四百余名が参列 本学の創立一〇九周年記念式典は、六月一日の創立記念日に 東京富士見で挙行された。ベルン大学の飯塚建行教授への名 誉博士号授与式もあわせて行われた。本年から卒後五十年・ △満席となった富士見ホール ベルン大学の飯塚教授(右)に 名誉博士の学位記が手渡される 五十年、卒後二十五年の す。私たちが病院実習の 番最初にボツになったの 先生方が百名近く出席さ 五年生のとき、服装を変 は今のパンツルックだ。 れた。日本歯科大学は歯 えていいと、当時の病院 みんながズボンに半袖白 科界のフロントランナー 長 か ら 許 可 を い た だ い 衣 な ん て あ り 得 な い と として限りない発展を続 た。当時の女子学生は、 言っていた。しかし今で けている。歯科界に有為 頭に三角巾、上は半袖立 は最もノーマルなスタイ な人材を多数輩出したと 襟のいわゆるケーシー型 ルになっている。今の学 て考えれらないと言い、 いう意味でも、大学の歴 白衣、ミニスカートとい 生に聞くとスカートなん 史的な使命が果たされて ういでたちだった。 しかし三角巾をぜひ変 当時は訪問診療がなかっ きた。校友会は母校の発 展のために全力を尽くし えたいと話し合い、登院 たせいなのかもしれない。 生の実習服について議論 服装を一つの文化と考 たい」と述べた。 その後名誉博士の授与 した。十月登院だったの えたときに、私たちの感 式にうつった。中原学長 で、 十 月 十 一 月 は ワ ン 性も早いスパンで変化す は、飯塚建行先生を紹介 ピース、十二月からは寒 るのだろう。来年は創立 し(要 旨 別 掲)、 日 本 歯 くなるのでケーシー、ミ 一一〇周年を迎える日本 式場の生命歯学部富士見 創立一〇九周年式典の式 ホテルで記念式典、記念 て光栄に思うとお礼の言 創立以来の伝統である神 撒餞、昇神を終えて神 を し た い。 来 年 の 十 月 飯塚名誉博士は、伝統 式により執り行われた。 職が退場。中原理事長は 二十二日の土曜日、帝国 ある貴学から栄誉を受け い る。そ れ に しいと願って 後にも優位に立てる大学 Dのライセンスを得たの いただいている。現在ベ ち、フィンランドのトゥ ルン大学医学部の頭蓋顎 ルク大学でDDSを取得 顔面外科学講座の主任教 された、ダブルライセン 授を務めている。十年ほ は私たちが一 明日からの勤 平成27年6月1日 本学 二十五年参列制度(ジュビリー5025)が発足し、多数の ホールには、本学関係者 辞のなかで、私学が歯科 講 演 会、 記 念 祝 賀 会 を 葉(要旨二面)を述べた。 つの力になっ 永年勤続者に表彰状授与 日 本 歯 科 大 学 創 立 洪校友会長がおのおの神 一五〇年にあたるので、 科大学第十八号の学位記 ニスカートになった。一 歯科大学だが、歯科界を リードし五十年後、百年 一〇九周年記念式典は、 前に玉串を捧げた。 あ わ せ て 盛 大 に お 祝 い を手渡した。 や卒後五十年、二十五年 界に果たした多大な功績 開 催する。そして、今年 このあと、永年勤続者 の校友会員など四百余名 に つ い て 述 べ た。(要 旨 の四月から大学とセント 表彰が行われ、三十年勤 て結集し、 また に発展してほ ラルクリニックが歯髄細 続者八名、二十年勤続者 務に邁進して が参列し、午前十時三十 二面) 分、司会の高橋孝幸庶務 近藤校友会長は祝辞の 胞バンク事業を立ち上げ 二十名が登壇し、中原理 な か で、「校 友 会 で は 昨 た。校友会員の先生方は 事長から代表者に表彰状 部長が開式を宣した。 い き た い 」と おわりに参 列者全員で校 謝辞を述べた。 歌を斉唱して 今年から創立記念式典 年八月、日本歯科大学の 講習を受講されて認定医 が手渡された。 