東日本大震災から 5 年 被災者支援センター・エマオの 支援活動に参加し

私たちの想い
東日本大震災から 5 年
被災者支援センター・エマオの
支援活動に参加し
東北につながった
今の私たちの想いです
2016年3月
はじめに
2016 年 1 月 17 日(日) 東京都世田谷区にある代田教会にて
エマオ仙台の専従者である佐藤真史牧師をお招きし
「エマオ活動報告会
被災地のいま、これから~」と題して
現地の報告をしていただきました
そしてその報告を踏まえ
東日本大震災から 5 年を迎えようとしているいま
これからエマオや私たちに何ができるのかを
様々な立場を超えてざっくばらんに話し合い
皆と想いを共有する時間を持つことができました
発言することが叶わなくても
参加者 80 名ひとりひとりに想うところはあったことでしょう
そこでここに一部の方ではありますが
不参加ながらも想いを寄せて下さった方
報告会の中で想いを話して下さった方
報告会の後に感想やご意見をお寄せくださった方の
想いを記したいと思います
代田教会
エマオ報告会世話人一同
*原則、原文のまま掲載いたしましたが、明らかな誤字・脱字の修正や段落を編集しております。
御了承下さい。
想いを寄せて下さった方(順不同)
●徳田博明さん
●有田憲一朗さん
●高田結子さん
●前田將太さん
●匿名希望さん
●木原諄二さん
●茅野風歌さん
●前島一誠さん(報告会質疑応答より)
●奥田美代子さん(報告会質疑応答より)
●小此木知香さん(報告会より)
●望月みくさん(報告会より)
●上野幸奈さん
●小池善さん
●広田正之さん
●渡辺敦子さん
●金宣希さん
●吉岡優介さん
●佐藤真史さん
●代田教会会報 2 月号より
●徳田博明さんより
農業ワークの撤退ということですが、勇気ある試みすばらしいと思います。
何事も変革があるからこそ、次への展開が生まれると思います。
さて、私の意見としては、これまでの笹屋敷・石場、仮設(七郷・荒井 7 号・荒井 2 号・
卸町・あすと)での支援活動を一度総括しておく必要があると思います。何ができて、
何ができなかったのかの総括です。
そうすることによって、これまでの活動の整理ができ、今後何をやっていくべきかが明
確になる可能性があります。これは、スタッフ・ワーカーひっくるめて沢山の人を交え
て行うべきことだと思います。(←シェアリングと同じで批判してはいけないことがポ
イント)
エマオはワーカーもスタッフも出入りが激しく、かなりカオスな場所でした。そこで、
拾うことができていない大切な声が必ずあるはずです。
その声を拾って、現スタッフの人たちが持ち帰ることによって、持続可能性のあるビジ
ョンが見えてくるのではないかと思います。
●有田憲一朗さんより
僕の中で、エマオ・被災地の思いはたくさんあります。それは、語り尽くせないほど。
僕自身、支援センターに関わらせていただいた中で「もっと関わりたい。」という想い
と「こういう身体だから、僕がいくと本来の活動の足を引っ張ってしまう。」色んな思
いが複雑に絡み合っていました。 笹屋敷・石巻の活動の撤退。このことに関しても、
トモイキでも何回も話してきました。いつかは撤退しなければいけないとは思います。
しかし「何を持って撤退を考えるのか・・・。」
また、
「撤退した後のサポート・つながり・関係性・心のケアなどをどうしていくのか・・・。」
そこが大きなカギになると思います。その辺りの僕の考えなども、うっちーや風歌・ち
か・バクに話してあります。覚えていてくれると嬉しいですが・・・。
まだまだ語りたいのですが、これから出かけなければいけないので・・・。僕の家は、
板橋区の赤塚です。今度、遊びに来てね。そして、一緒に活動できると嬉しいです。み
んなによろしくね。
※トモイキ=仙台学生センターで有田さんがコーディネートされていたクラスの名称
です。
●高田結子さんより
わたしは、震災から1年後の夏、エマオに関わって初めて震災について考え、自分にも
震災にもショックを受けたのと同時に、ワーク先の佐藤さんと出会い、まだまだニーズ
にあった支援が必要だということ、風化が一番怖いことだと強く感じ、たくさんの気付
きを得ました。のぶきさんを初め、そのときいたスタッフさんワーカーさんたちとの出
会いを通して、震災、そして自分自身へ大きな気づきをもらったんです。ですが、その
後何年か行く度に、ワーカー同士のつながりも、ワーカーのワーク先のお家の方々への
心からの寄り添いも薄くなっていく気がして、初めてエマオにいったときに、のぶきさ
んたちと一緒にしたスローワークではなくなっていっていると感じることもありまし
た。でも、一番ショックだったのは、自分自身の中でも風化が起きていたことです。上
手く言えないけど、自分自身の震災に対する風化を仙台に行く度に実感しました。
風化してはいけない、したくないのにしてしまっている自分の現状、エマオと震災につ
いて自分も色々考えたいことがあるし、みなさんの思いや考えも聞きたかったので行け
ないのが残念です。もし、またこのような機会があったらぜひとも誘って欲しいです!
言葉が拙いし、上手く自分の思ってること言えないけどシェアさせてもらいました!!
わたしはエマオも、そこでつながって出会った人々も本当に大好きだから、これからも
エマオが大切な場所であって欲しいと心から願ってます!
