新北風 - 沖縄ある記

建設情報誌
No.74
ミーニシ
新北風
9月の中旬より10月の初
め頃にかけて吹く北風の
こと。ミーニシは長かっ
た夏の終わりを告げ、さ
わやかな秋入りを知らせ
る秋一番の風でもある。
ミーサルニシカジの意。
「夏の強烈な日が弱りか
けて、やがてミーニシが
吹きそめようとする頃
を、八重山ではッサナッィ
(白夏)という。この頃
から、ミーニシの吹く頃
にかけてはパタームー
チー(肌持ち)がよいの
である」
(仲宗根政善)
2015
【しまたてぃ】琉球王府により編纂された古代歌謡集“おもろさうし”
の沖縄島創造編に
「又しまつくれ、又くにつくれ」の用語や、大宜味村に伝わる国土創造の神歌“柴差しのウ
ムイ”に「国立てら島たてら」などの言葉があり、これら古琉球の表現を引用し情報誌の名
称とした。国際音声記号で と記す。
【ヤツガシラ】世界で一科一種の希種で、キジバトよりやや小さい。頭に大きな冠羽があり、くちばしは細くて長く、
下に曲がっている。体は黄色味のある肌色で、翼には白と黒のしま模様がある。尾は黒くて長く、中央部に一本の白
い帯がある。本州中部以北で数例の繁殖例があるが、県内には春秋の渡り期に旅鳥として見られることが多い。生息
場所は畑、草地など。鳴き声は「ポポ、ポポポ」
。ヤツガシラ科。
(
『改訂版 沖縄の野鳥』2010年、沖縄野鳥研究会編)
【写真は2003・4・10 国頭村奥】
特 集:発展する那覇港 ~その歴史と現在、未来~
技術Ⅲ:施工経験から得た長寿命化舗装
行 政:
「世界水準の観光リゾート地」の形成に向けて
新連載
聖地巡 礼
〜再びマブイに出会う旅へ④〜
勝連文化とその源流 勝連グスクとクトジ御嶽
かつて、琉球に割拠していたグスクはそれぞれに交易を営み、独自の港を有していた。勝連グスクの場合、その流通拠点となる港は、
現南原漁港あたりではないかといわれている。漁港のほど近い海岸沿いにクトジ御嶽はある。あたりは草で覆われているため案内版がな
ければわからない。御嶽から勝連グスクは、一直線に見上げることができる。西原御門
(ニシハラウジョー)
が表門だとすれば、その対極
にある南風原御門
(ハエバルウジョウ)
は港に通じる門で、そのまま急な坂道を降れば、浜に至る。クトジ御嶽では、航海安全が祈願され、
交易船に満載された品々も、まずはここに集積された。 勝連グスクは12世紀から13世紀にかけて築城されたといわれ、最盛期は14世紀中頃以降の100年間。グスクからは東南アジア、中国、
朝鮮の産物や大和系の瓦などが発堀され、広く海外と交易していたことがわかる。阿麻和利
(10代目)
は、国王尚泰久の娘、百十踏揚
(もも
とふみあがり)
を妻とし、当時の英雄として名高いが、中城の護佐丸を滅ぼし、首里を攻めて大敗し、勝連グスクの栄光は幕を閉じた。
一方、柳田国男は、このような勝連グスクや海上交通の要所となった平安座、伊計、浜比嘉島などの島々の文化に対して重要な提起を
している。すなわち
『海上の道』
まえがきで、
「勝連文化と私は仮に呼んでいるのだが、その勝連文化と首里・那覇を中心とした文化、すな
わち浦添文化とでもいうべきものとの間には、系統上の相違があったのではなかろうか」
と、述べている。
勝連グスクは近年復元工事が進み、その全貌が見え始めてきた。一の曲輪に通じる石段は天に架けた橋のようで神秘的である。逆にそ
こからゆったりと降りていくと、現世に戻った安堵感がある。グスクには、あの世とこの世、聖と俗の不可視の領域があり、軍事上の要
塞的機能だけではない神秘性が私たちをひきつけてやまない。
【関連記事54頁】
(執筆:安里英子)
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【聖地巡礼】~再びマブイへ出会う旅へ④~
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【レポートⅡ】
県内におけるクルーズ船の
����������������� 安里英子
(2P)
受け入れ体制の課題と展望����� 城間秋乃
(36)
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【巻頭言】経済学の新たなパラダイム ◎
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那覇港歴史アルバム����� 編集部
(40)
����������������� 大城 保
(3)
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【技術Ⅲ】
施工経験から得た長寿命化舗装
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【歴史Ⅰ】
琉球の村落③沖縄島南部における
���������������� 甲斐辰美
(43)
「格子状集落」
の立地と構造����� 山元貴継
(4)
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【行政】
「世界水準の観光リゾート地」
の形成に
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【特集】
発展する那覇港 ~その歴史と現在、未来~
向けて……………………………………… 前田光幸
(46)
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【地域】
沖縄の戦後を歩く⑰今帰仁村
(大井川橋)
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【歴史Ⅱ】
海域史からみた王国時代の那覇港
�������� 編集部、NPO法人沖縄ある記
(50)
���������������� 真栄平房昭
(10)
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【聖地巡礼】
勝連文化とその源流を探る� 安里英子
(54)
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【歴史Ⅲ】
那覇港の成立と機能維持、そして現在
����������������� 外間政明
(14)
○
【建設情報No.62】
(56)
◎
【技術Ⅰ】
那覇港の港湾整備
○ 沖縄県内建設関連情報
(59)
����������������� 花田祥一
(18)
○ 編集後記
(59)
◎
【技術Ⅱ】
那覇港の現在と港湾計画��� 比嘉世顕
(22)
○
【公告】
平成28年度技術開発・調査研究の募集
(60)
◎
【レポートⅠ】
那覇港の新たな国際物流戦略
������������������ 高崎 裕
(32)
2
No.74
2015. 新北風 October
表紙写真:東江辰昇
(沖縄しまたて協会)
成長・発展の研究を行ってきた。
人類は類人猿から進化し、過去・現在・未来の
時間を認識し、知識を累積的に蓄積し、それを
活用した人工工作物を基に生存領域を地球全域
に拡大してきた。ところが産業革命後の機械工
業化、情報通信技術
(ICT)
革命後のコンピュー
経済学の新たなパラダイム
前提に国家国民経済と国家間国際経済に関する
〜G・N・Lの三システム経済とシステム間バランスの研究〜
ア
れまでの経済学は、自由競争市場経済を
ダム・スミスの経済学を始まりとするこ
巻頭言
No.74
大城 保
OSHIRO Tamotsu
沖縄国際大学 学長
成されるシステムであ
る。国内市場は国家が国境
を創り、政府、企業、個人
その他を国内市場で活動さ
せるシステムである。地域
地場市場は地域地場資源
(自然・農林畜水産や商工
業の地場産業・文化・人財
そ の 他)
が 制 約=境 界 と
タネットワーク化による人工化量的拡大つまり
なって形成されるシステ
人類経済の発展が、人類の生存基盤である地球
ムである。人類経済はこ
生命系の持続性を攪乱し破損させつつある。
れ ら の グ ロ ー バ ル・ナ
そこで現在の実態を見据えて地球生命系の持続
ショナル・ローカルから成るG・N・Lサブシステム
性と整合する人類経済の在り様を研究する経済学
で構成される。
が不可欠であり、新たな経済学のパラダイムが求
これらG・N・Lサブシステムの境界が明確であ
められている。それは
「自由競争市場」
を理念型と
り、それらの作動原理は他システムの作動原理
するパラダイムを超えて、
「市場システム重層制」
とは相いれない部分が大きい。それ故、自由競
を理念型とするパラダイムの構築である。
争市場経済システムを理念型とするこれまでの
システムとは境界を創り資源流出入を制御する
経済学では、現代人類経済を展望することはで
持続的作動統一体である。例えば宇宙は重力等四
きない。G・N・L市場システム経済学とシステム
つの物理力によって形成されたシステムであ
間関係の生態的経済学の構築によって、今後の
る。生命系は、動植物その他種システムとの多層
人類経済の展望を示すことができる。
多様な関係で形成される生態系システムであ
万国津梁の形成を標榜する沖縄の主たる経済
る。生命系の持続性は生態系システムの持続性が
主体は、G・N・L市場にどのように関わり、三つ
前提となる。そして人類も多くのサブシステムを
の市場をどのように関係づけていくか、その方
内包するシステムであり、人類への資源流出入総
向性と実現に向けたシナリオを設計し、実践し
量を制御することが生命生態系を維持する。
ていく必要がある。その一つ、観光立県沖縄の
経済もサブシステムの一つであり、交換・取
実現には、沖縄の自然、琉球沖縄の文化特に琉
引を通じて行われる生産・消費の循環的経済活
球 古 典 音 楽・芸 能 や 空 手・琉 球 古 武 道 等 の 伝
動を統一する市場が市場経済システムであ
統、そして沖縄の希求平和の精神が国内外で高
る。市場経済システムは、グローバル市場、国
く評価されるような重点投資が必要である。
内市場、地域地場市場の三つのサブシステムが
沖縄が地方創生の経済の先駆けとなるため
重層的に関わりあっている。グローバル市場は
に、沖縄国際大学は、地域に根ざし地域に開かれ
国家の制約から脱却し、宇宙船地球号を活動場
た大学を目指し、地域を動かし世界に羽ばたく人
とするグローバル企業や個人その他によって形
材の育成を目指している。 (おおしろ たもつ)
3
2015. 新北風 October
No.74
琉球の村落
HistoryⅠ 歴史Ⅰ
連載第3回
沖縄島南部における「格子状集落」の立地と構造
~地籍図から見た南城市玉城・前川集落~
山元 貴継
中部大学人文学部 准教授
博士
(地理学)
YAMAMOTO Takatsugu
1.南向き斜面に広がる
「格子状」
の前川集落
1899(明治32)
年から実施され、沖縄島南部では
かつて激しい地上戦を経験した沖縄島南部も、
1902年前後に進展した
「土地整理事業」の時期の
今日では様々な観光施設が造られるようになって
地籍図面の写しが発見された。これは、沖縄戦
いる。その中に、全長5,000mを誇る国内最大級の
の戦禍の中で当時の地籍図面のほとんどが失わ
鍾乳洞として知られる玉泉洞がある。この玉泉洞
れたとされる沖縄島南部において、貴重な発見
の駐車場からよく見える、南向き斜面に広がる
事例である。そこで本稿では、それらの図面を
集落が、南城市玉城の前川集落である
(図-1)
。
幾何補正*2)するなどしつつ活用し、土地細分
化や耕地整理が行われる以前の前川集落一帯の
土地利用構造を把握する。加えて、現在の国土
基本図や数値標高データとの重ね合わせ、現地
調査による状況確認を行い、同集落の立地や、
ほぼ
「横一列型」街区のみで構成されたその特徴
的な集落構造が、いかに一帯の地形条件を反映
したものであったのかを検討していく。そして、
県内各地で
「横一列型」街区が多く採用されて
いった背景についても考察する。
図-1 前川集落の一帯と糸数城跡
(2007年更新1:25,000地形図「糸満」「知念」より)
2.地籍図などに描かれた明治期の村落空間
前川集落は、南北方向に1軒、東西方向に複
前川集落の住民については、かつては現在の
数軒分の屋敷地で構成された
「横一列型」の街区
同集落の中心から約1km東北東に離れた糸数
が整然と並ぶ、
「ゴバン型」集落あるいは
「格子
御嶽
(図-1)の麓にあった13 ~ 18戸の旧集落、
状」集落となっている。なお、建築学の坂本磐
いわゆる
「フルジマ」に居住していたが、
『球陽』
雄などは、琉球王府下における
「地割制度
(じー
などによれば、
「地割制度」が徹底されるように
*1)
わり) 」や屋敷地などへの面積制限の影響を
なった時期であるまさに1736年に、現在の位置
強く受け、この沖縄島南部に多くの
「格子状」集
への移動を許されたとある。こうして成立した
落が多く分布してきたと指摘している。前川集
前川集落は、その後住民の移住が進んだほか、
落はそうした典型的な
「格子状」集落の一つであ
人口も大きく増加した。そして同集落は、第二
るが、沖縄戦を経た上、戦後には耕地整理も行
次世界大戦中から戦後にかけての混乱の中で
われたことで、現在の景観からだけでは、かつ
荒廃し、かつ、その後の耕地整理で完全にその
ての集落とその周囲を含めた村落全体の構造を
こん跡までが失われることになる、
「ホーグ
(抱
うかがうことが難しくなっている。
護)
」と呼ばれた一部は人工的な松の林帯*3)に
こうした中で、南城市玉城の一帯では近年、
守られ、発展してきた
(写真-1)
。
* 1)
「地割制度」:土地はあくまで共有のものとし、
その土地を住民に平等的に配分した上で、
人口や収穫の状況に応じて土地の交換を行わせるという旧慣習。
* 2)幾何補正:南北方向と東西方向で異なる拡大・縮小、さらにはこれらの方向外での拡大・縮小を行い、別図面(今回は国土基本図)に合わせること。
* 3)かつての前川集落の 「抱護」 林は松で構成されていたが、1944 年の日本軍による伐採を経て、戦後はやむなく 「モクマオウ」 に切り替えられたとされる。
4
No.74
2015. 新北風 October
囲における
「池沼」地
(図-2の青緑○内)の点在
が目立つ。後者については、第二次世界大戦ま
で、住民は飲み水を南西側に流れる雄樋川に面
した樋川
(ヒージャー)のほか、井泉に求めたと
されるが、それらの井泉を示したものと思われ
る。そして、これら
「池沼」地目となっている地
筆とそれらをつなぐ
「ウチホーグ」に縁取られた
「横一列型」の街区群があり、その周囲に、ちょ
うど街区群全体の幅くらいの半径をもってドー
写真-1 1944年10月に米軍が撮影した前川集落の一帯
(韓国・済州大学校師範大学地理教育科所蔵
The Joseph E. Spencer Aerial Photograph Collection)
ナツ状に畑が展開し、それらの外側を
「フカホー
グ」の林帯が縁取るといったような、ほぼ
「同心
円的」な土地利用構造がみられた
ことが明らかとなる。
3.前川集落一帯の土地利用
と地形条件 このように地籍図面の写しを活
用してかつての各種土地利用の位
置や範囲を正確に特定すると、現
在の地形図
(国土基本図)や、標高
データとの重ね合わせも行うこと
ができる。この重ね合わせによれ
ば、前川集落が一帯の南向き斜面
の条件をよく見て、それらの土地
図-2 「土地整理事業」当時(1902年頃)の前川集落の一帯の土地利用
(作成:山元貴継。明治期地籍図面の写しより作成)
利用を求めた様子がうかがえる。
例えば、一帯はゆるやかに隆起
こうした前川集落とその周囲について、
「土
した石灰岩台地上にあるが、北側は溶食から残さ
地整理事業」期の地籍図面の写しをもとに復元
れた石灰岩堤となっており、また、斜面の南側に
図を作成すると、一帯を取り囲む
「ホーグ」の明
は、同じく溶食から取り残された残丘が点在して
確な林帯が浮かび上がる
(図-2)
。さらに、地
いる
(図-3)
。先述した
「フカホーグ」
の林帯は、
籍図面の写しを詳細に確認すると、この
「ホー
ちょうどこれらを結ぶように植えられていた形
グ」について、米軍写真などにも写され、住民
となる。その中で
「横一列型」
の街区群は、標高45
の記憶にも残る外側の
「フカホーグ
(外抱護)
」の
ほか、
「横一列型」の街区が整然と並び、
「格子
状」となっている集落を縁取っていた内側の
「ウ
チホーグ
(内抱護)
」の位置と幅までもが示され
る。ほかに、米軍写真などには写らない情報と
して、地目*4)上は雑種地*5)となっているが、
街区群の北側に位置した
「知念殿」
(図-2の赤
破線で囲まれたところ)の存在と、街区群の周
図-3 前川集落の一帯の標高ダイヤグラム
(作成:山元貴継。1985年修正1:5,000国土基本図より
標高データを抽出し作成。25mDEMに相当)
* 4)地目:土地税制上の土地利用区分であり、これをもとに当時、地税の額が算定されていた。田や畑といった区分に等級が加わる。
* 5)「雑種地」:「雑種地」 地目は、
利益を求めない利用が行われる土地を指すことがある。一般に 「御嶽」 などは 「拝所」 地目であるが、
まれに 「雑種地」 となる。
5
2015. 新北風 October
No.74
~ 90mと比較的斜面上方の、かつ、北側の石灰岩
的に屋敷地を展開させるといったように、一帯
堤から伸び、
「舌」
状にわずかに盛り上がった緩斜
の地形条件をよく見極めてその土地利用を配分
面の上に乗っていた。
していたことが明らかとなる。そして集落の南
そして、前川集落とその一帯の各所でかつて
東側では、石灰岩残丘を補強するかのように人
みられた土地利用
(図-2)は、一帯にみられる
工的に木々が植えられ、集落はもちろん、平坦
傾斜度の違い
(図-4)とよく対応していた。集
地に設けられた畑を守ってきたと考えられた。
落をなす街区群は、一帯の中でも約10分の1の
南向き傾斜度
(北方向に10m進むと標高が1m
4.前川集落の拡大過程についての再検討
高くなるといった傾斜の度合い)となっている
こ の 前 川 集 落 に つ い て は、 地 理 学 の 仲 松
「舌」状の緩斜面を選ぶように展開していた。そ
弥 秀 が、 現 地 の 古 老 か ら の 聞 き 取 り な ど か
して、その周囲の
「池沼」地は、
「舌」状の緩斜面
ら、集落の発展に伴う段階的な屋敷地の範囲
を縁取る若干急になった斜面に該当し、そこ
の拡大があったことを明らかにしている
(図-
を掘り抜くことで、地下水の漏出を期待して
5)
。それによれば、
「村立て」以降、まず現在
いたのではないかと想定された。
「ウチホーグ」
の前川集落の中央部北寄りに移住した住民が
は、これら
「池沼」
地を結ぶ線とその延長線上に存
集落を構成
(図-5中のAの範囲)し、のちに人
在していた形となる。このように、街区群の範
口増加に伴い次第に集落の範囲を南側に拡大
囲は、一定の条件をもつ緩斜面の規模と、水源
させて
(図-5中のB/Cの範囲)いきつつ、分
の確保とを前提に定められたのではないかと考
家などによって増加した住民が屋敷地を設け
えられた。また、著しく急な斜面は墓地として
るようになり、最終的には明治期までに、現
も利用される一方で、約30分の1以下といった
在みられる集落規模
(図-5中のDの範囲など
非常に緩やかな斜面は、畑として利用されてい
を含む)となったことが指摘されている *6)。
た。よく知られるように沖縄島南部では、根茎作
こうした過程に
物に適した島尻マージの土壌が広く広がっている
ついて、その範囲
が、島尻マージは保水力が弱く、畑として活用
の詳細な地形条件
するためには、傾斜が少ないことが求められる。
(図-6)との重ね
以上のように前川集落の一帯では、生産のた
合わせと同時に、
めに重要な農耕地に平坦地を大きく明け渡し、
現地での確認を
あえて一定の傾斜度のある緩斜面を選んで集中
行ってみる。先述
し た よ う に、
「横
一列型」の街区群
は
「舌」状となって
いる南向き緩斜面
の上に乗っている
図-5 前川集落内の旧家-分家関係
(仲松弥秀
(1977)
『古層の村』
80頁に加筆)
形となるが、その
中でもちょうど
約10分の1の傾斜
度をもつ範囲が、前川集落の中央部北寄りと一
致する。さらに詳細に見ると、この
「舌」状の緩
斜面にも集落北側の石灰岩堤からいくつかの尾
図-4 前川集落の一帯の傾斜度と土地利用(作成:山元貴継。
1985年修正1:5,000国土基本図より標高データを抽出
し作成)
根線が伸び、それらの間が谷線となっていると
いったようにわずかな凸凹がある。旧家とされ
*6)こうした前川集落の拡大過程のうち集落南端の段階的な移動は、
住民により、
そこに置かれていた 「村獅子」 と 「馬場」 の移動という形で語られる。
6
No.74
2015. 新北風 October
る屋敷地は、このう
ち尾根線が尽きたそ
の先に位置している
ことが多かった。そ
して、こうした旧家
は、しばしば広い敷
地の中に水源施設を
抱えており
(写真-
2)
、尾根線沿いに
図-6 前川集落内の傾斜度と
尾根線・谷線(作成:山
元貴継。1985年修正1:
5,000国土基本図より標
高データを抽出し作成)
図-7 前川集落内の各宅地(屋敷地)の面積
(作成:山元貴継。「土地整理事業」当時の状況。
左側ほど斜面北側の宅地)
流れ下ってきた地下
る。そうであれば、こうした面積の大きい屋敷
水を受けていた可
地の混在への説明がつく。農耕地だけでなく、
能性がうかがえた。
屋敷地についても平等な配分を目指したという
このように、一定
イメージのある沖縄の集落内にみられる、屋敷
の傾斜度をもつ南
地面積の大小といった階層性については、集落
向き斜面の中でも
の拡大過程における核の場所とのちの拡大部分
恵まれた位置に構えられたと思われる旧家を核
とを示している可能性がある。
とし、先述した琉球王府下における
「地割制度」
や、屋敷地などへの面積制限が徹底されるよう
になっていった時期以降に街区群の範囲を拡大
5.