特別参列制度(ジュビリー 創立者である中原市五郎 になり、母校が進める歯 表彰者を代表して附属 5025)がはじまり、 先 生 の 業 績 集 を 発 刊 し 髄細胞バンク事業をより 病院総合診療科の石川明 六十年に歯科保存学の医 校友会員の中で卒後五十 た。三百ページを越える 大きく発展させていただ 子 准 教 授 は、「私 は 昭 和 名誉博士号授与 飯塚建行教授 学長 中原 泉 【新潟生命歯学部】 1位 ヒトの一生/1年後期 歯科矯正学講座講師 長谷川 優 2位 ヒトの一生/1年後期 小児歯科准教授 島田路征 3位 材料科学/1年後期 歯科理工学講座准教授 赫多 清 十二時に閉式 年の五十四回卒が一〇九 大冊で、各方面から高い きたい。 築土神社の神職により 神事が行われ、祝詞の中 で本学の沿革を朗々と奏 上したのち、玉串奉奠に 浅太郎の各理事、近藤勝 ター大学を卒業して、M 初から大変親しくさせて とを嬉しく思っている。 沼部幸博、藤井一維、湯 た。ドイツのマルチンル で、そういった関係で当 誉博士号を授与できるこ 今年はこのように非常 をもって同拝した。参列 は新潟県に生まれ、高校 が、トゥルク大学、ベル 者を代表して、中原貴、 時 代 は 新 潟 で 過 ご さ れ ン 大 学 は 本 学 の 姉 妹 校 に親しい飯塚先生に、名 ど前から、本学の両学部 学長がホール壇上の神前 飯塚建行先生は、本学 スの先生である。 二〇〇〇年からベルン の教員が、何人も留学し に進み出て玉串を奉奠。 と大変縁があり、親近感 参列者は一礼二拍手一礼 をもつ先生である。先生 大学の教授に就任された てご指導いただいている。 う つ り、 中 原 泉 理 事 長・ 計九十二名が参列した。 中 原 市 五 郎 先 生 の 生 誕 タートした。本日も卒後 し を し た こ と を 思 い 出 した。 平成26年度ベストレクチャー賞 校友が参列した。午後には創立記念祝賀会が、近くのホテル グランドパレスで開催された。 (関連記事二・三面) 創立109周年を迎え、式辞を述べる中原泉理事長・学長 ベルン大学の校章 本学のシンボルマーク 名 中、 四 十 四 名、 卒 後 評価をいただいた。 昨年もアナウンスした 局に入局した。六十二年 二十五年の七十九回卒が 来年平成二十八年には が、今年度から創立記念 に飯田橋駅前に病院が移 一八〇名中四十八名と合 母 校 の 創 立 一 一 〇 年、 式 典 特 別 参 列 制 度 を ス り、何日もかけて引っ越 【生命歯学部】 1位 病院医療概論/1年前期 発生・再生医科学講座教授 中原 貴 2位 医療管理学/1年前期 口腔外科教授 小林隆太郎 3位 医療安全/1年後期 矯正歯科准教授 安藤文人 第630 号 日 本 歯 科 大 学 新 聞 201 5年(平成27年) 7月30日 (1) 本学創立 109周年 式典 中原 泉 理事長・学長 式辞 年の高等歯科医学校(現 き、大慌てした。国民か 出はじめた。将来、過剰 科医師は少なすぎる、ど して昭和四十年代の歯科 東京医科歯科大学)につ らの要請が大変だった。 になるという警鐘が識者 うにかしろという騒ぎが 医師の超過少の時代に最 た 年、 東 京 歯 科 医 学 院 づいて、半世紀で大阪大 昭和四十年に国立三校、 の間から乱打されていた また起こってくる。今ま 大限の努力をし、国民歯 (現在の東京歯科大学) 学 歯 学 部 の 国 立 一 校 が 四十二年に二校と、三年 のに、昭和五十一年に国 での歴史の繰り返しから 科医療を守ったというこ いうことだった。歯学部 だった。その当時人口は た。一日百人、百二十人 部省、厚生省から内々に うのがあり、歯学部の場 わが国だったので、中国 が卒業して五年目に川崎 人以上入れた。 