●前田將太さんより
2011 年 7 月、9 月だったと思いますが、1 週間ずつお手伝いさせていただきました。
短い期間なので、そこまで深くは関われませんでしたが、今はそこでの出会いが大変素
晴らしいものになっていると感じています。
お手伝いさせていただいたご家庭のことは、エマオで出会った方と再会するとき、3 月
11 日を迎えるとき、仙台に行くときどきで思い出します。
お役に立てたかは分かりませんが、その場にいることを受け入れていただき感謝してい
ます。
今後のエマオについては、「活動だけが、現地の人とエマオの人たちを繋ぐものではな
い」と、感じます。
もうすぐ 5 年になり、年々現地の人、エマオの人の考え方にも変化が生じてきたことも
あり、この会が開かれるのだと思うのですが、その変化に合わせて「活動」というツー
ルが必要ならば、続けるべきだし、「活動」以外の「何か」でも繋がり続けることが可
能ならば「活動」を終わらせることも一つだと思います。
関わりも短いにも関わらず、偉そうに言いましたが、当時の事や、その後エマオの人に
会って話を聞くことで感じたことであります。なんかシェアリングを思い出します。
ありがとう。
●匿名希望さんより
その後関わっているカリタスの東北支援では、
ボランティア活動の継続のために現地の方々に
ボランティアの仕事を作りだしてもらっているのが現状で、
それが現地の人の負担になっている面もあり、
誰のための支援なんだろうなと思うことはあります。
本来は、支援が必要なくなれば撤退するか、
支援が必要な分野にシフトしていくのが健全な支援の形ではないかな。
エマオが支援しているのは主に都市部だから、
カリタスのような農業・漁業支援はないし、余計そうなんじゃないかな。
編者注:(おそらく石巻での活動が始まる前に離れられたので、石巻での活動はご存じ
ないようです)
カリタスと違って、エマオは教派やグループの派閥関係の
いざこざが多いので、そういう意味でも、私たちは常にだれに
目を向けて支援しているのかという視点が必要な気がします。
●木原諄二さんより
<東日本大震災・エマオ・福島原発>
東日本大震災による津波は千葉県旭市から東北太平洋沿岸地域に未曾有の被害を与
えた。
代田教会は、教団が仙台に救援拠点として設置した「エマオ」を人的にも財政的にも
援助してきた。
私は2014年秋に広田兄、渡辺姉の主宰するスタディツアーに参加して、3年経っ
ても生々しく被害の状況を遺している石巻や女川、さらに閖上を見学した。
一方、日本クリスチャンアカデミーは1912年からプログラムの一つとして、現理事
長小久保正氏の主導のもと原発の存続の是非を問う話し合いプログラムを年一回実施
してきた。
私は2012年10月7日と8日の両日行われた第一回「原子力発電の根本問題と
我々の選択、バベルの塔をあとにして」と題して、関西学院大学教授(故)栗林輝夫氏
と東京大学名誉教授(故)北沢宏一氏を講師として行われた「話し合いプログラム」に
参加した。故北沢宏一氏は我が国の可活用産業資本の顎をベースにして原発を廃止した
場合の代替エネルギーの経済/経営的可能性をベースに脱原発が可能であることを論
じ、一方栗林氏は原子力技術総体を現代版バベルの塔として人間社会の営みとしては否
定されるべき物として論じた。
第二回は参加しなかったが近日収録が新教出版社から刊行される。
第三回は2015年1月9日と10日に行われ、原発廃止に伴う技術的問題とエネル
ギー経済への影響の評価と WCC(世界キリスト教協議会)が原発を核発電と断じて地球
上から除去すべき事と決した経緯の報告とが行われた。エネルギー経済の面からの考察
は京大大学院のエネルギー経済の専門家、WCC の核発電廃止アッピールの経緯について
は立大副総長日本キリスト教協議会議長によって報告が行われた。この二人は実は元の
専攻が私と同じで研究者としては孫の世代に属するので個人的には大変愉快な経験で
あった。WCC が原発(核発電)廃止の結論に至る経緯は、まず日本聖公会が核発電廃止
の声をあげ全世界聖公会のそれに同調するに至り、WCC には世界聖公会から提議されて
決着を見たと言うことである。バチカンは WCC へオブザーバーを送っているのでこれ
が全世界の教会の声として意義づけられると言う話であった。このことは NCC の活動
方針となり日本基督教団が賛同しているわけであるから日本基督教団を上部法人とす
るわが代田教会の方針として認識されるべきなのだろうか?(このようなことになって
いるとは夢にも思わなかった)
。
第4回、今回は1月10日と11日に行われた。先週である。ジュニア―礼拝に出て、
京都に向かった。少し早すぎて午後四時開始なのに午後2時半に着いてしまった。
4時から三十分のオリエンテーションに次いで、今日のメインスピーカーの一人、NPO
法人東北ヘルプ(事務局エマオ二階)事務局長、日本基督教団仙台北三番丁教会牧師の
川上直哉氏より「
『フクシマ』の声と国際ヒバクシャ連帯」の発題がなされた。福島原
発事故の状況とその後4年間の経緯から事故の(健康)被害者の行政上および世間の位
置付けが、水俣事件、イタイイタイ病事件と極めて類似していること、この状況は当初
あらがうことのできないほどの厳しさを被害者達に押しつけられる点が特徴である。水
俣事件における時の首相の発言などを引用して環境汚染の被害者を特殊化する論理の
存在を明らかにした。
***
今週水曜日午後、ラッセル
グールド氏レポーターの「福島の若手農家が放射能汚染
の風評被害とどのように闘っているか」という収録が NHKBS3-4 で放映されていた。国
の基準値を測定値が十分低いということ、風評がどれだけ農家を苦境に追い込むか、と
いうことに力点が置かれていた。
我々は今日ゴミ処理によるダイオキシン汚染のことを忘れているが、思い起こせばダ
イオキシン汚染のキャンぺーン末期には「風評被害」という声が大きくなり実際に汚染
が起きているのか居ないのかは問わずにキャンペーンが収束したことを思い起こす。現
在、東京都のゴミ処理場では塩ビを含むプラスティック類を燃やしている。そこで、松
葉の若葉を採集して含まれるダイオキシンを分析する活動をして、全都の松葉のダイオ
キシン濃度のマップを作っている。最近、たとえば塩魚を焼いてできる2-3ベンツピ
レンは当初有害と騒がれたが人体に影響しない無害なダイオキシンだと云われるよう
になった。ダイオキシンの話題が沈静した今しばらくはどのダイオキシンがどれぐらい
有害か、などという話題は世間から消えるだろう。
***
フクシマとカタカナで書くのは原爆被害者を含めて世界の放射能被害者と福島原発
の被害者を連帯させるためだと川上氏は説く。
具体的には川上氏の資料を転記して説明すると次のようになる。
①自身の家族が放射能による障害と思われる症状を示したので転地させたところ快
癒した。
②NPO 法人東北ヘルプは合同メソジスト教会災害対策室(UMCOR)の資金を預かり
2016 年 6 月まで
*放射能に不安を覚えている親御さんを対象に
*短期保養を行って子どもを守るために
*保養のために交通費を支援する
