社会的現実の構成 - Monday Ota

ジョン・R.サール
社会的現実の構成
John R. Searle
The Construction of Social Reality
1995
第7章
実在世界は存在するか
第1部:実在論への攻撃
これまで私は、説明を試みたという意味で、人間の合意ないし受け入れに依存してい
る事実の本性と構造を分析しようとしてきた。分析全体は私たちに依存する事実と私た
ちから独立して存在する事実の間の区別、一方で社会的、制度的事実と他方で生の事
実(brute fact)の間の区別と元々特徴づけた区別を前提にしている。今度は、分析し残
した区別を擁護する番、私たちから完全に独立した実在があるという考えを擁護する番
である。さらにこの本を通じて、私は一般に私たちの陳述が事実に対応する場合真であ
り、今度はこの前提を擁護する番である。人間の表象から独立した実在の存在を否定し、
真の陳述は事実に対応することを否定することの両方がありふれた、現代哲学シーンに
よってこのような擁護はさらに迫られている。この章と次の章は、実在論(realism)に関
するものである。最後の章は、真理の対応説(the correspondence theory of truth)
に関するものである。これらの問題の議論全体は、少なくとも別の本を必要とするだろう。
しかし、この本の目的にとっては、少なくとも現代の常識的科学的な世界観(world
view)を背景にしたある特定の前提を手短に明らかにする必要がある。なぜならこの本
の残りはその世界観について語るのではなく、これらの前提に依存するからである。これ
ら最後の三章は、いわば哲学的ゴミ掃除のための取り組みである。
私たちの現代的世界観のいくつかの前提
何が賭けられているか理解するため、私たちの世界観の前提のいくつかを、理解する
ことができるよう明るみに出す必要がある。私たちの世界観の形式的な特徴は第1章で
説明しようとした客観性(objectivity)と主観性(subjectivity)の区別である。曖昧さや
周辺的なケースの普通の問題 ― 深刻ではない問題 ― に加えて、この区別は認識論
的(epistemic)意味と存在論的(ontological)意味の間で体系的に曖昧である。認識
論的客観性/主観性と、存在論的客観性/主観性の区別に照らして、私たちは次の世
界観の構造的特徴を同定できる。
1.世界(言いかえれば、実在ないし宇宙)は私たちのその表象から独立して存在する。
この主張を「外的実在論」(external realism)と呼ぶ。私は後にその公式を洗練させた
い。
2.人間は自らにとってある世界の特徴にアクセスし、それを表象する相互につながっ
た様々な方法をもっている。これらには、知覚、思考、言語、信念、欲求、そして絵、地図、
表などがある。一般的用語を使うため、私はこれらを集合的に「表象」
(representations)と呼ぶ。そう定義された表象の特徴は、それらはすべて、信念や知
覚のような「本来的」(intrisic)志向性と地図や文のような「派生的」(derived)志向性
の両方の志向性をもつということである。
3.信念や陳述のような、これらの表象のいくつかは、どのように物が実在においてある
かについてであり、それを表象すると主張する。成功ないし失敗するにしたがい、それら
はそれぞれ真ないし偽と言われる。それらは実在における事実に表象が対応する場合、
その場合に限り真である。これが真理の対応説(のひとつのバージョン)である。
4. 一般的にボキャブラリーや概念枠組みのような表象の体系は人間の創造物であ
り、その程度にしたがって恣意的である。同じ実在の表象に関して、どれだけ多くでも表
象の異なる体系をもつことが可能である。このテーゼは「概念相対性」と呼ばれる。ふた
たび後に私はその公式を洗練さたいと思う。
5.実在の真なる表象をえるための実際の人間の努力はあらゆる種類の要因 ― 文化
的、経済的、心理学的など ― に影響される。完全に認識論的な客観性は、困難か場合
によっては不可能である。なぜなら、実際の研究は、あらゆる種類の人格的要因に動機
づけられ、ある特定の文化的歴史的文脈内にある視点につねに由来するからである。
6.知識をもつことは、ある特定の種類の理由や証拠を与えることができる真の表象を
もつことにある。知識はそのため、定義により、認識論的な意味で客観的である。なぜな
ら知識の基準は恣意的ではなく、個人的感情を交えないものであるからである。
知識は主題によって自然に分類されえるが、「科学」とか「科学的知識」と呼ばれる特
別な主題があるわけではない。ただ知識があるだけであり、「科学」は物理学や化学のよ
うに知識が体系的になった領域に適用するひとつの名前である。
客観的/主観的区別の認識論的ないし存在論的な区別に照らして、私たちはこう言
える。命題1(外的実在論)は存在論的に客観的な実在があるという主張にたいへん近
い。ふたつの主張は正確に等価ではない。なぜなら、表象から独立して実在がある(外的
実在論)は心から完全に独立して実在がある(存在論的に客観的)と言う主張と正確に
等価ではない。この区別の理由は、痛みのような心的状態は存在論的に主観的である
がそれは表象ではないということである。それらは表象独立的だが、心的独立ではない。
存在論的客観性は、外的実在論を含意する。なぜなら心的独立は表象独立を含意する
からである。だた逆は真ではない。たとえばパリは心的独立であることなく、表象独立で
ありえる。命題2は、存在論的主観性が、認識論的に主観的だろうと客観的だろうと、存
在論的に主観的だろうと客観的だろうと、私たちがアクセスするすべての実在へ、私たち
にアクセスさせることを含意する。命題5は認識論的客観性はしばしば得難いと言う。そ
して命題6は、私たちが本物の知識をもつなら、私たちは「定義により」認識論的に客観
的であると言う。
私は読者がこれら6つの命題が、あまりに明白で、なぜ私がそんな陳腐なもので読者
に退屈な思いをさせるのかといぶかしく思うのを期待するが、私はそれらを取り巻く大量
の混乱を報告しなければならない。命題1と命題3、実在論と対応説はそれぞれ、しばし
ば相互に混同される。さらに悪いことに、それらはしばしば反駁されたと考えらてている。
一部の哲学者は命題4、概念相対性が実在論にとって問題を産むと考える。一部の哲
学者は概念相対論は実在論を反駁すると考える。多くの哲学者は命題3、対応説は独
立に反駁されたと考えてきた。一部の文学理論家は命題6で述べられる客観的知識の
まさに可能性にとって問題をはらむと考え、おそらく命題1で表現された実在論を反駁す
るとさえ考える。
だからすることが何もないのを恐れるが、スピードを落とし、これらの問題の一部をギ
アをローにして、入念に調べる。問うことから始めよう。
実在論とはなにか?
