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手伝う
武田こうじ
放課後のざわめき
暮らしの欠片につかれた食卓
商店街で風はおいかけっこ
町並みへ あなたは
私たちを覚えていますか
私たちといえば
どんなに丁寧に
記憶を辿ってみても
順番が違ってしまって
いつまでたっても
すべてを話すことができません
立ち上がろう
私はあなたが
耕すのを手伝う
新年を迎えた大和神社には、今も暮らし続ける住民の手によって整えられた正月飾りが見られた
〈仙台市 和田〉
暮らしながら紡いできた物語
仙台市宮城野区
N
▲
〈仙台新港エリア〉
蒲生字
県道
一〇
号線
(
塩釜
亘理
線)
山神
大和 蒲生字
蒲生字
神社 屋敷 蒲生字
二本木
東屋敷添
蒲生字
高砂橋 西屋敷添
七北
港南
知るための
西原
港
メモ
中野小学校
田川
△
中野新町
蒲生
蒲生干潟
仙台市宮城野区
南蒲生
卍専能寺
わ
貞
山
堀
新浜
その時
3
・
11
この地域を
和 田 地区
南蒲生
浄化センター
0m
500m
だ
でいました。和田家の門前近くや集落への入口は
選択したのは、こうした強い地縁があったからと
道を屈曲させるなど、防御を考えた小さな城下町
いえるかもしれません。
のような造りになっていました。家中の人々は、
大津波は、江戸時代以来400年近い歴史を刻んで
和田家のもとに結束し、周辺の荒地を開拓してい
きた集落を襲い、おだやかな暮らしを破壊しまし
ったのでしょう。収入を増やすため養蚕や漆の栽
た。地区は災害危険区域となっています。いち早
培にも取り組み、江戸時代中期には、55軒の家中
く家を立て集落を離れた人、仮設住宅での暮らし
屋敷、36軒の足軽屋敷があったと伝えられていま
をいまだ続ける人、現地に戻り家を修復して暮ら
す。
す人、借り上げ住宅に入りそのまま暮らし続ける
明治時代になっても和田家はこの地に住み続
選択をした人、いまだ迷いの中にいる人…。震災
け、集落の人々は和田家の守り神だった大和神社
後4年という時間は人々の暮らしぶりを変え、固
のもとに集って変わらない強い地縁を維持してき
かった結束を解こうとしているように見えます。
1km
ました。居久根に取り囲まれた屋敷や道筋も保た
我妻美智子さんは、中野小学校の児童の登下校を見守るボランティアをしていた。3月11日も、ちょうど
1年生が下校する時間帯で外に出ている時に大きな揺れに襲われた。自宅に戻ると、夫の勝さんと義母の
みさをさんが居た。「津波がここまで来ることはない」と、はじめは逃げることもせずに淡々と自宅の
片づけをしていたが、近くに住む家族も避難を始めたことを知って不安になり、ようやく車で逃げるこ
とにした。勝さんだけが自宅に残った。美智子さんたちは、避難する途中で車ごと津波に押し流され、
運よく西原付近の民家の屋根に車が引っ掛かり、車から脱出して助かった。自宅に残った勝さんも、津
波が押し寄せてきているのを目の当たりにして、急いで2階に駆け上がって助かった。
我妻家は1階が浸水し、多くの瓦礫が庭一面を覆ったが、多くの方の助けを借りながら復旧作業を行い、
その年の4月下旬から再び和田新田に暮らし始めることができた。
七北田川左岸、高砂橋のたもとに広がる和田地
12
にし や しきぞえ
ひがしやしきぞえ
れ、「西屋敷添」「屋敷」「東屋敷添」のような
歴史を伝える地名を使いながら暮らしは営まれて
きたのです。
昭和39年(1964)、仙台湾地区が新産業都市の指
ふさなが
その子の和田房長もまた出入司を務め、水上交
定を受け大規模な開発が推進された中、和田新田
ぎゅう
区は、古くから「和田新田」とよばれてきた地域
通の大動脈となる塩釜湾の牛生(塩竈市)から蒲生