この仕事のために放射能測定器も購入して放射能に不安を覚えているクライアントと
接触できるようにもしているとのこと。
この支援の大切なポイントは、支援の度に、毎回必ず、面談を行うことだそうです。
2015年9月27日現在、川上氏は562回の面談を行い、126所帯(大人299
人、子ども307人)のお話を定期的にお伺いしてきました。回を重ねるうち背筋の寒
くなる思いが強まったとのことです。
1.浜通69所帯で91%の家庭で放射能健康障害が確認された。
2.同じく中通りの17所帯で97%。
3.関東地方と宮城県内40所帯の内95%の家庭で放射能健康被害が確認された。
95%などの数字は川上さんと接触してきた所帯に対する比率ですから地域住民の
全数調査で分かったことではありませんから地域住民がこれだけの比率で苦しんでい
るわけではあありません。
NHK の放送とは全数調査の結果がなければ比較になりませんが、少数でも苦しんで居
られる方々が存在することをを覚えておく必要がある。
●茅野風歌さんより
今の職場でも、エマオで学んだことを大切にしたいと思いながら働いてます。相手の大
切に思っていることを同じように大切にし、相手の立場に立って物事を考えること。私
は色んなワーカーやスタッフの姿勢に学びました。それによって実際現地の方々とつな
がりを持ち、それが今も続いています。
スタッフには、誰よりもまず、現地の方々に寄り添うことを大切にしてほしいです。そ
うした姿勢にワーカーたちは自然と学んでいくものだと信じています。 効率よりも丁
寧さ。スローワークがエマオのブランドです。それは目的が、物理的な復興よりも、精
神的なものに焦点を当てているからだと思います。ワークには終わりが見えてきました
が、エマオが求めてきたものは、ワークが終わった後も続く「つながり」による心の支え
だと思います。もちろんそれは、ボランティアにとっての心の支えでもあります。今後
はそうした意味で、ずっと続くための支援を考えていけたらと思います。
●前島一誠さんより(報告会質疑応答より)
昨年の5月に機会があって、エマオに一週間ほどお世話になることが出来ました。そし
てエマオのささっこに5、6回参加させていただきましたが、長い休みが取れないので
農業ワークには参加していません。昨年の5月から行き始めたばかりで、これからエマ
オが1年後に縮小してほとんどワークや受け入れが少なくなっていくだろうと思うの
ですが、今現在の自分の気持ちとしては大人になって、生きているうちに東北だけでは
なく、震災があった時に関わっていきたいと思っています。1年後、2年後、仙台、宮
城、福島、岩手に関わっていきたいと思っていても、今の自分にはそこにつながりがな
くて、それをエマオに頼ってもいいかと思うし、もしそこに関わりたいと思って自分が
行動に移すとしたらどういうことがあるのか、長いスパンで、エマオがなくてもできる
ことは何か、また、東京でできることがたくさんあっても、現地でできることでなにか
あれば、教えていただけたらと思います。
→佐藤真史さんより応答
エマオとしては少なくともあと1年はやりますし、ワーカーの受け入れも併せてやろ
うと思っています。ただ、2017年以降のことは、まだスタッフの中でもまだきち
んと話し合いができていません。前島一誠くんは、毎月第1土曜日のささっこクラブ
という子どもプログラムに参加するために、金曜の夜に夜行バスに乗って、土曜日に
1日ワークをしてその日の夜行バスで東京に戻るということをしてくれている青年
です。エマオの想いとしては、ささっこクラブは続けていきたいと思っていますし、
具体的に一誠くんにお願いしたいことは、いかに長く地域の方と一緒に作っていくこ
とができるか(考えてもらうこと)だと思います。もちろんエマオも協力していきま
す。
●奥田美代子さんより(報告会質疑応答より)
日常生活の中でどんなことで協力していくかということの一つで、宮城県産の農産物と
か海産物を街で売っているので、心情的には買いたいと思っています。私自身は先がそ
んなにないので自分はいくらでも食べて協力したいと思っているのですが、現実問題と
して孫に定期的に食べさせていいものかどうか、検査済みで市場に出ているといわれて
いますけれども、最終的には自分の命は自分で守らなくてはいけないのかなといつもそ
ういう葛藤があるのですけれど、これはどのように考えていったらいいのでしょうか?
→佐藤真史さんより応答
これは非常に難しい問いかけだと思います。グラフをみてわかるように、言い切れま
せんが、おそらく60歳以上の人は大丈夫だと思うのです。少なくとも、(小さい子
どもがいる)我が家では産地を選び、またベクレル検査の数値の基準が低い(商品を
扱っている)アイコープ(=生協)の基準をパスしたものを選び、食べてもらってい
ます。小さい子どもたちには0ベクレル(のものを与えるに)越したことがないので、
安心できる食材が第一だと思います。ただ、その中で、会津情報センターにて会津地
方で米農家をされている方の証言を聞いたことがあったのですが、その方は不検出の
レベルまで頑張ってやっていらっしゃるのに、震災前からの顧客の方に電話で「お前
たちは人殺しか」と出荷することに対して言われ、非常に傷つかれ、でも生活のため
に(農業を)続けていらっしゃいます。私たちは、その農家さんの痛みをもきちんと
聞き取っていかなくてはならないと思います。それに対してどう応えていくのかとい
うのは個人の判断になってくるところかと思われます。
●小此木知香さんより(報告会より)
最初は 2011 年のゴールデンウィーク辺りにワーカーとして関わらせていただいて、
それから自分が行ける時にボランティアをさせていただいた形でずっと関わらせてい
ただいて、自分の時間が取れる時が 8 か月ぐらいあったんですけど、そのとき期間は実
際に仙台の方に住まわせていただいて、スタッフという形でエマオに関わらせていただ
きました。
私が思うこと…ずっと断続的、継続的に関わらせていただいて、たくさんの方に出会
わせていただいて、被災された方一人一人が抱えているものや思っているものがそれぞ
れであって、毎日関わらせていただいている方であっても、心の中ではいろいろなもの
を抱えていたりだとか、私たちにはすごく明るく振舞ってくれているけれども、実は本
当に津波のことだったり、苦しい生活のことだったり、抱えている方が多くいるなと感
じています。どんなに関わらせていただいても、心の痛みは見えないし、わかることは
できないし、まして津波の被害に実際にあっていない私たちが想像をするということで、
及んでいない痛みが本当にたくさんあるということを常に感じています。
いつになっても、時間がたってもわからない痛みという部分があるということをいつ
までも考える、私たちは想像することしかできないし、痛みをわかることはできないけ
れども、それがあるということをわかって常に考え続けて、想像し続けていくことが大
事なのかなと思っています。
私は今、群馬県で仕事をしているので、その関わり方が少し難しいなと思っていて、
自分のことでいっぱいいっぱいになってしまうのですが、その中でどのように関わり続
