第2章 大和朝廷と秩父

第2章 大和朝廷と秩父
第1節 正しい歴史認識のために
私が以前に勉強した所によると、大和朝廷が多摩川沿川を拠点とする小杵(おき)を制圧
し、上野国(こうずけのくに。上毛野国のあとの名称)の小熊を帰順させ、関東を支配す
るのは6世紀のことである。
先に紹介したように、秩父神社の公式ホームページでは、秩父神社の創建は崇神天皇の頃
に知知父彦命によると記載されている。さらに、『 元慶2年(878年)には神階正四位下
に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の
古社のひとつに数えられて います。』と記載されている。崇神天皇については、一般的
に、記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるとしな
がらも、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくないので、多
くの人は、秩父神社の公式ホームページを読めば、秩父神社の創建を3∼4世紀と思って
しまうだろう。しかし、上述したように、大和朝廷が関東を支配するのは、6世紀のこと
であるから、秩父神社が知知父彦命によって3∼4世紀に創建されたと認識するのは、歴
史認識として間違っている。私としては、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」で述べた
ように、崇神天皇は架空の天皇であり実在しないと考えているので、秩父神社の存在が
はっきりしているのは、秩父神社が神階正四位下に進んだ9世紀であるとしか言えない。
私の考えとしては、知知父彦命が秩父神社を創建したのは、7∼8世紀である。この第2
章では、 知知父彦命を意識しながら、その頃の秩父はどうであったのかを考えてみたい
が、その前に、秩父神社の存在がはっきりしている9世紀の頃の大和朝廷と秩父との関係
を勉強しておきたい。
第2節 秩父平氏の誕生
第1章で述べたように、秩父神社の公式ホームページには、「 延長5年(927年)に編算
された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられていま
す。」「 中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と
習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判 然令により秩父神社
の旧社名に復しました。」と記載されているが、 秩父神社は秩父平氏によって秩父妙見
宮としてその名を馳せるので、この第2節では秩父平氏を中心に9世紀の頃の大和朝廷と
秩父との関係について勉強しておきたい。
私の住んでいる秩父市山田に恒持神社というのがある。秩父の人なら恒持神社の祭である
「山田の春祭り」を知っているので、恒持神社というものを知っているが、三峰神社や秩
父神社ほど有名でないので、ほとんどの人は恒持神社を知らないと思う。しかし、大和朝
廷と秩父の関係を語るとき、恒持神社の謂(いわ)れから語らないとダメなようである。
高望王の弟君の恒望王(桓武天皇の3世)のことを知っている人は少ない。それは歴史書
にも系図にも出てこない人だからだ。秩父市山田の恒持神社の祭神が恒望王なのである。
この人がなかなかの人で、亡くなってからその遺徳を偲んでその人の霊をお祀りしたのが
恒持神社なのである。
兄の高望王が東国にくだられたころ、恒望王は大宰権帥(だざいのごんのそち)という
役につかれて遠く九州の任地に赴(おもむ)かれたが、あまりに清廉潔白な性質がわざわ
いして讒言(ざんげん)にあって武蔵国(むさしのくに)に左遷され、彼は今の東秩父村
大内沢に住んだ。平城天皇の大同元年(806)に、恒望王の罪は讒言によるものである
ことがわかって、もとの官位にもどり、配所が武蔵野の一隅であったので武蔵権守 (ごん
のかみ)になられ、大内沢より秩父山田へ移られたということである。そしてその管轄さ
れた郷を恒望庄と言ったが、朝廷につながる名を遠慮して恒用庄とみんなが書くように
