創設の 同声 ろ ー 、 養徳社創立六十年 養徳社 創設のころ 養徳社創立六十年 風雲急を告げる中で 設立趣意書を要約すると次のように なる。 今年、道友社は創立五十周年を迎え るが、その活動は天理教内への文書伝 道が主で、 一般社会にはほとんど触れ 養徳社は平成十六年、創立六十周年を迎えた。太平洋戦争末期の ていなかった 。ところが現在の状況を 一般社会がわれわれ宗教に ままであれば、その活動は教内への新 である 。 しかしながら 、従来の機構の 携わる者に期待するところまことに大 思うとき、 昭和十九年に産声を上げた養徳社、か、日本の出版史に燦然と輝く 一時期を画したことはあまり知られていない 。今、創設のとろを ふり返ることは、本教の出版文化を考える上での示唆とはなら芯 いか。そこで 、昭和十五年の天理時報社創設までさかのぼり、当 時の人人が何を考え、どう行動したかを見てみたい。(文中敬称略) 聞、雑誌、図書の発行に限られ、一般 民衆を動員するためには日本精神の高 った杜会情勢と併行して近衛内閣は、 物心両面から圧迫していった 。 こうい た日中戦争は長期化し 、 人々の生活を 昭和十 三年の慮溝橋事件に端を発し を大躍進させようとの案が浮上してき つ機能を十 二分に発揮させ 、教化活動 教庁印刷所を合併して、それぞれが持 った 。 それを受けて、道友社と天理教 層活発にする必要があるとの声が上が めには、教化活動と文書伝道をより一 をはかり、勤労意欲の向上をはかるた 一体となって教内はもとより 一般社会 十 二分に発揮して、道友社と印刷所が 所と合併し 、 そ の 完 備 し た 印 刷 機 能 を 上に陰で尽くしてきた天理教教庁印刷 創立以来十五年間、本教の文化活動の うに改める上から、まず第一歩として、 動を前提として、時代に即応できるよ ある。そのため今回、 社会への文書伝道にははなはだ不便で 揚が欠かせないとして国民精神総動員 た。 そ し て 昭 和 十 四 年 秋 に は 株 式 会 社 への遺憾なき活動を期したい。そして 本教では、すさみがちな人心の安定 運動を推進した 。各界各層でも、いか 設立案ができて 、 翌 十 五 年 一 月 か ら 株 合併するからには能率を上げる上から 一般社会への活 にしてこの方針に応えるかの議論が交 式募集が始ま った。 天理時報社の設立 わされた 。 2 善と考える。. らも、株式会社の体裁を整えるのが最 も、配給統制下に用紙を確保する上か 田一冗次、会計部長・鴨居五郎。全従業 事業部長・岩井孝一郎、印刷部長 ・松 長・上田理太郎、写真部長・福原登喜、 機構で、編集部長 ・生駒藤雄、出版部 出版・写真・事業 ・印制・会計の六部 ほかなかった。 を重ねるにつれてベ lジを減らすより すこととなり、﹁みちのとも﹂も号数 毎月第四日曜日付けを二ページに減ら もって東京版を中絶、本紙は九月から ﹁天理時報﹄ は十六年八月 三十一日を こうして、昭和十 五年 四月二十五日 、 株式会社天理時報社が誕生し、本社は 員は一八八名だった。 紙の節約ム lドは教内の各教会にも 奈良県山辺郡丹波市町大字川原城町 三一 O七番地の 一、前天理教教庁印刷所内 た。社長・岡島善次、専務取締役 ・松 ていたため、日本出版配給株式 社は日本出版文化協会に加入し なったのは昭和十六年八月からで、本 ってきた。紙が切符制度による配給と 業優先の施策から紙の節約の声が高ま 戦争は激化の一途をたどり 、軍事産 のみち﹂(東大教会)、﹁淡路 コ一原教報﹂ 島大教会)、﹁天竜﹂(郡山大教会)、 ﹁こ ﹁うちわけ に高安大教会)、﹁本島﹂(本 (大江大教会)、 ﹁ 敷島﹂ (敷島大教会)、 教会)、﹁本愛﹂ (本愛分教会)、﹁ 恵心﹂ て発行していた ﹁ 平安西﹂(平安西分 及び 、十五年には教会系統の雑誌とし 井忠義、取締役 ・中山慶太郎、堀越儀 会社から切符をもら って用紙庖 (淡路三原支教会)、﹁名京教報﹂(名 京大教会)、﹁飾東﹂(飾東大教会)、 ﹁ 県 己 心﹂(撫養大教会)の十 二誌 が廃刊し 亀井勝一郎の名著発刊 郎、紺谷金彦、関粂治。監査役・上原 行物はこれまでの実績から割り た。また、おぢばの管内各学校の定期 上田理太郎 者を整理することによって、か 喜田 、八五歳)は、 こんな状況下の天 現在、奈良市に住む永井幸枝(旧姓 3- (現在の天理本通り駐車場)に置かれ 義彦、深谷徳郎、後藤総 一郎。編集・ 出した配給率だったため、 ﹃ み 刊行物も廃刊に踏み切った 。 ろうじて切り抜けた。それでも このころまでに増えていた購読 から買っていた。しかし定期刊 ちのとも﹄ ゃ ﹁ 天理時報﹄は、 天理時報社の初代出版部長 永 井 一 人 だ け だ っ た 。 紙の欠乏は厳し れたが 、上田理太郎部長のもと部員は 理時報社に入社した。出版部に配属さ えているという 。 まった/﹂という思いを永井は今も覚 くご馳走を出してくれた。この時の﹁し たというので大喜びで 、 三の 膳までつ 奥深く侵入し、六月にはミッドウェ l 土の防衛線を拡大するため南方洋上に に精神的な動揺をあたえた 。 軍部は本 ぐ連勝で有頂天になっていた日本国民 島攻略作戦となった。しかし連合艦隊 くなっていたが、それでも ﹁大和 シリ ーズ﹂を出版、なんとか出版部の面目 うえにも高まった 。十 七年には本社出 しい戦果をあげ、国民の戦意はいやが はアジア戦域においても緒戦では華々 勃発 。真 珠湾の奇襲に成功した日本軍 昭和十六年十二月八日、太平洋戦争 に、海 軍は積極的な作戦に出る力を失 軍の バランスが 完全に逆転するととも となった 。 この敗戦によ って日米海空 した搭乗員の大半を失うという大敗北 力航空母艦四隻が全滅、飛行機と熟練 カ 機 動 部 隊 の 反 撃 に あ い 、 わが国は主 の主力を投入したこの作戦は 、 アメリ 版部発行の田中克巳の詩集が日本出版 ってしまった 。 さらに八月にはソロモ 太平洋戦争の勃発 和の垣内(かいと)﹂、﹃大和の庭園﹂﹃和 文化協会の推薦図書に選ばれた 。詩集 ン群島のガダルカナルとツラギに米軍 を保っていた 。 このシリーズから 州祭礼記﹄などが出たが 、亀井勝 一郎 が推薦図書になったのは、この本が初 が上陸 、翌十八年に入ると、わが軍は 当を持ってお供した。