会報 2015年3月号

2015 年 3 月号
隔月刊
日本ビジネス航空協会
(一般社団法人)
◇ 巻
頭
JBAA 理 事
成田国際空港株式会社 事業部門旅客ターミナル 部長
神崎 俊明
弊社は2011年よりJBAAに加盟させていただいております。日頃より会員の皆様には、
色々と勉強させていただくと共に、成田空港の運用にご理解、ご協力を賜り深く感謝して
おります。
さて、弊社がJBAAに加盟するきっかけとなったのが、2012年3月にオープンさせた専用
ターミナル「Business Aviation Terminal―Premier Gate―」の整備プロジェクトでした。
それまで、弊社は主にFSA(Full Service Airline)をメインターゲットとして空港を運用
してきましたが、現在、成田空港はあらゆる航空ニーズに対応できる『マルチ・ファンク
ション・エアポート』を目指しており、世界のトップエグゼクティブなどが利用するビジ
ネスジェットへの対応強化として、お客様に安心してご利用いただける専用ターミナルと
スポットを整備してまいりました。
おかげさまで当空港のBusiness Aviation Terminalはオープンして丸3年を迎えます。オ
ープン後も、大型のビジネスジェット機が駐機できるマルチスポット化や新たなアクセス
通路の整備等運用面の改善で利便性向上に取り組んで参りました。まだまだご不便をお掛
けしていることも承知しているところではございますので、引き続き我々に出来ることか
ら進めて参りたいと思っております。
ここで、最近の成田空港の話題についてご紹介させていただきます。
先日1月29日に、ビジネスジェットハンガーのオープンについて発表させていただきまし
た。これは、弊社が所有するハンガーのドック部(面積7,655㎡)をビジネスジェット用と
して株式会社エージーピー様にお借りいただくものです。引き続き準備が必要な部分もあ
りますが、近い将来には首都圏のビジネスジェット利用者のニーズに応える施設になって
いくことを、大いに期待しているところです。
BJ ハンガー内部
2
そして、本年4月8日には新たなターミナルビルとして「第3旅客ターミナルビル」をオー
プンいたします。
これはいわゆるLCC(Low Cost Carrier)をターゲットとしたターミナルで、ビジネス
航空とは対極にあるとも言えるニーズに応える施設ではありますが、折角の機会ですので、
簡単にご紹介させていただきます。
当空港には本邦LCC社だけでも、2012年夏からジェットスター・ジャパン、バニラエア
(就航当時はエアアジア・ジャパン)が、2013年秋からはピーチ・アビエーション、そし
て2014年夏からは春秋航空日本と、次々と就航していただいております。これまでは、第2
ターミナル内の暫定的な施設(ピーチのみ第1ターミナル)をご利用いただいておりますが、
今後の各社の旺盛な就航計画を考慮すると、既存の第1・第2ターミナルでは処理能力が不
足すること、またLCCのビジネスモデルに合致するターミナル整備が必要とのことから、
国際線、国内線を一体的に取り扱うことのできる専用ターミナルとして、第3ターミナルの
整備を進めて参りました。
第3ターミナルは、第2ターミナルから約500m北側に位置し、第2ターミナルからは専用
のアクセス通路により徒歩でもア
クセスできる立地となっておりま
す。施設は大きく分けて、出発ロビ
ー・保安検査場・CIQ施設が配置
される本館と、国内線搭乗ゲートと
なるサテライト、本館とサテライト
を結ぶブリッジ、そして国際線の搭
乗ゲートエリアと、4つのエリアか
ら構成されており、延べ面積は
66,000㎡、年間750万人のご利用に
対応できる規模になります。
ターミナル 3 外観
ターミナル 3 内装
第3ターミナルは、様々な面でこれま
での成田空港のターミナルとは異なって
おります。
例えば、第3ターミナルにはボーディン
グブリッジは無く、ターミナルから徒歩
で航空機までアクセスするコンタクトゲ
ートを整備します。これらのゲートでは、
搭乗橋の替わりに、「エプロンルーフ」
と呼ばれる伸縮式のトンネルのような設
備を使用して、雨や風を避けて航空機まで歩いていただける様にいたします。その他、近
3
傍の100番台をはじめとするオープンスポットの利用も想定し、バスゲートも整備しており
ます。オープン当初は国際線5スポット、国内線4スポットでスタートいたしますが、今後、
