序 不平等は経済成長を阻害する

序
不平等は経済成長を阻害する
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本年 8 月 14 日、内閣府は 2015 年度の「経済財政白書」を公表した。経済企画庁時代の
「経済白書」とは異なり、政権との距離の近さが問題視される昨今の「経済財政白書」で
あるが、本年の白書は、アベノミクスの成果を強調するつぎのような書き出しで始まる。
「我が国経済は、デフレからの脱却と経済再生に向けた取組が進み、デフレ状況ではなく
なる中、企業の収益改善が雇用の増加や賃金上昇につながり、それが消費や投資の増加に
結びつく『経済の好循環』が着実に回り始めている。その結果、企業活動や雇用を含む幅
広い分野で、およそ四半世紀ぶりとなる良好な経済状況がみられるようになった」
。
賃金面での「四半世紀ぶりとなる良好な経済状況」の証左とされているのは、昨 2014
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年以来の名目賃金上昇傾向である。たしかに名目水準は上昇傾向を示してはいる。しかし
その上昇傾向ははたして「四半世紀ぶりとなる良好な経済状況」とか「デフレ状況ではな
くなる」と評価されるに値するものなのだろうか。
1 図は 2008 年 9 月のリーマンショック前後から 2015 年にいたるまでの所定内賃金の四
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半期ごとの動きを示したものである。タテ棒は所定内賃金の平均額指数(2010 年平均
=100)、折れ線は前年同期比(%)を示している。タテ棒の推移をみていくと、2008 年ま
での上昇傾向がリーマンショック以降反転、2009 年は下降傾向をたどる。2010 年に若干
もちなおすものの、2011 年以降はゆるやかな低下傾向である。2014 年第Ⅰ四半期の指数
は 99.1 であり、2008 年第Ⅰ四半期の 100.8 と比較すると 1.7 ポイントの低下である。
1図
リーマンショック以降の平均給与額
毎月勤労統計・5人以上規模・一般労働者 指数は 2010 年平均=100
指数
前年同月比 %
102
2.0
所定内給与指数
所定内給与前年同月比
101
1.5
1.0
0.5
100
0.0
-0.5
99
-1.0
-1.5
98
-2.0
2007
2008
2009
2010
2011
2012
2013
2014
2015
Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ
タテ棒が上昇傾向に転じるのは 2014 年第Ⅱ四半期である。2014 年第Ⅰ期と比較すると

0.6 ポイント上昇して 99.7 の指数となっている。2015 年第Ⅱ四半期はさらに 0.6 ポイン
ト上昇して指数は 100.3 である。この 2 度の上昇は、2014 年と 2015 年の賃上げ闘争の結
果であることはいうまでもない。前年同期比の折れ線をみても、2014 年と 2015 年は
2010 年以来の上昇傾向である。2014 年第Ⅱ四半期以降プラスの数字が続いているが、前
年同期比がプラスを記録したのは 2010 年第Ⅳ四半期以来である。
なお春季賃上げ闘争の平均妥結結果が 2014 年 2.07%、2015 年 2.20%(いずれも平均

