 21st, 1948
6
IMF 資金の保護の問題は各国が自制すれば対応できるとして抵抗したが、4 月 5 日、アメ
リカ理事の主張に沿い、IMF 理事会は、マーシャル・プランの被支援国は IMF を通した米
ドルの利用を控えるべきであるとの「ERP の決定」を行った13。
こうしたなか「ERP の決定」から 1 ヶ月後の 5 月、スタッフは、理事会に対欧融資計画
の具体案を提出した。スタッフのメモでは、欧州諸国が双務協定において互いに設定して
いる信用枠を最大限利用したとしても、ベルギーを中心とする域内黒字国に 3 億 3800 万ド
ルに上る債権超過が生じると試算した上で、IMF は 3 億 3800 万ドル相当の債権国通貨を
「追加的に」提供可能であると提言していた14。
しかしこの提言に対し、理事会の反応は否定的であった15。すでにマーシャル・プランが
発動されている状態で IMF が追加的な信用を供与することは、欧州諸国によるぜいたく品
の輸入を促すのではないかとの疑問、さらに、
「ERP の決定」と欧州への介入との兼ね合い
に関する疑問も提示された。
6 月の理事会で、アメリカ理事のオーバビーは、IMF が欧州に融資を行うようなあらゆ
る計画を批判した。彼の主張は、アメリカの欧州復興計画に対する影響、欧州によるぜい
たく品の輸入が増加する可能性、IMF の資金が欧州諸国によって消尽されるリスクなどに
言及したものであった16。この主張を受け、理事会は、IMF による欧州の清算機構への融
資を制限する決定を行った17。こうして、
「ERP の決定」を契機にスタッフたちの計画は挫
折を余儀なくされたのだった。
(3)EPU の成立
一方、第一次多角通貨相殺協定の期限が近付くなか、1948 年 4 月、CEEC に代わって誕
生した OEEC では、新たな清算機構の設立に向けて議論が行われていた。清算を促進する
上での課題は、最終的な決済に充当する資金をどのようにして確保するかにあった。IMF
からの融資が望めない状況下にあった OEEC 諸国は、ECA と交渉を行い援助の一部を決済
資金に充当することを認められた。
こうして 10 月、新たな清算機構である「第一次欧州域内相殺協定」が設立された。この
IA, Executive Board Minutes 48/294., Use of the Fund’s Resources-ERP, April 5th,
1948
14 IA, Staff Memoranda 48/226., Multilateralization of European Payment Agreements
among Fund members, May 7th, 1948
15 IA, Executive Board Minutes 48/316., European Clearing Arrangements, May 12th, 1948
16 IA, Executive Board Minutes 48/322., European Payments Arrangements, June 2nd, 1948
17 IA, Executive Board Minutes 48/323., European Payments Arrangements, June 4th, 1948
13
7
機構は、各国が双務協定の相手国に「引出権」と呼ばれる一種の援助枠を設定しあった点
に特徴があった。債務国による引出権の利用は、債権国から債務国への「援助」を意味す
るが、債権国は一方的に援助を行うわけではなく、供与した引出権と同額のドルを、マー
シャル援助から受け取ることができた。
これに対しギュットは、1948 年 11 月の理事会で、
「IMF はパリの動向と深く本質的な利
害関係にある」というタイトルの演説を行い、OEEC を軸に展開する清算機構への IMF の
関与を強く訴えた。彼は、
「パリで計画されていることは、多角化すなわち通貨の交換性回
復である。IMF 協定もまた、交換性回復を目指しており、この意味でパリでの動向と IMF
は無関係でいられない」と述べ、OEEC を中心に進められている域内多角化の試みに強い
関心を示した。そのうえでギュットは、
「国際的な通貨政策の実施主体は一つしか存在しな
い。それはただ一つ、IMF だけである。したがって、IMF はあらゆる動きに関与し、あら
ゆる組織を国際的な通貨政策に従属させなくてはならないのである」と訴えた。一連の発
言からは、本来は自らが推進主体となるべき西欧の為替自由化が、OEEC の下で推進され
ていくことへの懸念が窺える。しかし「ERP の決定」以来、IMF の関与に対する理事会の
姿勢は一貫して否定的であり、こうしたギュットの訴えが受け入れられることはなかった18。
なお第一次欧州域内相殺協定は、1949 年 9 月、「第二次欧州域内相殺協定」へと発展し