予備的定式化として、実在論を世界が、それについての私たちの表象から独立して存
在するという主張と私は定義する。これは私たちが存在しなかったなら、どんな表象 ―
陳述、信念、知覚、思考など ― も存在しないなら、世界のほとんどは影響を受けなかい
ままだったであろうという帰結をもつ。私たちの表象によって構成されるか影響を受ける
世界の一角を除いて、世界はなお存在し、正確に今あるのと同じであったであろう。私た
ちが全員死亡し、私たちとともにすべての表象が失われる場合、世界のほとんどの特徴
は完全に影響を受けないままであるだろうということが帰結する。それらは以前と正確に
同じまま続く。たとえば私が自分や他の人々が表象するヒマラヤ山脈にある「エベレスト
山」のような山があると考えよう。エベレスト山は私や誰か他の者がそれや他の物をどの
よう表象するか、あるいは表象するかどうかとは独立して存在する。さらに、エベレスト山
の多くの特徴、たとえば「エベレスト山の頂上は雪と氷で覆われている」というような陳
述する場合、表象する種類の特徴がある。それは誰もどんな仕方でも表象しなくとも、
まったく影響を受けないままであり、これらの、あるいは他の表象が失われることによって
影響を受けないだろう。人は多くの言語=依存的特徴、事実、事態などがあると言ってこ
の点を指摘するかもしれない。しかし私は「表象」との関連でさらに一般的にその点を指
摘した。なぜなら私は単に言語だけでなく、また思考、知覚、信念からも世界は独立して
存在すると注意したいからである。肝心な点は、たいてい、実在はいかなる形式の志向
性にも依存しないということである。
哲学史において、「実在論」(realism)は幅広い様々な意味で用いられてきた。中世
の意味では、実在論は普遍(universals)が現実に存在するという学説である。今どき
は人は「様相実在論」(modal realism)、「倫理的実在論」(ethcal realism)、「志向的
実在論」(intentional realism)、「数学的実在論」(mathematical realism)などの話
を聞く。この議論の目的のために、私は「外的実在論」と「実在論」(短縮して ER)は前
のパラグラフで素描した見解を示すと規定している。問題の主張は、実在が私たちの表
象体系の外部に存在する、表象体系に外的に存在することを肯定するという事実を際
立たせるため「外的」(external)というメタファーを使う。
実在論に賛成または反対する議論を検証する前に、私たちはそれとしばしば同じと考
えられる他の主張からそれを区別する必要がある。第一の混乱は、実在論は真理の対
応説と同じか、少なくとも含意すると考えることである。だが実在論は真理論ではない。
そしてそれはどんな真理論も含意しない。厳密に言って、実在論はどんな真理論とも矛
盾しない。なぜならそれは存在論の理論であり、「真」についての意味の理論ではないか
らである。それはまったく意味論的理論ではない。そのため外的実在論を肯定し、対応
説を否定することは可能である。(1) 標準的な解釈に関して、真である場合、陳述が対
応する実在があることを含意するため、対応説が実在論を含意する。だが実在論は、「真
理」が陳述と実在の間の対応関係の名前であることを含意しないため、実在論はそれ
自体対応説を含意しない。
別の誤解は実在論について何か認識論があると考えることである。そのためたとえば、
ヒラリー・パットナムはこう書く。(2)
実在論の全内容は神の視点(もっとましに言えばどこでもない視点)の思考に
とって意味をなすという主張にある。
だがそれは通常解釈される実在論の内容ではない。反対に「視点」の全観念はすで
に認識論的であり、外的実在論は認識論的ではない。いかなる種類の実在の「視点」も
まったく不可能であると考えることは、実在論と矛盾しないだろう。事実、ある解釈に関し、
カントの物自体説はいかなる「視点」にもアクセス不可能である実在の概念である。私は
17世紀以来もっともありふれた反実在論は認識論であったが ― ある種の物、「私たち
が知りうるものはすべて私たち自身のセンスデータである」 ー 攻撃されているテーゼ、
実在論は、まったく認識論的テーゼを主張するようなものではまったくない。私は実在論
に反対する認識論的議論について後でさらに多く言うべきことがある。
第三の、やはりありふれた誤りは、実在論は、実在自体がどのように実在を記述すべき
か決定しなければならないという、実在を記述するひとつの最良のボキャブラリーである
という理論を主張していると考えることだ。だが、繰り返すが、上述した通り外的実在論
にそんな含意はない。世界の私たちの表象から独立して世界は存在するという主張は、
それを記述する特権的なボキャブラリーをもつことを含意しない。それは様々に異なり、そ
して通訳不能なボキャブラリーが私たちの様々に異なる目的に対する実在の異なる側面
を記述するために構成することができる概念相対性(命題4)のテーゼを主張する外的
実在論と矛盾しない。
これらの点を要約すれば、私がこの言葉を使っている通りの実在論は、真理論ではな
い。それは知識の理論ではない。そして言語の理論ではない。単純に分類するなら、実
在論は「存在論的」理論であると言えるかもしれない。それは私たちの表象から完全に
独立した実在が存在するという言うのである。
哲学的伝統において、私が暴き取り除く必要がある実在論の概念において広くゆき
わたった曖昧さがさらにある。通常、これらの問題を議論する哲学者たちは、あたかも彼
らが世界が実際どのようにあるかに関心があるかのようにそれらの問題を扱う。彼らはい
わば、実在論と観念論の間の問題は時空における物の存在についてのものだとか、対
象にについてのものだとか考える。これは非常に根深い誤りである。適切に理解するなら、
実在論は世界がどのように実際あるかについてのテーゼではない。私たちはどのように
すべての詳細において世界があるかについて完全に誤りえるが、実在論はなお真であり
える。「実在論は物がすべての人間の表象から論理的に独立しているというあり方があ
るという主張である。実在論は物がどのようにあるかについては語らないが、物があるあ
り方があるとだけ言う」。そしてこのふたつの文における「物」(thing)は物質的対象
(material object)あるいは単に対象(object)を意味しない。それは“It's raining”の
“it”のようであり、指示的表現ではない。
その問題が、論争者たちが実際に議論していると考えいたことなら、それが物質につ
いての主題であり、また時空における物質的対象についての特定の主張に関わりがない
と私が主張するのは僭越にみえるだろう。だが私はその問題が、そのような特殊な主張
についてのものではありえないということが明確なことを望む。実在論は、たとえばエベ
レスト山の存在を主張する理論ではありえない。なぜならエベレスト山が存在しなかった
としても、実在論は無傷のままであるからである。そしてエベレスト山について真であるこ
とは一般に物質的対象について真である。だが物質的対象が存在しないとか、時空が
存在しないとしたらどうだろう?さて、ある意味ではそれは既に起きてしまったことである。
なぜなら、それ自体は物質的対象ではないが質量/エネルギーの点として考えるのが
最善である「粒子」の集合として、今日、物質的対象を考えるからである。そして絶対空
間と時間は、座標系に対する関係の集合に変貌した。これは実在論と矛盾しないだけで
はない。そうではなく、後に論じるとおり、それはすべて実在論を前提している。それは物
のあり方を表象する仕方から独立して物がある仕方があることを前提しているのである。