なったらしい。のちには恒持庄とあやまって書かれてしまったが、恒持庄は大内沢・安
戸・皆谷・白石・奥沢・坂元・ 定峰・栃谷・山田・黒谷・大野原・皆野・田野などのた
いへん広い地域だったということである。恒望王がなくなられたとき、長いあいだお世話
をした大内沢村の人たちは、皆でそのなきがらを大内沢村にはこんで一寺を建立し、御堂
と呼んでいたが、長いあいだにくち果ててしまって今はない。また、恒望王の遺徳を偲ぶ
秩父山田の人たちは、恒望王の御霊(みたま)は山田の住居を神社にしてお祀りしたとい
うことで、それが今に残る恒持神社なのである。恒持神社は今でも毎年秩父神社の祭(秩
父夜祭)ほどの規模ではないが山車(だし)も出る例祭を催(もよう)している。それが
「秩父山田の春祭り」である。恒望王の管轄区域に秩父神社のある中村郷が入っていない
が、当時の秩父神社はすでに神階正四位下の位を授けられており、中村郷は秩父神社の神
領地となっていたので、 恒望王の管轄区域から外れたのではないかと思う。上述したよう
に、秩父神社は9世紀に神階正四位下の位を授けられておりそれなりの権威を持っていた
が、秩父神社が隆盛を極めるのは、秩父平氏のお陰である。秩父平氏の祖は平政常であ
る。以下にその平政常という人はどういう人であったか、その辺の勉強をしておこう。
平将常は、恒望王の兄・高望王の子孫である。まず、高望王の系図を見てもらいたい。
http://urabe-roots.net/chibashi.htm
この系図には、長男しか載っていないので、恒望王も出てこないし、将常も出てこない。
将常は忠常の弟である。二人の母は春姫(平将門の娘)であるから、平将門は二人の祖父
(おじいさん)にあたる。二人の父が忠頼、父方の祖父が良文、父方の曾祖父(ひいおじ
いさん)が高望王である。将常の兄・忠常は房総半島の千葉氏など房総平氏の祖となる。
将常は秩父氏の祖となる。
忠常は強大な武力を背景に傍若無人に振る舞い、国司の命に従わず租税も納めなかったと
される。長元元年(1028年)6月、忠常は安房国の国府を襲い、安房守平維忠を焼き殺す
事件を起こした。原因は不明だが受領との対立が高じたものと思われる。朝廷は忠常追討
を命じ、追討使平直方が派遣された。官軍を相手に忠常は頑強に抵抗した。乱は房総三カ
国に広まり、合戦の被害と官軍による強引な徴発により大いに疲弊した(平忠常の乱)。
長元3年(1030年)9月、平直方が解任され、甲斐守源頼信が追討使に任じられた。長期に
わたる合戦で忠常の軍は疲弊しきっており、長元4年(1031)春に忠常は出家して常
安と称し、子2人と従者をつれて頼信のもとへ出頭して降伏した。同年6月、京へ連行さ
れる途上の美濃国で病没した。忠常の首ははねられ、京で梟首とされたが、後に首は親族
へ返されている。子の常将と常近も罪を許された。忠常の子孫は房総半島の有力武士とし
て残り、後に鎌倉幕府の御家人となる上総氏、千葉氏が出た。
治安3年(1023)、武蔵介の藤原真枝が勅命に反し武蔵国にて兵を起こした。将常は
藤原真枝征伐の命を受けて相模・上総の兵を率いて豊島で戦い、藤原真枝は自害、将常は
これを鎮圧した功で駿河・武蔵・上総・下総に領地を得たという。長元元年(102
8)、兄の平忠常が房総半島で大規模な反乱(平忠常の乱)を起こしたが、将常はこれに
加担せず、勢力を大きく減退させることはなかったと伝わる。武蔵国秩父郡において秩父
氏を称し、将常の子孫は秩父平氏として武蔵国各地に勢力を拡大した。結局、兄忠常より
弟将常の方が利巧だったと言えると思う。その将常が秩父神社に妙見菩
を祀った。その
影響だろうか、忠常の子孫である千葉氏も妙見に対する信仰が厚かった。
以上のとおり、大和朝廷と秩父は、恒望王の頃、9世紀の初頭には深い関係にあった。そ
して、将常の頃、11世紀の初頭には秩父平氏は坂東武士の中心的存在となり、大和朝廷
を大きく支えたのである。
では、それ以前、7∼8世紀においては、大和朝廷と秩父の関係はどのようなものであっ
たのであろうか? それを次の節で勉強するとしよう。
第3節 知知父彦命
