第43号 - 福島県歴史資料館

福島県歴史資料館
平成27年(2015)10月
福島県史料情報 第43号
『安政見聞誌』下巻(佐藤健一家文書125)
あんせいけんもん し
安政江戸大地震と『安政見聞誌』
江戸時代末期の安政年間(一八五四~一八六〇
日 本 列 島 は 安 政 地 震 と いわ れ る 三 回 の 大 き な 地 震
に
)
、
襲 わ れ た 。 そ れ は 、 嘉 永 七 年 ( 一 八 五 四 )十 一月 四
日 に 遠 州 灘 沖で 発 生 し た安 政東 海 地震 ( マ グ ニ チ ュ
ード八・四 )
、その翌日の五日に南海道沖で起きた安
政南海地震(マグニチュード八・四)
、安政二年(一
八 五 五 ) 十 月 二 日 に 江 戸で 発 生 し た安 政 江 戸 大 地 震
(約マグニチュード七・一)である。
安 政 江 戸 大 地 震 は 、十 月 二 日夜 四 ツ時 ( 午後 九 時
二十分 頃)過ぎ に 江戸 湾北 部の荒川河 口付近を震源
と して 起き た 直 下 型 の 地震で あ る。こ の地 震に よ る
建 物 の 被 害 は 、 江 戸 城は も と よ り各 大名 の 江 戸 藩 邸
や 旗 本 の 屋 敷 に も 及 ん だ が 、 特に 地盤 の 脆弱な 下 町
低 地で の 被 害 が 甚 大で あ っ た。 福 島ゆ かり の大 名 の
江 戸 上 屋 敷 や 下 屋 敷 の 多 くで 、 住 居 ・土 蔵 ・長 屋 な
ど が 倒 潰 し た り 、 土 塀 が 倒れ 、多 数の 死 傷 者 を 出 し
た 。 ま た 、 地 方 か ら の 出稼 ぎ や 奉 公 人 から も 多く の
犠 牲 者が 生 じ 、 夜 間 に 発生 した 直下 型 地 震で あ った
ことも人的被害を拡大させた要因であった。
『 安 政 見 聞 誌 』 は 、 安 政 三 年 三 月 に 三 巻 三 冊で 出
版され 、その内 容は安政江戸大地震に関す る災害情
か な がき ろ ぶん
報 誌 で 、 作 者 は 仮 名 垣 魯 文 と いわ れ て い る 。 挿 絵 は
くに ちか
歌 川 国 芳 ・ 歌 川 芳 綱 ・ 豊原 国 周な ど の 浮 世絵 師 に よ
っ て 描 か れ て い る が 、 そ の 多く は 芳 綱 の 手 にな る も
ので あ る 。 芳 綱 は 江 戸 時 代後 期 の浮 世絵 師で 、 姓は
田 辺 、 通 称 は 清 太 郎 、 一 登斎 ・一 燈 斎 ・ 一 度 斎な ど
と 号 し た 。 ま た 、 芳 綱 は 国 芳 の 門 人で あ り 、 武 者 絵
・風刺画・風俗画を得意としたという。
上 の 図で は 、 地 震 の た め江 戸城 半蔵 門 の 石垣や 土
塀が 完 全 に 崩れ 落ち 、 老松 も 根 本 から 倒れ 、 民衆 が
こ の 世 の こ と と は 思 えな い 惨状 を 目 の当 た りに し、
ひ ど く 驚 いて い る 様 子 が 描 か れて い る 。( 渡 邉 智 裕 )
(日下金三郎家文書381号)
( 同 文 書三 五 七 )が 交 わ さ れ た 。 規
約で は 、平 三 郎の 湯宿 を 認 め、徴 収
した湯銭 から年 間 銀三匁を新狐明神
修覆料 と して 備 え るこ とを 定 め た。
そ の 上 で 、「 同 稼 之 も の 相 増 候 共 、
差 構 無 之 積 」 と 補 足 し 、 新規 の 湯 宿
渡 世と 温 泉 場 の 発 展 を 、 周 辺 の 村 々
が受け入れる立場を示している。
さ ら に 、慶 応 年 間 に は 、 湯 野 村 と