だが、いくつか SF 的思考実験を続けよう。物理的実在が、最後の意識的行為者の最
後の死を持って、すべての物理的実在が、ある種の「反ビングバン」で吹き飛ばされると
いうような仕方で、因果的に意識に依存しているということになると仮定してほしい。そ
れはなお外的実在論と矛盾しないだろうか?矛盾しないだろう。なぜなら意識における物
質の仮定された依存はどんな他のものと同じように因果的に依存しているからである。
実在論が、実在は意識や他の形式の表象から独立して存在するとき、なんら因果的主
張はなされないか、含意されない。そうではなくその主張は、実在は、何ら論理的に独立
性がない表象によって「論理的に構成される」ことはないという主張なのである。
「だが存在する存在した唯一の物が、物質的でない意識の状態であることになると考
えてほしい。たしかにそれは実在論と矛盾し、観念論(idealism)や少なくとの反実在論
の一部の他のバージョンの擁護である」。
いいや、必ずしもそうではない。実在論は世界が、他ではなく、ある特定の仕方でなけ
ればければならなかったとは言わなない。そうではなく世界の表象から独立して世界が
あったという仕方があると言うのである。表象はひとつのものであり、表象される実在は
別のものであり、たとえ唯一の実際の実在が精神状態であることになったとしても、これ
は真である。実在論と反実在論の違いを理解するひとつの仕方は、こうである。実在論
的見方では、意識状態だけが存在するなら、船や靴や封蝋が存在しないという主張は、
他のものと同じく外的実在についての主張である。それはそれらが存在するという主張
と同じく実在論を前提している。反実在論者の主張では、そのような物が存在するなら、
それは必然的に私たちの表象によって構成されており、それらは表象から独立して存在
することはありえないのである。たとえば、バークリーによれば、船や靴や封蝋は意識状
態の集合でなければならない。反実在論者にとって、心=独立的実在があることは不可
能なのである。実在論者にとって、たとえ実際物質的対象がなくても、なお表象=独立的
実在はある。というのも物質的対象の非存在は、その表象=独立的実在のひとつの特徴
だからである。世界は実在論と矛盾なく、違うものでありえたが、実際世界は時空の物質
的現象をもつことになったのである。
(別の定式化:実在論者にとって単に、表象以上のモノがあるということが「ありえた」
というだけではなく、実際そのように「なった」ということである。反実在論者にとって、表
象=独立的なモノがあるということはありえなかったのである)。
奇妙にも、実在論者は最近哲学や他の学問領域の両方から攻撃を受けてきた。マイ
ケル・ダメット、ネルソン・グッドマン、トーマス・クーン、ポール・ファイヤーアーベント、ヒラ
リーパットナム、リチャード・ローティ、ジャック・デリダ、ウンベルト・マトゥラーナ、フラン
チェスコ・バレーラ、テリー・ウィノグラードらは、私たちの表象から完全に独立して実在が
あるという私たちの実在の素朴な仮定に挑戦するようしばしば解釈されている(つねに
そうだとは思わないが)。一部の科学者は現代物理学は実在論と矛盾すると主張さえし
てきた。そのため J.R.ホイーラーはこう書く。
宇宙は私たちから独立して「外部に」存在するのではない。私たちは起こっている
ようにみえるをことを起こすことに不可避に巻き込まれている。私たちは観察者で
あるだけでなく、現在や未来と同様に過去を作ることにおける参加者である。(3)
実在論へのこれらすべての攻撃についてはいくつかの心もとない点がある。第一のも
のは独立した実在が存在するという常識的考えに反する議論はしばしば曖昧で不明瞭
だということである。ときにはまったくはっきり述べられない議論が提示されさえする。第
二は、代わりとなる見解、実在論に反対すると提示されると考えられる見解はしばしば等
しく曖昧ではっきり述べられない。分析哲学者の中でさえ、実在論の最近の多くの議論
は過去数十年にわたって生じた一般的なゆるさの現れである。主張されている命題は
正確に何なのか?それが否定していることは正確に何なのか?そして主張していること
と否定していることの両方についての議論は正確に何なのか?これらの問題についての
ほとんどの議論における問いへの答えについては虚しさしかない。私はさらにこの一般
的な不注意は偶然ではないと考える。「私たち」の都合がいいと考えるように、未来の変
化を意のままに変えられると前提として、なんらかの形で、現実自体ではなく、社会的に
構成された世界を「私たち」が作ると考える私たちの権力への意志を満足させるもので
ある。そしてこれらすべては脱構築が知的に受け入れ可能であるとか、エキサイティング
だとかさえおもえるような反実在論者「ポスト構造主義」のバージョンを生む一般的知的
雰囲気の一部なのである。だが一旦あなただその開かれた、裸の、仮面を取った形で反
実在論の主張や議論を述べるなら、それはかなり馬鹿げてみえる。その結果がその曖昧
さとこれらの議論の多くの(すべてではないが)曖昧主義でさえあるのである。@
そのため私はひとつの問題をもつ。私は実在論に加えられる攻撃に対して実在論を擁
護すると言ったが、率直に言って答えるに値するいかなる強力な攻撃も見つけるのが難
しかったのである。マトゥラーナはオートポエティック・システムとしての神経システムが
それ自体の実在を構成するという考えを支持して、「客観的実在」の考えを拒否する。
(4) その議論は、オートポエティック・システムによって構成された「合意領域」における
実在の社会的構成を通じて以外、私たちは実在の概念も、実在に対するアクセスももた
ないため、生物システムから独立して存在する実在はないということのようにおもえる。こ
の見解に対して私はこう言いたい。実在についての私たちの知識/概念/絵が人間の
相互作用における人間の脳にょって構成されるという事実から、私たちが知識/概念/
絵をもつ「実在」が、人間の相互作用における人間によって構成されるということは帰結
しない。私たちの外的世界の知識の集合的神経生物学的因果的説明から外的世界の
非存在を推論するのは、ただの誤謬推論、発生論的誤謬である。
ウィノグラードは、同一の文、「冷蔵庫に水がある」はバックグラウンドの関心のある集
合に相対的に偽の陳述をするためにも、別の関心に相対的に真の陳述をするためにも
用いることができると指摘する。(5) これから彼は実在は私たちの表象から独立して存
在しないと結論する。マトゥラーナ同様繰り返すが、その結論は帰結しない。実在の私た
ちの表象の関心=相対性は表象される実在それ自体が関心=相対的であること示さな
い。いくつかの「ポストモダニスト」の文学理論はすべての知識は社会的に構成されてお
り、すべての恣意性となんらかの社会構造の権力への意志を前提にしているため、それ
ゆえ実在論はとにかく脅かされていると論じてきた。ジョージ・レヴァインは「反実在論は、
文学的反実在論でさえ無媒介な知識の不可能性の意味に依存している」と書く(6) 私
が言える限りで、デリダは議論をしていない。彼は単にテキストの外部はない(Il n'y a
pas de “hors texte”)と宣言するだけである。そしてどんな場合でも、私のいくつかの
反対に対するその後の論争的な反論において、彼はあからさまにすべて振り出しに戻る。
彼は「テキスト」の外部はないというあからさまに見世物的な宣言によって、彼が意味し
ているすべては、すべてはなんらかの「文脈」の中に存在しているという取るに足らない
意見か何かである!(7) その場合、ばかばかしいとしかみえない結論についての薄弱な、
あるいは実在さえしない議論の長たらしい言葉の羅列に直面した人はいったい何かや
ることがあるのだろうか?
