社会科教育における教材化の試み-地域研究をめぐって-(PDF : 2.68

≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
社会科教育における教材化の試み
――地域研究をめぐって――
芝浦工業大学柏中学高等学校
小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和
宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々
松原 誠司・尾形 祐紀子
1.はじめに
て発表済みである。昨年度は、千葉県をフィール
本校社会科の教員は、2002 年以降、秋休みの期
ドに「開発」を共通テーマとして教材研究を進め
間を利用して1泊2日あるいは2泊3日の日程で
たが、そのなかで解決しきれなかった課題や昨年
目的地を訪れて研修を重ね、2010 年度に『芝浦工
度の研究成果から派生した新たなテーマを探究す
業大学柏中学高等学校紀要』
(以下
『紀要』
と略す)
るために、本年度も千葉県を継続して研究対象と
が創刊以降は、毎年の研修旅行の成果を『紀要』
し、昨年度のテーマ「開発」に加えて、これに大
に掲載してきた。
きく影響を与える「交通」
・
「流通」もテーマに加
昨年度の『高校・中学教員研究報告書』におい
えた。
本報告は、
その成果をまとめたものである。
ても明示したが、
社会科教員としての知見を深め、
具体的には、各自自分の研究・調査の対象を設
教材化に生かすことが、
研修の目的として掲げた。
定し、年間数度の中間発表を持ち、各教員の研究
そのうえで、
状況を示すとともに、相互討論により今後の課
① 地理・自然:自然的な地形、その地形・気候
題・方向性を確認した。
にあった生活の様子、他に環境対策や町おこ
以下、各担当者による研究・調査の成果を提示
しなども含む
していきたい。
② 産業:農業・水産業・鉱工業などのその地域
2.松戸宿~江戸近隣の宿場の開発
の産業
③ 伝統産業・伝統芸能:その地域で伝統的に続
(1)はじめに
けられている産業・芸能
④ 歴史:歴史的な博物館・遺跡・寺社など
江戸と水戸とを結ぶ政治的な街道であった水戸道
などの4つの観点を中心に、その地域からとくに
中は、五街道の1つである日光道中の付属街道とし
学習に適した見学地が選定されてきた。
て発展した。正式には、水戸佐倉道と呼ばれ、江戸
さらに、2012 年度からは、研修旅行のみならず、
にいじゅく
四宿の1つである千住宿から分岐し、新宿でさらに
年間を通じて教材研究に関する研鑽を重ねるため
水戸道と佐倉道に分かれ、金町松戸関所を経て2つ
に、社会科専任・特任教員により、フィールドを
目の宿が松戸宿、次に小金宿・我孫子・取手・土浦
決めて教材研究を進める取組を始めた。昨年度の
宿を経て、水戸城下に至る1 。本論では千葉県の開
成果は、すでに前掲の学校法人芝浦工業大学発行
『常設展示図録 56 宿場と河岸』
(松戸市
立博物館 1994)p56
1松戸市立博物館
の 2012 年度『高校・中学教員研究報告書』におい
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
発という観点から、江戸時代の松戸宿が単なる交通
町場が展開していた8 。元禄 12(1699)年には天領と
拠点としてだけでなく、江戸と千葉をつなぐ物資輸送
なり、享保(1710~30 頃)年間に江戸川の流れが今の
を担う流通経済の中心として発展した経緯について
ような直線状に変えられた9 。また、河岸の船宿を中
考察していく。
心とする旅籠と本陣周辺の街道の旅籠との2箇所が
共存共栄した。水戸街道沿いの旅籠屋は全部で 13
(2)松戸宿の成り立ち
松戸宿は、南北に流れている江戸川左岸に沿っ
て位置していた。ここからは、水戸街道以外にも、流
山から野田に至る道、市川に至る道などが伸び、交
通の要衝であった2 。元和2(1616)年に定船場に指
定し、水戸街道が整備されるなかで次第に重要な宿
場となった3 。この定船場はのちに金町松戸関所とな
り、松戸宿は万治2(1659)年に設置された道中奉行4
の管轄下におかれた。水戸佐倉道の宿駅のうち、3
宿のみが道中奉行支配になり、松戸宿がいかに重
要視されていたかがわかる5。金町松戸関所は、江戸
の防衛上とくに重要視され、4名の関所番により「入り
鉄砲に出女」の監視がおこなわれていた。一般の通
行は明け六つ(午前6時頃)から暮れ六つ(午後6時
頃)までで、往来手形を必要とした。
松戸宿の常置人馬は 25 人 25 疋で6、それに加え
周辺の村からの助郷制度が整備された元禄(1688~
1704)年間より、宿機能が整備されていった。当初の
図1 松戸宿街割図
松戸市立博物館 『常設展示図録 56 宿場と河岸』(松戸市
立博物館 1994)p58 抜粋
助郷役は、高 100 石につき人馬2人2疋を徴発する
のが基準となっていたが、交通量の増大により、安
永・天明(1772~1788)期のころには宿からの距離も
軒あるが、宿駅の中心である本陣からは北に少し離
広がり、高 100 石につき、3・4人ほどにもなった7。そ
れた場所に、そのうちの5軒が集中している。また、
のため、周辺農村が窮乏していったことは、他宿と同
平潟河岸のあたりに8軒の旅籠屋が存在していた。
様の現象といえる。
これらの旅籠屋は河川交通と結びつくことにより成立
松戸宿の特徴としては、水戸街道沿いの町場の北
していたようである10。
の方から西側に二本伸びており、先端で江戸川に張
松戸宿は、元禄 12(1699)年頃までは、松戸村と称
り出す形で U 字状につながっていて、その両側にも
し、宝暦 13(1763)年頃に松戸宿と呼ばれるようにな
った。下横町・宮前町・三丁目・二丁目・一丁目・納屋
『千葉県の歴史通史編近世1』
(千葉県 2008)p700
註1に同じ
4 五街道の伝馬・旅籠・飛脚その他街道に関する全てを総
括した機関
5 千野原靖方『松戸風土記』
(1977)p154
6 註2に同じ
7千野原靖方 前掲書 p156
2
3
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河岸・平潟の7つの町が形成され、天保 15(1844)年
には家数 436 軒、本陣・脇本陣各1軒、旅籠 28 軒を
註2 p 702
山本鉱太郎『江戸川図志』
(1994)p130
10 註2 p702
8
9
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数えた11 。宿内の商いには、鍛冶屋・荒物屋・魚類
る16。
商・八百屋・酒屋・畳屋・煙草屋・蕎麦屋・髪結・桶屋・
医者・大工・建具屋・染物屋・薬種屋・油屋・湯屋・下
(4)飯盛女と松戸宿
駄屋・傘屋・質屋・豆腐屋などあらゆる商売が軒を連
(a)幕府の飯盛女対策
12
ね、六斎市も開かれていた 。水戸道中は、水戸徳
飯盛女とは、人主(親元)が飯盛旅籠屋に対し「奉
川家をはじめ常磐・奥州方面の 14 の大名家が江戸
公」という形で女性を売り、その「奉公」に対する給金
までを往来した13ことから、先の助郷をはじめとした周
(給料)をその女性と引き換えに前払いしてもらうとい
辺農村の疲弊とともに、宿内部での公用の負担は大
うシステムの上に存在していた。江戸幕府は人身売
きかったものと想定される。
買の禁令を出している17。しかし、数例の地域史料か
ら公然と人身売買が行われていた事実があったこと
(3)流通経済の中心地
や、女性が売られた先が旅籠屋であることから、飯盛
江戸川は水上輸送の経由地であり、先述した金町
女として働かされていたのではないかと考察されてき
た18。
松戸関所の設置からも、渡船場を控えた宿場という
のが松戸宿の最大の特徴であるといえる。江戸時代、
慶長6(1601)年に宿駅制が成立し、旅客への接
松戸宿の上流には平潟河岸と根本河岸(本多河岸)
待をする女性が存在していたことは確かである。そこ
下流に納屋河岸、さらにその南に渡船場があり、特
で、幕府は宿場の遊里化を防ぐために、万治2(1659)
に納屋河岸は松戸宿の中心的な河岸として繁栄した
年7月に道中奉行を設置し、宿場の取締りを強化さ
14
せ、東海道の各宿場に売春婦を置くことを禁じる法
。江戸時代における利根川・江戸川水系の河岸は、
下総国だけで 27 ヶ所あり、その中でも、木下・布佐・
令を発布した19 。寛文2(1662)年6月には、宿場から
松戸(納屋河岸)の3つの河岸は水陸輸送の要衝で
隠売女を駆逐することや、宿では炊事をする女のみ
あった。松戸納屋河岸は、木下・布佐から陸路で運
設置を許可すること、また炊事をする女性が本来の
搬される荷物(銚子などの鮮魚)を再び舟運して江戸
仕事着を脱ぎ、規定外の服(木綿・帷子・帯以外の華
日本橋へ送る中継地として栄えた15 。銚子沖の魚が
美な服)を着用していたら売春婦と見なし取締り対象
要求されるようになったのは、江戸の人口が増加して、
とするという触書を出した20。
江戸前の海産物ではその消費をまかないきれなくな
幕府の飯盛女に関する対策の転換が、享保3
ったためであり、その需要に応えるためには輸送手
(1718)年である。その内容とは、旅籠屋 1 軒につき2
段の確保が絶対であった。特に、魚はいたみやすい
人までの飯盛女(史料上は食売女)の設置が許可さ
ものであり、最短距離・短時間の輸送が必須であった。
れたというものである21 。この法令について、幕府は
このことからも、松戸宿の河岸の重要性が増し、利益
売買春の実態を承知しながら、あくまでも「飯盛下女」
も多かったことが考えられる。松戸の問屋株は納屋
という別の生業をもつ者として、その人数を制限し
河岸の利倉屋(青木)源内と渡船場の布川屋(梨本)
16千野原靖方
太兵衛の2人が掌握し、明治時代になると陸運元会
前掲書 p160
17『徳川実紀』台徳院殿御実紀元和五年二月十日の条、大
社の分社として舟運業を営み、青木源内家は今も同
地にあり、河岸・舟運関係の多くの史料が残されてい
11
松戸市立博物館『水戸道中宿場と旅人』
(1998)p65
前掲書 p156
13 山本鉱太郎『江戸川図志』
(侖書房出版 2001)p238
14千野原靖方
『松戸の歴史散歩』
(たけしま出版 2000)p197
15千野原靖方 前掲書 p158
12千野原靖方
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猷院殿御実紀寛永二年八月廿七日の条、大猷院殿御実紀寛
永十年七月十八日の条(
『国史大系』第三十九巻・吉川弘
文館・1964)
・石井良助編『御触書寛保集成』
(岩波書店・
1934)
18 五十嵐富夫『飯盛女‐宿場の娼婦たち』
(新人物往来社
1981)p47
19 「駅逓志稿」(
『大日本交通史』清文堂・1968)p177
20 同上 p191
21 同上 p 229
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「準公認」としたと評価している22 。また、廓のような公
は 33 軒も並び栄えた27。平潟は、宿場の表通りから
然とした「売女」商売でないならば、宿場の繁栄という
離れた川端にあったことから、幕府や宿役人らは取
見地からも、幕府は飯盛女の「売女」商売は黙認しう
締まりや宿の中心部の繁栄という観点から、何度とな
るという立場であった23 としている。幕府が飯盛女を
く宿の中心部への移転を要請してきたものの、居座
準公認としたこと、各藩が城下町に廓を設けることを
ることを希望する平潟側が押し切る形でその場を動く
公許する論理、これを願い出る庶民側の論理にも、
ことはなかった28 。これは、舟宿を兼務していたという
その根底には「町方・宿方之繁栄」「渡世上下之潤」
地理的条件が主な理由と推測できる。また、水戸街
24
といった「経済の論理」がある 。また、飯盛女設置黙
道を通る旅人のほかに、江戸川を往来する船頭たち
認は宿駅助成策の手段であったと指摘されている25 。
の遊び場として儲けを得ていたことが考えられる。そ
確かに、宿場の最大の任務であった公用旅客の通
の後、享和元(1801)年前後には舟問屋をやめて旅
行に対する経費負担の他に、日常の伝馬制・人馬継
籠屋として独立する者が増え、将軍の小金原での鹿
立、宿場経営を維持するための諸経費を含めると、
狩り(1795 年)も影響し、一時は爆発的に旅籠屋の数
宿財政が相当厳しいものであったことは予測される。
が増えたこともあったようだ。しかし、文化(1804~18)
以上のことからも、幕府としては宿場の経営困難・飯
期に入ると 12・13 軒に落ち着くこととなった29。
盛女の必要性を認識していたと思われる。そこで、今
平潟旅籠屋では、その存続とともに幕府の取り締
まで貫いてきた「人身売買の禁止・廓以外の売春婦
まりも盛んに行われており、禁止衣類(木綿以外のも
の禁止」という立場を曲げ、飯盛女設置黙認という方
の)の着用や、風俗びん乱、密淫売の発覚などで勘
向に進んでいったと考えられる。先に述べた旅籠屋
定奉行に捕えられた飯盛女は多くいたようである30 。
1軒につき飯盛女2人という規定は、幕府からの取り
松戸宿の場合も先行研究の例にもれず、過人数の
締まりを受けても一向に遵守されることはなかった。
飯盛女の存在が窺える。また特に、幕末になるにつ
それは、公的な史料である「宗門人別帳」や「食売女
れて、公用がさらに増大することになり、宿財政の一
人別書上帳」に登録された「飯盛女」の他にも、帳簿
端を担う飯盛女がその数を増やしていったことも、容
には下女として記載され、実際は飯盛女と同様に売
易に想像がつくのである。その結果が、明治に入り
春を業としていた女性が多く存在していたことは、先
平潟遊郭として繁栄していく姿と重なっていくのであ
行研究でも明らかとされてきた26からである。
る。
(b)松戸宿の特徴
(5)おわりに
松戸宿では、寛永3(1626)年に飯盛旅籠屋の設
松戸宿は単なる水戸道中に面した宿場としての性
置が許可されたという。特に、平潟河岸には2人ずつ
格よりも、千葉と江戸をつなぐ江戸川の物資輸送の
の飯盛女を抱えた旅籠屋兼舟問屋が、盛んな時に
中継地として発展していた。また、水戸道中を往来
する多くの大名の公用を担うという厳しい宿財政下に
おかれていた。そこで、舟運に関わる職種や平潟河
22曽根ひろみ
『娼婦と近世社会』
(吉川弘文館・2003)
p194
岸にできた飯盛旅籠屋の儲けを頼りにしていたこと
23下重清「飯盛女とはどのような存在だったか」
(
『争点日
本の歴史』1991)p144
24 曽根ひろみ前掲書 p191
25宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』
(同成社 2000)
26五十嵐富夫 前掲書 p105・菅野則子「食売旅籠屋と食
売女‐府中宿を中心にして‐」(
『村と改革』三省堂・
1992)
・仁平佐智子「日光道中粕壁宿の飯盛女について」
(
『駒沢史学第 60 号』駒澤史学会・2003)
『松戸市史中巻近世編』松戸市史編さん委員会 1978
p564
28 同上 p566
27
29
同上 p568
30きりん亭猿象
「平潟旅籠飯盛女が捕わる」
(
『松戸史談 33』
)
p76
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が窺える。宿役人や幕府も名目上は何度も飯盛女の
輸送路が必要となり、特に大量に米や物資を運搬で
取り締まりを行うものの、実際のところは「黙認」の状
きる水運の整備が急がれるようになったのである32。
態であったことが、宿駅制の崩壊後も平潟遊郭として
さて、図2に示されるとおり、江戸は江戸(東京)湾
名を変えただけの状況を生み出すことになったと考
に面し、関東平野の主要河川が流れ込む地の利を
えられる。
有していた。そのため水運に恵まれている面もある
が、水害に遭いやすく治水が常に求められる地域で
もあった。これらを踏まえ、治水、利水、水運、新田開
3.江戸川・利根川の水運について
発の観点から利根川の付け替え工事が行われた。
~ 近世を中心として ~
この利根川東遷事業は江戸湾を河口としていた利
(1)近世における利根川と江戸川
根川を東へ付け替え、現在の銚子市を新たな河口と
日本における水上交通・海上交通が、古代から継
