北海道(十勝)と 松崎、依田勉三

(ワッデル7年来日)
。晩成社3幹部となる渡辺勝・鈴木銃太郎(ワッデル塾)を知る。
10 年(1877)兄佐二平を手伝い豆陽学校(下田北高の前身)創設に尽力。
(この時渡辺勝が同行来豆)
。
(この間、佐二平の命で富岡へ養蚕研究)
12 年(1879)豆陽学校(下田北高の前身)開校され教諭となる。勝は教頭。従妹リク(善六妹)と結婚。
14 年(1881)1月北海道開拓を正式に表明。単身北海道踏査。田内・内田の十勝有望論に出合う。
16 年(1883)3.14 大沢で送別の宴。俊助(2 年 2 ケ月)義姉ふじに預け、第 1 陣 13 戸・27 人帯広移民。早くも
15 年(1882)晩成社結社。銃太郎と移住地調査 7.15 オベリベリ(帯広)開拓地に決定(開拓記念日とする)
。
3戸4人逃亡。10 月鈴木親長、カネ、弟文三郎入地。9.7 俊助死亡。カネ 子供に勉強を教える。
この中に南伊豆町出身山本金蔵、のち大豆種を札幌から送り帯広の安定作物。
野火、蚊、ブヨ、アブ、バッタ、長雨・旱魃・冷害、マラリヤ病、輸送等に苦しむ。
18 年(1885)6月義姉ふじ(佐二平妻)没。リク 病気療養(18.9~22.8)に伊豆へ帰る。
19 年(1886)銃太郎 晩成社改革を帯広視察中の佐二平に建言、拒否されて幹部辞任。
銃太郎 アイヌの酋長娘コカトアンと結婚(常盤と改名)する。勉三、文三郎は当縁村生花苗
20 年(1887)文三郎伊豆へ帰り、翌 21 年没。22 年リク北海道に戻る。
に牧場、勝、銃太郎は渋更、音更、芽室など開墾。
23 年(1890)松平毅太郎(駿東郡富岡村生れ) 勉三の養子となる。佐二平第1回衆議院議員となる。
24 年(1891)大豆が安定作物となる。濃尾地震(のち岐阜移民者が多くなる)
。
25 年(1892)佐二平・勉三 それぞれ緑綬褒章を授章。
26 年(1893)帯広∼大津間囚人道路開通。副社長として善吾が帯広へ入地。
27 年(1894)病気を理由にリクと離婚。函館で牛肉店開業。
・
9年(1876)1.31 慶応義塾を正式退学(理由=語学修業・ワッデル塾)
。9月脚気、胃病を理由に伊豆へ帰る。
・
8年(1875)「ケプロン報文」に出合い北海道開拓を決意。同年末?英国人牧師ワッデル塾入門(洋学勉強)
。
・
5年(1872)8 月江奈・謹申学舎入門(20 歳)
(旧会津藩家老西郷頼母塾長)
。リクら富岡製糸場へ女工研修。
川の 字と なって 眠る
昭和 29 年(1954) 勉三 北海道開拓神社の祭神 37 柱目となる(間宮林蔵、松浦武四郎、伊能忠敬等と合祀)
。
・
勉三は 帯広に眠る が、大沢墓所
︵松崎町︶の一角に、別れた 夫婦
が 子ども を 挟んで眠る 墓 がある 。
左に先妻リク 、右に 勉 三、中心に
二 歳 二ヶ月で 逝った 俊 助で あ る 。
勉三は 大正十四年十二月十二日、
リクは 昭和 十年、共に 北海道で亡
く な る が 親 族の 計 らいで 一つの 墓
石と なる 。帯 広に 建つ巨 大な 銅 像
も 、渓流の揺ら ぎを 反射する 小墓
石も 勉 三 が 同 時に 描いた 夢に 違い
ない。
晩 年 、 勉 三は 中 風を 患って 不 自
由の身 体と なる 。それでも 生 花苗
沼を 開 削しての ﹁築 港 ﹂に 老 骨 鞭
打つ。そして ﹁ 晩 成 社には 何も 残
。されど十勝野は⋮
の 語を 遺し 、生 涯を 閉じる 。見上
げた 開拓魂である 。享年七十三。