けていけるのかなとずっと考え続けて、できることを形にしていけたらなと思っていま
す。
→佐藤真史さんより一言
七郷中央公園仮設の佐藤会長がよく忘れないでほしいということをおっしゃってい
ます。と同時に(佐藤会長は出会った人を)よく覚えていらっしゃる。名前を忘れて
いても顔は覚えていたり。小此木知香さんのことは顔も名前も覚えています。
(最近)
メディアでは津波や被災地の方のことはほとんど出てこない、仮設のこともほとんど
出てこない中で、ぜひ覚え続けていく、私にも皆さんにも求められていることなので
はないか(と思います。
)それぞれお祈りとかできる形で忘れないでいただきたいと
佐藤会長に代わって皆様にお伝えしたいと思います。
●望月みくさんより(報告会より)
私は 2015 年 9 月のシルバーウィークに代田教会から麦の会のメンバーの一員として
初めてエマオに行き、主に 3 日間ワーカーとして働いてきました。一言といってもいろ
いろな思いがあるのですが、これから話すことは個人のこともはいるので、それによっ
て不快な思いをされる方もいるかもしれませんがそこはご了承ください。
私は 3・11 の時に大学 4 年生、就職活動中で、就職活動先のビルの会社の中にいまし
た。すごい揺れてテレビでガスタンクとか燃えている映像をみて、すごいことが起こっ
てしまったと思いました。そのあと歩いて父と一緒に帰り、パンプスを履いていたので、
足から血を流しながら帰ったことをよく覚えています。
父は情報収集に熱い人なので、津波の映像とか、地震のこととかをよくテレビを録画
して今どうなっているのかを逐一チェックしていました。でも私は毎日毎日就職活動中
で大変で、家にいることも多くて、テレビつけても毎日津波のこととか、今被災地どう
なっているかという映像しか流れていなくて、正直精神が参ってしまって、私はテレビ
を観なくなりました。そもそも原子力発電所が日本にあることに対して、漠然と不安を
覚えていて、実際に事故が起こって自分の心の中では不安が当たってしまって、「あ、
本当にマズイ状況だな」と思いました。でもすぐに行動もとれないし、知識もないし、
自分には自分の生活があるので、そこから本当に去年のシルバーウィークに行くまで、
全然被災地のことを何も考えられませんでした。どうにかして自分の生活を続けること、
原子力発電に対してはチェルノブイリとか…。
私は結構芸術鑑賞をするのが趣味なんですけれど、こういう面からそういう問題に向
き合っている作品を見ていたので、そういうことを考えると、食べて応援とか、何とか
して福島とか被災地に戻って生活ができるようにしようという運動は、正直信じられな
くて、それよりもそこにいてはいけない、なんで福島とか被災地に人をとどめさせるよ
うな雰囲気になっているのかが全然わかりませんでした。その中で、自分の生活からず
っと排除していたのですが、就職はせずに大学院にすすんだ時に、学芸員の資格をとる
ための勉強の中で、学芸員の先生たちが文化財の保護のために東北に行っていることを
知りました。もちろん人もそうなんですけど、そこにあった物たちも被災をしていて、
貴重な資料や、貴重な文化財が失われたり、どうにかそれを保存するために奔走してい
る人たちがいるということを知りました。物だったらその時は理解できる、向き合える、
勉強の中で扱えるようになっていて、でももちろん先生たちは行ける人には条件があっ
て、女性とか妊娠中の人とかは基本的には行けない、高齢の男性学芸員とか、研究者の
人しか主に派遣されていないという状況でした。そういう風になって、久しぶりに被災
地のことに触れたのがそれでした。そこからどう自分が変わったかというのがわからな
いのですけれども、何事もなかったような雰囲気が震災の 3 年、4 年が経った時に、私
はすごく感じて、
「あれ、もう終わったのかな、もう大丈夫なのかな?元の生活できる
のかな?」と思ったけれどもそうじゃない、逆に自分の気持ちが落ち着いてきて、たぶ
んそのタイミングと、麦の会としてエマオに行こうというのが重なっていけたのかなと
今となっては思っています。
エマオのことは日本基督教団青年センターであるSCFというところで知っていて、
「どんなところなんだろう、実際に被災地に行くってみんな怖くないのかな?」とずっ
と思っていました。でも、情報収集していた父と一緒に、家の中で話している時に、テ
レビで津波から逃げる人たちのことを見て、「なんでもっと高い場所にすぐ逃げないん
だとか、なんで普段からもっと用意していないんだ」とか、
「海も近くにあるし、津波
って日本なんだからもっと意識しているはずだろう」っていうのは幾らでも言えるなと
思った時があったんですね。だから実際に見てから被災地に積極的に支援をするか、そ
れとも支援はできないけれども自分なりに考えてこういう活動があるということを周
りに知らせていくっていうことを決めてもいいんじゃないかと思ったんですね。プラス、
今回麦の会のメンバーたちと一緒に行ったので、一人じゃない、私は昔から代田幼稚園
なので、ずっと昔からここにいて、時々疎遠になったりしたんですけど、久しぶりに来
てもみくちゃん、みくちゃんと言ってくれるから、自分のことをよく知ってくれている
人と一緒に行くんだったら大丈夫かな?と思っていくことを決めました。
ワークの中では先ほどお話があったように台風の被害に遭われた宮城県内の大崎に
もいったんですけれども、もともとそういうのをテレビで見ていても自分の肉体的精神
的な問題もあり、絶対に被災地ボランティアなんてできないと思っていたんですね。だ
けどそういうワークも入ってくる中で、のぶきちゃんや優介君やみおちゃんとか、金子
たかしくんとか、ペ先生とかみんなと一緒だったからできたという、そこはうまく言葉
で説明はできないけれど、何かあっても私が何に困っているかわかっているみんなと一
緒にワークをするんだったら安心してワークができると思って、ずっと 3 日間ワークを
していました。
この時の感想を会報に書かせていただいたんですけれど、被災地に行って感じたこと
は、ワークをしている人も「ありがとう」と言っていたし、されている人も「ありがと
う」と言っていたことがすごい素敵だなって思って、もともとキリスト教系の学校に通
っていたので、
「奉仕とは?ボランティアとは?」と考えるんですけど、この時間を共
有することっていうのが、すごい大事だなって思って、それに対して共有させてもらっ
たことに対して「ありがとう」と素直に言えるってことが、私が今回被災地で見つけた
ことでした。今行ってこれから積極的にっていうのではないんですけれど、そういうこ
とを知ったうえで、日々の生活にかえしていくっていうのが大事なんじゃないかなって
思いました。
●上野幸奈さんより
EMMAUS~NextStage~
◯前提として
・不可能、困難など、一切制限を考えずにまっさらな頭で考える
・想いだけをモチベーションにしていたら波がありすぎる
→仕組みが必要。そこに想いを乗っけていく
・現場至上主義をやめる
・考えるべきはエマオをより良い形で残していくことに絞る
→なぜか?初心に返って、なぜエマオにコミットしてるのか?