北 原 村 と の 間で 、 新 た な 温 泉 湧 出 を
契機とした土地争いが起こる。一時
は 、 幕 府評 定 所 に 裁 定 を 仰 い だ 一 件
は 、 湯 野 村 の 主 張 ・ 温 泉管 理 を 認 め
る 和 解 文 奉 差 上 済 口 證 文 之事 」
(
文 書 一 四 二 ) と 和 解 絵 図 「〔北 原 湯
野両村地境絵図〕」(同文書一四三)
をもって内済となっている。
江 戸 後 期 の 湯 野 温 泉は 、 入 湯 者 の
増加と新規温泉の湧出という光と、
いんしん
さまざ まな 諸 問 題 の影 を含 んだ 殷賑
の温泉地であった。 (小野孝太郎)
同
黄色:湯野村分 茶色:北原村分 下部に摺上川
江 戸後 期 の 湯 野 温 泉
伊達 郡湯 野村 (福島 市) 近 辺は 、
摺上川沿いに温泉が湧き、対岸の飯
坂 温 泉と 共 に 「 湯 野 温 泉 」 の 名 が 知
られていた。同温泉の狐湯・切湯・
下 の 湯 は 、 江 戸 前期 か ら 湧 出 し て い
あず まこうあき
た と さ れ 、 元 禄 の 村 絵 図 や「 東講 商
ん ど かが み
人 鑑」にもみられる。江戸後期に
、賑わいと共に諸問題も起こった
天 保 三 年 ( 一 八 三 二 )「 乍恐 以 歎
書 奉 願 上 候 」( 旧 湯 野 村 文 書 ( そ の
一 ) 三 七 六 )は 、 湯 宿 ・ 茶 屋 渡 世 者
一〇名が 、 下女召 抱え を願 い出た 史
料である。その理由を「湯治人大勢
入 込 候 節 者 、 手 人斗 リ ニ 而 者 手 廻 行
届兼候事共有之」と述べており、温
泉 地 の 盛 況と 労 働 力 不 足 を 背 景 に 、
女中の活用を望む声が強まっている
ことを 示して いる。同時期には 、不
審者を止宿させた一件の天保二年
。
「
」
(同「
文 書三 七五
や 、 博 奕 宿 に 関 す る 慶 応三 年 ( 一 八
六七 )
「 乍 恐 以 書付 奉 歎願 上 候 」
(同
文書一六〇)などの史料も残されて
おり、往来が盛んになっていく情況
と裏腹に弊害も生じ始めている。
、弘化四年(一八四七)には
隣村の北原村平三郎所 持、はね 渡堂
( 現 穴 原 温 泉 ) 湧 出 の 温 泉 入湯 者増
き たばら
し か
加に伴い、湯 野・北原・四箇三ヶ村
「 儀定 一札
(
)
(旧湯野村文書(その1)143)
霊山道路の発掘調査と
近世文書
万治3年9月17日付高橋長右衛門請取状
福 島 県 歴 史 資 料 館が 開 催 し た 平 成
二 十 一 年 度 の 古 文 書 講 座 で は 、霊 山
の 麓 で あ る 旧伊 達 郡 大 石 村 ( 伊 達 市
霊山町 大石)のうち下 大石村庄屋を
務めた日下家に伝わった文書資料
( 日 下 金三 郎 家 文 書 ) か ら 、 近 世 の
製 鉄 に 関わ る 資 料 を 取 り 上 げ て 、 古
文 書 の 解読 を 行 っ た 。
取り上げた資料は 寛永二十年(
六 四 三 )霜 月 七 日 付 国 分 久 胤 等 連 署
製 鉄 掟 書( 日 下 金 三 郎 家 文 書 三 七 八
号 )、 承 応 三 年 ( 一 六 五 四 ) 二 月 十
五日付森善 衛等連署鉄 売買金皆 済状
( 日 下、
金 三 郎 家 文 書一
三 七 九 号 )、 明
暦 二 年 ( 一 六 五 六 ) 正月 十 二 日 桜 井
市 兵 衛 等連 署 鉄 売 買 金 皆 済 状 ( 日 下
金 三 郎 家 文 書 三 八 〇 号 )、 万 治 三 年
( 一 六 六〇 ) 九 月 十 七 日 付 高 橋長 右
衛門 請 取状 ( 日 下 金三 郎家 文 書 三 八