「横一列型」
の街区群を形づくった条件
前川集落では、明確に
「横一列型」
の街区が整然
と並ぶ景観がみられるが、一見してもその街路
は大きく折れ曲がっている。そして、それぞれ
の街区を構成する各屋敷地の間口および奥行き
は、平均するとともに約23m
(水平方向)
となるも
のの、実際にはそれらの長さには大きな幅があ
る。さらに、屋敷地の形態自体も方形とは限ら
ず、四辺形となっていることも多い。こうした街
写真-2 前川集落内の尾根線の先にみられやすい屋敷の例
(撮影:山元貴継)
区群と屋敷地の形態の特徴を形づくったのもま
た、一帯の詳細な地形条件であったと思われる。
させてきた前川集落では、これらの制度の影響
まず、街区群の東西端は、先述したように
「舌」
が明確にみられることになる。地籍図面の写し
状の緩斜面の縁となるため、自ずとその位置が
をもとにした復元図より、現在までに土地の細
確定される。また、前川集落の中央では、大き
分化が進んだり、街路の拡張などによってその
く見て2本の街路が南北を貫き、街区を東西方
敷地が削られたりする以前となる、
「土地整理
向に分割しているが、これらの街路は地形的に
事業」期における各屋敷地の面積を算出すると、
は谷線に相当しやすい
(図-6)
。このように、
集落の中央部北寄りでは、広い屋敷地が点在す
南北方向の街路の位置は容易に設定されやす
ることによって、面積に大きなばらつきがみら
く、その結果、各街区の東西幅も規定されるこ
れた
(図-7)
。この面積規模の大きい屋敷地こ
ととなる。南北方向の街路は、当然のことなが
そ、多くが先述した旧家と一致する。これに対
ら斜面を下ることになり、大きな勾配をみせる。
し、のちに拡大した斜面の最上方の屋敷地と、
これに対して東西方向の街路は、可能な限り
下方の屋敷地については、確実にその面積が整
勾配のないように設定されている
(写真-3)
。
えられていることが明らかとなる。
その結果、細かな斜面の凸凹に沿うことで、等
屋敷地などの面積制限は、それ以前に設けら
高線のように、尾根線状となっているところで
れた屋敷には遡及して適用されなかったとされ
は街路が南側にせり出し、逆に谷状となってい
7
2015. 新北風 October
No.74
満足させるものとして
「横一列型」
街区が選択され
たことを指摘している。加えて本稿では、横方
向には複数軒の屋敷地を並べながら斜面の上下
方向には1軒分の屋敷地しか設定せず、横方向
の街路が密に走る
「横一列型」
街区は、斜面に屋敷
地を拡大させてきた歴史的過程があってこそ積
極的に採用された可能性があることも推したい。
写真-3 前川集落内の東西方向の街路の例(撮影:山元貴継)
6.「格子状集落」内にみられる歴史的重層性
るところでは街路が北側に引っ込むことにな
以上見てきたように、その整然とした街路網
る。そして各屋敷地については、その面積を揃
と街区群に目が向きやすい
「格子状集落」につい
えることを大前提にしつつも、取り囲む街路が
ては、その周囲の農耕地や、集落によっては
「抱
折れ曲がっていることによって、不定形な形態
護」林も含めて、その土地利用が一帯の地形条
となっているところが散見されることとなる。
件を詳細に検討して配分されていることが明ら
そして、このような地形への対応過程を見
かとなった。また本稿では、その特徴的な
「横
ていくと、
「横一列型」街区の必然性が浮かび上
一列型」の街区群の形態が、集落の立地した斜
がってくる。斜面に集落を展開させることに
面の細かい凸凹にいかに規定されることになる
よって生じるこうした街路の折れ曲がりに対応
のかを強調してきた。これらは言い換えれば、沖
するためには、斜面の上下方向に複数以上の屋
縄の先人たちがいかに注意深く自分たちの地域の
敷地を規則的に並べた街区を配置することは難
地形条件を観察し、さらに後の拡大にも対応でき
しい。それだけでなく、約10分の1かそれ以上
るように集落、そしてその周囲を含めた村落全体
の傾斜度をもつ斜面に、平均して20m以上の奥
をプランニングしていたのかを示している。
行きをもつ屋敷地を設ければ、敷地内で生じる
一方で本稿では、全体的には面積の揃った
高低差は2m以上になり、上方はもはや崖とな
屋敷地で構成されているように映る
「格子状集
る
(写真-4)
。こうなると、街区内において斜
落」の中にも、実はその拡大以前の、それこそ
面の上下方向にも複数以上の屋敷地を並べた場
一帯に最初に住民が住居を構えた場所、
「旧家」
合、上側に設定された屋敷地は、斜面上方から
の存在が見えやすいことを示してきた。そし
の入り口すなわち門を設けざるをえず、街路か
て、旧家のようにそこだけ面積の大きい屋敷地
ら階段を下りて屋敷に入る構造を採らされるこ
がみられるところでは、
「横一列型」の街区群の
とになる。これでは同時に、屋敷の玄関が街路
中で、斜面の上下で隣り合う屋敷地でも
「筆界
から見下ろされる位置関係ともなってしまう。
(地筆界)
(
」屋敷地どうしの境界)にずれが生じ
建築学の坂本磐雄などは、沖縄においては敷地
やすい。とくに、しばしば旧家は、そこまで伸
の南側に開口部
(門-玄関)
を設けることを良しと
びてきた尾根線の先に位置しているが、それら
する南入り指向があり、それを多くの屋敷地で
の尾根線の多くは、斜面の上方では屋敷地間の
「筆界」となる。その結果、旧家の上方では、斜
面上方からそこまで連続して伸びてきた
「筆界」
が旧家の屋敷地に突き当たって途切れる形とな
り、一見すると逆T字型に交わる
「筆界」
をみせや
すくなる。こうした
「筆界」の走り方も、集落内
における旧家などの位置推定につながる可能性
がある。これまで重視されてきた
「御嶽」の位置
写真-4 前川集落内における屋敷地の奧にみられる高低差
(撮影:山元貴継)
8
No.74
2015. 新北風 October
への注目のほか、こうした
「旧家」の位置とその
意味への検討も、今後様々な集落で期待される。
特集 発展する那覇港
〜その歴史と現在、未来〜
琉球交易港図屏風(浦添美術館所蔵)
HistoryⅡ 歴史Ⅱ
海域史からみた王国時代の那覇港
~船の活動と港湾施設~
真栄平 房昭
1.ヤマト船の航跡 琉球大学教授
MAEHIRA Fusaaki
那覇から宮古島へ向け出港している。翌26日に
那覇港は、古くから海上交通と物流のターミ
は480石積船
(沖船頭平島の仁兵衛)が八重山へ
ナルとして中核的位置を占めてきた。船が港を
向かった。
出入りする際、琉球王府の役人と在番奉行所の
役人らが立ち会い船改め検査が行われた。その
記録から船の規模
(積石数)
、船頭名・出身地が
具体的に判明する。そこで先ず、薩摩と琉球を
ヤマト
往来した
「大和船」の事例をとりあげてみたい。
西暦1744年にあたる
「乾隆九年 親見世日記」正
月二十九日、二月八日、五月十三日の出港船
改めの状況を示すと、次の通りである
(
『国立台
湾大学図書館典蔵 琉球関係史料集成』第二巻、
p.76、82、171)
。
①480石積、沖船頭
(鹿児島上川町の七右衛門)
図-1 和船の図(構造・名称)
②480石積、沖船頭
(中之島の浜太衛門)
③380石積、沖船頭
(口之島肥後の仁兵衛)─八
重山へ赴く
2.港湾施設
「船屋」
について
薩摩のヤマト船は、那覇を中継地として遠く
④480石積、沖船頭
(中之島の八左衛門)
は宮古、八重山まで往来したのである。そこで
⑤620石積、沖船頭
(山川町の善太郎)
航海に必要な水や食糧の補給だけでなく、船体
⑥480石積、沖船頭
(小根占の周八)─同船は3
の補修メンテナンス等に備えて、那覇港に面し
月5日に那覇入港
わたんじ
た
「渡地」に新たな繋留地
(船屋)が設けられた。
⑦630石積、沖船頭
(久志輪多浦の三左衛門)
この設営に関して、
「乾隆九年 親見世日記」二
⑧480石積、沖船頭
(山川の嘉兵衛、但し、便乗
月十一日条の口上書をみると、ヤマト船頭ら
人は小根占の七右衛門)
⑨480石積、沖船頭
(山川の常右衛門、但し、便
乗人は泊の新兵衛)
は
「船屋」の新設工事の認可を王府に要請してお
り、その詳しい事情が判明する
(前掲史料、p.85
~ 87)
。 ⑩480石積、沖船頭
(小根占の長兵衛)
すなわち、
「
(前略)以前から使用していた停
江戸時代の大型帆船である
「千石船」は全長29
泊場所が築地
(埋立地)となり、または先島船や
メートル、積載重量約150トンであるが、ここ
地下馬艦船用の船屋として掘り崩されているた
に登場するヤマト船は400石から600石積クラス
め、大和船の停泊に支障が生じている。ついて
である。船頭の出身地をみると、トカラ列島
は、新しい船屋を設定していただくことをお願
②③④をはじめ薩摩、大隅各地から那覇に来航
いしたところ、大瀬の後方になったため、長期
したことがわかる。また、
「親見世日記」2月25
に川の中に船を繋留することとなり、北風の時
日条によると、690石積船
(船頭小根占の周左衛
期には
(安全な停泊が)懸念される。そのため、
門)
、630石積船
(沖船頭平島の長兵衛)の二艘が
渡り瀬の干潟辺りを碇番の者にかかわらず掘り
10
No.74
2015. 新北風 October
始めたが、いろいろと大石などが埋まってお
料、p.87 ~ 95)
。その具体的内容は多岐にわた
り、思うようには掘り進めることができなかっ
るが、ここでは若干の要点を例示するに止める。
た。そのため、日雇い人を大勢雇いようやく今
①
「那覇湊」は琉球国第一の津口であり、薩摩・
年、停泊に必要な分だけは掘り調えることがで
道之島・そのほか琉球国中の船が集まる場所
きた。右の場所をさらに掘り進めれば、三、四
であるので、諸事万端見苦しくないよう適切
艘分の船屋を調えられると思われる。……(後
に管理すること。
略)
」
。
②
「湊」
(水域)および中洲の小島
「奥武山」は、那
この
「船屋」の場所は
「大瀬」の後方、現在の那
覇の行政支配下に属すること。
覇バスターミナル付近で、渡地前の干潟を掘削
③浮徳銭
(雑税)の収入があり、この財源をもと
して繋留地
(船溜まり)を新設したのである。そ
に
「水蔵」を方々に設けること。なお、この浮
して、親見世役人から那覇里主・御物城・船手
徳銭の一部は、入港船から徴収する一種の港
奉行らに次のように通達された。
「右の場所は
湾使用料であったと考えられる。
大和船の居場
(船溜まり)とするよう指示された
以上、
「ヤマト船」と
「港湾施設」の問題に焦点
ので、今後は、先島船や地下馬艦船の居場とし
をあて、船の繋留地
「船屋」の新設をめぐる具体
て使用しないようお願いしておいた。万が一、
的状況について王国時代の親見世日記から明ら
馬艦船を引き入れないとならない場合には既存
かにした。19世紀に来琉したフランス人宣教師
の居場以外に、新たに掘り調えて
(そこに馬艦船
フォルカード神父は、渡地付近に船が停泊する
を)
引き入れさせるようにしてほしいとお願いし
現状を目の当たりにし、その日記に興味深く記
ておいた。
(後略)
」
という。つまり、ヤマト船を
述している。
優先的に繋留させる措置をとったのである。
1844年5月1日─
(国場)
川を遡って行くと、大型のジャ
さらに
「親見世日記」二月六日条は、こう述べ
ンクが少なく見積もっても十五隻は停泊している。水夫たち
ている。
「渡地前の干潟に大和船の居所
(繋留
地)を許可していただきたい旨の要請があった
ので、その通り確かに許可した。ついては、右
の髪型からすると、船はどれもこの国
(琉球)
か日本のもので
あり、中国人はその影すらなかった。われわれは造船所の前
を通り過ぎたが、
そこでは大勢の職人たちが、
完成間近のジャ
ンク船の仕上げに精を出していた。
の居所を掘削する際は、那覇役人と船頭がそれ
フォルカードらが眼にした
「造船所」とは、渡
ぞれ協議して掘削するよう
(御奉行所側から)指
地の対岸に位置する
「スラ場」にちがいない。ち
示していただきたい旨、御附けの衆へ連絡して
なみに、同じ渡地エリアの
「唐船小堀」は、中国
おいた。この間に提出された絵図の通り、支障
への進貢船の繋留地である。この停泊施設が公
のない場所に掘削するよう御国
元
(薩摩)
の船々(船頭)
へ申し渡
すようにせよ」
と。──この趣旨
は掘削工事にあたり、ヤマト船
頭と那覇役人らがよく協議する
こと。換言すれば、独断専行で
工事を進めてはならない。その
ことを在番奉行所から薩摩の船
頭らに指示してほしい。また、
役所に提出した
「絵図」をもとに
工事を実施するよう命じてい
る。さらに、
「親見世日記」二月
十五日条では、港湾管理行政の
基本方針、および住民の役負担
について詳述している
(前掲史
図-2 那覇市街図(明治初年)
11
2015. 新北風 October
No.74
的に整備されたのは、ヤマト船のそれに先立つ。
の間に船を乗り入れ、翌7日徳之島の屋久泊へ
史書が伝える
「往昔」の世だとすれば、おそらく
漕ぎ寄せた。ところが、8月10日に大風のため
古琉球時代にさかのぼる
(
『球陽』附巻二、なお
船が損壊し、乗員18名のうち4名が死亡。残り
貞王二十二年条)
。
の14人は
「大帆柱」に取りすがって、8月11日に
徳之島の松原村海岸に流れ着き、かろうじて命
3.島々を結ぶ海上交通
18世紀には蔡温が主導した王府の海運奨励
策
*注)
もあり、那覇から山原方面や離島まで物
拾いした。船道具や衣類、食糧すべてを失った
彼らは、現地で食糧米三石五斗を拝借し、徳之
島代官所が手配した三艘の船に分乗し那覇まで
産を積みこんで商売に行く馬艦船
(地船)がしだ
送り届けられた。
いに増え、海上交通が活発化した。次の事例は、
この漂着民の送還例からも明らかなように、
久米村の翁長が所有する十二反帆馬艦船の
「漂
18世紀後半、王府の海事行政で
「船改奉行」は、
着」事件である。その乗組員名と出身地を表に
奄美・琉球諸島における
「海難事件」に対処する
まとめて示す
(乾隆七年「親見世日記」前掲書、
必要があった。それらの情報は必要に応じて
「親見世」
「那覇里主」
「御物城」の王府の関係部署
p.14 ~ 17)
表-1 馬艦船の乗組員構成
(計14名)但し、海難の死亡者4名を除く
区分
(出身地)
名 前 人 数
船主
(久米村)
翁長にや 1
船頭
(渡地村)
冨名腰 1
水主
(東村)
与那嶺・小橋川・仲村渠 3
水主
(西村)
平良・新垣・照屋 3
水主
(渡地村)
国吉・島袋・友寄・高良・
比嘉・棚原・大城 7
はもちろん
「在番奉行所」などにも通報される仕
組みであった。近世の海事行政においては船舶
に対する通航証明
(通り手形)の発給と点検、米
や砂糖など年貢の積載手続き、漂着民の保護送
還、あるいは不正行為
(いわゆる抜け荷)の摘発
など、じつに多様な仕事があった。こうした諸
問題に適切に対応するため関係部署で必要な情
報
(公文書)をやりとりする行政システムが機能
することで、王府の海事行政がはじめて円滑に
表を一見して判るように、
「渡地村」の水主が
遂行されたのである。
多い。現在の那覇埠頭の一角にあった渡地は、
先述したヤマト船のほかにも、琉球の馬艦船
かつて対岸の垣花への渡り口であり、山原船や
や道之島
(奄美)の船が頻繁に那覇に入港してい
馬艦船のほかに先述のヤマト船も多く停泊し
た。次に、乾隆七年・同九年の
「親見世日記」か
た。琉球船には
「船手座」から通航許可証
(通り
ら具体的に挙げてみよう。
手形)が発給され、この手形を必要に応じて提
示し、違法な積荷の有無などをチェックする仕
◆1742(乾隆7)
年の那覇入港船
組みであった。帆船は、風向きと天候次第だか
①三枚帆船
(沖永良部島船、田皆村の兼治)─大
ら遭難するリスクも高い。
次に乾隆7年
(1742)の
「親見世日記」の関係文
書から、ある船の航跡を追ってみよう。船頭の
冨名腰をはじめ乗員18名の船が、8月朔日に那
覇を出帆して羽地間切真喜屋村へ商売にでかけ
た。あいにく逆風のため
「瀬底島」でひとまず停
泊し順風を待つことになり、8月4日に瀬底島
を出帆する。しかし、ふたたび天候不順で伊江
島、伊平屋島、今帰仁村の運天辺りまで潮に流
された。8月6日、ようやく徳之島と奄美大島
※注)真栄平房昭
「蔡温の海事政策─島嶼海域史の視点から
─」
『しまたてぃ』
No.38、を 参照。 12
No.74
2015. 新北風 October
島へ行く途中、逆風で那覇に漂着
②五枚帆馬艦船
(船頭は泊村の比嘉にや)─八重
山年貢米運送船、逆風で薩摩に漂着
③十三枚帆馬艦船
(船頭は久米村の徳田)─9月
22日山川出港、同25日那覇入港
④春先楷船
(船頭は久米村の和宇慶)─薩摩へ派
遣された王府の公用船
⑤十二枚帆馬艦船
(船頭は久米村の高良)─大島
から那覇に帰港
⑥三枚帆船
(徳之島船、宰領人は盛里)─徳之島
に漂着した久米村の馬艦船乗組員8名を那覇
に送還。なお、この漂着船については、後に
れている。このように日用品の壺を天秤棒で担
詳しくふれる
⑦五枚帆船
(徳之島船、宰領人は嶺澄)─徳之島
いで売り歩く者や、サンシンを持ち歩く琉球の
放浪芸人
(乞食)もいたようだ。彼らも島々を結
に漂着した琉球人5名を送還
⑧三枚帆船
(徳之島船、宰領人は嶺喜)─徳之島
ぶ海上交通を利用したにちがいない。
に漂着した琉球人3名を送還
4.砂糖の輸送船
◆1744(乾隆9)
年の那覇入港船
①三枚帆船
(沖永良部島船、瀬利覚村の船頭兼
治)
─那覇に入港
次に、船の積荷についてみてみよう。那覇か
ら鹿児島向けの最も重要な移出品といえば、も
②五枚帆船
(与論島船、麦屋村の船頭克村)-那
覇に入港
ちろん
「黒砂糖」である。各間切から集められた
貢糖は那覇の
「砂糖座」に集積されたのち、在番
③三枚帆船
(沖永良部島船、瀬利覚村の船頭上
保)
奉行所役人の立ち会いで点検、船積みして鹿児
島へ運ばれた。こうした
「砂糖輸送船」の具体的
④四枚帆船
(沖永良部船、瀬利覚村の船頭上治)
─農具購入のため来航。乗員11名
なイメージを知る手がかりが、1837( 天保8)年
那覇に寄港した米国船モリソン号の航海日誌に
みえる。
以上のように奄美の島々から琉球へ往来した
具体的状況が明らかである。注目すべきは、④
沖永良部船が
「農具」を買う目的で琉球にやって
来たことである。農耕に欠かせない
「農具」をわ
ざわざ沖永良部島から那覇まで買い出しにでか
けたのはなぜか。おそらく鉄製農具が不足して
いたためであろう。島では容易に入手し難い鉄
一隻の日本船が薩摩へ向けて出帆した。この船には島
の主要な輸出品である砂糖が積まれているということで
あるが、われわれの知り得る情報によると、その輸出量
は年々約195000ピクル
(斤)に達するという。この日本船
は、ある点においては中国のジャンクより、はるかに大
きな航海能力をもっている。その型は立派で、船首は鋭
くとがっている。
(中略)その船尾には、
「宝山丸」という
船の名が銅製の文字で付けてあった。
の流通状況の一端を知る上で興味深い。ちなみ
那覇を出帆する砂糖輸送船のイメージが鮮明
に、砂糖キビの汁を煮詰める際に用いられる大
である。この
「宝山丸」とは、薩摩屈指の豪商・
型の
「鉄鍋」などもヤマト船で運ばれた。農具や
浜崎太平次の持ち船であった。浜崎家は、指宿
鍋といった一見、海と無縁なモノの移動に海上
十二町湊の海岸に造船所を設け、最盛期には
交通の歴史が関わるのは、いかにも島嶼社会ら
三十数艘を所有していた。
「太平次」を代々襲名
しい。船で移
し、六世・太平次は藩主斉宣に指宿別荘を献納
動する人びと
した見返りに稲荷丸の手形を受け、海運業の特
には、ほかに
権を得る。八世・太平次は、
十四歳で琉球に渡り、
遊 女、 乞 食、
那覇で仕入れた黒糖・反布など琉球物産を大坂
行商人、職人
で売り、財をなしたといわれる。
な ど も い た。
天保期には奄美大島・喜界島・徳之島の
「三
幕末の奄美大
島黒糖専売制」が強化され、藩による積極的な
島の生活風景
「御用船」育成策が推進された。これによって三
を絵入りで書
島の砂糖回送業を藩から請け負った御用商人浜
き綴った名越
崎家は巨利を得ることができ、幕末期の全国長
左源太の
『南
者番付の上位にも名を連ねた。
島雑話』をみ
19世紀半ばには、こうした浜崎船をはじめ、
ると、琉球の
薩摩の海商たちのヤマト船が黒砂糖その他の南
渡名喜島から
島物産を積みこみ、奄美・琉球海域を多数往来
やって来た
したのである。
図-3 サンシンを持ち歩く放浪芸人
(『南島雑話』の「乞食」)
「壺売」
が描か
13
2015. 新北風 October
No.74
HistoryⅢ 歴史Ⅲ
那覇港の成立と機能維持、そして現在
外間 政明
那覇市歴史博物館
HOKAMA Masaaki
※本稿はNo.16の論文に加筆・修正を加えたものである。
1.はじめに
住するにともない、交易港としての機能は、那
沖縄の万葉集ともいわれ、 13 ~ 17世紀にか
覇に整備されるようになった。
けて詠われた歌を集めた「おもろさうし」に次の
それでは、那覇がどのようにして琉球王国の
歌がある。
玄関口として位置付けられていったのであろう
しより おわる てだこが
か。
うきしまは げらへて
結論的にいうと、
たう なばん よりやう なはどまり
歌の大意は、 首里に居る国王が「浮島」
(那覇)
①那覇は三山
(琉球)を統一した中山政権のお
膝元であったこと
を整備したので、 那覇港は中国や南蛮からの船
②大型の船が入港できる水深があったこと
で賑わいを見せている、 というものである。
③交易を支える航海指南役、通事
(通訳)など
まさしく歌のとおり、 15世紀の琉球王国は中
職能集団が存在したこと
国をはじめ、 東南アジア、 朝鮮、 日本などと交
などが考えられる。
易し、 浮島と呼ばれた那覇は各国の船で賑わう
①については、1406年に尚巴志が中山王武寧
港町であった。 16世紀後半以降、東南アジア交
を滅ぼし、それ以降、首里に王城を整備したこ
易の衰退、薩摩藩の琉球侵攻
(1609)により、王
とから、浮島
(那覇)は王城から見下ろせる場所
国の交易は中国のみに限定された。しかしその
に位置し、船の出入り、外国人の居住等に対し、
後も那覇港は、中国からの冊封使者を乗せた
「御
管理しやすかったと思われる。
冠船」や中国への
「進貢船」等の発着場として整
②については、大型船就航の際に重要となる
備され、現在に至るまで琉球王国・沖縄県の海
港湾内の水深の問題である。当時の水深につい
の玄関口として機能している。
ては、泊港、那覇港ともに詳細は不明であるが、
ここでは那覇港の成立、その機能維持、さら
周知のとおり、沖縄は珊瑚礁に囲まれているた
には現在に至る那覇港の変遷を概略する。
め、現在でも船の座礁がしばしば起こっている。
泊港は安里川の河口北側に位置するが、安里川
2.那覇港の成立
の河口は、崇元寺の先から広がりを見せたもの
前述したように、那覇は浮島と呼ばれ、1451
であった。1451年に崇元寺の地先から浮島に架
年崇元寺からイベガマ
(現松山交差点付近)に
けて築造された長虹堤により、上流から流れる
「長虹堤」
(海中道路)が架けられるまで、泊、牧
土砂の堆積が著しくなったといい、後には干潟
志、泉崎の対岸に浮かぶ島であった。このため
が形成され
(俗にいう「潟原」)
、この地では1694
12 ~ 14世紀にかけては、当時琉球の中心地で
年には入浜式の製塩が行われた。このように泊
あった浦添や首里から水路・陸路とも交通の便
港付近の水深は、次第に、もしくは当初から中
がよかった牧港や泊が主要な港であったといわ
国や日本と琉球を結ぶ外航船の発着には向いて
れる。特に泊
(泊港)には、宮古・八重山・奄美
いなかったものと思われる。これに対し那覇港
諸島からの船が出入りし、これらの島の事務を
は、久茂地川・国場川が合流する河口に広がる
取り扱う
「泊御殿」や貢物を収納する
「大島倉」が
港で、当時の大型船である御冠船・進貢船
(全
置かれていた。しかし、次第に那覇に人々が居
長約40m、全幅約10m)
といった外航船のほとん
14
No.74
2015. 新北風 October
がたばる
どが那覇港を発着していることから、那覇港の
水深は、それらの船に対応できていたのであろ
高シー
う。
安謝川
潮満原
が、閩人三十六姓といわれる福建省出身の帰化
中国人が存在したことである。浮島を拠点とし、
天久
東シナ
海
また、③については、これが一番重要である
さらに久米村
(いわゆるチャイナタウン)を形成
文書作成など重要な役割を担い、琉球の交易を
波の上
浮島
玄関として整備されていった。
卍
泉崎
渡地
御物域
ー
キ
タ
バ
赤
ヤラザムイグスク
屋良座森城を築くなどして、那覇港は王国の表
沖の寺
君南風
ミーグスク
停泊所)
などを整え、港の防御としても三重城・
崇元寺
ブ川
ガー
スラ場
(造船所)
、唐 船小掘
(進貢船等の修理・
住吉
通堂崎
トウセングムイ
東村
西村
西の海
オモノグスク
長虹堤
美栄橋
辻山
て位置付けたのである。さらには、交易品を納
める御 物城、冊封使を迎える迎恩亭、天使館、
前島
潟原
三重城
屋良座森域
これらの要因が結びつき、那覇を交易港とし