する江戸時代最大級の治水事業であり、現在の利根
続的に行われていたことは、考古学的な遺跡・遺物、
川水系の基礎となっている。関東の治水においては
文献史料あるいは文学などにより明らかなところであ
三河譜代の伊奈氏が中心的役割を果たして行くが、
るが、江戸時代とそれ以前とでは、それらに大きな違
その中で 1621(元和 7)年、伊奈忠治らによる利根川
いがある。最大の違いは江戸時代以降には、江戸や
東遷事業が始められ、まず江戸川に利根川の水を
大坂などを中心とした定期航路が成立したということ
流し、1641(寛永 18)年には現在の江戸川上流部が
である。江戸や大坂31 は全国統治の拠点であり、幕
人工水路として開削された。1654(承応 3)年に赤堀
府直轄都市として、経済はもとより政治・軍事におい
て枢要の地であった。そのため、両地域に流れ込む
河川をいかに利用・管理するかは単に一地域の問題
ではなく、国家的な重要課題であった。特に江戸に
幕府が開かれると全国から人・物資が求心的に江戸
に向かっていく水運が整備される必然性が生まれ
た。
以下、近世以降の利根川・江戸川水運の概観を述
べてみたい。
まず参勤交代制により、諸大名が領国以外に江戸
に在府しなければならないため、市場経済が発展し
ていない江戸時代初期は、領国から江戸へ兵糧や
物資を常に送り続けなければならなかった。また江
戸時代を通じて米が貨幣の役割をしているが、17 世
紀の後半幕府貨幣の制度が整い、全国貨幣になる
元禄期までは、諸大名は米を江戸に運び込み、藩邸
で消費する台所米の他に、販売米を江戸にできた米
図2 中世以前の河川 (「江戸川を歩く」p.3 より)
市場で売りさばいて貨幣を入手する手立てが必須で
あった。これらからわかるように、領国から江戸への
31)近世大坂の治水整備については、村田路人『近
32
)松戸市立博物館編『江戸川の社会史』(同成社、
2005 年)、渡辺英夫論稿、pp.125-126
世の淀川治水』(山川出版社、2009 年)
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下り、江戸に達する航路をとった。」と述べている35。
川掘削工事が完成して、利根川の銚子への放流が
始まった33 。の結果、江戸川は、東北地方や北関東
からの物資を那珂湊から涸沼・北浦、霞ヶ浦、および
(b)街道との連絡
銚子から利根川経由で江戸へと運ぶ幹線となった。
とは言え、利根川や江戸川を遡上する場合、後方
房総半島を周回する海路を「大廻し」と呼んだが、そ
から帆に風を受けなければなかなか航行できなかっ
れよりも利根川を遡上し江戸川を通るルート(利根内
た。さらに渇水期には浅瀬に乗り上げる可能性も高く
川廻し)は、距離が短く安全性も高かったので、流域
難儀したようだ。特に江戸時代も後期になり、1783
には河岸が作られて大いに賑わうこととなった。江戸
(天明 3)年の浅間山の大噴火により、火山灰が泥流
川が物流の大動脈になり、江戸川周辺からも、野田
となって利根川水系に流れ込んだ後は、航行の障害
の醤油、流山のみりんなどが産物として江戸に運ば
となる浅瀬が増えた。そのため米などを積み込む場
れるようになる。
合、途中の河岸で大型の高瀬船から小型の艀下(は
明治時代になっても、一旦流通の大動脈となった
しけ)船に米の一部を移し替え、喫水線を上げて進
江戸川の水運は衰えることなく、1877(明治 10)年に
んだ。他方軽量で比較的積み下ろしに負荷がかから
就航した外輪式蒸気船の「通運丸」は、喫水線が浅く
ず、馬で運べるような物資、あるいは鮮魚など鮮度が
内陸河川の航行に適し、「川蒸気」として親しまれた
命の物資は、利根川を関宿まで上らず、途中の河岸
が、この定期航路が江戸川にも伸展した。この蒸気
で積み荷を降ろし陸路を使い、江戸を目指した。こ
船の参入で水運の最盛期を迎えることになった。さら
のルートの起点として利根川沿いには、①木下(きお
に 1890 年には利根運河を開いて水路短縮が図られ
ろし)河岸、②布佐河岸、③布施河岸の3つの河岸
た。しかし、その直後すぐに鉄道網が整備され、明治
があった。(図4参照)
の末年より水運が衰退していくことになった。その後
陸上における自動車輸送も発展して、「川蒸気」も昭
和初期にはその役目を終えた34。
(2)江戸との流通ルート
(a)利根川・江戸川の水運
先述の利根川・江戸川水運の起点として、利根川
河口の河岸として銚子と波崎が重要となるが、これら
について、北見俊夫は、「銚子・波崎ともに太平洋に
活躍する漁民の基地として発達してきたが、特に銚
子は利根川水系の重要な河岸として機能をもち、東
北諸藩の江戸向け物資輸送の中継港としても東廻り
航路の拠点であった。房総半島海域は、航海の難所
として被害が頻発したので、多くの場合銚子で川船
に積み換えて利根川を遡り、関宿を廻って江戸川を
33
)猪股寛「寛永期の江戸川開鑿について」(『野田市
史研究』14 号、2003 年)
34 )資料:特別展「川の道 江戸川」(松戸市立博物館、
2003 年)、pp.58-59
- 78 -
35)北見俊夫『川の文化』(日本書籍、1981年、講談社
学術文庫、2013 年)、p.49
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①木下街道
水期は銚子から利根川を関宿までのぼり、江戸川で
行徳船航路を経由して日本橋行徳河
岸まで船輸送された鮮魚だが、大型
高瀬船が関宿まで遡れない渇水期に
は布佐河岸で陸揚げされ駄馬で陸路
松戸納屋河岸まで輸送された後、そこ
から江戸川を下って江戸に送られた。
夕暮れに銚子をでた鮮魚は夜明けに
布佐で積み替えられ、その日の午前
中に松戸に到着、翌朝には日本橋魚
市場に並べられたという。
布佐からの鮮魚街道は木下河岸か
らの木下街道と鮮魚駄送をめぐって激
しく競争したが、1716(正徳 6)年に幕
府により布佐から松戸への通し馬が認
められてからは、宿場ごとに荷を積み
図3 利根川中流域と諸街道(『江戸川の社会史』p.145 より)
替えるわずらわしさから木下街道が敬遠されて鮮魚
街道が主流となった。鮮魚街道は鉄道輸送に取って
木下街道は木下河岸から大森、白井、鎌ケ谷、八
幡を経て、旧江戸川の本行徳河岸までの約 36 ㎞の
道のりであった。江戸中期の元禄時代に入ると江戸
の人口が100万を超え、江戸前と言われた江戸(東
京)湾の魚貝類だけでは供給が間に合わなくなり、
銚子沖で獲れた魚貝類を江戸に運ぶために整備さ
れた街道である。
銚子に水揚げされた魚貝類は船で利根川を遡り、
木下河岸で馬に積み替え陸路で、本行徳河岸まで
運び、再び船に乗せ替えて日本橋・小網町の行徳河
岸へ運び入れていた。木下(きおろし)という地名は、
周辺の台地で伐られた雑木をこの河岸まで下ろして
船で江戸まで運んでいたことから付いた地名だという
36
。
な
ま
②鮮魚街道
図4 利根川と江戸川をつなぐ内陸路
利根川中流の布佐河岸から松戸の江戸川納屋河
(http://d.hatena.ne.jp/hakyubun/20120923/134800297)
岸までを結ぶ約 30kmの物資輸送路である。夏の増
代わられる明治 30 年代まで活躍した37。
36
37
)http://home.e02.itscom.net/tabi/kiorosi/kiorosi.h
tml
)http://www.geocities.jp/ikoi98/namakaidou/namak
aidou.html
- 79 -
≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
る40。
③諏訪道(うなぎ街道)
利根川沿いの布施河岸と江戸川の加村河岸、矢
河原の渡し〔流山〕のあたりを結ぶルートである。もと
(3)河岸の発展
は流山駒木の諏訪神社参詣への道だったが、江戸
ここで江戸川沿いの河岸のうち、流山と松戸につい
時代中期以降、布施河岸で荷揚げされた物資を江
て簡単にまとめてみたい。
戸川沿い流山の加村河岸まで陸送し、そこから再度
(a) 流山
高瀬船に積み替えて江戸まで輸送するルートとなっ
流山河岸といっても、明治以降は大小の河岸が点
た。この当時は利根川や手賀沼はうなぎの産地とし
在する集合河岸になったようであるが、それ以前は
て知られており、そのうなぎを運ぶための「うなぎ道」
いわゆる狭い範囲の流山河岸が中心となっていた。
として栄えたと言われる38。
この場所は現在の流山6丁目を中心とする地域であ
った。流山は、江戸時代から日本でも有数の味醂
(c)河岸
河岸は河港と解してよく、地域により「湊、津、浜、
船場」などの名称があったが、その盛衰は流路変遷
や水量など、時代の推移による変動がめまぐるしく、
河川交通が衰微した現在となっては、なかなか全貌
を掴めない。駄馬一駄は普通 40 貫位、米ならば一
駄で2~3俵である。それに比べて船の輸送によると、
利根川の場合、水量の多かった時代、下流では
1,000 俵積みの高瀬船が航行し、明治初年まで、平
塚河岸(現在、群馬県伊勢崎市)まで 500 俵積み、倉
賀野河岸(現在、群馬県高崎市)まで 300 俵積みの
高瀬船が自由に運行できたし、それより上流は「シッ
ポ切れ」という小型船が上州の沼田まで遡航してい
た。馬による陸上輸送に比べ、いかに船による運送
が効率良かったかがわかる39。
水運にたずさわる船頭たちにとって、利根川の上
流・中流・下流の分け方は、いわゆる上流地区では、
妻沼・赤岩河岸辺りを境にカミカワ・シモカワと呼び
慣わしている。その限界は川船や筏操作の民俗の相
違によるものと解される。ちなみに、一般的な分け方
としては、上越国境の水源地帯から渋川付近までが
上流山地部、それ以下が下流平野部であり、その平
図5 江戸川流域の河岸
(
「江戸川を歩く」p.21 より)
野部を関宿付近で二分し、中流地域と下流地域とす
(みりん)の産地で、銘柄として「天晴(あっぱれ)」を
醸造していた秋元家、また白味醂「万上」を醸造して
38
)山本鉱太郎『江戸川図志』(崙書房出版、2001 年)、
pp123-124
39
)北見俊夫、前掲書、p.47
- 80 -
40
) 同上、p.48
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いた堀切家が有力者であり、特に秋元家の5代目秋
納屋川岸(なやがし)になる。その納屋川岸のさらに
元三左衛門は、小林一茶のパトロンとして江戸後期
南隣に水戸街道の渡船場があるので、そこが渡船場
の享和・文化年間に大変親しい間柄であった。「万
河岸として発展して、納屋川岸に対して「下河岸」と
上」の味醂は赤味醂が中心であったのを、透明な薄
呼ばれるようになった。つまり、3か所の河岸があった
黄色の白味醂にしたため、水運を使って盛んに江戸
が、同時期にあったのは、納屋川岸と下河岸の2か
へ運ばれて、江戸町人の人気を博したようであり、現
所ということになる。
在でもキッコーマンのブランドとして有名である。
松戸河岸の成立については、小高昭一の論稿によ
れば42 、1626(寛永3)年に遡るようだが、まだこの時
味醂の他に、酒や醤油、味噌なども盛んに製造さ
れ、野田と同様に醸造の町として発展した。
点では、上述した利根川東遷事業の以前であるので、
さて、先述したとおり江戸も後期になると浅間山噴
この成立時点の松戸河岸は、正確には「利根川」の
火の火山灰も災いして、河川交通に支障をきたすよ
河岸であり、水運が整備されていない時代であるの
うになり、上記の諏訪道が利根川から江戸川への陸
で、それほど栄えた河岸であったとは思われない。
路として重要な役割を果たすようになった。その過程
松戸河岸が繁栄するのは江戸中期以降を待たな
で、諏訪道が江戸川に突き当たるあたりに加村河岸
ければならないが、この発展には2つの要因が考え
があり、この河岸も米の輸送場所として活発化した。
られる。
現在も流山市の町名に「加」とう住所がある。この河
一つは、上述した「鮮魚(なま)街道」が松戸河岸を
岸の所在地は、はっきりわかっていないが、おそらく
終着所として、活発化したことである。それは 1716
流山1丁目から加6丁目の河川寄りと考えられている。
(正徳6)年、利根川布佐河岸から松戸河岸間の鮮
先ほどの流山河岸から北へ約1㎞の位置にある。こ
魚街道が、木下から行徳間の木下街道との訴訟に勝
の河岸は江戸幕末には駿河国4万石、本多豊前守
って、幕府により鮮魚輸送が公認されたことによる。
の下総飛地領の米の集積場として活性化し、良質な
特に河川が渇水する冬期は、布佐より馬を使い松戸
米を江戸に高瀬舟で運送したため、江戸の米相場
へ陸送し、松戸河岸から江戸の日本橋河岸へ船で
がこの米により動くほどの勢いであった。俗に「本多
輸送された。
米」と呼ばれたため、いつしか加村河岸は本多河岸
二つ目は、松戸河岸には艀下(はしけ)河岸の役割
と呼ばれるほどになった41。
があったことである。利根川・江戸川の水運において、
冬の渇水時期には浅瀬に座礁する危険性が高まる
(b)松戸
ため、大型の高瀬船から一部の荷物を小型の艀下
松戸は『更科日記』の「まつさと」であるという説があ
船へ積み替え、荷を軽くして航行することを余儀なく
るとおり、中世から近世まで、川の渡し場として要衡
された。利根内川廻しをする東北を中心とする大名
の地であった。近世になり、水戸街道が江戸川を渡
は 50 家以上あり、これらの大名等の手船(御船)輸送
る「渡船場」がやはり松戸宿の一部となり、この松戸
の積み替えを引き受けた問屋が、小堀(おおほり、現
宿の川沿いに松戸河岸が成立した。このことから、近
取手市)、関宿(現野田市)、松戸に指定されていた
世において松戸は水上輸送と陸上輸送の要となる地
(図2参照)。松戸では、上流から艀下船を伴って下
点であったと言える。一口に松戸河岸と言っても、大
ってきた高瀬船を、ここから下流において水量が増
きく3か所の河岸が存在していた。最初に平潟河岸
えることから、問屋は積載荷物の再検査を行い、本
(ひらかたかし)ができ、その後平潟河岸が南に移り
船に積み戻す作業を行うことにより、大名との取引を
41)山本鉱太郎『江戸川図志』(崙書房出版、2001
42
年)、
pp.118-121
- 81 -
)松戸市立博物館 編『江戸川の社会史』(同成社、
2005 年)、小高昭一論稿、pp.178-203
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して、安定した収入を得ていたのである43。
史研究』14 号、2003 年)
(9)資料:特別展「川の道 江戸川」(松戸市立博物館、
(4)結語
2003 年)
洋の東西を問わず、集落、町、都市は河川沿いに
(10)松戸市立博物館 編『江戸川の社会史』(同成社、
造られてきた。後に大都市となるところは必ず河川に
2005 年)
面している。それは鉄道や自動車による陸上輸送が
(11)村田路人『近世の淀川治水』(山川出版社、2009
発展する 20 世紀まで、水上輸送でしか効率よく物資
年)
を運ぶ手段がなかったことが大きな要因である。東
(12) 千野原靖方『手賀沼をめぐる中世(1)-城と水
京も戦後まで、街中運河・堀が張りめぐらされていた
運-』(たけしま出版、2013 年)
ことが端的にこのことを証明している。このことにより、
もっと我々は、その地域の水上交通の成り立ちや仕
4.千葉県における鉄道網の形成
組みに注目すべきであることを、今回の共同研究で
実感した次第である。
(1)はじめに
また他方で、東北大震災以降、防災の意識が高ま
世界で最初の鉄道は2説あり、ともにイギリスのスト
り、東南海大地震に備え、東京を中心とした河川交
ックトン・ダーリントン鉄道とリバプール・マンチェスタ
通の見直しが始まっている。これというのは、大地震
ー鉄道である。前者はイングランド東部の炭鉱地帯
により陸上交通が麻痺したことを想定して、隅田川、
にあるダーリントンと石炭の積出港であるストックトン
荒川、江戸川等で喫水線の浅い船用の船着場の整
を結んだものであり、後者は産業革命の先駆けとな
備が進んでいることを指している。これは日本の水運
ったマンチェスターと貿易港のリバプールを結んだも
の歴史を学んだ良い政策であると言えるであろう。
のであり、つまり前者は石炭を、後者は原料の綿花と
製品の綿糸や綿織物を運ぶための貨物輸送が主目
【参考文献】
的だったのである。