です。この地名は、江戸時代初め、仙台藩の家臣
までの御舟入堀の開削工事を推し進めました。塩
だった和田家によって新田開発が進められた拠点
竈神社には、この大工事の無事を祈願する房長の
だったことに由来しています。
願文と工事完成の際に奉納された石灯籠が残され、
の人々が土地の一部を売却しつつもこの地に残る
【参考文献】
・仙台市史編さん委員会編『仙台市史 近世1』仙台市 2001年
ためより
やまと
たかとり
初代の和田為頼は大和国高取(奈良県)の出身で
・仙台市史編さん委員会編『仙台市史 特別編7 城館』仙台市 2006年
・仙台市史編さん委員会編『仙台市史 特別編9 地域誌』仙台市 2014年
▲ 和田家屋敷跡の周辺には、震災後のいまも土塁と
堀の跡が残されていて往時を伝えている。
(2015年1月撮影)
|編集後記|
房長の名を後世に伝えています。
ざいしょ
仙台市沿岸部は、本当にたくさんの個性がつまったエリアで
た本誌は、3年半の間に今号を含めて12の集落を訪ねてきまし
あることを改めて実感した今号の取材でした。“和田様”と住
た。これまで、たくさんの方にご愛読いただきました。仙台市
として与えられたのが、蒲生村のこの地でした。
民に慕われた和田家とその家臣たちを中心に集落を形づくって
を離れて遠くの方にも届けることができました。
に大きな貢献をした人物です。北上川改修や石巻
「在所」とは藩の要地に、守りや管理のために家
きた様子は、今でもその面影を住民の皆さんの語りの中に見る
東日本大震災から5年目を迎えようとしている今、自然災害
ことができます。暮らしながら語られてきた地域の物語は、こ
が発端となって消えようとしている風土に根付いた暮らしや地
周辺の野谷地の開発のほか、植林に熱心だった政
臣を配置した拠点のひとつで、家臣とその家来で
れからどのようにして伝えられていくのでしょうか。
域文化を記録していくこと、そして発信していくことの重要性
したが、京都伏見で伊達政宗に召し抱えられ、藩
の重要な事業の数々に携わって成果を上げ、藩政
き い
くまの
宗の命を受け、紀伊国熊野(和歌山県)からスギの
とおとうみ
寛永年間(1624~1644)、和田家が藩から「在所」
ある家中の人々が集落をつくって暮らしました。
はままつ
種子、遠江国浜松(静岡県)からマツの種子を取り
和田新田では集落の西側に、まわりに土塁と堀を
寄せ、領内にこの種をまいて植林を進めたと伝え
回した和田家の屋敷が大きく配置され、集落内に
られています。また、2代藩主忠宗の時代には、
は北小路、西小路、中小路、東小路、南小路とよ
しゅつにゅうづかさ
藩の財政を司る出入司に命じられています。
ばれた道が通り、そこに家中の屋敷が整然と並ん
今号をもって、『RE:プロジェクト通信』は休刊いたしま
が増していると感じています。それぞれの集落で紡がれてきた
す。東日本大震災で津波の被害が大きかった仙台市沿岸部にて
小さな物語が、消えることなく多くの方のもとに届くよう、来
集落ごとに取材を行い、それぞれの暮らしや文化を紹介してき
年度以降は形を変えて続けていきます。(田)
※この紙はリサイクルできます。
『RE:プロジェクト通信』第 1 2 号 2 0 1 5 年 1 月 発 行
【主催】仙台市・公益財 団 法 人 仙 台 市 市 民 文 化 事 業 団
【編集・発行】RE:プロジ ェ ク ト 事 務 局 ( 仙 台 市 市 民 協 働 推 進 課 内 )
〒980-0802 仙台市青葉区二日町1-23 二日町第四仮庁舎2階
TEL:022-214-8002/FAX:022-211-5986/[email protected]/http://re-project.sblo.jp/