泊前道
夫婦岩
貢貿易に従事した。主に航海指南、通訳、外交
支えてきた。
泊兼久
して定住するようになり、琉球から中国への進
奥武山
鵝森
3.那覇港の機能維持
(王国時代)
漫湖
15 ~ 16世紀にかけ、海外交易の窓口として
川
国場
定着した那覇港ではあるが、現在のように大型
船が接岸できるようになったのは、廃藩置県後
の明治40年
(1907)から大正4年
(1915)にかけて
図−1 1700年頃の那覇の海岸線
の那覇港築港工事によるものである。しかしそ
工事は大きく3つに分けて行われた。まず那
れ以前は、御冠船や進貢船等の大型船は暗礁等
覇港上流の田地を廃し、川底の泥土を浚い、川
を避け接岸せず、三重城・屋良座森城に囲まれ
筋を元に戻した。次に渡地
(現通堂付近)から三
た港内に停泊、人・荷物の運搬・荷卸は、はし
重城との間に5つの橋
(
「上り口説」で有名な中
け船に頼らざるを得なかった。さらに、川の上
之橋など)を架け、
「西の海」
(現西2~3丁目付
流から港に流れ込む土砂の堆積は船の乗り入
近、明治20年~ 30年代にかけ埋立)と港内の潮
れに大きな影響を及ぼすため、近世期
(廃藩置
の流れをはかった。さらに、久茂地川に架かる
県以前)
、特に冊封使来琉の前には、幾度とな
橋を改修し、上流からの水の流れをよくした、
く浚渫工事が行われた。とりわけ1717年に行わ
とある。特に橋
(石橋)の築造は泥土堆積を防ぐ
れた浚渫工事は、工期1年4ヵ月、従事者数
のに効果があったようで、明治40年からの築港
約7万人にも達する大工事で、竣工後に記念碑
工事の概要をまとめた
『那覇築港誌』
(1916年)に
しんしゅんなはこうひぶん
「新濬那覇江碑文」
が建てられた。
ワタンジ
トンドウ
は、明治40年の工事着工以前の那覇港の様子を
この碑文により当時の工事内容を知ることが
「
(前略)突堤
(渡地から三重城に至る浮道…筆者
できる。それによると、人々が那覇港の上流
(国
注)を築き、水路を狭め、水準を高め、流力を
場川・饒波川)で木々の伐採・開墾を行い田地
大ならしめ、潮流の作用に依り、上流より下る
を開いたため、川筋も変わり、土砂が那覇港に
土砂を港外に流出せしめ、以て其湾内に沈殿す
流入している、と述べている。この状況を受け、
るを防ぎ
(後略)
」
と述べている。
中国からの冊封
(1719年冊封使来琉)を控えた国
以上のことから、当時は、那覇港内をある程
王尚敬は、家臣に那覇港浚渫を命じた。
度一定の水深を保つため、上流において土砂流
15
2015. 新北風 October
No.74
出を未然に防ぐのはもちろんのこと、潮や川の
等の増加により、大正10年
(1921)から昭和7年
流れに手を加え
(橋の築造など)
、自然の力を最
(1932)にかけ第2期工事が着手された。第2期
大限に生かして土砂の堆積を防ぎ、船の航行に
工事では、護岸の延長や水深の増加を図るとと
不便をきたさないようにしたのである。
もに、特に港内の幅員を広げるため、垣花にあっ
その他、那覇港の浚渫については
『球陽』
や
『家
た監獄舎の移転や屋良座森城に延びる突堤をほ
譜』といった史料に出てくるが、具体的な内容
ぼ直線にするなど、南岸
(垣花)側の護岸整備・
は記されておらず、どのような工事が行われた
浚渫工事が進められた。この結果、第一桟橋
(通
かは不明である。しかし1717年の工事以降も、
堂側)
約255mに4,500トン級汽船1隻、第二桟橋
(渡
上流や橋付近の泥土浚い、橋の修築といった工
地側)
約218mに2,000トン級2隻が繋留できるよう
事が繰り返し行われ、那覇港の機能維持に努め
になり、港内で船の反転も可能となった。
たと思われる。
那覇港の近代的整備により、沖縄特産である
黒糖・泡盛・パナマ帽などの輸出も順調に推移
4.近代の築港工事
し、さらに昭和12年
(1937)からは大阪商船が阪
明治12年
(1879)の廃藩置県により日本の一県
神航路に4,700トン級の波之上丸・浮島丸を就航さ
となった沖縄県には、汽船が就航し、本土から
せ、本土からの沖縄訪問団を企画するなど、観
役人や商人をはじめ、大量の貨物が運び込まれ
光地沖縄の足掛かりを作った。
るようになった。以降、大型汽船の就航にとも
ない接岸要請が高まったが、王国崩壊により港
5.戦後の那覇港
の管理が行われなくなり、那覇港修築は歴代知
沖縄の海の玄関口として整備された那覇港で
事の重要な課題だったといわれる。
あったが、太平洋戦争中の昭和19年
(1944)10
月10日のいわゆる10・10空襲では、第1次の小
禄飛行場に続き、第2次攻撃で那覇港が集中的
に攻撃され、繋留船がことごとく沈没し、護岸
が破壊され、港内倉庫に収められた食料品・軍
事物資も灰燼と化した。昭和20年
(1945)5月に
那覇に進撃した米軍は那覇港を占領し、沖縄戦
中から沈没船の処理、港の機能復旧を行い、本
土進攻に向け、那覇港南岸
(垣花側)
を敷き均し、
米軍港として軍事物資の集積所とした。
写真−1 築港以前の那覇港。明治30年代
米軍による那覇港での港湾作業は、終戦後は
捕虜となった日本兵にさせていたが、日本兵の
明治38年
(1905)
、初めて那覇港の本格的調査
本土への引き揚げにともない、米軍は、昭和21
が行われ、調査をもとに明治40年から那覇港築
年
(1946)12月に沖縄住民約2,000人による港湾
港工事が着手された。この工事はいまでいう
作業隊を組織させ、那覇港奥に浮かぶ奥武山
国庫事業で、暗礁の除去・港内の浚渫、北岸
を中心に山下町・壺川・楚辺一帯を居住地域とし
(通堂)側の護岸工事・埋立等を行い、大正4年
た。この一帯は、昭和22年
(1947)5月1日付け
(1915)の工事終了により干潮時の最大水深約7
で特別行政区「みなと村」として、村役場・学校
m、1500トン級内外の船3隻が接岸できる港とし
などが置かれたが、昭和25年
(1950)に米軍の港
て整備された。これと同時に県営鉄道
(通称:
湾作業は民間に委託されたため、「みなと村」は
軽便鉄道)の線路を引き込み、貨物運搬の便も
存在意義がなくなり、同年8月に那覇市に編入
図られた
(
『那覇築港誌』1916年)
。
された。
この工事により大正4年から鹿児島・那覇間
米軍に占領されていた那覇港は、昭和26年
の定期航路が開設されたが、その後の移出入量
(1951)7月に琉球列島米国民政府布令第47号等
ちくこうし
16
No.74
2015. 新北風 October
輸出入貨物の処理能力
(約140万トン)は、限界に
達したといわれた。このため、那覇市では、昭
和38年
(1963)から泊~安謝間の公有水地埋立工
事に着手し、昭和44年
(1969)からは安謝の地先
に港湾建設工事を着手した。昭和46年
(1971)に
一部供用が開始され
(安謝新港)
、那覇・泊両港
の混雑緩和につながった。
写真−2 米軍が占領した那覇港
により、那覇港北岸地域
(通堂側)が那覇商港と
して琉球政府に移管された。しかし、北岸の護
岸整備は未完成のままで、当時は4,500トン級船舶
1隻しか接岸できなかった。その後、ターミナ
ルビル・護岸整備が進み、昭和32年
(1957)には
北岸岸壁全てが整い、25,000トン級1隻、20,000ト
ン級1隻、10,000トン級2隻が同時に接岸できるよ
写真−4 埋め立てが進んだ安謝新港(現新港ふ頭地区)
うになった。
昭和47年
(1972)の沖縄の本土復帰にともな
一方この間、米軍の手により港湾建設が進め
い、那覇商港の管理が琉球政府から那覇市へ移
られていた泊港は、那覇市の都市計画事業
(現
管され、那覇市は那覇港・泊港・安謝新港3港の
前島3丁目一帯の埋立)と相まって、昭和28年
一元管理者となった
(現在は沖縄県・那覇市・浦
(1953)1月、米国民政府から那覇市へ泊港の管
添市からなる那覇港管理組合管理)
。さらに復
理が移管された。翌年の工事完了により、8つ
帰により、3港を合わせた那覇港
(那覇埠頭・泊
の岸壁と漁船用の船だまりを備え、最大3,200トン
埠頭・安謝埠頭、現在では浦添埠頭も含む)が港
級の船も接岸できるようになった。泊港は、那
湾法にもとづく重要港湾に指定された。
覇港が整備される間、宮古・八重山からの内航
船、日本本土からの外航船が集まり、煩雑を極
6.おわりに
め、積み下ろされた荷物を受け取るにも数日を
かつての那覇港周辺は、1944年の10・10空襲
要した日もあったという。
で壊滅的な被害を受け、戦後は米軍の手による
那覇港・泊港が整備されてからも、1960年代
港湾整備・軍事基地化、また都市開発により、
以降、日本経済の飛躍的発展もあり、両港での
その景観は戦前と比べ大きく変化した。さらに
復帰後は、港湾整備計画にもとづき、緑地整備、
波之上橋・泊大橋・うみそらトンネルに代表さ
れる臨海道路の開通など、海と空を結ぶ沖縄の
物流環境は目覚ましい発展を遂げている。
現在、往時の那覇港を思い浮かべるのは不可
能であり、また三重城・屋良座森城に延びる突
堤や泉崎橋の建築技術を確認することができな
いのも残念である。このような中、わずかに往
時の那覇港の名残をとどめる三重城・御物城が
港内に鎮座し、変遷を遂げる那覇港を静かに見
写真−3 煩雑を極めた泊港
守っているかのようである。
17
2015. 新北風 October
No.74
TechnologyⅠ 技術Ⅰ
那覇港の港湾整備
〜復帰後の那覇港整備とこれから〜
花田 祥一
沖縄総合事務局開発建設部
港湾計画課 課長
HANADA Shouichi
1.はじめに 那覇港の概要
はじめとする南方諸国との海外貿易により栄
那覇港は、那覇市から浦添市にかけての海岸
え、本県の貿易の拠点として、発展してきた。
線にある、港湾法上の重要港湾である。
当時の那覇港内の面積は4万有余坪で、港口は
平成25年は、那覇空港で取り扱われる航空貨
非常に狭く幅員40間
(約72m)程度、また水深が
物量約38万トンに対し、那覇港における総取扱
浅く、地質はおおむね隆起珊瑚礁よりなり所々
貨物量は約1021万トンと、海上貨物が占める割
に岩礁が起伏しており、大型船の出入港は困難
合は約96%となっている。生活用品や食料品を
であった。
(図-1)
本土から移入するなど、離島県沖縄における大
動脈を担う流通港湾として、非常に重要な役割
を果たすとともに、先島諸島への輸送の中心と
して、また本島周辺離島や大東島への輸送拠点
としての役割を担っている。
那覇港は、那覇ふ頭、泊ふ頭、新港ふ頭、浦
添ふ頭の4つのふ頭で構成されている。
那覇ふ頭地区は、セメント船、穀物船等が利
用するほか、鹿児島航路のフェリーの拠点と
なっている。泊
(とまり)ふ頭地区は、周辺離島
の生活や観光を支える離島フェリーや、主に外
国からのクルーズ船が利用する大型旅客船ター
ミナルを有する拠点となっている。新港ふ頭地
区は、沖縄県の経済流通の中心として機能して
いる、外内貿貨物の物流拠点である。浦添
(う
らそえ)ふ頭地区は、生活関連用品を扱う内貿
貨物の物流拠点である。
平成14年には沖縄県・那覇市・浦添市で構成
する一部事務組合である那覇港管理組合が設立
され、港湾管理者として港湾の整備や管理・運
営を行っている。また、港湾施設整備のうち規
模の大きな工事などは、国の直轄事業として那
図−1 那覇港絵図(沖縄県立博物館所蔵)
覇港湾・空港整備事務所が担当している。
戦争により壊滅的な打撃を受けた那覇港で
あったが、昭和29年までに米軍により港の各施
2.那覇港の整備 昭和期の開発
設の再建が行われた。一方で、日本は高度経済
那覇港は沖縄本島の南西端に位置し東シナ海
成長期に入り、港の利用が活発になったことを
に面した歴史的にも沖縄唯一の要港であった。
受け、安謝地先への新たな港が必要とされ、整
室町時代に成立した琉球王朝は、中国、朝鮮を
備が進められた。
18
No.74
2015. 新北風 October
昭和47年の復帰時点では、新しい埋立地に建
の離島地域への離島定期船及び大型旅客船が発
物が建ち、多くの船舶により岸壁の利用が目立
着するターミナルとして機能している。
ちはじめてきた。
(図-2)
復帰後も着実に港の整備が行われ、沖縄の物
3)
新港ふ頭地区
流の基礎が築かれた。
昭和40年代に旧那覇港・泊港の両港における
港湾の取扱能力が限界に達したことを受けて整
備が開始された。
復帰直後より、岸壁の整備が着手され、昭和
48年には最初のバースである新港ふ頭4号岸壁
(水深7.5m)
及び5号岸壁
(水深11m)
が完成して
いる。その後も着実に整備は進み、昭和57年に
は4つ目のバースとなる新港ふ頭7号岸壁
(水
深11m)が完成した。現在のRORO船が発着す
図−2 那覇港全景(昭和47年9月)
る岸壁は概ねこの時期に整備されている。
このころになると、新港ふ頭を利用する貨物
の増加に伴い、周辺道路は日夜渋滞するように
1)
那覇ふ頭地区
なった。そこで、臨港道路の建設が進められた。
那覇ふ頭から漫湖にかけての位置に広がって
しかしながら、ふ頭間の連結には海上部分を通
いた旧那覇港の一部で、15世紀に尚巴志王が琉
らねばならず、また港を発着する船舶の通航の
球三山を統一して以来、日本を始め、海外諸国
妨げにならないようにする必要があることから、
との貿易港として発展したところである。
工事には相当の時間がかかった。昭和58年の波
戦後は米軍による整備が行われ、昭和28年に
の上橋の完成、昭和61年の泊大橋の完成を経て、
現在のふ頭部分が琉球政府に移管されてほぼ現
明治橋から新港ふ頭までの臨港道路が現在のよ
在の姿となった。現在は、主に軽工業品、金属
うな形になるまでに12年の歳月を要した。
機械工業品等の内貿貨物の取扱を行うほか、奄
また、台風の常襲地域である沖縄においては、
美・鹿児島方面のフェリーの拠点として機能し
荷役の安全などを確保するため、防波堤が不可
ている。
(図-3)
欠であった。昭和58年には新港第一防波堤が概
成し、航行船舶の安全性が高められた。
(図-4)
←新港第一防波堤
那覇ふ頭船客待合所
図−3 那覇ふ頭地区(平成26年3月)
図−4 那覇港全景(昭和61年1月)
2)
泊ふ頭地区
4)
浦添ふ頭地区
本島北部地域
(山原)や本島周辺離島との連絡
昭和50年代も後半に入ると、新たな物流・流
港として発展し、戦後米軍による改修をへて昭
通拠点の整備が求められるようになった。昭和
和29年に那覇市に移管された。現在は、久米島、
60年には浦添第一防波堤工事に着工、昭和61年
粟国島、渡嘉敷島、座間味島、南北大東島など
には浦添ふ頭地区の水深7.5m岸壁工事に着工し
19
2015. 新北風 October
No.74
ている。昭和63年には、なうら橋が着工され、
始めた。平成18年には2バース目
(10号岸壁)が
那覇港は北へ北へと拡がることになった。
(図
供用している。
(図-7)
-5)
9号(-13)300m
10号(-13)300m
那覇新港ふ頭
船客待合所
内防波堤(北)
7号(-11)420m
1号
2号
(-7.5)650m
3号
4号
5号
図−7 新港ふ頭地区(平成26年3月)
那覇港国際海上コンテナターミナルとして、
図−5 浦添ふ頭地区(平成26年3月)
北米からのコンテナ船も利用しており、現在で
は全長600mの岸壁、4基のガントリークレー
ンが稼働し、能率の高い荷役作業が行われてい
3.那覇港の発展 平成期の成長とこれから
る。
(図-8)
沖縄の物流を高度化させ、旅客がより快適に
利用できるようにするため、那覇港の整備が進
められた。内貿ターミナルの拡張、
コンテナター
ミナルの整備、離島ターミナル・クルーズター
ミナルの整備、那覇空港との連携の強化などで
ある。一方で、船舶の大型化や物流・人流・交
流のための空間確保など、解決すべき課題も明
らかになってきた。
(図−6)
図−8 コンテナ船荷役状況(平成27年5月)
今後も、貨物の拠点・ハブ機能を向上させる
ための総合物流センターの整備などが予定され
ており、より効率的な物流体系の構築が図られ
ることが期待されている。
また、現在ではそのストック効果を生かし、
他の岸壁に停泊できない大型クルーズ船の受け
入れなどが行われている。
(図-9)
図−6 那覇港全景(平成25年8月)
1)
コンテナターミナル
世界的な貨物のコンテナ化・船舶の大型化が
進むとともに、那覇港においてもそれに対応す
るための施設が求められるようになった。
平成元年に着工した新港ふ頭地区の水深13m
岸壁は平成9年に1バース
(9号岸壁)が供用
し、平成10年にはガントリークレーンが運用を
20
No.74
2015. 新北風 October
図−9 大型クルーズ船接岸状況(平成27年8月)
一方、岸壁周辺には浅い箇所があるため、コ
れ、効率性、安全性、快適性の高い港湾空間で
ンテナ船のための十分な水深が確保できていな
あるとともに、イベントが行われるなど、交流
い状況にあり、大型化する船舶への対応が課題
拠点となっている。
となっている。
また、クルーズ船については、平成21年に泊
ふ頭地区8号岸壁
(若狭バース)が暫定供用し、
2)
臨港道路
その後もターミナルビル
(平成26年4月供用)
港湾の拡張に対応するとともに、増大する自
やアクセス道路
(臨港道路若狭2号線:平成26
動車交通が慢性的な交通渋滞を起こすようにな
年8月供用)が整備され、現在もバス等駐車ス
り貨物輸送にも影響があったことから、臨港道
ペース確保のため岸壁の拡張整備が進められて
路の充実が求められた。
いる。活性化するクルーズ需要を受け、本年も
平成に入ってから浦添ふ頭地区の整備が進
100隻を超えるクルーズ船を受け入れる予定と
み、平成5年にはなうら橋が開通し、浦添ふ頭
なっているなど、沖縄の観光振興に寄与してい
地区の岸壁も順次整備され、現在は8バース
(水
る。
(図-11)
深7.5m×7バース、水深9.0m×1バース)の岸
壁が供用されている。平成7年にはキャンプ・
キンザー沖への港湾区域の拡張が港湾計画に位
置づけられ、現在は臨港道路浦添線が整備中で
あり、本島中北部へのアクセス向上が図られる。
(図-10)
くう じゅ ざき
空寿崎
本線
図−11 クルーズターミナル(平成26年10月)
一方、近年のクルーズ船の大型化は著しく、
工事用仮設橋
キャンプキンザー
16万トンクラスのクルーズ船は利用できない状
況になっている。現在は国際コンテナターミナ
いり じま
西洲
ルにおいて受け入れができているが、クルーズ
客、港湾荷役の両面から不都合も生じている。
図−10 臨港道路浦添線(橋梁部)
(平成27年7月)
複数の船舶の同時受け入れや、今後も大型化が
また、空港線
(うみそらトンネル)は沈埋トン
なっている。
見込まれる船舶の受け入れへの対応が課題と
ネル方式により整備され、空港やその周辺と港
湾を連結し、物流などを円滑に行うために整備
4.おわりに
され、平成23年に供用した。空港と港湾の一体
本稿では、沖縄の玄関である那覇港の変遷に
的利用が期待されている。
ついて、時代の要請に応えつつ整備が行われた
さらに、臨港道路若狭港町線が整備中であり、
ことを述べてきた。現在も、那覇港の関係者が
さらなる物流の円滑化が図られることになる。
工夫し、港湾のインフラストックを十分に生か
しながら様々な船舶を受け入れている。
3)
旅客ターミナル
しかしながら、めまぐるしく変化する周辺環
泊ふ頭において、人流を活性化させる施設整
境は、新たな課題も示している。これらの課題
備が進められてきた。
の解決に向け、関係者との連携を深めつつ、よ
離島航路については、平成7年にショッピン
りよい那覇港づくりに向け努力していきたい。
グや飲食店、ホテルなども備えた複合的な離島
ターミナルビルである
「とまりん」などが整備さ
21
2015. 新北風 October
No.74
TechnologyⅡ 技術Ⅱ
那覇港の現在と港湾計画
比嘉 世顕
那覇港管理組合
企画建設部 計画課長
HIGA Seiken
96%
(航空貨物約40万トン、港湾貨物約1,032万
1 はじめに
読者の皆様は、那覇港と聞いて何を連想しま
トン
(2014年速報値)
)と圧倒的に海上輸送の占
すか。大型クルーズ船、キリンを連想させるガ
める割合は大きい。
(図−1)
ントリークレーン、波の上ビーチ、慶良間・久
大型クルーズ船の入港、周辺離島やホエール
米島などへ向かう泊港
(泊ふ頭)等様々あるかと
ウォッチングへ向かう観光客の姿など観光振興
思います。
を中心とした人流の面において話題となること
那覇港は、その昔から天然の良港としての特
が多い那覇港であるが、島嶼県である沖縄にお
性を活かし、15世紀頃から琉球王府と日本、中
いて、港湾
(とりわけ那覇港)は、海上輸送によ
国、朝鮮、東南アジア諸国との交易の拠点とし
り国内外を結ぶ玄関口として、県民生活を維持
て栄え、今日まで沖縄の海の玄関として発展
するためのライフライン、産業振興を支えるた
してきた港であり、沖縄で消費される物資や沖
めに必要不可欠な物流拠点及びそのバックヤー
縄で生産される農水産物や軽工業品等、石油製
ドとしてのインフラ施設である。
品を除くほとんどの物資を取り扱っている。那
本稿では、那覇港の現状と課題、那覇港の施
覇港は、那覇ふ頭、泊ふ頭、新港ふ頭、浦添ふ
設整備の指針となる港湾計画
(平成15年3月策
頭の4ふ頭から成り、海域3,200ha、陸域600ha
定)
の改訂に向けた取り組みについて報告する。
の港湾である。県内重要港湾6港
(那覇港・中
城湾港・金武湾港・運天港・平良港・石垣港)
2 港湾計画とは
に占める那覇港の取扱貨物量
(公共貨物)の割合
港湾計画とは、一定の水域と陸域からなる港
は、国内貿易
(以下、内貿という)が約7割、外
湾空間において、開発、利用及び保全を行うに
国貿易
(以下、外貿という)が約9割である。現
あたっての指針となる基本的な計画で、港湾法
在、国際貨物ハブとして好調な伸びを続ける那
に規定されている法定計画である。
覇空港における航空輸送貨物と那覇港の取扱貨
港湾計画では、通常10年から15年程度の将来を
物量を比較すると那覇港の占める割合は、約
目標年次として、その港湾の開発、利用及び保
全の方針を明らかにするとともに、取扱可能貨
物量などの能力、その能力に応じた港湾施設の
県内重要港湾6港の取扱貨物量の割合
金武湾港
平良港 運天港
0.0%
3.6% 0.3%
石垣港
中城湾港
4.0%
5.6%
金武湾港
0.0%
金武湾港
0.0%
運天港
3.9% 中城湾港
7.8%
運天港
4.3% 中城湾港
8.0%
那覇港
86.5%
石垣港
6.2%
那覇港と那覇空港の取扱貨物量の割合
全に関する事項などを定めることになっている。
平良港
15.2%
平良港
16.3%
石垣港
6.0%
那覇港
65.1%
那覇港
67.0%
②特定ふ頭の運営者の認定等並びに行政財産の
平成26年
取扱貨物量
図−1 那覇港の取り扱い貨物量の割合
22
No.74
2015. 新北風 October
効果が期待できる。
る行為の許可等に係る判断基準が明確になる。
那覇港と那覇空港の取扱貨物量で、
那覇港の占める割合は約96%。
図-1 那覇港の取扱貨物量の割合
港湾計画を策定することにより、次のような
①港湾区域内
(海域)や臨港地区内
(陸域)におけ
那覇空港
3.8%
那覇港
96.2%
規模及び配置、さらに港湾の環境の整備及び保
貸し付けが可能となる。
資料:那覇港管理組合資料より作成
③将来の港湾機能を示すことにより、港湾利用
を考える企業にとって立地計画及び経営計画
の判断材料となる。
ころである。
(図−2)
④荷主、船社など港湾利用者をはじめ、住民、
那覇港港湾計画(平成15年3月に改訂)
目標年次:平成20年代後半
関係行政機関など多岐にわたる関係者の間で
合意形成を図る際の手段として港湾計画を利
・国際流通港湾機能の充実
用できる。
・港湾機能再編
③平成22年9月(軽易な変更)
・緑地を3箇所追加
・国際観光・リゾート産業の振興
・環境の保全と創出
⑤港湾関係の補助事業の予算採択や公的な事業
・安心・安全の確保
実施に係る行政判断を行う際、この判断基準
として港湾計画を利用できる。
⑤平成25年9月(軽易な変更)
那覇空港滑走路増設に伴う誘導路
①平成17年12月(軽易な変更)
泊ふ頭大型旅客船バース
3 港湾計画の改訂と「那覇港長期構想」策定について
那覇港港湾計画の変遷
④平成24年7月(一部変更)
臨港道路若狭港町線
②平成22年3月(一部変更)
・浦添ふ頭の土地利用計画見直し
・臨港道路浦添線の一部を橋梁化
資料:那覇港管理組合資料より作成
図-2 那覇港港湾計画(平成15年3月以降の変更)
図−2 那覇港港湾計画
(平成15年3月以降の変更)
資料:那覇港管理組合資料より作成
1972年
(昭和47年)
5月 沖縄県の本土復帰とと
港湾計画の改訂に先立ち、おおよそ20 〜 30
もに那覇市を港湾管理
年後における那覇港へ期待される役割や港湾開
者とした重要港湾に指
発、利用及び保全の基本的方向について定め、
定される
港湾計画の指標となる
「那覇港長期構想」を策定
1974年
(昭和49年)
6月 港湾計画
(新規)
