細野冉兵衛と百姓騒動

 五 細野再兵衛と百姓騒動
性格は豪放で細事にこだわらず、体躯は偉大、力量はひとなみすぐれ、
自然の威厳を保有したといわれているーまた毎朝飯米一升︵∇八μ︶ 8
を食べ、昼と夜はどぶろくのみで暮らすのが常であった。江戸へ行くこ
とは職務柄頻繁であったが、江戸までの距離を疲労も知らず歩き、その
r.宍2U回付アブ≒ブN。
たとき、土屋英直会を迎えてこれ
六年︵一七光四︶開墾がほぼ完成し
地の開墾を始めた。三年後の寛政
同時に、私財をもなげうって荒蕪
頒主に陳情して救助米を賜わると
できないと、寛政三年︵一七光一︶
こうじなければ住民を救うことは
た。そこで再兵衛は根本的な策を
称して他郡に立退く者が多くなっ
村民は自活の道を失い、出稼ぎと
︵五∼六〇付言を荒蕪地と化し、
り戸崎村界までの田畑数十町歩
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救名は居たという。
名主総代︶となり、食客はいつも
主役総代︵土浦より東の土浦領の
で名主役を拝命し、やがて東郷名
天明四年︵一七八四︶二十一歳
例だったという。
日のうちに用を済ましては、夜中をものともせず、翌朝帰宅するのが通
文化、文政の頃の北目陣屋(天童山城址)
細野輿兵衛は明和元年︵一七六四︶八月十五日、深谷村の細野家に生
まれた。譚は方救、家名は善兵衛が通称であった。
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そこで、暴を制するに徳をもってすることにし、農民に理解の深い寺
兵衛に白羽の矢が立ったのである。文致五年︵一八二二︶六月二十六日早
朝、土浦城の大手門を馬上の奥州鎮撫使、.細野寺兵衛は槍一筋、書記一
名を帯同するのみで出発した。ただ城外から手飼いの百姓数十名が一夜
作りの士卒としてお伴した。
北目陣屋の寺兵衛は、モの威と徳をもって一揆を鎮め、同年九月二十
二日使命を全うして帰城した。モの時、︰藩主から方牧
の誹を賜わったのである。
モの後、真鍋町の商家にのれんを掲げることの許可
どうした﹂と叫び、無事搬出したと聞いて、﹁家は建
は田植えをしていて火事の報を受けた、が、﹁公文書は
文致十年︵一八二七︶拵兵衛宅が火災にあい、再兵衛
札場としたり、その他の治績も多かった。
に尽力し、出島地方の中心部である深谷の制札を大制
賜った和歌 ︵細野明氏所蔵︶
再兵衛が土夙黄疸公より
幾とせの松
てればまたできるが、田植えの時期は遅らせられた
深谷なる村はみとせ
あまりよりとりわき際立ちて
い﹂と、田植えをすませて帰宅した話は有名である。
ことを悦びて
飯村名主と土浦藩の出没とが結託しておこなった不正
坂村︵特に志戸崎︶の百姓たちが騒動を起こした。時の
︵再兵衛伝︶
また天保の飢饉に端を発して、天保五年︵一八三四︶
名を松ケ枝によそへ栄ふる
幾とせもこころをこめて
深谷なる 松もろともに
民も栄へぬ
年貢取立、積金横領によるものて、百姓たちは慈眼寺
や歩崎に集まり何度も協議し、組頭や百姓代を通じて
歎願したが、いっこうに解決されなかった。とうとう 7
貝塚恒助ら散人の若者が命を投げ出して決起し、名主
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をごらんにいれ、﹁幾とせの松﹂の和歌を賜わった。
天明の飢饉以来、凶作はこの辺ばかりでたく企画的で、いたるところ
で百姓一揆が蜂起した。土浦領である出羽国村山郡天童︵現在の天童市︶
北目陣屋の管理する一万二千石もこの例外でなく、頻々に起こるむしろ
訳に代官も手の出しようがなく、藩庁からも二度にわたり鎮撫の兵を向
けたが、どうすることもできなかった。
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への交渉にあたった。しかしこれでも埓があかず、遂に名主総代再兵衛
に訴え出たのである。
再兵衛は百姓たちの窮乏を見るにしのびず、毅然として百姓たちに味
方した。モのため土浦藩の出役に背いた罪により入牢となった。この騒
動により名主は御役御免となり、出役は追放となっていちおう結着はつ
いたが、この騒動の発頭人となった貝塚伝助は打首となり、ハ人が追
放、二十人あまりが糾明をうけた。また再兵衛もついに入牢中病気にな
り牢死するに至った。時に天保六年︵一八三五︶正月二十六日、七十二歳
のときである。︵坂村大騒動記︶
この再兵衛の徳を東郷の百姓たちは長く讃え、﹁義民再兵衛﹂と言い伝
えてきた。
細野再兵衛の墓(深谷)
長福寺境内に建っている厄前の墓碑
また、打首となった貝塚伝助は菩提寺であった下軽部長福寺にこっそ
りと葬られた。行年二十五歳であった。
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法名「宝性院行義説民居士」
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