齋 藤 好 廣

私の研究歴
齋藤好廣
私の研究歴は1年間の臨時雇い、日本大学大学院理工学研究科での2年間を含
め 40 年 に 亘 る も の だ っ た 。 大 学 の 教 員 と し て 生 き て い く と い う 明 確 な 目 標 が あ っ
たわけではないが、大学院修了後、縁があり理工学部薬学科の香粧品化学研究室
(出身研究室)にて副手として勤めることになった。そして研究室の意向で乳化
に関する研究をスタートした。以来、界面化学を専門とする研究に携わることと
な っ た 。 40 年 間 に お け る 研 究 を 大 き く 分 類 す る と 下 記 の 4 テ ー マ と な る 。 時 系 列
から見たこれらの研究内容を若干の回想を含め以下に述べる。
1
非イオン性界面活性剤ミセルの幾何学的構造
2
非イオン性界面活性剤による可溶化現象
3
シクロデキストリンの錯体安定度定数の決定
4
シクロデキストリンによる乳化と形成メカニズム
1
非イオン性界面活性剤ミセルの幾何学的構造
大学院は薬学科の恩師佐藤孝俊先生(香粧品化学研究室)の友人である、和井
内徹先生(後に理工学部長)が主宰する有機物理化学研究室(当時)に進んだ。
しかし、佐藤先生が学位取得を目指している最中であり、そのお手伝いをする必
要性から、大学院でのテーマは、非イオン性界面活性剤を用いた乳化に関する研
究となった。そして、半年後には佐藤先生の学位取得を支えていた横手正夫先生
へと大学院の指導教授が変わり、研究の場も香粧品化学研究室に移った。短い期
間 で あ っ た が 、 和 井 内 先 生 に は CA( ケ ミ カ ル ・ ア ブ ス ト ラ ク ツ ) の 引 き 方 か ら 研 究
者としての心構まで、研究者として生きていく上での基本的なことを教わった。 今で
も 思 い 出 す が 、「 少 年 ジ ャ ン プ 」 と い う 漫 画 本 を 小 脇 に 抱 え て い た ら 、「 齋 藤 君 、 持 っ
ているものが違うんじゃないか」と優しく叱責され恥ずかしい思いをした。当時の
薬学科には大学院が設置されておらず、香粧品化学研究室の環境は人的にも設備
的にも十分なものではなかった。しかし、大学院時代の乳化に関する研究は、そ
の後のミセルの幾何学的構造に関する研究に着手する切っ掛けにもなった。ミセ
ル の 幾 何 学 的 構 造 に 関 す る 研 究 は 、 約 10 年 に 亘 る も の で あ っ た 。 当 時 は 界 面 活 性
剤 に つ い て の 知 識 も 乏 し く 手 さ ぐ り 状 態 で あ っ た が 、一 冊 の 本 と
の 出 会 い が 救 い と な っ た 。J.H.Fendler、E.J.Fendler 著 の「 分 子
会 合 体 と そ の 触 媒 作 用 」で あ る 。ミ セ ル 構 造 に 関 す る こ と が ぎ っ
し り と 詰 ま っ た 素 晴 ら し い 本 で あ り 、当 時 の 私 に は 衝 撃 的 で あ り
食 入 る よ う に 何 度 も 何 度 も 読 み 返 し た 。ま た 、文 献 が 非 常 に 豊 富
で あ る こ と も 研 究 へ の 大 き な 助 け と な っ た 。少 し オ ー バ ー か も 知
れないが、私の師とも言える価値のある一冊である。
界面活性剤ミセルの大きさや会合数などミセルの幾何学的構造に関する情報は、
ミセル内で起こる様々な反応や可溶化・乳化などの界面化学的現象を解釈する上
で大変重要である。特にポリオキシエチレン系非イオン性界面活性剤のミセル構
造に関する研究は、イオン性界面活性剤のそれと比較して極めて少なかった。そ
こで、そのミセル形状、会合数、サイズ、水和の程度、ミセルの内部極性などに
ついて研究を進めた。なお、これらの研究成果を纏め上げ、日本大学から工学博
士(主査:穴沢一郎先生)の学位を授与された。
結果をまとめると以下のようになる。
① 界 面 活 性 剤 親 水 基( オ キ シ エ チ レ ン( O E )基 )の 増 加 と と も に ミ セ ル 内 部( コ
アー部)の極性は増大することを明らかとした。そして、OE基の長い界面活
性剤はミセル会合数が少なくミセル容積が大きいためであることを提示した。
② 界面活性剤親油基(アルキル基)の増加とともにミセルの内部極性が減少する
ことを明らかとした。また、ミセル内部(コアー部)を形成する炭化水素鎖に