策定
することとした。策定にあたり、多角的な視点
1988年
(昭和63年)
2月 港湾計画
(改訂)
から意見を頂き検討を行うため、学識経験者、
2002年
(平成14年)
4月 沖縄県・那覇市・浦添
那覇港を利用する船社や港運関係者、地元関係
市を構成団体とする那
者等からなる那覇港長期構想検討委員会を立ち
覇港管理組合が設立さ
上げ、現在まで3回の委員会を開催し、那覇港
れ、那覇市に代わり港
長期構想の策定に向けた議論を重ねている。
湾管理者となる
以下、後段では、那覇港港湾計画
(平成15年3
2003年
(平成15年)
3月 港湾計画
(改訂)
月改訂)
において定めた計画方針ごとに那覇港の
那覇港の港湾計画は、昭和49年の港湾計画
(新
現状と課題、取り組んでいる施策と現時点にお
規)
策定から、変更の度合いに応じた一部変更・
ける那覇港長期構想の概要を中心に紹介する。
軽易な変更手続きをはさみ、
「著しい変更」
に該当
した2度の改訂を行い、平成15年の港湾計画改
4 那覇港の現状と課題、取組みについて
訂
(目標年次:概ね平成20年代後半)
において定め
⑴ 国際流通港湾機能の充実
た下記方針に基づき港湾整備に取り組んできた。
1)
現状と課題
現行港湾計画
(平成15年3月改訂)
の方針
① 外 貿・ 内 貿 コ ン テ ナ 総 取 扱 量 は、508,196
◯国際流通港湾機能の充実
◯国際観光・リゾート産業の振興
TEU※注で我が国第8位
(2014年速報値)
②外貿コンテナ取扱量は、82,996TEUで我が国
◯港湾機能再編
◯環境の保全と創出
第15位
(2014年速報値)
(内貿コンテナ取扱量は、425,200TEUで我が
◯安心・安全の確保
国第3位
(2014年速報値)
)
平成15年の計画改訂以降、必要に応じ5回の
外貿コンテナ取扱量は、将来目標値
(現港湾
計画変更
(一部変更2回、軽易な変更3回)を行
計画)
は約628千TEUであり、2014年実績はそ
い、港湾整備を進めてきたが、沖縄県において
の約13%にとどまる。
今後の県政発展の方向性を明らかにした
「沖縄
③外貿定期航路は、北米・中国・フィリピン・
21世紀ビジョン基本計画」
( 平成24年5月)の策
台湾に7航路が就航しているが、同程度の貨
定や我が国を取り巻く社会・経済情勢や那覇港
の利用状況等が大きく変化してきていることか
※注 TEU:20フィートコンテナの個数に換算した 貨物容量のおおよそを表す単位
ら、港湾計画の改訂を見据えた作業を始めたと
23
2015. 新北風 October
No.74
物を扱う本土コンテナ港と比べて外貿航路数
内の地理的優位性を活かしきれていない。
ソフト事業
は少なく、東アジアの主要港湾から1,000㎞圏
那覇港輸出貨物増大促進事業 (H25~H28)
④10年前に比較して、実入りコンテナ個数は増
「社会実験」により、コスト等を検証し、物流コス
トの低減や輸送システムの改善等の検討を行
う。
上海★
貨物量の増加
新規航路の定着
★那覇港
○総合物流センター整備事業
香港★
★高雄
貨物の増加、物流の効率化
○ガントリークレーン等整備事業
物流コストの低減・雇用の創出等
高な海上運賃)
を負担している。
(図−3)
(40 フィートコンテナ 1 個当たり、千円)
★那覇港
★基隆
台湾の港等を経由し
て、香港へ向かう航路
相乗効果
ハード事業
地企業は、本土企業に比べ高い物流コスト
(割
【輸出荷主対象の社会実験】
那覇港から香港向けの現状よりリードタイムの短
い航路(直行航路等)の開設を検討する。
香港★
加しているものの、輸入超過による片荷輸送
構造は改善していない。これにより、県内立
【香港向け航路の利便性向上】
将来(長期)
国際物流拠点の実現、貨物の増大 物流の効率化、競争力強化
資料:那覇港管理組合資料より作成
図-5 社会実験による那覇港発の外貿貨物量増大の取り組み
図−5 社会実験による那覇港発の外貨貨物量増大の取り組み
②ガントリークレーン等整備事業
外貿貨物を扱う国際コンテナターミナルにお
いて、ガントリークレーン4基の整備を行い、
1バース2基のガントリークレーン体制を整
えるとともに、リーファーコンテナ
(内部を
一定温度に保つ機能を持つコンテナ)に対応
資料提供:県内企業 2011.1 月現在
図−3 本土に比較して高い海上運賃
するための電源施設の増設を行い施設の充実
を図った。
(図−6)
⑤沖縄発の貨物が期待される第二次産業は、従
業員ベースで日本全体の構成比率に比べても
低くなっている。
(図−4)
ターミナル諸元
No.9
No.10
供用開始
1997年8月
2006年1月
岸壁延長
300m
300m
奥行き
350m
350m
計画水深
(実水深)
13m
(14m)
13m
(15m)
面積
210,000㎡
第二次産業
総合物流センター
第2期予定地 3.0ha
那覇港
国際コンテナターミナル
第三次産業
リーファー電源整備事業
5.09%
全国
29.18%
65.73%
○リーファー電源施設
(40口増設:60口→100口)
6.16%
沖縄
18.47%
0.00%
総合物流センター整備事業
第1期予定地 【2.6ha】
総合物流センター
第3期予定地 2.2ha
産業別県
(国)
内就業者数
(名目)
の構成比
(2000年、2010年)
第一次産業
○総合物流センター【第1期予定地】
基本設計:3階建、専用区画面積約3.3ha)
○平成29年度完成予定
ガントリークレーン整備事業
(3号機、4号機)
75.37%
20.00%
40.00%
60.00%
80.00%
100.00%
○ガントリークレーン4号機
(オンデッキ6段×18列対応)
免震装置付
○平成27年5月供用開始
○ガントリークレーン3号機
(オンデッキ6段×18列対応)
免震装置付
〇平成26年7月供用開始
2015年1月24日撮影
資料:那覇港管理組合資料より作成
1
図-6 国際コンテナターミナルの施設整備事業の概要
図−6 国際コンテナターミナルの施設整備事業の概要
4.20%
全国
25.20%
0.00%
③那覇港総合物流センター整備事業
第2次産業の割合が低い
5.40%
沖縄
70.60%
20.00%
東アジアの中心に位置する那覇港の特性を
79.20%
15.40%
40.00%
60.00%
80.00%
100.00%
出典:国勢調査
(H22 年調査、H12 年調査)
図−4 那覇港港湾計画(平成15年3月以降の変更)
2)
物流コスト低減に向けた取り組み
活かし、東アジアネットワークと国内ネット
ワークを繋ぐ国際物流拠点として、公設民営
東アジアの中心に位置する那覇港の特性を活かし、
東アジアネットワークと国内ネットワークを繋ぐ国際物流拠点
物流コスト低減に向け、沖縄発の貨物を増や
【国際輸送】
すための集貨・創貨に繋がるソフト・ハード事
・外貿コンテナ船
業の取り組みを進めている。
①那覇港輸出貨物増大促進事業
(社会実験)
香港向け航路の利便性向上と輸出荷主を対象
【国内輸送】
【価値付加機能】
競争力の高い貨物を創出する機能
・航空機
那覇港 ロジスティクス・ハブ
【物流高度化機能】
東アジアの物流結節拠点(クロスドックポイント)としての機能
沖縄県産品や海外・本土から
部品調達し、流通加工して
“付加価値”を高め国内外へ出荷
・内貿定期船
・トラック
・航空機
総合物流センター
とした物流コストの低減や輸送システムの改
善等を検討するための社会実験を実施してい
る。
(図−5)
資料:那覇港管理組合資料より作成
図-7 那覇港総合物流センターのコンセプト
図−7 那覇港総合物流センターのコンセプト
24
No.74
外貿と内貿の
“クロスドックポイント“
2015. 新北風 October
アジア諸国に隣接する地理的優位性等から、ク
①従来型物流の高度化:保管、積み替え、検査、混載
ルーズ船社の那覇港に対する寄港ニーズは高
い。クルーズビジネスは、船舶の大型化、短期
間で安価なカジュアルクラスの需要拡大が進ん
でいくと想定され、その流れを取り組んでいく
②メイドインジャパン製品等の付加価値の高い貨物を創出
付加価値
韓国、中国、台湾製
世界各国へ輸出
日本製
必要がある。
①2014年の那覇港へのクルーズ船の寄港回数は
製造業における付加価値例:部品の組み立て、流通加工
(検品、動作確認)、ソフトウェアの埋め込み等の最終加工
80回で前年の1.4倍、2015年の寄港予定回数は
当地区に上記のような組立加工企業を誘致するため、
128回
(2015年7月1日時点)で前年の1.6倍と
各種優遇制度を活用できる“国際物流拠点産業集積地域“に指定
資料:那覇港管理組合資料より作成
増加傾向で推移している。
(2015年7月1日
図-8 那覇港総合物流センターの導入機能のイメージ
図−8 那覇港総合物流センターの導入機能のイメージ
時点)
(図−10・11)
那覇港におけるクルーズ客船寄港回数・入港前乗客数
る。2017年度
(平成29年度)の完成をめざし、
240,000
現在実施設計を進めており、今年度工事着手
200,000
件等についても、今年度で方針を固め、躯体
完成後遅滞なく事業運営に移行できるよう取
り組みを進めていく。
(図−7・8)
206,000160
定期船
180,000
160,000
乗客数(人)
を予定している。併せて、入居企業の公募条
180
(2015.7.1時点)
220,000
100,000
80,000
60,000
40,000
20,000
0
128
140
日本船籍
12
120
乗船客数
140,000
120,000
※見込み
外国船籍
117,272
80
25,506
69,584
69,654 72,248
53,660 67 65,57312
61 34,185
56 57 66,773
56
52
52
53 20
5
7
20,56314
20,383
6
15
10
41
2
16
37,438 13
37
9,69016,59034
4
22
30
20
14,222
24
30
13
16
9
5
26
4
6
5
14
4
0
10
12
38
38
28
28
28
5
26
27
24
4
23
21
45
11
10
0
20
14
隆港等)を管理運営する台湾港務株式会社
(TIPC)との間で、物流及び人流に関する交
2013 2%
2014 0%
2015 1%
沖縄・台湾港湾関連の連携イメージ
港湾管理者
沖縄港湾関連
那覇港管理組合
MOU締結
0
9% 5%
75%
2010 0%
2012 3%
台湾港湾関連
84%
2009 0%
強化を図るため
「パートナーシップ港に関す
【MOU締結の合意内容】
20
トン階級別入港クルーズ客船
2008 2%
流を促進させ、相互理解と長期的な連携関係
1.便利で良質な人流、物流サービスの提供に共同で努める。
2.両港湾間における物流サービス等の向上に取り組む。
3.海運に関する情報交流の強化、共有に取り組む。
4.人員の交流と人材育成に努める。
5.地場産業等の交流や提携を促進させる
40
30
資料:那覇港管理組合資料より作成
図-10 那覇港におけるクルーズ船寄港実績(2015.7.1時点)
2011 0%
る合意書
(MOU)
」
を締結した。
(図−9)
60
図−10 那覇港におけるクルーズ船寄港実績(2015.7.1時点)
平成27年4月21日に台湾高雄市において、那
覇港管理組合と台湾の主要港
(高雄港、基
80
(年)
④台湾港務株式会社
(TIPC)と の パ ー ト ナ ー
シップ港に関する合意書
(MOU)
の締結
100
86
寄港数(回)
の物流センターの整備に向け取り組んでい
14%
77%
17%
38%
11%
6%
62%
46%
45%
32%
25%
30%
0%
6%
61%
5%
60%
41%
15%
28%
総トン数
5~9999
10000~
49999
50000~
99999
100000~
※見込み
図-11 那覇港におけるクルーズ船寄港実績(2015.7.1時点)
資料:那覇港管理組合資料より作成
図−11 那覇港におけるクルーズ船寄港実績(2015.7.1時点)
②2012年から乗客定員3,000名を超える大型クラ
ス
(13万t級)のクルーズ船の寄港が始まった。
また、2015年8月からは乗客定員4,000名を超
民間船社
えるアジア最大級
(16万t級)のクルーズ船の
寄港が始まり、2015年は6回の寄港が予定さ
業
務
提
携
れている。
資料:那覇港管理組合資料より作成
図-9 台湾TIPCとのパートナーシップ港に関する合意書(MOU)の締結
図−9 台湾TIPCとのパートナーシップ港に関する合意書
(MOU)の締結
③那覇港においては、クルーズ専用バースは
泊ふ頭8号岸壁
(若狭地先、13万t級まで接岸
⑵ 国際観光・リゾート産業の振興
可能)のみで、16万t級のクルーズ船や複数隻
1)
現状と課題
同時接岸
(2015年は11回を予定、8月末時点)
沖縄県は、観光地としての魅力が高く、わが
の場合は、新港ふ頭貨物バースの空き状況を
国有数の外航クルーズ船の寄港地である。周辺
確認し受入れている状況である。貨物バース
25
2015. 新北風 October
No.74
での受入れに際しては、荷役作業及び乗船客
確立に向けた関係機関との連携・協議に取り
の安全性確保や雨天時における乗船客への対
組んでいる。
応、ツアーバスやタクシーの台数及びその
⑶ 港湾機能の再編
駐車スペースの確保等が課題となっている。
1)
現状と課題
那覇港の既存ふ頭は、施設の狭隘化による利
(写真−1)
レジェンド・オブ・ザ・シーズ
Legend of the seas
69,130 GT
264メートル
スーパースター・アクエリアス
Superstar Aquarius
51,309 GT
229メートル
用効率低下や旅客フェリー航路等の混在による
物流と人流の輻輳や本土復帰前に建設した施設
の老朽化、国内貨物を扱う新港ふ頭地区の混雑
解消が大きな課題となっている。
現港湾計画では、これら課題解決に向け、港
ボイジャー・オブ・ザ・シーズ
Voyager of the seas
137,276 GT
311メートル
湾機能再編計画を位置付けている。
那覇クルーズターミナル
Naha Cruise Terminal
供用:2014年4月1日
写真-1 クルーズ船3隻同時接岸(2015.7.28)
写真−1 クルーズ船3隻同時接岸
④那覇港内の観光資源として、那覇空港に一番
その内容は、
「①新港ふ頭北側及び浦添ふ頭
の整備を進め、新港ふ頭の物流機能の一部を移
転する→②余裕の出た新港ふ頭へ那覇ふ頭の本
土フェリー機能を移転する→③那覇ふ頭へ泊ふ
頭の周辺離島航路を集約する→④泊ふ頭は遊覧
船等の観光拠点とする」
ものである。
近く、安心して海水浴を楽しめる波の上ビー
また、那覇港に繋がる臨港道路や国道58号な
チ
(1991年供用開始)やシュノーケリング・ス
ど、那覇港周辺の主要幹線道路においては、交
キューバダイビングが出来る波の上うみそら
通混雑が慢性化し、港湾周辺や背後圏域への貨
公園
(2013年供用開始)
を整備し、多くの県民・
物輸送に支障が出ている。
観光客に利用いただいている。
2)
効率的な物流機能の構築に向けた取り組み
2)
課題解決に向けた取り組み状況
機能再編計画については、新港ふ頭の物流機
①2009年に暫定供用を始めたクルーズバースに
能の一部を、整備を終えた浦添ふ頭南側の岸壁
おいて、駐車スペースの確保等さらなる利便
及びその背後用地へ移転したが、新港ふ頭北側
性の向上に向けたドルフィン部の岸壁化整備
や浦添ふ頭北側の整備に着手できていないこ
を
(直轄事業で)を進めている。
(2017年度完
と、新港ふ頭を利用する船舶が大型化したこと
成予定)
等により、新港ふ頭の狭隘化の解消に至ってい
②那覇クルーズターミナルと船舶を結ぶボーディ
ない状況である。
ングブリッジの整備を進め、2015年5月より供
また、泊ふ頭においては、周辺離島航路関係
用している。
者から那覇ふ頭の台風等による荒天時の静穏度
③拠点港化に向け、那覇港から乗客を乗船させ
について懸念が示されていることなど、那覇港
る際に必要となるチェックインカウンターや
を取り巻く状況が、現港湾計画策定時から変化
待合所の備品、セキュリティチェックのため
してきていることを踏まえ、次期港湾計画改訂
のX線装置、乗客の荷物を雨に濡らさずに船
において機能再編計画について再検証すること
へ運ぶための可動式通路等を整備した。
としている。
④第2クルーズ専用バースの早期事業化に向け
交通混雑の緩和に向けては、沖縄西海岸道
た、整備個所の選定並びに整備手法の検討を
路の一部である臨港道路空港線
(那覇西道路、
進めている。
2011年8月暫定供用)に続く臨港道路若狭港町
⑤第2クルーズ専用バース整備までの間、貨物
線
(那覇北道路)が2014年度新規直轄事業として
バースでの受入れに際し、荷役作業に支障と
事業着手
(平成30年代後半完成目標)された。ま
ならないよう、かつクルーズ船利用者の安全
た、臨港道路浦添線、それに結節する浦添北道
性と利便性を確保するための受け入れ態勢の
路、主要地方道浦添西原線の3路線も2017年度
26
No.74
2015. 新北風 October
完成を目標に整備が進められている。今後とも
地における港湾施設の壊滅的被害の状況は記憶
地域高規格道路と一体的に機能する広域道路網
に新しいところである。その教訓を生かし、切
整備促進に向け、関係機関と連携し取り組んで
迫性が指摘される大規模地震への対応や老朽化
いく必要がある。
が進む港湾施設の安全性等を確保するとともに
⑷ 環境の保全と創出
(魅力あるウォーターフロン
既存施設の延命化を図る観点から、港湾施設の
トづくりの推進と良好な自然環境の保全と創出)
計画的な維持管理が必要である。
1)
現状と課題
2)
安心・安全の確保に向けた取り組み
近年、港湾に求められるニーズは、港本来の
①ハード事業
役割である物流・人流における海上輸送の拠点
災害発生時の円滑な救命活動や物資輸送を確
インフラとしての機能と併せ、ウォーターフロ
保するための耐震強化岸壁の整備
(那覇港内に4
ントの環境を生かした賑わいづくりの場、住民
バースを計画)については、泊ふ頭8号岸壁ドル
や観光客が気軽に利用できる憩いの場としての
フィン部の岸壁化を進め、那覇市域における耐
役割や港湾区域内に残された自然環境の保全と
震強化岸壁の2バース体制を確立する。
(2017年
活用についても求められている。そのような状
度完成予定、新港ふ頭10号岸壁は整備済み)
況の中で、物流機能と輻輳することなく、限ら
併せて、耐震岸壁と緊急輸送道路
(国道58号
れた空間の中で開発と保全の調和を図り、安全
等)を結ぶ臨港道路港湾2号線等の液状化対策工
で安心な親水レクレーション空間を兼ね備えた
事の事業進捗を図るとともに、新港第一防波堤
港づくりに向け取り組んでいく必要がある。
の粘り強い構造への改良等、災害への対応力強
2)賑わいづくり、環境の保全と創出に向けた
化に向け取り組んでいる。
取り組みについて
②ソフト事業
2009年8月に那覇ふ頭明治橋から新港ふ頭小
防災・減災に関しては、
「那覇港地震・津波
船溜にかけての水際線のさらなる活性化を図る
防災対策協議会」において
「那覇港における地
ため
「那覇港みなとまちづくりマスタープラン」
震・津波対策
(案)
(
」平成24年3月)
が策定された。
を策定した。その中で、プロムナード
(散歩道)
また、2014年3月に作成した那覇港防災マップ
計画を位置付け整備を進めており、波の上ビー
の周知を図るとともに、港湾BCP(事業継続計画)
チや波の上うみそら公園、那覇クルーズターミ
の内容を含めた
「那覇港防災・減災計画」
の策定に
ナル等の周辺施設と連携した魅力ある空間づく
向け取り組んでいる。
(2015年度策定予定)
りに取り組んでいる。
港湾施設の維持管理については、施設毎の維
2015年3月には、港や海岸を活用して地域内
持管理計画書の策定を進めており、これら施設
外の人が交流することが出来る
“にぎわい交流
の基本データを整理した予防保全管理シートに
拠点”として沖縄総合事務局長より
「みなとオア
基づき、目視による日常点検を実施している。
シスなは」
の認定を受けた。
浦添ふ頭地区においては、埋立てを予定して
いた箇所において、自然の海岸線を残すため、
臨港道路の一部橋梁化、その前面の海域につい
5 那覇港長期構想(将来像)の策定に向けた取組みについて
⑴ 沖縄県21世紀ビジョン基本計画
(平成24年5
月)
における那覇港の位置づけ
ては自然環境を保全する区域として港湾計画に
沖縄県21世紀ビジョン基本計画において示さ
位置付け、浦添ふ頭コースタルリゾート地区と
れた5つの将来像の
「希望と活力にあふれる豊
一体となった
「人と自然との触れ合いのできる」
かな島を目指して」の実現に向けた基本施策を
環境に配慮した場の形成を図っていくこととし
中心に、那覇港に求められている役割が位置づ
ている。
けられている。
(図−12)
⑸ 安心・安全の確保
⑵ 那覇港長期構想における
「那覇港が目指す基
1)
現状と課題
2011年3月11日の東日本大震災による、被災
本方向」
とその実現にむけて
那覇港における長期構想策定にあたり、前述
27
2015. 新北風 October
No.74
について
① 現状趨勢部分
沖縄県21世紀ビジョン基本計画においては、アジアの成長と活力を取り込む基本施策がとられている。
(1)自立型経済の構築に向けた基盤の整備
我が国や本県の経済成長や人口動
(3) アジアと日本の架け橋となる国際物流拠点の形成
万国津梁の精神のもと、世界を結ぶ架け橋としての交流を通し、
我が国及びアジア・太平洋地域とともに発展していくため、空港、港
湾、道路、鉄軌道など、産業発展に必要な基盤整備を戦略的に進
めるほか、規制緩和等による交通・物流コストの大幅な低減やアジ
アを基軸としたネットワークの構築など、強くしなやかな自立型経済
の構築に必要不可欠な条件整備を図り、国際的な競争力を強化し
ます。
沖縄21世紀ビジョン基本計画P55
那覇空港の航空物流機能の更なる拡充や那覇港・中城湾港
の海上物流機能の強化等により、東アジアの中継拠点として本
県の国際物流機能を高めるとともに、この物流機能を活用した
新たなビジネスを展開する臨空・臨港型産業の集積を図り、那
覇空港・那覇港を基軸とする国際物流拠点を形成します。
これにより、新たな時代における万国津梁を実現するととも
に、県内事業者等による海外展開や輸出拡大を促進するなど、
著しい経済発展を続けるアジアの成長と活力を取り込む自立型
経済の構築を目指します。
沖縄21世紀ビジョン基本計画P65
向等に係る一連の指標を基に推計し
た貨物需要。
② 発展部分
新たな土地需要
(産業用地面積か
(4) 世界との交流ネットワーク
(2)世界水準の観光リゾート地の形成
沖縄の豊かな自然環境との共生が図られたエコリゾートアイラン
ドや、歴史・文化、スポーツなど多様で魅力ある資源を活用した沖
縄独自の観光プログラム(高付加価値型観光)を戦略的に展開す
るとともに、安全・安心・快適な観光地としての基本的な旅行環境
の整備等により、世界に誇れる“沖縄観光ブランド”を確立し、世
界的にも広く認知され、評価される観光リゾート地の形成を目指し
ます。
ら推計)
から発生する貨物需要。
世界のウチナーネットワークをはじめとする国際的なネットワー
クの形成・活用や、グローバル社会に対応できる人材育成等を
推進するとともに、国際的な交通ネットワークの拡充等、国際交
流拠点としてふさわしい基盤を整備し、多様な交流を積極的に展
開することにより、本県の自立的発展のみならず我が国及びア
ジア・太平洋地域の発展に貢献する海邦交流拠点の形成を図り
ます。
沖縄21世紀ビジョン基本計画P58
現状趨勢部分と発展部分を合わせ
た貨物需要は
(図−14)
のとおり。
<将来推計値>
沖縄21世紀ビジョン基本計画P96
8,708
した沖縄県21世紀ビジョン基本計画における位
置づけ、社会情勢の変化、現状と課題を整理し、
合計
内貿
外貿
1,188
H15
那覇港が目指す3つの基本方向を定め、その実
H20
8%
+801千トン
10,697
10,585
9,223
6%
+515千トン
9,157
24%
+287千トン
1,475
~
貨物量( 千トン )
図-12 沖縄21世紀ビジョン基本計画の施策
9,896
~
11,000
10,000
9,000
8,000
7,000
6,000
5,000
4,000
3,000
2,000
1,000
資料:那覇港管理組合資料より作成
~
図−12 沖縄21世紀ビジョン基本計画の施策
H30代
後半
H24
1,428
図−14 沖縄経済の趨勢を基礎とした貨物需
図-14 沖縄経済の趨勢を基礎とした貨物需要(現状趨勢分+発展部分)
要(現状趨勢分+発展部分)
現に向けた施策の検討を進めている。
(図−13)
資料:那覇港管理組合資料より作成
③ 戦略部分
【那覇港の課題】
○東アジアを基軸としたネットワーク構築の必要性の拡大