(1)北見俊夫『川の文化』(日本書籍、1981 年)、(講
千葉県における鉄道網の形成は明治期に始まるが、
談社学術文庫、2013 年)
流通の中心地であり一大消費地である東京中心の
(2)川名登『河岸に生きる人びと-利根川水運の社会
鉄道網の一環としての側面と、当時大産地であった
史-』(平凡社、1982 年)
銚子や野田の醤油輸送という側面を抜きにしては考
(3)鈴木理生『江戸の川・東京の川』(井上書院、1989
えられない。つまり、県内の初期の鉄道はやはり貨
年)
物輸送を主として考えられたものなのである。さらに
(4)千野原靖方『江戸川ライン歴史散歩』(崙書房出
千葉県の場合、戦前市川・津田沼・千葉・四街道・佐
版、1991 年)
倉などにかなりの規模の軍隊が駐留していたこと、成
(5)資料:特別展「江戸川を歩く」(葛飾区郷土と天文
田山への参詣輸送、そして現在における成田国際
の博物館、1996 年)
空港への利用者輸送は、千葉県特有の側面といえ
(6)山本鉱太郎『江戸川図志』(崙書房出版、2001 年)
よう。
(7)渡辺英夫『近世利根川水運史の研究』(吉川弘文
これらの点を踏まえ、千葉県の鉄道網の形成過程
館、2002 年)
をその建設の背景を踏まえて4期に大別して概観す
(8)猪股寛「寛永期の江戸川開鑿について」(『野田市
ることとする。最後にやはり千葉県の交通においては
43
)資料:特別展「川の道 江戸川」(松戸市立博物館、
2003 年)、pp.56-57
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欠かすことのできない水運と鉄道の関係について簡
単に触れることとする。
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(2)萌芽期
鉄道網の一環に組み入れられることになった。だが、
千葉県における最初の鉄道計画は、1887(明治 20)
年に出願された武総鉄道と総州鉄道であるとされて
依然として佐原~銚子間は利根川の水運が優勢で
あった。
いる。『日本鉄道史』によると前者は東京本所より市
さて総武鉄道は、はじめにでも述べたように、東京
川・船橋・千葉・佐倉・成田を経て佐原に至るもの、後
中心の鉄道網の一環としての側面も持っており、現
者東京本所より市川・船橋・千葉・佐倉・八街・芝山・
在の東北本線や高崎線など主要幹線を経営してい
八日市場を経て銚子に至る線と途中から分岐して勝
た日本鉄道に接続することも重要な目的であって、
44
浦に至る支線からなっていた 。これらは当時全国的
1900(明治 33)年には本所~秋葉原間の工事を始め、
におこっていた私設鉄道出願ブームの一環であった
4年後には本所~横網町(両国橋さらに後に両国と
が、当時の千葉県知事は水運との関係において鉄
改称)1.5 ㎞が開業した。この区間は日本初の高架鉄
道建設を避け出願を却下した。このため、この二つ
道であるが、技術的にもかなり難行した工事であった。
の鉄道の発起人が合同で再出願し、これが認められ
さらに 1907(明治 40)年には両国橋~千葉間が県内
同年仮免許を取得、1894(明治 27)年に市川~佐倉
初の複線区間となった。
間を開業した。これが県内初の鉄道であった。この
東京中心の鉄道網の一環としては、日本鉄道によ
後、房総、成田を加えた三蒸気鉄道が完成し、この
り、東京より水戸を経て常磐炭鉱を結び、常磐炭田
他野田町内に醤油輸送を目的とした野田人車鉄道
の石炭輸送と日本鉄道本線(現在の東北本線)の補
がつくられた。
完路線の役割を担う路線の計画もあった。紆余曲折
これら最も初期の鉄道建設にあたっては、鉄道と
を経て、水戸近郊の内原~土浦~牛久~我孫子~
県内で非常に繁栄していた水運との競合を県当局
根戸(柏市)~流山~川口(日本鉄道本線)を計画し、
は警戒しており、当初鉄道の発達は妨害されていた
先に計画されていた磐城線(水戸~平~岩沼)ととも
が、1892(明治 25)年の鉄道敷設法公布後は鉄道を
に 1897(明治 26)年に免許を出願した。翌年に免許
忌避する傾向もなくなり、幹線交通機関としての認識
が下りたが、その際上野から直接流山周辺に至るル
が強まっていった。この時期に立てられた計画路線
ートを検討するよう鉄道局長より指示があり、この時
を見ても、成田鉄道の小見川延長や吾妻鉄道(小見
既に申請してあった隅田川線(田端~南千住間)と
川~松岸)など、明らかに水運と競合関係にあるもの
合わせて田端~南千住~松戸~根戸~我孫子~
であった。しかし、利根川の水運はこの時期まだその
土浦~友部に免許が下付され、1900(明治 29)年に
機能を十分に保持しており、1890(明治 23)年に開通
は田端~土浦間が開業、さらに 1902(明治 31)年に
した利根運河は水運の影響力をさらに強め、野田・
磐城線の開業により、田端・青森間にもう一つの直通
流山の醸造業は依然として水運に依拠していた。
運転の幹線が誕生した。これらの線は日本鉄道海岸
この後、1910(明治 43)年に軽便鉄道法が公布され
線と呼ばれた。ちなみに現在のように常磐線が日暮
ると、全国的に鉄道の建設が盛んになり、県内にお
里から分岐するようになったのは、1905(明治 38)年
いては、千葉県営鉄道の開業が大きな影響を与えた。
の日暮里~三河島間の開通による。
この時期の軽便鉄道の開業の中で民営は銚子遊覧
全国的な幹線の建設が進み、経済発展に鉄道は
鉄道と流山軽便鉄道のわずか2社 11.6 ㎞であったの
欠かせないものとなり、また、日清・日露戦争を通じ
に対し、県営鉄道は合計 79.5 ㎞に達したのである。
て軍事上重要な役割を持つようになった鉄道は、
この結果、水運に依拠していた野田と流山の交通は、
1906(明治 39)年鉄道国有法の公布により国有化が
44地方史研究協議会編
『房総地方史の研究』
(1973)
雄山閣出版 pp315-328
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進められた。同法により「一般運送の用に供する鉄
道はすべて国家の所有とす。但し一地方の交通を目
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的とする鉄道は此限に在らず」という原則が打ち立て
総武線は国有化後もしばらく両国橋で止まってい
られた。これにより私設鉄道の 87%が国有化され、
たが、電化とともに 1932(昭和7)年両国(1931 年に
県内では日本、総武、房総の3鉄道が国有化され
両国橋から改称)~御茶ノ水間が複線開業し、つい
た。
に全国幹線網との接続を果たした。秋葉原で京浜東
またこの時期の末期にあたる 1910(明治 43)年には、
北・山手線と接続し首都圏ネットワークの仲間入りを
成田山新勝寺門前と宗吾霊堂を結ぶ成宗電気軌道
したのである。この後市川、船橋と電化区間を延ばし、
が県内最初の電気鉄道として開業し、この後は鉄道
1935(昭和 10)年には千葉まで到達した。それととも
網の形成と並び、施設・設備の近代化も含めた充実
に東京近郊の住宅地として市川、船橋の宅地開発が
期へと入っていく。
さかんになった。常磐線は 1936(昭和 11)年に日暮
里~松戸間が電化されたが、松戸以北取手までの
(3)充実期
電化は、戦後の 1949(昭和 24)年まで待たねばなら
大正期から昭和期に入ると、東京の都市化の進展、
なかった。民営の蒸気鉄道の電車化は銚子鉄道が
房総半島一周線の完成、利根川下流域への鉄道網
1925(大正 14)年、総武鉄道柏~大宮間が 1930(昭
の拡大、支線の建設、そして戦争の影響が県内鉄道
和5)年に実現した。
網に影響を与えるようになってきた。
一方内燃動力化つまり蒸気機関車を気動車(ディ
全国的に見ても幹線の整備が一段落したことから、
ーゼルカー)へ転換することは、1924(大正 13)年の
1922(大正 11)年に、全国のローカル鉄道網の拡充
夷隅軌道(大原~大多喜)が最初で、その後私鉄、
を目的に改正鉄道敷設法が公布された。これにより
国鉄ともに進み、1935(昭和 10)年に千葉より木更津、
県内では佐原~松岸、小見川~八日市場、八幡宿
大網、成田への区間列車と、東金線、久留里線、木
~小湊、木更津~大原、上総湊~鴨川、船橋~佐
原線で実現した。
倉、1927(昭和2)年に我孫子~大宮の7線の計画が
さて、戦争も県内鉄道網の形成に関して影響を与
上がり、その大部分は国鉄あるいは民営鉄道で開業
えた。終戦直前に県内に配備されていた陸海軍部
して、県内の鉄道網の総延長は最大規模となった。
隊は、判明しているだけで約 19 万人といわれ、市川、
またこの時期には私設・設備の充実も図られる。高
千葉、佐倉などにかなりの兵員を擁する軍隊が配置
速電車化は、まず京成電気軌道で始まった。京成は
されていた。これらの軍がもたらす鉄道重要は、軍の
その名の通り新勝寺参拝客をあてに設立されたのだ
移動、資材の運搬、入営、慰問などがあり、しかも緊
が、当初は資金難で東京~成田間を一挙に開通さ
急時の集中的移動を可能とする輸送力の確保という
せる力はなかった。そこで、1912(大正元)年最初に
点で、鉄道を非常に重要視していた。鉄道国有法の
開通させたのが押上~市川(現在の江戸川)間と曲
成立についても日清・日露戦争を経験した軍部から
金(現在の京成高砂)~柴又間であり、柴又帝釈天
強い意見が出された面もあり、不測の事態が起きた
に狙いをつけたのであった。柴又~金町間には当時
際に円滑に軍需輸送を確保するために私設鉄道の
帝釈人車軌道という人間が車両を押していた軌道が
乱立は不便で不合理であるという理由からであった。
営業していたが、これを京成が買収し 1913 年に柴又
総武鉄道が最初免許申請をした時になかなか下付
~金町間を延長した。また、当時の終点市川は江戸
されないのを、陸軍が「陸軍営所(佐倉)を通過し、用
川を越えず、対岸の市川へは渡船を利用していた。
兵上便利である」旨の意見が決め手になったという
1914(大正3)年ようやく千葉県内に路線が伸び、以
説もあり45、また前述した両国橋~千葉間の複線化も
後 1921(大正7)年に千葉、1926(大正 15)年に成田
に達した。
45鶴岡智史、伊藤孝「千葉県におけるわが国唯一の
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主として陸軍当局からの要請によって実現したもの
だ東京からの人口流入による都市化の結果ではなく、
であった。
全国的に行われた動力合理化の一環であったが、こ
このような軍と鉄道との関係において、日清戦争
れにより県北西部の鉄道はほとんど電化されたため、
後占領地への軍用資材補給を円滑に実施する必要
この後高度経済成長期に急速に拡大する都市化(住
が陸軍内部で強調され、ドイツ陸軍にならって 1896
宅地化)をすぐに受け入れられる下地となる交通条
(明治 29)年陸軍鉄道部隊が結成された。そして
件が整ったことになった。また、電化により、フリーク
1907(明治 40)年に津田沼に後の鉄道第二連隊、翌
エントサービスが可能になり、東京に近い地域での
1908(明治 41)年に千葉郊外に鉄道第一連隊が配
20~60 分間隔の頻繁な運転が可能となった。
置され、軍用演習線を敷設する計画が立てられた。
計画ルートは、津田沼~大久保~三山~新田~花
(4)現在
島~犢橋新田~宮野木~千葉に至る区間と、津田
高度経済成長期に入ると、東京の都市化の影響を
沼~前原~薬園台~高根木戸~三咲~鎌ヶ谷大仏
強く受け、住宅地化の進展、通勤圏の拡大が県内の
~五香六実~八柱~松戸に至る区間と決定した。計
鉄道網の形成にも影響を与えた。
画された距離は総延長 45 ㎞とされ、この規定を維持
1971(昭和 46)年には常磐線綾瀬~我孫子間が
するために平地であるにもかかわらず、故意に蛇行
複々線化され、中長距離線と緩行線が分離され、緩
させた路線となった。1918(大正7)年頃までには松
行は営団地下鉄(現在の東京地下鉄)千代田線と相
戸線の一部を除きほぼ敷設が完了、1932(昭和7)年
互乗り入れを開始、都心部と直通することとなった。
に松戸まで全線開通した。この演習線では、線路の
翌 72(昭和 47)年には、総武線が地下線で東京へ乗
敷設や撤去、修理などの演習や、仮駅を設けて運転
り入れ、横須賀線と直通運転となり、津田沼まで複々
の訓練も行われたが、時には一般人の無料乗車や
線化され、快速線と緩行線が分離された。また高度
事前申し込みによる農産物の輸送も引き受けたとい
経済成長により貨物の利用が増加すると予測され、
う。ここで教育を受けた将兵は各戦地に送られて活
都心部を貨物列車が通過することを避けるためのバ
動した46 。戦後開業した新京成電鉄は、この軍用鉄
イパスルートとして武蔵野線が 73(昭和 48)年に府中
道の一部を払い下げてできた鉄道である。
本町~新松戸間で開業、78(昭和 53)年には新松戸
第二次大戦中は、不要不急の鉄道は南方占領地
~西船橋間が延長された。さらに京葉工業地帯の発
の鉄道建設に転用されることになり、県内 でも成田
展とともに総武線の貨物を分離、また総武線のバイ
鉄道成田~八日市場間と国鉄久留里線久留里~上
バスの役目として京葉線が、75(昭和 50)年に蘇我~
総亀山間は国の要請により休止となり線路は撤去さ
千葉貨物ターミナル間を貨物線として開業、86(昭和
れた。
61)年には西船橋~千葉港(現在の千葉みなと)が
戦後の復興にあたっては、東京に近い県北西部
開業し旅客運行を始め、88(昭和 63)年には新木場
でいち早く路線の新設や電化が実施され、前述した
~南船橋間、西船橋~市川塩浜間、千葉港~蘇我
鉄道連隊の演習線を活用した新京成電鉄が 1947
間が開通、90(平成2)年に新木場~東京間が開通
(昭和 22)年に新規開業、常磐線の松戸~取手間、
し、都心乗り入れを果たした。現在京葉線沿線は、京
元総武鉄道の東武鉄道柏~船橋間、流山鉄道(現
葉工業地帯を抱え貨物輸送も行われ、また、大規模
在の総武流山電鉄)の電化が行われた。これらはま
な住宅建設や幕張メッセなどの集客施設、公共機関、
大規模な商業施設などが多数立地し、利用者も多く、
鉄道聯隊演習線―鉄道建設部隊と松戸線に着目し
て―」土木史研究講演集 25(2005 年)
46 2 に同じ
重要性が増している。
一方、千葉県の鉄道において、成田国際空港へ
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――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
の輸送も重要な要件である。もともとは都心と成田国
京成高砂から京成、都営地下鉄、京浜急行電鉄と直
際空港を直結する成田新幹線が計画されていたが、
通運転を開始し、都心乗り入れを果たした47。
周辺住民の反対や用地取得の困難さから、1978(昭
その他、宅地開発にともない、県内では市原ニュ
和 53)年の空港開港から5年後の 83(昭和 58)年に
ータウンに向けて、京成千葉線と直通する形で千葉
工事を凍結、86(昭和 61)に政府は正式に建設を断
急行線が、県庁所在地千葉市には千葉都市モノレ
念した。凍結までに 900 億円以上を投じ、一部の路
ールが建設、運行され、変わったところでは、京成ユ
線や成田空港駅などは建設が進んでいた。そこで、
ーカリが丘駅から、周辺の宅地開発を行った山万が
空港アクセスについてはそれらを利用することにし、
運行するユーカリが丘線という新交通システムが運
既存の路線であるJR成田線と京成電鉄を延長して
行されている。
成田国際空港まで乗り入れることにした。しかし、東
京から既存の路線を利用するとJR、京成とも遠回りと
(5)おわりに
なり時間がかかるため、千葉ニュータウンのために建
以上、千葉県のおもな鉄道網の形成について概
設されていた北総開発鉄道、住宅都市公団線を延
観してきたが、最後に利根川水運と鉄道の関係につ
長して成田国際空港への乗り入れを行う計画が立案
いて、簡単に触れておきたい。
された。この路線は成田新幹線の建設を断念した際
一般に江戸時代において、全国の主要河川は貨
に立案された代替案で、京成上野~京成高砂~新
物輸送の幹線交通の役目を果たしていたが、鉄道の
鎌ヶ谷~小室~印旛松虫〈現在の印旛日本医大付
開業によって衰退したといわれる。しかし、明治 10~