次の私の戦略は、私が外的実在論に反対するもっとも強力な議論と考える物を取り
上げ、それに応えるということである。私が反実在論に説得されたとしよう。何が特に私を
説得したのだろうか?あるいはそれがあまりにもって回ったようにみえるなら、人間性の
運命が、私が反実在論の他の誰かを説得することにあると仮定するなら、どんな議論を
私は使うのだろうか?私は三つの議論を検討する。「概念相対主義」に由来する議論、
「検証主義」議論、私が「物自体」(Ding an sich)議論と呼ぶものである。
実在論に反対する概念相対性に由来する議論
概念相対性の議論は、上述の命題4、概念相対性は、命題1、外的実在論を反駁する
ということである。
概念相対性の考えは、古く、そして私は正しい考えだと思う。どんな分類体系も、対象
の個別化も、世界を記述するどんなカテゴリーの集合も、実際どんな表象体系も、慣習
的であリ、その程度に応じて恣意的である。世界は私たちが分ける仕方で分かれている。
そして私たちが世界を分割する現在の方法が正しいものだと考える傾向があるなら、あ
るいは避け難いなら、私たちはつねに別の分類体系を想像することができる。これを自
分で図示するには、チョークで、あなたの本を横切ってテーブルまで線を引き、さら本の
背後を回ってもとの線につながるように線を引けばいいのである。そして線で区切られた
本とテーブルの表面の一部をなす新たな対象に名前をつける。この対象を「クラーグ」
(klurg)と呼ぶ。私たちは自分の言語でこの概念の使用法をもたない。だが、水中で活
動する聖なる処女たちだけが線を引くことができ、それらの消滅が死の罰に値するとい
う偉大な宗教的意義をクラーグがもつ文化を想像するのはたやすい。だが「クラーグ」が
以前聞いたことがない真理条件をもつ新しい概念なら、どれだけ多くの新しい概念を作
ることができるかには限界がない。世界のいかなる真なる記述もつねになんらかのボ
キャブラリー内、なんらかの概念体系内でなされるため、概念相対性はいかなる記述も
つねに、私たちが多かれ少なかれ世界を記述するために恣意的に選択した、なんらかの
概念体系に相対的になされるという帰結を持つ。
訳注;klurg のイメージ
そのように特徴づけると、概念相対性は、完全に実に平凡な真であるようにみえる。し
かし何人かの哲学者たちは、それは外的実在論と矛盾し、結果的に私たちが概念相対
主義を受け入れた場合、我々は実在論を否定することを余儀なくされると考えたのであ
る。だがこの主張が本当に真なら、私たちは矛盾がまったく明白であるために正確に十
分なふたつのテーゼを述べることができなければならない。
外的実在論 ER は次の主張とする:
ER1:実在はその表象から独立して存在する。
概念相対主義(CR:Conseptual Relativeism)は次の主張だとする:
CR1:実在のすべての表象は多かれ少なかれ概念の恣意的に選択された集合
に相対的に作られる。
そう述べるなら、これらふたつの主張は矛盾の「見かけ」をもつことさえない。第一の
テーゼは、単に記述されるべきものが外部に何かあると言うだけである。第二のテーゼ
は私たちはそれを記述するための概念やボキャブラリーの集合を選択しなければならな
いと言うだけである。だからなぜ人は第二のテーゼが第一のテーゼの否定を必然的にと
もなうと考えるのか?答えは、もし私たちが概念相対主義を受け入れ、実在論と結合する
なら、私たちは矛盾するようにおもえるのである。
パットナムによる次の例を検討しよう。(8) 図 7.1 で示すような世界のなんらかの部分
があると想像してほしい。
図 7.1
このミニワールドには何個モノがあるか?さて、カルナップの数学体系によれば(およ
び常識によれば)、3個ある。しかしレスニエウスキと他のポーランドの数学者によれば、
この世界には次のように数えて 7 個ある。
1=A
2=B
3=C
4=A+B
5=A+C
6=B+C
7=A+B+C
それでこの空想の世界には何個モノがあるか?3個か7個か?この問いに絶対的な答
えはない。私たちができる唯一の答えは、概念枠組みの恣意的選択に相対的なのであ
る。同一の文、すなわち「正確に 3 個その世界にはモノがある」はある枠組みでは真であ
り、他の枠組みでは偽である。議論の核心は、仮定的に独立して存在する実在の矛盾し
た記述を認めるため、外的実在論は矛盾にいたるということである。
グッドマンにおいて議論が生じる形式は、他ではなく特定の境界を描くことによって私
たちは独自の方法で実在を作る、あるいはグッドマンの好む言い方では、私たちは「世界
を制作する」ということである。たとえば、グッドマンはこう言う。
さて私たちはこのように他ではなく特定の星を選び、まとめることによって星座を
作るように、他ではなく特定の境界を描くことによって、星々を作るのである。空が
星座か他のものに区別されるべきかどうか命ずるものはなにもないように、私たち
は、それが大熊座、シリウス、食物、燃料またはステレオ装置であると発見するも
のを作らなければならない。(9)
グッドマンは実在論を拒否し、私たちが作る「世界」に記述される事実に相対化する
ことによって矛盾を巧みに逃れる。パットナムは心=独立的実在があると考える代わりに
私たちは、「心と世界が共同で心と世界を作り上げる」というべきだと言う。(10)
だが、このように考えられた矛盾は本当に問題なのか?ミニワールドの例について、説
得された概念相対論者である実在論者は、モノを数えることが第一の分類体系で設定
されるため、実在的に3個のモノがあり、基準が第二で設定されるため、実在的に7個の
モノがある言うだろう。そしてこの答えは外的実在論を修正したり、放棄するのではなく、
単にモノを数える基準がふたつの違う方法で設定されたことを指摘することによって見
かけの矛盾を取り除く。そのため同一の文、すなわち「世界に正確に3個のモノがある」
は、今度はふたつのまったく異なる独立した、ひとつは真の、もうひとつは偽の陳述を作
るために使用できる。だが実在世界はそれを私たちがどのようにそれを記述しようと構わ
ないし、それに私たちが与える様々な異なる記述の下で同じままである。
文献で与えられる概念相対論の例のいくつかは、私が与えたものより難解で複雑で
あるが、それらが採用する原理は同じであり、私は複雑さで何かが得られるとは理解で