一号)等で、これにより米沢藩上杉
氏 領 内 大 石 村 に お け る 製 鉄 を 行う 上
で の 付 加 税 の 免 除 、 鉄 の 売 買や 納 税
の 様 子 が 知 ら れ 、当 地 区 に お い て は
製鉄が重要な生業の一つであったこ
と を 知 る こ と がで き る 。
と こ ろ で 、 当 財 団 の 遺 跡 調 査 課で
は平成 二十 五年 度から 霊山 道路 区間
の発掘調査を実施しており、大石地
区の南隣で同藩内である石田地区に
位置する行合道B遺跡において、十
六 世 紀 後 半 か ら 十 七 世 紀 前半 に 比 定
される木炭窯が構築途中のものを含
めて 七 基 検 出さ れ た 一 般 国 道 1 1
5号相 馬 福 島 道路 遺跡 発掘 調査報 告
2 。同年 には 相馬 藩領である玉野
地区 の 姥 ヶ 岩 遺 跡 から も 同 時 期 の木
炭 釜が 三 基 検 出 さ れ 、 ま た 、 平 成 二
十 六年 度 に は や は り 玉 野 地区 の 向 山
遺跡か ら 十 七 世 紀 前半 頃と 考え られ
る製鉄炉も確認されている。
これらのことは阿武隈高地におけ
は製鉄の実態の一端が姿を見せ
る近 世
始めているように思われ、文書資料
と 合わ せ た 研 究 が 期 待 さ れ る 。
なお、当時の鉄は留物として他領
からの 流入 や 他領 への 流出 は厳 しく
規制されていることから、そのこと
に よ り 相 馬 藩 と 米 沢 藩 の 製 鉄技 術の
相違があるのかどうかについては気
に な る とこ ろ で あ り 、 検 出 さ れ た 遺
構 の 比 較 研 究 が 必 要 に な る と 思わ れ
る。
(安田稔)
差 出 申一 札 之 事
慶応4年2月〔北原湯野両村地境絵図〕部分
第43号
福島県史料情報
平成27年(2015)10月
)
ゆのはら
報答・演説書などを含む。中には、
福 島 県 から 内 務 卿 伊 藤 博 文 宛 「 土 地
人 民 受 取 済 御 届 」 や 、福 島 県 が 引 き
継いだ戸籍帳・地籍帳などの一覧
「 事 務 引 渡 帳 簿 目 録 」、 収 穫 等 級 反
当 表 ・利 子 表 な ど を 引 き 継 い だ 「 演
説書」があり、県を跨いだ土地引き
渡 し 実 務 を 追う こ と が で き る 。
そして、宮城県が記した「磐城國
刈 田 郡 湯 原 村 ノ 内分 裂 事 務 引 渡 演 説
書」に は 、 引き 渡され る 住 民の 思 い
が記されている。寛文年中の山論に
触 れ た 上 で 、「 爾 来 ハ 仇 讐 ノ 思 ヒ ヲ
成 セ ル 趣ニ テ 、 隣 村 ト 雖 モ 互 ニ 縁 組
等モ不致」と二〇 〇年 に亘 る軋轢 を
述 べ て い る 。 ま た 、 宮城 県 の 説 諭 に
対しても「貴縣ヘ合併候儀ハ、素ヨ
リ 不 得 止 ナ レ ト モ、 前 述 ノ 通 茂 庭 ヘ
合併ヲ嫌ヒ候ヨリ外他事無之」と、
福 島 県 へ の 引 き 渡 し を やむ を 得 な い
と しな が ら も 、 茂 庭 村 へ の 編 入 を 断
固拒否している。
稲子地区は、伊達郡湯原村として
福 島 県 に 編 入さ れ るも 、 住 民 か ら の
上申もあり、翌年には宮城県所管と
な っ た。
( 小 野孝 太 郎 )
内分裂事務引渡演説書」
「刈田郡湯原 村ノ内引渡書」と
二〇〇年に亘る隣村間軋轢
国道三九九号線(いわき市―山形
県 南 陽 市 ) を 山 形 方 面 へ 向う と 、 茂
庭 っ 湖 を 過 ぎて 宮 城 県 に 入 り 、 約 五
㎞ 通 過 す る と 再 び福 島 県 を 通 り 、 山