賃金方式)であるのに、なぜ両年の平均賃金の前期比上昇幅が賃上げ率よりも相当に低い
0.6 ポイントであるのか。それは賃上げ率が「定期昇給込み」で表示されることによるも
のであるが、これについての詳しい分析は、本冊子第 14 章で行っている。
このように名目値では昨年来上昇傾向がみられるのであるが、消費者物価指数を加味し
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た実質水準ではどうなのか。2 図はその実質賃金推移をみるために作成したグラフである。
2013 年 1 月以降の推移を 1 ヶ月単位で示している。タテ棒はCPI(消費者物価指数)
の前年同月比である。2013 年 5 月までマイナスの状態であったが、6 月にプラスに転じ、
上昇ピッチをしだいに上げていく。2014 年 4 月、消費税率 8%への改訂とともに数字は一
挙に跳ね上がり、前年同月比 3.7%の上昇となる。
2図
所定内賃金とCPIの前年同月比推移
毎月勤労統計・5人以上規模・一般労働者
%
%
4
4
CPI前年比
3
3
所定内賃金名目前年比
所定内賃金実質前年比
2
2
1
1
0
-1
0
1月
2013
3月
5月
7月
9月
11月
1月
2014
3月
5月
7月
9月
11月
1月
2015
3月
5月
7月
-1
-2
-2
-3
-3
-4
-4
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2 本の折れ線は、所定内賃金名目指数と実質指数の前年同月比である。グレーの折れ線
は名目指数の前年比であるが、すでに 1 図でみたとおり 2014 年の賃上げまでは前年比マ
イナスの状況が続き、2014 年 5 月からプラスに転じる。黒折れ線の実質指数前年比は、
2013 年 5 月まで物価上昇率がマイナスであったため、名目前年比を上回る数字である。
物価上昇率がプラスになるとともに実質賃金はマイナスとなり、2014 年 3 月までマイナ
ス 2%前後の状況が続き、消費税 8%への引き上げとともに 3.5%のマイナスにまで落ち込
む。以後名目賃金の上昇と物価前年比の漸減とともに右上がりとなり、2015 年 6 月にプ
ラス 0.4%と、わずかながら上昇に転じている。翌 7 月は 0.3%のプラスである。
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「景気の好循環につながる賃金上昇」をいうのであれば、名目賃金ではなく実質賃金の
水準が問題にされなければならない。たしかに 2014 年以降名目賃金は上昇傾向をたどっ
ているが、消費者物価を加味した実質所定内賃金では、2 図の黒線で示したとおり 2013
年 6 月から 2015 年 3 月まで 22 ヶ月連続のマイナス状態が続いている。2015 年 6 月には
プラス 0.41%の上昇を示しているが、賞与・一時金まで含めた「実質現金給与総額」の 6
月前年比はマイナス 2.7%であり、7 月にようやく 0.1%のプラスに転じたにすぎない。こ
のような状況をさして「消費拡大、景気の好循環につながるもの」とするのは明らかに過
大評価である。
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1998 年以降の日本経済を特徴づけるものは、
「賃金水準の低下⇒消費低迷⇒物価の下落
⇒企業収益の悪化⇒雇用調整⇒賃金水準低下」という悪循環(デフレスパイラル)であっ
た。この悪循環を脱し、「消費拡大⇒生産拡大⇒企業収益改善⇒雇用拡大⇒賃金水準上
昇」という好循環へ転換を図らなければならないことは、誰もが認めるところである。し
かし昨今の動きは、アベノミクスでいう「異次元の金融緩和」
、株価の上昇によって大企
業の「企業収益改善」はみられるものの、それが実質賃金の上昇や消費拡大にはつながっ
てはいないといわざるをえないのである。
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景気との関連で賃金を問題にする場合、多くの論者と同様「経済財政白書」もまた「平
均賃金」しか眼中においていないことも指摘しておかなければならない。「連合・賃金レ
ポート」では従来から「平均賃金よりも個別賃金水準こそ重視されなければならない」と
いう問題意識を編集の基本方針としてきた。過去からの推移や産業間の比較を行うに際し
ては、例えば「高卒 35 歳勤続 17 年」の賃金、あるいは「個別賃金比較の加重平均値」と
もいうべき「パーシェ式」(巻末<参考 4>で解説)の手法を駆使して分析を行ってきたの
はそれが理由である。
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3 図は、名目GDP推移(タテ棒)とともに、各年の「賃金センサス」から算出した所
定内賃金の「平均値指数」(細線)と「パーシェ指数」(太線)の推移を示したものである。
長期デフレが始まる直前の 1997 年を基準(100)とした指数であり、最新の 2014 年指数
は平均値指数 100.8、パーシェ指数 92.7 である。その意味は、1997 年以降の 17 年間、平
均賃金は 0.8%上昇したが、個別賃金水準は 7.3%低下したということである。名目GNP
も 17 年間に 7.8%低下しており、景気との相関度は、平均値指数よりもパーシェ指数の方
がはるかに大きいのである。
3図
GDPと賃金水準の推移
「賃金センサス」産業計企業規模計。年間賃金は「所定内賃金×12+賞与・一時金」。賃金水準推移指数は、1997 年=100