2017年3月を目指しコンタクトゲート2スポットとオープンスポット3スポットを、その後、
更なる3スポットの増設計画もございます。
また、LCCをターゲットとした施設であるため、「コスト削減」の工夫も随所で行って
おります。例えば、第1、第2ターミナルの出発ロビーは柱の無い吹き抜け空間になってお
りますが、第3ターミナルについては、柱を一律の間隔で配置し、吹き抜けを作らない、天
井を貼らない等、経済性を追求した作りとしております。
ビジネス航空の世界におられる皆様の目に、この新しいターミナルがどう映るのか―、是
非一度ご覧いただけますと幸いです。
弊社は、今後も成田空港が、既存のFSA、LCC、そしてビジネスジェットと、多様な航
空ニーズへ対応できる空港となることを目指して取り組んで参ります。
昨年は羽田空港にも専用ターミナルが出来、首都圏全体そして日本全体のビジネス航空
が盛り上がる要素が徐々に増えてきていると感じております。更に、東京オリンピック・
パラリンピックが開催される2020年までに訪日外国人旅行者数2,000 万人を目指すことと
されており、今後、訪日外国人旅行者数の増加とあわせ、海外の要人等による首都圏への
ビジネスジェットの飛来も増加していくものと期待しております。
今後も、これまで以上に皆様との連携を大切にし、日本のビジネス航空需要を支える一
翼を担えればと思いますので、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。
◇ ビジネス航空界のトピックス ・ 新着情報
Honda Aircraft 社の藤野社長、Aviation Industry Leader of the Year 賞を受賞
Honda Aircraft 社の藤野社長は、革新的な HondaJet の開発、製造、市場開拓、販売の功
績が認められ、Kiddie Hawk Air Academy が毎年贈る Aviation Industry Leader of the
Year Award を本年 1 月に受賞しました。なお、藤野社長は、昨年 8 月に SAE (Society of
Automotive Engineers) International から Kelly Johnson Aerospace and Vehicle Design
賞を、9 月には ICAS (International Council of the Aeronautical Sciences) から
Innovation in Aeronautics 賞を受賞しています。
2014 年の全世界の General Aviation 航空機納入機数
GAMA (General Aviation Manufacturers Association) の発表によりますと、2014 年に
納入された General Aviation 固定翼機の総数は 2,454 機で、前年に比べ 4.3%増加し、売上
高 245 億ドル(約 2.9 兆円)は、リーマンショック前の 2008 年に次ぐ、史上 2 番目の金額
となりました。一方、回転翼機の納入機数は 971 機で、好調であった 2013 年に比べ 24.7%
減となりました。航空機のタイプ別の納入機数の比較は、以下のとおりです。
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固定翼機
2013 年
2014 年
増減
1,030
1,129
+9.6
ターボプロップ機
645
603
-6.5%
ビジネスジェット機
678
722
+6.5%
2,353
2,454
+4.3%
$23.4B
$24.5B
+4.5%
2013 年
2014 年
増減
ピストンエンジン
335
230
-31.3%
タービンエンジン
955
741
-22.4%
納入機数
1,290
971
-24.7%
売上高
$5.3B
$4.9B
-7.5%
ピストン機
納入機数
売上高
回転翼機
注:2014 年のデータを集計した時点で、 AgustaWestland の第 4 四半期のデータが得られ
ていなかったため、同社の第 4 四半期のデータは、2013 年からも、2014 年からも除外
されています。
◇ 協会ニュース
平成 26 年度第 7 回理事会を開催
2 月 2 日、平成 26 年度第 7 回理事会を開催し、局長宛て新要望書提出後の進捗状況、IBAC
第 60 回理事会および MEBA 出張、ABACE 2015 での出展計画、ユーザー向けセミナーの