◯やること
・問題点・改善点を徹底的に洗い出す
・確認すべきこと、共有すべきことをリスト化
・ボラ宿泊などの細かいことはまずは考えない
□ミッション・ステートメント
大きな目標・到達地点
スタッフ・ワーカー関係なく関わる全員が、共有すべきこと
短期、中期、長期的な視点をできるだけ持つ
このミッションに沿わない、ずれることは一切やらない
□ブランディング
スローワーク→もっともっと落としこむ
状況の変化、ニーズの変化があるためリブランディングの必要性を考える
どういったリブランディングが必要か
□マーケティング
ターゲットに向けてのエマオの発信
発信の方法に変化をつける
Webの有効活用
なぜマーケティング?
→支援、出会いの場、学びの場の提供を継続するため
□ターゲティング
被災した方々、ボランティアの2方向性
これからもその2方向性でいいのか考える
他地域への派遣は可能か
□被災した方々
それぞれ歩むスピード、状況が異なる
ニーズの多様性
目的地はどこか
□ボランティア
ピラミッド型の構造
上位にヘビーリピーター
下位に初ボラ
1回目2回目、長期、短期、リピーターそれぞれニーズが異なる
ニーズの抽出
スタッフはある意味上位に含まれる
多様な人間の集まり→可能性が大きくある
それぞれのエマオへの関わりを知る
□コンテンツ
ターゲットに対してのエマオが提供できることを確認
増やすことと減らすこと
どんどん試していく
□コミュニティーとしての役割
コミュニティーは強い武器
情報共有
Webの活用
□教団・教会との関わり
教団からの抑圧
アップダウン
ミッション到達への原因がここにあるのなら独立の可能性を模索する
→プロジェクトとして動く必要性大
クリスチャンとそうではない人間の溝
教会単位で動いてくれていた人たちとの関わり
□スタッフ
個性・得意を引き出せてない
雑務の多さ→集中して自分の仕事に取り掛かれていない
それぞれのライフスタイル、ミッションも考えるべき
役割の明確化
ストレスの原因は内部にあることが多い
ミーティングの回数と長さに比例した成果物があるかの確認
フラットな関係性の中でしかいいものは生まれない
大事なことは何度も何度も共有すべき
ビジネス的要素(マインドセット、ブランディングなど)をきちんと取り入れる
→継続した組織、コミュニティーの構築
よしこさんの東北家族が良い例
NPOなど非営利団体が継続しない理由はここにある
スタッフの日々の業務へのモチベーション、アンテナ
関わる人間の成長に繋げるため
◯具体案
□店舗展開する
笹屋敷、石巻で関わりのある人から食材を買って提供する
フェアトレードで食材を販売する
シェアオフィスとしての活用、ワークショップなどの開催
昼から夕方までカフェなど
夜は予約制、飲み屋など
ボラや被災した方々が集まれる場所
面白い人達が集まれる
面白いことを発信できる場所
雇用の促進→リタイヤ組、絶賛悩んでいる若者
期間限定or限定日数
□被災した他地域への派遣をする
世界各地のエマオ関係者が集まって被災地へ
リーダーの養成
コミットしたいボラは沢山いるはず
一歩を踏み出す手助け
エマオからの補助→資金、ノウハウ、情報など
情報の抽出、共有
プラットホームづくり
□関わりの深い人(被災した方&ワーカー)へのコミット
農家、漁師への個人的なコミットメント
→研修生、長期ボラなど
東北家族の後援
野菜や海苔の仲介販売をしているワーカーの支援
●小池善さんより
「震災から 5 年を迎えようとしている今思うこと」
震災から 5 年(もう 5 年!と感じます)が経過しようとしている今思うことは、
「自
分自身は震災のことを忘れている」ということです。生活圏が被災地と離れている
からか、被災された方との関わりが薄いからか、マスメディアに影響されているか、
自分が他者に無関心であるからか、自分は、この震災は過去の出来事として片付け
てしまっているように思います。
「そうであってはならない」と頭では思っている
のですが、普段の生活の中で、震災について、あるいは被災された方の暮らしにつ
いて、思い巡らせることは随分となくなってしまったと思います。おそらく、自分
がもし今も心に留め続けているならば、震災の後、何度も被災地に足を運んでいた
と思うのです。本当に残念だと自分自身にがっかりしますが、それが、たぶん、実
際のところです。
先日、会津放射能情報センターの片岡輝美さんのお話を伺う機会がありました。輝
美さん(友人のお母さんなので)のお話の中で、ふたつ、鋭い問いかけをいただき
ました。
ひとつめは、
「私たちはもっと絶望しなければならない」という言葉です。私自身
「まあなんとか大丈夫だろう」と思ってしまうところ、
「もっと現状は深刻であり、
楽観視できるような状況にはない」ということです。そして、それはまた、
「安易
な希望にすがりたくなる気持ちを振り切り、絶望と向き合わなければならない」と
いうことでもあったかと思います。私自身、絶望と希望、どちらを希望するかとい
うと、希望を希望します。でも、その希望が、絶望を見ようとしないまま得ようと
している希望であるとするなら、確かにもっともっと絶望しなければならないよう
な気がします。それは、そうしなければ、希望が本当に希望であるのか自分自身見
極めることができないからであり、絶望を感じている人に、絶望を感じていない自
分が上塗りの希望を語ることはできないと思うからです。
ふたつめは、
「
『被災地に寄り添う』という言葉を使わないでください」という言葉
です。それは、輝美さんに「東京も被災地である」という強烈な思いがあるからだ
ろうと思います。未曾有の原発事故の中、何が正しい情報であるのか、自分で収集
し判断しなければならない状況においては、
「東京は安全だ」と言い切れる保証は、
確かにないと私も思います(千葉/松戸のあたりのホットスポットのことなどもあ
り)
。が、私は自らの日常生活において東京を被災地だとはなかなか思えないので、
輝美さんの言葉が大変重く響いています。
輝美さんのお話を通して愕然としたのは、今現在に対する問題意識の違い、でした。
私は、輝美さんの話から、輝美さんは「震災のただ中を生きている」こと、そして、
私自身は「震災が終わったことと思って生きている」ことを痛感させられました。
とっても久しぶりに言葉を失うという感覚に陥りました。これが、最近の震災につ
いて一番最近考えたこと、です。
「エマオの取り組みについて」
エマオは、常に震災の被害と向き合い続ける拠点であり続けていると思います。ボラ
ンティアの受け入れから地域とのつながり作りまで、とても丁寧にひとつひとつのこ