水準指数
105
GDP(兆円)
600
100
550
95
500
90
450
85
GDP(左軸)
400
所定内賃金平均値推移指数 (右軸)
80
所定内賃金水準推移指数 (右軸)
350
年間賃金水準推移指数 (右軸)
300
75
70
85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14
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「平均値推移」と「個別賃金推移」との間に大きなギャップがあるのはどうしてなのか。
その理由は「高年齢化など労働力構成が変化し、高賃金層の比率が増大したから」という
ことにある。いいかえれば現在の「35 歳賃金」や「45 歳賃金」はこの 17 年間ともに低下
傾向をたどったが、高賃金層である「45 歳」の人員ウエイトが増大したため、平均賃金は
横ばいだったということである。このようなかたちで平均賃金が維持ないし若干の上昇が
あったとしても、高齢者向け商品の需要は高まるかもしれないが、全体的な消費の拡大に
はつながらないと思われる。
「景気の好循環」実現のためには「個別賃金水準の上昇」が
必要なのである。
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なお本年の「連合・賃金レポート」では、「平均賃金」と「個別賃金」のギャップにつ
いて、産業ごとの個別事情にまで踏み込んだ、従来よりも相当に詳細な分析を行っている。
2 章「産業別の賃金水準と平均賃金」では、「平均賃金が高くても個別水準は高くない産
業」があることを指摘し、また 4 章「平均賃金と賃金水準の推移」では、「平均賃金は上
昇したが個別水準は大きく低下させた産業」もあれば、逆に「平均賃金は若干の低下、個
別賃金は現状維持の産業」があることを指摘している。
「経済財政白書」が「良好な経済状況」の証左とする「雇用の増加」についても一つ指
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摘しておきたい。4 図は 2007 年から 2015 年まで四半期ごとの有効求人倍率(タテ棒)と
正社員比率(折れ線)の推移を示したものである。有効求人倍率に着目すると、ボトムは
リ-マンショック後の 2009 年第Ⅱ四半期で 0.42 である。それ以降直線的に改善傾向をた
どり、2013 年第Ⅳ四半期以降は1を超える数字となっている。
「雇用状況の改善」がすす
んでいるかのようであるが、注目すべきは、この間正社員比率が下がり続けてきたことで
ある。リーマンショック前の 2007 年には 66%前後であった正社員比率は、有効求人倍率
の上昇と反比例するかのように低下傾向をたどり、2014 年以降は 62~63%前後の数字と
なっている。3 ポイントをこえる低下であるが、このことは近年の「雇用拡大」が、パー
トや契約社員、派遣社員など非正規労働者中心だったということである。
4図
有効求人倍率と正社員比率の推移
「労働力調査」と「職業安定業務統計」から作成
%
1.4
68
有効求人倍率(左軸)
1.2
正社員比率 (右軸)
67
66
1.0
65
0.8
64
0.6
63
0.4
62
0.2
61
0.0
60
2007
2008
2009
2010
2011
2012
2013
2014
2015
Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅰ Ⅱ Ⅲ
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1998 年以降の長期デフレのなかで、さまざまな賃金格差が拡大傾向をたどってきたこ
とは「連合・賃金レポート」で再三指摘してきたところである。企業規模間、役職間、学
歴間の格差拡大傾向は 2010 年以降一段落し、以後は現在に至るまで「格差維持」傾向が
続いている。ただし正社員と非正規社員の格差は、いまなお拡大中である(詳細は 22 章
参照)。格差拡大傾向が継続するとともに、非正規社員のウエイトが増大するということ
は、格差と不平等の問題がさらに大きなものとなるということである。
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昨 2014 年 12 月、OECD(経済協力開発機構)は「不平等は経済成長を阻害する(原
題:Inequality hurts economic growth)」という報告書を発表した。慶応大学の駒村康平
教授によれば、この報告書はつぎの二つの点で、きわめて重要で政策的な意味があるとい
う。第一に、「経済成長」と「格差縮小」が、従来は「あちら立てればこちら立たず」の
関係と考えられてきたが、実際はそうではなく「格差を縮小させる再分配政策こそが成長
戦略である」ことを実証したこと。第二に、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富
が滴り落ちる」とするトリクルダウン理論を否定したこと(駒村康平著「中間層消滅」角
川新書 2015 年)
。富が一部に集中すると、格差が固定化し社会が二極化される。親子間の
格差連鎖が発生し、低所得が理由で教育の機会が得られない人が増大する。そこでの格差
は社会に出てからも継続するため、信頼関係や軌範意識は損なわれ、経済成長率は低下し
て政治的不満が高まり、社会全体が不安定になるというわけである。