合 掌
5年(1916)晩成社株主・善六、佐二平、勉三3人となる。 八百・キク結婚(勉三家を継ぐ)
。
4年(1915)途別水田の掘建小屋にサヨと住込み造田従事。
(63 歳)
6年(1917)緑綬褒章飾版加綬(開拓、勉三翁の右に出るものなからん)
錦に勝ることな忘れぞ 勝・銃太郎出席)
。12 人に回章して「送別」の詩幅完成。
11 年(1922)勝(6.15)没。善吾(12.21)没。
13 年(1924)春より中風に罹る。9.16 サヨ 看病疲れで没。9月末(11 月?)リク 勉三の看病に来る。口
14 年(1925)12.12 勉三没(73 歳)北海道に 45 年。リク葬儀に来て広尾に住む、昭和 10.11.3 没。
論し病室を訪れなくなり、12 月伊豆へ帰る。10.15 佐二平没。
昭和7年(1932)12 月晩成社解散。
昭和 16 年(1941) 6.22 帯広中島公園に銅像建立(中島みゆき祖父武市が資金)昭和18年供出・昭和26年7月再建。
銃太郎(大正 15.6.13)没、リク(昭和 10.11.3・73 歳)没、カネ(昭和 20.12.1・83 歳)没
強い使命感、有言実行のひと
︵
・
ことを 成し得た 人物をみる 時、大きな 衝撃的出来事に遭遇している 。勉
三の 生まれ年は 黒船到来、少年期に父母を 失っている 。そのため 感受性 が
強く、時代の要請に強く反応する性癖があ り 、また名文家である。
﹁ま すらお が心定めし北の海、風吹か ば吹け 浪立た ばたて﹂は、慶応義
塾在学中、福沢諭吉の﹁本邦の人口年々激増し、耕地がそれに伴わな くな
る。今こそ不毛な 地を 開拓しなけれ ば食糧欠乏必至﹂と 、黒田清隆開拓使
長官 が米国農務長官歴任者ケ プロンを 招請、現地踏査しての﹁ケ プロン報
文﹂=﹁そもそも 本道︵北海道︶その広大たる やアメリカ 合衆国西部の未
開地に等しく、その財産は無限の宝庫である 。かかる 肥饒な 沃野を 放置す
るは日本政府の怠慢である 。⋮⋮この開拓に着手しなけれ ば外国に侵略さ
れるであろ う 。⋮⋮このわ が探検は 先例にな く 日本国民にとっても 一大先
駆というべきものである ﹂の文字 が胸をえ ぐる 。このころ 勉三は 胃弱と 脚
気に悩ま されていた 。 だ が彼の非凡さは ﹁とても 学問では成り がたく思い
まして、農業をいたし心身を 健やかにして国に尽くさん﹂と 。また 自らの
次男的立場を 無用者と 称し﹁わ が郷土の ごとき 人口過多の地よ り 、これを
北海道の ごとき 無人の地に移植し、その欠乏の万一を 補わ ば、余の ごとき
無用者変じて有用の者ならん﹂となるの だ。
写真の乞食姿も 、例え 失敗しても 北地
に骨を 埋めよ うとのメッセー ジが込まれ
ている 。その伏線に明治十四年単身渡道
の﹁北海紀行﹂に、広尾の体験﹁時に雨
降る 。時に日すでに昏れたり 。初めこの
家に至る やたまた ま 鮭の初漁にして漁夫
十数人祝宴張りて囂々た り 。余、ついに
一 泊 を 乞え ど も 応 ぜ ず 、 再 三 す れ ど 皆
聞から ざるに擬して応 ずる 者なし。辞を
卑うして強く乞う 、あたかも 乞児の ごと
く す 。⋮炊婦ついに諾す 。⋮土人これを
観守す。⋮余また土人に敬礼し、慇懃に
一夜の厚意を 謝す。⋮平身低頭するの出
来しことも ま た 一奇 事というべし ﹂と 記
す。大沢で開かれた﹁別離の宴﹂の漢詩
は 、勉三 が男児報国知何日/為事人間