1.国際流通港湾機能の充実
4.環境の保全と創出
○国際分業の進展と物流の重要性の一層の高まり
○基幹航路トランシップの実現
○『那覇港みなとまちづくりマスタープラ
ン』の早期展開
○東アジアへの世界的なクルーズ船社の進出
○進まない外貿コンテナ航路ネットワークの
拡充・強化
○米軍基地の縮小、地方への権限拡大による自立型経済形成の機運
○東日本大震災を契機とした防災意識の高まり
○国内他港と比較して低水準の航路サービス
取扱貨物の増大
(集貨・創貨)
に向
【那覇港の課題】
【那覇港をめぐる社会情勢の変化】
など
○人と自然が共生する良好な港湾環境
の形成
○沖縄発の貨物が発生しにくい産業構造
○本土に比較して高い海上運賃
【那 覇 港 の 役 割】
○高規格・高能率コンテナふ頭としての機能
不足
【広域的な役割】
け、
東アジアの中継拠点港を目指し、
2つのシナリオの実現に向け取り組
みを進めていく。
(図−15・16・17)
5.安心・安全の確保
○荷役時・入出港時の安全性の向上
○地域の防災力の向上
○アジアと日本の架け橋となる国際物流拠点の形成
○世界水準の観光リゾート地の形成
○世界との交流ネットワークの形成
○高品質物流(高速性、安定性、安全性)の
要請の高まり
2.国際観光・リゾート産業の振興
○東アジアの中継拠点港が目指す将来像
○国際クルーズ需要への早急な対応
【地域的な役割】
○外国人観光客の受入における海路の戦略
的な展開
○自立型経済の構築に向けた基盤の整備
○県民の生活を支える港湾(効率的で安全な港、離島・
先島の生活安定など)
○快適で潤いのある生活空間の提供
○安心・安全を提供する港湾空間の形成
○大型旅客船の入港体制の強化の必要性
(22万総トン級の東アジアへの投入)
○浦添コースタルリゾート計画の早期展開
3.港湾機能の再編
『沖縄21世紀ビジョン』等の上位計画・関連計画
○ふ頭混雑、施設老朽化
○沖縄発貨物の発掘、創出
○自立型経済の構築に向けた基盤の整備
○内航定期船が集中する月曜日の混雑解消
○世界水準の観光リゾート地の形成
○那覇港周辺における道路混雑
○アジアと日本の架け橋となる国際物流拠点の形成
○世界との交流ネットワーク
沖縄の産業振興や『万国津梁』を実現させるため、『沖縄の強
み=東アジアの中心にある地理的優位性』を生かす。
【那覇港のポテンシャル】
① 本土主要港との内航ネットワークや台湾・中国との外航航
路の活用
○東アジアの主要都市(上海、香港、広
州、高雄、マニラ等)との近接性
② 高品質の輸送の追及
(少量を早く、安く、安定的に輸送する)
○世界に誇れる観光資源、県民のホスピ
タリティの高さ
○豊富な若年労働力
③東アジア・東南アジアとの新たな物流サービスの提供
○本土主要港(東京、大阪、福岡等)との
多頻度航路
東アジアの中継拠点港として国内外のネットワークの活用・強化
○上海、厦門、香港起点のクルーズとの
ネットワーク性
海路上に立地する特性を活かした新たな物流サービスの展開
図−13 那覇港の役割
図-13 那覇港の役割
資料:那覇港管理組合資料より作成
既存海外航路の拡充・新規航路の開設
東アジアを代表する国際・国内RORO拠点港
【基本方向】
物流品質向上に資する東南アジアとのトランシップ港
◯著しい経済発展を続けるアジアの成長と活力を
取り込む成長エンジンとしての港湾空間の形成
拠点の形成
図-15 東アジアの中継拠点港としての展開
(2)東アジアの中継拠点港としての展開方向
シナリオ1: 東アジアを代表する国際・国内RORO拠点港
国内RORO船
東南アジア
◯アジア太平洋地域の発展に貢献する海邦交流
資料:那覇港管理組合資料より作成
図−15 東アジアの中継拠点としての展開
◯安全・安心な港湾空間の形成と豊かな自然環
境との共生
中
国
台
湾
国際
RORO船
那覇港
積み替え
博多・鹿児島港
九州圏
大阪港
近畿圏
東京港
東京圏
国内RORO船
国内RORO船
< 例  高雄(台湾)  大阪 >
現状
将来
施策の検討にあたり、港湾計画における港湾
施設
(防波堤・岸壁・臨港道路等)の規模及び配
国内RORO船
(2日)
国際コンテナ
船
積換
1日
置計画のベースとなる貨物需要や船舶乗降旅客
数、用地需要等その検討状況について紹介する。
1)貨物需要
(現状趨勢分+発展部分+戦略部分)
28
No.74
2015. 新北風 October
【 RORO船利用のメリット】
所要日数
2日~8日
・リードタイムの短縮が可能
(速力が速く、荷役もスピーディ)
・特殊貨物の取り扱いが可能
・航空輸送との連携も可能
国際RORO船
(1日)
所要日数
4日
資料:那覇港管理組合資料より作成
図−16 東アジアの中継拠点港としての展開
図-16 東アジアの中継拠点港としての展開
ね20年後)
は、更なる拠点化を進め、さらに浦添
(2)
東アジアの中継拠点港としての展開方向
シナリオ
2: 物流品質向上に資する東南アジアとのトランシップ港
博多・鹿児島港
九州圏
市域に1バース、合わせて4バースを整備目標
大阪港
近畿圏
とする。クルーズバース計画に当たっては、ク
東京港
東京圏
ルーズ動向に注視し、早期拠点港化への要請に
国内RORO船
東南
アジア
那覇港
国際コンテナ船
国内RORO船
積み替え
国内RORO船
< 例  レムチャバン(タイ)  大阪 >
現状
対しても対応可能な施設計画とする必要がある。
将来
3)土地需要について
国内RORO船
(2日)
国際コンテナ船
【 RORO船利用のメリット】
香港
蛇口
所要日数
8~15日
沖縄21世紀ビジョンでは、沖縄経済の持続的
積換
2日
・リードタイムの短縮が可能
・日本向け貨物をまとめて輸送可能
な発展、次世代の経済活動の基盤となる臨空・
国際コンテナ船
(4日)
臨港型産業の集積を図り、国際物流拠点を形成
所要日数
8日
資料:那覇港管理組合資料より作成
図−17 東アジアの中継拠点港としての展開
図-17 東アジアの中継拠点港としての展開
することを目標としている。
那覇港では、臨空・臨港型の産業空間を臨海
貨物需要についてまとめた結果は表−1の
部で確保することにより産業の集積を進展さ
とおりである。
せ、競争力のある国際物流拠点形成に向け取り
表−1 貨物需要(現状趨勢部分+発展部分+戦略貨物)
組んでいくとしている。
(図−19)
那覇港の貨物需要 ( 目標年次:平成年代後半 )
将来貨物
① 現状趨勢部分
② 発展部分
推 計 値
立地による効果
既定計画
約 1,040 万トン
1,093 万トン
85 万トン
( FTZ )
約 20 ~ 30 万トン
産業誘致ターゲットとする機能
 日本及びアジア経済圏とのア
クセスが容易
 流通加工型機能
 国際物流拠点産業集積地域
の活用による各種費用の抑制
 冷凍・冷蔵機能
 沖縄貨物ハブ空港に隣接し、
多様な輸送モードが選択可能
約 410 ~ 730 万トン
合計
( ①+②+③)
約 1,470 ~ 1,800 万トン
 まとまった用地の不足
 本土と比べ割高な内航輸送
コスト
 本土と比べ割高な基本インフ
ラ料金(電気等)
 組立・加工機能
 市街地とのアクセス性がよく、
職住近接の労働環境
 台風等の荒天に伴う欠航・遅
延リスク
 原材料の本土からの調達
(本土経由物資の存在)
 就労環境の提供
③ 戦略部分
問題点・課題
771 万トン
誘致方策(案)
1,950 万トン
※ FTZ : 自由貿易地域に新規に立地する企業から発生する貨物等に相当する分
 新たな産業空間の整備
 高機能公共倉庫の整備
 国内外の定期航路の拡充
(台湾航路等)
 物流コストの低減化
(内外インバランスの解消等)
 各種優遇施策の拡充
資料:那覇港管理組合資料より作成
資料:那覇港管理組合資料より作成
表-1 貨物需要 ( 現状趨勢部分 + 発展部分 + 戦略貨物 )
図-19
沖縄の経済活動の基盤となる産業の創出
図−19 沖縄の経済活動の基盤となる産業の創出
2)クルーズ需要について
クルーズ需要については、短期的には寄港地
その用地需要については、県内外の物流関連
としての利用拡大、中長期的には東アジアの定
事業者へのアンケート・ヒアリング等からの必
期・定点クルーズ拠点港を目指すこととし、そ
要規模の整理を行い、新たな産業空間としての
の将来需要については図−18のとおり推計した。
用地需要について71haと推計した。
(既定港湾
600
500
400
300
200
100
0
(隻)
入港隻数
利用者数
万人
隻
万人
万人
隻
隻
現状
短中期
長期
(平成25年)
(概ね10年後)
(概ね20年後)
60
50
40
30
20
10
0
( 万人 )
計画:74ha)
4)機能再編等による港湾機能の高度化ついて
機能再編の方向性について、物流面に関して
は、新港ふ頭地区の狭隘化の解消に向け引き続
き取り組むこと、泊ふ頭については、離島関係
者の生活、観光の拠点として活用・認知されて
いるため、那覇ふ頭への離島航路の移転は行わ
ず、泊ふ頭を継続利用する方針を長期構想委員
資料:那覇港管理組合資料より作成
図-18 クルーズ需要推計(利用者数、隻数)
資料:那覇港管理組合資料より作成
図−18 クルーズ需要推計(利用者数、隻数)
会に提示、議論を進めていく。
この需要推計から、那覇港における将来のク
また、スケールメリットを生かすための船舶
ルーズ船の受入体制について、短中期
(概ね10
の大型化に対応していくための一部岸壁の大水
年後)は、アジア域内の新たな定期・定点
(寄港
深化や船舶入出港時の航路改良、交通ネット
型)クルーズ等の対応のため、現在供用中の若
ワーク機能の強化等、那覇港全体の港湾機能の
狭バースを含め3バース
(那覇市域に2バース・
適正配置による効率的な港湾の運営に向けて議
浦添市域1バース)を整備目標とする。長期
(概
論を進めていく。
29
2015. 新北風 October
No.74
7)長期構想策定と港湾計画改訂に向けた今後
5)安全・安心な港湾空間の形成と豊かな自然
の予定と課題について
環境との共生
那覇港の災害時における対応力の強化に向
長期構想策定に向け、これまでに開催した3
け、緊急物資輸送のための液状化対策、背後地
回の検討委員会での議論の整理、全体ゾーニン
域の経済活動を支えるための耐震強化施設の拡
グを受けた施設配置計画
(案)の検討等、第4回
充、港湾事業継続計画
(港湾BCP)の構築等につ
委員会開催に向けた作業を進めていたところで
いて議論を進めていく。また、港湾施設の機能
あるが、浦添市より提示のあった
「那覇港浦添
維持に向けた、予防保全計画に基づく老朽化対
ふ頭地区に係る浦添市計画
(素案)
」への慎重な
策についても位置付けていく。
対応と十分な議論を進めていく必要があること
浦添ふ頭地区の北側においては、環境に配慮し
から、2015年度内に予定していた長期構想を反
たコースタルリゾート地区と都市部に近接して存
映した港湾計画改訂は厳しい状況である。しか
在する貴重な自然環境を保全・活用する海域環境
しながら、急増するクルーズ需要に対応するた
保全区域を既定計画同様、引き続き位置付け、人
めの第2クルーズ専用バースの早期整備等、那
と自然が共生する港湾環境の形成を図る。
覇港に求められる社会的要請に早急に対応して
6)全体ゾーニングについて
いく必要があることから、港湾計画改訂と切り
那覇港を取り巻く社会情勢の変化、現状と課
離して港湾計画の一部変更や軽易な変更での対
題を整理し、長期構想策定における
「那覇港が
応について検討しているところである。
目指す3つの基本方向」とその実現に向けた施策
の検討を進めている中で、港湾空間利用計画の
6 おわりに
方針を定め、全体ゾーニング
(案)を長期構想検
長期構想については、今回、策定途中段階で
討委員会に提示したところである。
(図−20・21)
の内容報告に止まったが、今後、あと2回から
3回の検討委員会での議論を踏まえて取りまと
東アジアの中継拠点港としての展開
め、港湾計画改訂に繋げていく予定である。そ
新港ふ頭、浦添ふ頭において東アジアの中継拠点港としての物流空間
を創出する。
の中で、那覇港長期構想
(素案)に対するパブ
地域振興のための産業拠点の展開
リックコメントの実施も予定しており、本稿の
浦添ふ頭において臨空・臨港型の産業空間を創出する。
読者や県民の皆様には、那覇港の担う県民生活
東アジアの定期・定点クルーズ拠点港としての展開
のライフライン、産業・観光振興を支えるため
クルーズ需要の拡大に対応して、泊ふ頭、新港ふ頭、浦添ふ頭におい
て、空間利用を検討。
港湾機能の再編による港湾空間の高度化
に必要不可欠な社会資本としての重要性につい
物流空間、産業空間、クルーズ展開を踏まえて、港湾機能の再編を検討。
てのご理解と多くの意見を頂き、計画策定に反
映していきたい。
資料:那覇港管理組合資料より作成
図-20 港湾空間利用計画の方針
図−20 港湾空間、産業空間、クルーズ展開を踏まえて、
港湾機能の再編を検討
海上コンテナ取扱量において世界の
トップクラスに位置する港湾を持つシ
物流ゾーンは新港ふ頭沖、浦添ふ頭沖で新規展開
国際交流ゾーンを泊ふ頭+浦添ふ頭の拠点化
ンガポールの前首相リー・クアンユー
物流機能、臨空・臨港型産業集積ゾーン
氏の言葉に
「島国の経済レベルは、その
地域振興のための臨空・臨港型産業集積拠
点及び一体的に機能する流通拠点の展開
物流機能ゾーン
国の港湾や空港のレベルを超えること
多機能展開ゾーン
現状どおり外内貿貨物
コースタルリゾートゾーン
国際交流ゾーン
国際流通港湾機能ゾーン
国際物流ターミナル拠点
海域環境保全ゾーン
人と自然が共生する港
湾環境の形成
国際交流ゾーン
第2バースの展開
大型クルーズ船対応施設
対し、常に情報の発信と整備効果の発
【既定計画】
物流機能ゾーン
緑地、プロムナードなどによ
り親水空間を形成
コースタル
リゾートゾーン
親水
レクリエーション
ゾーン
周辺離島拠点ゾーン
離島フェリー航路
観光船
図−21 全体ゾーニング
(案)
図-21 全体ゾーニング(案)
30
No.74
国際流通港湾
機能ゾーン
国際流通港湾
機能ゾーン
鹿児島フェリー航路
観光船の展開
担う者として、港湾のもつ社会的役割
とその重要性について、多くの県民に
親水レクリエーションゾーン
人流ゾーン
はできない」
がある。港湾運営の一翼を
2015. 新北風 October
海域環境
保全ゾーン
港湾関連ゾーン
周辺離島
拠点ゾーン
人流ゾーン
都市機能ゾーン
資料:那覇港管理組合資料より作成
現に繋げていく責務があることを念頭
に、
「万国津梁」の志のもと
「港づくり」
に取り組んでいきたい。
那覇港歴史年表
「那覇港要覧2015/2016」那覇港管理組合
1264年 浦添城を居城とした中山英祖が泊港
(現在の泊ふ頭)
を国港として整備。
沖縄本島の統一を果たした尚巴志王が、那覇港
(現在の那覇ふ頭)
を中国貿易などの拠点とした。以
1422年
後、那覇港は東南アジアや日本本土との中継貿易として栄えた。
尚巴志の三男尚金福王の時代、那覇港が泊港をしのいで国中第一の港となる。さらに、このころの
1452年 那覇は海に囲まれた州であったことから、中国人懐機により久茂地のチンマーサーから安里橋
(現
在の崇元寺橋にいたる海中道路
「長虹橋」
が築かれ、それ以来、那覇港には諸国の船が錨をおろした。
1609年 薩摩軍により琉球が攻略されるが、明国との交易は認められる。
1853年 米海軍ペリー提督来島。首里城を訪れるとともに本島周辺の海図を作成。
1879年 廃藩置県。火車と呼ばれる汽船が出入港するようになった。
1884年 本土~沖縄航路
(鹿児島・大阪)
が開設される。
築港は各知事の主要事業であり、奈良原知事は、国費にて第一期築港工事に着手、日比、高橋の代
1907年
を経て大味知事の1915年
(大正4年)
に完工、1,500トン級の汽船3隻を横づけできる桟橋を架設。
1921年 那覇港に水深−7.5mの岸壁の建設が始まり、1925年
(大正14年)
に完成。
1944年 米軍の空襲により那覇港の港湾施設が破壊され使用不能となる。
1951年 米軍が那覇港及び泊港の建設工事に着手。
那覇港北岸、琉球政府に譲渡される。南岸は米軍の軍港地域に指定される。泊港は那覇市に譲渡さ
1954年
れる。
1969年 那覇市が那覇新港
(現在の新港ふ頭)
の建設工事に着手。
本土復帰の直前に那覇港・泊港・新港を一体的に管理運営するため3港を一元化し那覇市が管理、
1972年
現在の那覇港となる。
那覇港の港湾計画が築定される。波の上橋・泊大橋・なうら橋の建設等その後の市民生活や産業・
1974年
観光振興に大きく寄与することとなる計画が盛り込まれる。
1983年 新港第一防波堤が完成する。
新港ふ頭地区の岸壁
(−7.5m~−11m)
が完成する。
1984年
「波の上橋」
が開通する。
1985年 「泊大橋」
が開通する。
1993年 「なうら橋」
が開通する。
1995年 「とまりん」
が完成する。
沈埋トンネル工事着工。
1997年
コンテナ専用岸壁
(−13m)
1バースを供用開始
(9号岸壁)
。
1998年 ガントリークレーン1号機供用開始。
那覇港の開発発展と利用の促進を図るとともに、適正で効率的な管理運営を行うことを目的として
2002年
沖縄県、那覇市及び浦添市の3自治体で特別地方公共団体
「那覇港管理組合」
を設立する。
那覇港港湾計画
(改訂)
が承認され、トランシップ港湾及び海域保全ゾーンの位置づけ等が盛り込ま
2003年
れる。
ガントリクレーン2号機供用開始。
2004年 新港ふ頭地区9号10号バースを特区制度活用により民間事業者が一体的に管理運営を行う
「那覇港
公共国際コンテナターミナル運営事業」
の運営事業者を国際公募。
「那覇港公共国際コンテナターミナル運営事業」
の運営事業者にフィリピンに本社を置くグローバル
オペレーター ICTSIと県内の港運事業者6社が資本参加する
「那覇国際コンテナターミナル株式会
2005年 社
(NICTI)
」
が決定。那覇港管理組合との間に賃貸借契約を締結する。
港湾計画の軽易な変更により、大型旅客船専用バースの計画位置を新港ふ頭地区から泊ふ頭地区
(若
狭緑地前面)
へ変更。
日本で初めて純民間企業によるターミナル運営がスタート。那覇国際コンテナターミナル株式会社
2006年 (NICTI)
の運営が始まる。トランシップ貨物を中心とした貨物量の増大により海上輸送コストの低
減を目指す。
2009年 9月、旅客船専用バース供用開始。
2011年 8月、
「那覇うみそらトンネル」
供用開始。
2012年 7月、ボイジャー・オブ・ザ・シーズ初寄港
(13万7,276トン)
。
2013年 4月、
「波の上うみそら公園」
供用開始。
4月、NAHAクルーズターミナル供用開始7月、ガントリークレーン3号機供用開始。
2014年
12月、那覇港が
「クルーズ・オブ・ザ・イヤー 2014」
特別賞を受賞
(クルーズ船寄港回数80回)
。
2015年 8月、クワンタン・オブ・ザ・シーズ初寄港
(16万7,800トン)
。
31
2015. 新北風 October
No.74
ReportⅠ レポートⅠ
那覇港の新たな国際物流戦略
~沖縄主導型の国際航路サービス~
高崎 裕
琉球海運株式会社 外航課長 TAKASAKI Hiroshi
1.外航と内航の違い
表-1 那覇港の輸出入貨物の割合
那覇港や那覇新港には多くの船が寄港する。
一般的にその船が内航船か外航船かの見分け
方は、見た目だけで判断するのは海運に従事し
ているものにとっても困難であると思われる。
この違いは本船の資格や設備といったものが違
うため、内航船として建造された船は外航仕様
に改造し資格を取得しなければ外航船として海
外へ運航することはできない。
当社も昨年の5月までは、内航船社として本
土-那覇-先島航路への船の運航を行っていた
が、平成26年6月に台湾航路を開設することで
増やすなど対応し沖縄県への生活物資の輸送に
内航船社という顔だけでなく、外航船社という
尽力してきた。
顔も持つことになった。
しかし、沖縄には資源がなく第一次産業や第
言葉で内航、外航というのは簡単だが、運航
二次産業が発展していないため、本土への移出
するための法律も違えば、船の設備も違ってく
や国外へ輸出する貨物がない、いわゆる
「片荷
る。当然、船員の資格なるものも内航と外航に
輸送」の現状であり、我々海運業者もこの片荷
は大きな差がある。
輸送の現状を改善すべく努力を常に行ってい
特に内航だけを行ってきた当社にとってこの
る。
外航というものは、乗り越えなければならない
もちろん、海運業者が努力しただけで貨物量
非常に高い壁がたくさんあった。
が増えるわけではないが、ハード面が充実して
くると、それを使用する
(ここでは貨物輸送)顧
2.那覇港における内貨と外貨の取扱量について
客が増えるのではないかと考えられる。
沖縄は周囲を海に囲まれた島国である。島国
次に外貨についてであるが全体量は内貨と比
にとって海運とは切り離せないもののひとつで
較すると量は少なく、外貨も内貨と同じように
あり、島民のライフラインといっても過言では
輸入の方が輸出に比べて多いことがわかる。し
ない。
かし、その大半が米軍向けの物資であることか
そういった環境にある那覇港において、内貨
ら、沖縄の外貨は米軍物資依存型といえる。
と外貨の取扱い比率は9:1と圧倒的に内貨の輸
沖縄は復帰前、日本ではなかった。その頃は
送量が多い。
すべて沖縄から出ていく貨物、入ってくる貨物
これは、内航船社が本土主要都市と沖縄を結
すべてが外貨扱いであった。また、沖縄の先人
ぶ航路を充実させていることと、外航船の寄港
達は復帰前、外国製品を独自に海外から輸入し
が少ないことが主な要因だといえる。そういっ
販売するなど沖縄県民は独自の商品を県内で流
た環境を見据え、内航海運業者は本土-那覇間
通させていた。今でもポークランチョンミート
の航路拡充を図るため、船舶を大型化し便数を
や外国製の洗剤、食材等は、沖縄県民が当たり
32
No.74
2015. 新北風 October
前に使っているものだが、実は沖縄の先人達が
によって本土-那覇間の片荷輸送の改善となる。
独自に外国から買い付けし、輸入していたもの
また、沖縄航路の貨物量は順調な推移を示し
が現在まで県民生活の中にあるのではないかと
ているものの、将来的に大きな伸びは期待でき
思う。
ない。しかし、他船社の参入や既存船社の船舶
近年では、外国の大型スーパーが日本本土に
の大型化や増便など懸念されることは多々あ
も進出し、商流、物流が大きく発展して東京や
る。そういった飽和状態の沖縄航路だけでは、
大阪でも外国製の洗剤や食品が簡単に買えるよ
外的要因で会社経営が厳しくなる可能性もない
うになってきている。
とはいえない。新たに外航海運の分野に参入す
このように復帰前から独自に海外との商流・
ることで内航、外航の2本柱で経営を支えると
物流を行ってきた沖縄県民であるにもかかわら
いう構図を描いている。
ず、物流の面で東京や大阪などに大きく差を付
次に、なぜ台湾への配船を決断したのか。台
けられてきた。今なぜ沖縄において外貨の取扱
湾は石垣島から非常に近い距離にあり、以前か
量が少ないのか、私なりに考えてみた。
ら台湾と沖縄は人的な交流や物流が盛んであっ
た。さらに復帰後から平成20年までの約40年間、
①本土-那覇航路が充実しており輸入商品も本
土経由で移入されてくる。
②沖縄は小さな島国であるため輸入量も東京や
地元船社がフェリーを運航していたことも台湾
と沖縄の交流が盛んであった要因のひとつであ
ると考える。
大阪のような都心に比べると少ない。また、
また、当社船の中に博多から鹿児島を経由し
資源がない沖縄では輸出する貨物が少ないた
那覇、先島を6日間で運航する配船を行ってい
め外航船の寄港が少なく、本土経由で輸出入
る内航船があり、スケジュールに1日余裕が
を行った方が利便性がいい。
あった。この余裕のある1日を使い台湾への配
③外航船の寄港が少ないため、那覇港のハー
船を行うことで、船舶のスケジュールを大きく
ド面が他港と比較して整備
(充実)されていな
変更することなく、新たに台湾航路を開設する
い。
(ガントリークレーンやCY、上屋など)
ことができた。
④那覇に寄港している外航船社のお客様への
当然、船舶の改造費や燃料費、人件費は必要
サービスが悪い
(スケジュールが安定しない
であるが、新規に船舶を投入する新たな設備投
等)ため、海外との貿易を那覇港で行うお客
資の必要がなかったことなどが、当社が外航参
様が少ない。
(本土経由を選択している)
入への決断となった要因である。
ざっと①~④のような要因が考えられる。
3.外航海運への参入
先にも述べたが、当社も昨年より外航海運へ
参入した。
本業の内航海運は好調に推移しているが、あ
えて当社の役員は外航への参入を決断した。
理由は大きく分ければふたつ。①沖縄-本土
間の片荷輸送の改善 ②今後外航海運へ参入す
ることでの当社のさらなる飛躍の2点である。
資源のない沖縄から本土向け移出貨物を探すの
写真-1 高雄港を出港する琉球海運の船舶