近〉~成田空港というルートであり、2010(平成 22)年
20 年代にはまだ各地で河川の改修や運河の開削が
に運行を開始している。
行われており、そのうち最も著しい効果をあげ、ある
この路線の一部となった北総開発鉄道は、千葉ニ
時期まで鉄道と競争的な立場を維持したのは、利根
ュータウンと都心を結ぶ新線として計画されたもので
川中下流部と江戸川の水運である。利根川では
ある。千葉ニュータウンは、千葉県が立案し、計画面
1890(明治 23)年開通の利根運河で許容される最大
積約 2,912 ヘクタール、最終人口34万の巨大な計画
船舶の大きさが 80 トンと非常に大型であり、定期客
で、1967(昭和 42)年から建設が始まった。計画地域
船の運航が明治末期まで行われていた48。房総地方
は総武・常磐の両線の中央に位置し、鉄道が何もな
における最初の鉄道計画は武総鉄道で、千葉県知
かった地域であり、通勤の足としての鉄道が必要で
事はこれを認めなかったことは、(1)萌芽期のところ
あったが、公的な開発のため、自社の沿線開発で収
で言及したが、当時利根運河の開削は決定しており、
益を上げる方式をとっていた私鉄は収益が見込めな
県としてはこの頃は水運に最も期待をして、これが
いと新線の建設には消極的であった。そのため鉄道
「到底許可スヘキモノニ非ズ」という強い鉄道に対す
建設は、公的資金による第 3 セクターや沿線の宅地
る拒絶反応を示した原因と考えられる49。
開発を担当した住宅都市整備公団が自ら鉄道建設
武総そしてその後出願し却下された総州両鉄道
を手掛けることとなった。ところが、ニュータウン建設
の発起人が、この後合同しあらためて本所より千葉・
としては後発で、高度経済成長も終わりを告げる時
佐倉を経て八街に至る路線を総武鉄道として出願し
期にあたり、さらに当初は都心へ直結しない路線で
たことも前述したが、この時発起人らは「利根川ノ水
あったため、入居は低調を極めた。さらに複数の会
社線をつなぎ合わせることになったため運賃もかなり
47白土貞夫著『ちばの鉄道一世紀』(崙書房出版、
1996 年)pp229-231、pp234-236
48 1 と同じ
49 1 と同じ
割高となってしまった。それでも、1991(平成3)年に
北総開発鉄道の京成高砂~新鎌ケ谷間が開通し、
- 86 -
≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
運ヲ利用シ得ザル部分を開発セントスルモノ」として、
仮免許を得たことも前述した。明治 20 年頃までは、
産加工業が発達してきた。
また、内水面については、一級河川の利根川、
「水運がすでにあるので鉄道は必要ない」というのが、
江戸川とこれに連なる印旛沼や手賀沼のほか、各
政府関係者に共通した考えであったと推測できる。
地の中小河川でさまざまな漁業・養殖業が行われ
だが、総武鉄道の仮免許区間が本所~八街間にと
ている。
どまると、同年のうちに本鉄道をターミナルとして、さ
以上のように千葉県では、水産業がさかんであ
らに東方へ路線を伸ばそうとする計画がすぐに現れ
り、海面漁業・養殖業生産量において全国8位を
る。北総鉄道(佐倉~佐原)、両総鉄道(八街~銚子)
記録し、首都圏へ新鮮な水産物を安定的に供給し
であり、ともに佐原、銚子という利根川水運の要衝へ
続けている。
の鉄道建設を願い出るのである。両鉄道とも短距離
本稿では開発が漁業にもたらしてきた事例とし
路線で経営上不利という理由で却下されるが、北総
て、東京湾の三番瀬を例に挙げ、考察を進めてい
鉄道については、県知事は「県下ノ交通ニ益アルモ
きたい。
ノ」として、願書を鉄道局に進達しているのである。と
すると、この頃から水運を基本的な交通機関とする
(2)三番瀬における水産業の歴史
考え方は、鉄道局や県当局において急速に崩れて
三番瀬周辺の低地において人が居住をはじめ
いったと思われるのである。
た最古の記録は平安時代であるとされているが、
【参考文献】
この地域で大々的に漁業が行われるようになった
(1)地方史研究協議会編『房総地方史の研究』(雄山
のは、徳川家康が江戸に入府し、西国で開発され
閣出版、1973 年)pp315-328
た網を使った漁法とともに西から漁民が移り住ん
できた 1600 年前後だと考えられている。
(2)千葉県企画部交通計画課『千葉県の鉄道史』(、
1980 年)
江戸時代、三番瀬の周辺域は幕府に魚介類を献
(3)白土貞夫著『ちばの鉄道一世紀』(崙書房出版、
上する位置づけであり、紀州より移り住んだ漁民
1996 年)
によって排他的に利用されていたと考えられてい
(4)鶴岡智史、伊藤孝「千葉県におけるわが国唯一の
る。三番瀬周辺は豊かな漁場であったほか、陸地
鉄道聯隊演習線―鉄道建設部隊と松戸線に着目
には塩田がつくられ、周辺地域は江戸を支える食
して―」土木史研究講演集 25(2005 年)
糧供給基地であった。
養殖やアサリ・ハマグリの養殖は、江戸末
期から明治時代にかけて本格的に開始されて
5.千葉県の開発と水産業への影響
いる。
-東京湾の開発と三番瀬の変遷を例に-
明治時代になると、三番瀬の周辺海域では詳し
(1)千葉県の水産業
い図面が作られ、漁場としての管理がより厳格に
千葉県は、沖合を黒潮、親潮の寒暖両流が流れ
なったと考えられる。高度経済成長期、埋め立て
る日本列島中央部に位置し、県土の三方を海に囲
や水質汚濁が進むまでの間、旧江戸川河口から東
まれ約 529Km に及ぶ海岸線は変化に富み、来遊
の三番瀬周辺では、アサリなどの貝類、スズキ、
する魚群や沿岸に生息する生物の種類の豊富さ等、 カレイ、シャコ、カザミ、コウイカ、クルマエビ、
多様な海の資源に恵まれている。このような恵ま
サヨリ、シバエビなどの多種多様な魚介類が獲れ
れた自然環境から、多種多様な沿岸・沖合漁業が
ていたことが記録されている。
発達するとともに、これら漁獲物を対象とする水
- 87 -
≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
(3)高度経済成長期における変化
戦後から高度経済成長期にかけて、三番瀬は社
会状況の大きな変化の中で、東京湾全体として進
行していた水質悪化や埋立によって大きく変貌し
ていく。
こうした東京湾の環境悪化は魚介類の減少を
招き、これまでの漁業の存在基盤を危うくするこ
とになった。三番瀬における漁業が現在のように
網による海苔養殖や、アサリなどの養殖に依存す
るようになったのもこの時期である。
一方、市川市や船橋市などの他の地域において
年代
1901 年
まりやオイル・ショックなどを背景にして計画が
凍結され、現在の三番瀬の範囲がかろうじて残る
結果となった。
しかし、1980 年代に入ると凍結されていた事業
が目的を変更して復活し、後に焦点となる「京葉
港二期地区計画」
「市川二期地区計画」として発表
される。これらの計画に対して、1990 年代、特に
船橋浦で海苔の養殖が始まる
船橋浦漁業組合創立、漁業法発布
1960 年
池田首相による所得倍増計画
1962 年
臨海工業地帯開発計画発表
埋め立て計画の具体化
1968 年
京葉シーバース竣工
1969 年
京葉港第一期事業計画
船橋漁業組合 漁業権の放棄
1973 年
京葉港第二期事業計画
千葉港船橋中央埠頭(京葉港)
も 1970 年代はじめまでに一部の埋立事業は進行
する。しかし、その後の事業は自然保護運動の高
東京湾と埋め立てに関する歴史
→ 二期地区整備計画
1981 年
水産物流加工拠点総合整備事業
1982 年
ふなばし三番瀬海浜公園完成
1993 年
環境基本法制定
2001 年
堂本知事 三番瀬埋立大幅縮小案
2002 年
三番瀬再生計画検討会議
(三番瀬円卓会議) 設立
2009 年
森田知事就任
その後半にもなると、干潟の生態系の中での機能
年表1
の重要さに関する理解が市民レベルでも広がりを
り構築物等も大きな被害を受け、漁業にも多大な
見せたこと、諫早湾の干拓事業の実態に関して、
影響をもたらした。以後、自然環境の再生以前の
その報道が全国的に大きな衝撃を引き起こしたこ
問題として、震災からの復興が大きな課題となっ
となどから埋立の反対運動が全国的に広がり、
ている。
1999 年には当初の 740ha 案から 101ha 案へと変
以下は東京湾の埋め立てに関する歴史をまと
更されるが、事業は実行されなかった。
めたものである。
その後 2001 年、三番瀬の埋立計画の白紙撤回
を掲げた堂本暁子が千葉県知事に選出され、住民
参加と情報公開の下、三番瀬の再生・保全を進め
(4)三番瀬の環境問題
るという方向が示されるに至った。
三番瀬は、東京湾の一番奥に残された最後の大
さらに 2009 年の知事選挙で、森田健作が堂本
規模な干潟・浅瀬と位置付けられる。干潮時の水
の後継候補を破り、初当選した。森田は「人と自
深は1メートルよりも浅くなり、この干潟と浅瀬
然との共生」を主張している。三番瀬の再生自体
は大部分が砂地でその面積は約 1200ha ある。三
は、知事の交代があったものの、県としても継続
番瀬のような干潟・浅海域にはプランクトンなど
して取り組むこととされた。
が栄養分として蓄積されており、それを食べる二
2011 年 3 月 11 日に発生した東日本大震災によ
枚貝やゴカイ類など干潟の生き物がたくさん生息
り、海岸が広範囲に液状化、また振動・津波によ
し、
さらにそれを食べる魚類や鳥類なども集まる。
- 88 -
≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
このようなことを踏まえ、三番瀬の持つ価値につ
塩類が増加し、植物プランクトンが増殖する富栄
いて以下に考察する。
養化がすすんでおり、
その意味で水質環境が悪い。
三番瀬では、アサリやバカガイなどの生物がこ
(a)豊かな生態系の維持
れらを消費し、また人間の行う漁業や潮干狩りが
東京湾の湾奥部でこれだけの生物がいる海域が
海水から窒素を除去するなど、豊富な生物活動に
ほかにないことは言うまでもないが、全国的に干
支えられ、さらに浅海ゆえの波浪による大気と海
潟浅海域の減少がすすむなかで、海浜生物がここ
水の循環があることで、水質悪化を緩和し、浄化
まで生息できる環境は極めて少ない。
する機能を有している。
種類ばかりでなく、生物量も豊富である。アサ
リなどの二枚貝の生息量は海底1平方メートル当
(d)青潮被害の緩和
たり平均約1キログラム、多いときで10キログ
青潮とは、海底の貧酸素水塊が海面に湧昇する
ラムにもなる。また、イシガレイなど浅海域魚類
現象のことで、東京湾では主に秋口に、季節風(北
の数少ない産卵成育の場となっている。
東風)の影響により生ずる。漁業資源を含めた海
それらを餌とする渡り鳥も多数渡来し、たとえ
中の生物は、酸素を絶たれ大きな被害に遭うこと
ばスズガモは毎年数万羽が渡来している。
さらに、
になる。
シギ・チドリ等の渡り鳥にとって、三番瀬は極め
この青潮の被害を三番瀬は緩和している。青潮
て重要な中継地として活用されている。このよう
の発生・拡大の過程において、海域を移動可能な
に、三番瀬は生物が実に豊富で、現在においても
生物は、三番瀬に避難する。これは、干潟・浅瀬
豊かな生態系を維持していることが挙げられる。
である三番瀬では酸素量が豊富で、青潮が入って
きてもそれが拡散しやすいためである。
(b)東京湾奥の生態系を支える役割
埋め立てによる干潟浅海域の極度の減少は、と
(e)後背湿地の豊かな自然の維持
くに東京湾奥で顕著であり、
なかでも、
三番瀬は、
三番瀬周辺には、ごく近辺に谷津干潟(ラムサ
湾奥に残る最大規模の干潟浅海域であり、その役
ール条約登録湿地)や行徳野鳥保護区、江戸川放
割は重要である。
水路、やや離れて三枚洲等、いくつかの湿地が点
たとえば、三番瀬は魚類の再生産を行い、湾奥
在しており、鳥類や魚類、エビ・カニ類等の生息
における再生産の中核海域として機能しており、
地となっている。
トビハゼのいる江戸川放水路
(北
鳥類の中には三番瀬を中心に周辺湿地を利用する
限生息地)等、生物学的に貴重な湿地が多く、そ
種もいる。あるいは、三番瀬の二枚貝(幼生)が
の保全を求める声が強い。
周辺海域に供給されている可能性もある。
いくつかの調査によって、たとえば鳥類が、三
しかも、一部地域で整備されている人工海浜・
番瀬とこれら湿地を複合利用していることが明ら
干潟と比べて、天然干潟浅海域である三番瀬の機
かとなっており、三番瀬が提供する膨大な餌と広
能ははるかに高く、人工的に代替することはきわ
大な休息スペースが、これら鳥類の生息を支えて
めて困難であるといえる。
いると考えられる。
(c)東京湾の水質浄化
(f)渡り鳥の貴重な中継地
東京湾は周辺の大都市から排出される生活排水
三番瀬は、日本では残り少ない干潟浅海域であ
や産業排水などによって、リンや窒素などの栄養
るために、渡り鳥の重要な中継地となっている。
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
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たとえば、浅瀬を採餌場とするコアジサシは、
この再生目標を目指していくために、
「基本計画」
三番瀬を渡りの準備のための集結地として活用し
で定める上記 12 の施策に沿った事業計画を策定
ており、いまや三番瀬が国内有数の渡来地となっ
し、再生のための事業に取り組んできた。紙数の
ている。スズガモは万単位で飛来し、首都圏最大
関係で、第3節「漁業」についてのみ、掲載した
規模である。干潟を採餌場とするシギ・チドリ類
い。
も同様で、昨今では環境庁も三番瀬に注目してい
る。
・豊かな漁場への改善の取り組み
・干潟漁業の環境保全
(5)千葉県の施策 三番瀬再生計画
・ノリ養殖対策
平成 18 年以降、県では「千葉県三番瀬再生計
・貝類漁業対策
画」を策定し、再生に取り組んでいる。その基本
・漁業者と消費者を結ぶ取組の推進
計画には三番瀬の再生に関する基本的な方針、講
平成 23 年以降は、引き続き、再生目標を達成
ずべき施策、推進方法を取りまとめており、以下
の5つの再生目標を掲げている。
していくため、
「新事業計画」を策定し、三番瀬の
再生に取り組むこととなった。以下の4分野の事
一、生物多様性の回復
業に取り組むことにより、三番瀬の知名度向上や
一、海と陸との連続性の回復
イメージアップをはかり、
「三番瀬のブランド化」
一、環境の持続性及び回復力の確保
を進めていくことを目指している。
一、漁場の生産力の回復
一、人と自然とのふれあいの確保
・自然環境の再生・保全
・人と自然がふれあえる三番瀬
また、三番瀬の再生の実現に向け、以下の 12
・豊かな漁場としての三番瀬の再生
の施策を定めている。
・三番瀬の魅力が分かる広報
第1節
干潟・浅海域
「新事業計画」を推進していく上で、平成 23 年
第2節
生態系・鳥類
から新たに、専門的な見地から県の再生事業に対
第3節
漁業
し、評価、助言を行う学識経験者で構成する「三
第4節
水・底質環境
番瀬専門家会議」を設置した。また、住民参加と
第5節
海と陸との連続性
情報公開のもとで三番瀬の再生を進めていくため
第6節
三番瀬を活かした町づくり
に、地元住民、漁業関係者から広く意見を聴く場
第7節
海や浜辺の利用
として、
「三番瀬ミーティング」を開催している。
第8節
環境学習・教育
再生に向けては、専門家の助言や地元住民の意
第9節
維持・管理
見をよく聴きながら、
県と地元4市の連携の下で、
第10節 再生・保全・利用のための制度
事業を推進していくことが重要である。
及びラムサール条約への登録推進
第11節 広報
第12節 東京湾の再生につながる広域的
な取り組み
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
図6
【参考文献】
・
『千葉県の 100 年』山川出版社
・
『東京湾で魚を追う』 大野一敏、敏夫 1989
年 草思社
・
『三番瀬』 千葉県環境生活部 環境政策課
・
『船橋の漁業』 2011 年
・
『東京湾再生計画 -よみがえれ-江戸前の魚
たち』小松正之ほか著 雄山閣
・
『三番瀬の変遷』 三番瀬再生計画検討会議
・
『谷津干潟から三番瀬へ 千葉の干潟を守る会
40 年史』 千葉の干潟を守る会
・千葉県 HP