は、国立四校が最後に新 一 つ の 大 学 で 定 員 が 設されたことにある。現 合は、四川の華西医科大 とあまり変わらなかった。 で開業した。開業の日に 学口腔医学院、北京大学 官立の歯科医学校をつ 新聞をとりにいこうと診 百二十名なのに、勝手に 在 二 十 九 校 と な り、 歯 口腔医学院、上海第二医 く っ て く れ と 要 請 し た 療所のシャッターを開け 三百人入れることはあり 科 医 師 九 万 人、 人 口 は 科大学口腔医学院、それ が、当時は富国強兵の時 た。すると、患者さんが 得ないことだが、できた 一 億 二 千 万 人 な の で、 一〇九周年にあたり申 め私立が果たした役目を し上げたかったことは、 思い起こし、誇りと責任 そこで、複数号を同封す が難しくなりました。 げます。 (S) て一号ずつお送りすること くださるようお願い申し上 す。近年、郵送料が高騰し ちになりますので、ご寛容 本紙は毎年、八回 ることが増えています。そ 大学は日本歯科大学と姉 会 告 妹 校 関 係 に あ る と 聞 い ほど発行していま のため、記事内容が遅れが た。その後フィンランド で専門医教育を受け、ス イスのベルン大学に行く ことになった。姉妹校を からは、日本歯科大学か の案を出してきたので、 意図的に追っかけたわけ 延ばしてもらった。それ た。非常に独創的な留学 ではない。 であり、全てこれに尽き あって、神様のお告げで とを決めていた。北欧の 臨床留学だったが、留学 学生活を過ごしている。 い、研究留学生のシステ が、これは誰が考えても 日本歯科大学から最初 らベルンに留学するプロ 私の講座では最初の研究 日本歯科大学と私との 学部を卒業したが、はじ の留学生は、東京校口腔 グラムは最初から二年と 留学となった。中原賢先 歯科医師養成に対する国 の無為無策が最大の原因 関 係 は 運 命 的 な も の が めから口腔外科に進むこ 外科の柳井智恵先生で、 決めて、みな充実した留 生に実験台になってもら 笑わせるなということだ こった。私に言わせると からんという大合唱が起 が多すぎる、それはけし ると現金なもので、私立 リの状態である。そうな と、数から言えばギリギ から第四軍医大学口腔医 代で、それに関わらない 診療所の周りをグルリと のは国の要請と後押しが 千三百人に歯科医師一人 学院、この四校が最重点 校ということで、集中的 に予算が組まれていた。 歯科医師数も一万ぐらい、 当時人口が十三億だった ので、十三万人に歯科医 師一人の勘定だった。 数年前に中国に行く と、医学部が八十校に増 え、歯学部も増えたが何 校増えたか分からない。 親しい先生の話では、新 設の歯学部は一学年八百 くことを祈りたい。 関係を続けて発展してい 妹校として有意義な友好 これからも両大学が、姉 ただき、誠に光栄に思う。 うな名誉のある称号をい てきている。今日このよ 学生を通して盛んになっ 本歯科大学との交流が留 はじめ、ベルン大学と日 私が主任教授を務める 頭蓋顎顔面外科学講座を ことが可能になった。 私の講座に研究留学する ジルと中国から一人ずつ 奨学制度によって、ブラ ないかと思うぐらい偶然 歯科に憧れて、フィンラ の内容が非常によかった ると言ってよい。 それまでは臨床留学が ムと制度をつくることが ンドのトゥルク大学で学 ので、学術的な活動もで 主流だったが、二〇一一 できた。この制度ができ あと十年もすると歯科 が重なっている。 