きない。それらはみな、異なる概念体系が、同じ「実在」の異なる、明らかに矛盾した記述
を生むことを示すよう作られている。私が理解できるかぎり、外的実在論と矛盾するどん
なものもない。矛盾の見かけは幻想であり、これらの主張の自然な解釈に関して、もっと
も素朴な実在論のバージョンを受け入れ、どんな概念相対主義のバージョンを受け入れ
ても、矛盾はない。
このように実在論と概念相対主義の関係を考えてほしい。世界の一角、たとえばヒマ
ラヤ山脈を取り上げ、それをどんな人間の存在にも先立つ存在すると考えてほしい。さて
人間たちが現れて、様々な異なる方法で、その事実を表象すると想像してほしい。彼らは
異なるボキャブラリーをもち、異なる地図を制作するシステムをもち、同じ山をひとつの山、
ふたつの山などと数える異なる方法をもつ。ついで最終的に人間がすっかり存在しなく
なると想像してほしい。さてヒマラヤ山脈の存在とこれら栄枯盛衰の中におけるヒマラヤ
山脈についてのすべての事実に何が起こるのか?絶対に何もない。事実やモノなどの異
なる記述が生じ消えるが、事実やモノなどは何の影響も受けないままである(これを疑え
る人は本当にいるのか?)。
代替的な概念枠組みが同じ現実の異なる記述を認めるという事実、すべての概念枠
組みの外部に実在の記述はないと言う事実は、実在論の真理とどんな関係もない。
だが、異なる概念枠組みに相対的である矛盾した記述の、グッドマンが提起した可能
性についてはどうなのか?事例を注意深く見る代わりの方法ないので、どのように外的
実在論が代替的なボキャブラリーを扱うか事例を検討しよう。重さ、すなわち地球の表面
の質量の重力的引力に関する場合、私が完全な素朴外的実在論者であると仮定しよう。
私の体重は誰がなんと言おうと160だと思う。だが待て!私の体重はポンドでは160だが
キログラムではたった73しかない。だから私の体重は本当はどれくらいなのか?160か7
3か?私は両方の答えが正しいことが明らかなことを望む。矛盾の見かけは見かけでし
かない。なぜなら、私の体重がポンドで160だと言う主張は、私の体重がキログラムで73
だという主張と一致するからである。外的実在論は、異なる概念枠組みに相対的である
同じ実在の無限の数の真なる記述を認める。「哲学における私の目的はなにか?偽りの
ナンセンスを明白なナンセンスに変えることを君に教えることだ」(11) 概念相対主義が
反実在論を含意するというのは偽りのナンセンスである。私の体重が同時に160(ポン
ド)でありかつ73(キログラム)でありえないと言うのは明白なナンセンスである。
さらに、概念相対性が実在論に反対する議論として使われるなら、それは実在論を前
提にするようにおもえる。なぜならそれは異なるボキャブラリーによって、異なる方法で切
り分け、あるいは分割できる言語=依存的な実在を前提するからである。代替的算術の
例を考えてほしい。パットナムはミニワールドを記述するひとつの方法は3個のものがあ
ると言うことであり、別の方法は7個のものがあると言うことだと指摘した。しかし、まさに
この主張が記述の適用に先立って記述される何かがあることを前提にしているのである。
さもなければ、私たちはその例を理解することができる方法さえない。そしてグッドマンが
「私たちは他ではなく、特定の境界を描くことによって星を作る」と書くとき、私たちが境
界を描くことができる何かを前提することなく、その主張を理解する方法はない。私たち
が境界を描くことができる領域がすでにあるのではないなら、いかなる境界を描く可能
性もない。
これらの議論を外的実在論に反対するものとみなそうとするなら、私たちは大量の使
用=言及の誤謬(use-mention fallacy)を犯す。言語的カテゴリーの集合に相対的に
のみ、「記述」することができるということから、「記述される事実/モノ/事態/など」が
カテゴリーの集合に相対的にのみ「存在する」ことは帰結しない。概念相対主義は、適切
に理解されるなら、どのように私たちの言葉の適用を決めるかの説明である。言葉「猫」
「キログラム」「渓谷」(あるいは「クラーグ」)の正しい適用とみなされるものは、私たちの
決定次第であり、その程度にしたがって恣意的である。「だが、一旦恣意的定義により私
たちのボキャブラリーの中でそのような言葉の意味を決めたなら、世界の表象=依存的
諸特徴がその定義を充足するかどうかは、もはやなんらかの種類の相対主義ないし恣
意性の問題ではない。なぜなら定義を充足するか失敗するかは、その定義や他のどんな
定義からも独立しているからである」。私たちは恣意的にしかじかの仕方で言葉「猫」を
定義する。そしてしかじかの定義に相対的にのみ、私たちは「それは猫だ」と言うことが
できる。だが一旦私たちが定義をし、一旦定義の体系に相対的な概念を適用するなら、
何かが私たちの定義を充足するかしないかは、もはや恣意的でも相対的でもない。私た
ちが、私たちのやり方で言葉「猫」を使うことは、私たち次第である。その使用から独立し
て存在するモノがあるということはただの(絶対的、本来的、心=独立的)事実の問題で
ある。グッドマンとは反対に、私たちは「世界」を作らない。私たちは実際の世界に適合す
るか、適合に失敗するかを「記述」する。だがこれはすべて、私たちの概念体系から独立
して存在する実在があることを含意する。そのような実在なしに、概念を適用するものは
なにもない。
外的実在論と矛盾する概念相対主義のバージョンを手に入れるためには、私たちは
同じ陳述(同じ文ではなく同じ陳述)がある概念体系における世界についてではありえる
が他の概念体系では世界について偽でありえることを含意するバージョンをもたなけれ
ばならないだろう。私はおよそバカバカしくないような例も見たことがない。私たちがなん
らかの実在の領域を表象する異なるモデル、いわばアリストテレス物理学とニュートン物
理学や、地球の表面のメルカトール図法と標準的な地球儀がある考えてほしい。さてメ
ルカトール図法においてグリーンランドはブラジルより大きいが、地球儀ではグリーンラ
ンドはブラジルとほぼ同じである。だから私たちは同じ実在の共に真であるふたつのモ
デルをもっているのではなく、事実互いに矛盾するモデルをもっているのではないか?答
えはノーだ。メルカトール図法は、ブラジルとグリーンランドの相対的大きさについて単に