http://www.pref.chiba.lg.jp/gyoshigen/saiba
i/index.html
・三番瀬フォーラムグループ HP
http://www.sanbanze.com/
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
6.かずさアカデミアパークを起点に関東
地方の産業クラスター計画の検討
図7
(1)はじめに
(2)1990 年代における地域開発計画
昨年は千葉県のかずさアカデミアパークの視
経済産業省では、我が国の産業競争力強化を図
察をきっかけに、千葉県における総合開発計画と
るため、地域の中堅中小企業、ベンチャー企業等
かずさアカデミアパークの今後の展開について展
の新事業展開やイノベーションの創出を促進し、
望した。
IT、バイオ、ナノ、環境、ものづくり等の産業集
今年度はかずさアカデミアパークの視察の際、
積(産業クラスター)の形成を目指す「産業クラ
様々な面で連携している筑波研究都市のことを耳
スター計画」を、全国で 17 プロジェクト推進し
にし、関東地方北部への産業クラスターの展開に
ている。これは各地に産業の集積を作ることによ
ついて考察してみたい。
って、地域の発展を図ることが狙いであった。
そもそも 90 年代前半以前は、大都市部の工場
等を地方部に再配置し、そこに産業の集積を作る
ことによって地域の発展を図ることに主眼を置い
ていたのだが、90 年代後半には円高が進み、中国
や ASEAN の台頭により、各工場が地方を飛び越
え海外へと流出するという「地域産業の空洞化」
に拍車がかかり、もはや大都市からの企業誘致に
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
希望は持てなくなっていた。
なっているのは、川口商工会議所である。
かたや米国ではシリコンバレーなど大学や研
このように、各地域の持つ特色を活かし、結び
究施設の周辺から様々な企業が生み出され、ハイ
つけることで、
新たな一面を見出そうとする動き、
テクベンチャーとして目覚ましい活躍をしている。 それが「産業クラスター計画」なのである。
つまり大学の研究機関や中小企業、ベンチャー企
業同士の自由な交流が新しい技術やサービスを生
(4)東葛テクノプラザの役割と今後の課題
み出すイノベーションの 1 つの源泉となっている
東葛テクノプラザは昨年訪れたかずさアカデ
のである。
ミアパーク内に設置されたかずさアーク同様、各
こうした背景のもと、平成 13 年に打ち出され
企業向け個人研究室、研修室、多目的ホール、経
たのが「産業クラスター計画」であり、先述した
営・発明などに関する相談室からなる施設である。
とおり、全国で 17 のプロジェクトが各地の経済
現在 41 の研究室が稼働しており、バイオ系から
産業局のもとで推進されている。
金属、機械など多くの分野の研究が進められてい
る。
例えば 2005 年創業の㈱西原電子は、地元柏市
(3)東葛地域における地域開発計画
この計画は、東葛・川口・つくば及びTX沿線
地域における産業集積と、当該地域に豊富に存在
し様々な分野で先端的な研究開発を行う理工系大
学群や研究機関の研究・技術シーズ集積との相互
活用を通じて、産学官、産産・異業種間のネット
ワークの高質化を図るとともに、地域の自治体等
が独自に推進する地域産業活性化関連施策との連
携活動を深化させることにより、新事業分野開
拓・新産業創出を促進し、より高度な研究開発型
企業、新製品開発型企業の一層の集積地域を目指
すものである。
既知の通り、東葛地区北部には東京大学柏の葉
キャンパスをはじめとして、千葉大学、東京理科
大学などのキャンパス・研究所が点在し、柏の葉
には経済産業局の拠点として、東葛テクノプラザ
が設けられている。また、つくば・TX 地域には
筑波大学とそれに付随する研究機関が多数設置さ
れており、昨年報告したバイオベンチャー育成部
門の拠点でありかずさアカデミアパークと DNA
図8
部門などで連携を密にしている。
西原にある電子機器回路の開発に関わる企業であ
川口地区は東京外郭環状道路・常磐自動車道に
るが、この研究室でレーザー溶接技術について研
よって、東葛・つくば地域と結びついており、古
究し、大阪大学や千葉大学との連携で 2012 年に
くから続く機械・金属系モノづくりの伝統と最新
千葉ものづくり認定製品を製造するに至っている。
の研究成果とのリンクを図っている。その拠点と
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
このほか、技術経営の実践講座、技術講習会な
1934(昭和9)年に、松戸は 1943 年に市制が施行さ
ど、いわゆるベンチャー企業の支援を視野に、企
れた。
業・研究者支援をおこなっている。
戦後もこの状況が続き、千葉県も 1950 年代に掲げ
しかし、かずさアカデミアパークの検討の際に
た開発計画においても、臨海部の工業地域の整備
も述べたことであるが、ここもまた個人主義で
に加えて、市川・船橋地区の市街地の再整備や松
研究が進んでいるのが問題である仮に同系統の企
戸・八千代地区の住宅地開発が重点項目として設定
業が研究所に入っていたとしても、そこに連携は
されていた。県ではこの方針実現のために、1953
なかなか生まれづらく、むしろ対抗心をあおるこ
年1月に千葉県住宅協会(のちの千葉県住宅供給
とになってしまう。
公社)を設立し、住宅の供給につとめた。
そこで東葛テクノプラザでは、入居企業・OB
松戸市において、1957 年には都市計画事業を重
企業・協力企業・県内大学、公共支援機関が集う
点施設として推進することが決定し、その具体的
交流会、講演会を度々主催するなど、マッチング
な施策として、日本住宅公団との協力関係により
の機会を重要視している。また、東大柏ベンチャ
団地建設が推進されたが、そのうち初期の大事業
ープラザともリンクして活動をしている。
が常盤平団地の建設であった。常盤平団地は 1957
課題はやはり、予算面であろうか。東葛地域は
年に事業が認可され、反対派による活動があった
バイオネットワークの中心でもあり、研究組織も
ものの、1960 年4月から入居が開始され、1962
多岐にわたるため、ゲノム研究など国が力を入れ
年7月には全戸の入居が終了した。常盤平団地の
るものにどうしても予算が振り分けられる傾向が
特徴は保育園・幼稚園・小学校・中学校や郵便局、
見られる。しかし、産業クラスターとしては、機
商店街などを計画時から配置する独立した街区と
械・金属系の研究所にも資金調達が必要であり、
して計画された点で、住居にはダイニングキッチ
ここは悩みどころであろう。
ン、ステンレスの流し台、水洗トイレ、シリンダ
ー錠などが設置されるなど、新たな住宅開発の方
【参考文献】
向性を示すものであった。
「広域関東圏における産業クラスター計画の
このように、1960 年代以降松戸市の他、千葉
現状・課題とシナリオ」
市・八千代市・船橋市・船橋市・柏市などでは団
(http://www.kanto.meti.go.jp/seisak
地の建設が推進された。
u/juten/sinario/data/zentai.pdf
関東経済産業局 2006 年
(2) ニュータウンの開発
1950 年代後半、高度経済成長期に突入し、首都
圏をはじめとする都市部で産業が発達すると、地方
7.千葉ニュータウンの開発
から都市部への人口の流入が増加し、住宅対策の
(1) 千葉県の住宅開発
必要性が生じてきた。そこで、政府は 1962 年には
昨年度の『共同研究報告』に記した点を要約する
「全国総合開発計画」を策定して、拠点開発構想を
と、以下のようになる。
提示し、それを受ける形で翌年には新住宅市街地開
東京都に隣接する千葉県は、東京での仕事に重
発法を制定した。この法律のポイントは以下の3点で
視する人々の住宅地として戦前より発展がみられた。
とくに東京に隣接する市川・松戸地区は、1920 年代
ある。
① マスター・プランに基づく綿密な都市基盤の
の関東大震災後に人口増加が顕著になり、市川は
整備
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
事への参加も低調と指摘されている50。
② 複合都市機能の重視
③ 開発の利益を目的とした不動産の転売阻止
このうち、①においては常盤平団地でも構想され
(3) 千葉ニュータウンの建設計画
とものう た け と
た道路・上下水道・学校・共同店舗・病院などの施設
友納武人千葉県知事は、1964 年に第1次総合五
を含むその住区で生活が完結する地域にすることが
か年計画を発表したものの、翌年にはそれを打ち切
念頭に置かれている。②については、住区だけでは
り、新たな5カ年計画の策定を発表し、1966 年1月に
事務所・事業所なども備えて、職住接近も可能な環
「千葉県第二次総合五か年計画基本方針(案)」が発
境の育成を目的として設定された。③に関しては宅
表された。友納知事による政策の変更には、1965 年
地の高騰を抑制するためで、具体策としては、原則と
11 月に当時の佐藤栄作首相が富里・八街地区を新
して5年以内の建物の建造を義務付け、10 年以内の
空港予定地として発表したことにあった。政府からの
土地・建物の転売を禁止する項目が盛り込まれてい
事前相談がなかった友納知事は、農地などの補償
た。この開発の事業主体となれるのは、地方自治体、
や騒音対策などの具体案を求めたものの、回答がな
住宅・都市整備公団、地域振興整備公団、地方住宅
かったため「事態の推移を慎重に静観注視する」と非
供給公社などの機関に限られていた。
協力の立場を貫くことを宣言した51。
この法の制定により、ニュータウンの建設が促進さ
しかしながら、県としては工業地帯や住宅の継続
れた。主要なニュータウンに関してまとめたものが表
は主たる課題の一つであり、新空港の建設を考慮す
1である。このようにニュータウンは、当初は首都圏・
る形で、臨海部・内陸部の大規模住宅団地の建設を
名
称
都道府県
開発年度
面積(ha)
計画人口(万人)
千里ニュータウン
大阪府
1964~1969
1160
15
多摩ニュータウン
東京都
1964~2000
1316
22
高蔵寺ニュータウン
愛知県
1965~1985
702
8.1
泉北ニュータウン
大阪府
1965~1982
1557
18
筑波研究学園都市
茨城県
1968~1998
2696
10.6
北摂(三田)ニュータウン
港北ニュータウン
兵庫県
神奈川県
1971~2017
1974~2005
1864
1316
13.9
22
表1 全国のおもなニュータウン
中京圏・阪神圏などの大都市圏を想定したものであ
基本方針に位置づけた。
ったが、全面的な買収による計画的な住宅地の造成
このうち、内陸部に関しては、1966 年5月に千葉ニ
が可能であったため、地方都市でも積極的に活用さ
ュータウン(以降千葉NTと略す)の建設が発表され
れ、以後長期にわたって全国に数多のニュータウン
た。この地が選ばれた理由は、以下の通りである。新
が建設された。
空港の建設予定地が北総台地中央部であり、その
日本のニュータウンの特徴に関して、アンケートの
地と東京を結ぶ途中に位置するため、2つ目は千葉
結果により、比較的居住満足性が高く、永住を希望
県の開発の空白地帯であったためである。前者は、
する者の割合も高い。これは生活に必要なものを配
今後東京と新空港を結ぶアクセスとして道路・鉄道な
した計画的な住区の特性によるものであるが、一方
ではニュータウンが建設されたために居住を開始し
50
福原正弘『ニュータウンは今-40 年の夢と現実-』(東京新
聞出版局,1998 年),pp.82-91
51
『千葉県の歴史 通史編近現代3』(千葉県,2009 年),p.611
た人々が多いため、地域への愛着度は薄く、地域行
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――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
年
月
事
象
1966
5
千葉NT建設構想発表
1967
2
用地取得開始
1967
12
印西都市計画区域エリア計画発表
1969
5
船橋都市計画区域エリア計画発表、同時に認可されて実質的な開発の開始
1973
オイル・ショックによる開発資材の高騰が原因で鉄道計画を凍結
1976
造成工事の進捗率 30%
1976
千葉県による新総合5カ年計画により開発期間を 1984 年まで延長
1978
宅地開発公団(現 住宅・都市整備公団)が開発に参加し、千葉県との共同施行体
制が開始
1979
3
北総開発鉄道第1期線 北初富・小室間開通
1984
3
北総開発鉄道第1期線 小室・千葉ニュータウン中央間開通
1984
千葉NT計画の事業縮小を発表
1986
事業計画を見直し
1988
事業計画を変更、特定業務施設・大学の誘致を開始
1991
3
北総開発鉄道第2期線 新鎌ケ谷・京成高砂間開通
1993
事業計画の変更を発表、住区を 24 に増加、中高層建築物主体の建設に
1994
事業改革の一部変更
1995
4
「ラーバン 21」発表
1995
4
北総開発鉄道 印西牧の原駅まで延伸
2000
7
北総開発鉄道 印旛日本医大駅まで延伸
2010
7
北総開発鉄道に京成電鉄成田空港線が乗入れ
年表2 千葉ニュータウンの開発
どの敷設が不可欠な条件となるが、このような交通網
月佐藤首相より友納知事に従来案より面積を約半減
と住宅開発を連動させようとしたのである。後者は、
し、三里塚地区を中心とする修正案が伝えられ、協
千葉県の住開発は前述のように戦前から進められて
力を要請されたことから、第二次
いたが、東京との連動から鉄道網で直結する総武
計画も一部変更を余儀なくされ、正式な発表は翌
年2月と遅れることになった52。
線・常磐線沿線地域が中心で、北総台地はその両路
線に挟まれる形で住宅開発の空白地帯となっていた。
このように県の開発計画にも変更を加えられるな
これを放置しておけば、人口が急増している当時に
か、千葉NTの開発計画は進展をみせていた。1966
おいて、民間による開発が虫食い状態ですすみ、以
年5月、千葉県による当初構想が発表された。建設
後の計画的な都市化を阻害する可能性が高かった
地として、船橋市・白井町・印西町・印旛村・本埜村
ためである。
52
「印西都市計画区域の変更について」(『千葉県の歴史 資
料編近現代6』,千葉県,2006 年,
PP.890-892)には、変更に際しての県議会での議事録からも、
この説明がうかがえる。
このような方針の方向性が、1966 年3月の県議会
での友納知事の答弁により明らかにされたが、同年6
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の1市2町2村にまたがる東西 18kmにも及ぶ横長の
地を全面買収して開発を行うことが基本である。しか
地域を指定し、産業基盤も設置して職住接近の市街
しながら、千葉NTでは開発を急ぐあまり、開発反対
地開発を進めることが謳われた。その後、人口 34 万
派の土地を「営農調整地」とすることで棚上げし、
人、開発面積 2900ha、道路・鉄道・学校・医療機関な
1969 年2月から 1972 年3月にかけて買収を実施しな
ども含めた総合的な開発が発表された。人口密度は
い旨の覚書を締結した。この対象者は 696 人、土地
1ha 当たり 120 人と設定され、当時の社会状況を考
面積は 546ha に及んだ。この他にも約 300ha の土地
慮して約 10 年間での人口増の受け入れというハイペ
に対し、口頭で買収しない約束が取り交わされたと
53
ースな算定がなされていた 。千葉NTの都心からの
いう。これにより開発地が虫食い状態となり、開発が
距離は約 25~40kmと、事業が若干先行している多
一層遅れることになった。さらに 1970 年の用地買収
摩ニュータウンと条件が一致していたため、大幅な
に際して、1㎡の土地価格が 1250 円と据え置かれた
人口増も当然実現できると思われていた。この当時、
ことも買収を困難にした要因であった。早期買収の
「成田空港、東京横断道、ディズニーランド、それに
ために設置された金額であったが、土地が高騰して
千葉NTが加われば、千葉県の未来はバラ色」と語ら
