長 嶺 由 衣 子

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時 代を支える
一橋大学社会学部(政治学・医療人類学)卒業
千葉大学予防医学センター 特任研究員
ながみね・ゆいこ
2005年
﹁地域をまるごと診療したい﹂
想いは小さな島から全国へ
P R O F I L E
長嶺 由衣子
女性医師
長崎大学医学部3年次学士 編入学
2009年
長崎大学医学部 卒業
沖縄県立中部病院 プライマリ・ケアコース(離島医師養成コース)
2012年
2014年
沖縄県立南部医療センター・こども医療センター 附属粟国診療所 所長
千葉大学予防医学センター 特任研究員
聞き手・文:ドクターズマガジン編集部 写真:稲垣純也
DOCTOR'S MAGAZINE
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初めての女性医師となった。
なくある。長嶺氏は、粟国島が迎える、
土日も急患が押し寄せる。夜間にはオン
緊急要請も頻繁にある。休診日のはずの
な挑戦〟と言われました﹂
﹁赴任が決まった時、周囲からは〝大き
の歴史や文化まで含めた﹃立体﹄で診たい
生活まで含めた﹃面﹄
、もっと言えば土地
なら﹃線﹄になる。でも、私は患者さんの
いっとき、いわば﹃点﹄です。病棟や外来
品不足にも頭を悩ませた。そんな過酷な
の時期にはフェリーが欠航となり、医薬
睡眠時間はぎりぎりまで削られた。台風
100 時間を超えることもしばしばで、
365 日稼働の状態だ。時間外診療が
離島一人医師からキャリア開始
患者に
﹁面﹂
で関わりたい
コ ー ル で 呼 び 出 さ れ、 ま さ に
時間
﹁救急であれば、患者さんに関わるのは
現在、千葉大学予防医学センターで公
と考え、それができる島に行ったのです﹂
いっても、島全体に医師は一人。まさに、
い地上戦を生き抜いた。戦後、大きな傷
係する。母方の祖母は沖縄出身で、激し
﹁ゆんたく﹂
﹁見守り﹂
契機に
緊急搬送数は 件から 件へ
修制度をもつ、沖縄県立中部病院の﹁プ
沖縄の歴史・地域事情をくんだ独自の研
なったのには理由がある。戦後から続く
に取り組んだ。そして、ハンセン病の対
み、政治学を専攻し、卒論でこのテーマ
になれたのはなぜなのか。一橋大学に進
搬送件数は 件、人口が倍以上の他島で
リ緊急搬送件数の多さです。赴任前年の
﹁赴任当初から気になっていたのが、ヘ
も 件程度ですから、異常な多さです﹂
独自の医療制度ができた経緯を追った。
少ない睡眠時間をさらに削り、これま
﹁それまで、粟国島は特別養護老人ホー
人医師はレントゲン撮影や細菌検査、薬
社会学を修めてから医学の道に移った
ムがあるので搬送数が多いとされていま
での搬送件数を分析した。丁寧に内訳を
い。治療するか本島の病院に搬送するか、
契機は、学生時代に訪れたインドでの経
した。でも、搬送された高齢者の 分の
﹁制度が変わる時にはどんな要因が影響
一刻を争う難しい判断をするのも全て自
験だった。 日 ドルで暮らす﹁絶対貧
剤管理まで、通常なら他スタッフに任せ
分。そうした厳しい状況に対応する医師
見ていくと、意外なことが分かった。
足から在宅治療を進め、その過程で沖縄
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するか、それを知りたかったのです﹂
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る仕事も全て自分で行わなくてはならな
コース︶で初期研修を受けた。離島の一
応にあたり、医療従事者と隔離施設の不
トを切った。
状況でも、長嶺氏は新しい挑戦を始める。
沖縄県・粟国島の診療所に所長として赴
﹁ コトー﹂の状況で医師としてのスター
を負った沖縄が見事復興を遂げ、長寿県
強い想いには、バックグラウンドが関
歳の若さで一人医師に
任した 年前をそう振り返る。所長とは
衆衛生の研究に携わる長嶺由衣子氏は、
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ライマリ・ケアコース﹂
︵離島医師養成
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Dr.
