ドンナ・エルヴィーラは、どことなく寂しげではあっても

ドンナ・エルヴィーラは、どことなく寂しげではあっても、美しい後姿をしていた。ドンナ・エル
ヴィーラの寂しげな後姿は、恋を失うことでおった心の痛手を無言のうちに語っていた。しかも、彼
女の後姿は、美しかった。彼女の経験した恋が、完全燃焼の、いい恋だったための、その美しい後姿
であった。 どっちつかずの、いらいらさせられることの多い恋をした後の女は、気の毒なことながら、すさん
だ気配をただよわす。生かすにしろ殺すにしろ、はっきりしない男を(あるいは、女を)、まちがって
好きになったとき、女は(あるいは、男は)、帰るに帰れない退屈な宴席で味わわされる、時間ばかり
が意味もなくすぎていく、あの虚しさに耐えなければならなくなる。 湿気った薪は、たとえ火がつけられても、燃えあがることをしぶり、もくもくと煙だけを大袈裟に
のぼらせることでとどまる。薪にしても、男女の関係にしても、くすぶっていいことはなにもない。
世間体が気になったり、相手を品定めした結果に満足できなかったりするのであれば、撤退するにか
ぎる。中途半端な、相手を半殺しの状態にしたままで様子をうかがうような賢い恋人は、恋人として
最悪である。 ドンナ・エルヴィーラの恋人であったドン・ジョヴァンニ、つまりドン・ファンは、相手にした女
を、思いきりよく、一瞬の間に骨抜きにした。それが色事師としてならしてきたドン・ジョヴァンニ
の流儀であった。ドン・ジョヴァンニは、ドンナ・エルヴィーラの場合にも、心と身体を一気にいぬ
いたあげく、ふりむきもせず、去っていった。未練は、おのずと、ドンナ・エルヴィーラの側に残っ
た。 料理をたいらげて後の、汚れた皿がどうなろうと、俺のしったことか。多分、ドン・ジョヴァンニ
は、そういいたかったにちがいなかった。その結果、ドン・ジョヴァンニは、これまでに、イタリア
で640人、ドイツで231人、フランスで100人、トルコで91人、そしてスペインでは100
3人、都合2065人という天文学的な数の女をわがものとしてきた。 むろん、いかにドン・ジョヴァンニといえども、目的を成就した後のベッドで、お前は2065人
目の女だ、などといったりしなかった(はずである)。しかし、よせばいいのに、その残酷な事実をド
ンナ・エルヴィーラにとくとくと語ってきかせた男がいた。ドン・ジョヴァンニの従者レポレロであ
った。レポレロのはなしをきかされれば、ドンナ・エルヴィーラとしても、自分がドン・ジョヴァン
ニにとって2065分の1の存在でしかないことを認めざるをえなかった。 想像するに、これは、ドンナ・エルヴィーラにとって、はなはだ辛いことであった。普通の女であ
れば、そこでドン・ジョヴァンニをあきらめた。レポレロは、そう読んだ。わたしの主人はこれほど
の、手におえない放蕩者ですから、あきらめたほうがいいですよ。レポレロは言外に、そういいたか
ったのである。 しかし、ドンナ・エルヴィーラは普通の女ではなかった。ドン・ジョヴァンニがものにした206
5人中2064人の女までは、ドン・ジョヴァンニを、裏切り者といってそしり、冷酷な男といって
非難するところでとどまった。しかし、ドンナ・エルヴィーラは、ちがった。 レポレロがドン・ジョヴァンニの所業をとくとくと述べるのは、
「カタログの歌」とよばれるアリア
においてである。この「カタログの歌」の前と後に、ドンナ・エルヴィーラのレチタティーヴォがあ
る。その、後のほうのレチタティーヴォは、ときおりカットされることもなくはないが、そこで、ド
ンナ・エルヴィーラは、おおよそ、こんなことをいう、
「あの悪者は、そのようにして、わたしを裏切
ったのね!これが、わたしの愛に対する、あの野蛮なひとの報いなのかしら?」 ここでドンナ・エルヴィーラの口にすることばそのものは、特にどうということもない。音楽的に
も、なんといったってレチタティーヴォであるから、工夫のこらされたものとはいいがたい。にもか
かわらず、すぐれたソプラノによって語られたとき、この「カタログの歌」の後のドンナ・エルヴィ
ーラのレチタティーヴォは、恋する女の哀しさをきわだたせ、涙もろいききてをほろりとさせずにお
かない。 こんなに素敵な女に、こんなに愛されているのに、きみはまだ放蕩をつづけようというのか、など
と、身のほどもわきまえず、ドン・ジョヴァンニに説教のひとつもしたくなる。それほど、モーツァ
ルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」におけるドンナ・エルヴィーラは、女の女ならではの柔らかさ
と確かさをあきらかにして、きわめて魅力的である。 しかし、あらためて考えるまでもなく、そのように、ドンナ・エルヴィーラが女としての魅力をあ
きらかにできたのは、ドン・ジョヴァンニという天下一品の素敵な男がいたからである。ドン・ジョ
ヴァンニは、その辺の盛り場を徘徊する頭がからっぽの女たらしとちがい、ステロタイプなナンパ術
などにたよらず、相手にした女の心と身体を、情け容赦もなく一気にいぬいた。そのようなドン・ジ
ョヴァンニがいたから、ドンナ・エルヴィーラがいた、ということである。 即ち、いい男が(あるいは、いい女が)いないところで、いい女が(あるいは、いい男が)生きな
がらえられるはずもない、ということである。この事実を認めるには、いささかの勇気がいるが、こ
れを認めないことには、はじまらない。しかし、男は男の薄汚さを棚にあげて、女の浅はかさを弾劾
し、女は女の計算をかくして、男の魅力の乏しさを非難するのが、現実である。 それでは、道はひらけない。諸姉におかれても、周囲の男たちを厳しく吟味してみてはいかがであ
ろう。ドン・ジョヴァンニはドンナ・エルヴィーラの、そして、ドンナ・エルヴィーラはドン・ジョ
ヴァンニのてりかえしのなかにいた、というのが事実である。周囲を嘆く前にすることがあるとすれ
ば、それは自分をもう一度ながめなおすことである。