在黒頭︵男児国に報いるを 知るは 何れの
日か 、 人 間事を な すは 黒 頭にあ り ︶と 詠め ば 、 兄佐 二平は 辛酸 常楽我 家
流︵辛酸常に楽しむは我が家の流︶と応える。
開拓地を 帯広に決したのは、札幌農学校出身者内田瀞、田内捨六の﹁道
東地方内陸踏査記録﹂である 。そこに﹁天造の大牧場な り 、十勝は耕耘に
適するところ 、十勝原野を 二十五里四方に推定するなら ば百十三万頭の牛、
一頭三十円と するな ら ば三千三百万円、開拓進んで荒野変じて良田となる
なら ば数倍の産物が得られるであろ う ﹂と ⋮。それに﹁天草の民衆二百戸
の移住計画﹂と 聞き 、胸躍らせて入地する 。 だ が末尾の﹁道路開通は開拓
の 大本な り ﹂を 見落とし 、奥地 帯広を 選ん だことは 晩成社経営には 致命
的な影を落と す。試行錯誤の連続、開墾して種をおろし、野火、蚊、ブヨ、
虻、なかでも飛蝗襲来で無収穫、常に霜害に遭遇。他に長雨、旱魃、冷害、
マラリア病、輸送⋮、洪水、熊害、移民者の逃亡、病院もなく病気が容赦
なく命を 奪う 。明治十七年、飢餓が襲う 。囲炉裏にかけ られた鍋には隠れ
るほどの米粒 野草、鮭肉が入れられる 。その煮立つのを 見た渡辺勝は﹁
ち ぶれた 極度か豚とひとつ鍋﹂と 嘆く。これを 勉三は ﹁開墾の始め は豚と
ひとつ鍋﹂と 切り 返し 、 開拓への発憤を 促す 。また 一日一回 唱えたという
﹁報徳訓﹂の﹁わ が富貴は父母の積善にあ り 、子の丹誠にあ り 、田畑山林
は人民の勤労にあ り 、来年の衣食住は今年の艱難にあ り ﹂が、心の後支え
する 。因みに帯広の地名は 、アイヌ がそこを オベリベリ ︵湧き 水が流れる
口︶と呼んでいたのを 、勉三が発音から 命名し、自らを﹁帯水﹂と号した。
なお 、東京で活字求め 、勉三と 勝が組み 版をしたという ﹁晩成社細則﹂
には﹁北海道の開否はわ が全国の形成上、重大の関係ある 所なれば、国民
の義務としてその担当をせ ざるべから ず、⋮この社を 起こす 所以、⋮同胞
人民の賛成を 請う 所以、⋮純益割賦のときは株主は二割を 取りて満足し、
⋮余りは皆積み 立て、社員集議の上、小にしては本社植民、学校、病院、
道路及 び 救恤等を 補助し、大にしては国家の義挙に応じ⋮﹂と 、高邁な 文
面を 綴る。
それに晩成社の名は﹁大器は晩成す﹂の語からとり 、渡辺勝 カネ夫妻、
鈴木銃太郎 親長父子、内助の功 リクとサヨ、初期開拓団となった 南伊豆
町の人々、十勝で病をえて伊豆で亡くなる 実弟と 義兄。後援を 惜しまなか
った 依田佐 二平 、善 六 、その一 族、 幾 多の方 があっての 開拓で、勉 三ひと
りで成し得たものではない。
乞食姿の勉三(開拓移民前に撮す)
勉三
清水三郎(松崎町吉田)と、右
左
・
7年(1874)8.31 慶応義塾入学。
(22 歳)
・
明治3年(1870)横浜か、東京へ。
(沼津、東京湯島・共慣義塾説あり=研究余地)
(18 歳)
・
3年(1863)母ぶん没。
(11 歳)
・
慶応元年(1865)父 善右衛門没。
(13 歳)
。慶応2年(1865)師・三余没。
(14 歳)
・
文久元年(1860)5男善吾が生まれ久良之助の名を継ぐ。のち晩成社現地副社長。
・
実質的2男として育つ。佐二平と年齢差7歳、幼名久良之助、11 人兄弟姉妹。
北海道各地に点在する勉三の足跡
大正元年(1912)網走線(鉄道)開通。 2年(1913)大凶作。姪キクを養女に迎える。