そんなある日、 り、古寺めぐりの際はいつも永井が弁 亀井は当時、頻繁に奈良を訪れてお されたことは特筆される 。 年四月、このシリーズから初版が出版 の名著﹁大和古寺風物誌﹄が昭和十八 めてだった。 亀井がふい に﹁君に小遣いをやろう﹂ く午後二時ころ、突如空襲警報が発せ 誕生祭が執行され、参拝者が帰途に着 十七年四月十八日、戦時下の教祖ご 劇の結果となった。こうして日本軍は 使用した輸送船の大半を失うという悲 し、軍艦 =一十八隻 、第 一線の飛行機と 投入した陸箪二個師団がほとんど全滅 と言って、どこかでもら った講演料を 驚 い た が 、 ﹁それじゃ明日、ご馳走を られた 。 この日本本土初空襲は 、密か 態勢を立て直す余地もないまま次第に 封も切らずに永井に手渡した 。永井は 作ってきます﹂と 言っ て別れた 。翌日、 に本土に接近したアメリカの航空母艦 秋篠寺に行く前に腹ごしらえをしてお 東西ほほ時を同じくして、 ガダルカ 追い詰められていった 。 の被害 はわずかであったが、連勝につ から飛び 立 った爆撃機八機で、この時 こうというわけで 、 二人で弁当を平ら げたのだが、寺では住職が 、亀井が来 4 大 ナル敗退前後、わが国の同盟国ドイツ は ス タ ー リ ン グ ラl ド の 攻 防 戦 で ソ 連 )/3LA 軍に大敗北を喫し 、 ヨーロッパ東部戦 考叫ーパ持てす A下 町 ・え 各宗教教団の管 軍事態勢の強化 線より後退を続ける結果となった 。 Y 、十 月昭 二 和 卜十 六八 日年 十 一 月 に 入 っ て か ら は 全 部 二 ページ立 てとなり、発行部数も大幅に制限する 結 果 と な っ た 。﹁ み ち の と も ﹂ は 十 八 年 二月 号 か ら ペ ー ジ 数 を 切 り 詰 め て 六 十四ページ立てとなったが、十九年に 入って紙の徹底的な節約と新聞雑誌の 整理統合により四月号から教報のみを 収録、 ﹃ 天 理 時 報 ﹄ は 本 教 唯 一の 機 関 紙として、両紙誌ともにかろうじて発 十八年九月、県からの命令により天 があり、 これに ではさまざまな 理時報社に、岡島善次社長を隊長に松 行が許されることとなった 。 活動をいっそう 井忠義専務を副隊長として勤労報国隊 り、十八年早々 すます厳しくな 紙の節約はま にゲートルを巻き、女子はモンベ姿で 練が行われた 。 男 子は戦闘帽、国民服 と軍隊そのままの号令で、規律ある訓 礼や体操、駆け足は、 軍 人 の 指 導 の も が結成された 。午 前 七 時 か ら 始 ま る 朝 から ﹁ 天理時報﹄ 養 徳 社 創 立 ま で あ と 一 年。 あった 。 全部二ページ立 ジ必一 丁ηまかーザ土 人 マ ノ ヨ ノ λdlkυ は 月 一回四ペ l なった。 強化することに 対応して各教団 し長 て 、 天統 皇理 の者 持T lに 謁 2対 てとなったが 、 5 サ川浩ゲウa l i t 7え令下 民 ロ (天理図書館蔵) 張りとほしたいものです」とある j uム/令うか?り刊は浦安同 -J オくコもトー YJTKAB者千ん千 蕩 AZd すすた4今りt r予く I L i ヘ J Z13 〆ろ判叩旬 ロ 冷iE-711U173 亀井勝一郎から生駒藤雄にあてた手紙 「いづれ時勢がゆっくりしてから充分なもの書き加へて増補 出版して頂くつもりです 紙の不足でどとの社も企画がとほ うす著者の方も今年は全く大へんです 此の難関を御互に頑 ー創設のころ 養徳社創立六十年 労力や生産地盤が弱体化して、戦争経 済全体が停滞するという有様だった 。 また戦線においてもソロモン海戦で 優位に立ったアメリカは、その矛先を 北辺のアッッ、キスカ両島にも伸ばし、 南北からひたひたと魚網を絞るように わ が 国 へ 迫 っ て い た が 、戦 局 の 推 移 は 乏しい食糧に耐え、苦しい生活を忍び 教 都 市 お ぢ ば は 一瞬 に し て 若 々 し い 軍 u 軍歌が高唱 つつ 、祖 国 の 必 勝 を 信 じ て 、 国 民 は 来 悲しいかな銃後の国民には知らされず、 さ れ 軍 靴 の 響 き が 町 々 を 駆 け 巡 った 。 る日も来る日も 軍需産業へと挺身して 国 調 に 変 貌 し た 。 ぷ右い血潮の予科練 カ所に統合された。交通規制によって おぢばの近郊、柳本に飛行場が建設さ いった 。 の七つ‘ボタンは桜に錨 帰 参 者 が 減 っ て い た こ と も あ っ て 、詰 れ、学生や隣組からの勤労奉仕が連日 ていしん 所は学校の寮となったり教内団体の合 昭和十九年四月、天理時報社は企業 働く学生たち 連夜続けられた 。 あった 。 大 東 亜 共 栄 圏 と い う 理 想 達 成 の整理統合により天理カレンダー株式 しかし戦局は日々破局へと傾きつつ ではあっ を目指して起こした 会社を吸収合併して本社の分工場とし H 重海軍航空隊奈良分遣隊のために宿舎 た が 、 日 本 は す で に 軍 事 ・経 済 の 両 面 た 。 戦 争 が 激 し く な り 、 カレンダー製 聖戦 や土地を提供することとなり、詰所・ で行き詰まり、十八年を境に急速に衰 造のような戦力に直結していない企業 ρ 寮はさらに整理統合を行って四十八カ 退の 一途 を た ど り 始 め て い た 。 す な わ 天理カレンダー株式会社は昭和五年、 所 に 縮 小 し た 。昼 夜 兼 行 で 練 兵 場 等 の 強権をもって行われ、全てを犠牲にし 合名会社詰所会授産部のカレンダー工 は立ち行かなくなったからだ 。 十 二月 一日、 お ぢ ば に 海 軍 将 校 三干 て軍 需 生 産 に 投 入 し た 結 果 、 か え っ て ち、軍需産業と中小企業の整理統合が 名 、 予科練生 一万名が入ってきた。 宗 建設が行われた 。 その年の秋、 軍部 の 要 請 に よ り 、 三 場として使用されることが多くなった 。 宿訓練に使われたほか 、教外の修養道 昭和十八年 、 おぢばの詰所は八十六 おぢぱに軍靴のひびき 川端康成が設立パ ー テ ィ ー で 祝 辞 2 理時報社と道路をへだてて南北に向か を習得させようというもの。