は、太平洋に沈んだ小さな石を探すのと同じ。い
つかは見つかるかもしれないが、それがいつに
4.沖縄主導型の国際航路サービス
なるかわからない。それなら、海外からの輸入
紆余曲折しながらも外航海運への一歩を踏み
貨物を那覇に集約し、本土向けに移出すること
出すことができたが、航路を開設する前に沖縄
33
2015. 新北風 October
No.74
のお客様を積極的に訪
表-2 世界の主要港湾コンテナ貨物取扱量順位
問し、今の沖縄におけ
る外航海運への満足度
について調査した。
その中で多かった意
見が、①
「運賃が高い」
②
「スケジュールが安定
していない」③
「いつ貨
物が届くのかわからな
い」などといった回答が
多数を占めた。
①と②については那
覇港が地方港という位
置づけであり、地理的
な立地条件はいいが貨
物がないという根本的
な理由と、配船する船
舶が小型であることに
加え配船数が少ないた
めスペース不足による
運賃相場が高いことが
主な要因。また、気象
によるスケジュールの
遅 れ が 生 じ た 場 合 は、
オンスケジュールにす
るために那覇港で調整
(抜港)などを行ってい
るためである。
しかし、③の
「いつ貨
物が届くかわからない」
というものは、地元の
船社や代理店がお客様へのサービス意識を高める
応が可能となり、お客様の
「不満」を
「満足」に変
だけで改善できるのではないかと思える。例えば
えていくことができる。すなわち地域密着型の
船舶のスケジュール変更やいつ船が入港するのか
対応が可能になると考えられる。
といったことは、お金をかけなくても船社や代理
当然、船のスケジュールもお客様が安心して
店がお客様へ迅速に連絡することで解決できる。
使っていただけるよう長期的かつ安定的な航路
当社は地元企業として、こういった沖縄にお
運営に努めていくことを使命に運航に務めたい
ける外航海運の
「不満」
を改善することで那覇港に
と考えている。
おける外航の地位を向上させたいと考えた結果
が、沖縄のお客様へのきめ細いサービスを沖縄の
5.沖縄から世界各国へ
企業が行う沖縄主導型の国際サービスと考える。
当社船の配船は台湾の高雄港だけである。
沖縄の地元企業ということは常に沖縄のお客
那覇と台湾だけでは、思うほど貨物量は見込
様の近くにいるということで、迅速な連絡や対
めない。沖縄と台湾は以前から物流や交流が盛
34
No.74
2015. 新北風 October
んであったと述べたが、さすがに台湾と沖縄間
の貨物量だけでは収支をよくすることは難しい
であろう。
当社が台湾の高雄港を選択した理由はそこに
ある。
高雄港は年間のコンテナ取扱量は900万TEU
以上。かつては世界第3位にもなった大きな港
可能となった。ちなみに高雄港から商船三井の
ルートは主に北米など11航路あり、高雄港から
他港でさらにトランシップすることによってそ
の数は90航路以上となる。特に高雄港により近
い香港へは、金曜日に那覇で船積みすると、翌
週火曜日には香港に到着する。最短4日のリー
ドタイムで輸送することが可能となった。 こ
湾である。近年は中国各港や韓国・釜山などの
急速な発展により順位は落としたものの、取扱
量が減ったわけではない。しかも、その取扱量
の大半がトランシップ貨物ということで、世界
各地から高雄港で積み替えられ目的地に運ばれ
ている。すなわち高雄港は世界でも上位に位置
するほどの取扱量があるハブ港である。
当然、那覇向けのコンテナ貨物も高雄港を経
由して運ばれているものもある。当社はそう
いった世界各国から高雄港を経由して入ってく
る貨物の輸送を安定・安全輸送し、沖縄のお客
様へお届けする使命を持ってこの台湾航路の運
航を行いたいと考えている。
さらに輸入だけでなく、沖縄からの輸出につ
いても同様のことがいえる。
当社は、昨年12月外航海運の最大手である商
船三井と業務提携した。同社は世界のコンテナ
船の船体規模
(TEU)
でもトップ10に入るほどの
最大手である。
当社が那覇から高雄港まで輸送した貨物を、
高雄港から商船三井のルートに接続すること
で、台湾以遠への輸出貨物を取り扱うことが
写真-2 那覇港からの貨物を高雄港に陸揚げする
れにより、那覇で当社船に積めば世界のどこへ
でも輸出ができるという環境を作ることができ
たのである。
6.最後に
当社も新たな外航という分野に足を踏み入れ
沖縄の外航海運の地位向上、沖縄の立地条件を
十分に活かすための物流網の構築、そして内航
のようなお客様により近い存在としてのソフト
面の対応を今後も目標として進めていきたい。
できることなら、先に述べた沖縄の外航海
運の不満足部分である
「運賃が高い」
、
「スケ
ジュールが安定していない」
、
「いつ貨物
が届くのかわからない」といったことを
少しでも改善できればと考えている。
ただし、すべて当社だけでできるもの
ではない。当社はあくまでも橋を架けた
だけである。
当社を含め関連各社や県内のお客様の
協力を得ながら、台湾へ架けた小さな橋
を大きく頑丈なものにしていきたいと考
えている。
今後も沖縄の地元企業としての責任と
誇りを持ち続けながら、この沖縄発の国
際航路を充実させるよう尽力したいと思
図−1 国際航路サービスイメージ
う。
35
2015. 新北風 October
No.74
ReportⅡ レポートⅡ
県内におけるクルーズ船の受け入れ体制の課題と展望
城間 秋乃
㈱りゅうぎん総合研究所 調査研究部 研究員
SHIROMA Akino
はじめに
然環境や独自の歴史・文化などが寄与し、入域
2015年のクルーズ船の寄港回数は、過去最高
観光客数は増加基調で推移した。2014年は716
を更新した2014年の162回を上回る247回が予定
万9,900人と初の700万人を突破し、2015年は8
され増加のペースは一段と高まる見込みであ
月末現在で累計336万8,300人、前年同期比9.7%
る。2015年7月には那覇港に3隻、石垣港に1
増となっている
(図−1)
。
隻の計4隻のクルーズ船が同日に接岸、2015年
近年の傾向として、外国客の入り込みの急激
8月には世界最大級である16万7,800トンの米国
な増加が挙げられる。入り込みの増加にとも
客船が那覇港に寄港するなど話題を集めた。全
なって入域観光客数に占める外国客の割合の高
国の他の港湾と比較しても、県内の港湾
(那覇
まりも目立っている。入域観光客数全体に占め
港、石垣港)へのクルーズ船の寄港回数は上位
る外国客の割合はこれまで1〜6%台で推移し
に位置する。欧米の船舶会社が、発展するアジ
ていたが、2013年は9.5%、2014年は13.8%と前
ア市場へ積極的に進出し、船舶の大型化を進め
年をさらに上回った。国内客の割合が圧倒的な
るなかで、アジア諸国との距離が近いという地
のは依然変わらないが、外国客の増加率は大き
理的優位性を持つ沖縄において、クルーズ船の
な伸びをみせている。
寄港はさらなる成長が期待できる。本レポート
図−2は、外国客の航路別推移である。2010
では、今後も順調な伸びが期待されるクルーズ
年頃までは空路と海路いずれも同数程度で推移
船の動向について、これまでの受け入れ体制や
していたが、その後は空路が海路を大きく引き
現状の課題を整理し今後を展望する。
離し、急激に伸びている。空路の急激な増加の
背景には、外国客の旺盛な旅行需要の高まりに
対して、需要の受け皿が整備されてきたことに
概 況
ある。各航空会社での新規航空路線の拡充、短
(1)
入域観光客数の推移
1972年に約56万人であった入域観光客数は、
距離を得意とするLCCの台頭などにより、特に
沖縄海洋国際博覧会が開催された1975年には
中国や台湾、香港などからの入り込みが増加し
100万人を突破した。その後伸び悩む時期もあっ
ている。一方の海路が空路に引き離されている
たが、美しい海と暖かい気候という恵まれた自
要因は、需要の高まりに供給が追いついていな
(%)
15.0
全体に占める外国客の割合
(万人)
800
10.0
5.0
0.0
700
いことが考えられよう。
(万人)
80
70
600
60
500
50
400
40
30
300
20
200
10
100
0
0
1972 75
80
85
90
国内客
95
2000
外国客
05
出所:沖縄県文化観光スポーツ部「観光要覧」,「入域観光客数概況」
図−1 入域観光客数の推移
36
No.74
2015. 新北風 October
10
14年度
2005
06
07
08
09
空路
10
11
12
13
海路
出所:沖縄県文化観光スポーツ部「観光要覧」,「入域観光客数概況」
図−2 外国客の航路別推移
14 年度
2014年の外国客の入り込みを国籍別にみる
と、台湾の割合が高いことが分かる
(図−3)
。
特に目に付くのが中国本土からの入り込みの増
(回)
300
247
250
20
200
乗客数(右目盛)
加で、2009年に1万7,700人だったのが2014年に
150
は12万9,600人と、約7.3倍の伸びを示している。
100
100
61
50
(万人)
100
(万人)
25
0
21
30
2006
07
80
102
112
126
52
65
56
97
38
47
49
56
57
52
53
67
08
09
10
11
12
15
10
73
40
28
3
14
97
162
125
128
5
80
0
(左目盛)
那覇港
石垣港
平良港
13
14
その他
15 年
(見込み)
出所:沖縄総合事務局(一部ヒアリングに基づく)
※港湾管理者(沖縄県、那覇港管理組合、宮古島市、石垣市)からのヒアリングに基づく
60
40
図−5 県内のクルーズ船寄港回数の推移
20
る。沖縄へのクルーズ船の寄港回数は全国で上
位に位置することが分かる。2009年から2014年
0
2009
10
台湾
11
韓国
12
中国本土
13
香港
14 年度
アメリカ
までの港湾別寄港回数をみると、那覇港と石垣
その他
港が例年10位内に入っている。沖縄を含め博多
出所:沖縄県文化観光スポーツ部「観光要覧」,「入域観光客数概況」
図−3 外国客の国籍別推移
や長崎、鹿児島といった九州・沖縄の複数の港
以下は、国籍別・航路別でみた外国客の入り
湾が、横浜港や神戸港などの大都市の港湾と伍
込み状況である。韓国や香港は空路からの入り
して上位に入っていることも特筆されよう。
込みが多く、海路による入り込みのほとんどが
台湾、中国である。なお、海路の「その他」は全
体に占める割合が約4割と大きいが、主にク
ルーズ船の乗務員がこれに該当するとみられる
(図−4)
。
表−1 2009年〜 2014年港湾別クルーズ船の寄港回数(上位10港)
順位
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
2009年
港湾名
回数
横浜
127
神戸
93
那覇
57
長崎
49
博多
46
石垣
38
広島
30
名古屋
29
鹿児島
28
宮之浦(屋久島)
25
2010年
港湾名
回数
横浜
122
神戸
103
博多
84
長崎
54
鹿児島
52
那覇
52
石垣
47
名古屋
27
宮之浦(屋久島)
25
広島
22
東京
22
2011年
2012年
2013年
港湾名
回数
港湾名
回数
港湾名
横浜
119
横浜
142
横浜
神戸
107
博多
112
神戸
博多
55
神戸
110
石垣
那覇
53
長崎
73
那覇
石垣
49
那覇
67
東京
名古屋
28
石垣
52
長崎
宮之浦(屋久島)
23
名古屋
43
博多
長崎
21
鹿児島
34
名古屋
広島
19 別府(大分県)
34 二見(父島)
鹿児島
18
大阪
33
広島
回数
152
101
65
56
42
39
38
35
29
26
2014年
港湾名
横浜
博多
神戸
那覇
長崎
石垣
小樽
函館
鹿児島
名古屋
回数
146
115
100
80
75
73
41
36
33
30
出所:沖縄総合事務局
(万人)
80
(3)
これまでのクルーズ船の受け入れ体制
70
①概要
60
50
県内でのクルーズ船受け入れは、1997年に県
40
内の船舶代理店を通してマレーシアの船舶会社
30
が台湾からの定期便を就航したことがはじまり
20
10
0
空路
海路
2009
空路
海路
空路
10
台湾
海路
空路
11
韓国
中国本土
海路
空路
12
香港
海路
13
アメリカ
空路
海路
14 年度
その他
出所:沖縄県文化観光スポーツ部「観光要覧」,「入域観光客数概況」
図−4 外国客の国籍・航路別推移
(2)
クルーズ船寄港の推移
である。1997年の海路による外国客の入り込み
は1996年 の2万3,100人 か ら 3 倍 近 い6万2,300人
に増加した。その後、他の船舶会社の参入や中
国や香港をはじめとしたアジアからの就航など
から増加の傾向が続いている。
クルーズ市場は、一般的に価格帯ごとにラグ
県内へのクルーズ船の寄港回数は、2014年に
ジュアリー、プレミアム、カジュアルの3つに
162回と過去最高の実績となった。内訳は那覇
分類される。日本におけるクルーズ形態の主流
港80回、石垣港73回、平良港3回、その他6回
は高額で豪華さが志向されることからラグジュ
(本部2回、座間味2回、西表島2回)となって
アリーやプレミアム市場が中心であるが、世界
いる。また、2015年の寄港回数の見込みは2014
的にはカジュアル市場が主流である。
年を大幅に増加し、247回を予定している
(図−
県内に寄港しているクルーズ船も低価格のカ
5)
。寄港する船舶会社を国内、
国外別にみると、
ジュアルが大部分で、運航経路をみると台湾─
日本船社22回、外国船社225回と、全体の91%
石垣─那覇─台湾、中国─那覇─中国などが多
が外国船社となっている。
く、期間は2泊3日から4泊5日程度でアジア
全国の港湾別寄港回数をみたのが表−1であ
からのショートコースが中心となっている。
37
2015. 新北風 October
No.74
クルーズ船は航空旅客機に比べ手荷物の重量
3万トン程度が一般的であったが、その後カ
制限がゆるいため、買い物を存分に楽しむこと
ジュアル層の増加にともないクルーズ船の大型
ができる。他方、天候に左右されやすい点もク
化が急速に進行している。1990年代の造船の平
ルーズ船の特徴である。これまでクルーズ船の
均は5万トン以下であったが、近年では平均10
寄港が夏場のみで冬場の利用がほとんどなかっ
万トン程度とおよそ2倍の大きさになってい
たのは、冬場はしけの影響からキャンセルが増
る。クルーズ船客の一人あたりの消費単価は入
えることが要因である。
域観光客全体の3分の1にも満たないが、航空
②旅行目的
便と比較しても乗員乗客数が多く一度の入港で
県内を訪れる外国クルーズ船旅行の楽しみの
多くの入り込みとなるため、今後の発展によっ
代表的なものとして、カジノなどの船内での娯
ては大きな経済効果が期待できる。
楽や着地後立ち寄り先での買い物がある。沖縄
②那覇港のインフラ整備
県の「平成25年度外国人観光客満足度調査報告
2009年9月に那覇港のクルーズ専用ターミナ
書」によると、「クルーズ船旅行に参加した目的
ルの暫定供用がはじまった。以前はクルーズ船
」の57.1%が「一度乗ってみたかった」、次いで
の接岸は貨物専用の那覇新港埠頭国際コンテナ
22.5%が「船内の施設や娯楽を楽しみたかった」
ターミナルで行われていたが、13万トンまでは
であり、クルーズ船旅行そのものを楽しむこと
専用バースでの受け入れが可能となった。専用
を目的としていることがうかがわれる。また、
バースの岸壁は現在の長さ210mから340mに拡
同報告書において
「沖縄で行った活動」では全体
張中で、完成することで大型バス20台の駐車ス
の6割超をショッピングが占めている。
ペースが新たに確保可能となる。
③県内での立ち寄り先
2014年4月に供用開始されたターミナルビル
着地後の立ち寄り先は国際通り、ショッピン
には出入国審査、動物検疫、税関審査などの
グセンター、ドラッグストア、アウトレット
CIQ審査スペースが設置された。以前は船内で
モール、首里城公園、識名園などが挙げられる。
行っていたCIQ審査の手続きがターミナルビル
県内の旅行会社が企画する貸切バスでの団体ツ
内で可能となり、混雑緩和などから利便性が高
アーは、4時間程度の半日コースが中心で、前
まっている。また同年12月にはボーディングブ
述の買い物スポットや観光地のなかから3カ
リッジが設置され、クルーズ船からターミナル
所程度を組み合わせたツアーが主流となってい
ビルへ直接乗り降りすることが可能となった。
る。中国客の大部分が貸切バスでの団体ツアー
上記のとおり、県内のクルーズ船受け入れの
へ参加する一方、台湾客は比較的リピーターが
およそ半数を占める那覇港は、積極的に環境整
多く旅慣れていることもあり、貸切バスでの団
備を進めており、国内でもクルーズ船寄港に関
体ツアーに次いでタクシーを移動手段としてい
して先進的な港湾となっている。しかし、港湾
る参加者も多い。また、レンタカーの利用も一
施設の建設には10年ほどの期間を要する一方で
定数みられる
(表−2)
。
クルーズ船の造船は2〜3年であるため、港湾
施設の整備がクルーズ船の大型化に追いついて
表−2 滞在中利用した交通機関(複数回答)
全体
台湾
貸切バス
60.3
68.8
一般タクシー
24.6
34.8
観光(貸切)タクシー
3.3
7.1
レンタカー
4.1
4.5
モノレール・路線バス
13.6
23.5
徒歩
25.8
13.1
その他
11.3
6.6
出所:沖縄県「平成25年外国人観光客満足度調査報告書」
中国
92.1
7.9
1.9
0.3
3.0
9.3
4.3
その他
37.8
21.6
0.0
5.4
8.1
45.9
18.9
いないのが現状である。
③那覇港以外の開発・発展
平良港の寄港回数は、2014年は3回であった
が、定期便の就航が決定し、2015年は15回と大
幅に増加する見込みとなっている。宮古島は数
年前からクルーズ船の誘致活動を積極的に行っ
てきた。また、中城湾港ではクルーズ船誘致に
(4)
近年の変化
①大型化・大衆化
前向きな動きがみられ、今後クルーズ船が同港
クルーズ船受け入れ当初は県内では総トン数
にも定期的に寄港することが期待される。
38
No.74
2015. 新北風 October
課 題
(1)
インフラ整備
13万トン級以上のクルーズ船が寄港する場合
港湾などの現状を考察した結果、クルーズ船受
け入れの要素としては、以下4点が重要である
と考えられる
(表−3)
。
は、貨物専用の那覇新港埠頭国際コンテナター
ミナルへの接岸となる。世界的には22万トン級
のクルーズ船が運航しているが、県内での受け
入れはコンテナターミナルを利用しても16万ト
ン級が限界である。また、コンテナターミナル
表−3 クルーズ船受け入れの4要素
1.地理的優位性
2.観光資源や商業施設
3.インフラ整備の充実
4.住民の理解・積極性
は輸送のための設備であり、県民の物資供給の
1点目の地理的優位性についてはアジアから
要である。物資用の大型機材が多い環境では、
の距離が近いことから沖縄は国内の他地域と比
安全面で不安を抱えていることに加え、観光地
較し好条件にあろう。
としての景観や雨天時の対応など課題は多い。
2点目は、沖縄は元来、自然や歴史・文化な
また、受け入れ可能な港湾の数にも課題がある。
どの観光資源に恵まれており、加えて近年は商
県内には、離島を含め計45港の港湾が存在する。
業施設の発展も著しい。北部や離島地域には商
しかしクルーズ船が接岸可能な港湾は、那覇や石
業施設の充実に課題が残るが、むしろ中南部に
垣、平良、中城湾、本部などの数カ所のみで、多
勝る観光資源を活かした機能分担を目指すこと
くの港湾では難しいとされている。そのため沖留
が可能である。また、海外には港湾自体を観光
めをし、ボートなどでの上陸となるケースもみら
の目的地として整備する事例がある。これによ
れる。近年の需要の急増に受け入れ体制が十分に
り、最小限の移動で済むためランドオペレー
整っていない現状がある。那覇港では複数の寄港
ションの問題も緩和される。県内でも、将来的
が重なるため、2015年4月から先行き17年末まで
には検討する価値があろう。
の期間で43件の寄港を断らざるを得ない状況にあ
3点目のインフラ整備の充実については、ク
り、機会損失が生じている。
ルーズ船専用第2バースの整備や中城港湾での
(2)
ランドオペレーション
誘致計画など、受け入れのためのインフラ整備
これまではクルーズ船の寄港は夏場に集中
で今後いくらかの改善が見込まれている。整備
し、冬場はほとんど寄港がなかったが、需要の
された港湾を増やし、那覇港に集中するクルー
高まりを受けて年間を通して寄港するようにな
ズ船を離島やその他の地域に分散させるしくみ
り、繁閑の差が小さくなってきている。そのた
づくりを図ることにより、現存するストックの
め、修学旅行シーズンと重なる秋には貸切バス
有効活用や機会損失の解消につながるだろう。
の手配が難しくなる。16万トン級のクルーズ船
4点目の住民の理解・積極性については、県
が1隻寄港した場合およそ120台のバスが必要
内において一番の課題であろう。クルーズ船の
だが、沖縄総合事務局の「運輸要覧」によれば平
受け入れは近隣住民の理解が不可欠であり、ま
成26年3月末現在の県内の貸切バスの車両台数は
た積極的なポートセールスによって寄港が成功
869台
(うち離島82台含む)
で県内にある貸切バス
する。インフラ整備の充実のみではクルーズ船
の台数は限られている。目下、秋以降の貸切バ
受け入れの門戸が開かれているとはいえない。
スの確保が喫緊の課題となっている。貸切バス
これについては、今年度の宮古島での誘致の成
不足に関しては、バス運転手の不足がより深刻
功が参考になるのではないだろうか。
な問題という。県内と比べ賃金の高い県外企業
以上から、県内は1、2点目においては概ね
への流出などの理由から運転手不足に拍車がか
満たしており、3、4点目は今後の改善が期待さ
かっており、早急な解決策が求められている。
れる。今後も続くと見込まれるアジアを中心と
した旺盛な旅行需要を取り込み続けるためには、
今後の取り組み・展望
クルーズ船受け入れ実績のある県内や全国の
インフラ整備の充実とともに、住民の理解・積
極性に働きかける継続的な活動が必要であろう。
39
2015. 新北風 October
No.74
那覇港歴史
那覇港は王国時代から沖縄の表玄関として人や物資を迎え入れ、
送り出してきた。
那覇港が本格的な港
湾として整備される明治後期から、
第二次世界大戦での壊滅、
そして米軍統治時代を経て日本復帰前まで、
那覇港に寄航した船や出迎えた人々を紹介する。
また、
那覇港築港時の図面や戦前の沖縄観光の様子がわ
かる大阪商船の絵はがきなどの資料を掲載する。
(編集部)
資料提供:那覇市歴史博物館、沖縄県公文書館
第1期築港工事の完了した那覇港内
(沖縄風景、絵はがき)
那覇築港桟橋(琉球風景、絵はがき)
第1期築港工事に携わった沖縄県那覇港務所の職員ら
黒糖の積込み作業風景
(昭和初期)琉球王国時代から戦前にかけ、
沖縄からの輸出
(移出)
品目のトップは黒糖だった
工費78万円を投じて竣工した那覇港岸壁
(絵はがき)
西新町にあった大阪商船株式会社那覇支店
浮島丸
鹿児島那覇航路の首里丸
40
No.74
2015. 新北風 October
浮島丸一等食堂
浮島丸一等特別室
アルバム
那覇港内の沈没船を調査する米軍
那覇港を視察するブース高等弁務官(1958 年5月15日)
軍事物資があふれる軍港地区(1967 年 5 月)
大阪商船のアルゼンチナ丸
(1万600トン)処女航海で那覇寄港
(1958 年 5 月 18 日)
南極観測船宗谷丸那覇港に寄港。津堅島出身の嘉保博道甲板長
を大勢の人々が出迎えた(1960 年 4 月 16 日)
甲子園で「興南旋風」を巻き起こした選手を乗せた琉球海運「おとひめ丸」
(1968年)
米国からの台風災害援助米 3,000 トン譲渡式
(那覇港、1960 年 4 月 5 日)
第50回全国高等学校野球選手権大会で沖縄勢初のベスト4
の活躍を見せた我喜屋優主将と興南ナイン(1968 年)
那覇港で興南ナインを出迎える人々
(1968 年)
日本産業巡航見本市船さくら丸那覇港寄港
(1966 年 2 月)
41
2015. 新北風 October
No.74
那覇港修築計画平面図第一期
(明治 40 年~大正 4 年)
那覇港湾実測図(明治 24 年、明治政府により作成)
那覇港修築図第二期(大正 10 年~昭和 7 年)
大阪商船と沖縄
大阪商船は1884
(明治17)年創業の海運会社(商船三井)、 翌年から大阪沖縄線の定期航路を開始し
た。 129年後の昨年、商船三井と琉球海運の外港航路が接続し、那覇から世界各国への輸出が可能
となる国際航路が新設された。
大阪商船発行の乗船券
沖縄観光案内記事(昭和 12 年 12 月)
沖縄航路案内(昭和 15 年 10 月)
波上丸(絵はがき)
沖縄へ、大阪商船広告
(昭和 11 年 5 月)