いた時期であったため、かえって売り控えを促進させ
れるくらいに、千葉県の開発計画は順調に進展する
てしまう結果となってしまった。
と考えられていた54。
なお「営農調整地」という用語は、千葉県による造
これを受けて、翌月には印旛村・本埜村が千葉N
語であり、農民が生活に必要な農地を確保するため
T建設に賛同の意を表明している。これは農業など
の措置という名目で行われていた。
を基盤とし、地域の発展性に期待できない両村が、
1973 年、石油ショックが起こると、社会情勢に変化
開発の恩恵を享受したいと考えたからである。
がみられた。高度経済成長は終わりをつげ、建築資
複数の市町村にまたがる千葉NTの開発は、地域
材の高騰などによって開発も停滞を余儀なくされた。
ごとに計画が進行した。1967 年 12 月に印西都市計
これに伴って、県営鉄道の建設も凍結され、最終的
画、1969 年5月に船橋都市計画が決定し、この船橋
には撤退にいたることになり、交通網の整備という千
の決定とほぼ同時に計画が認可され、千葉NTの建
葉NT開発の重要な課題が解消されずに現在まで至
設が実質的に着手された。
る大きな要因を作ることになった。
ち な み に この段階 で の計画区域内 の人口 は
(4) 開発の停滞の要因
25,000 人程で、380 棟建設されたアパート群のうち
千葉NTの建設は、計画通りに進行しなかった。認
130 棟は無人状態のまま放置されていた。また用地
可から 15 年が経過した 1984 年には千葉県も計画の
買収も当初予定の 70%に満たず、宅地造成も約
縮小を余儀なくされていた。
30%という状態であった。
55
この理由・背景を当時の新聞 は、以下のように報
じている。
(5)迷走する計画
この根本的な問題を用地買収の遅れと石油ショッ
1976 年、県は新総合5か年計画を打ち出したこと
クに起因していると考えている。
を受け、千葉NT事業にも計画の変更が生じた。開
ニュータウン開発の場合、県などの開発主体が土
発年度を当初より7年延長して 1984 年とし、開発区
域を2分して、当初は第1次事業区域を重点に開発
53
千葉 25 周年記念事業実行委員会『ラーバン 21-人間文
化圏を目指して-』(1995 年),
pp46-47,133
54
『朝日新聞 夕刊』(1984 年7月 16 日付),p.3
55
を行うことで事業の効率化および早期完成をめざし
た。
1978 年には千葉県のみでは予算・工事などが支
4参照。
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
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えきれなくなり、事業の早期推進のために宅地開発
を念頭に新たなヒューマンネットワークの形成が、そ
公団(現 住宅・都市整備公団)も事業に参画するこ
れぞれ目標として提示された。
とになり、共同施行体制が始動することになった。
この時期、バブル景気により土地の高騰がみられ
1973 年に県営鉄道凍結を決定したことにより、交通
たこともあり、県・公団が主体の比較的地価が安価で、
網の整備をいう大きな課題を背負っていた県にとっ
また 1991 年より北総鉄道が東京への直通運転を開
ては、鉄道事業や道路をはじめとする公共施設の開
始したことにより千葉NTの人気が向上したため、中
発を直接施行できる宅地開発公団は適切な協力者
高層住宅の建設を促進し、計画人口も 194,000 人に
と考えたからである。これにより、県は計画の立案・用
修正された。
地の取得・地元対策、公団は宅地の造成・公共公益
2013 年3月時点での人口 93,446 人であり、下方修
施設の整備・造成地や施設などの処分とそれぞれの
正した 1986 年段階の計画人口よりも8万人、1993 年
分担を明確にして事業の推進を図る体制がとられた。
よりも 10 万人少ない状態で、2014 年3月をもって開
また県が免許を取得していた鉄道事業の免許も公団
発事業を終了することになっている。
に譲渡され、公団鉄道として開業をすすめることにな
った。
(6)進まぬ交通の整備
しかし、前節で述べたように、その後も開発は進展
千葉NTの大きな短所が交通である。千葉NTは、
せず、1986 年事業の見直しがはかられ、開発面積は
前述したように当初開発の進んだ総武線・常磐線沿
1,933ha、計画人口は 176,000 人と下方修正された。
線の地域を避けた空白地帯に設置されたため、既存
用地買収が困難と判断された 980ha が除外された。
の交通網の枠外に置かれていた。
1986 年の新住宅市街地開発法の改正を受けて、
計画段階では、県は交通問題に対して既存の鉄
千葉NTでは 1988 年に事業変更を行った。住宅環
道を中心に対応できると考えていた。1966 年代では
境と調和するオフィス、研究所、厚生施設を受け入
成田線、この当時はまだ単線で電化もされていなか
れるために 150ha の用地を土地利用計画に織り込ん
った状態であったが、千葉NTの建設にあわせて速
だ。また大学の誘致もすすめ、1987 年には東京基督
急に電化されると考えていた56。また 1972 年段階に
教大学、翌年には東京電機大学の一部移転が決定
おいても57 、白井地区は東武鉄道野田線・新京成線、
した。
印西地区は国鉄木下駅とを結ぶ現行のバス・ルート
さらに 1993 年には、開発 25 周年の節目をむかえ、
の強化、新ルートの開発で対応可能と判断している。
新たに「ラーバン千葉 21」という新たな開発のヴィジョ
58
ンを提示した。ラーバン(RURBAN)とは、rural(田園
千葉・龍ヶ崎線、千葉・白井印西線、船橋・印西線を
的)と urban(都市的)を合わせた造語であり、環境豊
中心に周辺を通る国道 16 号線、船橋・取手線、佐
かな都市作りを行っていくことを示している。この基
原・我孫子線、佐倉・印西線などとのアクセスにより県
本理念として、
内主要地域と結ぶことが確認されている。
① いきいきとした都市の実現
道路交通においても、計画区域内を貫通している
この段階では、県営鉄道の開設準備も進められて
② 田園と共生する都市空間の形成
いた。県営鉄道は都営地下鉄新宿線を延長する形
③ 快適なコミュニティが発達した地域社会の形
で、都営地下鉄の本八幡駅から新鎌ケ谷を通り印旛
成
56
52 参照。
1972 年発表の「印西・船橋都市計画千葉区北部地区新住
宅市街地開発事業施行計画書(案)」(『千葉県の歴史 資料
編近現代6』,千葉県,2006 年),PP892-895
58
57 参照。
を掲げた。①では産業機能の導入による業務・産業
57
拠点の位置付けの強化が、②では事前環境を大切
にした田園と都市の共生が、③では高齢化や情報化
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松虫(現印旛日本医大駅)までを結ぶ路線として計
に改組されたのと同時に、北総鉄道に名称が変更さ
画されており、当初は「北千葉線」という通称名も付
れ、同時に千葉ニュータウン鉄道に移管された。この
けられていた。1972 年には都市交通審議会に答申
会社は京成電鉄が全額出資して創設されており、実
され、翌 1973 年 10 月に免許が交付されている。しか
質的に京成電鉄の傘下に入ったことを意味する。北
しこの年の石油ショックによって県の財政が苦しくな
総鉄道は京成高砂・印旛日本医大間の 32.3km の区
ったため、計画は一時凍結され、1978 年の宅地開発
間であるが、印旛日本医大から先を京成電鉄が延伸
公団の事業参画により同公団へ継承して進められる
したこともあり、2010 年7月より成田空港を結ぶ京成
形となった。以後、1979 年3月に北初富・小室間の北
電鉄のスカイライナーやアクセス特急などの列車が
総開発鉄道第1期線が開通したが、この時点では新
北総鉄道の線路も利用するようになった。
鎌ケ谷駅はなく、東武野田線とは直接の連絡はして
当初より北総電鉄に対して指摘されている問題点
いなかった。さらに 1984 年には第1期線が延伸し、
が運賃である。1981年2月、北総開発鉄道は 1979年
小室・千葉ニュータウン中央駅間が開通した。1991
3月の開業以来、初めての値上を申請した。平均
年3月には北総開発鉄道の第2期線京成高砂・新鎌
16.7%である。その理由は経営の悪化であり、入居
ケ谷間が開通した。新鎌ケ谷駅には、1992 年7月に
者が予想より下回り利用者が少ない、電気代など諸
新京成電鉄の駅、1999 年 11 月には東武電鉄の駅が
経費の値上がりがその内容である。この結果、初乗り
開業し、それぞれそれ以降乗換が可能となった。
運賃は 120 円となり、小室・北初富間(7.9km)は 240
また第2期線の開業によって、京成線と乗入れるこ
円となった。これを近隣の私鉄と比較すると、東武電
とで都心まで直通運転が行われるようになった。
鉄柏・六実間(7.3km)が 90円、京成電鉄上野・堀切菖
さらに乗換駅としては、1998 年3月にはJR武蔵野
蒲園間 (7.3km)90 円 、新京成電鉄松戸・元山間
線東松戸駅も開業し、武蔵野線との乗換も可能にな
(8.7km)100 円と約 2.5 倍の運賃設定となっている59。
った。
この値上申請に際して、自治会などを中心に構成す
上記の北総開発鉄道は、当初県営鉄道と計画さ
る北総開発鉄道建設促進協議会は、私鉄最高運賃
れたルートと一致したものである。県営鉄道では、こ
にも関わらず、2年ほどで値上して利用者に負担を
の後新鎌ケ谷駅と都営新宿線本八幡駅を結ぶルー
かけるのは筋違いと会社に抗議書を提出した60。
トが考えられていたが、建設費などにより北総開発鉄
以後も、高運賃は問題となり、2010 年には北総線
道に延長する余力はなかったため、1992 年には第3
値下げ裁判の会が東京地方裁判所に北総鉄道の運
セクターによる事業化の方針が決定したものの、
賃値下げを求めて提訴が行われた。この裁判は
2000 年には鉄道事業の廃止が決定した。千葉県で
2013 年3月に判決が下されたが、訴訟側の敗訴に終
は「東京 10 号線延伸新線促進検討委員会」を発足さ
わり、現在東京高等裁判所に上告されて、現在も審
せ、以後も第3セクターによる事業の検討が継続され
議が行われている。
たが、多額の事業費支出や利用者数の検討から累
積赤字を増加させるだけとの判断を下し、2013 年同
(7)千葉NTの住民層
委員会の解散をもって、本計画は実質的に消滅し
千葉NTの人口が増加した 1990 年代以降は、地
た。
理学を中心にニュータウン住民の特徴を考察する研
北総開発鉄道はその後も延伸し、1995 年4月には
究がおこなわれている。
印西牧の原駅まで、2000 年7月には印旛日本医大
59
駅までの区間が開通した。
2004 年7月、都市基盤整備公団が都市再生機構
60
- 99 -
小田隆造『絵に描いた街』(日経事業出版社,1985
年),pp92-93
59 参照。pp93-94
≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
田口淳は、1996 年4月段階で入居者がある千葉N
用されたアンケートからも、その傾向がうかがえる。伊
Tの区域において入居世帯数の3%にアンケート結
藤は、夫婦それぞれの居住地選択の理由62、既婚男
果を行った結果の分析を実施した61 。これにより転入
性のパーソナル・ネットワークの研究63 を行っている
世帯の特徴があぶりだされる。家族構成は「世帯主
が、この論文内で実施したアンケートより住民の特徴
+配偶者+子供」の2世代同居が 75%で、4人家族
が読み取れる。伊藤は国勢調査の結果をもとに、そ
が最も多く、子供に小・中学生が多いことから就学時
れに見合った家族構成の居住区を選定し、電話帳
期前後の入居が多い。居住室数は、前住地では3~
の記載をもとに居住時期を類推して 1990 年代前半
4室(平均 4.1 室)が標準的であったが、居住後は4
に千葉NTに居住した世帯にアンケートを郵送し、訪
~6室(平均 5.0 室)となり、子供の成長などに伴い部
問により回収する手法を用いた。前住地の大部分は
屋数の確保も転入の目的と推測される。それを裏付
千葉県北西部で、就業男性の約 55%が東京都区部
けるように、転入の理由も「子供の成長」が 28%を占
に通勤している。彼らの平均通勤時間は 51.2 分から
めている。転入理由としては、「居住環境の悪さ」がこ
84.1 分と増加がみられる。県内通勤者の 2/3 は、千
れに次いでいる。次の転住地を考慮するうえで重視
葉NTおよびそれに隣接する市町村につとめてい
した項目としては、「住宅の価格」、「住宅の広い間
る。
取」、「自然環境の良さ」などがあげられている。これ
転居の理由は、約半数が前の住居が狭くなったこ
に対して、「親戚・知人宅に近い」、「前住地に近い」
とをあげている。前住地での妻の就業の割合は 30%
などはほとんど意識されていない。生活上の不満に
弱で、千葉NT転入によりさらにその半分が離職をし
関しては「交通の利便性」、「買物の利便性」が高く、
ている。転居者の約半数は転居先として、公社や住
この時期都心へは直通運転となったが、料金の高さ
宅・都市整備公団の分譲に絞っている。これはバブ
や本数の少なさに対して不満がもたれている。買物
ル経済の影響により地価が高騰したため、通勤が可
に関しては、特定のスーパーなど日常品を購入でき
能であり、かつ比較的安価な分譲地を求める傾向が
る店が限られていることが不満の理由であった。伊藤
みられると伊藤は分析している。
はさらに前住地との関係を分析する。北総開発鉄道
以上のように、両氏の研究により、千葉NTに人口
が都心へ直通運転をする以前に関しては、千葉県
が急増した 1990 年代前半に関しては、他の地域より
内が 61%、東京都が 215、神奈川県が 11%と県内が
も比較的安価であり、都心まで直通運転が開始され
大半を占め、県内でも松戸市・千葉市・船橋市からの
たことで、東京都区部で勤務する人々の選択肢に入
転入が多い。都心直通運転後は、千葉県内が減少
り、千葉NTに入居することを選んだ人々が多かった
し、かわって東京都が 24%、神奈川県が 15%と上昇
ことが推測される。バブル経済による土地の高騰が、
し、とくに神奈川県では川崎市・横浜市に増加傾向
その背景にはあり、居住者の多くは高価な民間分譲
がみられる。この状況は、直通運転後都営浅草線、
地は最初から考慮に入れていなかった。彼らは、小
京浜急行線との直通運転が行われるようになったが、
学・中学に就学している子供の成長に合わせて、広
これらの住民の多くはこの沿線ではなかったかと田
い住環境を求めたことも千葉NT選択の理由であっ
口は推測する。ただし通勤時間は、従来の 60 分前
た。
後から 60~90 分と増加傾向がみられた。
同じく千葉NTを対象とした伊藤修一の論文に使
62
61
「北総線開業による千葉ニュータウン居住者の居住地移動
と通勤行動の変容」(『地理学評論』74A-6,2001
年),pp.305-322
63
- 100 -
「千葉ニュータウン住宅居住世帯者の居住地選択-夫と妻
の意思決定過程への関わり方を中心として-」(『地理学評
論』74a-10,2001 年),pp.585-598
「千葉ニュータウンに居住する既婚男性のパーソナル・ネッ
トワークの空間分析」(『駒澤地理』45,2009 年),pp21-35
≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
年から実施する。費用が年に 30 億円ほどかかる
(8)おわりに
以上、千葉NTについて概観を試みた。
が、この社会実験によって交通量が予測近くとな
千葉NTは、人口急増期の 1960 年代に計画立案
り、三井不動産による「三井アウトレットパーク
された。立地選択の理由としては、成田空港のアクセ
木更津」が 2012 年 4 月に開業する。こうした商
スと従来の人口増加地域を避けることが考慮された
業関連施設を中心にして、ようやく様々な経済効
が、一括開発地でありながら、用地買収の不徹底が
果が見えてきた。ただし、アクアライン自体の赤
災いし、開発が順調にはすすまず迷走状況となった。
字は、経済効果と別に日本高速道路保有・政務返