第1節で述べたように、大和朝廷が関東を支配下に入れるのは6世紀であり、知知父彦命
が秩父神社を創建したのは、6世紀以降である。
この節では知知父彦命について述べたいと思うが、その前に、秩父地方の古墳はどうで
あったのかを勉強しておきたい。
1、秩父地方の古墳
秩父地方には、大型の古墳はないけれど、多くの古墳あるいは古墳跡がある。その主なも
のを列挙すると、以下のとおりである。
•
飯塚・招木古墳群(秩父市、県史跡):7世紀後半∼8世紀前半
•
大野原古墳群(秩父市、県選定重要遺跡):7世紀後半∼8世紀初頭
•
狐塚古墳(秩父市、県選定重要遺跡):7世紀
•
太田部古墳群(秩父市、県選定重要遺跡、武蔵国最高所の古墳群):)時期は不明
•
金崎古墳群(皆野町、県史跡)6世紀後半∼7世紀初頭
•
円墳大塚古墳(皆野町、県史跡):時期は不明
•
柳瀬古墳群(皆野町、出土品は町有形文化財):)時期は不明
•
お塚古墳(小鹿野町、町史跡、上円下方墳?)7世紀後半
•
小鹿塚古墳(小鹿野町、町史跡):)時期は不明
•
国神(くにかみ)塚古墳:6世紀中∼後半
•
大渕(おおふち古墳):6世紀後半
•
稲穂山(いなほやま)古墳:5世紀後半 先に述べたように、大和朝廷が関東を支配下に入れるのは6世紀であり、知知父彦命が秩
父神社を創建したのは、6世紀以降である。
今ここでは、 知知父彦命を意識しながら、その頃の秩父はどうであったのかを考えてみ
たい。
秩父神社の宮司・園田稔さんは、社報「柞乃杜」第50号(平成26年12月)で述べて
おられるが、知知父彦命が秩父神社を創建したころ、百済滅亡後、帰化人の大量流入が
あったらしい。園田稔さんは次のように言っている。すなわち、
『 「知知夫(ちちぶ)」は、地名であると共に一族の姓(かばね)であり、何時頃から
用いられたかは詳(つまび)らかではないが、古墳時代には用いられていた大和言葉であ
ある。弥生時代以降、とりわけ百済滅亡(660)後の帰化人の大量流入により、従来の
口伝による大和言葉のほか、文字による「漢字」が用いられるようになり、人名や地名な
ど固有名詞に一音一字の漢字を充てる万葉仮名の形態が採用された。その後、大宝律令
(701)が制定されると、唐に倣って「国、郡、郷」の名は二文字の漢字を充てる「好
字二字化令(713)が交付され、現在の「秩父」の文字に定まった。』・・・と。
したがって、知知父彦命が秩父神社を創建した頃、関東地方にも多くの帰化人が流入して
いたと考えてもあながち的外れとは思われない。高麗若光という人がいる。彼は、天智天
皇5年(666年)高句麗からの使者の一員として来日、この際は玄武若光を名乗ってい
る。その後、天智天皇7年(668年)唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたた
め、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる。そのご、霊亀2年(716年)、
武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は1799人の高句麗人を高麗郡に移住させている
が、若光はその族長として高麗郡に移住したものと推定されている。
埼玉県日高市新堀に高麗神社というのがある。まず、そこにご案内しよう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/komajin.pdf
さて、 高麗神社の公式ホームページには、次のように書かれてる。すなわち、
『 霊亀2年(716年)東国武蔵野の大地に1799人の高麗人が入植し未開の原野の開
拓にあたりました。大和朝廷はこの地を高麗群と称し、高麗王若光を首長としたのです。
「高麗」はかって朝鮮半島から中国大陸にかけて領有した大国高句麗のこと。668年に
滅びた高句麗からは多くの氷魚tびとが日本に渡り土着しました。高麗王若光の没後、郡
民はその徳を偲び霊廟を建立、高麗明神と称し崇めたのです。』・・・と。
1799人の高麗人がどの地から高麗群に来たかは判らないが、 霊亀2年(716年)以前