私はドイツの大学の医 ん だ そ の 時 に 、 ト ゥ ル ク 医師は減っていくが、歯 たお蔭で、スイス政府が 年 に 中 原 賢 先 生 が 留 学 し き る よ う に 留 学 を 二 年 に 外国人に与えている研究 第1号 1964年 周 汝川(台湾) 第2号 1969年 P.R.Begg(オーストラリア) 第3号 1999年 王 大章(中国) 第4号 2000年 R.L.Christiansen(アメリカ) 第5号 2001年 S.Chuckpaiwong(タイ) 第6号 2002年 羽坂勇司(日本) 第7号 2003年 A.Garfunkel(イスラエル) 第8号 2004年 N.C.Gervasio(フィリピン) 第9号 2005年 周 明勇(台湾) 第10号 2007年 W.Suchato(タイ) 第11号 2007年 C.Suchtatlampong(タイ) 第12号 2008年 M.von Ludinghausen(ドイツ) 第13号 2010年 D.M.Brunette(カナダ) 第14号 2012年 J.M.Powers(アメリカ) 第15号 2012年 R.Happonen(フィンランド) 第16号 2013年 C.S.Stohler(アメリカ) 第17号 2014年 村上一枝(日本) 第18号 2015年 飯塚建行(スイス) 人入れているところがあ 日本歯科大学名誉博士号授与者 る と い う。 聞 き 違 い か と 思い、もう一度聞いた 歯科は見向きされずに、 二巡していたので、慌て あったからである。それ が、八百人をどうやって 放任された。明治四十年 てシャッターを閉めたと が 四、五 年 つ づ い た が、 が第二歯学部を作ってほ き た 案 が 内 々 に、伝 統 校 はマズイと、次に出して 教育するのかと感じた。 代 に 二 校 か ら 卒 業 生 が 言っていた。それが当時 さすがに厚生省もこれで 国立大歯学部の過増設 その時も歯科医師数が 五十人百人と輩出してい の普通の状況だった。 ど の く ら い か 分 か ら な き、十年後には相当の数 かったが、十万人に歯科 が日本全国に広まった。 医師一人というのが、今 そのあと、私立の歯科医 昭和四十年 (一九六五) しいという要請だった。 の 中 国 本 土 の 状 況 だ ろ 学校もどんどんつくられ には歯科医師三万人、人 それに対応して、昭和 う。中国は大変だと思う たが、この二校が日本の 口 は 一 億 だ っ た の で、 四十年代の後半四十五年 が、わが国も百年前には 歯科医師養成の源流であ 三三〇〇人に一人という から四十八年の間に私立 的な患者さんの数からい そ れ に 協 力 し、 歯 科 大 えば、五千人に一人とい 学・歯学部は二十三校に う数になろうかと思う。 なった。昭和五十年ごろ ここで初めて歯科医が少 には、もうこれ以上作る 建行 ベルン大学医学部 頭蓋顎顔面外科学講座 飯塚 1)1971年 中山医学大学(台湾) 2)1984年 ミシガン大学(アメリカ) 3)1985年 パリ第7大学(フランス) 4)1985年 四川大学華西口腔医学院(中国) 5)1986年 ベルン大学(スイス) 6)1986年 ヘブライ大学(イスラエル) 7)1987年 ブリティシュ・コロンビア大学(カナダ) 8)1987年 マンチェスター大学(イギリス) 9)1988年 マヒドン大学(タイ) 10)1991年 トゥルク大学(フィンランド) 11)1992年 フィリピン大学(フィリピン) 12)1993年 ペンシルベニア大学(アメリカ) 13)1997年 アデレード大学(オーストラリア) 14)1997年 オタゴ大学(ニュージーランド) 15)2005年 モンゴル健康科学大学(モンゴル) 16)2008年 メリーランド大学(アメリカ) 17)2012年 香港大学(中国) 18)2015年 ダヌーベ・プリバード大学(オーストリア) 中原泉理事長・学長:歯科医師が1千人前後 だった明治40年代 ,歯科医師過少が叫ばれた 昭和40年代に、私立の学校が国民の歯科医療 に果たした役割を忘れてはならない… 似たような状況だった。 