また交通に関しても見通が甘く、1991 年まで都心と
済機構(JEHDRA)にかかっていることに変わり
は直通運転がなかったことも住民が増加せず、開発
がない。
この社会実験は、2014 年 3 月に期限が切れる
が停滞した一因であった。
1990 年代前半には公団系で比較的に安価な価格
予定だったが、その延長が決まっている64。東京
で土地・住宅が購入できること、都心へも直通運転が
駅八重洲口前から 45 分でアウトレットに着き、
行えることにより住民が増加したが、当初計画よりも
運賃が 1,200 円という高速バスが運行されるなど、
大きく下回り、2014 年3月 31 日をもってその事業は、
非常に便利になった。こうして、都内通勤者から
終了した。
居住地として注目を集め、2013 年に木更津市の人
口が 13 万人を越えて引き続き増加傾向にある。
8.アクアラインなどの巨大プロジェクトの功
また、三井のアウトレットは 14 年夏に拡張する
罪と日本の開発行政
予定であるし、これ以外にも専門店が続々と進出
(1)12 年度報告の要約と 14 年の状況
し、秋には大型SC「イオンモール木更津」も出
「東京湾アクアライン建設の経緯と現状、その
店される。13 年春に東金 JCT から木更津東 IC ま
問題点」と題した昨年度報告を要約し、その後の
で圏央道が 42.9 ㎞延長したことと合わせて65、ア
「活況」を確認したい。
クアラインの木更津側が商業地域として発展した
東京湾横断道路は、
「アクアライン」と名づけ
と言える。特に社会実験前には出店計画が次々と
られ、総工費 1 兆 4,409 億円をかけて 1997 年に
なくなったことを思い返すと66、大きな変化が起
開通した。千葉県にとって「脱半島性」に応える
こったと言える。また、房総の住民が京浜で買い
プロジェクトとして期待が大きかったが、地元の
物をしても神奈川県にストローされるだけ、とい
木更津市などはともかく、千葉県全体としての位
う批判が誤っていたこととなる。市の中心街は大
置づけが高くなかった。新日鉄を中心とする経済
型店の撤退が相次いでにぎわいを失っているもの
界の強い要請を受け、県政の重点課題に掲げたと
いうのが、実態だったと言うべきだろう。建設関
連の大企業は、最新のシールド工法をマスターす
る意義があったものの、採算度外視による赤字運
営などの大問題を生み出してしまう。
1997 年に予測された総便益は 3 兆 2500 億円だ
ったが、一日3万台と見込まれた交通量が 1/3 以
下で低迷し、この予測が全くの空想だったと分か
る。このため、初期の普通車通行料 4000 円を国
の支援を得て、800 円に下げた社会実験を 2009
64
「千葉県経済界は効果継続期待 アクアライン、14 年
以降も 800 円」 『日本経済新聞 電子版』20013 年 12
月 13 日記事
http://www.nikkei.com/article/DGXNZO63989800S3A
211C1L71000/
65 「東京・神奈川から房総内陸へ 圏央道効果、ゴルフ
場など活況」
『日本経済新聞 電子版』20013 年 10 月
30 日記事
http://www.nikkei.com/article/DGXNZO61817010Z21
C13A0L71000/
66 「大型商業施設計画が白紙に…木更津」
『日本経済新聞
電子版』2007 年 12 月 21 日記事
http://ss-nikki.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_4
3a5.html
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
の、全体として、社会実験が経済的活況を引き出
1500 台、3800 台と多く、土日・祝日は観光で、
す効果のあったことは確かである。それが当初予
平日は物流面での利用が進んだものと推察される。
測の3兆円かどうかは疑問であるものの。
松下文洋は、こうした経緯と英国の道路行政に
ついて『道路の経済学』で述べているので、それ
(2)社会実験と英国道路行政・計画審査官
を紹介しよう。
昨年度報告では詳しく述べなかったが、森田健
英国の政策が転換したのはM25 環状高速道路
作知事の提唱した料金を普通車通行料金 800 円に
の建設がきっかけだった。交通渋滞解消の切り札
するという大胆な社会実験は、森田自身のアイデ
として期待されたが、一旦は渋滞が緩和されたも
ィアではない。それは以下の経緯で広がった運動
のの翌年には誘発交通という現象によってかえっ
で提唱され、それを森田が立候補時に取りあげた
て大渋滞を引き起こした。車の便利さが増すと鉄
のである。
道などからの移動、モーダルシフトが起こるから
松下文洋は、自身の開発した都市総合分析モデ
である。交通需要の高い伸びを予測して道路をた
ル(MEPLAN)というコンピュータ・マクロ経済モ
くさんつくるのでなく、環境に配慮して計画し監
デルによって、アクアラインの料金を 1000 円に
視・管理する政策へ 1998 年に転換し、2003 年に
値下げした場合に、利用台数は一日 2 万 5000 台
はロンドンで渋滞課金が開始される。大型商業開
前後に上昇すると予測し、これを 2001 年 11 月木
発には市街地中心に適地を探すことを強い、都市
更津市商工会議所で講演した。
この講演を聞いた、
観光のために路面電車を導入した68。
後に鎌ケ谷市議会議員となる岩波初美が中心とな
公共投資の問題は社会的合意形成の問題であ
って 2002 年1月アクアライン通行料金研究会が
り、公聴会と裁判所に代わる調停制度、官庁の不
発足し、2月にアクアラインの経済効果を松下の
正をチェックする第三者機関などの制度整備が必
会社アプレイザルに調査を依頼した。ここから料
要 で あ る 。 英 国 で は 、 計 画 審 査 官 (planning
金 800 円に大きな効果のあるデータを得て、2003
inspectorate)がいて、異議がある場合に公聴会を
年3月アクアライン 800 円実現化 100 万人署名推
開いて実施か中止・修正かを裁定する。年間予算
進協議会が67、周辺市町などからの支援を得て発
60 億円で管理され、審査の8%が公聴会で行われ
足する。これが 2005 年に県知事に立候補した森
一週間以内に裁定される。道路計画は長くかかる
田の重要政策に取り上げられて、県民にもその政
が、4ヶ月ほどである。この制度は、第一次大戦
策が広く知られるようになった。政府の高速道路
後の混乱期に、傷病兵や未亡人といった社会的弱
料金の政策変更と森田の知事当選もあり、800 円
者を国の強制執行などから保護するため、富裕層
料金が社会実験として施行されることとなった。
や知識層が支援して個人のボランティア活動とし
実験は 2009 年8月から始まり、ノンストップ自
て始まり、1955 年の行政裁判管理委員会の発足以
動料金収受システム(ETC)搭載車を対象に、料
降に国民の信頼を得て定着した69。
金を軽乗用車 640 円、普通車 800 円、大型車 1320
さらに、計画のための予測には、土地利用と交
円、特大車 2200 円とした。交通量は、1 日当た
通計画を総合的に分析し、社会的・政治的影響を
り交通量が平均 3 万 2500 台と、実験前に比し 1.5
あわせて分析する必要がある。さらに、その分析
倍以上に増加(大型車で倍増の 5900 台)土日・
が現実の移動数を再現するように微調整を繰り返
祝日の小型車と平日の大型車の増加数が各々1 万
68
67
http://www.aqua800.com/
松下文洋『道路の経済学』(講談社現代新書 2005 年)、
pp.140-152
69 同上、pp.199-201
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
す70。日本の予測はこうした科学的なものとは到
係ない仕事は、私ども生臭い役人には馴染めなか
底言えないものばかりである。その意味で、松下
ったので、ついないがしろにしたことは否定でき
の料金 800 円提案が従来の道路料金設定の考え方
なかった」という、1960 年に経済企画庁総合開発
を変えた意義は非常に大きい。本四架橋に関して
局長を勤めた藤巻吉生の回想がある73。
そうした国土計画が 1962 年に策定されたのは、
は以下の議論が国会で交わされている。2002 年
10 月 22 日に衆議院の国土交通委員会で、
野田(佳)
池田内閣が所得倍増計画を打ち出し、それを実現
委員が扇国務大臣に本四架橋やアクアラインの料
するために必要となったからである。特に重要だ
金大幅引き下げの可能性について質問したことへ
ったのが工業地帯整備案で、それが太平洋ベルト
の回答である71。
地帯構想である。しかし、それに対して、構想に
試しに、二割減したことがあります。二割安く
入らない地方から反発があって以下のような経緯
して交通量がどれだけふえたかというと、一割
をたどる74。
なんですね。二割料金を落として、ふえたのは
太平洋ベルト地帯構想は、四大工業地帯への
一割ですから、一割分が赤字としてふえちゃっ
工場立地は原則禁止とし、新たに四大工業地帯
たんですね。
の中間地帯に中規模の工業基地を建設し、太平
本四架橋では効果がなかったのは確かである
洋地帯にベルト状の工業地帯を形成させるとい
が、ここに、科学的予測なしで場当たり的に動い
う内容であった。…はずれた地域の住民、知事、
て、それに疑問を感じていない日本の公共投資・
そこを地盤とする国会議員の反発は予想以上に
道路行政の姿が現れている。
強かった。そこで太平洋ベルト地帯以外の地域
を含めて、新産業都市と工業整備特別地域とし
て全国 21 カ所の地域を指定した。…現実には、
(3)全国国土計画のあり方と限界
日本の公共投資は環境破壊を誘発し、無駄も多
地方に利益誘導を図る政治的圧力との妥協の産
いと批判されてきた。そのベースになっているの
物にすぎなかった。
が、1962 年以降制定されてきた様々な国土計画で
これらの開発地域を当初は数ヶ所と見込んだ
ある。ここに現れた日本の公共投資政策とそれを
が、44 地域が指定に名乗りを挙げて、地域指定を
混乱させていく政治状況について考察しよう。
巡って「史上最大の陳情合戦」を繰り広げ、新産
全国総合開発計画が作成される根拠法は、1950
業都市 15、工業整備特別地域6となった。そして、
年の国土総合開発法である。そこに「国土総合開
これらの中で重化学工業誘致に成功したのは、鹿
発計画」が規定されながら、実際に策定されたの
島・水島・大分等の太平洋ベルト地帯のみであっ
は 1962 年の全国総合開発計画(全総)である。その
た。また、工業誘致に失敗した地域は、財政的な
背景は、御厨貴の研究によると、
「法案として体裁
窮地に追い込まれ、誘致に成功した地域でも公
が整わぬという純技術的理由で、法制局が『全国
害・環境問題等の社会的病患が顕現したと評価さ
計画』を修正付加した」ためだという72。その背
れる75。
景には、
「全国総合開発計画などという、予算に関
70
同上、pp.158-165
71 第 155 回国会国土交通委員会第7号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/155/0099/
main.html
72 山﨑朗
『日本の国土計画と地域開発』(東洋経済新報社、
1998 年)、p.171。御厨貴「昭和史のなかの国土計画」『
( 中
央公論』1998 年8月号、p.390)
73
同上、pp.171-172
同上、p.174
75 別所俊一郎「中央と地方の財政役割分担の経緯と現状
―全国総合開発計画のケース―」(『財務省財務総合政
策研究所と中国国務院発展研究中心(DRC)との「中央と
地方の役割分担と財政の関係」に関する共同研究最終報
告書』財務省財務総合政策研究所,2006 年 3 月) p.5
74
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
この問題について有名な著作が宮本憲一『地域
全国各地から立候補が殺到し、厳密に意味のある
開発はこれでよいのか』で、
「Ⅱ地域開発の歴史と
指定数に絞り込むことができずに、数多い地方プ
教訓」において厳しく批判された76。この時点で
ロジェクトを指定する結果となる。このため、ほ
の宮本の批判は、
「公害などの都市問題は、現代的
とんどが成功しない結果となり、その総括なく微
貧困とよんでよい」として、環境問題と、関連し
妙な修正をして新たな計画に引き継がれる。全総
て過密・過疎問題を中心に論じ、宮本はその後環
では、
「地方の反発を押さえるために実現不可能な
境経済学に研究テーマを移す。しかし、産業公害
目標をあえて設定した可能性も否定できない」と
に関しては、1970 年代以降の規制強化によって産
すら言わる78。これでは、国土計画の意味が全く
業公害の大半が解決可能なことが分かった。問題
ない。
は、産業基盤造成のため多額の先行投資をして地
もう一つの大きな弱点が、少子化が始まった中
方自治体の財政破綻が起こることで、この破綻が
で過大な人口予想をし、これをベースに過剰な経
その後も各地で起きたことだろう。
済ニーズを予測した。これは、厚生省の大罪と言
当時指摘された過疎問題については、マイカー
えるが、三全総ではその予測をさらに 300 万人も
が増えることで問題の一部が改善され、地方から
上回る計画を立てた。それは各地方の計画を上積
の出稼ぎがなくなり各地域の一村一品運動が広が
みしたからである79。
るなど、その形態が大きく変化した。高度成長以
原理的な批判として、山﨑朗は次のような国土
降、一方的に過疎問題が深刻化したとは言えない
計画観を述べる80。国土計画を公共投資や建設会
だろう。しかし、財政破綻の点では、国土計画が
社のための無意味な作業と批判されることがある
全総以来様々な改訂を続ける中で77、中央や地方
が、それは違う。経済発展は、空間克服産業(鉄道、
に起きる財政破綻を止めることができていない。
造船、自動車、航空宇宙、通信など)の発展・衰退
国家財政が想像を絶するほどの赤字国債を積み上
過程である。これとインフラ整備は表裏一体の関
げる中で、公共投資に関連して高速道路・用地開
係であり、
「国土計画の第一の意義は社会資本の長
発で借金を積み上げ、関連自治体の財政悪化や破
期的、
総合的整備の基本方針の策定」にあるので、
綻が起きてきたのである。どこにこの問題の原因
インフラ整備計画でよいし、そうでなければなら
があるのだろうか。
ない。ところが、
「地域格差の是正」などの目標が
国土計画の文章を読むと次の問題が分かる。メ
設定されて、国土計画が「地方利益実現のための
インの手法が新しい計画のたびに変わりつつも、
公共事業要求書の様相を呈して」しまった。これ
共通の問題点として①過去の総括がないこと、②
は目標たりえず、反対者を少なくするための装飾
コスト的配慮が弱いこと、③計画を実効性あるも
にすぎない。
地域間格差がどのように生まれるか、
のとする仕組みが示されないことである。ある意
どのように是正できるかを考えれば、自由経済の
味で、これは日本の政策のあり方にある決定的な
下での実現手段がきわめて限られていることが分
弱点を示している。
かるだろう。産業の自律的地方分散傾向と中核都
実態として、あるプロジェクトを打ち上げると
市などにおける都市機能の充実が重要だろうと。
しかし、東京・愛知・大阪という大都市圏にお
76
宮本憲一『地域開発はこれでよいのか』(岩波新書、1973
年)pp.21-52
77 1962 年全総から 1998 年「21 世紀の国土のグランドデ
ザイン」まで五つの計画が作られた。なお、2005 年に
国土総合開発法が国土形成計画法へと改正され、国土形
成計画を策定することとなった。
ける空港配置を考えると、1960 年代以降の国土計
78
79
80
- 104 -
山﨑前掲書、p.178
山﨑前掲書、p.192-193
山﨑前掲書、p.3-6
≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
画が全くその調整機能を果たせず、ハブ機能がき
中央自動車道が開通し、大鳴門橋が供用された
わめて弱いままに建設が強行されたことに唖然と