「徐々にあふれ落ちる」という意味の「トリクルダウン」は、アベノミクスを象徴する
言葉として 2014 年流行語大賞の候補ともなった用語である。アベノミクスでいう三本の
矢(①日銀の国債購入による異次元の金融緩和、②公共事業などの財政支出、③法人税減
税と規制緩和)は、まず株価上昇の恩恵を受ける富裕層や大企業の経済活動を活発にして
従業員の賃金上昇をうながし、消費拡大につなげ、その影響をサービス業や中小企業に波
及させるという戦略であり、まさに「トリクルダウン理論の現代日本版」である。この間、
大企業の企業収益は改善し、株価上昇の恩恵で富裕層の所得は上昇したが、それが全体的
な消費水準の拡大につながっていないことは、すでに指摘したとおりである。

安倍首相は本年 1 月の国会答弁で「安倍政権として目指すのはトリクルダウンではな
く経済の好循環の実現である」と述べ、アベノミクスを支持するエコノミストもトリ
クルダウンの用語を使用しなくなっている。その理由は不明であるが、上記OECD
報告書が契機になったのではないかと推測される。

アベノミクスは成功しているのかどうか。デフレ克服と経済成長の正しい戦略なのかど
うか。OECD報告書の問題提起をふまえ、十分な検証作業が必要であるように思われる。
◆
◆
「連合・賃金レポート 2015」の編集にあたって

本冊子は厚生労働省の「賃金構造基本統計調査(賃金センサス)」の集計値を基礎デー
タとして、わが国の賃金水準と賃金構造、その推移を分析したものである。この調査は、
昭和 20 年代に始まるわが国でもっとも大規模な賃金調査であり、産業別、企業規模別、
地域別、性別、学歴別に、「きまって支給する現金給与額」や「所定内給与額」
、「賞与・
一時金」
(それぞれの意味については、巻末<参考 2>参照)の水準のほか、年齢や勤続年
数も集計されている。また「生産労働者」と「管理事務技術」の別や、役職別(部長級、
課長級、係長級、非役職)、雇用形態別(正社員、非正規社員)、都道府県別の集計表も利
用が可能であり、短時間労働者についても集計が行われている(巻末<参考 1>参照)。
調査は毎年 7 月に実施され、利用できる最新データは、2014 年 6 月時点のものである。
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本年版の作成にあたっては、二つの新しい試みを行った。ひとつは、従来別個の問題と
して扱ってきた「平均賃金水準」と「個別賃金水準」の二つのテーマを、可能な限り関連
させて論じようとしたことである。関連する章立ても従来のものを再編し、2 章から 4 章
までの 3 章をこの問題の分析にあてている。もう一つは賃金の分散状況について、従来は
40 歳を中心にみてきたが、本年は多くの組合が要求ポイントとしている 35 歳中心にあら
ため、あわせて中高年賃金の分散状況を明らかにするため、50 歳にも着目したことである。