不正確なだけである。特定のあるモデル、すなわちアリストテレス物理学やメルカトール
図法は、世界のある特定の特徴について誤りか、歪めていることはよく知られたことであ
る。
世界についてのすべての真なる陳述は互いに矛盾せず肯定できる。実際にそれらが
互いに矛盾せず肯定できないなら、まったく真ではありえない。もちろん私たちは曖昧さ、
不確定性、家族的類似性、開かれたテキスト性、文脈依存性、理論の非整合性、両義性、
理論構成に関与する理想化、代替的解釈、証拠による理論の決定不全、など爾余のす
べてに常に直面する。だがこれらは、私たちの表象体系の諸特徴であるが、これら体系
の一部が表象するのに、多かれ少なかれ、使うことができる表象=独立的な実在の特徴
ではないのである。しばしば同じ文が、ひとつの概念的枠組み内では真を主張するのに
用いられ、別の概念枠組みでは偽を主張するのに用いらることがありえる。だがこれはこ
れまで繰り返し見てきたとおり、本当の矛盾を示すのではない。
検証主義者の議論
20世紀哲学は言語と意味に取り憑かれてきた。それは、誰かが言語や意味を離れて
は何も存在しないという考えを示すことはおそらく避けがたいというのが理由である。20
世紀前半は経験と知識に取り憑かれており、それに呼応して哲学者たちは経験と知識
から独立して実在は存在しないという考えを示した。17世紀以来、西欧哲学史において、
ほとんどの反実在論のありふれた議論は認識論的理由に由来してきた。
実在論に反対する検証主義者の議論の背後にある基本的哲学的動機は、最初に懐
疑論が可能になる見かけと実在の間、裂け目を取り除くことによって懐疑論の可能性を
排除しようとすることだったと私は思う。実在が経験でない何かであるなら、私たちの経
験がなんらかの形で実在について構成的なら、その場合実在に対する経験を決して取り
除くことができないと言う懐疑論の形式には答えられない。
これはカントの超越論的観念論がバークリーでみるよりも洗練された観念論の変種
である哲学における頑迷な主張である。そして同じ主張が、他の人が表現の使用によっ
て意味したものを本当に理解したことを疑いえることについて、私的に残るものはないた
め、「公共的」用語で、あるいは「行動主義的に」さえ意味を分析する様々な努力の形で2
0世紀後半まで生き残ったのである。
しかしたとえ私がこの診断について正しいとしても、実際の議論に答えるものではな
い。だから私は実在論に反対するもっとも強力な検証主義理論と私が考えるものをここ
で提示したい。それはこんな感じだ。
あなたが本当に何を知っているか自問してほしい。私は「本当に」(really)知って
いると言っている。さて、あなたは椅子に座り、目の前に机があり、コンピュータ・ス
クリーンを見ていると本当に知っていると言うかもしれない。だがそれについて考
えるなら、本当に知っているものは、あなたがある経験をもっているということだと
理解するだろう。だからあなたが椅子や机やコンピュータ・スクリーンについてそ
れらの主張をするとき、あなたはあなたの経験について語っているか、あなたが本
当は知らない何かについて語っているかのいずれかである。さらにあなたが経験
以上の何かについて語ろうとするなら、あなたは自分が知りえない何かについて
語っていることになるのである。あなたがどのように世界について知るかを尋ねる
なら、答えはこうでなければならない。あなたの経験によって。だがその場合あなた
はジレンマに直面する。あなたが知っているという主張は、あなたの経験内容を単
に報告しているか、その内容を超えたものを主張しているのか?前者ならその場
合、あなたの経験内容以外知られるものはない。後者ならあなたは検証できない
主張をしているのだ。なぜならすべての検証は経験にあり、かつあなたは、仮定に
より経験するものを超えた主張しているのである。
たとえば、私が今目の前に机があると知っていると主張する。そのような主張は何を意
味するのか。さて、私が直接的な知識を持つすべてのものは、触覚的、視覚的経験であ
る。そして私 ― あるいは他の誰か ― が直接的な知識を持ちえたすべてのものは、その
ような経験以上のものである。だから私の元の主張はどうなるのか?実際かつ可能な経
験(20世紀のジャーゴンでは「センスデータ」と呼ばれ、17世紀のジャーゴンでは「観念」
とか「印象」と呼ばれた)があるという主張になるか、あるいはもし何かそれ以上が主張
されるなら、その場合いかなる研究にも完全に知りえない、アクセスできない何かについ
ての主張がなければならないことになるかのいずれかである。そのような主張は経験的
に空虚である。結論は明白である。経験は実在について構成的である。
この議論は何人もの著者たちの中で起こり、結論は様々なボキャブラリーで述べられ
てきた。対象は観念の集まりである(バークリー)。対象は感覚の恒久的可能性である(ミ
ル)。経験的陳述は、センスデータについての陳述に残余なく翻訳することができる(20
世紀の現象論)。バークリーは「もし物質が存在したなら、私たちはそれを決して知りえな
いだろう。存在しないならすべては同じままである」と言って、この議論をほぼ要約する。
その議論にはふたつの要素があるように私にはおもえる。第一のものは、私たちが知
覚するものはすべて、自分自身の経験である。それゆえ経験を超えた実在があると仮定
するなら、それは不可知であり、最終的に理解不可能である。第二のものは、第一のもの
の拡張である。それは実在世界についての主張にため私たちがもつ唯一の基礎は私た
ちの経験であると言う。それゆえ実在世界についての主張が経験内容を越えるなら、仮
定により、私たちは何ら認識論的基礎をもたない何かを前提にしている。
私は両方の要素とも誤りであると思う。ひとつずつ検討しよう。人が意識的に何かを知
覚する場合いつでも人はある特定の経験をもつというのは実際真である。たとえばすべ
ての知覚に対して、対応する視覚経験がある。発話の形式的様式において、「私は机を
見る」と報告することは、「私はある特定の種類の視覚経験をもっている」を含意する。だ
が、視覚経験が視覚的知覚の本質的構成要素であるという事実から、視覚経験が知覚
される経験であることは帰結しない。要するに人が実在世界を知覚するその知覚器官を
用いる場合いつでも実在する世界に直接アクセスしないということは帰結しない。その