とを積み上げながら活動を続けてこられたと思います。活動の過程において、運営や
財政について、また支援活動のやり方について、関係団体や他団体との関係について、
地域の方々との関係について、本当に様々な課題があったことと想像します。それで
も、活動(支援・交流)のスタイルを変えながらずっと地域の方々と共に活動してこ
られたのは、エマオに関わる人たちの大変な気配りであったり、思いがあってこその
ことと思います。信頼を築きあげる毎日の積み重ねを思うと、ただただ「すごいな」
という感想しか出てきません。何かの物事や活動を行うには「細くとも長くやる」
「太
く短くやる」
。
5 年を迎えようとしている中、また既に様々な団体が支援活動を終了している中、こ
れからエマオの活動も大きく変わっていくことと思います。そのときには、今まで地
道に築いてきた地域とのつながりを大切にできたらいいなあ、と思います(批評家っ
ぽい感じですみません)
。地域とのつながりはエマオの活動を通して得られた宝物だ
と思うのです。
そして、これこそ批評家みたいな意見になってしまいますが、このエマオでの経験が、
何かしらマニュアル的なものとして、記録として残せるといいなと思います。それは
震災後の初動において、阪神淡路大震災の(支援に取り組んだ)経験が活きたのでは
ないかなと考えるからです。
(すでに取り組んでいらっしゃることと思うのですが)
●広田正之さんより
「エマオを通して経験できたこと、考えたこと」
エマオのボランティアとして初めて被災地を訪れたのは、石巻だった。どの建物も
土台だけ残してすっかりなくなっていて、町の一部にはまだ水が溜まっていた。その
町のはずれにたたずむ門脇小学校の焼けただれた姿があまりに衝撃的で、今も私の記
憶に深く刻まれている。
それ以降、フィールドスタディー・ツアーを含めると 10 回、仙台・石巻を訪れて
いるが、印象に残っている場所は、荒浜の海岸から眺めた静かな海、そして大勢の生
徒たちが犠牲となった大川小学校と閖上中学校のがらんとした校舎だろうか。そして、
それ以上に心に残っているのは、その都度出会った人々―――エマオの若いスタッフ
たち、一緒にワークをしたボランティアたち、そしてワークをさせていただいたお宅
の方々や仮設住宅にお暮しの方々などだ。
避難所から自宅に帰ってきたばかりのお宅の片付けをお手伝いさせていただいたこ
とがあるが、そのご婦人からは、津波が襲ってきたとき、ちょっとしたことが生死の分
かれ目になったという生々しいお話を聞かせていただいた。そして、「こうしていられ
るのは、自衛隊さんとボランティアさんのおかげです」と何度も何度も感謝の言葉をい
ただいた。しかし、避難所から帰ってみると留守中に泥棒に入られていたことや、子ど
もがいても思うように助けてくれないことを話すときは、とても辛そうで、感謝と失望
とが裏腹にある哀しみを感じさせられた。
また、農家のお宅に畑仕事のお手伝いに入らせていただいたとき、お昼に畑の脇でご
主人といっしょにお弁当を食べながら、津波のときの話や、これからの農業の話を聞か
せていただいたが、
「今度のことで、つながり(地縁・血縁)が壊れてよかった」とい
う意外な言葉に驚かされた。この言葉を文字通り受け取ってよいのかどうか判らないが、
被災地の複雑に交錯し合った人間関係や思いの表れかもしれないと感じ、そうですか、
とうなずくしかなかった。
そのほか、何度もお手伝いに入らせていただいたお宅の方々については、お顔の表情
も、声や話し方も、立ち振る舞いも、はっきり記憶に残っていて、何だか自分の故郷の
人のように感じられ、再会することがとても楽しみになっている。
以上のような経験をすることができたのは、何よりもエマオのおかげと心より感謝し
ているが、エマオは代田教会にとっても大きな存在と言える。
当時の小川洋二伝道師を 2011 年 9 月から 12 月までの間、
エマオの専従として派遣し、
現地でよい働きをしていただたことや、教会員はじめ大勢のボランティア・ワーカーを
受け入れていただいたこと(被災後 3 年間で延べ 90 人)
、最近ではフィールドスタディ・
ツアーを計画・実施していただいたこと(麦の会ワーク含めツアー4 回)などだ。そし
て、それらを通じて、代田教会が教会全体として、いつも3.11のことを身近な出来
事として覚え続けることができたのだと思う。重ねて感謝の気持ちをお伝えしたい。
これからのことについてだが、3.11から 5 年を迎えようとしている今日、エマオ
の方針も活動のプログラムも自ずと変わっていくのは自然なことだと思う。
被災地にとっての中長期の課題・目標は、ひとことで言うならば「地域づくり」
「人
と人との新しい結びつきをつくること」ではないだろうか。それは、その地域の人自ら
がつくるときに本物になるのだろうから、エマオの役割はそれを後ろからあるいは横か
ら支援すること、あるいは伴走すること、ということになると思う。その具体的方法や
中身は、地域に継続的に関わり続けているエマオ・スタッフが中心になって考え、提起
していただけるものと考えている。恐らくその担い手は、遠方から数日間だけやってく
るボランティアではなく、エマオ・スタッフと、リピーターと呼ばれる継続的に関わっ
てきているボラティア、そして地域にある教会が中心となるのではないかと思う。
一方、東京に生活している私(たち)にできることは何なのかは、私(たち)自身が
考えていかなければならないことだと思う。
ひとつは、引き続き、現地を訪れ続けることだ。現地に行ってはじめて気づかされる
ことは多いし、ニーズを発見させられることもある。私が初めてエマオを訪れた時、厨
房でボランティアやスタッフの食事を用意している方々に気づき、お尋ねすると、仙台
市内の教会の婦人会のメンバーで毎日交替で食事つくりに来ているという。それは大変
なことだろう、わずか何日間かでもお休みを取っていただくにはどうすればよいのだろ
うと考え、その夏休みには代田教会婦人会メンバーによる食事作りボランティアに繋が
ったものだ。
また、1 月 17 日に開催した「エマオ活動報告会」も実は、フィールドスタディ・ツ
アーに参加して現地の状況を見たり、エマオ・スタッフからお話を聞いたメンバーから、
現地に行けない方々のために、エマオから代田教会に来ていただき直接話をしてもらっ
てはどうかという提案があり、それがきっかけとなって実現したものだ。
もうひとつは、3.11によって明らかになったこの社会の構造の問題点や矛盾に正
面から向き合い続けることだ。若い働き手のいない農家(仙台)や、シャッターの降り