双務的に固定されていた引出権の 25%が多角化された。清算機構の多角化は、1949 年 12
月、ECA による提案を契機に大きく前進することとなった。この提案は、各国間の貿易収
支尻を「欧州域内清算同盟」と名づけられた機構を通し多角的に決済すること、すなわち
同盟参加国間の債権債務を新たに創設される共通計算単位に換算したうえで「同盟に対す
る」債権債務に置き換えて決済することを謳っていた。また提案では、同盟と債権国・債
務国との間に一定の信用枠を設定すること、すなわち引出権の多角化も計画していた。こ
うした清算同盟の成立は、欧州諸国の目的であった多角的清算機構の誕生を意味していた。
ギュットにとって問題だったのは、この機構が独自の運営理事会によって運営されるこ
と、その運営理事会が OEEC の下で政策決定を行う可能性があることだった19。彼は、1950
年 1 月の理事会で、
「(a) IMF は欧州の支払問題と強い利害関係にある。このため、現在、
欧州で行われている協議に、技術的・政策的レベルで関与すべきである。(b) IMF 加盟国の
IA, Executive Board Minutes 48/382., European Payments Arrangement, November 12th,
1948
19 Horsefield et al., The International Monetary Fund, 1945- 1965, Vol.2, p.327
18
8
うち欧州で構想されている計画に参加する加盟国は、IMF に事前に相談すべきである。(c)
仮に地域的な通貨機構が必要なのであれば、そうした機構は IMF によって提供されるべき
である」との持論を展開した。しかし理事会では、
「これまで欧州に対し否定的な姿勢を採
ってきた以上、この期におよんで IMF が欧州諸国に協議を呼び掛けるのは適当ではない」
との見方が大勢を占めた。ギュットの提案は、またも受け入れられなかった20。
他方、欧州の側でも IMF の介入に対する抵抗は根強かった。当時、IMF 調査局のスタッ
フであったドフリース(De Vries)は、こうした抵抗の理由を次の 4 点に求めている21。①
「ERP の決定」によって、IMF の保有するドル資金の利用が制限されてしまったことによ
る欧州諸国の IMF に対する失望感、②IMF はアメリカ政府の傀儡であるとの見方が存在し
たこと、そのうえで、すでに ECA を通してアメリカ政府と連携している以上、IMF の関与
は不要であるとの見方を欧州諸国が有していたこと、③ECA と国務省を中心とするアメリ
カ政府の一部も、欧州の統合を進めるために不可欠な手段としての清算同盟の独立性にコ
ミットしていたこと、④同盟の運営を円滑化するうえで、OEEC の決定に IMF の承認が必
要となるような仕組みは欧州諸国にとって都合が悪かったこと。
1950 年 9 月、清算同盟案は EPU として具体化した。EPU を通した決済には、西欧諸国
に加えスターリング地域やフラン地域といった西欧諸国の通貨地域も参加した。こうして
西欧諸国の試みは、ドル地域と西側世界の決済圏をほとんど二分するほどの多角的決済機
構を生み出した。当初 1952 年 6 月までをその起源として設立された EPU は、1950 年代を
通して更新され 1958 年末に西欧諸国が通貨の交換性を回復するまで存続した 22。一方、
OEEC・EPU の台頭とは対照的に、この後 IMF は「開店休業状態」に陥ってゆくこととな
ったのである。
Ⅲ. IMF 復権に向けた試み
西欧諸国はマーシャル・プランの下で着実に復興を進め、1950 年の時点で戦前水準を超
える工業生産力を回復するに至った。他方、依然としてインフレは収束しておらず、アメ
IA, Executive Board Minutes 50/520., European Payments Arrangements, January 13th,
1950
21 Horsefield et al., The International Monetary Fund, 1945- 1965, Vol.2, pp.328-329
22 EPU の成立と展開については、Kaplan, Jacob and Gunther Schleiminger, The European
Payments Union: Financial Diplomacy in the 1950s, Oxford University Press, 1989 を参照さ
れたい。
20
9
リカとの間の経常収支不均衡もまた顕著であった。
この段階で、IMF 協定 14 条は、国際収支上の理由から加盟国に為替管理の採用を認めて
いた。しかし、OEEC と EPU の台頭によって自らの地位が脅かされていくなか、スタッフ
たちは加盟国に為替自由化を促すための方策を検討し始めた。為替自由化の障害となって