ため、たとえば今すぐ私は目の前の机を見る。そのようなケースで、私は単に机を知覚す
る。そうすることで、私は知覚経験をもつが、知覚経験は知覚対象でもなく、あるいは机
がそこにあると私が結論する基礎の証拠でもない。私はここに机があるという「証拠」の
基礎に基づいて「結論する」のではない。そうではなく私は単純にそれを見るのである。
だから議論の第一の要素、すなわち、知覚経験で私たちがアクセスするものはすべて知
覚事態の内容であるというのは誤りである。(12)
私は第二要素もまた誤りだと思う。議論のため、私の前に机があるという私の現在の
種のための認識論的基礎が私の現在の感覚経験の存在であり、そこに机があると言う
主張 ― 常識的に素朴実在論の仕方で理解するなら ― 私の経験についての陳述の単
なる要約以上のことを述べるということを認めてほしい。何が帰結するか?机がそこにあ
ると言う主張は、不可知な何か、なんらかの可能な証拠あるいは他の認識論的基礎を超
えた何かを述べているのか?私の知識にとっての認識論的基礎が私の現在の経験であ
るという事実から、私が知ることができるすべては、私の経験であるということは帰結し
ない。反対に、私が例を記述した仕方は、正確に私の経験が、それ自体経験ではない何
かへのアクセスを私にさせるケースである。一般に経験的主張がそうする認識論的基礎
を越えるということは哲学でおなじみの点である。たとえば、科学的仮説が利用可能な
証拠単なる要約であるなら、それを行うことに利点はほとんどないだろう。
しかしこの点で反実在論者たちの擁護者は次のように言うことを望むだろう。
反実在論者に対するこれらの答えを提示する際、あなたは暗黙のうちにあなたが
実在世界における心=独立的なモノを本当に知覚していることを前提していたが、
それは正確にあなたが前提する資格がないものである。議論の全体の要点は、あ
なたは正確にこれらの経験を持つことができ、かついかなる机もそこにないという
ことである。だがそれが真なら、その場合そこに机があるというあなたの「結論」の
ための「証拠」を提供するものとして経験を考えるかどうかは重要ではない。要点
は机がそこにあるというあなたの自信のためにあなたがもつ唯一の基礎は、これ
らのセンスデータの現前であり、机がセンスデータ以上の何かであると考えるなら
それは、あなたは正確にこれらの経験を持つことができるため、その自信を正当
化するには十分ではなく、完全に誤りであるということである。外的実在の仮定は、
本質的に不可知であり、究極的に理解不可能な何かの仮定である。
これに対する答えは何か?この議論で、私は一般的懐疑論に答えようとはしていない。
それはこの本の範囲を超える一群の問いだからだ。だからこの議論のため、私がこれら
経験的内容を正確にもっており、完全な幻覚をもっているかもしれないと認めてほしい。
私は伝統的認識論の恐怖にすっかり服従しているかもしれない。私は水槽の脳であり、
悪魔に欺かれており、夢を見ているのかもしれないなど。だが目前に机があると言う私の
主張は単に私にその主張をさせる経験の要約であるということは帰結しない。すなわち
たとえ懐疑論が正しくても、そして私が系統的に誤っていても、「私が誤っているものは
実在世界の諸特徴である」。そのような諸特徴について系統的に誤っている可能性は、
私のそれについての主張が単なる私の感覚的経験についての陳述の要約であることは
示さない。
これらは古代の戦場である。そしてその風景は認識論の戦争によってひどく荒廃して
いるが、私は哲学的領土の基本的な論理的地理学は単純で容易に認識できる。反実在
論を支持する検証主義者の議論は次のとおりである。
1. 私たちが知覚においてアクセスするすべては私たち自身の経験内容である。
2. 外的世界について主張するため私たちがもつことができる唯一の認識論的基礎
は私たちの知覚経験である。
それゆえ、
3. 私たちが有意味に語ることができる唯一の実在は、知覚経験の実在だけである。
私は陳述1が偽だと論じてきた。私たちは通常、世界のモノや事態を知覚する。さらに
私は陳述2は真だが、陳述3を含意しないと議論してきた。経験的主張がその証拠に基
づく、あるいは認識論的な基礎の要約として理解される程度にのみ有意味であると考え
るのは誤りである。最終的に、私は根本的な誤りの可能性、懐疑論が提起する可能性は
関係ないと主張した。たとえ、私たちが伝統的懐疑論風に、系統的に誤っているとしても、
陳述3は帰結しない。反対に、懐疑論が正しいなら、私たちが誤っている当のものは実在
する世界である。
私は反実在論を支持する検証主義者の議論の他のバージョンがあることは知ってい
るが、このバージョンは17世紀からまさに論理実証主義に至る経験主義者の伝統でもっ
とも普及しているものだったと思う。私はまた一般にこのすべての伝統的認識論におい
て、特殊にデカルト主義の懐疑論に答えようとする試みは、すべての哲学的企て全体に
とって中心的であることもわかっている。私はこれらは誤りだとみなす。認識論は重要性
をもっているが、確実に哲学的企ての中心ではない。なぜ私が議論してきた種類の認識
論的検討が反実在論を支持する確実な議論を決して提供しえないかは、これらの検討
を述べるためでさえ、私たちは実在論を前提にしなければならないからである。私は次の
章でこの点にもどるつもりだ。
物自体の議論
言及する価値のある外的実在論に反対するもう一つの議論、物自体に関する議論、
Ding an sich の議論がある。
現代哲学でこの議論の顕在的なバージョンを見出すのは難しいが、それは口承伝統
で議論に上り続けている。概念的相対論に由来する議論と検証に由来する議論の組み
合わせと考えるのが最善である。それはこうである。
知覚、思考、研究などにおける世界を扱う際、私たちはつねになんらかの概念枠
組み内から働きかける。私たちのいわゆる「経験」でさえ決して直接に「実在」から
生じるものではないが、私たちの概念を通じて、最終的に他の経験を指示できる。
私たちが表象が実際に本当に適切かどうか見るため、私たちの表象や表象され
るといわれる実在の間の関係を調べることができる神の視点もない。私たちが側
面からそれらの関係を見ることができる方法もない。そうではなく、私たちは私た
ちの表象 ― 私たちの信念、経験、発語など ― の内部に常にいる。なぜなら私た