形 県 へ 入る 。 途中 の 宮城 県 域 に は 、
ふく しまと深 い関わりを持つ、七ヶ
い な ご
宿 町 の 稲 子 地区 の 集 落 が み ら れ る 。
江 戸 時 代 、 稲 子 地 区 は 、 仙 台 藩領
の刈田郡湯原村に属していた。寛文
七 年 ( 一 六 六七 )に は 、 湯 原 村 と 幕
領 伊 達 郡 茂 庭 村 と の間 で 稲 子 山( 五
郎山)の帰属、境争論が起こり、稲
子 地 区 も 論 所と な る 。 決 着 に は 二 年
以 上 を 要 し 、 幕 府評 定 所 の 裁 定 で 、
湯 原 村 の 勝訴 とな り 、稲 子 地 区 は 湯
原村に 帰属することが 確定 した 。
時が経ち、明治一一(一八七八)
年 四 月 、 湯 原 村 稲 子 地区 と 茂 庭 村 と
の 間 で 再 び 摩 擦 が 生 じ る 。 発端 は 、
不明 瞭で あ っ た 刈田 ・ 伊達 両郡 境に
関 し 、 太 政 官 布 告 に 従 い稲 子 地区 の
福島県への引き 渡しが決定 したこと
による。稲子地区は反発するも、手
続きは 進 められ 、その 過程 の事務文
書が 刈田郡湯原村ノ内引渡書」
(
治・大正期の福島県庁文書一二八六
号 ) に 編 綴 さ れ て い る 。 簿 冊は 、 庶
務 課 架蔵で 、 明 治一 一年 八月 に 宮城
・ 福 島 両 県 の間 で 交 わ さ れ た 照 会 ・
標葉・楢葉両郡魚漁表
「磐城國刈田郡湯原村ノ
第43号
福島県史料情報
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「海川漁図説付略図類集」
にみる明治期浜通りの漁業
こ れ まで 福 島 県 の 漁 業 ( 水 産 ) 史
研究では注目されてこなかった「海
川 漁 図 説 付 略 図 類 集 」 の 概 要と そ の
成立事 情に つ いて 述べて み たい 。
「 海 川 漁 図説 付略 図 類集」は 、明
治十 三年 ( 一 八 八〇 ) 三月 に福 島県
勧 業課 の 編 で 福 島 県 か ら 刊 行 さ れ た
『福島県勧業課第二回年報 明治十二
年 』( 明 治 ・ 大 正 期 の 福 島 県 庁 文 書
二 五 二 七 号 ) に 収 録 さ れて いる 。こ
れ は 「 海 川 漁図 説 」 と そ の 付 録 で あ
る 「 略 図 類 集 」 から な っ て お り 、 両
者 は 第 二 回 年 報 のう ち 三 二 % の 分 量
を 占 め 、当 時 の 福 島 県 で は 漁 業 の 振
興・発展が地方税収の向上に繋がる
一 つ の 手段 と み な さ れ て い た 。
「 海 川 漁 図 説 」 の主 な 内 容 は 、 宇
な め かた
多 ・ 行 方 両 郡 で の 漁 具と そ の 使 用 法
や 鰯 の 加工 法 、 明 治 十 一 年 漁 獲 表 、
しね は
、鰹節製造法
、
漁 業 税 収 入 方 法 な ど で あ る 。 勧 業課
の分析によれば、標葉・楢葉両郡に
おけ る漁 業は、 久 之浜 ・田 之網 ・請
戸の三ヶ村では漁業が盛んであった
が 、 他 の 村 々で は 専 業 で は な く 農 業
の 合 間 に や っ て いる にす ぎ ず 、 漁法
や 漁 具 は 江 戸 時 代 のも の を 改 良 せ ず
にそのまま使用しているという。こ
の こ と は 、「 海 川 漁 図 説 」 が 江 戸 時
代後 期の漁 業史 研 究の 有力 な 史 料と
なりうるということを示している。
「 略 図 類 集 」 の 主 な 内 容は 、 菊 多