開催、協会ホームページの改善等について報告・討議が行われました。
ビジネスジェット・ユーザーセミナーを開催
2 月 12 日(木)
、東京国際フォーラムで、航
空局の後援を得て、
「ビジネスジェット・ユー
ザーセミナー」を開催しました。近い将来に
ビジネス航空機を利用して頂けそうな企業/団
体に直接出席を呼びかけましたが、17 社/21
名に参加頂くことができました。北林会長の
主催者挨拶、航空局航空戦略課からは山口課
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長補佐のご挨拶を頂いた後、ビジネス航空機のチャーター利用に関し、JBAA がその概要に
ついて、丸紅エアロスペース(株)と双日(株)が長距離国際運航について、朝日航洋(株)と中
日本航空(株)が国内および近距離国際運航について、静岡エアコミュター(株)と森ビルシテ
ィエアサービス(株)が空港連絡ヘリコプターについて、それぞれプレゼンテーションを行い
ました。今後のビジネス航空機の需要喚起に繋がることが期待されます。今後も、旅行業
界等ユーザー毎に的を絞って、セミナーを企画したいと考えておりますので、会員各位の
ご協力をお願いします。
ジェットブラスト問題
昨年 9 月頃から、地方空港にビジネスジェットを駐機する際、航空機の型式毎のジェット
ブラストのデータを事前に提出するよう求められるケースが散見されるようになりました。
飛行場の施設や定置物に対する安全管理強化のためと思われますが、ビジネスジェットの
場合、型式毎のジェットブラストのデータを入手することは極めて困難であり、且つ、ブ
ラストの安全上への影響は非常に小さいため、当局と折衝を続けています。
ABACE 2015 に JBAA ブースを出展
4 月 14~16 日の間、上海虹橋空港で ABACE (Asian Business Aviation Convention &
Exhibition) 2015 が開催されますが、JBAA は昨年の NBAA 2014 に引き続き、ブースを出
展します。ブースは、協賛頂く会員各社のビジネス拠点としてご利用いただく計画ですが、
出張される他の会員の方々もお立ち寄りください。
(Booth #111)なお、両隣が愛知県と成
田空港会社で、ジャパンブースの様相を呈します。
主要協会活動(1-2月)
1月5日
日本航空協会主催の賀詞交換会に参加
1月8日
東京都基地対策部来訪
1 月 20 日
日本ヘリコプター事業促進協議会の定例会に出席
1 月 29 日
航空局主催「高規格 RNAV 検討 SG」及び「小型機用 RNAV 検討 SG」に出
席
2月2日
同
2月4日
平成 26 年度第 7 回理事会を開催
北林会長「多摩地域経済団体横田飛行場民間利用促進協議会」発会式で講演
(株)IHI 来訪
航空局航空戦略課訪問
2 月 10 日
Cantor Air 社来訪
法務省入国管理局来訪
2 月 12 日
ビジネスジェット・ユーザーセミナーを開催
2 月 16 日
東京都商工連合会来訪
(株)共立航空撮影来訪
2 月 18 日
経済産業省オリンピック・パラリンピック準備プロジェクトチーム来訪
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◇ 会員紹介
中日本航空株式会社
国際ビジネス機事業室
室長
長江
操
中日本航空は昭和 28 年 5 月、名古屋空港(現県営名古屋空港)を基地として、セスナ機
2 機と数人の従業員でスタートしました。まさに、日本の戦後の航空史が記すように、時代の
要請と共に歩んできたと言えます。
現在は、県営名古屋空港内の本社および全国 10 ヶ所の運航所、6 ヶ所の県防災基地、
3 ヵ所の国の防災機の運航、12 ヶ所のドクターヘリ基地などと共に、約 700 名を超える従業員が、
航空事業並びに調査測量事業部門を柱に、社会の様々なニーズに応えるべく航空を中心とし
た業務に励んでおります。
今日ではあまり知られていない 60 有余年の弊社の歴史的エポックメーキングを振り返りながら、
現在までの歩みと、将来に向け取り組んでいこうとしている内容をご紹介させていただき
ます。
・時代を創ったエポックメーキングな出来事
1953 年 3 月 航空機使用事業免許(運輸省第 12 号)取得
同年 11 月
不定期航空運送事業免許(運輸省第 6 号)取得
1959 年 1 月 新春初詣遊覧飛行スタート