建物は天 の他をまかないながら 、中等教育課程 に昼間働くことによって自力で学費そ を収容し、勤労精神を養成するととも 中等学校(定時制)の生徒六十名前後 教信者の子弟教育のため主として天理 場 と し て 発 足 し た 。 創 立 の 趣 旨 は 、本 生の高橋久太郎が﹁カレンダー製 から、勤労学生の代表として五年 月には JOBK (NHK大阪放送局) 場としてもてはやされ 、 昭和十四年四 専 門 工 場 と し て は 日 本 一の勤労学生工 の四分の 一を 製 造 し て い た 。 そのため l生 産 は 五 百 万 部 に の ぼ り 、全 国 需 要 は八十八名を数え、 一年間のカレンダ 部からなっていた 。従業員は最盛期に い合っており、印制部、製本部、製版 は こ と さ ら 避 け た た め と 思 わ れ 、当 時 いたため、記録の際はいわゆる敵性語 できないという言論統制時代となって 本 語 化 さ れ た よ う な 言 葉 で も 一切使用 敵国語はたとえ日常会話で使われ 、 日 的症状を呈しはじめた合併のころには、 われているのだ。これは、戦争の末期 ﹁ 天理印刷製本株式会社﹂の名称が使 ているのに 、 合 併 の 際 の 議 事 録 に の み 出書類にも﹁カレンダー﹂ の名が付い 理のた半 時窮?。島 報乏?し 社はか台 といし湾 のか戦 合ん争中 併とに国 時もよ各 にしる地 はが人と 従た員多 紙の欠乏は他の物資以上に逼迫して きた。 こ の た め 日 本 出 版 会 を 通 じ て 割 り当てを受ける書籍用紙は極端に切り 詰 め ら れ 、 各 出 版 社 と も 出 版 したくて 立 当 初 か ら ﹁ カ レ ン ダ ー 工 場﹂ の ンダl株 式 会 社 の 社 名 で あ る 。 創 ここで興味深いのは、天理カレ い事態となった。 は整理統合しなくては存続が許されな に 満 た な い 中 小 の 出 版 社 は 、廃 業 ま た しかも用紙の割り当て数が四千ポンド も出版できない原稿を相当抱えていた 。 名が付され、整理統合のための提 業員は二十八名にまで落ちていた。 く ・ 様り 、資だ朝 養徳社の誕生 の時代相を一不すものとして興味深い。 つ 鮮 天材 ひっぽく 造について ﹂ と 題 し て 放 送 し た 。 ので、その出身地も国内はもとよ 生徒たちは本教の布教地から来る 天理本通りにあった教庁印刷所(右)と道友社。 とれらの建物はのちに天理時報社、芙理教道友社 となり、現在は建物はなく駐車場になっている - 7- に貢献する﹂との中山正善管長(真柱) 良書を発行し、わが国出版文化の発展 れた。こうして﹁営利にとらわれずに とになり、五月 一目、発起人会が聞か 合併して株式会社養徳社を設立するこ 甲書房、朱雀書林、古書通信社を吸収 た。 そして企業整理の線上にあった六 て新しい出版社設立の下準備にかかっ 京都市中京区 三条 通 に 仮 事 務 所 を 設 け 甲烏書林に呼びかけ、十九年二月一日、 図 を 持 っ て い た 。 そこで、まず京都の しての機能を保持したいという強い意 定ポンド数を確保し 、文書伝道機関と 際どうしても他の出版社を統合して規 ままでは消滅するより道はなく、 こ の もたない天理時報社出版部では 、 こ の 当時 、 千 二百ポンドの配給実績しか 報社の姉妹社として養徳社が設立され かれた 。当 時 の 天 理 時 報 に は 、 天 理 時 京 都 支 社 、 東 京 ・銀 座 に 東 京 支 社 が 置 る こ と に な り 、 ほ か に 京 都 市 三条通に 社はしばらくは天理時報社内に置かれ は岡島善次が選任された。養徳社の本 取締役社長には中市弘、専務取締役に 役には松井、後藤、生駒の各氏が就任、 倉、高橋、富永、上野の各氏が、監査 が 開 催 さ れ 、 取 締 役 に 中 市 、岡島、矢 三日、中市氏が議長となって設立総会 八月 二十 五 日 付 け で 認 可 さ れ た 。 十 月 なり、役所に会社設立を申請した結果、 烏書林の社長 ・中市氏が発起人総代と ほかは全部天理側の人たちだった 。 甲 の九氏 。 甲鳥書 林 の 中 市 、矢倉両氏の 道男、富永牧太、上野清治、生駒藤雄 合っている 。 木村と、養徳社につ いていろいろ語り る。 川端はこのあと京都の宿を訪ねた ﹃文芸﹄の編集者だ った木村徳 主 であ 集 者 だ っ た 庄 野 誠 一であり、改造社で のは、文芸春秋社で﹃文芸春秋﹄の編 こ の新たに参画した編集者たちという う に 協 力 し て ほ し い と も 言 っ て いる。 た編集者たちが、よ い仕事ができるよ べたあと、同社編集陣に新たに参画し 端は祝辞の中で、養徳社への期待を述 であろうことは容易に想像できる 。 川 た養徳社に川端が大きな期待を抱いた った当時、天理教を バ ックに設立され 散させられ、印刷業界も壊滅状態とな 社、改造社といった大手の出版社が解 を述べているのだ 。講談社、文芸春秋 家の川端康成がパーティーに出て祝辞 ところで 、 甲 烏 書 林 と 中 市 弘 、 矢 倉 甲鳥書林という出版社 たことが社告として報じられた 。 戦争が末期的様相を呈する中でも、 の構想のもとに手続きが開始された 。 ちなみに養徳社の社名は中山管長によ 聞かれた 。 ここで驚くことは 、交 通 事 稔 に つ い て も 触 れ て お き た い 。 同書林 養徳社設立 パ ーティーが奈良ホテルで この時の発起人は岡島善次、中市弘、 情がきわめて厳しい中、鎌倉に住む作 って付 け られた 。 後藤総 一郎 、 松 井 忠 義 、 矢 倉 稔 、 高 橋 8 実篤の﹁井原西鶴﹄だ。 こ の時はまだ 人・吉井勇の歌集﹃天彦﹄と武者小路 の最初の出版は昭和十四年十月で、歌 だ。 翌年になって中市は吉井勇の勧め 京を担当したのが中市の姉婿の矢倉稔 所 は 東 京 と 京 都 が 併 記 さ れ て いる 。 東 また、甲烏の吉井勇、新村出の二人の 甲鳥書林のものを使っていたほどだ 。 本の奥付に貼る検印紙も初めのころは 、 司 中市が出版業者タイプだったのに比 ' 。 