水準測量データの再検討による 1944 年東南海地震プレスリップ

2005 年 2 月
地震予知連絡会トピックス
水準測量データの再検討による 1944 年東南海地震プレスリップ
名古屋大学
木股文昭・鷺谷
威
プレスリップの可能性が示唆されている 1944 年東南海地震について、当時の水準観測手簿を再検討した。そ
の結果、次の 2 点が明確になった。1)当日午前中までの大きな測量往復誤差は、プレスリップの有無が議論でき
る精度でないこと、2)直前の水準儀の不安定は、たしかに測量チームは測量に平均的な作業能率を上回る時間を
費やしている。最終測定までの測量誤差に系統的な傾斜変動は検出されていない。測量チームが平均的な作業
能率で測量を実施していたならば、水準儀不安定は地震の直前 10 数分以内に発生したと推定される。地震波動
から推定される断層モデルで説明困難な天竜川東岸の隆起と名古屋周辺の沈降の上下変動は、前兆的滑りが
2001 年東海スロースリップイベント震源域で進行したとすれば説明可能である。
1. はじめに
1944 年 12 月 7 日東海地域を襲った東南海地震は、当日、震源域に近い掛川で水準測量
が実施されていた。測量は今村明恒の強い要請に陸軍測地測量部が応じた結果である。当
時の測量成果、とりわけ測量誤差に注目し、Sato (1977) 、Mogi( 1984) は前駆的滑りを議
論している。そして、前駆的滑り断層モデルも Ando(1975)と Linde and Sacks(2002)によ
り提案されている。
Sagiya(1998)、高野・他(2003)、鷺谷(2004)、Takano et al.(submitted)は、当時の水準
観測手簿および、手記(越山,1976)から、当時の測量誤差を再び検討し、前兆滑りについて
議論している。本論ではこれらの結果を整理する。
なお、掛川地区では水準測量が当時に二班により実施されていた。水準測量は、技師越
山敏郎(当時 24 才)らにより掛川から北側、三倉(現森町)の既存の水準路線で、技師河野通弘
(当時 26 才)らにより掛川から南、御前崎方面への新設路線で取り組まれていた(中日新聞、
1983)、河野らの観測手簿は、越山らの測量成果を検証する上で、非常に重要な意味を有す
る。しかし、現在まで見つかっていない。
2. 当日午前までの水準測量結果にもとづく上下変動の推定
国土地理院が実施する水準測量では、約 2km ごとに設置された水準点間の測量を効率化
するために、
隣接する水準点間に 600~700m ごとに 2~3 点の作業水準点を設置している。
越山らによる水準測量路線を水準点および、水準点と作業水準点で構成される作業区間を
図 1 に示す。Mogi(1984)はこの作業水準点間の測量誤差(往復誤差)に注目した。一等水
準測量作業規定では、600~700m の往復誤差は約 2mm となる。
越山が実施した地震前後の水準測量で、往復差が 2mm を超えるデータは 96 中 22 個(地
前は 41 個中 9 個)、3mm と 4mm を超える誤差がそれぞれ 6 個(地震前に 4 個)と 4 個(地
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図 1 掛川周辺域の水準路
線。水準点番号と各水準区
間を示す。鷺谷(2004)より引
用
表 1 各作業観測
区間の水準測量
往復誤差。鷺谷
(2004)より引用
震前に 3 個)となる(表 1)。たしかに 4mm を超える測量誤差の 2 個が地震発生当日の午前
に集中する。しかし、観測された誤差を傾斜変動として説明するモデルの構築が困難な
こと、地殻変動が検出されたという水準点近傍で変動が継続して検出されていないことか
ら、鷺谷(2004)は「異常傾斜変動の根拠となるデータは必ずしも絶対的なもので言えず」
と結論する。
3. 地震直前の水準儀の不安定な状況と傾斜変動の推定
一方、越山(1976)が「レベルを合致させようとするも、レベルの気泡が動いて静止し
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ない。たんぼの中の一本道で強い風が吹き抜けていた。日傘で風よけを作らせたり、器械
