全文PDF - 部落解放・人権研究所

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うのは簡単なことでした。実は被差別部落は荒れ果てた
砂地の上にできていて一般農村は、粘土質の土壌の上
います。
にあり、振動が少なかったのです。いわゆる歴史的差別
性というものが、現実の天災の上に現象してくる。これ
らの問題が、私の人生を決定づけたといっていいかと思
敗戦の混乱のなかで、今までの天皇制、軍国主義の思
想は完膚無きまでに崩壊をしてまいります。差別が加わ
る貧困が、天災によって余計加重されてしまった状況の
なかで、私は当時、歎異抄の研究会に参加いたしました。
五、六名の輪読会がございまして、もともと家は真宗大
谷派の門徒だった関係から、浄土真宗、親驚には関心が
深かったわけです。私は師範学校というものが嫌になっ
て、辞めまして、周囲の反対を押し切って、龍谷大学に
入りました。当時は曰本一だといっていいほどの貧乏学
生で、大学の樹徳寮という学生寮で夜は門番などをして
給料をもらいながら昼は大学に行くという状況でした。
一九四九年、入学と同時に、私は京都の部落問題研究
所に参加しました。ここは前年に発足したのですが、木
村京太郎さんの紹介で、出入りするようになります。一
九五○年に、寮のなかに部落問題研究会を組織しました。
戦後、曰本の大学で、部落問題のサークルが生まれたの
私は大学を一応卒業する時期になっていました。京都
の朝田善之助さんに「失対事業に入れんか」と頼んでみ
ました。でも、「大学出は駄目だよ」といわれて、九州歯
科大に入ることになっていたのです。ところが、親父が
病気で倒れて入院していましたし、もちろん金もなかっ
た。やむを得ず、デモシカ先生で、高知県立中村高校へ
就職したのが、ちょうど四○年前です。
私は昼だけでなく、定時制高校に籍を置きました。私
が赴任した晩、一一人の生徒が呼びに来て、裏庭のほうに
連れて行言一人が包丁を出すのです。私がどなりつけ
ると一人が泣き出して逃げて、もう一人も泣き出して
1.私は包丁を取り上げて知らん顔して隠していま
した.そこらあたりも差別問題があるんですが1.
私は書道の教師もしたんです。でも、定時制ですから
書道の名人がいるわけで、年上の生徒に手本を書いても
らっては、授業をした記憶もあります。そのうちに学校
内で差別事件があるなどの問題のなか、『七人の侍』とい
うグループができまして部落解放団体高知県連合会を
作る準備をしたのです。
同時に、坂本清馬さんという方がいらして、この人は
大逆事件で、二四名の死刑判決者中無期懲役になった一
一一人の一人。幸徳秋水の直弟子です。戦後、大審院に再
は、ここが初めてということです。
ところが、大体宗教教団は、差別の固まりみたいなも
やすま
ので、そういう現実のなかでの反発というものがありま
した。社今云学者の高田保馬博士が寮で講演をしたのです
が、私は曰頃から、博士の戦争中におけるファシズム理
論に猛烈な反発をしておりました。そこから運命の狂い
始めというか、私は常にマイノリティーの道を歩んでい
くわけです。議論には勝ったが、やがて部落問題研究会
を作ったことなどが重なりまして、私は寮を追放される
わけです。私にとっては働きの場であり、同時に一室を
与えられるという、経済の本拠が一挙に崩れて、まさに
路頭に迷ったのです。
当時私は、米軍の寮で靴磨きなどのアルバイトなどを
して、そこで生活をする道を立てたわけです。私は部落
問題研究所のアルバイトも兼ねていたのですが、そのう
ち、木村さんの紹介で大阪へ行くことになります。
当時の部落解放運動のリーダー松田喜一さん、和島岩
吉先生、寺本知さんらがおりまして、カニの横ばい事件
を契機に、松本治一郎さんの参院副議長追放解除問題が
おこりました。そのなかで、私はいまの大阪府同和促進
協議会の和島先生のもとで、事務員のアルバイトをしま
した。
審請求するということで、事件の資料をお集めになって
いました。私は学生時代から、秋水のことを勉強してい
て、いろいろ親切に教えてもらいました。秋水も私と同
じ土佐人です。
部落解放運動の敵対物
土佐といえば、土佐清水市の漁師、ジョン万次郎がい
ますが、彼は台風に遇って鳥島の無人島に漂着し、アメ
リカの捕鯨船に救われるのですが、アメリカで専門学校
卒業までの勉強をしています。故郷忘れじ難く帰ってき
まして、武士の家に蟄居させられ、そこで、アメリカ事
情、議会制、大統領制など、かなり詳しく話しておりま
す。この武士、河田小龍というのは、坂本竜馬の姉と交
流があり、竜馬もこの話を聞いているのです。薩長連合
の倒幕の武力的な基礎は基本的には竜馬が築いたので
す。竜馬は『船中八策」というものを書き、いわゆる大
政奉還と近代曰本のレールを敷いているのですね。大政
奉還を実現していく上には、もちろん薩摩長州の武力を
背景にしていたが、それは竜馬の近代志向のレールが幸
いしたといえます。その土佐の英雄・竜馬に少年時代可
愛がられたのが、フランスに留学して、自由民権を勉強