(
安政6年(1859)土屋三餘(那賀・義伯父)の三餘塾入門。久良之助から勉三に改名。
(7歳)
いっ時の至福﹁水田所の宴﹂
35 年(1903)善吾 帯広を去り伊豆へ帰る。依田本家改革(佐二平・北海道、勉三・大沢)を相談。
・
晩成社50年満期に延期。
勉三銅像は、中島みゆき祖父が寄贈
28 年(1895)函館生まれのサヨと再婚。毅太郎養子解消。
帯広市を 訪れる 時、必 ず目にふれるのが簑笠姿の勉三銅像である 。これ
は 昭和 十 六 年 ︵ 二 代目は 二 十六 年 再建 ︶、シン ガ ーソン グライタ ー 中島み
ゆきの祖父武市による資金で建設されたものである 。元は晩成社所有地で、
今は﹁帯広神社前 中島公園﹂と呼ぶ。
写真の台座 初代︶側面﹁
業 不 磨 ﹂の 筆は 慶 応 義 塾 後 輩
尾 崎 行 雄 咢 堂 ︶、 前 面 題 字は
大日本報徳社長一木喜徳郎
︵ 二 代 目は 武 市と 同 郷 大 野 伴
睦 ︶、 彫 塑 製 作 は は 田 嶼 碵 郎
である。
、明治二十九年
︵ な お 武 市は功
岐 阜 県 生 ま れ 、 北 海 道は 旭 川
の書店を 振り 出しに、結婚して帯広に移り 住み 、饅頭屋、古物商を 営む 。
また大成するには主人、女房、店員三者の和が大切と ﹁古物商みつわ 屋﹂
と 名付ける 。そして勉三の生き 様に共鳴し渡道二十周年、四十二の厄年を
機に禁酒禁煙、五万円を 投じて﹁寄付も 資産の一つ﹂の気概を 示す。のち
帯広市商工所会頭、戦後、将来は鉄道よ り 自動車と、北海道開拓国営自動
車路線期成会々長となる。
ま た 、 昭 和 四 十 一 年 帯 広 民 衆 駅 は 完 成 する が 、 国 鉄 総 裁 は 松 崎 町 出 身 石
田礼助、武市は帯広市議会議長として総裁室で会う 。礼助は親族であるこ
とを隠し﹁地下の勉三翁が守って下さったお 陰でしょう ﹂と尽力する。
嘉永6年(1853)黒船到来の年生まれ。大沢・依田善右衛門(名主)の3男、長男佐二平すぐ下に庄助が早世して
﹁十勝の三拓聖﹂とは、草分け 的存在の依田勉三、蘭医で七十三歳で陸
別入植した 関寛、二宮尊徳の孫で牛首別︵豊頃︶に農場を 開いた 二宮尊親
をいう 。すでに伊豆は報徳思想の地で、尊親から 直接教えを 請う 。 晩成
社には、帯広、売買︵う りかり ︶
、途別、当縁︵と う ぶい 生花苗、現大樹
町︶四農場があ り 、善六ら 個人所有として渡島当別︵函館の対岸︶にもあ
った 。勉三日記に﹁トラピスト男子修道院︵木古内︶に地代請求﹂の記述
がある 。また 十勝川河口の大津に晩成社支店があ り 、貸金の質草となった
漁場を 営ん だ経緯がある。
函 館は 、 丸 成 牛 肉 店を 開 業し
て 六 年 間 滞 在 。 リ クと 離 別 、
サヨと 再 婚 、 生 後 二ヶ月の 千
。娘の靖和女学校寄宿
外 人 居 留 地への ご 用 聞 き 、 当
縁 牧 場か ら 生き た 牛を 追 うの
に 十 数 日 を 要し 、 中 継 、スト
ック 場 所に 襟 裳 岬 近 くの キス
ケ 、 函 館 近 辺に 設 置し 、 明 治
三十年七重畜産株 式会社長就
任。 乗馬界重鎮 函館 大経、井
田 写 真 館と 親 族 ま がいの 交 流
を する。
札幌は、開拓使庁、道庁に陳情、バター 売り 込みに度々訪れる 。また囚
われの偽名﹁大久保大和﹂を 近藤勇と 看破する加納道之助︵通広=南伊豆