、: 7a u vナム 顧問も、そのまま養徳社の顧問になっ 鴨 ﹂ の字 住んで いた 京 都 ・ 下 鴨 の ﹁ を ﹁ 甲 ﹂ と ﹁ 烏 一に 分 解 し て 吉 井 が べ、矢 倉 稔 は 文 人 タ イ プ で 、 京 都 や 東 京に豊富な人脈を持ち、たびたび著名 付けた 。 合併時、 同書林は中川八日字吉郎、柳 な文人や学者を養徳社に連れてきた 。 し しがたく、 後 ろ に 天 理 教 が 控 え る 天 、 理時報社からの合併の呼びか けを 中市らは起死回生の好機ととらえた ょうだ 。 中 市 は 養 徳 社 の 初 代 社 長 に 就任するや、 本 の 出 版 は オ レ た ち が 専門とばかりに甲鳥書林が抱えてい た執筆者の本を次々と出していった 。 甲烏を興した 。 矢 倉 も 二十 五 年 に 俳 句 書 専 門 の 書 林 新 鴨に甲鳥書林を再興、甲文社と名付け、 中市はその後、 二十 二年 に 京 都 ・ 下 、 つ ノ 。 在住、 八十五歳) は忘れられないとい 集部員だった永井章枝(現在、奈良市 時の中市の無念そうな表情を、当時編 を去った 。 原 因 は わ か ら な い 。 辞する 市が、十月には矢倉が相次いで養徳社 ら 一 年 も 経 た な い 翌 二十 年 八 月 に は 中 こんな こ人 だ っ た が 、 養 徳 社 設 立 か 回国男、 川 田 順 、 堀 辰 雄 、林 芙 美 子 、 横光利一 、 井 伏 鱒 二らの文芸、 戸 Z弘 美術書を次々と出版して堂々たる実 術 甲 子」 一方 、 天 理 時 報 社 の出版実績には乏しい 。 し の方は細々と出版を続けていたもの 績を誇っていた。 印紙は養徳社発足後もしばらくは使われた 鳥といえども紙の欠乏はいかんとも か 9 で甲鳥書林を設立した。社名は中市が 「新村出選集J第 1巻は昭和 1 8 年 9月に甲鳥書林から 出版社として設立されておらず、発 行 0年 6月に養徳社かう出版さ 出版されたが、第 2巻は 2 れた。左は甲鳥書林と養徳社の検印紙。甲鳥書林の検 養徳社創立六十年 編集者 のですが、うちに来ていただけないで しょうか。給料は文芸春秋社の三倍出 します﹂ 庄野は銀座にある養徳社東京支社 (養徳社設立の直前で、看板は甲鳥書 期甲鳥書林に いたことは野口冨士男の 林東京支社とな っていた 。庄 野が 一時 ﹁庄野さん 、新しい出版社をつくりた ﹃私のなかの東京﹄にも記されている) 田文学系の作家。保高徳蔵が編集 ・発 庄野は水上龍太郎門下で、慶応・三 庄野誠 一は途方にくれた。 が生きる道を探すように ﹂と言われて、 社 が 解 散 さ せ ら れ 、 ﹁みんなそれぞれ の申し出はありがたかった。東京にい それより何より生きていくために、 こ どが文学童目だったため違和感はなく、 甲烏書林が出していた出版物のほとん る出版社の性格もわからなかったが、 市弘も訪ねてきた。庄野は新しくでき 時だった。やがて甲烏書林の社長・中 九五年刊)で次のように書いている 。 芸編集者の戦中戦後﹄(大空書房 一九 かけた 。 そのへんのことを木村は ﹃ 文 木村徳三に、養徳社に来な いかと声を 改造社で雑誌 ﹁ 文芸﹂の編集者だった 庄野は、同じ ころに解散させられた に勤務することになった 。 行 し て い た 雑 誌 ﹃ 文 学 ク オ タ リ イ ﹂や ながら関西の出版社の仕事ができるこ 木村徳三 ﹃文学生活﹂の同人で 、昭和十 三年に ﹁そんなとき、作家の庄野誠 一氏が私 ﹁こんど甲烏書林と 一緒になって養徳 が京都の甲鳥書林その他と統合して新 て奈良県丹波市の天理時報社の出版部 に恰好の話をもってきてくれたのだっ た。庄野さんは当時、企業整理によっ 社という出版社をつくることになった 会長の松井忠義が現れた 。 ほどなく中市に連れられて明城大教 は砂子屋書房から第 一小説集﹃肥った o L r - 、十ノ: J勿﹄品川MJUJ/ そんな庄野に甲烏書林の矢倉稔が声 をしていたのだった 。 筆を断ち、雑誌﹃文芸春秋﹂の編集者 とも好都合だった。 養徳社設立の下準備にかか っていた いのですが 、手伝ってくれませんか ﹂ 3 紳士﹄を出している 。その後、小説の 戦争も末期 。勤務していた文芸春秋 の 創設のころ 人 庄野誠 司固' 里だから、この際疎開をかねて、また は、養 徳 社 の 京 都 支 社 で 企 画 編 集 長 を 求 め て いる、 そこで、﹃君は京都が郷 者時代からの顔見知りで 、話というの んとは、庄野さんが文芸春秋社の編集 京支社の 責 任者であ った。 私と庄野さ 設された養徳社と いう 出 版 会 社 の 、 東 が私には限りなくありが たく 、 即 更に 声 を か け て く れ た 庄 野 さ ん の 厚 情 どの親交があ ったわけでもない 私 に殊 と同じ社で働ける期待もある 。 それほ 愛 す る 庄 野 氏 の 推 薦 で あ り 、また同氏 とは言ってられな い。 その上、日頃敬 はいささか残念だが、 こ の際気侭な こ 願つでもない勧誘であった。関西落ち 、 から 、 ひとつ行ってみないか ﹄ と いう のだった 。三 島は木村に原稿を読んで てきた 。 川端康成から紹介されて来た ある日、詰襟の学生服姿で木村を訪ね 。 ノまだ東大の 学生だった 三島由紀夫が、 は編集者の道をひたすら歩む 。 。 以来木村 何だったのかはわからな い ょ う﹂ と 心 に 決 め る 。 そ の キ ツ カ ケ が λ1 ﹁息子が作家になると いうのですが 、 十 -11 ここで 一つのエピソードを紹介しょ 肩書 っきだと徴用逃れに役立 つだろ、っ 答で話を受けた 。 ほし いと い う 。原 稿に目 を 通し た 木 村 は、 三島のほとばしり出る才能を見て そして九月上旬、本郷西片町の ﹁いい です ねえ 。 これから 書 くことで 取った。 の家をみつ け て移り、十月から養 やっていくのでしょう﹂ 木村 にそう 言 わ れた コ一島は満足 げに 帰っていった。 それから何日かして、 三島の父親が 社編集部に入 った。木 村 も 他 の 文 朝日新聞に連載ができるほどの作家に 木村を訪ねてきた 。 