のセットをやりなおしたりいろいろ試みたが、レベルの動きはますます大きくなるばかり
であった。そのうち、大地震がおき、瞬間、道路が波うってくるのがみえた」と表現する
水準測量作業から、地震直前の傾斜変動を検討してみた(高野・他,2003;Takano et al.,
sbmitted)。
まず、「レベルの気泡が動いて静止しない」の記述から、傾斜変動量を検討する。越山ら
は水準儀として Carl Zeiss JENA type III (Serial No.8376) を使用していた(現在国土地理
院名古屋地方本部に保存)。気泡管レベルの精度は 10~12″(50~60x10-6 rad)/2mm である。
著者らの経験と実際に同水準儀を操作して、測定者が不一致と関するずれは、気泡管レベ
ルで 0.5mm、傾斜変動として(12-15) x10-6 rad と推定する。このことから、水準儀不安定
という状況を傾斜変動で説明するには、少なくとも 1 x 10-5 radian 以上の変動が進行して
いたと推定する。水準儀と標尺の間の距離は観測原簿に 40m と記されていて、標尺間の 80m
では 0.8mm の上下変動に対応した傾斜変動に対応する。
この水準儀不安定な状態が検出された場所は、観測原簿から、水準点 5259 から 600m、
図 1 に☆で示す。
つぎに、このような傾斜変動がいつから生じたかを考察する。水準観測手簿によれば、
1944 年東南海地震に遭遇する水準測量は水準点 5259 から 12:53 に開始している。そして、
13:40 に「地震の為に中止」と記している。東南海地震の発震は 13:35 であり、彼らの時計
が 5 分ほど進んでいた可能性が高い。地震は越山らが地震前に実施した水準測量について、
観測手簿から測量1回の作業時間を計算すると平均 5 分となる。地震に遭遇するまでに 7
図 2 水準作業区間 31(D)における測量ごとの誤差と水準儀不安定から推定される上下変動量。
■が各回ごとの誤差、□が積算した誤差を示す。
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図3
左上)1944 年東南海地震前後の水準測量
で 検 出 さ れ た 上 下 変 動 (Inouchi and
Sato,1975)。
右上)水準測量で観測された上下変動を説
明する断層モデル。
右)山中(2004)により推定された 1944
年東南海地震断層の滑り量分布。
回の測量を終えている。7 回の測量を平均的なペースで進めてきたとしたら、13:23 から地
震と繰遇する最終の測量に取り組むことになる。すなわち、水準儀不安定は地震発生の 17
分前以降に観測されたことになる。越山の手記から、当日は強風が吹いていたことから作
業能率はよくなかったと推測される。ゆえに、地震に遭遇した測量は 13:23 分よりも遅れ
た確率が高い。水準儀不安定な状態は地震発生の 10 数分前と推定する。
このような水準儀不安定な傾斜変動が、越山よって感じられる前にも発生していたかに
ついて測量手簿から推定する。越山らは、水準儀から、後視、前視、そして前視、後視と 1
回の測定において、標尺間の高度差を 2 回測定している。この測定期間中に系統的な傾斜
変動が進行すれば、測定誤差に系統的な成分が検出されるはずである。1 回の測定を 5 分間
と仮定し、各測量の測量誤差、積算誤差を図 2 に示す。図には 8 回目の測量における水準
儀不安定を上述したように 0.8mm の上下変動として示す。
図から明瞭のように、7 回繰り返した測量で、測定誤差はすべて±0.2mm 以内に収まり、
誤差に系統的なものは見られない。すなわち、8 回目の測量において手簿で述べられたよう
な水準儀の不安定は、水準測量の観測原簿から徐々に進行したものでなく、突如、地震発
生の 10 数分前に発生した現象と考える。
越山の手記で述べられた水準儀不安定が、ドラフト的な成分なのか、震動的な成分なの
か明確にすることはできない。しかし、水準儀不安定が実際の地殻変動と解釈すれば、そ
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の前兆的な傾斜変動は地震の発生数分から 10 数分前に突如として進行したものと考えられ