相 当 す る n -ア ル カ ン と 比 較 し て 、コ ア ー 部 の 極 性 が 幾 分 高 い こ と を 明 ら か と し
た。そしてOE基の一部がコアー部に没入していること、バルク水相からの水
の侵入が要因となることを提示した。
③ ミセル構造に及ぼす無機塩の影響、特に陽イオンの影響は、K +>Na+>
Li+の順でミセルをよりコンパクトにし、ミセル内部の極性を低下させた。
当時はミセルコアー部は無極性環境下にあり、バルクからの水の侵入はないと
言う考えが支配的であった。しかし、上述の結果はミセル内部へのバルク水の侵
入 を 示 唆 し 、 ミ セ ル の フ ィ ヨ ル ド ( Fjord) モ デ ル を 支 持 す る も の で あ っ た 。
2
非イオン性界面活性剤による可溶化現象
ミセル構造の研究を続けるうちに、ミセルを利用した応用技術である可溶化現
象に興味を持つことになった。折しも面識のあった東京理科大学理工学部の阿部
正彦先生(後に日本油化学会会長)から可溶化ゼミを始めると言うことで参加の
誘いがあった。東京理科大学は、各学部に界面化学を専門とする著名な先生方が
おり、界面科学研究所を有するなど私にとっては憧れの大学であった。阿部先生
もその中の一人であり、阿部研のゼミに参加させていただき、また、測定・デー
タの解析などもしていただき、私の研究のクオリティは著しく高まった。大学院
生に研究マインドを学んでもらいたく、時には大学院生をともない野田まで足繁
く通った。当時は可溶化現象は界面活性剤のミセル構造(ミセルの大きさ、会合
数など)や被可溶化物の化学構造、極性、荷電状態の違いなどから説明されてい
た。私はミセルの幾何学的構造について研究をしていたので、可溶化現象につい
てもう少し細かい議論が必要であると感じていた。そこで、被可溶化物のミセル
内位置や極性とミセルの各部位(親水部であるマントル層と疎水部であるコアー
部)の環境とを関連づける研究を行った。また、窒素ガススイープ法に基づく動
的ヘッドスペース装置を自作し、香料の可溶化機構と放出挙動についての応用研
究も行った。
結果をまとめると以下のようになる。
① 被可溶化物であるn-オクタン、n-オクタノールの可溶化は、単にミセルの
大きさや会合数で説明できるものではなく、 被可溶化物のミセル内位置(マン
トル層部とコアー部)の容積と深い関わりがあることを明らかにした。
② 無極性のn-オクタンを可溶化したミセルのサイズは、 可溶化前のミセルのサ
イズと比べ、ほとんど違いはないが、極性のあるn-オクタノールでは、可溶
化量の増加に伴いミセルのサイズが増大すること、ミセルが球状から非球状へ
と形態変化することを明らかにした。
③ トリブロック共重合体のプルロニック系界面活性剤は、水溶液中で 温度の上昇
により形態変化(モノマー→ミセル→ゲル)並びに粘度の増加を伴うため、香
料の放出を制御することが可能である。結果として、温度変化に関わらずほぼ
一定の放出性を示し、新規な香料保持基剤としての有用性が示唆された。
界面活性剤を用いた可溶化技術は、医薬品、化粧品、食品、農薬など様々な工
業分野で利用されている。以上の結果は、可溶化を考える際の界面活性剤の選択
に対する有用な提案となる。
3
シクロデキストリンの錯体安定度定数の決定
1994 年 か ら 1 年 間 、 日 本 大 学 海 外 派 遣 研 究 員 と し て 米 国 の 州 立 オ ク ラ ホ マ 大 学
において研究をする機会に恵まれた。留学先を決めるにあたっても阿部先生にお
世話になった。オクラホマ大学にも界面活性剤研究所があり、東京理科大学と同
様に工学、理学、環境など様々な分野の先生方が所属し、界面活性剤を用いた研
究 を 行 っ て い る 。 私 は 、 こ の 研 究 所 の 所 長 で あ る Professor S.D.Christian の 下
で研究生活を送った。なんと先生は阪神淡路大震災のおり、講演のため神戸に滞
在していて地震に遭遇した。私はオクラホマにおり夕刻、先生の奥様から神戸方
面の情報を得てくれと切迫した電話があり、はじめて阪神淡路大震災のことを知
った。なかなか先生と連絡が取れず、翌日に無事である旨のメールがあり研究室
スタッフ一同、抱き合って喜んだことが今でも思い出される。
オ ク ラ ホ マ で は 環 状 オ リ ゴ 糖 で あ る シ ク ロ デ キ ス ト リ ン( CyD)に つ い て 学 ん だ 。