学青年同様、はじめは物書きを目 父親は 三島 が 東 大 を 出 た ら 大 蔵 省 あ なれるでしょうか﹂ レは 書 き 手 で は な く 読 み 手 に 徹 し 指したが 、 あ る キ ツ カ ケ か ら ﹁ オ 三高、東大仏文科へと進み、改造 木村徳 コ一は京都の生まれ 。 旧制 なった 。﹂ 徳社の京都支社 に勤 務 す ることに 家をたたんで、京都御所に最寄り 雑誌 『 文芸春秋jの編集者だったころの庄野誠一と家族 (昭和 3 0年 ζ ろ。横浜の自宅で) たりに入れて、高級官僚にならせよう 記物語﹄など 二十五点にのぼっている 。 問する程度ですませた。 ﹂ 氏ら京都大学の諸先生方をときたま訪 東京支社の閉鎖 しかし 、 ほとんどが整理統合あるいは 解散させられた出版社から譲り受けた と考えていたらしい。 ﹁朝日新聞に連載するかどうかは知り 紙型を使、つため 、 編集作業はゼロに等 がアメリカ軍 ませんが 、そのくらいの才能は十分お 昭和 二十年に入ると、三月には東京 印刷部数も少なかった。そのため出版 る夜間爆撃を受け、下町は焼け野原と しく、乏しい用紙をやりくりするから 点数が多いわりには、編集者は暇だっ な り 死 者 は 十 万 人 を 超 え た 。 また四月 Bm爆撃機 コ一四四機によ た。当時の生活を木村は﹃文芸編集者 にはアメリカ軍が沖縄本烏に上陸、日 ﹁それからの 一年間は、雑誌編集者の の軍事施設はもとより県庁所在地も爆 民十数万人が死んだ 。 さ ら に 全 国 各 地 本軍は 二カ月間の抗戦のすえ全滅、住 の戦中戦後﹂ で次のように書いて いる。 持ちではないでしょうか﹂ 木 村 か ら そ う 言 われた父親は複雑な 表情だったという。 暇な編集陣 養徳社は中市弘、矢倉稔の元甲烏書 林役員、そこに庄野誠一、木村徳三と であ ドイツ詩抄﹄、川田 ﹁ の 一年間に出版された本は、会津八一 山光集 ﹁ 堀辰雄﹃畷野﹂ 、森田草平 、 ﹄ ﹁続夏目激石﹂ 、中 谷 宇 吉 郎 ﹃ 樹 氷 の 十九年九月から終戦の 二十 年八月まで 、 こ の時期、昭和 態勢となった 。実 際 天理側スタッフも加わって強力な出版 用逃れの先斗町の芸妓だという有様で た。新しい職場のお茶汲みガ l ルが徴 の紙不足では仕事もひまなものであっ 社の企画編集長といっても、用紙統制 聞ラジオで知るばかり 、養徳社京都支 京はじめ全国各都市の空襲の惨状 は新 った 。勝手知った京都の町であり、東 一家が東京を離れることが決まった 波市に移った 。 たが 、六月に庄野が、九月に妻子が丹 子と生まれて問もない長女・杏子が い 移ることになった。庄野には妻・嘉津 を受け 、庄野は奈良 ・丹波市の本社に 東京・銀座の養徳社東京支社も爆撃 H 世界﹂、大山定一 は 真 剣 に 働 き ょ う が な い 。 旧甲鳥書林 時、庄野は嘉津子に ﹁ 丹波市に行って 生活から離れた私のガ長い休暇 国 順﹃史歌大東亜戦﹄、佐佐木信綱 ﹃ の顧問格で在京中の吉井勇氏や 、湯川 も上野さんがいるから寂しくないよ ﹂ いう 二人の一編集者、さらに生駒藤雄ら 文秘籍解説﹄、川端康成﹁高原﹄、高浜 秀樹、高田保馬、梅原正治、大山定 一 撃にさらされた 。 虚 子 ﹁ 斑 鳩 物 語﹂、鈴 木 =一重吉﹃古事 -12 の役 員 ・上野清治のこと 。 上野は大学 と言 ったという 。上野さんとは養徳社 野とは仕事を通して知り合いだったら ンテイングされて同社に来ていた 。 庄 門を強化するため 、今でいうヘッドハ も言 ったという 。嘉津子は杏子を連れ するのだったら神殿に参 拝 に行け﹂と 丹波市だよ ﹂ と言 い、また﹁ぶらぶら ち も ﹁ 東京 から来た奥さん﹂と 言 って 、 て毎日、神殿に行った 。商庖街の人た で印刷 工学を 学 び東京の印刷業界にい たが 、天 理 時 報 社 の 設 立 当 時 、 印 刷 部 現在横浜市に住み、九 十 二歳に て行った 。滞在先の明城詰所に 着 らった大きなカボチャを 一個さ げ 満たない杏子を背負い、人からも っきり覚えているという 。 一歳に 文芸編集者の戦中 そのあたりを前出 ﹃ て いられず、滋賀県の小村に疎開した。 は、大阪大空襲のあと京都も安閑とし ため本社勤務となった 。と 同 時 に 木 村 一方 、 木 村 も 京 都支社が閉鎖された よく面倒を見てくれたという。 いた嘉津 子 は、カボチャが盗まれ 戦後﹂ でみてみよう 。 れ、京都駅で電車を乗り換えて丹波市 ﹁ それからは毎日が肉体労働だった 。 丹波市では中山管長の﹁不自由 ま で 通 う の だ か ら 、 片 道 三時 間 は ゅ う ボチャは見事 になくな った。 こ の な思いはさせないように﹂との意 に か か る 。 (中略)そんな単に身体を 朝 六 時半 に家を出ると守山駅まで四十 を受 けて、松井忠義が 実 にきめ細 酷使するだ け の 通 勤 を 飽 き も せ ず 、 休 時の悔しさを 嘉津 子 は今も忘れな かく 一家 の世話をしてくれた 。庄 みもせずに続けた 。﹂ 分 近 く 歩 き 、 京 都 ま で 満 員 電車 で揺ら 野 は ﹁ 東京 は ふ る さ と で は な い 。 いという 。 つるした 。ところが、ほどなくカ ないようにと袋に入れて天井から なる嘉津 子 は 、 そ の 時 の 様 子 を は し、 居留地だ 。 オレたちのふるさとは 1 3一 し 服された本は 2 5 冊にのぼるが、そのうち左から大山定一 Iドイツ詩抄j、川田1 1 慎『 吉野之落葉j、堀辰雄 『 鷹野』 昭和 1 9 年の養徳社創設当初から翌年の終戦時にかけて出 ー創設のころ 養徳社創立六十年 承前 二 人 の 編 集 者 川端康成の電報 庄 野 誠 一 は 丹 波 市 で 、 木 村 徳 三 は滋 ﹁ 何の前ぶれもない突然の電報に、出 版事業とあってもどういうことか見当 もつかないままに、とりあえず早速近 京 ま で 何 時 聞 か か っ た ろ う か 。 立錐の 余 地 も な いす し 詰 め の 列 車 の 中 で 夜 を 明 か し 、 鎌 倉 の 川 端 家 に着 いたのは正 午前だった。 │ │久米正雄、川端康成、小林秀雄、 高 見 順 、 中 山 義 秀 、 石 塚 友 二氏 ら の 鎌 倉文士たちが 、それぞれ蔵書を持ち寄 も に 甲 烏書 林 か ら き て いた 矢 倉 稔 も 間 の 中 市 弘 が 終 戦 直 後 に 去 り 、 中市とと 先々月号で書いたが、養徳社は社長 遠い親戚にあたる近江八幡駅長に泣き 上したくても乗車券が手に入らない 。 た 時 期 だ け に、 な ま な か な こ と で は 東 直 後 の 、 交 通事 情 が 極 度 に 悪 化 し て い と 聞 い て い た 。 (中略) 層 に 歓 迎 さ れ て 結 構 商 売 繁 盛 し て いる とに時宜を得た所業と思われ、読書階 書籍払底の世に彼等の蔵書公聞はまこ 江八幡駅に駆けつけた 。なにしろ終戦 もなく辞任した。二代社長には岡島善 カワパタヤスナリ シユツパンジギヨウニサンカクサレ いが け な い 電 報 が 届 い た 。 鎌倉 に 住 む 川 端 康 成 か ら 木 村 徳 三 に 思 そ ん な 頃 の 昭 和 二十年九月十六日、 守山のような小駅からはとても乗り込 ったのだった 。 ど の 列 車 も 満 員満 員 で 、 合してもらい、翌日の夕方東京に向か 日 に 数 枚 し か 割 り 当 てのな い切 符 を 都 さんを拝み倒して、そんな田舎駅では 提供して貴兄らと共同事業をやりたい 終戦で残った紙と資本がある、 これを 士たちの姿に感じ入って、こちらには 同製紙社長橋本作雄氏が 、立ち働く文 貸本屋鎌倉文庫の前を通りかかった大 オイデコウ と 考 え る も の だ が ど う か :::と い った 文 芸 編 集 者 の 戦 中 戦 後﹂ に 木村の ﹃ タシ めないので 、 い っ た ん 京 都 に 出 て 京 都 申し入れがあったというのである 。 す と こ ろ が 、 終 戦 間 も な い 一日、この つくより術がなかったのである 。 駅長 賀の疎開先で終戦を迎えた 。 め文 O 次が就いた。 相た庫 次こと ぐと い 空はう 襲、貸 に関本 よ西屋 るのを 未私八 曾も幡 有灰?宮 の 聞 f前 発 の 汽車 に乗 った の を 覚 え て い る 。東 このへんを見てみよう 。 1 4 し通っ てりて い に鎌 た始倉 4 ということにまで発展し 、新会社の社 たちまち話は出版会社鎌倉文庫の設立 ぐ紙業側と文士たちが会見したところ、 られた私に、川端さんは視線をなごま えっ 、と私は目を剥いた 。呆気にと ﹁それはあなたが決めることです ﹂ きるというものである。感激が身内の れようとは/まさに編集者冥利に尽 て、 一つの雑誌の編集を無条件に任さ ﹁ただ 、雑誌の名前だけはもう決まつ ﹁ それはあなたが決めることです﹂と すみずみにまで熱くひろがってい った 中山氏らが就任し、紙業側から営業 ・ ているのですよ﹂ いう川端さんの 二言、それは私にとっ せて、 経理担当の役員が加わるということに ﹁なんというのです?﹂ て生涯的と言えるほどの大きな感激を 長には久米正雄氏、役員に川端、高見、 なった。(中略) ﹁﹃ 人間﹄というのですがね﹂ こういういきさつを川端さんは私に もたらすものだった。 ﹁養徳社を退いて、こちらに出てこら ﹁ああ 、それはあの、昔久米さんや里 説明した 。そして、まず雑誌の発刊を 見さんがやってらした同人雑誌の:・ - 15 - 計画しているのだが 、 ﹁それはもう・・・・ ﹂ ・ ・ 胸いっぱいの私は、すぐに帰って養 れますか﹂ 間﹂の表紙が 、私の目の底から不意に 徳社と話をつけ、できるだけ早く東京 ﹁その編集を、あなたやってくれませ 浮かび上がってきた。姉の机の上にあ に出てきますと答えるのも、しどろも 人 二十年も昔の小学生時代に見た ﹁ と私の顔をみつめた。 ったそれは 、有島生馬画伯の裸女の素 どろだ った。恐らく川端さんに向かっ んか﹂ ﹁ 雑誌って・ ::でも、どんな雑誌をつ 描に、左肩に久米正雄、里見弾、田中 てろくにお礼の 言葉すら口に出さなか くるんですか﹂ 純、吉井勇の同人名が刷り込まれてあ 川端さんは私を連れて大塔宮裏の久 米邸へ行き、久米正雄氏に引き合わせ まだ若いひとなんだ 新しい ﹁ 人間﹄はあなたの好きなよう ﹁ 君が木村君つ た 。 返す 言葉 はなかった 。編集者にとっ に編集してください ﹂ ﹁そうです。あなた知ってましたか。 ったのではあるまいか。 L一 一 った:::。 雑誌 『 人間 I 編集長時代の木村徳三 ね。大丈夫ですか ﹂ と久米氏は顎の長 い赤ら顔を 川端さ んに向けた。 ﹁いいでしょう 。木村君なら ﹂ 私を郷捻するような目つきで川端さ んはにやにやした 。﹂ 木村徳三の退社 木村はすぐさま丹波市に帰ろうと思 そんな表情で、私の退社と鎌倉文庫入 底とめようがな いと判じたのであろう、 社長の温情もさることながら、折角私 限りに挨拶を送別会でしてくれた岡島 をした い云々と い った、私には面映 い を養徳社の仕事の片腕と目していたに 社を快く許可してくれた 。 このたび木村徳 三君が退社するこ 三島由紀夫や武田泰淳らが世に出たこ - i 違いな い庄 野 誠 一氏に対して、一抹の 後ろめたきがないではなかった 。私の 願いを聞いたときの庄野氏の悔い然の思 いを漂わせた微笑とともに、それは今 も根深く消えない よ 当 時 、編 集 部 員 だ っ た 永 井 孝 枝 ( 現 在 、奈 良 市 在 住 、 八 十 五 歳 ) は 、 東 京 に帰る時の木村の嬉しそうな顔を今も 忘れな いと いう 。 東京に戻った木村の手によって 、そ れまでの文壇雑誌とは異なった知的文 化雑誌﹁人間﹂が出されたのは、それ とになったが、養徳社としては 、木村 とはよく知られている 。 -16- った 。ところが、 ま たもや乗車券の問 題が立ちはだかった 。木 村 は 窮 余 の 策 として母親が急死したことにして 、証 明書 を で っ ち 上 げ 、 よ う や く に し て 列 車に乗った 。 ﹁ 私は京都につ いたその足で丹波市に 向かった 。 東京の中央で元どおり編集の仕事に専 君がわが社を去るというのでなく、養 か ら 間 も な く で あ っ た 。 