いる国際収支上の要因とは何か、そうした要因をどのように解消してゆくべきか、これら
の点について検討を始めたのである。
1. 戦後インフレとドル不足への対応
IMF は、加盟国が為替管理を維持する要因をどのように捉え、どのようにその廃止を推
進しようとしたのか。この点を知るうえで、1950 年から IMF が刊行を始めた『為替制限に
関する年次報告書(Annual Report on Exchange Restrictions)
』の内容を分析することが
有益である。この報告書では、その名称が示す通り加盟国の採用する為替制限の現状と IMF
による分析がまとめられていた。
さて、スタッフが『第 1 次為替制限に関する年次報告書』を作成したのは、1950 年 2 月
から 3 月にかけてのことだった23。原案のなかでスタッフは、各国のドル地域に対する経常
収支が依然として不安定であることを指摘し、①残存するインフレ圧力と、②国際的に根
強いドル不足をその要因として挙げた。
そのうえで、インフレ圧力への対処については、次のように緊縮的マクロ政策の重要性
に言及した。
「すべての加盟国は、自国の為替平価を長期的に維持することができないよう
な財政金融政策を採用すべきでない。現在のようなインフレを回避し、その国際収支に対
する悪影響を除くような緊縮的政策を採用するよう求める」
。そして、ドル不足への対処に
ついては「加盟国の国際収支を圧迫しているのは、明らかに国際的な要因であり、これに
ついてはいかなる加盟国も単独では対応しえない」、「加盟国の行動は著しく相互依存的で
ある。ある加盟国が為替制限を撤廃しうるということは、他の加盟国の政策及び行動の結
果であることが多い。このことは協調に基づく計画の必要性を強調するものであって、各
国の政策は、為替自由化を志向する加盟国の努力を阻害するのではなく、これを最大限援
助するものでなくてはならない」と述べた。
IA, Staff Memoranda 50/436., First Annual Report on Exchange Restrictions, February
6th, 1950, IA, 50/436 Revision2., First Annual Report on Exchange Restrictions, March 1st,
1950
23
10
このようにスタッフは、
「加盟国が為替制限を維持している理由は国際収支不均衡である、
国際収支不均衡は、各国のマクロ経済政策で対処すべき側面を持ちながらも、根本的には
国際的なドル不足問題の存在に影響を受けている」と現状を分析した。さらに、
「通貨の交
換性回復に対するこの二つの障害に立ち向かう上で、加盟国に積極的な協力と助力を差し
伸べることが IMF の方針である」
、
「各国は通貨分野における統合的な調整および協力機関
として、IMF の果たすべき役割を認めている。IMF は、加盟国間の協調的行動を主導し多
角決済体制の樹立に寄与したい」として、自らが為替自由化の推進主体であることを強調
した。このようにスタッフたちは、自ら為替自由化を推進する主体としての地位を確立す
るべく「インフレと戦後のドル不足に起因する国際収支不均衡」の解決に取り組まねばな
らなかった。
2. アブソープションアプローチの考案
IMF スタッフは、為替自由化の障害として国際収支不均衡を挙げ、その是正には緊縮的
マクロ政策を通したインフレの抑制が重要であると謳っていた。では、国際収支の問題を
国内マクロ政策運営と結び付ける考え方は、どのようにして生まれたのだろうか。
当初、対外不均衡の調整手段としては、短期的な失調には IMF 融資、そして深刻なドル
不足のような「基礎的不均衡」の場合は「調整可能な釘づけ」制度の活用によって是正さ
れるものと想定されていたはずである。実際、金本位制下においては「自動調整メカニズ
ム」が、そして 1930 年代末以降は、為替相場の変更によって経常収支が調整されるとする
「弾力性アプローチ」が一般的な国際収支調整の考え方となっていたことから、必ずしも
同時代において国際収支の調整をマクロ政策と関連付ける方法が自明だったわけではない。
そこで「アブソープションアプローチ」と呼ばれる国際収支調整理論について説明し、同
時代における IMF の国際収支調整の考え方について明らかにしておきたい24。
このアブソープションアプローチは、経常収支(CA)を、国内総生産(Y)と国内総支
出(アブソープション=消費・投資:A)の差として把握する(CA=Y-A)(⊿CA=⊿Y
-⊿A)理論である。この理論に基づくと、経常収支の改善は Y の拡大と A の抑制によっ
て達せられるが、完全雇用下では国内総生産の水準を変化させることはできない。このた
24
この理論は調査局のポラック(J.J.Polak)によって発展し、次のアレキサンダー(Sidney