に、すでに多くの高麗人が関東各地にやって来ていたことは間違いなく、又、高麗人だけ
でなく、百済人なども関東各地にやって来ていたと思われる。
そういう状況の中で、私は、その主たる地域は知知父(ちちぶ)であったと考えている。
では、その根拠を申し上げよう。その根拠となるのが5世紀後半に築造されたという 稲
穂山(いなほやま)古墳である。稲穂山古墳については、すばらしいホームページがあ
る。
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/saimina.htm
このホームページにおける稲穂山古墳に関する説明の要点を、この際ここに、ピックアッ
プしておきたい。このホームページでは次の通り述べている。すなわち、
『 1996(平成8)年発見されました。そして皆野町教育委員会が範囲確認調査した。』
『 秩父地方は6世紀頃の古墳が多い。 ほとんどが荒川や支流の段丘上に築造されてい
る。山稜上に古墳が築かれることは無かった。太陽に近い山上の築造年代は古い。石槨構
造の墳形から5世紀代の 築造と思われるから、秩父地方の古墳の成立を再考する必要が
ある。』
『 稲穂山古墳は国造時代以前の古墳で秩父地方最古の円墳と考えてよい。被葬者の時代
には国神の国造も、ふもとの大塚古墳も存在しない。吉田町の大田部古墳群 も山の上に
あるのが、関連は薄いだろう。被葬者が山の上に墓を築く財力があったことを考えると和
銅鉱山が実際はこの時代こらから採鉱されていたのではなか ろうか。時代が一致するか
不明だが尾根上数kmの位置に露天堀跡もあります。稲穂山の名前は尾根の付近に稲田が
あることから名付けたようだ。山麓に池があ り、被葬者の時代に葦やミコモが繁って、
生活に活用していたのではなかろうか?大勢が生活できるような集落が発達して大塚古墳
の被葬者の時代には平地に円 墳が築造された。被葬者は秩父地方の他の古墳から考えて
朝鮮南部、伽耶付近の採鉱移住者ではなかろうか?西暦400年頃の伽耶は方形墳で太陽信
仰。その後 北方遊牧民族が同化して円墳竪穴石槨などの墓制になっている。又伽耶諸国の
首長・王族・貴族の墓は山稜上に築造されている。稲穂山古墳の展望は素晴らしく 宝登
山・武甲山・城峰山・奥秩父山塊が一望できる太陽に近いよき地。』・・・と。
秩父における鉱山開発など殖産の歴史については、機会を改めて詳しく述べるとして、こ
こでは知知父彦命が秩父にやってくる6世紀の頃には、すでに多くの渡来人が秩父にやっ
て来て、鉱山開発に当たっていたということだけを申し上げておきたい。
2、 知知夫国造と 国神塚(くにかみつか)古墳跡
第1節で述べたように、大和朝廷が関東を支配下に入れるのは6世紀であり、知知父彦命
が秩父神社を創建したのは、6世紀以降である。そして、第2節の1では知知父彦命を意
識しながら秩父地方の古墳はどうであったのかを勉強した。それによって知り得たこと
は、ひとつには知知父彦命が埋葬された古墳は国神塚(くにかみつか)古墳らしいという
ことであり、もうひとつは知知父彦命が秩父にやってくる以前にも多くの渡来人が秩父に
やって来て鉱山開発などの殖産を行なっていたということである。秩父の開発の歴史はと
ても古くて、知知父彦命が国造として秩父を治めるようになってから秩父が発展したとい
うようなことでは決してない。そのことについては第3章で述べるとして、ここでは知知
父彦命と国神塚(くにかみつか)古墳跡について述べることとしたい。まず、国神塚(く
にかみつか)古墳跡を訪ねることとしよう。
国神塚古墳跡は、蟹沢川・荒川合流点近くの「国神神社」北方の台地上にある。その詳し
い場所については、埼玉県鳩ケ谷市の豊房という人のホームページ「古墳横穴及同時代遺
跡探訪記録帳」に掲載されているので、それをここに紹介しておきたい。豊房という人の
地図に示されているように、国神塚古墳跡は上の平古墳群の一つで真ん中の赤印がそうで
ある。
その場所は、荒川にも近く、南側に荒川の支川である日野沢が流れ、北側には宝登山が聳
(そび)えている。現在、この国神というところを県道44号線(秩父児玉線)が通って
いて、立派な道路が宝登山の西山麓を北上して群馬県に続いている。すなわち、県道44