町加納︶と 、沼津兵学校 札幌農学校卆 のち 沼津市久連に興農学園開設の
渡瀬寅次郎 が開世
拓の
使死
庁にいて世話になる 。真、
駒内で種牛購入、大正六年札
幌競馬場において所有馬キングスター がチャンピオンになる。
その他、初代豚は釧路から 。旭川︵農場︶の小林直三郎から 輸入種牛の
譲り 受け 。帯広への通路の湧洞 茂岩。炭坑探索の浦幌。音更 渋更 芽室
広尾 浦河 苫小牧 小樽など、各地に足跡を 残す。
な お 、行く 先々で研究に余念な く 、熱心にメモをとる 。伊豆大島へは 隣
人を 使い、自らは信州山中を 踏み 分けて酪農の情報集め する 。それを 如何
に体調が悪くとも ﹁日記﹂に清書する強靱な 精神の持ち 主である。
31 年(1898)29 年の十勝植民地貸付解除以来、帯広に移民殺到=晩成社の前途に、だが大洪水で腰砕け。
勉三の生涯は、悲劇 ばかりと 思われがち だが、明治四十四年と 大正十一
年、皇太子時代ではある が大正 昭和天皇に拝謁している。
そして大正九年、稲作に成功した途別水田所︵造田に勉三夫妻が寝泊ま
りした小屋︶に、渡辺勝、長く反目した鈴木銃太郎、アイヌ 指導者安田巌
城、伏古水田開発者津田禎次郎を 招く。接待者は勉三、妻サヨ、事務員鈴
木幸吉︵長津呂出身 ︶。一同は 枯れた 年齢とな り 、開拓の情熱た ぎる 余り
の恨みは消え 、酒に頼ら ず互いに短歌を 披露する 。勉三は﹁有り 難し雨の
降る日の簑と 笠、錦に勝ることな忘れ ぞ﹂と 。その場で四人が漢詩﹁送別﹂
を 分かち 書き、回章して十二人で一幅を 完結する。間もなく佐二平撰文、
土屋竹篁︵大沢出身︶刻む 石碑が
途別徳源地に建つ。
有難し雨の降る日の蓑と笠
9年(1920) 水田の碑 佐二平伊豆より贈る。途別水田所で宴を開く。勉三
を発見。
香(におい)早稲
と訂正。
開墾の始めは豚とひとつ鍋
落ちぶれた極度か豚とひとつ鍋 、勉三
・
・
松 本 晴 雄
・
17 年(1884)飢餓、勝
冷害に強い黒毛品種
32 年(1899)途別水田に着手。37 年
札幌・開拓神社(北海道総合研究調査会浜市氏提供)
銅像(初代)台座の側面文字
北海道開拓神社の祭神となる
《依 田 勉 三 略 歴》
大正七年、天皇行幸記念として刊行され
た﹁開道五十年北海道﹂に﹁開拓功労者、
緑綬褒章及び飾版加授の先駆者依田勉三﹂
の題で﹁本道の開拓事業に従事し 、農牧に
尽瘁せる 功労者、その人に乏しから ずとい
えどもおそら く依田勉三翁の右に出 ずる 者
なからん。政府つとに緑綬褒章を 賜い、け
だし飾版の下賜はこれを 以て本道における
嚆矢と す﹂と 。北海道開拓神社には松浦武
、間宮林蔵、伊能忠敬、高田屋嘉兵衛
近藤 重 蔵 、 黒 田 清 隆 、 岩 村 通 俊ら が 祀ら
れる 、昭和十三年、札幌に創建された神社
である。
勉三合祀の発端は、札幌市議会議長福島
利雄、写真家鈴木真一の孫三原武彦らで、
昭和二十九年、三十七柱目の祭神となる。なお 福島は古本屋にたまたま 立
ち 寄った ﹁十勝 開 拓の人 柱、依田勉 三翁の偉業 ﹂︵萩 原実 著 ︶を 手に取り
感動し、残本を買い集めて小中学校へ寄贈したという 。
、
29 年(1896)千世(ちよ・6.2 生∼ 8.6 没)
。二宮尊親(尊徳の孫)牛首別に入地、交友。
松崎、依田勉三
北海道(十勝)と
十勝監獄開設受刑者 1,300 人、職員 267 人。囚人=道路、産業、農業に貢献。御用商人集まる。
・
・