Alexander)の論文で広く知られるようになった。Alexander, Sidney, “Effects of a Devaluation
on Trade Balance,” Staff Papers, Vol.2, No.2, IMF, 1952, pp.263-278
11
め「経常収支を改善するには、財政金融政策の引締めによってアブソープションを抑制せ
よ」
、これがこの理論の政策的含意となる。
この理論は、国際的なインフレという戦後過渡期の問題に起因する国際収支不均衡に対
応する過程で、調査局のスタッフたちによって考案されたものだった。すでに IMF の業務
開始当初から、バーンスタイン率いる調査局スタッフたちは、「戦後の国際収支不均衡はイ
ンフレに起因している」との認識を有していた。そして 1950 年頃までに、加盟国へのミッ
ションの経験等を通し「インフレの背景をなす過剰な国内総支出を抑制しなければ、為替
減価を行っても不均衡を是正することはできない」という、アブソープションアプローチ
の考え方の基礎を形成していった。
アブソープションアプローチは、為替相場と貿易収支との関係を巡る弾力性アプローチ
の効果を検証する試みを通して生み出されたものであった。弾力性アプローチの下では、
為替相場の変更と貿易収支の関係は、専ら貿易財の相対価格の変化と貿易財の価格弾力性
の関係から分析される25。一方、アブソープションアプローチでは、為替相場の変更が総生
産や総支出に与える影響が考慮される。例えば為替減価が行われると、切下げ国の輸出品
価格は低下し、同時に貿易相手国ではその財の輸入需要が増加する。切下げ国はこの輸入
需要の増加分を満たすことが求められるが、そのためには輸入需要の増加分だけ国内総生
産を拡大するか、その財に対する国内総支出を抑制し輸出に回さなくてはならない。一方、
完全雇用下では、短期的に国内総生産を拡大することができない。このため、完全雇用水
準を超えてインフレ圧力が存在する場合であればなおさら、いずれ国内総支出が抑制され
ない限り、為替減価によっても貿易収支は改善しないことになる。
このように、IMF スタッフは、戦後過渡期の諸問題に対処する過程で、加盟国のマクロ
経済を管理しその政策運営に注文をつけるという政策の理論的基礎を生み出したのであっ
た。なおこのアブソープションアプローチに続き、50 年代半ばにはマネタリーアプローチ
が26、そして 60 年代初頭にはマンデルフレミングモデルが27、それぞれ IMF の調査局によ
って創出されることになる。
De Vries, Margaret, Balance of Payments Adjustment, 1945 to 1986: the IMF experience,
IMF,1987,pp.13-24
26 Polak, Jacques J., “Monetary Analysis of Income Formation and Payments Problem,”
Staff Papers, Vol.6, No.1, IMF, 1957, pp.1-50
27 Boughton, James M., “On the Origins of the Fleming-Mundell Model,” IMF Working
Paper, WP/ 02/107, IMF,2002
25
12
3. 融資制度改革
さらにこの後、融資制度改革を通し IMF は加盟国のマクロ政策に介入するための方法を
も確立させていくことになった。IMF 融資の利用については、協定第 5 条がその原則を規
定していた。しかしその内容は曖昧さを残しており、業務開始当初から、理事会内部では
その解釈を巡る対立が続いていた。争点となっていたのは、第 3 項「利用に関する条件」
の「通貨の買入を希望する加盟国は、その通貨が現に必要である旨を示さなくてはならな
い」という一文であった。こうした曖昧な表現は、IMF 設立交渉を巡る英米間の「妥協の
産物」であった。すなわち「その通貨が現に必要であるか否か」を厳格に IMF の裁量で審
査すべきであるとするアメリカと、
「その通貨が現に必要である」ことを唯一の条件として
ほとんど自動的に IMF 資金を利用可能とすべきであるとするイギリスとの間の対立が、背
景に存在していたのである。融資の利用条件が定まらないことは、必然的に加盟国の資金
需要を低迷させた。IMF の融資額は、1947 年度の 6 億 600 万ドルから、1950 年度には 2800
万ドルへと減少した。
(1)ギュットによる改革
融資の利用条件を巡る対立を融和し、IMF 融資の活性化に向けた制度整備が行われる契
機となったのは、ギュットによる融資制度改革であった。1950 年 11 月、理事会の非公式
セッションにおいて、ギュットは「理事会における争点を円満に解決するような提案をし
