頼り 石亀象奉唱貫き丁を音十阜エ ⑳八億長山席 A物故止肴 番号︹櫨轟萄Al、臆す︶ ︶ 容 貌 ヤ一馬 ヽtノ 官 ′し 曾 せ軍;若きへ鴨鴇ド︶ 男完・;岩滝 卑 芳且鬼:・壊揮 ニ﹂露抒蒜切要鞄町東軍蕗そ琢す︶ 渾薗且、軍 産写森ノ下 ︵段ち丸谷、ヂ︶ ▲湘埠 旦− 軸遽 ′二生育硬 ‘竃鎧置還翫脛 ・上衣華草 一馬憲ぷ繍御薗 通う少亨時代モ漫才. ●笥宗笛ノ㌫気練碑 ・関克之碑(J紬摩)銅 専門雫榔雛噂 ・和銅絢乳や寒 ヽ t・.一 也鳩J7 濁絹蒜競㈲軌 箭簑箪緻諺驚き 責き表書 草蹴ノア草凋僻目齢兎葡御) ’誓 露露舶餌蠣 ・翳詣諸費且槻功鯛 一男誤妄詣踊東泉部 d J仁」n 馳卯年再現り囲 轟碩軌柑喝動潤軋 手鑑碕(′弼)へ 稗の賢妹絶唱 君島を 一千糎障叫二塊等 浄洩凋亀確率・庫漆キ動転墟専 禁等箆賃豊郷車 ・乎麻ヶ年(′99√〕 中村粗衣斬.脅威功労泉朝 一 年取洛卑r昭JJ 声額たき友部 書 手触チ卑(′9わ) 朝轟日渡竜泉愈々私蔵郵 ・乎現/0年(′99彦) 公菌や犠分泌私針鼠碑 ・笠蒜詣憲鎧納舶労覚 〇 年駄作隼く加成) 、卜よ職息 1瑠如 享年q押3・鴨で8軍か㌻掩い押可 劾経常偽金事壁 材鍵圃陥心頭 日録Fr錦く′僻巨明滅/ノ卑招呵 仙崎㌢強度鶉渦 孝威7年(′佃)∼予部門沼野〕 巧崎守鴇充硯嵐 脂等錨弼∼斬 車齢軍(エ如)∼雪璃封年毎両 山 、 ∫ 轡卵 帝姐僻見舶泉 恒咄∼千齢郵加両 漫孝嗜写且確率 蘭招魂廻田亨 や莞雪誓言轟;貰)弛舶喫 ヤ風碑判泰郎 昭和六十一キ人月 小 島 一 也 柿生昭和合 昭和30年3月旧柿生出張所内に建立され 現在は柿生地区会館に移動された。 あとがさといたします。 ﹁平和の礎﹂ ︵昭和六一年 柿生昭和会発行︶ より 弛まざる努力を重ねて行くことが英霊に報ゆる道であると思います。ご遺族の益々のご健勝をお祈りし 第です。この小誌を発刊するに当り改めて私達は平和で豊かな郷土の発展と、祖国日本の繁栄のため 載できなかったことが残念であり、ご協力願った皆様にお詫びを致すと共に心よりお礼を申し上げる次 十年いや五年早かったらと悔まれてなりません。せっかくご提出頂いた資料が紙面の都合等で多くを掲 た次第です。ところがいざ仕事にかかってみますと、四十年の歳月はあまりにも昆すぎました。せめて 本意ですので、この旨を遺族会の会合の折お話し申し上げたところ、感謝のご賛同を得まして作業に移っ しかし乍らこの事が、ご遺族にとって辛く悲しい戦争の傷跡を、蘇らさせるような結果になっては不 ところ、昨年が終戦四十周年で最早この時期を逸して出来ないという結論に達したわけであります。 その時この次は郷土出身戦没者の記録を本にして残そうということになり心の準備をしておりました た飯塚重信氏の自伝を世に出す機会を得たのが、昭和五十四年今から七年前であります。 柿生に生れ育った昭和会の私達が、都築郡柿生村が川崎市に編入になった昭和十四年当時、村長であっ あとがき 招 魂 稗 Ⅶ3 平成27年3月15日 小島一也先生を偲んで 青戸邦夫 私の祖父青戸四郎右衛門は、嘉永6年(1853年)から上麻生村の小島源左衛門先生が開設された私 塾「南嶺堂」で教育を受け、師の没後に寺小屋「青戸塾」を開きました。源左衛門先生は、一也先生の 曽祖父にあたる方です。以来、青戸家は小島家の皆様と親戚同様の親しい付き合いをさせていただいて まいりました。 私の父藤平は、東京の小学校を定年退職後、一也先生に乞われて、先生が幼児教育の将来のためにと、 お父君と共に創立された「柿の実幼稚園」の初代園長を務め、また昭和58年には、地域の皆様と共に、 一也先生に川崎市会議員への立候補を促し、選挙運動にも積極的に協力しておりました。そんな中、同 年4月5日、王禅寺ファミリーテニスクラブの交差点近くでの応援演説中に倒れ、心配して父を抱きか かえて下さった、一也先生の腕の中で、そのまま帰らぬ人となりました。 一也先生と選対の皆様は、父の死でかえって引き締まり、父の弔い合戦とばかり、歯を食いしばって 頑張られました。その結果、見事にトップ当選を果たされ、以後連続4期市議会議員を務められ、平成 7年8月8日には、第31代川崎市議会議長に就任されました。その後、平成14年には勲玉等双光旭日 章の叙勲を受け、また同年麻生文化協会会長に就任されました。 一也先生は、平成21年12月に、『麻生郷土歴史年表』(初版1000部)を出版されました。郷土の歴 史を日本史のみならず、世界史とも対比されて、郷土を日本全土さらには世界の中に位置づけると言う、 大変な労作で、思い立たれてから20年以上の歳月をかけて完成されました。写真を添えたコラムも豊 富で楽しく読むことが出来、先生から寄贈を受けた私は、一気に読ませていただき、感激したことを、 懐かしく思い出しています。読了後に伺ったところでは、「近隣の図書館や歴史史料館に通い、古墳や 遺跡など、あちこち歩き回って、可能な限り史実の特定に務めたけれど、全てが分かったわけではない」 と、少し悔しそうに話されていたことも、一也先生らしいと、印象に残っています。 一也先生は、父の死後、8月14日の盆棚まいりと正月の年賀には、欠かさず拙宅を訪れ、仏壇に手 を合わせて下さいました。父が選挙演説中に倒れた事を気にされ、「藤平先生軋私の応援のために命 を落とされた。このことを忘れるわけにいかない。」と、親しい方たちに語っておられたと聞き、改め て先生の人となりに、感銘を受けたものでした。 昨年のお盆にお見えになった際、一也先生は、『シリーズ麻生の歴史を探る』に、久保倉塾や青戸塾 のことも描きたいので、改めて関係先として取材に来たいと話されていたのですが、残念ながら、それ は果たせぬことになりました。一也先生がどのように麻生の寺小屋や私塾のことを書かれるのか、楽し みにしていたのですが、それも適わぬことになりました。今頃一也先生も、さぞ残念がっていらっしゃ ることでしょう。 柿生をこよなく愛し、幾多の業績を残された小島一也先生、どうぞゆっくりお休みになってください。 ご冥福をお祈りします。 小生は老齢による腰痛のため、残念ながら列席できませんので、手紙をしたためさせていただきまし た。
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