り、歯科医療の礎を築い 勘定になる。しかし実質 七校が新設した。本学も た。 歯科の源流は私学 それから六十年後の昭 明治四十年に日本歯科 和四十年、私が卒業した 大 学 の 前 身 で あ る 共 立 年だが、この年は歯科大 日本歯科大学姉妹校(15か国18校) 私学の誇りと責任 歯 科 医 学 校 が 創 立 さ れ 学は九校だった。昭和三 なすぎることに国が気づ のは多すぎるという声が 日本歯科大学と私 したがって現在の需給 本学は明治四十年代、そ 感を新たにしたい。 で、正確な数はわからな 五万二千人に歯科医師一 当時の歯科医院では珍し ど も の 入 学 定 員 は 当 時 かった。ただ重点校とい 人という状況が百年前の くなかった。私の同級生 百二十名だったが、三百 問題の一番の大きな原因 は何割かが医学部と一緒 四千七百万人だったから、 の患者さんが来るのは、 要請があった。例えば私 歴史は繰り返す で国立五校をつくった。 立の徳島、五十二年に鹿 みて、私立大学になんと とである。歯科医師の需 私は三十年ほど前に中 と歯科医学校は二校だっ やっとつくられた。 国民皆保険になり、む 当時としては焼け石に水 児島、五十四年に岡山、 長 かしてほしいと泣きつい 要供給の百年の流れから 国に行った。その頃は中 た。全国で免許をもって 国民歯科医療に本学はじ てくるだろう。 国には医学部が五十校と い る 歯 科 医 師 は 九 百 名 し歯が洪水のように溢れ で、四十年代の前半に文 崎大学が増設された。 中国の歯科事情 (2) 第630号 日 本 歯 科 大 学 新 聞 201 5年(平成27年) 7月30日 創立記念式典祝賀会 でもある。卒後五十年が 授と同級である。朝比奈 リー5025については、 五十四回、卒後二十五年 敏行先生は三十七回の卒 昨年の創立記念式典のと 六月一日午後一時から 員と校友会の先生たちの が七十九回卒業となる。 業で、病理の須賀昭一先 きに少しお話をした。大 ホテルグランドパレス・ パーティをやる、それが ジュビリーと同時にクラ 生と同級だ。光安一夫先 学側とも話を進めていた 白樺の間において、創立 教職員が集まる年一度の ス会が集まり、二重の交 生は校友会の相談役なの が、理事長・学長の中原 校 友 会 か ら ジ ュ ビ リ ー 企画だと思っている。式 はみえる。四十七回の卒 今 年 か ら 実 施 し よ う と 一〇九周年記念式典祝賀 機会だった。このたびは 流がさらに強まり、いい で、正月の賀詞交歓会に 会頭が卒後五十年になる 会が開催された。 中原泉理事長・学長は 5025という大変素晴 典にもこんなにたくさん 業である。このような大 い う 話 に な っ た 。 卒 後 「日本歯科大学はかねて らしい企画が持ち込まれ 出席されたのは初めての 先輩にご臨席をいただき 五十年は赤い薔薇に金色 から質実剛健だと言われ た。 い い チ ャ ン ス だ か ことで、先生方にお目に 感激している」と述べた。 のリボン、卒後二十五年 本日ジュビリーの先生 方の顔を拝見していると、 胸に赤いバラ、金色リボン(卒後 年)と、銀色リボン 同時にクラス会の集まり (卒後 年)のジュビリー5025参加者たち 「ジュビリー5025の企画とクラス会幹事の尽力で大勢の 校友が集まった…」感謝の言葉を述べる、中原理事長・ 学長(上写真)と近藤校友会長(下写真) ゴールドジュビリーは西 があった。卒後五十年の 歓談するなか、ジュビ リーの各代表者から挨拶 したい」と述べた。 幸、健康を祈念して乾杯 ご参会のみなさまのご多 がますます発展つづけ、 年を迎えた日本歯科大学 を申し上げたい。