たい。論理が逆と言われるかもしれないが、私の目的は唯一前進することだけである」と
述べ、融資の利用条件に関する対立の緩和を優先する姿勢を表明した。
ギュットが対立の緩和を急いだ背景には、対立が資金の死蔵を招き、ひいては IMF の立
場を貶める方向に作用しているとの認識が存在した。彼は、
「明らかなことは、IMF は議論
を尽くす組織であると同時に、何より実行力ある組織でなくてはならないということであ
る。IMF は、加盟国による資金の利用を制限するのではなく、彼らに資金利用を認める方
向で活動すべきである」と述べ、IMF 資金の積極的な利用を認める姿勢を示した。
しかしギュットの提案には、もう一つの仕掛けがあった。彼は、「IMF の資金は、IMF
協定の目的に向けて実効的な計画を採用する加盟国によって活用されるべきである」と述
べた。すなわちギュットは、IMF 資金の積極的な利用を謳いながら、その利用には「IMF
の目的」と整合的な計画の履行という条件が付されるべきことを主張したのだった。
では、IMF の目的と整合的な「計画」とは何か。その内容についてギュットは、
「融資の
対象となる実効的な計画とは、インフレの抑制であり、現実的な為替相場の設定であり、
13
通貨の交換性回復であり、差別的措置の廃止である」と説明した。彼は、
「これは IMF に
とっても建設的なことだろう。主導権と活動の場を獲得し、これまで失われてきた権威を
回復する契機である」と述べた。ギュットは、IMF 資金への可能な限り自由なアクセスを
望むイギリスはじめ欧州側と、資金の利用に条件と審査を付けて管理しようとするアメリ
カ側の双方に配慮しながらも、資金利用の条件の中に「通貨安定と為替自由化」という IMF
の目的を巧みに織り込んだ。そして、「融資の活性化」と「為替自由化の推進主体としての
IMF のプレゼンスの復権」という二つの目標の同時達成を追求したのであった28。
1951 年に入ると 4 月末の理事会で、ギュットの提案が議論された29。依然として、資金
利用に対し政策面での条件が付されることを嫌う一部の理事からは反対もあったが、ほと
んどすべての理事が、IMF 融資の利用に関する一つの原則としては承認し得るとの姿勢を
示した。こうして 5 月初頭の理事会で、ギュットの示した方針は承認された30。
(2)ルースによる改革
1951 年 5 月に任期を終えたギュットに代わり、融資制度改革は、第二代専務理事のルー
ス(Ivar Rooth)に引き継がれた。ギュットの提案は、IMF 融資の利用に関する方針を打
ち出した点で画期的だったが、依然として「原則」の域を出るものではなかった。ルース
は、IMF 融資を活性化させるべくより具体的な資金利用の条件について改革を進めた。
まずルースが着手したのは、金利手数料体系の改訂であった。1951 年 10 月の理事会で、
ルースは「短期的な資金の利用を促進するとともに、長期間にわたる資金の利用を抑制し
てゆきたい」と述べ、従来の金利手数料の体系について、①期間の長さに関らず徴収され
る手数料を引き下げるとともに、②短期間の資金利用にかかる金利と長期間の資金利用に
かかる金利との間の差を広げる提案を行った31。
またルースは、資金の短期的な利用を促すため、金利手数料の改革と並行して資金の「買
戻し」の条件について明確化する作業にも着手した。IMF 協定は、第 5 条 7 項で買戻しの
条件について規定していたが、具体的な期限については明記していなかった。11 月の理事
会でルースは、
「IMF の目的を達するために、IMF の資金を流動的にしてゆきたいと考え
ている。そして、IMF を回転基金とするために、加盟国の買戻しの期間を比較的短期間に
IA, Executive Board Documents 51/828., Use of the Fund’s Resources-Managing Director,
February 5th,1951
29 IA, Executive Board Minutes 51/670., Use of Fund’s Resources, April 25th, 1951
30 IA, Executive Board Minutes 51/672., Use of Fund’s Resources, May 2nd, 1951
31 IA, Executive Board Minutes 51/710., Use of Fund Resources-Charges, October 26th,
1951
28
14
区切りたいと考えている。加盟国に短期の資金利用を促す金利手数料の改訂に加え、IMF
資金の積極的な回転を促すべく、3 年から 5 年の間に買戻しを行うことが望ましいと考えて
いる」と述べた。既存の金利体系では融資の利用期間が最大 10 年目まで設定されていたこ
とから考えても、この提案は、買戻し期間の短縮を意味していた。