ちは直接的に実在を精査するため私たちの表象群の外部に出られないからであ
り、私たちが表象と実在の間の関係を調べることができる非表象的な立場はない
からであり、そして物自体に対して表象を計測することによって、その適切さを評
価する可能性すらないため、超越的実在について語ることはまったくもって単なる
ナンセンスでなければならない。私たちが本当に手に入れることができる、アクセ
スできるすべての実在は、私たちの表象の体系に内的である実在である。体系内
で、実在論、内的実在論の可能性があるが、体系外部の実在の観念は私たちの
知識だけでなく、言語や思考の理解を超えている Ding an sich、物自体(thing
in itself)のカントの概念のように空虚である。外的実在論が私たちに提供するも
のは思考不能な、記述不可能な、アクセス不可能な、知りえない、語ることができ
ない、究極的に無意味な何かである。そのような実在論の本当の問題はそれが偽
であることではなく、それが究極的に理解不可能であるということである。
この議論を私たちはどうしたらいいのか?繰り返し、一群の前提と結論をもつ顕在的
な議論としてそれを述べようと試みるなら、どのように結論が帰結すると考えるかを理解
するのは難しい。
条件:どんな認識状態も一群の認知状態の一部として、認識体系内部で生起する。
この前提から次が帰結すると考えられる:
「結論1:すべての認識状態と、認識状態とそれを認識するのに用いられる実在の間の
関係を調べる体系の外部にであることは不可能である」。
そしてこれから今度は次が帰結すると考えられる:
「結論2:どんな認識も認識から独立して存在する実在から生じるものでは決してありえ
ない。」
適切に理解すれば、結論1は実際前提から帰結しないようにおもえる。一方で、すべての
表象は一群の表象内部で、なんらかの表象体系内で生じる。このため一群の表象的状
態と、表象体系の間の関係のいかなる表象も、他方で、表象される実在もまたなんらか
の表象体系内で生じる。だがそれがなんなのだ?どんな認識も、すべての認識から独立
して存在する実在から直接生じないということは、すべての認識が認識体系内にあると
いう事実から帰結しない。結論2はただ帰結しない。実際そう帰結すると考えることは、古
臭い観念論が犯した誤りと同じ形式の誤りであるようにみえる。
問題の診断
私はここで、実在論を攻撃し、実在論に反論するそのような薄弱な議論を進めること
が、技術的に有能な哲学者たちの間でさえ、なぜ流行するかについて部分的な診断を提
供したい。
西欧哲学における最後の主張のひとつは、なんらかの仕方で真理と実在が一致すべ
きだと考えることである。なんらかの仕方で、普通私たちが考えるように、真理と実在のよ
うなものが本当にあるなら、その場合真理は実在の正確な鏡を提供しなければならない
だろう。実在自体の本性は真なる陳述の正確な構造を提供しなければならないだろう。
この立場の古典的陳述はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(13)にあるが、私は
その観念はプラトンと同じように古いと思う。哲学者が実在の構造と心のある表象の構
造の間の正確な同型性を達成するのに絶望するとき、誘惑はなんらかのしかたで、真理
と実在の私たちの素朴な概念は信頼できなくなったと考えることだった。だが彼らは信
頼できなかったのではない。信頼きなかったものは真理と実在の間の関係のある特定の
誤解である。
なぜ真理と実在が多くの哲学者が素朴な外的実在論者がその偶然の一致を犯して
いると考える仕方で偶然に一致することがありえないかについて単純だが、深い理由が
ある。その理由はこうである。すべての表象、そしてなおさら有力な理由を持つすべての
真なる表象は、つねに他ではなく、ある特定の様相の下にある。すべての表象の様相的
正確は、つねにある特定の概念枠組み内に、またある特定の視点に由来する。だからた
とえば水として私の目の前にある物を記述するなら、実在の同じ断片はあたかも H2O
としてそれを記述される。だがもちろん、H2O と表象する場合よりも、水と表象するなら、
同じ物を異なる様相の下で表象している。厳密に言って、どんなものでも表象できる、無
限に多くの異なる視点、異なる様相、異なる概念体系がある。それが正しいなら、確かに
そうなら、その場合非常に多くの伝統的哲学者が切望したようにみえる真理と実在の偶
然の一致を手に入れるのは不可能であろう。すべての表象は、様相的形態をもつ。それ
は他ではなく特定の様相の下その対象を表象する。要するに、私たちが実在を表象する
ことはある視点からのみであるが、存在論的に客観的実在は視点をもたない。
さらに人間の脳と人間の相互作用自体についても問題がある。それらもまた人間の相
互作用によって構成されていると考えられるのが?
何が間違いか?パットナムのケースで、テキストの詳細な読解は、彼が「形而上学的
実在論」というラベルの下で少なくともふたつの論理的に独立したテーゼをひとまとめに
扱っていることを示唆する。
第一:実在はその私たちの表象から独立して存在する。
第二:実在の記述に対して、ひとつ、ただひとつの正しい概念枠組みがある。
第一は私が外的実在論(ER)と呼んできたものである。第二を「特権的概念枠組み」
(PCS:Privilieged Conceptual Scheme)と呼ぼう。パットナムは正確に概念相対主
義(CR)が PCS を反駁すると考える。そしてあなたはある連言を反駁することによって連
言をつねに反駁できるので、もし形而上学的実在論が ER と PCS の連言であるなら、そ
の場合形而上学的実在論は反駁された。だが唯一つを反駁することによって両方の連
元を反駁するのではない。だから PCS が偽であることは、ER を手付かずにする。パット
ナムの著作は彼が PCS を反駁することによって ER を反駁したと考えている印象をあた
える。ER を支持する単調な主張が、彼の読者にとって救いとなる場合でも、おそらく彼は
「反駁」が ER に及ぶとは考えていないのである。だが彼はそのような主張はしていない。
反対に彼は「内的実在論」と呼ぶ見解を支持する。私はわたしが擁護してきた外的実在
論とパットナムもまた拒否すると主張する完全な反実在論との中間にある「内的実在
論」に一貫した立場があるとは思わない。