1.主 題: 『すべての人に与えられる神の喜び』 2.聖 書: コリント人への

聖霊降臨祭(ペンテコステ)
礼拝
2015年5月24日
飯川雅孝 牧師
1.主 題:
『すべての人に与えられる神の喜び』
2.聖 書:
コリント人への第一の手紙12章1-11節
(説教)本日は聖霊降臨祭です。創世記では「神は、土(アダマ)の塵で人(アダ
ム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となっ
た。」とありますから、聖なる神が人間に吹き掛けられる“息”、それを吹き替えら
れた人は力が与えられると考えたら分かりやすいでしょう。
さて、キリスト教の初期の時代はイエスの復活があまりに衝撃的でした。クリスマ
スはキリスト教が広まってから祝われるようになりました。ペンテコステは、聖書の
記述からはイエスの復活よりもむしろ画期的な出来事として描写されております。イ
エスが捕えられ、十字架上に張り付けにされたのはユダヤ教の最大の祭り、過越祭の
時、つまり先祖がエジプトの奴隷から神によって解放された時を祝う祭りが行われて
いた時です。三日後に復活されました。50日後に聖霊が降ったお祭りと言います。
次に「聖霊が降臨する」、それを理解するために宗教現象についてお話します。ま
ず、宗教とはどういう意味かというと、人間が精神的に死の底にあるような現実に置
かれた時、命を取り戻す生き方を求めることでると考えます。このような状況に人間
が置かれることは個人としてもありますが、イスラエルの歴史では時代の節目にそれ
があったことを伝えております。イエスの十字架の死に際して弟子たちは悲しみの極
地に置かれた。神はその時、イエスを復活させ喜びで溢れさせた。その後のペンテコ
ステはそれを進める歴史的瞬間です。これらの現象は人間を死と喜びの極地に置く人
間業では理解できない宗教的現象です。
使徒言行録2章ではその有様を「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こ
え、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一
人一人の上にとどまった。」と伝えています。古代イスラエルの民は、神に出会った畏
れ多い体験を随所で伝えていますが、その一つ申命記(4:32-40)では「あなた
に先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果て
から果てまで尋ねてみるがよい。これほど大いなることがかつて起こったであろう
か。・・・火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きている」ここにはその大きな
体験を後世に伝えている記述があります。
このように、人が物事に対して大きな悩みを感じない日常状態に対して、死の恐れ
や緊張状態、それを乗り越えた時には、人間が経験し得ない大きな体験をしたことが
証明されています。古代イスラエルの民はその厳しい自然や大国の圧迫の中で死活の
状態に置かれ、人間がとうてい守り得ない“聖なる”という神の神性との緊張感の中
で生きることを強いられて来た。新約のイエスの時代を境に、その救いの約束がイス
ラエル民族独自のものではなく、人類全体のものとして伝わりました。救い主イエス
の十字架による贖いの死―聖なる者でない人間が神の前に深く悔い改めを意味する-
と神がその死から復活させた力が与えられる時が来ました。
本日のペンテコステもその歴史的な瞬間でありました。ここでは、昔、預言者が語
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られた言葉は新約聖書を理解する上で中心的な柱をなしています。つまり神の言葉
は、権威を持って新しい時代を切り開きました。今日の招きの言葉では昔、ヨエルが
預言した言葉を、新約の使徒言行録2.17;「『神は言われる。終わりの時に、わ
たしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を
見、老人は夢を見る。」は引用し、「今こそ、その預言が実現しているのですよ。」
「終わりの時」とは、終末的な時を指しています。だから「一同は聖霊に満たされ、
“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」つまり、世界中からや
って来たので言語が異なる人たちが、ペトロの語る言葉を理解出来た。わたしたちは
神の子イエスとこの聖霊によって霊的に交わり、その福音を私たちは世界に広めるの
であります。ペトロたちはこの聖霊降臨によって霊が各自に注がれた後、イエスを十
字架に付けたこの世の権力者たちを恐れることなく、堂々と伝道しました。
この聖霊を与えられたことを受けて、今日のパウロの手紙を見てみましょう。
さて、わたしたちは一旦聖霊を与えられ、聖なる神に向けて新たな生き方に踏み出
すと喜びの中にある自分が分かります。しかし、それが自分の力によるものではない
こと、神から与えられたものであり、日々の訓練と感謝の心を抱くことができるかど
うかによって、さらに恵みが与えられて神の僕としての輝を増す。パウロはこのコリ
ントの教会に来て、聖霊に与った人、その人たちがかつては「誘われるままに、もの
の言えない偶像のもとに連れて行かれ」不法な行為に耽ったことへ再び陥ることのな
いように警告しています。山歩きでは、危ない場所を通る時正しい道を踏み外さない
ように落ち着いて、緊張の中、そこを通り抜ける、もし気を抜いて不用意に渡れば、
外れてそこから脱落する。信仰の歩みも同じように、訓練して聖霊に導かれれば良い
恵みを得ることができる。しかし、怠惰な生活と罪に対する戦いがなければ信仰を堕
落させてしまいます。山登りも信仰も訓練という意味では共通したところがあるので
はないでしょうか。パウロ自身にも、常に自分に襲い掛かる罪があったことを告白し
ています。ですから、運動競技者のように訓練を怠らなかったとも言っております。
パウロは聖霊に従う恵みと、同時に聖霊に逆らうこの世の悪の強さも知っている。だ
から、パウロはもし、人が聖霊に従わなければ、イエスのことを忘れ「イエスは神か
ら見捨てられよ」と言っているような行いをしてしまっている危険もある。それとは
反対に、へりくだって慎重な信仰生活にあるならば、聖霊に満たされ「イエスは主で
ある」という喜びの中にある生活が出来る。神が与える聖霊の賜物を、パウロはわた
したちがとうてい想像もできない困難な伝道の中で実際に体験した。8節から順に
“自分は知恵の言葉を、・・知識の言葉を・・信仰を、・・病気をいやす力を、・・
奇跡を行う力を、・・預言する力を、・・霊を見分ける力を、・・異言―神から与え
られる不思議な言葉を、・・それを解釈する力が与えられた。“ こうした恵みは、
すべて唯一の“聖霊”がわたしたちに働く時与えられる。もし私たちが、神を信じて
謙虚に従う時、わたしたちは、望み通りに“聖霊”の力が与えられ、あのペンテコス
テの時のように人が変わったように雄々しくこの世に出て行ったのであります。
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