CyD の 特 性 と し て は 、ホ ス ト と し て そ の 疎 水 的 空 洞 内 に 種 々 の 化 合 物( ゲ ス ト )を
取り込み包接錯体を形成することにある。包接と可溶化は類似した物理現象であ
り 、界 面 活 性 剤 に よ る 可 溶 化 の 研 究 を 長 年 実 践 し て き た た め 、CyD に よ る 包 接 に 関
す る 研 究 に は ス ム ー ズ に 移 行 で き た 。こ こ で は 、CyD の ゲ ス ト 包 接 能 を 定 量 的 に 評
価し得る錯体安定度定数を、表面張力から求めるという新規な決定法について研
究 を 行 っ た 。 錯 体 安 定 度 定 数 は ゲ ス ト /CyD 間 の 相 互 作 用 を 研 究 す る 上 で 最 も 基 礎
的かつ重要なパラメータである。今までに幾つかの錯体安定度定数の決定法が研
究されているが、いずれの方法にも一長一短がある。したがって、ゲストへの適
用範囲が広い、全く別の錯体安定度定数決定法の開発が必要であった。私は形成
した錯体の絶対量そのものを求めることにより、錯体安定度定数が決定できる表
面張力法(オクラホマ大学において)と静的ヘッドスペース法(帰国後、薬学部
において)と言う2つの新しい方法を提示した。帰国後のテーマとなった静的ヘ
ッドスペース法を確立する上で、星薬科大学の上田晴久先生(現在、日本薬科大
学教授)の共同研究者としての存在は大変に大きいものであった。
結果をまとめると以下のようになる。
① 多 く の 有 機 化 合 物( ゲ ス ト )は 気 /液 界 面 に 吸 着 し 、表 面 張 力 を 低 下 さ せ る 。一
方 、 天 然 の CyD は 界 面 不 活 性 物 質 で あ る 。 そ し て 、 CyD に 包 接 さ れ る と ゲ ス ト
は 界 面 活 性 を 示 さ な く な る 。 こ の よ う な 現 象 を 基 に 、 予 め CyD 無 添 加 時 の ゲ ス
ト の 表 面 張 力 曲 線 を 作 成 し 、 こ れ を 検 量 線 と し て 用 い る こ と に よ り CyD 存 在 時
のゲストのフリー濃度が求まる。また、物質収支から錯体量が算出され錯体安
定度定数を決定することができた。
② ゲストがある程度の蒸気圧を示す場合、バイアル中のゲストには溶液中のフリ
ーのゲストと包接体間の平衡、溶液中のフリーのゲストと気相中のゲストとの
平 衡 の 2 つ が 成 立 す る 。 CyD 存 在 下 、 バ イ ア ル の ヘ ッ ド ス ペ ー ス 中 の ゲ ス ト 量
をGCで測定することで、溶液中のフリーのゲスト濃度が求まる。物質収支か
ら錯体量が算出され錯体安定度定数を決定することができた。この方法を直接
静 的 ヘ ッ ド ス ペ ー ス ガ ス ク ロ マ ト グ ラ フ 法 ( 直 接 SHSGC 法 ) と 命 名 し た 。
③ 直 接 SHSGC 法 は 、 あ る 程 度 の 蒸 気 圧 を 示 す ゲ ス ト に の み 適 用 で き る 。 つ ま り 、
汎 用 性 に 欠 け る 。 そ こ で 、 CyD に 対 す る 2 つ の ゲ ス ト の 競 合 性 を 利 用 し た 競 合
SHSGC 法 を 開 発 し た 。 揮 発 性 を 示 す ゲ ス ト が 包 接 さ れ た CyD 水 溶 液 に 、 不 揮 発
性 の ゲ ス ト を 添 加 す る と CyD に 対 し て 競 合 が 起 こ り 、 ヘ ッ ド ス ペ ー ス 中 の 揮 発
性ゲスト量は増加する。この増加量をGCにより求め、不揮発性のゲストに対
する錯体安定度定数を決定することができた。
直 接 SHSGC 法 お よ び 競 合 SHSGC 法 の 併 用 に よ り 、 ほ と ん ど す べ て の ゲ ス ト に 対
する錯体安定度定数が決定できる。また、これらは錯体の絶対量を求めることが
できると言う従来法にない特徴を有する。厳密に温度制御も可能であり、GCと
いう汎用機器で錯体安定度定数を決定できる事からも有用な方法である。
4
シクロデキストリンによる乳化と形成メカニズム
界面活性剤は、皮膚刺激性や溶血性などの有害な作用を示すものや、生分解性
が悪く環境汚染を引き起こすものもある。理想的には界面活性剤を全く使用しな
い 、あ る い は 界 面 活 性 剤 の 代 替 物 質 の 使 用 が 理 想 的 で あ る 。CyD の 錯 体 安 定 度 定 数