号線(秩父児玉線)は、秩父から北上し、この国神の交差点で左折、日野沢沿いに少し行
くと根古屋というところに出る。根古屋の橋を渡って、左折すれば秩父観音巡りの最後の
札所34番水潜寺 に行くが、右折すると宝登山の西山麓を北上するのである。そして、途
中で長
からやってくる県道13号線に合流するが、県道13号線を北上すれば、「多胡
の碑」と「羊大夫の伝説」で有名な多胡を経て高崎まで行くことができる。
以上のことを考えあわせると、知知父彦命の墓であろうと言われている国神塚古墳跡のあ
るこの地「国神」は、古来、交通の要所であったことが判るであろう。
大和朝廷の国造(くにもみやつこ)となった知知父彦命(ちちぶひこのみこと)は、6世
紀以降、 上野国(こうずけのくに。上毛野国のあとの名称) からやってきて、この国神
を拠点として秩父地方を治めたのではなかろうか。
708年、元明天皇の頃、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から和銅が産出した事
を記念して、大和朝廷は「和銅」に改元したことはよく知られており、大和朝廷にとって
秩父はなくてはならない地域となっていたので、次の節では、和同開珎の重要人物「羊太
夫」について勉強したい。
第3節 羊太夫
1、多胡碑
多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)であり、国の特
別史跡に指定されている。碑文は、『 弁官符上野國片罡郡緑野郡甘 良郡并三郡内三百
戸郡成給羊 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅 宣左中弁正五位下多治比真人 太政官二品
穂積親王 左太臣正二位石上尊 右太臣正二位藤原尊 』である。
その現代語訳は、『 弁官局からの命令である。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡
の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。
これは和銅4年3月9日甲寅に宣べられた。左中弁・正五位下多治比真人。太政官・二品穂
積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊。 』となる。
この碑文は、和銅4年(711)に多胡郡が設置された際の、諸国を管轄した事務局であ
る弁官局からの命令を記述した内容となっている。多胡郡設置の記念碑とされるが、その
一部解釈については、未だに意見が分かれている。特に「給羊」の字は古くから注目さ
れ、その「羊」の字は方角説、人名説など長い間論争されてきた。現在では人名説が有力
とされている。また人名説の中でも「羊」氏を渡来人であるする見解が多く、多胡も多く
の胡人(中国北方の一族)を意味するものではないかとの見解が有力である。私は、いろ
いろ調べたけれど、羊太夫が多胡碑に記載される「羊」氏であるという確証は得られな
かった。羊太夫は、奈良時代天武天皇の時代に活躍したとされる多胡地方や秩父地方の伝
説上の人物ではある。伝承ではいろいろと語られており、多胡郡の郡司とされているもの
もあり、「羊」氏と同一人物とされているものも多い。近隣には高麗神社も存在すること
から、羊太夫が「羊」氏と同様に渡来人あるいは渡来人を束ねていた人物であるのは間違
いないと思うが、羊太夫が伝承通りに多胡郡の郡司になった確証は得られないのである。
羊太夫は、その地方の発展に寄与した有力な渡来人あるいは渡来人を束ねていた人物の象
徴であると思う。 以下においては、羊太夫という言葉をそのまま使うが、それは その地
方の発展に寄与した有力な渡来人あるいは渡来人を束ねていた人物の意味であることをご
承知願いたい。
現在、多胡碑はガラス張りの覆堂の 中に保存されているが、覆堂のガラス越しからでも肉
眼ではっきりと碑文が読め、非常に良い状態で保存されている。また毎年3月9日近辺の休
日に「多胡碑ま つり」が開催され、この日は覆堂の扉が開かれ一般公開される。また多