いわさき
・磐 前両 郡で の 多 様な 漁法 や 漁 具が
法量も含めて描かれており、その解
説 も 丁 寧に 付 さ れ て い る 。 対 象 地 域
は 、 磐 前 郡 小 名 浜 が 中 心 で 、 磐 前郡
で は 多 い順 に 永 崎 村 ・ 豊間 村 ・ 下 大
越村とな って いる。菊 多郡では 、大
倉 村 ・下 川 村 ・ 植 田 村 の 順 に 多 い 。
理由は定かではないが、磐城郡の村
は 全 く 取 り 上 げ ら れて いな い。
と こ ろ で 、「 海 川 漁 図 説 」 お よ び
「 略 図 類 集 」 は 、明 治 十 二 年 の 『 水
産 旧 慣 調 』( 明 治 ・ 大 正 期 の 福 島 県
庁 文 書 三 〇 一 七 号 )と 比 較 ・ 校 合 し
て み る と 、後 者 を 基 に し つ つ も 、訂
正 を 加 えて 浄 書 ・ 抄 出 し た も の と み
な す こ とが で き る 。
上の図は 、小 名浜において下 帯姿
で素潜りした漁師が首から提げた
な さ し
あ わ び
銕鏟を使って石决明を採取する場面
で 、腰 に は 採 っ た 石 决 明 を 入 れ る ス
カリ を 結んで いる。
(渡邉智裕)
〒960-8116 福島市春日町5-54
福島県歴史資料館
URL http://www.history-archives.fks.ed.jp/
TEL 024-534-9193 FAX 024-534-9195
E-mail [email protected]
地方鉄道敷設の記録
赤井馬車(軌)道敷設関係書類
(明治・大正期の福島県庁文書2097号)
福 島 県 庁 文 書 に 、『 赤 井 馬 車 鉄
( 軌 ) 道 敷 設 関 係 書 類 』( 明 治 ・ 大
正 期 の 福 島 県 庁 文 書 二 〇 九 七 号 )と
いう簿冊がある。馬車鉄道とは、文
字 通 り 馬 が 線路 上 の 車 輌 を 引 く 鉄 道
で あ り 、表題 の赤 井馬車鉄道は、常
磐炭田の一つで、現いわき市赤井地
区 に 鉱 区 を 有し た炭 鉱 か ら 採 掘 さ れ
た石炭の運搬を主な業務とした鉄道
で あ る 。 明 治三 九 年 ~ 四 二 年 ( 一 九
〇 六 ~ 一 九 〇 九 ) の 会 社設 立 お よ び
軌道敷設の 経 緯を 知ること がで き る
一連の資料である。
会社設立にあたっては、自由民権
運 動 家で 、 福 島 県 会 議 員 九 期 を 務 め
た 柏 原左 源 太 が 、 岩 城 郡 赤 井 村長 時
公益財団法人 福島県文化振興財団
きます。報告二として「陸奥国戸籍
と 古 代 の 集 落 」 と 題 し 、当 財 団 歴 史
資料課長 の安田 稔 より報 告いたしま
す。
【開催日】 平成二七年 一〇月三 一日
( 土 ) 午 前 一 〇 時 ~ 午後 三 時
【会場】県文化センター二階会議室
【受講 料】三〇〇円( 資料 代)
【 定 員 】 一 二 〇 名 。 定 員 にな り次 第
締 切 り ま す が 、 席 に 余 裕が あ る 場 合
も ご ざ いま す の で 、 当 日 ま で 受 付 け
い た し ます 。
3.第三 回フィ ルム上映会
日本 の伝 統文 化と題 し、 歴 史 や風
土 、 民 俗 芸 能 、 伝 統 文 化 に 関す る 記
。参加費は無料
【日程】平成二七年一一月二八日
( 土 ) 午後 一 時 ~ 午後 三 時
【 会 場 】 県 文 化 セ ン ター 視 聴 覚 室
【上映作品】①『森のくらし 第一
章 ふ く し ま の 竹と 笹 』 ② 『 柳 橋 の