この雑誌から 念したいという客気をみなぎらした私 徳社が至宝木村君を中央に送り出すと 戦 争 が 終 わ っ て 新 し く 蘇 った時代に、 を目前にして、私を養徳社に世話して いう意味をこめて、盛大な歓送の拍手 木村は本年一月、九十三歳で逝った 。 くれた庄野誠 一氏 も 、 岡 島 社 長 も 、 到 社長の久米正経(前列中央の和服姿)を囲む鎌倉文庫社員 れ、全員で本に署名し合って、だれか そのころ夢中で読んだ 一冊が、養徳 二人の教師とともに、﹃鬼の詞﹂ とい 同誌は、大岡にとって最初の文学的経 社が版権を取得し大山定 一の訳で出版 がそれを保管するという習慣だった。 終戦当時、詩人 ・大岡信は旧制沼津 験だった。学校の物置に積まれていた したリルケの ﹃マルテの手記﹂だ った 。 う同人雑誌を始めた。八号まで続いた 中学の 三年生だった。戦争から解放さ 工場の作業日程表を失敬して、裏返し 大岡にとっ て養徳杜は思い出深い出版 大岡信と本 れ自由な雰囲気の中で、大岡は同学年 て真っ白な部分を利用し、ガリ版を切 ﹃マルテの手記﹄の﹁月報﹂ には三島 社だという。 回三一十部ほどつくり、同級生や 由紀夫、中村光夫、椎名麟三と い った ルそう vレや り、皆で謄写版で印刷した。毎 女学校に行って押し売り販売も れが自分の力で生き、夢み、成長して した。大岡は、当時の中学校で 大岡は、 こ の友人たちのおか きたように考えているもののほとんど 大物が﹁推薦のことば﹂を寄せている が、 この中で三島は ﹁﹃マルテの手記﹄ げで古本屋をあさる喜びを知っ の大部分を、その本の力に負うている はきっと全国 一の手作り同人雑 た。戦後のひど い出版事情の時 ことに後になって気がつくような種類 のような本は 、読んだあとで、われわ 代に、時折どこかに隠しであっ の本である。 こういう著作こそ不朽の 誌だったろう、と述懐する。 ただろう良質の紙を使 って文学 養徳社の本が日本の出版史の中でキ 著作である ﹂ と絶賛している。 ことがあ った。目ざとくそれら ラリと光るのは、この時期のものに多 書や詩集が作られ、書庖に出る の情報を得て、みんなに吹聴し たのが友人の 一人で 、 四人がそ れぞれ分担して 一冊ずつ手に入 。 し、 -17 の友人三人と 、数歳しか歳が違わない 谷崎潤一郎から木村徳三にあてた手紙 ー 創設のころ 養徳社創立六十年 いといった依頼から、長年の研究成果 を発表してほしいと大部の原稿を持ち 込む学者など自薦他薦が多かった 。 出 版業界の復興は遠 い先のことのように 思われた 。 実際、この時期、昭和二十年十月か れから復元にかかる旨を目を輝かせて 本部員)に 、中山正 善二 代真柱が、こ 情然とおぢばに帰った中山慶 一 (のち 昭和 二十年八月十五日、終戦当日、 社編集部にいた安藤直正が庄野に呼ば 歳)らが出ていたが 、 かつて文芸春秋 (旧姓喜田、現在奈良市在住、八十五 出版部時代からの編集部員 ・永井孝枝 から連れてきた青山、った、 天理時報社 編集会議には真柱のほか生駒藤雄、 庄野誠 一、それに女性では庄野が東京 山せつ編﹃母の成人﹄、横光利 一 ﹃ 雪 いて﹂ 、深田久弥﹃津軽の野づら﹄、中 正義口﹃﹁神﹂ ﹁月日﹂及び ﹁ をや﹂につ 伴 ﹃ 土偶木偶﹄、川端康成﹁愛﹂、中山 吉井勇﹃定本吉井勇歌集﹂、 幸 田露 る。その 主なものを見てみよう。 から出版された本は七十点に上っ て い ら 二十 二年九月までの 二年間に養徳社 話したという逸話はよく知られている。 れて後から加わった。昭和 二十二年に 岩 波﹂ と い う の は 、 東 口癖だった 。 ﹁ 岩 波をつくるんだ﹂というのが真柱の の後みんなで 一杯やりながら﹁関西の た東京の出版社がいつ再興するのかわ く真柱に会いに来た 。自分の本を出し てきたが、そのほとんどは社長ではな な学者や作家が足しげく養徳社にやっ この頃には東京や京都などから著名 宮城道雄﹃軒の雨﹂、岸田国士﹃チロ につい て﹄、吉川幸次郎﹃胡適自伝﹄、 ﹁新秋の記﹂ 、 リ ルケ・大山定一訳﹃神 ぶらでりで呉清源 ﹁ 莫愁﹄ 、佐藤春夫 ﹃東亜の古代文化﹂、久保田万太郎﹃あ 育﹂、内田百間 ﹃ 私の先生﹄ 、梅原末治 ずウイスキーを提げて参加した 。会議 京 の岩波書庖のことで、当時は白他共 からないので 、養徳社で復刊してほし しようぜん これから日本はどうなるのかと、みん 解 ﹄ 、武 者 小 路 実 篤 ﹃ 愛と死﹄ 、柳田国 の中で 終 文化雑誌﹃玄想﹄が創刊されると 、編 苦 し なが呆然自失する中、 二代真柱は別で 、 昆 男﹃笑の本願﹄、亀井勝 一郎 ﹃ 人間教 4 集会議は特に頻繁に聞かれた 。 取 れ た 養徳社の月一回の編集会議には毎回必 重? に認める出版界の雄だった 。 - 18- 戦 後 の 石: が ルの秋﹄ 、サント・ブ 1 ヴ ・小 林 秀 雄 たのも、嬉しいことだった。 月に村松梢風の﹃大和の神楽歌﹂が出 では数少ない高度の文学 ・学術出版社 務所をそのまま京都支社として、関西 ン・白鳥省吾訳﹁ホイットマン詩集﹄ ﹁愛の情念に関する説﹂、ホイットマ 訳﹃人間随想﹄ 、 パ ス カ ル ・ 津 田 穣 訳 ﹃智恵袋﹂、モンテ l ニュ・関根秀雄 佐佐木信綱﹁万葉年表大成﹄、森鴎外 して読書層に受け入れられた。現在、 り、はっきりした顔をもった良書群と 発行してきたが、この叢書の創刊によ これと い った定型なしに内外の良書を の紙型を議り受けるなどしたために、 が創刊されたことだ。 これまで 、他社 ここで特筆すべきことは、養徳叢書 たちが長蛇の列をつくっているのだ 。 たり毛布にくるまったりして寝転ぶ人 岩波書庖前の歩道に、コートをかぶっ 影の写真が残っている 。東京・神田の 昭和 二十 二年七月十九日午前 二時撮 しかい 訳﹃我が毒﹂ 、里見惇﹁若き日の旅﹄ 、 などキラ星のごとく並ぶ。堀辰雄の ﹃ 瞭 東京の国立国会図書館に保存される養 列は延々と駿河台の方まで続いていた 。 『 玄想 Iの創刊号(右)と第 2号。同誌は 2 年間、 2 2号まで続いた。 極的に出版したのもこの時期だ 。