胡碑記念館に事前に開扉申込みし、許可されれば扉を開けてくれる。
多胡碑と記念館を含めた一帯は「吉井いしぶみの里公園」として整備されている。公園内
には、移築復元された古墳2基(南高原1号墳、片山1号墳)や古代ハスの池、歌碑などが
ある。また、多胡碑の碑文が公園内の石垣にあしらわれている。
記念館は吉井いしぶみの里公園内に平成8年開館されたが、その展示内容は書道関係が中
心である。 江戸時代に国学者高橋道斎によって多胡碑の書道的価値が全国に紹介され、
その後、多くの文人、墨客が多胡碑を訪れている。筆の運びはおおらかで力強く、字体は
丸みを帯びた楷書体である。北魏の雄渾な六朝楷書に極めて近く、北魏時代に作成された
碑の総称である北碑、特にその名手であった
道昭の書風に通ずると言われる。清代の中
国の書家にも価値が認められ、楷書の辞典である『楷法溯源』に多胡碑から39字が手本
として採用された。こういったことにちなみ、記念館は書の殿堂として、5000年に及ぶ文
字体形年表、楔形文字や象形文字の石彫り、
羲下碑など中国の巨大拓本、日本三古碑の
レプリカなど、文字に関する資料を中心に展示している。
2、秦氏について
羊太夫は秦氏である。まずそのことを説明しよう。
多胡郡のあたりは、昔から養蚕がさかんで、遺跡から発見された糸をつむぐ紡錘車の数
は、全国一を誇り、都のあった奈良県には「多胡郡 」で織られた布が残っているらし
い。奈良の正倉院に残る掛布屏風袋(かけふびょうぶたい)の銘文に、 「上野国多胡郡
山部郷秦人 」とあることからも、群馬県では多胡郡を中心に秦一族が住んでいた事は間違
いない。
また、「秩父銘仙(めいせん)」は、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の
技術を伝えたことが 起源と言われているが、 秩父銘仙は、9世紀∼10世紀頃、秦氏が
秩父神社の力を借りて、秩父で始め、秩父神社の市(いち)における目玉商品に仕立て上
げたのである。このことについては第5章で詳しく述べるが、埼玉県では秩父を中心に秦
一族が住んでいたのである。
秦氏のことについては、私の論文「三峰神社の歴史的考察」の第6章で詳しく述べたの
で、その中から羊太夫の伝承と関係のある部分を抜き書きしておきたい。それは次の通り
である。
『 秦氏は、養蚕製絹の専門技術を独占していたとされる。古代の天然繊維の内で、
いったんその技術を習得すれば比較的大量に生産できるのが絹である。秦氏一族は無限を
富を産む蚕に感謝して、蚕養・織物・染色の守護神である萬機姫 (よろずはたひめ)を
勧請し、太秦の地に奉祭した。それが、俗に「蚕の社」と呼ばれる養蚕神社である。』
『 秦氏というのは誠に不思議な一族で、この一族を理解しないで日本の歴史は語れない
というほどのものだ。秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系に限らず、さらには渡来
系や在来の人たちに限らず、また土木や養蚕や機織りに限らず、鉱山や鍛冶に力を発揮し
た一族である。その秦一族の中で、いちばん有名なのは聖徳太子の側近であった秦河勝で
あろう。どうもこの人が偉大な人物であったようだ。 秦氏が丁未の乱(ていびのらん)
以降歴史の表舞台に出てこないのは、秦河勝の深慮遠謀による。秦一族の行動原理はあく
まで裏方に徹すること、したがって、土着民に神を大切にしたのである。このような深慮
遠謀によって、中臣氏が東北地方も含めて全国を支配下に収めた後も、秦一族は、物部氏
に成り代わって全国各地において実質上の支配者となるのである。 秦河勝が播磨に逃れ
て、播磨が秦一族の一大拠点になったらしいが、秦一族の中には産鉄民がいた。その播磨
の産鉄民は、播磨と同じ地質である秩父古生層を探索しながら美濃から秩父に進出してい
く。私は、論文「邪馬台国も古代史の最新」で、諏訪の守屋を物部守屋の子孫と断定して
いるが、秦氏は物部守屋の関係一族を束ねたので、当然、諏訪の守屋も秦氏に従ったと思
われる。秦氏は諏訪の守屋を引き連れて諏訪の守屋ゆかりの地・秩父に入って来たのでは