金利体系の改訂と買戻し期間の短縮は、IMF 資金の利用を厳格化する提案であるかのよ
うにも受け止められる。しかしルース自身が述べているように、その狙いは、資金の利用
期間の短縮を通し IMF 資金の回転を促すことにあった。あくまで、IMF 融資の活性化が目
的だったといえよう。実際、これらの改革と併せ、ルースは、IMF が保有する加盟国通貨
のクオータに対する割合の 100%までの部分すなわちゴールドトランシェの範囲内での資
金利用については政策面での条件を緩和する計画を提案した32。
これらの提案は理事会でも支持を集め、1952 年 2 月の理事会で「①加盟国が適切な政策
を実施することが融資の可否において重要となること、②ゴールドトランシェの資金利用
について IMF は事実上審査を行わないこと、③加盟国は引出後 3 から 5 年以内に自国通貨
の買戻しを行うこと」が決まった。この提案は、考案者の名前をとって「ルース・プラン
(Rooth Plan)
」と呼ばれた。この「ルース・プラン」は、以後、IMF の融資制度の骨格を
成していくことになる。
さらにルースは、
「場合によっては、喫緊の資金利用の要請に関する協議ではなく、6 カ
月から 12 カ月以内に加盟国から資金利用の必要性が示された場合はいつでも直ちに資金の
利用を認めるという保証を加盟国に与えるための協議が必要かもしれない」と述べ、いわ
ゆる「融資予約」の制度の必要性にも言及した33。1952 年 10 月の理事会は、この提案を採
用し「ゴールドトランシェの範囲内の金額で、かつ期間 6 カ月以内」という条件で、融資
予約を認める旨を決定した34。以降、IMF 融資制度の中核をなしていくスタンドバイクレ
ジットはこうして誕生した。
ギュットの声明に始まりルースの創意によって進められた一連の改革によって、IMF 資
金の利用条件が整備され、理事会内部の対立も終息した。しかし注目すべきは、資金の利
用条件が整備されたことそれ自体より、むしろその利用条件に「適切な政策の履行」が含
IA, Executive Board Minutes 51/714., Use of Fund’s Resources, November 7th, 1951
IA, Executive Board Minutes 52/10., Use of Fund’s Resources and Repurchases,
February13th, IA, Executive Board Minutes 52/11., Use of Fund’s Resources and
Repurchases, February13th,1952
34 IA, Executive Board Minutes 52/57., Stand-by Credit Arrangements, October1st, 1952
32
33
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まれたことであろう。以後、加盟国は、IMF 融資の利用にあたり、融資を活用した交換性
回復の実行ないし為替自由化の障害となっていた経常収支不均衡を是正するための緊縮的
マクロ政策の履行を求められることになった。こうして IMF は、融資制度を加盟国のマク
ロ経済政策に介入するための手法として確立したのである。
Ⅳ. おわりに
以上のように、1950 年代初頭の「開店休業期」において IMF 内部では通貨安定と為替自
由化を進めるための方策が着実に形成されていった。マーシャル・プラン期における「IMF
の休眠」は、それ自体 IMF の所期の役割に反するものではなかったし、ブレトンウッズ構
想と矛盾するものでもなかった。しかし、IMF の側に視点を移したとき、こうした把握は
単純に過ぎるといえよう。マーシャル・プランから EPU の成立に至る過程を、IMF が国際
通貨システムの再建と運営に乗り出すまでの単なる息継ぎ期間にすぎないとみる予定調和
的な論理は IMF の側に存在しなかった。この「休眠状態」が、
「一時的な国際収支赤字の
是正に向けた短期融資の供与」というやや曖昧な所期の役割から「通貨安定と為替自由化
に向けたマクロ政策調整」というより積極的な役割への進出を IMF に促すことになったの
だった。こうして 1952 年に協定 14 条コンサルテーションが始まると、IMF は主要国の通
貨安定(インフレ抑制)
、対外均衡の達成と為替自由化に取り組んでゆくことになる35。そ
の延長線上に、1958 年末における西欧主要通貨の交換性回復、1961 年 2 月の西欧諸国の
IMF8 条国移行を位置付けることができるだろう。
35
主要国とのマクロ政策調整の実態については、伊藤・浅井編, 前掲書を参照されたい。
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