一〇九 幹事の先生に心から感謝 卒で口腔外科の園山昇教 別参列制度、愛称ジュビ ていただいた各クラスの つづいて近藤勝洪校友 は銀色のリボンをつけて てきた。実際には中原實 ら、一緒にパーティをや かかれて喜んでいる。 本日は校友の大先輩の 会 長 は 乾 杯 の 発 声 で、 いる。 ジュビリー5025 名誉学長が、パーティを ろうと、学内では狭すぎ 好 ま な か っ た だ け で あ るのでホテルでやること 斎藤貞雄先生、三十四回 「今回の創立記念式典特 に、多くの参加者を集め ジュビリー5025 全国から集まる る。新年には学内で教職 になった。 109周年を言祝ぐ 25 50 親子で参加した阿部先生父子(写真中央) 79回卒の石垣准教授(左)と田中教授(右) 新潟歯学部七十九回卒の 〈新潟短期大学〉 田中彰教授が挨拶を述べ 今井あかね(歯科衛生学 た。また富山県の五十四 科) 回卒・阿部輝夫先生は、 ☆二十年勤続表彰 萃します。 神田 明(看護科) の 夜 中 の 電 話、 押 し か け て く 『昭 和 四 十 九 年、 五 十 年 で マ る。家内もよく耐えた。日刊紙 その頃、あの有名な総評の安 本学第三十七回卒の朝比奈敏 朝日、毎日、読売、NHK、東 行先生(江戸川区)は、このた 京、産経など)は脱保険、自由 恒 氏(中 医 協 支 払 側 委 員)、 主 スコミ(特に厚生記者クラブ、 に出ない日はなかった。 日歯有功章・日歯連盟功績章 (七十九回)との親子参 古西清司(微生物学) び日本歯科医師会会員有功章、 診療の猛烈キャンペーンだ。 濵田康弘(総合診療科3) 川村浩樹(総合診療科1) 〈附属病院〉 な お 矍 鑠(か く し ゃ 受章するという栄誉を 両会の最高賞をダブル 盟功績章を授章され、 昭 和 五 十 年 五 月 号 の「婦 人 公 論」「歯科医の病根を探る」「脱 保険、差額診療をめぐって爆発 した国民の怒りと内紛を続ける 歯科医師会。この混迷の中から つかみ出さねばならぬ望ましい 〈新潟生命歯学部〉 横須賀宏之(解剖学Ⅱ) 〈新潟生命歯学部〉 横山和良(歯科技工学科) 渡辺まり子(病院事務部) 〈東京短期大学〉 〈附属病院〉 嵐 里子(病院事務部) 石川明子(総合診療科3) 星麻衣子(病院事務部) 矢面に立った攻防戦の一端を抜 私は死にもの狂いだった。自宅 知己を得た。』 歯常務理事のとき、マスコミの でなければわからないだろう。 読売の戸田さんなどなど多くの 厚生省記者クラブとは誠意で 載された。その一部、中原實会 に照らされた記者会見は、血の 長のもと、先生が広報担当の日 小便まで出たのだから、経験者 接した。東京新聞の有賀さん、 日刊紙の一斉攻撃は、社会部 出しで雰囲気は解ってもらえる 朝比奈先生は、江戸川区歯科 医師会々報に「受章の記」を掲 遊軍まで動員し、サーチライト と想います。 歯科医療とは何か」=この小見 三上克美(庶務部) ☆三十年勤続表彰 婦連のオバサンらの連載討論、 加となった。最後に沼部 河上智美(小児歯科学) および日本歯科医師連 林 宗廣(歯科放射線・ 口腔病理診断科) く)たる九十歳。 永年勤続者 〈学校法人〉 山澤武司(歯科技工室) を述べ閉会した。 幸博理事が中締めの言葉 渡邉昌司(内科学) 子 息 の 阿 部 一 雄 先 生 〈生命歯学部〉 朝比奈敏行先生 回卒の石垣佳希准教授、 藤田浩美(歯科衛生科) 清水公夫(総合診療科) 水谷太尊(口腔外科) 田 紘 一 名 誉 教 授、 卒 後 近藤敦子(総合診療科) 横須賀孝史(総合診療科) 廣安一彦(口腔インプラ 岡本むつみ(看護科) 亀 田 剛 ( 歯 科 矯 正 学 ) 二十五年は歯学部七十九 池田裕子(歯科衛生科) 〈新潟病院〉 大森みさき(総合診療科) ント科) 佐々木典子(歯科衛生科) 54回卒の西田名誉教授 〈新潟病院〉 えられた。