ないか。秩父の産鉄や養蚕かそれから盛んになる。秦氏は、諏訪の守屋と一緒に秩父に
入って来た頃、当然、秩父の産鉄民を束ねていたと思われる。秩父は、縄文時代から、守
屋氏の領地というか支配する土地でもあり、秩父地方の祭祀は、守屋氏が行っていたの
で、秦一族もそれに力を貸したと思われる。』
さて、 埼玉県小鹿野町の「般若」というところに 「お塚古墳(おつかこふん)」という
古墳がある。県道27号線の西側、長留川左岸の段丘上に所在する。伝説では、「羊太夫の
墓」といわれており、墳頂に「お塚権現」と称する小祠が祀られている。1992年(平
成4年)に墳丘の測量調査が行われたが、その結果から上円下方墳である可能性が指摘さ
れている。上円下方墳とした場合、墳丘の大きさは下方部一辺13メートル・高さ1メート
ル、上円部径7メートル・高さ1.5メートルである。埴輪は確認されておらず、また上円下
方墳という形態からも7世紀後半の築造と推定されている。1959年(昭和34年)、町
指定史跡に指定された。
私は、お塚古墳を確認すると同時にその般若とところが羊太夫が居を構えるにふさわしい
場所かどうかを調べるために現地に赴いた。そして、その古墳の近くの日本武神社の境内
社に諏訪社があることに注目した。それは、上述したように、 秩父は、縄文時代から、
守屋氏の領地というか支配する土地でもあり、秩父地方の祭祀は、守屋氏が行っていたの
で、秦一族もそれに力を貸したと思われるからである。
3、和同開珎について
先に述べたように、多胡碑の碑文は、和銅4年(711)に多胡郡が設置された際の、諸
国を管轄した事務局である弁官局(左中弁・多治比真人)からの命令を記述した内容と
なっている。この命令により、多胡郡の郡司に「羊」氏 がなった。「羊」氏に命令を下
すのは多治比真人である。その多治比真人が和同開珎の責任者になっているのだが、多胡
郡の郡司に「羊」氏 にどのような仕事を命じたか? それを書いた文献はない。 秩父
市和銅保存会の和同開珎に関するすばらしいホームページがあって、それでは和銅の採掘
にかかわった人物について、次のように述べている。すなわち、
『 武蔵国秩父郡に「自然になれる和銅」(おのずからになれるにぎあかがね)、つまり
純度の高い自然銅が出て、都に献上されたという慶雲5年、改元されて和 銅元年1月11日の
記事(続日本紀)の中に、日下部宿 老(くさかべのすくねおゆ)、津島朝臣堅石(つし
まのあそんかたしわ)、金上无(こんじょうむ)の3人がい る。続く 続日本紀 2月11日
には、始めて催鋳銭司を置いて、多治比真人三宅麻呂(たじひまひとみやけまろ)を任命
したことの記事がある。この4人は「秩父」「和 銅」に関連して個々にも又相互にも、
かなり深いかかわるがあると思われる。』
『 催鋳銭司という通貨鋳造の司の役目についた当時従5位上の三宅麻呂は間違いなく和
銅と非常に深いかかわりがあり、政治の中枢にあった藤原不比人が 経済政策の中心に据
えた銅銭鋳造の仕事を推進する優秀な官僚でもあったという。』
『 和銅の時代の人物群像のうちでも、最も傑出しているのは多治比真人三宅麻呂といっ
てよいだろう。』
『 和銅山に近い「銅銭 堀」、箕山に残る「鋳銭房」の地名等からみて、黒谷の地に催
鋳銭司が置かれ和同開珎が鋳造されたことは十分に考えられることである。』
以上述べてきたように、「羊」氏は和同開珎とは関係がない。羊太夫の伝承ではあたかも
和同開珎と関係があるように語られているが、羊太夫は「羊」氏とは別人であるので、
「羊」氏は和同開珎とは関係がないのである。先に述べたように、羊太夫は、その地方の
発展に寄与した有力な渡来人あるいは渡来人を束ねていた人物の象徴であり、和同開珎と
関係があるように語られている羊太夫は、秦氏のことなのである。秦一族は、実質的に、
和銅の採掘に当たったと私は考えている。日下部宿
老(くさかべのすくねおゆ)、津島
朝臣堅石(つしまのあそんかたしわ)、金上无(こんじょうむ)の3人は、黒谷の催鋳銭
司までやって来たかもしれないが、彼らは中央官庁の役人であるので、実際の和銅採掘に
携わった訳ではない。実際に和銅採掘を行なったのは秦一族である。