る。
4. 前兆的傾斜変動の断層モデル
越山と河野の二つの水準測量グループは、東南海地震に遭遇した後、直ちに復旧測量に
取り組み、三倉から御前崎までの区間で地震に伴う上下変動を検出している。Ando(1975)
や鷺谷(2004)はこの上下変動から、前兆的傾斜変動のモデルを考察している。そして、
鷺谷(2004)によれば、上下変動を説明するためには断層上端が 13km 前後という非常に
浅い断層が必要としている。
1944 年の水準測量後、1950 年には国道一号線沿いに水準測量が実施され、天竜川東岸域
で最大 20cm の隆起、名古屋周辺で最大 20cm に達する沈降が観測されている(図 3 左上)。
これらの上下変動は、考察されている 1944 年東南海地震の断層モデル(たとえば
Ando,1977)などでは十分に説明できない。
一方、浜名湖周辺域では、国土地理院の GPS 観測から、2001 年以降北西方向の水平変
動が停止し、隆起の上下変動が観測され、スロースリップイベントの発生が推定されてい
る(Ozawa et al.,2002)。Ohta et al.(2004)によれば、このスロスリップイベントは主として
プレート境界の深部 25-35km で発生し、25km 以浅では依然としてプレート間では固着が
継続していると考察している。
また、Yoshida and Kato (2003)は、速度依存摩擦構成則を用いた数値シミュレーション
でスロースリップイベントと巨大地震発生の関連を検討している。彼らによれば、プレー
ト間カップリングの遷移層では、スロースリップイベントが繰り返し発生した後に、固着
域における巨大地震の前駆的スリップが遷移層で発生する実験例が存在する。
以上の観点から、2001 年以降に観測されている地殻変動から推定されたスロースリップ
イベント断層域(Ohta et al.,2004)において、前駆的滑りが進行したと仮定し、その滑り
量を推定してみた(図 3 右上)。現在のスロースリップイベント震源域で南東方向へ 1m 滑
れば、水準測量から検出された天竜川東岸域の 20cm の隆起と名古屋周辺での 20cm の沈降
が説明できる。
一方、山中(2004)は 1944 年東南海地震時の煤書き記録から震源域における滑り量分布
を推定している(図 3 右)。彼女によれば、3m の滑り量分布が遠州灘域に推定されている。
しかし、推定された滑り量分布では天竜川域の隆起と名古屋周辺での沈降は十分に説明で
きない。
1944 年東南海地震前後で観測された上下変動を説明するに、現在スロースリップイベン
トが観測されている浜名湖周辺域で、前駆的滑りを仮定すればよい。すなわち、観測され
た上下変動は前駆的滑りによるものと考えられる。掛川周辺では、その前駆的滑りによる
傾斜変動は 10μradian と計算される。この傾斜変動は、地震発生直前に報告されている水
準儀不安定から推定される傾斜変動に相当する。
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5. 結論
1944 年東南海地震発生の 3 日前から、水準測量の誤差より推定される地震の前駆的な滑
りと解釈される上下変動については、変動を十分に議論できるほどの測量精度でないと考
える。しかし、越山が手記で述べた「水準儀の不安定」を当時の水準儀と測量内容から推
定すると、この傾斜変動は地震発生の 10 分という直前に突然発生したことと推定される。
このような傾斜変動は、現在進行している東海スロースリップイベントの震源域で 1m 程度
のプレスリップが発生すれば説明できる。1944 年東南海地震前後の水準測量から検出され
た天竜川東岸の 20cm の隆起と名古屋周辺の 20cm の沈降は、地震波動から推定される断層
モデルでは説明が困難であり、東海スロースリップ域での 1m の滑りで説明できる。すなわ
ち、手記での記述を説明するには、東海スロースリップイベント域で地震の発生 10 分前か
ら前駆的スリップが進行した仮定すればよい。
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