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一千足らずの貴族的家族が、曰本国家権力である貴族院、
ものが生まれてくるのです。そして天皇一族とともに、
という、ここに天皇および皇族に対する特別な罪という
国家であり、しかも「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」
の貢献者であった西郷隆盛がやがて不平士族の頭領とし
いわば、社会的、政治的基盤なんです。こういう天皇制、
一九六八年に明治維新が成り立ちますが、近代化革命
し、東洋のルソーといわれる中江兆民です。
に土佐藩の不平士族集団は、隆盛と連合して武力蜂起を
主義社会のなかで創造され、再生され、維持されてきた
皇族、華族という特権階級の反対物として、近代の資本
て最後の反乱を起こしたのが、西南の役です。実は別個
準備していたが、密偵に早く摘発され、そして隆盛軍が
このような歴史的経緯のなかで悲劇的なのは、幸徳秋
るアンタッチャブルという思想と同様に、アンタッチャ
責任がある。憲法上、それ以外に責任の取りようがない
のです。そういう国家構造の問題が、被差別部落に対す
ありますが、天皇にも責任があったのではなく、天皇に
ものが、被差別部落というマイノリティーです。
考えておかなくてはいけないのは、宣戦の布告、講和
の締結、並びに外国との条約の締結、文武官僚の任命一
切は、天皇の大権なのです。長崎市長が襲われた事件が
城山で滅亡したため、武力蜂起ができなくなった。それ
がいわゆる言論による藩閥政治専制批判の土佐立志社の
士族民権運動の始まりです。これがやがて豪農民権、貧
農民権へと展開していく。板垣退助を頭領とする自由民
係でして、冤罪で殺されていくのです。そういう日本に
水です。彼はソシァリストですが、あの事件は全く無関
ブルとして、インピジプルとして隠されている。曰本の
権運動のプレーンにいたのが、中江兆民なのです。
おける国家権力の横暴性、天皇制というものの横暴性が、
ることがないのですが、ここに曰本の構造上の問題があ
社会科学者たちは、ほとんどこの問題をまともに追求す
部落解放運動の最も端的な敵対物にあるのです。
自由民権運動のなかで、福岡を中心に生まれた『復権
アメリカに来ないか、ということになり、その共同研究
の成果が、「ジ・インピジブルピジブルマイノリティ
の研究、部落問題の研究があることがわかった。そして
前ですから、結局、大阪に来て私と会い、部落解放運動
て多くの学者を訪ねたのですが、いまから二五年くらい
か」と怒っている。ところが大阪の方から見れば、東京
は人権砂漠です。ロジャー教授は東京で部落問題につい
イス」という本があって、これを通じて、アリゾナ大学
のロジャー・ヨシノ教授という社会学の先生が曰本に来
られました。いま私も東京に行くと、東京の人は、「大阪
なんかでは、何であれほど無理やり差別をせなあかんの
ぐらせてもらいました。『ジャパンズ・インビジアル・レ
ここに来させていただいてから、世界をかなり駆けめ
御世話になったわけです。
そのうち大阪教育大学の教授で『新らしい同和教育の
在り方』という本を出された盛田嘉徳先生が、大阪教育
大の非常勤講師にならんかと。一一、三年通い、そのうち
部落問題研究所時代から知っている原田伴彦先生から、
大阪市大に来ないかということで、四分の一世紀近く、
のです。
ろ問題があって嫌になっていたので、喜んで大阪に来た
ょうなことで、そのうち講師になったのですが、いろい
るし、思想上の問題がある。
同盟』が九州全域に波及します。そういう一つの歴史的
流れのなかで、曰本の近代というものが自覚されて来る
のですが、政府にそれを逆に横取りされて出てきたのが、
貴族制度の近代化です。五爵の制度といわれるものです。
「万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」というまさに天皇制の
勤評闘争と大阪の解放運動との出会い
こういうなかで、私はやがて部落解放団体高知県連合
会発足の後、高知県教育委員会の内地留学制度の留学生
を命じられ、京都大学人文科学研究所の井上清教授のも
とに留学いたします。主に被差別部落の米騒動を中心に
研究したのです。米騒動については、あまり認めてもら
えていないのですが、最初のステップを記したと自負し
ております。文部省も奨励研究という恰好で研究費をく
てきたのです。
れまして、曰本資本主義における部落問題の研究を続け
ところで、勤評闘争というのが、これまた私の人生を
狂わせました。一生懸命走って、後ろを見ると誰もいな
い。私だけが子どもたちと一緒にストなどをやっている。
そのうち私は弘岡農業高校に追放され、これは人生のな
かで一番楽しかった、思い出深い学校です。そういう点
では、私は権力に苛められると幸せになる男なのかもし
れません。そして、そのうち、西岡智さんから大阪にこ
ないかという話があり、大阪府の同和教育指導員になり
ました。その当時、高知大学の講師もしていました。粟
津龍智先生と一緒に調査したり、本を書いたり、という
