2016年3月6日礼拝説教

 十字架と復活の告知
マルコの福音書8章31節~32節1行目
2016年3月6日(日)礼拝説教
皆さん、お早うございます。
いよいよ、3月と、なりました。まだまだ、寒い、という実感が、
ありますが、木の芽などを、観察いたしますと、着実に、膨らん
で、来ておりまして、春の到来が、刻一刻と、迫っていることが、
解ります。
マルコの福音書の学びは、これまでの、イエスさまによる癒しや、
様々な、人々を、苦しみから、救って行く、という段階から、次ぎ
の段階、イエスさまご自身の受難、十字架、復活へと、方向が
変わって来て、おります。
3月は、27日(日)が、イースター、すなわち、イエスさまの復活
を記念する礼拝で、25日(金)が、十字架、20日(日)からが、
受難週へと、入って、まいります。
たいへん、申し訳ありませんが、私たち夫婦は、明後日の、3月
8日(火)から、3月25日(金)まで、教団の、安息年研修に、
入らせていただきますので、その間、来週の3月13日(日)の
礼拝は、勿来教会の、住吉 英治牧師が、その次の、3月20日
(日)は、元・東洋福音宣教会・理事長であられた、黒田 昭一
牧師が、好間教会の、礼拝説教を、担当してくださいます。
皆さん、どうぞ、よろしく、お願いいたします。
3月第一主日である、本日の礼拝では、イエスさまによる、十字
架と復活の告知、ということにつきまして、マルコの福音書8章
31節から、32節1行目までを紐解きながら、ご一緒に、学んで
まいります。
初めに、ひとこと、お祈りさせて、いただきます。
父なる神さま、御子イエスさま、聖霊なる神さま。今日も、あなた
が、私たち、ひとり、ひとりを、礼拝に、招いてくださいましたこと、
心から、感謝いたします。
今日は、イエスさまによる、十字架と復活の告知、ということに
つきまして、これから、学んでまいります。
どうぞ、あなたが、私たちの真ん中に立ってくださり、私たちに
解りやすく、教えてください。感謝して、イエスさまの、尊い、
御名前によって、お祈りいたします。 アーメン。
マルコの福音書8章31節。
それから、人の子は 必ず 多くの
苦しみを 受け、長老、祭司長、
律法学者たちに 捨てられ、
殺され、三日の後に よみがえ
らなければ ならないと、
弟子たちに 教え始められた。
聖書の読み方には、二通り、あることを、先ず、私たちは、知っ
て、おきましょう。
先ず、第一の読み方は、私たちが、今、抱えている、問題に、
何らかの、アドバイスや、解決の、ヒントを与えてくれる、聖書の
みことばは、何か、ないものかと、探していく、読み方です。
この読み方の場合に、私たちに必要なのは、毎日の、聖書通読
です。それが無いと、間違った聖書箇所を、読み込んでしまう、
という危険性が、あることを、よく、注意して、おきましょう。
第二の読み方は、与えられた聖書のみことばを通して、イエス
さまは、何を、語っていらっしゃるのであろうか、ということを、
想い巡らし、その意味を、心の耳で、よく、聴き分ける、という、
読み方です。どちらも、聖書の読み方として、必要な読み方です
が、第二の読み方、みことばは、何を、語っているのであろうか
と、心の耳を、澄ませて聴く、読み方の方が、より安全です。
今日のみことばを通して、イエスさまは、これから、イースター
に向かって、起こって行く、すべてのことを、弟子たちに、教え
始められたのだ、告知されたのだと、語って、いるのです。
当時のイスラエルの人々が、イエスさまに求めていたものは、
イスラエルを、軍事的に、経済的に、政治的に、また、病気や、
苦しみから、救い出してくださる、英雄としての、救い主で、あり
ました。
しかし、本物の救い主であられる、イエスさまは、私たちの罪を
背負って、私たちのために、苦しみ、十字架の上で、血を流して
くださることによって、私たちを、罪から、救ってくださる、救い主
で、あられます。
その点が、当時の、イスラエルの人々の期待とは、大きく、異な
って、いたのです。
ここで、イエスさまは、ご自身のことを、‶人の子″と、呼んで
おられます。これは、一体、どういう、意味なのでしょうか。
これについては、色々な、考え方が、ありますが、生ける、
真の、唯一の、同じ、神さまの、中で、完全な、人間となって、
私たちの住む、この世界に、やって来てくださった、御子イエス
さまである、ということを、イエスさまご自身が、‶人の子″という
表現を用いて、ご自身を呼んでおられた、ということは、間違い
のない、ところです。すなわち、‶人の子となって、やって来て
くださった、神さま″という、意味です。
みことばは、ここで、‶多くの苦しみを受け″と、語っております。
罪の、全く無い、御子イエスさまが、どうしようもない、罪で、
まみれ切った、私たち、ひとり、ひとりの、罪のために、多くの
苦しみを、受けて、くださいました。
ですから、イエスさまは、わたしたち、それぞれに、与えられて
いる、苦しみを、全部、理解して、くださって、おられます。
誰かに、解っていただきたいと、願っても、どうしても、解って、
いただけない、或いは、他人さまには、とっても言えないような、
私が悩んでいる、苦しみを、イエスさまだけは、ちゃんと、全部、
解っていて、くださるのです。