先生は、今 本山智子(経理部) 日歯会員有功章を胸に ほ こ と 卒後70年プラチナジュビリー 34回卒の斎藤貞雄先生(右) 全国各地からクラスメイトたちが… 第630 号 日 本 歯 科 大 学 新 聞 2015年(平成27年) 7 月30日 (3) 飯 田 橋 本学では、二〇〇九年 より、神楽坂上フィール に取得した新宿区筑土八 ド新築工事の地鎮祭が行 幡町の校地に、 フットサル われ、本学関係者や工事 兼テニスコートと、 クラブ 関係者三十余名が参列し ハウス(通称=神楽坂上 た。 神職による神事のあと フィールド)をこのたび 新築することになった。 中原泉理事長・学長は、 四 一 七・五 坪) の 校 地 に、二十七×十五メート ルのフットサル兼テニス コートと木造平屋建ての クラブハウスを建設す 日本歯科保存学会 市民公開講座 健康に感謝!それはお口から 月 1 日 東 京・九 段 ホ ー ル ― 沼部幸博(生命歯学部歯 できている~丈夫な歯で はお口の中から 元気な一生~ 羽 村 章(生 命 歯 学 部 周病学講座教授) 長・高齢者歯科学教授) なお会場からの質問や 3、歯周病予防で健康寿 演者らのディスカッショ 特定非営利活動法人日 の市民公開講座は、午後 命アップ! ―全身の健康 ンタイムを予定。 る。コートは高さ七メー トルのフェンスで囲う。 本 歯 科 保 存 学 会 で は、 一時開場、一時半開演、三 ク ラ ブ ハ ウ ス は、 八 十 一 月 一 日 の 日 曜 日、 時終了予定でシンポジウ ○・八七㎡(約二十六・五 市民公開講座「健康に感 ム形式の講演が行われる。 坪)、 屋 外 テ ラ ス、 休 憩 謝!それはお口から」を 演題や演者は次の通り。 室のほか、男女それぞれ 開催する。実行委員長は 1、なぜ、かかりつけ歯 のシャワー室、更衣室、 生命歯学部の沼部幸博教 科医がいると長生きか 十一月の富士見祭の当 教授) る。 トイレを設備し、十月に 授。生命歯学部が後援す 星 旦二(首都大学東京 名誉教授 放送大学客員 完工を予定している。 日開催される参加費無料 2、歯は一生持つように 岡田教授(新潟・病理) 外傷歯学会 優秀賞 ○会場:生命歯学部 九段ホール(東京) ○費用:無 料 ○問合せ:日本歯科大学生命歯学部庶務部 (歯髄細胞バンク) 03-3261-8626 歯髄細胞バンク 認定医講習会(後期) 月に開催 第5回 11月26日(木)19:00~21:00 第6回 12月2日(水)19:00~21:00 第7回 12月6日(日)13:00~15:00 同地は、飯田橋駅西口 田橋駅前の体育館と東小 金井駅前のグラウンドが の附属病院から徒歩十分 検体の病理組織学的 優 秀 賞 と 評 さ れ た 作 品 掲載の「垂直性歯根破折 会(後期)を開講する。 で あ る。「二 科 1 0 0 年 歯 展」 は 九 月 十 二 日 か ら 研 究」。 垂 直 性 歯 根 破 折 十一月一日まで大阪市美 に関する研究成果で、破 術 館、 十 一 月 七 日 か ら 折面、周囲組織の病態と 十二月二十七日まで福岡 歯槽骨吸収の機序につい の石橋美術館を巡回する。 て明らかにした。 演奏は新潟市を拠点に 活動する経麻朗(きょう 日本歯科大学・セントラルクリニック 歯髄細胞バンク認定医講習会(後期) ある。屋外でスポーツす の至近距離にある。大久 るためには、電車に乗っ 保通りに面して、JCH 新潟生命歯学部病理学 より平成二十七年度優秀 て東小金井まで行かなく O 東 京 メ デ ィ カ ル セ ン 講座の岡田康男教授=写 論 文 に 選 考 さ れ、 七 月 月と いて行われた。 