』 ③『会津の初市』を予定
。
。
行
集・発
編
平成27年10月25日
第43号
、
び命令書が交付されている
代 に 岩 城 郡 平 町 長 殿 木 完 鍖 治 ・ 同郡
平成二七年度 行事予定
好間村長木 田彌造の三 名と 図り、明
(
治三 九年 六月一五日 に内 務大臣 原敬
1.展示公 開
あて に 「 馬 車 鉄 道敷設 願」 を提 出 し
「江戸時代についての豆知識」
ている。発起人には惣代である柏原
収 蔵 資 料 展 の 合間 を 利 用 し 、 小 規
左 源 太 に 加え 、 品 川 白 煉 瓦 株 式 会 社
模な パ ネ ル 展 示 を 開 催 いた しま す 。
の創業者である社長の西村勝三ほか
江 戸 時 代 に 使わ れ た 街 道 や お 金 の 数
西村辞 三 郎・藤村義苗 ・山内政良・
え 方 、 ま た 、 江戸 時 代 の 時 を 知る う
豊 島 駒 吉 の 四 名 の 会 社関 係 者 と 第 一
えで 欠か せ な い 不定 時 法な ど を 解説
国 立 銀 行 役 員 の 八十 島 親 徳 。 三 星 炭
し 、 江 戸 時 代 の 庶民 の 知 識 を 紹 介 し
鉱株式会社社長、自由民権運動家で
ます。
もある福島県選出衆議院員の松本 孫
平成二七年一〇月~平成二八年三月)
【会期】平成二七年一〇月一〇日
右 衛 門が 名 を 連 ねて いる 。
( 土 ) ~一 一月 一 日 ( 日 )
約 二 ヶ 月 後 の 明 治三 九 年 八 月 二 八
「 新公 開 史 料 展 」
日 に は 前 述の 出 願 書 類に 対 し 、
「
『 福 島 県 歴 史 資 料 館 収 蔵 目録 』第
務省福甲第七四号」にて特許状およ
四六集に収 録さ れ 、新 たに 公開とな
。
ただし
っ た資 料 を 紹 介 します 。
途中、同年七月二八日付で一般旅客
】平成二八年一月一六日(土
も乗車できるよう鉄道敷設目的の変 【
~三月 一三 日( 日 )
更を行っている。
2.地域史研究講習会
命令 書は 四三 条 か ら な り、 線路 の
地 域 史 の研 究 の 方 法 と あ り 方 に つ
区 間 割 に つ いて 、 原 動 力 は 馬 一 頭 立
ふぃーと
い んち
いて、最新の研究成果に基づき理解
・軌間は二 呎 六 吋 (七六二㎜)
と い っ た 規 格に 関 す る こ と や 制 動 器
を深 め 、歴 史資 料 の 保 存・ 活用 に関
内
や 信 号 器な ど の 安 全 面 に 関す る も の
心を高めていただく講習会を開催い
など 多岐にわ たる。また、こ の 簿冊
たします 。
に は 、 書類 に 添 付さ れ た 多 く の 工 区
内 容 は 「 鎌 倉 幕 府と 東 北 ― 南 奥 を
録―
映」
画と
を題
上し
映東
し北
ま学
す院大学文学
図や橋梁設計図、車両構造図等が含
中心に
、 れ て お り 、 当 時 の 図 面 作成 の 緻 密
ま
部教授七海雅人氏に御講演をいただ
さなども確認できる。
き)
ま す 。ま た 、 報 告 一 と し て 「 江 戸
会
期
、
明 治 四 〇 年 赤 井 馬 車 鉄 道は
時 代 に お け る 磐 城 の 古 式捕 鯨に つ い
実態に合わせ鉄道部分の名称を軌道
て」と題し、いわきし市暮らしの伝
と変更している。 (佐々木慎一)
承郷館長の小野浩氏に御報告いただ
獅 子舞
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第43号
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