それは、イエスさまご自身が、私たちの、罪と、悩み、苦しみとを、
全部、背負って、十字架の血潮で、それを、洗い流してくださっ
たから、なのです。
‶捨てられ″と、みことばは、語っております。
これは、どういう、意味なのでしょうか。
‶捨てられ″とは、必要か、必要でないか、価値があるか、
価値がないか、よくよく、検討された上で、‶必要では無い″、
‶価値が無い″と、判断されて、まるで、ゴミ箱に、放り込む、
ように、捨てられてしまった、という、意味です。
誰が、‶必要では無い″‶価値が無い″と、判断したのでしょう
か。それが、‶長老″‶祭司長″‶律法学者たち″と、呼ばれて
いた、当時の、イスラエルで、権力を握っていた、代表的な人々
でした。これらの、当時の社会で、権力を握っていた、代表的
な、人々によって、イエスさまは、‶英雄的な救い主″ではない
ので、不必要だと、判断されて、捨てられて、しまったのです。
‶殺され″と、みことばは、語っております。
これが、‶十字架″です。
全く、罪の無い、御子イエスさまが、英雄的ではないので、必要
では無いと、判断されて、有罪判決を受けて、十字架刑という、
一番、むごたらしい、処刑方法によって、殺されて、しまいました。
本当に、罪がある、有罪なのは、私たちです。
でも、有罪である、私たちの罪を背負って、イエスさまが、本当
は無罪なのに、有罪となって、死刑判決を受け、十字架の上で、
血を流してくださいました。
その、イエスさまが、流してくださった、血潮によって、本当は、
有罪である、私たちが、無罪判決を受け、私たちを、がんじが
らめに、縛りつけている、罪から、イエスさまが、解放して、くだ
さいました。それによって、私たちは、罪から、救い出されたの
です。
‶三日の後に、よみがえらなければ ならない″と、みことばは、
語ります。
イエスさまは、金曜日の夕方に、葬られ、その時から、三日目
の、日曜日の早朝に、復活させられました。
これが、イースターです。
この、イースターの早朝に、復活させられた、イエスさまは、今
でも、私たちの間に在って、生きて、おられます。
イエスさまが復活させられて以来、二千年間、大勢の、私たち
の、信仰の先輩たちが、生きておられるイエスさまと、出会い、
イエスさまから、与えられている、永遠のいのちに生きて、
来られました。
そのイエスさまが、今も、私たちの、真ん中に立って、生きて、
働いていて、くださって、おられるのです。
もちろん、私たちの肉体は、限りあるものですから、朽ち果てて
行きます。でも、復活の、御子イエスさまは、生き続けておられ、
限りある、私たちの肉体は、必ず、朽ち果てますが、イエスさま
が、再び、私たちの肉眼の、この目で見える、かたちで、もう一
度、私たちの住む、この世界に、やって来て下さる時、私たちの
先輩も、私たちも、天に上げられ、御子イエスさまの前に、立つ
ことになるのだと、みことばは、語っているのです。
現実に、私たちの、肉眼の、この目で見ている時には、なかなか
信じられないことで、あるのかもしれません。
しかし、信仰の心の目で見、信仰の心の耳で聴く時、みことば
を通して、御子イエスさまが、告知しておられ、現実に、それが、
成就した、これらの出来事が、真実であると、理解することが、
出来るのです。
マルコの福音書8章32節1行目。
しかも、はっきりと
この 事がらを
話された。
イエスさまは、この、十字架と復活の告知を、‶はっきりと、話さ
れた″と、みことばは、語ります。
もしかすると、私たちには、この、十字架と復活の、事がらを、
あいまいに、ぼかしておきたいという、誘惑にかられる時が、
あるのかも、しれません。
しかし、イエスさまは、‶はっきりと″十字架と復活の告知を、
話されたのです。
そのことは、イエスさまの十字架と復活とは、本当に、起こって
きたことなのだと、いうことを、意味しております。
私たちが、イエスさまの十字架と復活とを、あいまいにしておく
ことは、できません。
イエスさまが、聖書のみことばを、通して、はっきりと、そう、
仰って、おられる、からなのです。
私たちには、‶よく解らない事がら″が、たくさん、あります。
でも、信仰のジャンプによって、その、‶よく解らない事がら″を、
全部、イエスさまの、御腕の中に、お預けして、ご一緒に、前進
して、まいりましょう。
後になって、振り返って、見てみた時に、それらの事がらが、
紛れもない、事実であった、ということを、必ず、確信する日が、
やって来ることを、信じ続け、歩み続けて、まいりましょう。
お祈りさせて、いただきます。
父なる神さま。御子イエスさま。聖霊なる神さま。
みことばを、ありがとうございました。
あなたの、ご栄光を、賛美いたします。
今日は、イエスさまの、十字架と復活の告知という、たいへん、
重要なことを、みことばを通して、学ぶことが出来まして、ありが
とうございました。
‶イエスさまの十字架と復活″は、私たちの信仰の、一番大切
な、根幹です。
どうぞ、その、一番大切な、‶イエスさまの十字架と復活″を、
あいまいにすることなく、はっきりとさせ、イエスさまに在る、
‶永遠のいのち″の道を、歩み続けることが、出来ますように、
弱い、私たちの足を強め、信仰を支え、導き続けてください。
感謝して、イエスさまの、尊い、御名前によって、お祈りいたし
ます。 アーメン。