え た。 引 き 続 き 十 一 月 受賞論文は『日本外傷 二十六日、十二月二日、 十二年(一九二三)の第 十回二科展に入選し、最 歯学会雑誌』第十巻一号 六日の三回、認定医講習 典、総会に引き続 の登録者数は六百名を越 十 五 周 年 記 念 式 は延べ七二三名、認定医 学術大会)の創立 した。受講した校友会員 傷歯学会との合同 ンク認定医講習会を開催 七回アジア国際外 め、計五回の歯髄細胞バ 本学では七月から八月 彰式は第十五回日 本外傷歯学会(第 にかけて、附属病院も含 を授与された。表 てはならなかった。この ター(旧厚生年金病院) 真=は、日本外傷歯学会 十一日に「優秀発表賞」 神楽坂上ならば、富士見 の向かい側で、都道をは のキャンパスから走って さんで隣に筑土八幡神社 十分で来れる。学生諸君 が 位 置 す る。 五 年 後 に は、このフィールドの完 は、すぐ脇に幅三十メー 成を大変楽しみにしてい トルの放射二十五号線が る」と述べた。参列者一 開通予定で現在工事中。 神楽坂フィールドは、 同は、工事の安全を祈願 一 三 七 七・九 一 ㎡(約 して神酒を拝戴した。 12 六月十二日午前十一時 「本学の運動施設は、飯 十二日まで「戦後美術ク 二次大戦後の日本の美術 展示しているが、最初の 「海 水 浴」「兜 の 昇 天」 美術を牽引した力強さ、 に入り込むような不思議 新潟病院・医科病院 ロビーコンサート ロビーに響いた。 い中原作品だが、現代美 ているが、鏡にうつる女 ジリアニの美しき家婦」 夏のジャズ~シネマにの ノの調べが心地よく病院 展に出展されることが多 面のキャンバスに描かれ には、中原實先生の「モ 回ロビーコンサート「初 心に、ギターと電子ピア という名称を冠した企画 空 間](右 写 真) は、 平 家たち ―二科100年展」 総合待合ホールで、第二 など往年の映画音楽を中 品十一点が並ぶ。 なお、上野公園内の東 まろう)ジャズデュオ。 生命力を感じさせる。 「大 正・ 昭 和 モ ダ ニ ズ 七月十四日午後四時か 「い そ し ぎ」 や「サ ウ なかでも今回が初公開 京都美術館で九月六日ま ム」「日 本 の 前 衛 美 術」 となる[鏡の中の四次元 で 開 催 中 の「伝 説 の 洋 画 ら新潟病院と医科病院の ンドオブミュージック」 をはじめ中原實先生の作 絵画が持つ時空を越えた な感覚をおぼえる。 11 神楽坂上フィールド(新宿区筑土八幡町) ナ ー に あ て た。「乾 坤」 作品群を見ると、現代の ら、三次元、四次元世界 ローズアップ」展を開催 を再検証する試みである。 一室を「中原實」のコー 都営「大江戸線」出口から徒歩5分 2020年には放射25号線が開通する予定である 初公開の[鏡の中の四次元空間] 油彩キャンパス 108×82.5cm 術館に展示された一連の 性 が 自 在 に 回 転 し な が が出展されている。大正 せて」が開かれた。 FAX申込み 03-3264-8399 11 20 中原實名誉学長の絵画を 展 示 江東区の東京都現代美術館の常設展示室 - 常 設 展 示 室 で は、 十 月 かから約百点を選び、第 則などの代表的な作品を - 各部屋ごとにテーマを 東京都現代美術館(江 し て い る。 同 館 で 所 蔵・ 東 区 三 好 四 一 一) の 寄託されている作品のな 決め、亀倉雄策や横尾忠 神前に工事の安全を祈願する中原泉理事長・学長 東京都心の 屋外運動場 10月末竣工 地鎮祭 神楽坂上 フィ ー ル ド (4) 第630 号 日 本 歯 科 大 学 新 聞 2015年(平成27年) 7 月30日
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