沖縄へ 沖縄へ、
大阪商船広告
(昭和 14 年 4 月)
42
No.74
2015. 新北風 October
波上丸一等食堂(絵はがき)
波上丸二等食堂(絵はがき)
沖縄航路図(昭和 14 年)
TechnologyⅢ 技術Ⅲ
施工経験から得た長寿命化舗装
甲斐 辰美
元日本鋪道株式会社勤務
沖縄地区アスファルト混合物事前審査委員会 立入調査員
KAI Tatsumi
1.はじめに
運搬中の荷馬車からこぼれ落ちたロックアス
舗装の耐久性を高めることは、財源不足の今
ファルトが、往来する荷馬車の車輪によって平
日だけでなく、恒常的に道路技術者の目標であ
らに踏み固められ、なめらかな路面となってい
り、道路利用者ならびに沿道住民も希求すると
るのにヒントを得て、ローラー転圧によるアス
ころである。舗装の寿命が長くなることは、費
ファルト利用の実用をはじめたとある。
用対効果の向上が期せずしてもたらされ、環境
面からも好ましいことである。
2)我が国での起源
本稿は、平成9年からたずさわっているアス
我が国でも
「日本書紀」に燃ゆる土として記さ
ファルト混合物事前審査制度の立入調査員とし
れているほか、三内丸山遺跡では、石鏃の根元
て、特に混合物の品質と供用性が、長い歴史の
の矢柄に挿入する部分に天然アスファルトを接
中で評価の本質を問い直す必要を痛感し、現況
着剤として、また、岩手県の大洞貝塚遺跡で
や今後の課題として解決策を見出すきっかけと
は、鹿角製釣り針の糸を結びつける際、天然ア
したいとの思いから執筆した。
スファルトを塗って補強したものが、縄文後期
(約3000年前)の遺跡から発見されている。本格
2.アスファルト舗装の歴史
1)アスファルト利用の起源
的なアスファルト舗装の第1号は、明治11年
「神
田昌平橋」
の橋面舗装である。
アスファルト利用の起源は、紀元前2〜3千
年頃、城の構築に利用した記録がある。また、
3)
琉球式道路舗装
エジプト人のミイラにはアスファルトが詰めて
「しまたてぃ」No70に吉田朝啓先生寄稿文の
あり、さらに1498年コロンブスが第3回目のア
「琉球式道路舗装」がある。先生のお父様の旧友
メリカ航海を試みた際、途中
トリニダット島を発見し、そ
こで手に入れた天然アスファ
ルトで帆船の水漏れを修復し
ている。それが今日のTLAで
ある。
では、道路舗装に用いられ
た記録でみると、紀元前625
年〜 605年にバビロンのナボ
ラッサル王が行幸の道に、レ
ンガとアスファルトで築造し
て表面処理を施した美しく堅
固に仕上げた史実がある。近
代では、1849年にスイスの鉱
山技師メリアンが、偶然にも
図−1 アスファルト舗装の構成と各層の役割
43
2015. 新北風 October
No.74
末吉安久先生との昔話に、中国公使を迎えるた
上層路盤は流動がおきにくく、荷重伝達効果
めに築造された古代バビロンの行幸道路にも似
の高いマカダム工法が良い。
た舗装技術の話がある。その特殊な工法は、表
マカダム工法は、1800年代に発明され、その
面仕上げに花の茎・葉・花弁などを砕いてドロ
原理は、せん断破壊に強い大粒径骨材の十分に
ドロにしたものに石屑などを撒いて浸透させ、
締固められた空隙
「ゼロ」に近い構造の内部摩擦
繊維状のものを絡ませ美しく仕上げたというも
力にある。
ので、ヨーロッパのマカダム工法が中国を介し
インターロッキング
(粒そろい骨材のかみ合
て伝わった技術か、あるいは、もしかするとス
わせ)とダイレクタンシー(せん断中の体積変
コールの多い琉球独自の技術の可能性もあり、
化、いわゆる締固まったものがゆるむには、粒
夢を感じさせるものがある。
子が回転する粒径が大きい程回転半径が大きく
その抵抗は大きい)の関係でもある。したがっ
3.舗装の構造強化
て、材料分離がなく均一な岩石に近い強度を有
舗装を長寿命化するには、路床構築と砕石マ
し、砕石特性の弾性と柔軟性を生かすことによ
カダムやセメントマカダミックス等の剛性の高
り、全体を一つの人工床版として働かせること
い路盤を採用した舗装とすべきと考える。
にある。マカダム工法には、砕石マカダム、浸
透式マカダム、セメントマカダミックス、アス
1)
路床
ファルトマカダミックスがある。TAで評価す
設計CBR値の低い路床の処理には、①セメン
ると砕石マカダムで0.5 〜 0.8以上、後者の三つ
ト処理②石灰処理③抱束工法
(耐水ベニヤ、ジ
は基層としても採用でき、0.8 〜1以上は十分
オグリッド材、鉄板)工法がある。効果的な方
に評価できるものである。たとえば、昭和33年、
法として、舗装の総厚を低減して剛性にするこ
国道3号福岡市堅粕地区の路盤
(砂詰め砕石80
とと、交通振動低減効果を高くするローター混
〜 60t=20cm)
は、50年以上も堅固に現存して
合方式スタビライザー施工によるセメント安定
おり、そのTAは道路調査の結果から1.0 〜 1.12
処理
(t=30 〜 60cm)工法が適当である。また、
と判断している。
可能な限り高い設計CBR(8または12以上)で
マカダム工法は、昭和53年アスファルト舗装
構築する。
要綱改訂で抹消されたことにより、高度経済成
長期の大量の道路建設に熟練した技術・技能を
2)
路盤
必要としない粒度調整工法が主流となった。し
舗装破損の主な原因は、上層の粒度調整砕石
かし、舗装の破壊が大きなタイヤ圧によるせん
のダストや粘性の細粒材が軟弱化したための強
断破壊であり、ワーキングベースにせん断に弱
度不足が主因である場合が多い。粒度調整砕石
い粒度調整砕石を使用してきたことで舗装の破
の修正CBRが80以上でない要素として①最大粒
壊を大量に発生させた。
径が小さい。
(25mmより40mmが修正CBRは大
きい)
②粒度が細粒であることが考えられる。
3)基層・表層
アスファルトコンク
リートが、交通荷重を
支え下方に伝達できる
のは、混合物中の骨材
作用やアスファルトの
粘着力によるものであ
るが、理想的な骨材粒
度及びアスファルトと
図−2 砕石マカダム
44
No.74
2015. 新北風 October
骨材の配合比をどう設
にたまる。その結果本来は
フィラーに石粉を使用すべ
きところをダストでまか
なっている。アスファルト
ペーストの感温性を小さ
く し、 は く 離 抵 抗 性 を 増
し、粘弾性を改善する働き
が小さくなり舗装表面には
く離や流動が発生しやす
い。また混合温度が亜熱帯
図−3 ツルハシのノウハウ
にもかかわらず、九州と同
定するかは、理論的に解決されていない課題でも
じ160℃程度である。補設仕上げ後の舗装体温
ある。しかし、舗装破壊のメカニズムは、大きな
度が常温に冷めない状態で交通開放となり、初
タイヤ圧からくるせん断破壊であることから、舗
期わだち掘れの発生原因となる。セイボルトフ
装のせん断強度を増すためには、粘着力の大きい
ロール粘度から求めた混合温度は150±3℃であ
バインダーと、大粒径骨材を使用して骨材容積率
り、150℃程度に下げるべきであると考える。
を増やし、かつ、最大密度が得られる混合物にす
ちなみに立入調査時の練り落し温度は150℃
ることである。これは、長年の経験からも判断で
以下も複数あったが、十分に混合され供試体作
きる。
成にも問題はなかった。交通開放温度を10℃下
せん断強度を増すためには、粘着力の大きい
げることと、フィラーに石粉を使用することで、
バインダーを使うか、骨材の最大粒径を層厚の
路面のわだち揺れと湿潤時のすべりはかなり改
2/3にして骨材容積率を増やすかである。ここ
善されると判断する。
でいう骨材容積率
(VCA)は、骨材の占める容
積を締固め後の混合物の全容積で割り、これに
5.おわりに
100を掛けたものであると定義される。これは
平成9年から19年間、アスファルト混合物事
100から締固め後の骨材間隙率
(VMA)を引いた
前審査制度の立入調査員としてたずさわってき
ものに等しい。
た。発足当初からすると、骨材も均質で粒度も
このことにより、最大粒径を大きくし、粗骨
十分にふるい分けされている。また、各工場の
材料を多くすることが、耐流動、耐磨耗の特性
技術・技能員の努力と質の向上で、製造・管理
に対し最も有効である。
能力も高くなった。
物づくりは、作る構造物の特性をよく理解す
4)鶴嘴
(ツルハシ)
のノウハウ
るとともに、理論的な構造の組み建ての上に、
最近、土木の現場であまり見ないものにツル
良い材料と良い技術者が適切に施工を実施する
ハシを使う作業がある。ツルハシは正確な手仕
ことに尽きる。私も微力ながら貢献できたので
上げ作業をするための、理にかなった使いやす
はないかと、自己満足している。おかげ様で沖
い重要な道具であることを再認識すべきである。
縄には多くの友人を得て幸せである。
(図−3)
4.沖縄のアスファルト舗装
(石灰岩を骨材に使用した混合物の品質特性と供用性)
砕石のすりへり減量が25%程度と大きいた
め、スクリーニングスの細粒分が多くダストが
以下は技術とは無関係であり、あくまでも私見として述べ
たい。今年8月、沖縄での激戦の記録や遺物が展示してある
記念館と現地を見てまわった。当時のことを想うと胸が痛く
なり、数ヶ月早くポツダム宣言の受諾を決断していたならば、
沖縄、広島、長崎などの悲惨な事実は避けられたとの想いが
つのり、どうしようもない心情で、ただ、ただ黙とうするの
みであった。
大量にストックビン
(2.5−0)とバグフィルター
45
2015. 新北風 October
No.74
Administration
行政
「世界水準の観光リゾート地」
の形成に向けて
~「ウェルカムんちゅ」
になろう~
前田 光幸
沖縄県文化観光スポーツ部長
MAEDA Mitsuyuki
1 沖縄観光の現状と「世界水準の観光 リゾート地の形成」に向けた取り組み
2015年度は、沖縄県が、昨年度、観光振興計
1972年の本土復帰以後、沖縄県の入域観光客
に策定した
「沖縄観光推進ロードマップ
(~ 2021
数は1975年の海洋博覧会開催の後や2001年の米
年度)
」に基づいて
「平成27年度ビジットおきな
国同時多発テロ、最近では2011年の東日本大震
わ計画」をとりまとめ、観光収入約6,000億円、
災等の影響で一時的に減少することはあったも
入域観光客数760万人
(国内観光客640万人、外
のの、観光事業者、観光団体、航空会社、行政
国人観光客120万人)の目標を設定し
(図-2)
、
機関が連携して取り組んできたことで全体的な
国内客の安定的な確保と海外旅行市場での積極
傾向として増加を続けている
(図-1)
。2014年
的な誘客活動を展開するとともに、人材育成や
画の目標達成に向けて官民一体で取り組むため
観光客の受入体制の充実、沖縄観光ブランドの
強化等に取り組んでいる。
図−1 度は、過去最高の717万人
(国内観光客618万人、
外国人観光客99万人)と初の700万人台となり、
観光収入も過去最高の5,342億円となっている。
沖縄県は、
「沖縄県観光振興基本計画
(第5
図−2 次)
(
」2012 ~ 2021年度)で、本県観光の目指す
将来像として
「世界水準の観光リゾート地の形
成」を掲げ、2021年度に観光収入1兆円、入域
2 沖縄県の海外誘客施策の展開と
外国人観光客の増加 観光客数1,000万人
(国内観光客800万人、外国人
沖縄が
「世界水準の観光リゾート地」として認
観光客200万人)の目標を設定している。また、
知されるためには、国内に加え、海外の観光客
「世界水準の観光リゾート地」とは、
「洗練され
を積極的に誘客し、満足度の高い観光経験を提
た観光地としての基本的な品質を確保するとと
供することで国際的に評価される必要がある。
もに、独自の観光価値を発揮することにより、
そのため、沖縄県は2012年度に、
「沖縄観光国
アジア・太平洋地域における競合地との比較対
際化ビッグバン事業」等を立案して一般財団法
象の中で
『沖縄/OKINAWA』のポジションが確
人沖縄観光コンベンションビューロー(以下
立され、国内外において高いブランド力を保持
「OCVB」
)と連携して官民一体で取り組んでい
する観光リゾート地として認知されれた状態と
る。
なっている」
と定義づけている。
外国人観光客を誘客するには、海外の観光市
46
No.74
2015. 新北風 October
場で本県の認知度を高める必要があることか
ら、アジアや欧米等の各地で開催される旅行博
3 海外の観光市場における
「沖縄
観光ブランド戦略」
等への出展参加
(2014年度:13 ヶ国・地域で計
海外から誘客をするためには、先ず
「観光リ
56回)や沖縄観光セミナーを開催
(同:13 ヶ国・
ゾート地」としての魅力を伝えつつ、認知度を
地域で62回)
するほか、海外の旅行会社やメディ
向上させる必要がある。そのため、世界の著名
アの招聘事業
(同:延べ232社)
、県内事業者の
な観光地とされる国々などでは、
「ブランディ
海外セールス活動支援
(同:延べ224社)や海外
ング」
(ブランドの構築)を行うことで、観光地
の旅行関連メディア
(新聞、雑誌、TV)を活用
としての魅力とイメージの浸透、認知度の向
した情報発信等を行っている。また、本県へ
上につなげている。例えば、アジアの観光大国
外国人観光客を誘客するには航空路線の開拓や
とされるタイは
「Amazing Thailand」をキーコ
クルーズ船の誘致が必須条件であるため、航
ピーにブランディングを行っている
(図-4)
。
空チャーター便や定期便の就航及び安定運航、
クルーズの寄港に向けた国内外の船社訪問や、
キーパーソンの招聘、寄港に対する財政支援を
行うなど積極的に誘致活動を展開している。
これらの取り組みの効果と、円安傾向による
訪日観光需要の喚起という外部環境が相まっ
て、外国人観光客は2011年度の30万1千人か
ら2014年度は98万6千人へ急増している
(図-
3)
。多くの県民も外国人観光客の増加を実感
図−4 「Amazing」
には
「驚くほど楽しい」
「驚嘆すべき」
などの意味があり、そのような旅行体験をタイ
は提供するというプロモーションを展開してい
る。また、
最高水準の国際都市であるニューヨー
クの
「I♥ NY」
もブランディングの例である。こ
れらを参考に、沖縄県は、2012年度に世界15 ヶ
国17地域でのマーケティング調査や外国人を含
む有識者による検討会、外国の広告会社への委
図−3 託、県民意識調査、公開シンポジウム等を実施
して沖縄国際観光の新ブランド
「Be. Okinawa」
しているのではないだろうか。筆者自身も、こ
のキーコピーを作成した。
れまでは、観光スポットである国際通りで外国
「Be」は
「Be動詞」の
「Be」であり、
「存在」を意
人観光客がショッピングなどを楽しんでいるの
味すると同時に、
「行動を促す言葉」とされてい
を目にする機会はあったが、最近はレンタカー
る。
「Be. Okinawa」には能動的な語感があり、
利用が増加し、方々で外国人観光客を見かける
このキーコピーと、沖縄の歴史や文化、自然、
ようになった。統計的には、以前から来県者が
海、ライフスタイルなどをポスター等の静止画
多い
「台湾」に加え、
「韓国」
「香港」
「中国」が増え
やプロモーション動画としてビジュアル化し、
ており、外国人観光客に占めるこれらの国・地
サ ブ コ ピ ー( 図 - 5 の 例:Visit our Magical
域の割合は8割強となっている。一方で、タイ
islands in the pacific ocean)と組み合わせるこ
などの東南アジアや欧米からの観光客も増えて
とで、
「沖縄スタイルへの憧れ」
「沖縄来訪意欲
はいるが、伸びは顕著ではなく割合も低い。
の喚起」といった心理的な作用を生み出すこと
をねらいとしている。現在、台湾、香港、韓国、
47
2015. 新北風 October
No.74
で積極的に海外プロモーションを推進してお
り、外国人観光客は着実かつ急速に増加してい
る。しかし、来県した外国人が期待通りに
「Be.
Okinawa」を体験し、満足感を得てリピーター
となるためには、
「イチャリバチョーデー」の精
神があるというだけでは十分でないと考えられ
る。観光施設や宿泊施設、飲食店でのガイドや
接客、メニュー、移動の際のガイドマップ、案
内標識などの多言語対応や、外国人が快適にイ
ンターネットを利用できるWi−Fi環境の整備、
図−5 ショッピングの利便性を高めるカード決済や消
中国、タイ、シンガポール、マレーシア、イン
費税免税店の普及など、外国人観光客が満足し、
ドネシア、オーストラリア、イギリス、カナダ、
観光消費の増加や高い経済波及効果につなげる
フランス、ドイツ、アメリカ、ロシアの15 ヶ国・
には、これらの施策に取り組む必要がある。
地域で、最適なブランドイメージを醸成するた
そのため、沖縄県ではこれまで、多言語コン
めに、既存メディア
(旅行雑誌、TV等)による
タクトセンターを設置するほか、語学研修事業
広告プロモーションを行うほか、SNSを活用し
やメニュー、ガイドブック等の多言語への翻訳、
た動画配信等を行っている。
Wi−Fi機器、海外カード対応ATM、外貨両替
具体的に、SNSによる発信の取り組みとし
機、消費税免税システムの導入等へ助成を行っ
て、昨年度は滞在日数が多く、一人あたりの
ている。また、官民一体で受入体制の整備に取
消費額も見込める欧米豪露市場7ヶ国の個人
り組むためにOCVBと連携して
「外客インバウ
旅行者
(FIT)をターゲットとし、それらの国
ンド連絡会」を開催し、沖縄県の事業紹介や情
から参加を募った様々なキャリアを持つ男女
報交換を行っている
(2014年度は5回開催、218
7名が
「沖縄へ来て出会い」
、食文化や琉球舞
社参加)
。
踊、空手、ダイビング、音楽等を体験する動画
「OKINAWA A Journey of Discovery」を制作
し、
「You Tube」
等により広く配信した
(図-6、
5 「県民一体」
の外国人観光客の受け入れ
~「ウェルカムんちゅ」
になろう~
約200万回の再生)
。今年度はアジア市場をター
2012年度の観光収入約4,000億円は県外受取の
ゲットに女子旅や家族旅にフォーカスした動画
約18%、基地関連収入の2倍近くの割合を占め
を10月から配信する。
ている。
この観光収入に県民の県内旅行分を含めた観
光産業の収入は4,576億円で、関連産業に間接的
に波及する効果を合算した経済波及効果は6,767
億円、うち、雇用者所得や営業余剰等の付加
価値効果は3,497億円で県内総生産
(3.8兆円)の
9.2%に相当する。また、雇用効果は8万1千人と
推計され、雇用数は県内雇用の12.9%に相当す
る。沖縄総合事務局や日本銀行那覇支店等の景
況分析でも、県内景気を支えしている部門とし
て宿泊業や飲食サービス業などの観光関連産業
図−6 が挙げられる。このように観光が県経済を牽引
4 外国人観光客の受入体制の整備
上述のとおり、本県においては、官民一体
48
No.74
2015. 新北風 October
している一方で、宿泊業等では観光客の急増に
より人材確保が大きな課題となっている。また、
従来から、これらの部門では正規職員比率の低
民一人ひとりが
「ウェルカムんちゅ」になって外
さや従業員の定着、雇用条件の改善等が課題と
国人観光客を迎える機運を高めることを目的と
され、その対策として
「観光客の平準化」の必要
して、
「県民向け受入体制啓発プロモーション」
性が指摘されてきた。
を開始した。具体的には、比嘉栄昇氏
(BEGIN・
図-7は、2011年度から2015年7月までの月
ボーカル)のプロデュースにより県民が一丸と
別の入域観光客数を示している。従来、観光は
なって沖縄観光の魅力を再確認できるよう、県
「4~6月」
と
「11 ~2月」
がボトム期で、ピーク
民参加の下で楽曲
「いちゃりば結
(ゆい)
」を制作
の8月との差が大きく、それが正規職員雇用等
し、この楽曲を活用して県民が
「ウェルカムん
が促進されない大きな要因とされてきた。しか
ちゅ」になって外国人観光客に対するイメージ
し、近年の観光客の増加、特に、今年の4~6
のハードルを下げ、外国人観光客には県民から
月はこれまでの状況が大きく変化していること
歓迎されていることを感じてもらう動画を制作
を示している
(図-7の赤い棒グラフ参照)
。各
してウェブサイトで配信した
(写真-1)
。
月とも観光客は60万人を超え、その数は2012年
また、SNSによる配信やテレビ番組とのタイ
アップによる広報
(写真-2)
、テレビスポット
CM放映、那覇大綱引きまつりや沖縄の産業ま
つり等の会場での外国人観光客ウェルカムイベ
ントを開催している。今年度は、昨年度の内
容を部分的に踏襲しつつ、
「ウェルカムんちゅ
リーダー」の任命やオリジナル喜劇の制作等の
取り組みを追加して多くの県民に関心と共感を
寄せていただけるよう取り組むこととしてい
図−7 る。
「イチャリバチョデー」の精神が
「ウェルカ
ムんちゅ」になることで発揮されるよう県民一
丸で取り組みたい。
図−8 のピークであった8月を上回っており、その要
写真−1 因は外国人観光客の増加によるものである
(図
-8)
。この傾向が定着し、冬場のボトムが解
消され、雇用のミスマッチや雇用安定化の対策
が効果を挙げることで先述の課題は大きく改善
されることが期待されるが、一方で、言語、文
化や習慣が異なる外国人観光客の急増について
は観光事業者でも戸惑いがあるとされ、直接関
わることの少ない一般県民はその傾向はより高
いと思われる。
それを受け、沖縄県では、2014年度から、県
写真−2 49
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聖地巡 礼
~再びマブイに出会う旅へ④~
勝連文化とその源流を探る〜サバニをあやつる民〜
安里 英子
フリーライター 沖縄大学非常勤講師
ASATO Eiko
ヤブチ式土器との出会い
を用いた貯蔵用土器ではないかと推論した人が
勝連半島の中ほどに、平安座島や津堅島など
いる。
『ヤブチ式土器と屋慶名村の誕生』を著わ
の島々を結ぶ字屋慶名がある。その屋慶名の発
した仲地和雄と水野益継である。当時、宝貝や
祥の地として崇められているのが、周囲わずか
塩は貨幣同様の価値があったとして、ヤブチ島
4.13㎞の藪地島である。島は無人であるが、数
や屋慶名の浜にこれらの集積場所があったので
箇所の遺跡があり、かつて人々が住んでいたこ
はないか、とも想像をたくましくしている。
とを物語っている。この島を名高いものにし
たのは、1960年に国分直一、嵩元政秀によるヤ
ブチ洞穴
(ジャネーガマ)発堀調査で発見された
「ヤブチ式土器」
である。
勝連文化の基層
さて、ここで再び柳田国男が述べた
「勝連文
化」
について再考してみよう。ここでは嵩元政秀
同土器は薄く、垂直のしま模様が特徴で、お
の
「勝連文化」考
(高宮広衛先生古希記念論集
『琉
よそ6000年から6500年前の沖縄最古のものとさ
球・東アジアの人と文化』上巻)をもとに考察し
れている。今回、久々にヤブチ洞穴を訪ねたが、
たい。それは、勝連文化とは何か、そして、そ
幸運なことに60年以来の発堀調査が行われてい
れは存在するのかという問いに答えることにな
た。地元でジャネーガマと呼ばれている洞穴は、
る。まず、柳田が曖昧にした時代や範囲につい
牙をむき出し、巨大な口を開いた獰猛な生き物
て嵩元は、勝連という小範囲に限定せずに、与
のようだ。
勝半島を中心に金武湾や中城湾などを含む東海
岸全域を視野に入れたい、としている。その上
で、勝連文化の基層にある縄文中期から東海岸
に住んでいた人々の遺跡をあげている。たとえ
ば前原遺跡
(宜野座村)
、古我地原貝塚、藪地洞穴
遺跡などをあげ、それらの遺跡から例外なく地
元に産しない遺物が出土しており、奄美など他
の地域と交流があったことがわかると述べてい
る。また、弥生期になると宇堅貝塚群、平敷屋ト
ウバル遺跡などからも九州産物が出土しているこ
写真-1 発掘中のヤブチ洞穴
と。グスク時代には徳之島のカムィヤキなどが
伊計、平安座、浜比嘉,津堅、久高などで確認
今回、そのガマの入り口を発掘した際大量の
されているという。勝連城跡の出土品から勝連
ヤブチ式土器の破片が発見された。被されたブ
文化の特性を読み取ることについては、大和系
ルーシートの覆いを外して、特別に見せていた
瓦、特に鎌倉周辺に出土する瓦と共通するものが
だいた。5 ~6センチ方形の破片が多数埋もれ
あるとしている。柳田は、東海岸の海人たちが
ている。いったい、この土器は何に使用された
北へと櫂を漕ぎ、北の文化をもたらしたとする。
のだろうか。考古学的にはまだ確かな報告はな
しかし、嵩元は考古学的考察を行った上で、
いが、ヤブチ式土器は、製塩土器、もしくは塩
柳田がいう東海岸の
「勝連文化」
と、西海岸の
「浦
54
No.74
2015. 新北風 October
添文化」の
「系統上の差異」は確認できなかった
堂はその若者たちで占められている。一方、ア
と、
結論づけている。つまり、
同じような遺物が、