た商店街(石巻)
、それらは被災により増幅された結果であると同時に、都会への集中
と地方の衰退という元々の社会構造としてあったものでもある。福島第 1 原発の事故に
ついても、当初、日本の国土も機能も福島県を境にして真っ二つに分断される現実が予
測されながら、偶然にもそれが回避されたのだが、今ではそのことをすっかり忘れたか
のように、廃炉作業の見通しも、放射性廃棄物の処分方法も全く目処が立たないにもか
かわらず、政府・財界・原発業者は次々と原発再稼働を進めている。こういった社会の
在り方に対し、私(たち)はどう考え、どう行動するべきなのかという問いの前に、私
(たち)は立っているのだと思う。
●渡辺敦子さんより
私は震災から1年半経った時から、エマオの支援活動に参加しています。現地に通い
続けている中で、見える形の復興に喜びを感じつつ、個々が抱えている問題や気持ちが
年月を重ねて複雑化し、見えない形の復興や支援を継続していく難しさを感じています。
ここ数年「見える支援から見えない支援へ」と中長期支援の段階に進んでいると言わ
れてきたエマオの活動に、昨年は自分がエマオに足を運ぶ意味を見いだせなくなった1
年でした。私が現地に行くことでワークが生み出されてしまっているのではないか、ワ
ーク先の方が心から望んでいる支援なのか、はたして自分の自己満足のための現地入り
なのか…。
また、正直ここ最近のエマオの進めている活動が、誰のための、何のための支援をし
ようとしているのかわからなくなっています。エマオが主催や企画をするイベントの
数々も、仮設訪問もおちゃっこも、農業ワークも現地の方たちに本当に寄り添っている
のだろうか?慢性的になっていないだろうか?ワーカーやスタッフの達成感や満足感
を得るだけのものになっていないか?やることが当たり前になってしまっていない
か?本当にそれは必要なことなのか?いずれ支援から手を引くことを見据えているの
だろうか?と。
このもやもやと悩むことが、実は多くの人と支援について話すきっかけとなりました。
現地の人の声、ワーカー同士の情報交換、なかなか足を運べなくなったワーカーからの
客観的な意見、現スタッフからの話…。それぞれの立場の違いから、想いの温度差、考
え方の違いに自分の気持ちや考えがまとまらない状態が今も続いています。
今回、私が所属する代田教会にて仙台エマオ専従者の佐藤真史牧師をお招きしてエマ
オ報告会を開催しました。特に今回は現地の報告を一方的に聞くだけでなく、私たちが
持っている様々な想いを、立場を超えてざっくばらんに話す機会にしたいと思いました。
結果、80名の方が集まり、全員での想いの共有は難しかったものの、懇談会で個々に
話せる場を作れたこと、交流できたことはよかったのではと思います。
また、
「エマオ」というつながりで、東京という被災地とは違った場所でも集まるこ
とができることがわかり、離れた地でも支援につながる活動ができないかと考え始めて
います。例えば、今も現地に足を運んでいるワーカーから生の情報を聞き、意見交換や
支援のアイディアをエマオにアドバイスすることや、私たちの防災の意識を高めるワー
クショップの開催、イベントやバザーを開催して支援金を集めるなど…。
みなさんも今後私たちは何をしていったらいいのか、一緒に考えていきませんか?そ
してそれぞれの形で関わった「エマオ」を、皆で良い方向に導いていきませんか?
●金宣希さんより
昨年の9月末、私は約1年ぶりに被災者支援センターエマオ(以後:エマオ)を教会
の青年会の仲間たちと共に訪ねた。初めてエマオを訪ねたのは大学3年生の時だった。
あれから何度かワーカーとして足を運んだが、気づけば 4 年半が経っていた。僅かな期
間でありながらも継続して関わることによって被災地の変化を垣間見てきたが、正直な
ところ、行く度にどこか拭い切れない重さが積み重なっていた。久しぶりに訪ねたエマ
オは初めての者だけでなく、4年ぶりに訪ねた者など様々な立場の仲間たちが参加した
ので、ワークのみならず、フィールドツアーにも重きを置いた。じっくりと被災地を見
るのは実に 3 年振りだった。もうあの頃のように高く積み上げられた瓦礫はないが、容
易に遠くまで見渡すことのできる街の色はグレーに見えた。家がなくなり、集落がなく
なったという物質的な消失感だけでなく、それと同時に奪われた思い出、文化、コミュ
ニティ、人との繋がりの大きさを改めて感じさせられた。その感覚は年々、深まるばか
りである。
自然の中で生きている限り、災害は何度でも起きる。しかし、傷ついた心をさらに傷
つけるのは自然ではなく、人間同士であることを 3.11 の出来事を通して感じた。街がき
れいになっても、新しい建物が完成して環境が整ったとしても、埋められないもの、解
決されないことは沢山ある。一度傷ついた心を癒すことはできるが、その傷がなくなる
ことは恐らくないだろう。だからこそ、その傷がほんの少しでもこれ以上深まることが
ないように、この時代を生きる私たちは人の痛みから目を背けるべきではないのかもし
れない。それがあの出来事を通して多くの気づきを与えられ、多くのものと出会った私
たちの責任であるようにさえ感じる。一人でそれをすることは難しいが、幸いにも私に
は一緒に向き合い続けてくれる人たちがいる。どんな形であれ、この出来事に向き合い
続けていきたい、と震災から 4 年半が過ぎた街の景色を眺めながら思った。
しばらくして、私が通う代田教会で佐藤真史先生の講演会が開催されることとなった。
今までにも何度か佐藤先生の講演会は開催されてきたが、震災発生から 5 年という大き
な節目を迎えようとしているこの時期の講演会は一味違ったものにしたい、という主催
者一同共通の強い想いがあった。エマオはキリスト教を母体とした団体ではあるが、そ
れを運営する教団、教区、スタッフのみならず、全国から足を運んだ多くのワーカーた
ち、そしてエマオのために祈って下さった多くの方々によって作り上げられてきた場所
である。今も関わり続けているワーカーもいれば、初期に関わった者、5年目を迎えて
初めて関わった者、様々な考えの違いから離れざるを得なかった者。多くの人たちの存
在があった。決して良いことばかりではなく、5 年間活動を継続していく中で沢山の傷
つきもあった。しかし、5 年が経とうとしている今だからこそ、これからどのようにし
ていくのがベストであるのか、ある意味エマオが動き始める前のフラットな気持ちを思
い出しながら、エマオと出会った人たちのみならず、あの震災という出来事を目の当た
りにしたすべての人たちの想いを集め、語り合う場を作りたかった。