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を育成する研修プログラムは﹁めちゃく
りもずっと﹁普通﹂だった。だが、いった
困﹂の人々、その生活は想像していたよ
状況分析を行いつつ、同時に取り組ん
して急患になる状況が見えてきました﹂
るものを状況をつかめず放置され、悪化
は在宅の方。早期発見すれば手が打て
ちゃキツい、でも充実したものでした﹂
。
の生活はあっという間に崩壊する。
﹁健
本島から北西に約 キロ、人口約800
嶺氏が赴任した粟国島もその一つ、沖縄
﹃健康﹄という要素が加わった時、医師と
身に付けたいと思っていました。ここに
﹁ずっと、
﹃国境を越えられる専門性﹄を
康﹂が生活を維持することを痛感した。
この場所を会場に、村役場の保健担当者・
お互いの顔が見えるようにした。そして、
に診療所の待合室のレイアウトを変え、
だのが﹁人のつながりづくり﹂だ。手始め
て看取り。予防医療や感染対策、校医、
だった。午前だけで外来患者は ∼ 人、
粟 国 島 で の 勤 務 は、 想 像 以 上 に 過 酷
の時間におしゃべりをする時間をつくっ
人ホームのスタッフに声をかけ、診療後
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人が住み 島が一人医師体制の島だ。長
人の小さな島だ。離島での仕事は診療所
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社会福祉協議会のメンバー・特別養護老
沖縄県には の離島があり、うち 島に
ん誰かが病気になると、貯蓄のない彼ら
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研修修了後、予定通り離島に赴任した。
1
いう選択肢が出てきたのです﹂
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内だけではない。救急対応、往診、そし
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特養の嘱託医までやるべきことは果てし
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待合室のレイアウトを変え、関係者が集まる「ゆんたく」を開催。
何気ないおしゃべりから活動のヒントを得た
粟国診療所。看護師や事務員らと協力し、外来や往
診業務にあたった
具で、どこをどうケガするのかが見え、
たが、収穫を手伝ってみると、どんな器
あり、取り組みたいことがあるのが見え
適切な治療につながった。
国島での任期を終える日となった。島を
離れるフェリーを島中の住民が見送った。
みやすくなった。夏場に多い溺水への対
です。ヘルパーさんの見回りが定着する
悩むことも出てくる。そうした時は、テ
それでも、時には治療法や人間関係で
という実践的なプロジェクトだ。研究に
究結果はまちづくりや政策に反映される
環境が健康に与える影響を研究する。研
住民の健康データを分析し、生活習慣や
と、正確な情報を基に生活改善や栄養・
レビ会議システムでつながる、他島の医
短期間で大きな成果を上げたことにつ
背景と健康との関係性にも注目する。
医師として確実な成果を上げるととも
ば、そのための対策を立てられます﹂
﹁
﹃社会全体を健康にする﹄には、医学だ
いて、長嶺氏は﹁社会学を学んできたこ
きて、システムを変える仮説をもってい
けでは足りない。医学と社会科学双方の
に、
﹁島の人々から学ぶ﹂ことにも熱心に
り、地域の青年会と一緒にスポーツ大会
た。医師の仕事だけやろうとしたら、こ
視点を活かし、誰もが健康に生きられる
所得や教育レベルなどといった社会的
を主催した。住民の生活を知ることはそ
こまではできなかったかもしれません﹂
とが大きかった﹂と振り返る。
のまま医療にもつながる。例えば、サト
あっという間に 年の歳月が流れ、粟
社会をつくる。それが私の最終目標です﹂
ウキビ収穫中にケガをする住民が多かっ
﹁国内外のコミュニティーの実践を見て
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うたう。祭りで島の歴史や土着信仰を知
自分も学び、土地を知る
人をつなげて仕組みをつくる
年後には年 件まで減少した。
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た。話をしてみると、彼らにも課題感が
てきた。それまでは、そうした﹁想い﹂を
月に一度、こうした﹁おしゃべりの場
策を立てるために役場の全課長、観光協
粟国島での医師生活を終えた長嶺氏
つながりができると、課題にも取り組
=ゆんたく﹂を続けていくと、
﹁もうすぐ
会、消防団や警察などの関係者を集めた。
は、2014 年、千葉大学予防医学セン
受け止める場がなかったのだ。
暑くなるし、熱中症にならないように、
それまで別個に対策を立てていたが、顔
医療と社会の両方の視点から
﹁地域を丸ごと﹂
健康にする
家にいるお年寄りを見回ろう﹂という話
ターの特任研究員に着任した。
史文化など、患者さんの全てをみること
﹁島では医療をはじめ、教育、生活、歴
客周知用パンフレットなどが次々と実行
ができた。小さなフィールドで得た経験
チのハザードマップやAED 設置、観光
嶺氏は役場にかけあって予算を確保し、
され、
﹁島全体で溺水を減らす﹂機運が生
を、次は大きなところに活かしたい﹂
を合わせると新しいアイデアが出た。ビー
﹁ヘルパーが定期的に在宅高齢者の家を
まれた。接点のなかった人をつなげ、動
ルパーに時間があることを知っていた長
見回る﹂という事業をスタートさせた。
く仕組みをつくることで、長嶺氏がいな
が出た。老人ホームの開所によって、ヘ
﹁粟国島は保健師さんがおらず、在宅高
くても活動が継続するようになった。
各自治体や国がもつ居住エリアごとの
齢者の実情を誰も把握していなかったの
服薬指導ができるようになり、重症化す
など、多様な専門家が関わる。
などの社会科学・疫学・建築・教育・福祉
システムには、本当に助けられました。
﹁私が勉強させていただいている研究
は医療分野だけでなく、統計学・社会学
島ならではの疾患を報告しあったり、定
チームは、自治体ごとに全国と比較して
師仲間が助けてくれた。
期的に勉強会をしたり。これがない時代
介護予防ニーズを評価した﹃地域診断書﹄
﹁沖縄県が提供してくださっているこの
この﹁仕組み﹂はすぐに成果となって表
のドクターはより大変だったと思います
を作成しています。項目ごとに他と比較
る前に手が打てるようになりました﹂
れた。ヘリ搬送数は赴任 年で年 件、
が、同時に脈々とつながる沖縄の離島医
すると、立ち位置が分かる。例えば、運
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取り組んだ。三線を習い、一緒に島唄を
動能力が低下した高齢者が多いと分かれ
療の伝統を感じることもできました﹂
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