ガリノウタキに行ってみると、ウチカビを山ほ
どちらからも発見されたということである。
ど積み上げて、ウガミ
(御願い)をしている男女
がいた。女性はユタで、男性はその依頼者のよ
センネン貝が語るもの
うだ。観光でやってきた若者たちとは全く対照
私は、90年代に7年ほどかけて沖縄島、およ
的な光景だ。島の創世神話に由来するシロミチ
びその周辺の島々の聖地を巡ったことがある
ユーなど、島には多くの聖地がある。いや、島
が、そのとき、あることに気づいた。特定の地
自体が聖地といってよい。だが、橋を渡ったす
域の御嶽やグスクの拝所にセンネン貝が祀られ
ぐの道路の脇では、サンゴ石灰岩の小山を堀削
ていることである。特定の地域とは、以下に記
機で粉々に粉砕していた。橋が架かると交通量
す地域であるが、その地域は、奇しくも
「勝連
が増えるので、島の風景は急激に変化していく。
文化」
圏内と重なる。
それにしても島はサンゴ石灰岩そのものであ
る。雨が洞穴を生み出し、それがいにしえ人の
住処となり、信仰の対象ともなってきた。シロ
ミチユーの洞穴はその象徴的なものだが、今回、
ノロ墓を拝んだ際、岩を彫り抜いて造られた墓
の上部に、奥行きの深い洞穴の存在に気づいた。
島の凹凸、すなわち陰陽のバランスは島にとっ
て重要だ。自然が創りだした造形がこの島のエ
ネルギーを生み出してきたのだから。
写真-2 伊計グスクのセンネン貝
伊計島の浜辺でも、海水浴を楽しむ人々で賑
センネン貝が祀られていたのは、旧勝連町字
わ っ て い た。
内間の根屋、同じく内間の児童公園内の拝所
(内
だが、小中学
間部落遺跡)
、平安座東グスク、平安座西グス
校は廃校とな
ク、比嘉グスク
(浜比嘉島)
、イリヌウタキ
(浜
り子どもたち
比嘉島)
、泊グスク
(宮城島)
、伊計グスク
(伊計
の 姿 は な い。
島)など、8箇所である。事例としては、必ず
学校の校庭や
しも多くないが他地域ではみられない点で、な
周りには、多
ぜ、その地域だけなのかと想像をかきたてられ
くの拝所があ
るものがある。 る。 カ ミ ア
嵩元は、勝連文化と浦添文化は考古学的には
シャギ、地頭
差異はないと結論づけた。しかし、私はもう少
火ヌ神、イチ
し想像をたくましくしてみたい。かつて、たと
ド ン チ な ど。
えば平安座島の男たちは、それぞれに舟を所有
そしてゆるや
していたといわれ、奄美諸島などの島々をかけ
かな坂道を浜
めぐっていた。センネン貝は海の男たちの紋章
の方に歩いて
ではないのか。海の男たちの活躍、そしてそれ
いくと、道の真ん中にソーランガー(共同井戸)
を支える、女たちの祈り。これこそが勝連文化
がある。両脇にはガジュマルのトンネルが陰を
の源流といえるものではないだろうか。
つくり、今では蓋をされたままだが、かつてこ
写真-3 ノロ墓近くのガマから海を望む
こには、人々が集った。
変わる島々
島は生まれ変わりつつある。若いアーチィス
浜比嘉島へ。夏休みとあって島は若者たちで
トたちによって島ごとキャンパスになる美術展
賑わっていた。赤瓦の伝統的民家を改造した食
が今年も開催の準備が進められていた。
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2015. 新北風 October
No.74
トピックス
建設情報
No.62
年は災害復旧事業に係る査定手続きの簡素化が
図られていることを紹介するとともに、各種申
請書類等を検討・作成する際に必要とする技術・
制度等の理解周知を目的に実施した。講習では、
国土交通省水管理・国土保全局防災課の藤田成
人災害査定官と中村一郎基準係長を講師に招
き、災害復旧事業の実務や災害査定留意点、災
害採択の基本原則について学んだ。講習会には、
県および市町村職員や建設コンサルタント技術
沖縄県公共事業評価監視委員会
者ら約200人が参加した。
沖縄県公共事業評価監視委員会の鹿内健志委
員長
(琉球大学農学部准教授)は6月12日、県庁
に浦崎唯昭副知事を訪ね、平成26年度の審議概
要と審議結果を翁長雄志知事宛に答申した。平
成26年度は土木建築部関係で道路事業8件、公
園事業1件、河川事業1件、農林水産部関係で
土地改良事業1件の計11件を審議し、いずれも
「事業継続は妥当」
と判断した。鹿内委員長は
「県
民に役立つ公共事業の役割を踏まえ、継続に
当たっては意見に十分留意してほしい」と要望。
災害復旧事業の実務について学ぶ技術者ら
一方、答申を受け取った浦崎副知事は
「公共事
業は血税を基にしていることを踏まえ、今後も
国道331号中山改良全線開通
効率的で透明性ある事業を、県民の立場で推進
沖縄総合事務局南部国道事務所
(上原重賢所
したい」
と述べた。
長)が整備を進めてきた国道331号中山改良がこ
のほど全線開通し、7月14日に完成式が執り行
われた。完成式には行政や議会関係者をはじめ、
地権者や近隣住民らが参加し、三線の演奏や通
り初めで開通を祝った。中山改良事業は、玉城
志堅原から玉城中山までの延長1.8㎞の区間を交
通安全の確保や災害などによる通行止めの解消
と観光周遊の利便性の向上を目的に整備した。
審議結果などの答申を手渡す鹿内委員長(右)
県建設技術センターが災害復旧技術講習会
(一財)沖縄県建設技術センター(仲村守理事
長)主催による平成27年度災害復旧事業技術講
習会
(共催:沖縄県土木建築部)が6月30日、那
覇市のぶんかテンブス館で開かれた。同講習会
は、被災地域の迅速な復旧を支援するため、近
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No.74
2015. 新北風 October
全線開通した国道331号中山改良
トピックス
今回全線開通したことで国道331号は南城市の
合評価導入後も、安値競争に偏り技術競争が十
主要幹線道路として、より市民生活や観光と密
分に行われておらず、公共事業入札の落札率が
着した道路となった。開通を機に、地域の安全・
低下し建設業界の疲弊につながっている」と指
安心を創出し、南部地域のさらなる観光活性化
摘。さらに
「上限拘束の撤廃を含む予定価格制
に期待が寄せられた。
度の見直しや、交渉方式を取り入れた多様な発
注方式の導入が必要」と改善策を示した。また、
南部東道路起工式
元請と下請比率の設定や下請からの見積もりを
沖縄県が那覇市までの30分圏域の確立などを
反映した価格決定構造など、欧米諸国の入札制
目的に整備を進める南部東道路の起工式が8月
度を紹介した。ほかに沖縄総合事務局開発建設
8日、南城市の玉城農村改善センターで開催さ
部の新垣哲技術管理課長が
「公共工事の執行に
れた。同道路は南城市の知念・玉城の島尻東地
係わる最近の動向および沖縄総合事務局の取り
域から大里を経由して、那覇空港自動車道南風
組みについて」と題し、講演を行った。講演会
原南ICに結ぶ地域高規格道路で、事業区間は南
には約200人が参加した。
風原町字山川~南城市玉城垣花の約8.3㎞。工事
は事業区間を5区間に分けて整備する計画で、
すでに事業認可を得た3区間を含め、次年度に
は全区間で事業認可手続きを完了する予定。工
事は、集中豪雨の際に斜面崩壊が発生し、地域
住民の生活や交通に支障をきたすことがあった
4工区
(大城・新里工区)から優先的に整備を進
め、先行供用を予定している。南部圏域の産業
発展や観光振興への寄与が期待される大型事業
がスタートした。
欧米諸国の事例を紹介する木下氏
沖縄空手会館新築工事安全祈願祭
沖縄県が整備する沖縄空手会館新築工事の合
同安全祈願祭が8月18日、建設地の豊見城城址
公園跡地で開かれ、行政や施行関係者らが集い
着工を祝った。空手会館は、沖縄伝統空手を保
存・継承・発展させる拠点施設として整備する。
施設は、演武場や380席の観客席などを配置す
関係者が集い南部東道路建設事業の起工を祝った
沖縄しまたて協会講演会
(一社)沖縄しまたて協会
(白波瀨正道理事長)
は8月13 日、那覇市の県立博物館・美術館で
講演会を開催した。講演会では、元沖縄総合事
務局次長で日本大学生産工学部土木工学科教授
の木下誠也氏を招き
「公共事業執行システム改
革の道筋」について講演を行った。木下氏は
「総
沖縄空手会館完成イメージ模型
57
2015. 新北風 October
No.74
る武道棟
(RC造・一部S造/2階建て・延床面積
になった。県は赤字工事について
「安値落札や
約6,000㎡)
、伝統空手に関する歴史資料の展示
資材費高騰および工期延伸による経費増が主な
室を配置する展示棟
(RC造2階建て・延床面積
要因になっている」と分析。審議は制限価格引
約1,700㎡)
、沖縄空手各流派の開祖を祀る奥の
き上げの方向で議論が進んでおり、3回目の会
院
(約100㎡)で構成される。完成は平成28年秋
合では県内建設業界の現状把握や制限価格のあ
頃の予定。県では、空手会館北側隣接地に工芸
り方などについて検討を進め、早ければ年内に
産業振興の拠点施設
「工芸の杜」の建設や、老朽
も審議結果を取りまとめ、翁長雄志知事に答申
化した県工芸振興センターの移転も計画してお
する。
り、各施設を連携させることで、文化観光振興
の拠点形成を図る考え。
沖縄県衛生環境研究所工事安全祈願祭
沖縄県衛生環境研究所の工事安全祈願祭が9
沖縄県建設業審議会
月11日、うるま市兼箇段の建設予定地で執り行
平成27年度第2回沖縄県建設業審議会が8月
われ、工事関係者が安全を祈願した。同研究所
27日、県庁で開かれ県土木建築部発注工事の最
は、南城市大里にある現施設の老朽化が進んだ
低制限価格見直しに関する協議
(非公開)が行わ
ことを受けて、移転新築されることとなった。
れた。審議会は、建設業の改善等に関する重要
新施設は、各種研究スペースを備えた4棟
(A
事項について、知事の諮問に応じ審議する。
~ C棟とハブ研究棟)などで構成される。敷地
この日の審議では、県が平成26年度に実施し
面積は14,139㎡。建物はRC造一部S造2階建て。
た公共工事コスト調査の結果が報告され、受注
全体の延床面積は5,988㎡。完成は平成28年度を
工事の約4割が赤字になっている実態が明らか
予定している。
最低制限価格の見直しについて審議した
安全祈願祭がおこわれた沖縄県衛生環境研究所の建設予定地
講演会の案内
2015年度日本遺跡学会沖縄大会
「大会テーマ:グスク石垣の復元整備と課題」
沖縄の土木技術を世界に発信する会
「テーマ:激変する自然環境と土木」
日本遺跡学会では沖縄考古学会との共催事業として、標記の大会テー
マでの講演、研究発表、パネルディスカッションを開催予定です。下記
日程および詳細な内容については、日本遺跡学会HPなどでご確認くだ
さい。
沖縄の建設産業の振興を目的に、亜熱帯性地域・海洋性・島嶼性等の
特性を活かした土木建設技術の発展に寄与し、さらにこれらの成果を国
際的視野に立って東南アジアをはじめ世界に向けて建設技術を発信する
事を目的に平成8年10月17日に
「沖縄の土木技術を世界に発信する会」を
発足しました。毎年
「土木の日」
関連行事として講演会やシンポジウムを
開催しており、今年も下記の通り講演会を開催致します。
日 程:平成27年11月14日
(土)13:30 ~エクスカーション
(中城城跡、
勝連城跡)
平成27年11月15日
(日)9:30 ~講演、研究発表、パネルディ
スカッション
会 場:沖縄県立博物館・美術館 講堂
参加料・資料代:500円
主 催:日本遺跡学会 共 催:沖縄考古学会
内 容:講演2本、研究発表・事例報告5本を受けて、上原靜
(沖縄国
際大学教授)
をコーディネーターに、田中哲雄
(日本城郭研究セ
ンター名誉館長)
・福島駿介
(琉球大学工学部名誉教授)
・當眞
嗣一
(沖縄考古学会会長)
をパネリストとしたパネルディスカッ
ションを行う。
58
No.74
2015. 新北風 October
日 程:平成27年11月18日
(水)13:00 ~ 17:00(受付12:30 ~)
会 場:パレット市民劇場
(パレットくもじ9階)
主 催:
「沖縄の土木技術を世界に発信する会」
(土木学会西部支部沖縄会委員会)
共 催:
「土木の日」
沖縄地区実行委員会
内 容:山田正氏
(中央大学理工学部土木工学科 教授)
を招き、
「地球温
暖化の予測、適応策、緩和策に関する最新の情報」のテーマで
基調講演を行う。続くテーマ講演会では藍壇オメル氏
(琉球大
学工学部環境建設工学科 教授)
司会・総括で4題の講演を行う。
問い合わせ先:一般社団法人沖縄しまたて協会企画課 098(879)2087
沖縄県内建設関連情報 ●竣工・落成・供用・イベント等
行 事 名
開 催 日
糸満市照屋東交差点供 5月26日
(火)
用
沖縄県企業局水道週間 6月7日
(日)
イベント
県立石川青少年の家改 7月10日
(金)
築工事完成
数久田ダム起工式
8月18日
(火)
宮古島市スポーツ観光 8月30日
(日)
拠点施設着工
場 所
主 催
内 容
沖縄県が整備する主要地方道糸満与那原線
(照屋工区)の道路改良工事の一環で、糸満市照屋
(東)
交差点がバイパス部分の工事完了によりこのほど供用を開始した。従来の交差点は線形が悪く、
沖縄県南部土木事 糸満市街地方面から八重瀬町側の道路に進入する際に斜めに通行するなど、いびつな形状となっ
糸満市・照屋
務所
ていた。新たに供用した交差点ではきれいな十字路となり、線形が改善され円滑な通行が確保さ
れた。供用区間の延長は365m。旧道は歩道等を整備し、従来通り使用する。
県企業局は6月1日~7日の水道週間イベントの一環で
「おきなわみずひろば」を開催した。イベ
ントは、沖縄の水や水道について学び、水で遊んで親しんでもらうとともに、同局の事業を県民
う る ま 市・ 石 川 沖縄県企業局
に紹介し、ライフラインとして重要な役割を担っていることを知ってもらう目的で開催された。
浄水場
来場者は、沖縄本島の水や水道水、浄水場の仕組みについて講座を受けたほか、実際に浄水場で行っ
ている水づくりを体験。また、浄水場内の施設見学を行い、水道水ができあがる過程を学んだ。
老朽化のため、改築工事が進められていた沖縄県立石川青少年の家の本体工事が完成。新施設は、体育館棟・
宿泊棟・研修棟・レストラン棟・管理棟の5棟構成。敷地中央の広場を中心に各棟を回廊で連結し、機能的
うるま市・石川
沖縄県土木建築部
かつ開放感あふれる造りとなっている。施設の利用は、青少年に関する研修のほか、サークル活動や家族利
用も可能。改築を機に、社会教育の推進や県民の文化振興に寄与する中核施設としての役割が期待される。
数久田ダムは流水の正常な機能維持と、かんがい用水の補給を目的に重力式コンクリートダムを
整備するもの。ダムの堤高は19.5m、堤頂長74.5m。堤体積は8,350立方メートル。本体工事費は約
名護市・数久田
沖縄防衛局
18億円で設計は日本工営
(株)が担当。工事は準備工が進んでおり、平成27年度末には流転、平成
28年度には貯水池掘削と堤体掘削を開始、その後本体コンクリート工などを経て、29年度の試験
湛水を予定している。数久田地区の農業用水の確保と轟の滝の復活も期待される。
宮古島市が整備するスポーツ観光交流施設の安全祈願祭が行われ、行政や建設関係者ら約100人が
出席し工事の安全を祈願した。同施設は、
全天候型の大型イベントホールとして計画されたもので、
宮古島市・下里
宮古島市
敷地面積約4万1,576㎡、RC造+屋根S造、延床面積5,652㎡(建築面積6,068㎡)
。アリーナ面積3,600
㎡程度で、収容人員約5,000人、ゲートボール場6面、フットサル場2面が配置可能。市では施設
を活用した積極的なイベント開催で観光振興および地域経済活性化を図っていく。
●説明会・報告会・上映会・講演会・シンポジウム等
行 事 名
開 催 日
場 所
主 催
那覇空港滑走路増設工 6月5日
添 市・ 小 湾 同 那覇空港滑走路増
(金) 浦
協議会講習会
協議会会議室
設工協議会
沖建協による工業高校 6月25日
(木) 与 那 原 町・ 東 浜 (一社)沖縄県建設
生現場見学会
~9月10日
(木) ほか
業協会
現場代理人安全講習会
那覇労働基準監督署・
建設業労働災害防止協
添 市・ て だ こ
7月22日
(水) 浦
会沖縄県支部南部分会、
ホール
浦添西原分会、(一社)沖
縄県電気管工事業協会
沖縄市管工事協サモア 7月22日
(水) 沖縄市・安慶田
派遣成果報告
沖縄市管工事協同
組合
バイオ土壌浄化技術研 7月31日
覇 市・ 沖 縄 県 沖縄県商工労働部
(金) 那
究発表会
庁
沖縄県産業公社経営力 8月13日
(木)
向上セミナー
那 覇 市・ 産 業 支 (公財)沖縄県産業
援センター
振興公社
覇 市・ 那 覇 第
用地対策連絡会補償問 9月8日
(火)
・ 那
2 地 方 合 同 庁 舎 沖縄地区用地対策
題研究会
9日
(水)
連絡会
2号館
内 容
同協議会は、不当要求防止講習会を開催し、暴力団追放沖縄県民会議の前泊良昌専務理事を講師に、
建設業者や工事関係者に対する暴力団等の不当要求について学んだ。前泊専務理事は建設業は不
当要求者から注目されやすい環境にあると説明し
「不当要求に対しては組織全体で対応することが
ポイント。個人対応してはいけない。事実を把握し、
会社全体で毅然とした態度を示すことが必要」
と強調した。講習会には那覇港湾・空港整備事務所の職員を含めた約40人が参加した。
同協会主催による現場見学会は、県内の工業系高校で建築関連科目を学ぶ生徒を対象に平成3年か
ら開始され、これまでに約1万人を越える高校生が参加した。今年度は6月末から県内各地で実施
しており、県内5つの工業高校の7学科700人が参加する予定。6月には浦添工業高校インテリア
科2年生の約70人が与那原町の沖縄女子短期大学校舎建築工事現場を見学。さらに7月には、美来
工科都市環境科の1年生から3年生約100人が浦添市の牧港高架橋下部工工事現場などを見学した。
同講習会は、公共投資の見直しなどにより建設業が活況を見せる一方で、人手不足などで厳しい
工程や新規入職者の増加など、災害リスクが増大していることから、官民一体となった防止対策
の徹底を目的に開催された。現場代理人の基本的な考え方や建設業における労働災害防止規定と
取り組みのポイントなど、現場の安全管理の基本的事項などを学んだ。現場代理人約300人が参加
し、現場の安全管理意識の向上を図るため、受講者には修了証が交付された。
同組合は、独立行政法人国際協力機構(JICA)と沖縄県企業局の「沖縄連携によるサモア水道公社維持管理能力
強化プロジェクト」の成果報告会を開催した。今回の成果報告会ではプロジェクトの一環として、管路施工お
よび漏水修理指導を目的にサモアに約4週間派遣された同組合の東江康共氏(株式会社協築)が活動報告を行っ
た。東江氏は、これまでサモアからの技術者を沖縄で指導した経緯もあり、彼らの現地での仕事ぶりを見てみ
たかったと述べ、サモアで指導した感想を「彼らはスケールをもっておらず想定するという意識が低い。用途に
適しない工具を使うなど改善点が多々あり、現場を指導する職員の能力向上が必須」と今後の課題を指摘した。
同研究会は県商工労働部が、微生物や植物を活用した浄化処理技術の開発を目的に平成23年度か
ら
「微生物を活用した汚染土壌の浄化処理技術の開発」の補助金活用事業として実施している。5
グループで構成されるバイオ土壌浄化技術研究会
(会長・松田幸弘
(株)国場組参事)が研究活動を
実施している。発表会ではグループの各担当者が約3年間の成果などを発表した。
同公社が開催した建設業の経営力向上セミナーでは、宮沢賢氏
(宮沢財務オフィス)
が企業経営を維持す
るための
「資金繰り管理」
をテーマに、ケーススタディ形式で分かりやすく紹介した。宮沢氏は、建設
業の経営が難しい特性を3点指摘し、
「損益管理」
と
「資金繰り管理」
が会社経営の2本柱であると強調し
た。また、ある企業が自社の損益を全体会議で毎月社員に公表し、社を挙げて経営安定化に取り組んだ
成功事例を紹介し
「努力の結果を数字で明確に示すことがモチベーション向上につながる」
と力説した。
同連絡会
(事務局・沖縄総合事務局開発建設部用地課)
は、第22回補償問題研究会を2日間にわたっ
て開催した。連絡会は、県内の公共事業または公益事業を施行する国や地方自治体、公社などの
起業者から構成され、県内における公共用地の円滑な取得と公共事業の推進に寄与することを目
的に、公共事業用地の取得に関する損失補償に関する調査、研究、広報等の共同活動を行っている。
今回は11起業者17人が参加し、各用地補償案件を討議し結果を発表した。
●委員会・協議会・審議会等
行 事 名
西普天間地区における
国際医療拠点の形成に
関する協議会
第1回沖縄県交通安全
マネジメント検討会議
沖縄県道路メンテナン
ス会議
第2回沖縄鉄軌道プロ
セス運営委員会
沖縄県都市計画審議会
開 催 日
場 所
主 催
内 容
同協議会は、政府が今年3月に返還された西普天間地区の跡地利用を積極的に推進するために発足
宜 野 湾 市・ 沖 縄
させたもので、第1回目の協議会となった。今年度は調査費として9,500万円を計上し、国際医療拠
7月27日
(月) コ ン ベ ン シ ョ ン 沖縄総合事務局・
沖縄県・宜野湾市 点構想の推進を図る。会では協議会設置の趣旨やこれまでの経緯、県・宜野湾市・琉球大学の取り組
センター
み・検討状況などを報告、さらにフリーディスカッションや海外・国内調査計画等について協議し
た。7月24日には宜野湾市が跡地利用計画を決定しており、今後、協議会を通して検討を進めていく。
道路の交通環境等の整備について検討する同会議
(部会長・髙井嘉親沖縄総合事務局企画調整官)
では、市町村
那 覇 市・ 那 覇 第
等が管理する生活道路の事故対策について検討を行う方針を決めた。今後、
事故発生状況等を分析した広域マッ
8月7日
(金) 2 地 方 合 同 庁 舎 沖縄総合事務局
プを作成して、事故発生件数の高いエリアを抽出し、とくに事故発生件数が多い緊急性の高いエリアについて
2号館
は、国が自治体と連携してハンプ等を活用した事故防止対策の計画立案を行い、事故リスクの低減を目指す。
会議では、平成26年度に実施した道路施設
(橋梁、トンネル、道路附属物等)
の点検と診断結果が報告された。
那 覇 市・ 那 覇 第
診断では、緊急の補修等の措置が必要な
「Ⅳ区分」
と判定された施設はなかったものの、早期の補修等の措
8月17日
(月) 2 地 方 合 同 庁 舎 沖縄総合事務局
置が必要な
「Ⅲ区分」
に判定された施設は、橋梁11ヵ所、トンネル1
ヵ所、道路附属物9ヵ所の合計21ヵ所
2号館
にのぼった。今後、各施設の道路管理者によって点検と診断の結果に基づき計画的に修繕等が実施される。
今委員会
(屋井鉄雄委員長)では、県が今年度末に策定を予定していた鉄軌道整備計画について、
覇 市・ 沖 縄 県 沖縄県企画部
策定スケジュールの再検討を行っていることが明らかになった。当初予定では、今年度末に起終
8月21日
(金) 那
庁
点の概ねの位置や駅位置の考え方などを取りまとめた鉄軌道整備計画を策定する予定だったが、
スケジュール見直しにより、計画策定は次年度に持ち越される公算が高くなった。
今審議会では、1号委員
(学識経験者)
の任期満了に伴う新委員への委嘱状交付式と2号委員
(行政
機関職員)への委嘱状交付が行われたほか、第165回審議会も開催され、会長に嘉数昇明元沖縄県
那
覇
市・
サ
ザ
ン
副知事の再任が決定したほか、県決定議案3件を審議し、いずれの議案も承認された。承認され
9月2日
(水) プラザ海邦
沖縄県
た議案は①那覇広域都市計画道路の変更
(モノレール石嶺駅の自由通路設計見直しに伴う都市計画
の変更)
②那覇広域都市計画都市高速鉄道の変更
(変更内容は①に同じ)
③中部広域都市計画道路の
変更
(北谷交差点の隅切りを58号に追加することに伴う都市計画の変更)
となっている。
特集では、近年拡大を続け、港湾機能の強
化が著しい那覇港を取り上げた。
「那覇港」
という言葉の響きは、様々な事柄を連想さ
せる。初めて沖縄を離れ本土へ旅立った、親友を見送った、親
戚を出迎えた、など多くの人々の想いが岸壁に染みこんでいる。
別れのテープは消え大型クルーズ船が年間100隻近く寄港するい
ま、那覇港はどこへ向かおうとしているのだろうか。未来への
羅針盤に目を凝らし、持続的な発展を目指すためにも、これま
での港の歴史に思いをはせてみたい。規模こそ小さいが、那覇
港ほど多様で豊かな歴史を刻んできた港も希なのだから。
(T.S)
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2015. 新北風 October
No.74
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監修■建設情報誌しまたてぃ編集委員会 編集・発行■一般社団法人沖縄しまたて協会 〒901-2122浦添市勢理客4丁目18番1号
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2015年10月発行