1988 年に 28,699 台/日。徐々に増えて 1998 年
するしかない。
に料金引下げがあって 39,703 台。3ルートが開
以下では二つの巨大プロジェクトを取り上げ、
通した翌 99 年に 43,323 台、休日割引を始めた
建設計画をめぐってどのような政治的軋轢と混乱
2009 年に 54,062 台と増えただけ。この間に
があったのか、全国やブロックの単位でインフラ
16,951 台あったフェリーが 2,718 台にまで落ち、
計画を作っても、現場では難しい問題を孕むこと
大鳴門橋を通る西瀬戸自動車道の交通量が瀬戸中
を具体的に分析したい。
央自動車道を上回るという変化が起こった。12 年
度まで交通量が増加する気配はないまま推移して
(4)島嶼性克服を狙った本四架橋の問題点
いる。
本四架橋は、昭和 30 年代に架橋を誘致するた
こうした状況は、当初の効果予測を大幅に下回
めに地元が激しい誘致活動を行って問題となった。 るものである。例えば徳島県は、明石海峡大橋の
1970 年に全国の高速国道ネットワークとは別に、
建設による経済効果として、2005 年に生産所得で
地元からの出資を前提として3ルートの建設を決
1600 億円、就業者が2万 1000 人増、人口4万
定する。同年、本州四国連絡橋公団法が衆参の全
3000 人増と試算している83。実際には県人口は、
会一致で成立し公団が設立され、出資を行う 10
2000 年 830,505 人が 05 年 814,686 人、10 年
府県市が政令で指定された。石油危機による着工
788,523 人と推移した。県は公共投資で千億円単
延期を経て、1988 年から順に瀬戸中央自動車道と
位を支出しているし、企業も経済的波及効果を期
神戸淡路鳴門自動車道、西瀬戸自動車道の3ルー
待して先行投資的を行っていた。例えば、ホテル
トが開通する。総事業費が 28,700 億円。その後、
の客室数は 1987 年から 89 年にかけて、香川県が
料金を 1997 年と 2003 年に 20~30%ほど下げる
3,620 室から 5,804 室、愛媛県が 3,620 室から
が、通行量が大きく増えない。休日千円等の割引
5,094 室、徳島県が 775 室から 1,251 室と急増し
を実施しても少し増えるだけ。割引で利用台数が
た。観光客は一時期増えたものの、開通直後の一
若干増加しても、単価減少で収入総額は減る結果
時的現象にすぎなかった84。例えば、香川県の県
となり経営が悪化した。関連自治体と国は毎年
外観光客数が、開通時の 10,351 人をピークにそ
800 億円の出資を 2022 年まで続けるとしていた
の後激減して 2005 年に 6,872 人まで落ち、13 年
81 。しかし、国土交通省は出資を打ち切る方針を
に 8,938 人へ戻ったにすぎない。企業調査でも大
出している。公団が民営化された本四高速の債務
きな経済効果を感じるものが少なかったのである。
は約 1.4 兆円あり、料金収入が伸びないので債務
四国の地域的弱点に島嶼性があり、その脱却の
返済が進まない。このため、東日本・中日本・西
ために本四架橋が不可欠と考えられてきた。交通
日本の高速道路3社の料金収入の一部を債務返済
網の整備で物流や人流が促進され、県内全域で工
に回す案が出るほどである82。
業化・都市化が促進されると期待された。しかし
交通量は、最も費用効率が高いと思われた瀬戸
例えば、香川県の一人当たり県民所得が 1996 年
に 2,937 千円、2000 年 2,817 千円、09 年に 2,551
81
国土交通省「本四高速の料金等について」2011 年 12
月 20 日 http://www.mlit.go.jp/common/000186190.pdf
82 本四高速、国の出資打ち切り 単独の債務返済断念
『日本経済新聞 電子版』2013/8/26 記事
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGC25004_W
3A820C1MM0000/
83
田口正己『大規模「国家プロジェクト」の構想と現実
――東京湾アクアライン・つくばエクスプレス・本州四
国連絡架橋』(本の泉社、2008 年)、p.382
84 前掲書 pp.402-418
- 105 -
≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
千円という低下傾向が実際の結果であった85。
このため、鉄道過疎県でもある茨城県は、常磐
改めて考えると、確実に実現したのは近隣地区
新線の建設に熱心だった。しかし、運政審は慎重
からの移動時間の短縮だけにすぎない。しかし、
であった。
それは沿線開発に時間を要するために、
その本州側の近隣都市は岡山市や倉敷市という、
「開業後しばらくは需要が多く見込めず、経営に
人口が 70 万人 50 万人レベルの都市でしかない。
深刻な影響」があることや、住宅需要の低迷から
その短縮効果が高松-岡山で 40 分、坂出-倉敷
ニュータウン経営が難しいこと、用地の確保の困
105 分もあっても、対する高松市と坂出市の人口
難や建設資金などの多くの問題があったためであ
は 40 万人、5万人であっては86、その時間短縮に
る88。
よる経済的波及効果が大きくないのは、冷静に考
茨城県は需要の少なさをカバーするためにつ
えれば分かる。その上に、利用料金が無料ではな
くば市の合併を 1987 年に行ない、新線が利根川
いのである。科学的総合的な予測をすればこの効
を渡ることを狙って4ルートを提案した。茨城県
果の小さいことが見えたはずであるが、衆参の議
がつくば研究学園都市までの延長を強く要請した
員を含めて関係者全員が完全な視野狭窄状態にな
結果として、我孫子止まりを主張した運輸省と水
っていたと言うべきであろう。
街道経由を求めた茨城県との妥協の産物として、
こうした四国の状況を考えると、800 円という
現在の守谷ルート案となったのである。そうなる
非常に安い料金設定があったとはいえ、アクアラ
と茨城県は、最重点課題として積極的に沿線開発
イン関係でそれなりの経済効果が実現したのは、
を促進せざるをえなかった。用地の先行取得など
木更津地域が東京という大都市圏内にあって潜在
沿線地域の土地対策について万全を期することを
的可能性を持っていたためだったと言うべきだろ
議決して、
用地の取得を茨城県開発公社に委託し、
う。その意味で、MEPLAN によって総合的効果
優秀な人員を投入して4割先買い・4割減歩とい
予測ができた意義は非常に大きかったのである。
う「4・4方式」で総力を挙げて用地買収に入っ
た。伊奈・谷和原・つくばの沿線開発を 1,378ha、
定着人口 50 万人を想定して整備計画を進め、短
(5)
「常磐新線」の開発行政の問題点
1985 年7月の運輸政策審議会の答申第7号に
期間で買収を成功させた。この間、1989 年6月に
おいて、常磐新線の整備が「都市交通対策上喫緊
鉄道新線建設と沿線の宅地開発を目的にした「大
の課題」と位置付けられ、2000 年を目標に高速鉄
都市地域における、宅地開発及び鉄道整備の一体
道を整備すべきとされた。背景は、東京圏域北東
的推進に関する特別措置法(宅鉄法)
」が成立し、
部の人口が増加して、常磐線の混雑が激化しラッ
土地の投機的な取引を防ぎ、国土利用計画法によ
シュ時に 200%を越える状態の緩和が求められた
る監視区域指定などの規制をかけて、優先的に用
のである。国鉄の経営を考えて第三セクター方式
地を取得し集約換地することができるようになっ
も提案された。例えば、守谷町は現URと三井不
ていた。こうして沿線開発の半分となる 1,732 ha
動産による宅地造成で 1982 年人口2万人が 92 年
の面積を開発し、県の事業費は 1,810 億円もかか
には4万人と倍増し、常磐線のラッシュ時混雑は
った。こうした先行的用地買収が茨城県の財政を
82 年で我孫子-上野間で 259%もあった87。
深刻に揺るがすこととなる89。
85
86
87
「平成 21 年度香川県県民経済計算の概要」
http://www.pref.kagawa.lg.jp/toukei/zuiji/kenmin/h
21/kenmin21_01.pdf
田口前掲書 pp.374-375
茨城県議小川一成「つくばエクスプレスの開業と沿線
開発の現況と課題」p.4 www.ogawa-issei.jp/プロフィー
ル/卒業論文/
88 同上書、p.7
89 同上書、p.9-13
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
こうして沿線自治体の積極的な投資や無利子
融資などの優遇措置を受けて、1991 年に首都圏新
のめりで先行投資した上に開業が5年遅れたため、
保有地の処分が遅れて損失が拡大している。TX
都市鉄道株式会社が自治体出資により設立される。 沿線開発による将来の負担予測を茨城県が 1,020
JR東日本が運営を辞退したため、この会社が運
億円と修正している。2年前の予測の 1.8 倍とな
営も担当することとなる。1994 年に起工されたが、 ったのは売却遅れと金利負担の結果である。関連
途中で開業時期を 2005 年に遅らせて沿線人口の
した県債発行が 1,847 億円もあり、毎年の金利負
見込も下げ、一日当たりの輸送人員計画を最終的
担が 30 億円となっている92。売却が進む見込みが
には 13 万人にまで下げた。01 年に鉄道路線名称
特になく、将来はこの他に開発地への学校や上下
を「つくばエクスプレス」とし、05 年8月 24 日
水道建設の費用も必要となろう。
に開業した。5年遅れる間に技術改良があって建
茨城県はTX沿線開発以外にも、県幹部がトッ
設費を千億円ほど削減し、乗務員をワンマン態勢
プに天下りする公社関係で膨大な土地を抱えて借
とするなどコスト削減に努めたことと、開業一年
金が 4,516 億円とされる。この中で最も大きいの
目から乗客数が順調に伸びて、08 年度には初の営
が、つくばエクスプレス沿線地区(8地区)
業黒字を達成し、09 年度には経常黒字まで達成し、 359.3ha の、2174 億 5800 万円の借入残高である
10 年度には年間輸送人員1億人を突破するなど、
93。
順調な経営を進めてきた。バブル崩壊後に建設が
県や公社が保有する工業団地や宅地などは 08
進められたこともあって慎重で丁寧な経営をめざ
年3月末現在の調査で、少なくとも水戸の千波湖
したことが、第3セクターとして見本となる優良
43 個分に相当する 1440.7ha が売れ残っている。
経営につながったと考えてよいだろう。また、沿
売れ残りは全体の分譲面積の7割に上る。土地を
線開発によって定住人口が順調に増加したことも
売って返すはずの借入残高は 4516 億円。もし売
背景にある。
却できなければ、赤ちゃんからお年寄りまで県民
1人当たり 15 万円の負担に相当する。県の大規
守谷市では、駅周辺に高層マンションが乱立し、
戸建てに住む周辺住民との間で日照権や電波障害
模な土地開発は三つの公社を中心に進められて
などの問題を引き起こしてきた90。しかし、問題
きた。工業団地が県開発公社。公共事業用地や商
は沿線自治体の先行投資による財政悪化であり、
業用地などが県土地開発公社。住宅地が県住宅供
特に茨城県が深刻である。
給公社。いずれも県幹部がトップに就く天下り先
千葉県の開発行政はいろいろな問題があった
だ。
ものの、それを担った県企業庁が 2015 年度末に
経営センスのない素人役人が、膨大な予算を何
清算される。税金投入が必要ないものの、千葉ニ
の監視も受けずに、科学的経営的根拠もなく投融
ュータウンを中心に 500ha ほどの未処分地が残
資してきた結果と言えるのだろう。
される見込みである。企業庁は 12 年度から単年
度赤字が続いたが、東京ディズニーリゾートの運
(6)おわりに
営会社オリエンタルランドの株式を保有して、含
3つの巨大プロジェクトの特徴・問題点を簡単
み益が数百億円となるので赤字がカバーできる91。
しかし、茨城県は、先に述べた理由があって前
90
同上書、p.16-17
91 「開発行政、
評価相半ば
県企業庁、15 年度末に清算」
『朝日新聞』2013 年 07 月 30 日記事千葉版
92
「TX沿線開発の将来負担倍増、1020 億円 県修正、
土地売却延長で」
『朝日新聞』2010 年 02 月 20 日記事
茨城版
93 「1人、15 万円負担相当 売れ残った県保有土地、借
入残高は 4516 億円」
『朝日新聞』 2009 年 03 月 24 日
記事茨城県版
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≪2013 年度(平成 25 年度)学校法人芝浦工業大学 高校・中学教員研究報告書
――小松 一貴・野村 春路・杉浦 正和・宮嶋 祐一・廣嶋 伸道・小林 菜々・松原 誠司・尾形 祐紀子≫
にまとめると、以下のようになる。
した面からも研究していきたい。
アクアラインは、千葉県の半島性解消を目的に
したが、東京圏の道路ネットワーク全体の中で効
9.おわりに
果を発揮するものなので、十年以上期待した効果
が出なかった。しかし、強い経済力を持つ人口密
以上が、今年度の成果である。
集地に近い利点があるため、800 円という格安料
本校社会科では、2年間にわたり千葉県をフィー
金設定という特別措置により、経済効果を生むこ
ルドにして教材化のために研究を深めた。
とに成功した。問題は格安料金による赤字の処理
だろう。
初年度の「開発」というテーマにより、課題が明確と
なったため、今年度は「交通」・「流通」にも観点を広
本四架橋は、四国の人々にとって長年の切実な
げて、さらに調査をすすめた。
願いであり、それもあってプロジェクトを絞り込
これらの成果は、社会科内でも共有をはかることが
むことができず膨大な赤字を生む事業となった。
できたものの、社会科全体として、千葉県の開発・交
しかも、大都市からの距離が長いために本土の都
通などを総括評価するまでにはいたらなかった。
市との時間短縮だけでは経済的効果が不十分で、
本来であれば、次年度以降にそのまとめの作業を
格安料金措置でも効果を生み出すことができない。 行う必要があるが、今年度の活動のなかで、千葉県
このプロジェクトは、現実を直視しない夢だけを
での研究成果が、首都圏としての一般例に近いのか、
追ったものであった。今後、赤字を誰がどう負担
それとも特殊な地域なのかという議論が起こり、この
すべきなのかが難しい、深刻な失敗例である。
課題を解決するためには、比較研究が必要という結
常磐新線は鉄道建設なので、海上の大プロジェ
論に到達した。このことから、次年度の共同研究は、
クトと異なり、土地買占から開発まで時間のかか
千葉県と対象研究が可能な地域として、神奈川県を
る困難なものである。しかし、様々な失敗例の反
フィールドに研究することとした。まだ具体的なテー
省と偶然によるタイミングの良さもあって、巨大
マなどについては未検討であるものの、比較のため
プロジェクトとして希有な成功事例となっている。 のフィールドという点から、「開発」・「交通」・「産業」な
しかし、茨城県のような素人集団が積み上げた無
どがキーワードとして設定される可能性が強い。
駄な開発投資があり、これの処理が大問題として
残っている。
他地域の研究を深めることで、いずれ千葉県の特
性を明示できるよう努力したい。
改めて考えると、インフラ整備の公共投資は、
建設資金の金利負担を除くと、社会にメリットが
最後に執筆担当者をしめし、本稿を終えることに
する。
ないわけではない。高速道路は、特定道路の経営
1・7・9 松原誠司
が悪いとしても、繋がったネットワークとして宅
2
小林菜々
配便による恩恵を過疎地に住む人々に与えること
3
野村春路・尾形祐紀子
ができる。しかし、土地の先行買付や整備となる
4
宮嶋祐一
とメリットが少なくなる。また、国が抱える膨大
5
廣嶋伸道
な赤字国債の残高も、社会にメリットを与える機
6
小松一貴
能がない。英国の計画審査官と公聴会などの制度
8
杉浦正和
は有効である。日本でも、個々の政策効果の検証
も含めて、行政全体を監視・抑制する制度の創始
が喫緊の課題と言える。地域開発のあり方をこう
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