想いが集まらなければ何も始まらない。しかし、人の想いだけで団体を回すことがで
きないのも事実だ。そのような事柄も含めて今一度、丁寧にこの活動の意味を整理する
必要性があるようにも感じていた。エマオはそもそもなぜできたのか。誰のためのエマ
オなのか、そして何のためにあるのか。時が流れる中で、もしかしたら私たちは根本的
に大事なことを見失いかけていたこともあったのかもしれない。人が集まればそこには
様々な立場や視点が生まれる。しかし、一度でもあの震災と向き合った、と自覚するす
べての人たちの始まりには、きっとただ単純に“傷ついた人たちに寄り添いたい”とい
う素直な想いがあったと信じている。
震災という出来事に向き合う中には、この社会で起きているあらゆる出来事と向き合
うことに通じるドアが存在するのだと思う。その意味を私はこの会に参加して下さった
方、想いを寄せて下さった方、そしてこれを読んで下さっているすべての方々と共にこ
れからも模索していきたい。
●吉岡優介さんより
私がエマオを最初に訪れたのは、2011 年の 3 月末のことでした。震災から 1 カ月も
たっていない時のエマオは、その時その時できることで精いっぱいでした。当時は教区
の教会員の方へのサポートが主に行なわれていましたが、その要請の電話がひっきりな
しにかかってくる。スタッフも他に仕事を持っている方々が臨時で従事されていて、長
くはできない。限られた人材と時間の中で、めまぐるしく活動していたのを覚えていま
す。
4 月に入り、教会員の方の支援が一区切りつくと、今も仙台の活動のメインのひとつ
である、七郷の笹屋敷地区での活動が始まりました。(この活動ができるようになるま
で、多くの方の尽力がありましたが、ここでは割愛させていただきます。)まだ海水が
残っている状態での泥出しから始まり、がれきの撤去、床下に潜っての泥出しなどの作
業をしました。
今でもエマオのワークの根幹となっている、
「スローワーク」が提唱されたのもこの
ころでした。緊急性が高く、ある程度のスピードが求められる作業が多かったこともあ
りますが、被災者の方のためにどんどん作業をすすめようとすることが、逆に被災者の
方を見ないで作業していることを、1 人のワーカーの方が気づかせてくれました。当時
の私は初対面の人とコミュニケーションをとることが得意ではなく、作業に打ち込むこ
とで、被災した家の方との会話を避けていたと思います。しかし作業をスローワークで
進めていくうちに、少しずつ少しずつ、家の方とも話せるようになっていき、あまり多
くを語らなかった方も津波が来た当時のこと、津波がくる前の町のことなどのことを話
してくれました。家の方にとっても、ワーカーにとっても、このスローワークの考えは
本当に必要なものだと感じました。
5 月中旬で東京に戻り、次に来たのはその年の8月でした。たった 3 カ月しかたって
いないのに、作業は畑作業や草抜きなどの農業支援が増えており、状況は大きく変わっ
ていました。石巻ではまだまだ泥出しの作業もあると聞いていましたが、そのとき私は
「エマオの仙台での支援は今年度で終わるのかな」と考えていました。
しかしエマオはその後も形を変えながら支援を続けていき、私の想像を遥かに大きく
超えて 5 年もの間活動を続けてきました。わたしは 2015 年の 9 月に再びエマオを訪れ
るまで長くエマオとの関係から離れていましたが、エマオの活動が続いていたおかげで、
一度も行ったことのなかった石巻を訪れることができました。もし、エマオがなかった
ら、やはり私は石巻を訪れることはなかったかもしれません。また、2011 年に作業を
した多賀城市の A さんという方のお宅も、4年ぶりに訪問することができました。これ
もまた、エマオがあったからできたことです。
今回、
「仮設を最後まで」と活動方針を打ち出したことで、エマオとしてのひとつの
ゴールが見えた気がします。しかしエマオにはゴールをただのゴールとしない、そんな
何かがあるような気がします。仮に「東北教区被災者支援センターエマオ」という組織
が解体されても、個人レベルでのワーカーの繋がり、笹屋敷や石巻、仮設に住んでいる
方、いた方、そういった人と人のつながりを、形はなくなってしまっても「エマオ」と
いう存在が支えていくのではないでしょうか。
最後にもうひとつだけ、覚えておいてほしいこと、それは「仙台学生・青年センター」
のことです。もともとエマオの建物の1階部分は彼らが使っており、そこを緊急的に被
災者支援センターが使っていました。しかし 2011 年の 5 月ごろ、彼らがその場所を使
って活動したいと願ってきたときに、当時のスタッフ(私もその 1 人でした)と協議の
結果、彼らの願いを叶えてあげることができませんでした。そのことで学生センターに
来なくなってしまった青年がいるという話も聞いています。その後被災者支援センター
の事務所は2階に移り、学生センターとの共存環境は整いましたが、特に初期、エマオ
の活動によって困難を強いてしまった彼らのことを覚えていただけたらと思います。
●佐藤真史さんより
リピーターの方たちが一度にあれだけ集まった活動報告会は、私にとって初めてでした。
そのことを事前に聞いていた私は準備も気合いを入れて行いました。一般的な話しでは
なく、エマオだから伝えられることに集中しようと努めました。きっと「被災地の今」
だけでなく、
「エマオの今」に強い関心を抱いてくれているはずと感じていたからです。
また、原子力発電所の有無について、東京圏に生きる皆さんへの問いかけにも気合い(?)
を込めました。それは東京で育った私自身が被災地で問われている問いかけでもあるか
らです。結果はどうだったでしょうか?
知香さんやミクさんから「証し」をもらえてとても嬉しかったです。本当はもっと多く
の人に語ってほしかったですが、時間の関係で難しかったとも思います。
後半の懇談会もとても嬉しいひと時でした。特に今では中々会うことの出来ない初期ワ
ーカーの声を聞くことが出来ました。
2016 年度一杯でエマオは大きな区切りを迎えます。出来ればそれまでにもう一度、エ
マオそして被災地を語り合える場を東京や他の地方でと願っています。私一人が語るの
ではなく、参加者みんなで語り合える場、ワークショップの様な場が出来たら面白いか
もしれません。
最後に大切なリピーター二人からの言葉を再引用し、みんなと分かち合いたいと思いま
す。
「エマオは教団、教区、スタッフが運営はしているが、私たち(ワーカー)も足を運ぶ
ことで作り上げてきたものである。
」2015.12.09 金宣希、渡辺敦子@めぐたま