大山 定 一、富士川英郎、手塚富雄、高橋義 ど海外の版権を取得して翻訳文学を積 また、リルケやヘッセやカロッサな い時代の到来に心震わせていた者たち を買い求めた 。食料だ け でなく、新し 売を待 つ人たちだった 。特に学生たち 第一巻(﹁善の研究﹂等を収録)の発 活字に飢える人々 として斯界の注目を浴びていた。 野抄﹄の初版が出たのもこの頃だし、 徳社刊行本のほとんどは 、こ の養徳叢 岩波書庖が発行した﹁西田幾多郎全集﹄ 孝、片山敏彦とい った豪華翻訳者がず は活字にも飢えていた 。 の堂々たる出版社となり、東京・銀座 万円の増資をして、資本金三 O O万円 昭和 二十三年五月、養徳社は 二七O が可能だった 。岩波としては七千部ほ 県に紙型を疎開していたために、それ されていたものの増刷だったが 、長野 同全集は新刊ではなく、戦前に発行 は三日も前から泊り込みで﹁西田哲学﹂ らりと並ぶ。 に東京支社 、京都にあった設立準備事 - 19- そうし ょ 本教にと っては、終戦直後の二十年十 書だ 。 昭和 2 2 年に養徳社が創刊した月間の文化雑誌 ど印刷したのだが 、全国の書屈にも配 らなければならず、行列の人たちに 全 部売ってしまうわけにはゆかない。そ こで同社はあらかじめ 、庖頭では 二百 五十部しか販売しないと断って いるに もかかわらず、 この行列である。とに かく、すさまじいまでの紙不足の時代 で、前評判の 高 い出版物には必ずとい っていいほど行列ができた 。 一方 や大衆小説が中心であった 。 のちに人気作家となる吉行淳之介は 当時、実話雑誌の編集者をしていたし、 μ のちの剣豪作家柴田錬 三郎はカストリ らく いん 雑誌に書きまくり、グカスト リ作 家 の熔印を押された 。 みんな食うために必死だった。敗戦 によ って機軸を喪失し方向を見失った 日本人の精神生活がぐらぐらと揺れて いたことが 、西田哲学とカストリ雑誌 という両極端に人々を走らせたのだろ 、 叶 ノ 。 しかし、粗悪な仙花紙(クズ紙の再 生紙)で作られたこれら雑誌群は、昭 和 二十四年から始ま った出版不況の中、 一 十 三年には四 急速に消え て いった 。 一 六O O社もあった出版社は相次 いで倒 産、あるいは解散し、 二十六年には 一 九O O杜になっていた。 出版不 況 発足当初から比較的潤沢な用紙を持 - 20一 西田哲学﹂に行列ができた頃、 ﹁ では自由を謡歌するように田村泰次郎 の﹃肉体の門﹂がよく売れ、カストリ はん らん 雑誌 が 氾 濫 し た 。 ﹁カストリ﹂と呼ば れた粗悪な焼酎に左党が群がった時代、 コ一 一 合 飲めば誰でも酔いつぶれる﹂と 言 われたところから 、﹁ 三 号で つぶれ る﹂ような雑誌があふれたわけだ 。 ﹃ 新 版 戦 後 雑 誌 発 掘﹄(福 島 鋳 郎 著) によ ると 、 この時期の大衆誌の発行点数は 二十 一年が 一二 九誌、 二十 二年二九八 誌 、 二十三年は 三七八誌を数える 。 こ れ ら 大 衆 誌 の 内 容 は 性 風 俗 、 犯 罪 実話 『 西国幾多部全集j第 1巻の発売を泊りがけで待つ人々。長蛇の列は東京 ・神田の岩波 2年 7月 1 9日午前 2時撮影。朝日新聞から) 書庖から駿河台まで続いた。(昭和 2 人の勤勉に支えられて思いのほか早か この間、 二十四年五月に創刊した、 った 。 N 印 刷し ったのも、養徳社にとっては痛手だっ っていた養徳社では 、戦後の といった焼 信 仰 に 基 づ い た 家 庭 雑 誌 ﹁ 陽 気﹄ だ け μ た。東京のこれらの業界が本格的な復 は発行を続けて余瑞を保っていたが、 たものなら何でも売れる き直し小説や類廃文学が町に氾濫する 興に向かおうとするとき、関西の出版 教会本部からの援助もあって、 一一十六 よぜん 中にあって 、格 調 高 い 本 を 出 版 し て 堅 社はもはや競争相手ではなかったので できた読書層の懐具合にも大いに響い て、 一冊の本を買うのにも慎重になっ 締めの影響は、これまでむさぼり読ん 台骨を根底から揺り動かした 。金融引 引き締められた経済政策は、同社の屋 想定したほどに売れなくて大半が返本 とを想定して次の本を出版するのだが 、 ﹂とだ。出版社は書庖で売れているこ たかの結果がわかるのが半年後だった のは 、当時は本が売れたか売れなかっ もう 一つ養徳社にとって不利だ った 三十 一 年 に は 天 理 青 年 に あ て た ﹁ 青 年 後 も 天 理 の 人 た ち と 交 流 を 続 け 、 昭和 た文芸春秋社に復帰した庄野は 、その ったのは二十五年四月だが、復興なっ 庄野誠一 一家 が 天 理 を 離 れ 東 京 へ 帰 年十二月から﹃陽気﹂発行を主体に養 てきた。印刷したものなら何にでも飛 されできたらどうなるか。この委託期 への窓 ﹄ を天理教道友社から出版して c びついた戦後の時代はすでに去ってい 間半年という時間が養徳社には不利に いる。 ある たのである 。 はたらいた。返本につぐ返本が重なる ところが二十四年の春以来、急激に また 一方で、東京の出版業界および と、﹁絵で見る日本史﹂(東京大学史料 まに出ても、所詮は焼け石に水でしか 編纂所編)といったベストセラーがた 嘉津子は、庄野の日記の中に﹁僕がい くなったが、書斎を整理していた妻の 庄 野 は 平 成 三 年 一月に八十 三歳で亡 ﹂うして二十五年夏から秋にかけて 養徳社は事業の縮小・整理を断行する 事態となり、本の出版は絶息状態とな 箇所を見つけた。 (文責 ・元測 紘 ちばん信頼する人は木村徳 ﹂という 二 一 (おわり) なかった。 徳社は再出発した。 印刷業界、紙業界の戦後復興が 、 日本 『 陽気j創刊号 21- い読者層を維持していた。 (昭和 2 4 年 5月) 創設のころ 養徳社創立六十年 ヘ﹁陽気﹂平成十七年八月号1J 十二月号より転載﹂ r 発行図書出版養徳社 砂川奈良県天理市川原城町三八八 Il l- 六 三│ 八O七七 T E L O七 四 三 六 二! 四 五O 三 F A X O七四三 天理時報社 平成十八年 二月十日(非売品) 製本・印刷 発行日
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