の 決 定 法 に つ い て 研 究 し て い た 時 、 あ る 論 文 中 で CyD を 用 い た 乳 化 の 記 述 を 見 つ
け た 。 界 面 不 活 性 な CyD に よ り 水 と 油 が ど う し て 混 ざ り 合 う の か と 、 非 常 に 興 味
を抱いた。早速オリジナルを取り寄せ、詳細な検討がなされていないことを祈り
ながらその論文を読んだ。幸い深い検討はされておらず、また、この論文以外に
関 連 す る 論 文 は 検 索 さ れ な か っ た 。そ こ で 、CyD に よ る 乳 化 と そ の 形 成 メ カ ニ ズ ム
の 解 明 に 関 す る 研 究 を ス タ ー ト さ せ た 。 退 職 ま で 残 り 10 年 、 つ ま り 研 究 期 間 残 り
10 年 で 新 し い テ ー マ に 挑 戦 し た 。 冒 頭 に 記 し た が 私 の 研 究 の 始 ま り は 乳 化 で あ っ
た 。 結 果 と し て 、 私 の 研 究 歴 は 「 乳 化 に 始 ま り 乳 化 で 終 わ る 」 こ と と な っ た 。 CyD
による乳化が本当に可能かどうか半信半疑の中、修士の学生にテーマとして与え
た。様々な油についてスクリーニングし、ある油が乳白色に変化した時は小躍り
し た 。そ の 後 、こ の 研 究 は 博 士 後 期 課 程 の 井 上 元 基 君( 現 在 、明 治 薬 科 大 学 助 教 )
に引き継がれ、乳化のメカニズムを明らかとし彼の博士論文へと繋がった。
結果をまとめると以下のようになる。
① n - ア ル カ ン を 油 と し 、 3 種 の 天 然 の CyD を 用 い て 乳 化 し た と こ ろ 、 β -CyD、
γ -CyD に よ り 安 定 な O/W 型 エ マ ル シ ョ ン が 形 成 で き た 。
② 実 用 に 供 さ れ る 数 種 の 油 に つ い て 、各 種 triacylated β -CyD を 用 い て 検 討 し た
と こ ろ 、実 用 油 と CyD の 組 合 せ に よ り 、安 定 な O/W 型 お よ び W/ O 型 エ マ ル シ ョ
ンが形成でき、実用化への可能性が示唆された。
③ CyD に よ る エ マ ル シ ョ ン の 形 成 メ カ ニ ズ ム と し て 、 CyD と 油 に よ り 形 成 さ れ る
CyD 由 来 析 出 物 が 、 三 次 元 ネ ッ ト ワ ー ク 構 造 を 作 り エ マ ル シ ョ ン を 安 定 化 す る
こ と 、ま た 、CyD 由 来 析 出 物 が 油 /水 界 面 に 吸 着 し 、エ マ ル シ ョ ン を 安 定 化 す る
ことを提案した。
④ CyD 由 来 析 出 物 の 油 と 水 へ の ぬ れ 性 が エ マ ル シ ョ ン の 型 を 決 定 す る 要 因 と な る
ことを接触角、表面自由エネルギーの検討から明らかにし た。
こ れ ら の 研 究 結 果 は 、乳 化 に お け る 界 面 活 性 剤 の 代 替 物 質 と し て 、CyD が 充 分 に
使 用 可 能 で あ る こ と を 示 す と と も に 、CyD に よ る エ マ ル シ ョ ン の 設 計 の 最 適 化 を 可
能にするものであり、他のエマルションの開発にも有用な情報を提供し得る 。
研 究 歴 を ま と め る 機 会 を い た だ き 40 年 間 を 振 り 返 っ て み て 、 多 く の 学 内 外 の
方々に支えられていたことを改めて強く感じた。紙面の関係上、名前を記載する
こ と が で き な か っ た が 、対 外 的 研 究 活 動 と し て 材 料 技 術 研 究 協 会 、日 本 油 化 学 会 、
材料表面研究会などの編集委員を務め、これらの活動を通して多くの研究者と親
交を深め研究の幅を広げることができた。そして何と言っても、所属した薬品物
理化学研究室の小川尚武先生、田口博之先生、橋崎
要先生には研究室の運営上
の協力、研究に対する様々な支援など大変お世話になった。また、大学院生や卒
業研究生にも多くの協力をいただいた。これらの支えが有ったからこそ、無事に
40 年 の 研 究 歴 を 刻 む こ と が で き た と 心 か ら 思 っ て い る 。