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-』「見えざる顕わなる被差別集団」と訳しています。実
一緒にしているのです。こういうひどい歴史の事実が案
の他いろいろあるのだが、「穣多牛馬之部」と、牛や馬と
には、『憲章簿」という庄屋文書があって、そこに百姓そ
外隠されて出てこないこと白体に、曰本の歴史学、社会
は、見えないのではなく、それは見ようとしないのだ、
科学の嘘があると思っています。
と主張したかったのです。ロジャー教授は曰系二世で、
曰本人として差別の悲哀を感じていた方です。アメリカ
私は、|言でいえば、サイエンスは見えないものを見
ュニスト、ソシアリスト、アナーキスト、プッディスト、
由・平等・友愛の市民的論理の上に立っています。コミ
解放運動は今日まで、自由民権の歴史を踏まえた、自
日本の人権状況
では四五年前ですと、日本人と知ると、ホテルにも泊め
てくれなかった。そういう差別的体験の上に重ねあわせ、
ロジャー教授は『ジャパンズインピジプルレイス」
えるようにする、そういう作業だと思うのです。いま政
クリスチャンといるけれども、またそれぞれがやったよ
を読んで、日本を訪ねて来られたんです。
府は四、六○三地区を指定していますが、いまの政府が
って、当然確立してくる近代市民社会の自由・平等・友
うにいっているがそうではない。明治四年の解放令によ
愛の市民的論理を主張しているに過ぎない。ところがそ
ったのです。土佐の長曽我部検地帳を調べると、「坂者」
「芝者」という言葉が出てくるのですが、それがほとん
のことがあたかも「アカ」であり、解放運動の糾弾闘争
部落を作ったのではなくて、長い歴史的過程のなかで作
ど被差別部落に重なっている。ということは、この検地
を暴力であるかのようにいって排除しつつ、自分たちは、
非常に緩慢な姿勢の暴力で締め殺しているのです。人を
のが出てくるのは中世的反映です。部落を直接指す「穣
殺すと同時に、これだけ経済的な無駄もないわけです。
帳は、近世封建社会の基礎を成したのですが、そういう
う一一一一口葉はもっと前からです。もっと極端にいえば、大化
多」という言葉自体、鎌倉期にできている。「非人」とい
がまた差別の原因となる。これは経済学者の責任でもあ
差別によって失業者に落として、生活保護をして、それ
ります。教育学者に到っては論外です。私は勤評闘争の
にある。これらを無視して現代の差別は語れないのです。
差別の法的体系は、古代に成立しているのです。土佐藩
変わらないと思います。
の律令時代には、「良賤」という制度的差別が明確に法的
なかで感じましたが、教育の実態というものはひどいも
曰本人の人権に対する考え方の観念性は、明治以降の
をも左右できる、という国民支配の論理がそこに生まれ
ています。こういう国権主義の論理を打ち破らなければ
のです。
曰本という国は、まさに差別集団にされてしまってい
るのです。私たちが、国際人権規約批准のための運動を
したりするなかで、人権という概念をまるで犯罪のよう
に受け取る人たちがいるのです。曰本は六○番目ですか、
別性から脱却できないと思うのです。
国際人権規約の完全批准、人種差別撤廃条約の批准も
目前に迫っているけれども、アパルトヘイトに対する真
正面の批判が曰本はなかなかできにくい。レイシズムの
いけません。でないと、曰本の学問、教育、一切は、差
天皇制国家に基づく国権主義です。国家権力は一切人権
国際人権規約は一九七九年に批准されるのですが、選択
議定書には批准もしていません。
なぜ遅れたか。それを批准すると、法律に基づいて、
戦争の煽動宣伝とレイシズムの煽動宣伝などを禁止しな
くてはならない。憲法に定める言論の自由、ならびに表
現の自由に抵触する疑いがあるという政府の見解はまだ
宣伝煽動、並びに資金の援助、組織への参加に刑事罰を
科す犯罪とすることを、曰本政府はなかなか行わない。
大学の自治自由を守り、本当の意味の科学を発展させ、
学問を、教育を発展させるためには、人権に対する観念
的発想を打破して、少なくとも国民の生存権、自由、平
等を守る国民運動というか、|っの国民的合意性を作り
あげなくてはならない。それなくして、曰本の差別はな
であると思っています。ガンジーとともにインド独立運
ースト制度は、東洋における、曰本における差別の原型
私はインドにたびたび行っています。私はインドのカ
くならないと思う。
続いているのです。だから、選択議定書のなかでの、国
権主義に基づいて、個人が人権侵害された場合、その国
の最終的救済手段を講じても救われないときは、国連に
救済を求めることができる。これを最初から認めないの
です。同時に、憲法の「一一一一口論の自由」を楯にして差別す
動を闘い、初代司法大臣になったアンベードカル博士と
る自由の権利があるがごとくです。マスコミの論調も同
じで、朝曰新聞が、一九五六年、部落『三百万人の訴え』
を特集し、あれ以来、マスコミの潮流は変わったが、そ
れ以前は、百パーセントといっていいほど差別記事だっ
た。「差別する自由」を常に掲げる本質は現在もなかなか