1960 年 5 月 名古屋鉄道株式会社、株式会社中日新聞社が経営参画
1961 年 5 月 水稲農薬散布スタート(初回は静岡)
同年 7 月
水陸両用機グラマングース G12A 型機による路線(不定期)の運航
1963 年 1 月 ダグラス DC-3 型 2 機導入
1964 年 6 月 名古屋~金沢の定期路線就航
同年 8 月
プロペラ機最新鋭機(44 人乗り)コンベア CV-440 型メトロポリタンを導入
同年 10 月
CV-440 型メトロポリタン 2 号機目を導入
同年 10 月
名古屋~富山の定期路線就航
1965 年 2 月 定期路線部門を全日空へ譲渡
1969 年 4 月 水産庁漁業取締パトロール飛行開始
1970 年 7 月 電波航法用機器修理事業免許取得、電気通信機器修理事業免許取得
1976 年 6 月 YS-11 型機による空中磁気探査を実施
1982 年 6 月 ベル式 206 型ヘリコプター修理免許取得
1983 年 7 月 ベル式 206L-1 型 1 機を救急医療専用機として導入
1984 年 4 月 ヘリコプター救急搬送事業開始
1987 年 6 月 名古屋空港本社・新社屋竣工
1988 年 3 月 3 トン以上の回転翼航空機修理事業免許取得
1994 年 5 月 ベル・ヘリコプター・テキストロン社認定工場(CSF)資格取得
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1997 年 9 月 航空機整備改造認定工場資格取得
1998 年 1 月 セスナ式 560 型機による国内不定期事業免許取得
同年 8 月
海外運航業務担当チーム結成
同年 11 月
アグスタ社サービスセンター資格取得
1999 年 2 月 国内臓器搬送第 1 回実施(高知)(セスナ式 560 型機による)
2000 年 2 月 航空法改正- 「航空運送事業」許可取得
セスナ式 560 型機による国際運航承認取得
2001 年 10 月 静岡県ドクターヘリ運航開始
2002 年 1 月 愛知県ドクターヘリ運航開始
同年 6 月
サッカーワールドカップ日韓共同開催観戦者の国際チャーター運航実施
2005 年 2 月 県営名古屋空港発足と同時に国際ビジネス機事業室設置、FBO 事業本格取組
2005 年 4 月 北海道・道央ドクターヘリ運航開始
同年 7 月
信州・佐久ドクターヘリ運航開始
2006 年 8 月 本社第二格納庫竣工
2007 年 9 月 ユーロコプター社 メンテナンスセンター資格取得
2008 年 1 月 福島ドクターヘリ運航開始
2009 年 3 月 青森県(八戸)ドクターヘリ運航開始
同年 10 月
北海道・道東ドクターヘリ運航開始
2010 年 9 月 北海道航空医療ネットワーク研究会 研究運航開始 (セスナ式 560 型機による)
2011 年 4 月 国内初 15 才未満臓器搬送実施(新潟)(セスナ式 560 型機による)
同年 10 月
信州・松本ドクターヘリ運航開始
2012 年 2 月 三重ドクターヘリ運航開始
同年 4 月
岩手県ドクターヘリ運航開始
同年 12 月
青森県(青森)ドクターヘリ運航開始
2013 年 4 月 広島県ドクターヘリ運航開始
・事業内容の変遷と特色
上記の時代を代表するエポクメーキングをご覧いただきますとお分かりいただけますとおり、
今日の定期航空運送事業の先駆者的取組みを行ったものの、短期でその役割を終え、産業
航空の分野に傾注し、社会が求めるニーズに応えるため、ヘリコプター、飛行機の持つ優れた能力
に必要な機材開発と装着によって、農薬散布、物資輸送、報道取材、航空医療搬送、空中
探査測量など広範なサービスの提供に努めてきました。
また、そうした航空機の整備及び搭載器材の装着経験に伴って蓄積された高度な技術・
エンジニアリング力を活かして、航空局の認証、海外の航空機メーカーの認定資格等を取得して、自
社機のみならず第三者の航空機(ヘリコプター)に対し、新造機の組立、耐空証明取得、計画的
整備さらには修理改造検査に関連するエンジニアリング、認証取得等、様々なニーズにお応えして
おります。航空技術の急速な進歩に伴い、当事業には留まることのない高度な技術力が求
められ、その習得に取り組んでおります。
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・将来を見据えたビジネスジェット機の国際運航
日本人の海外渡航の拡がりを受け、海外で事故や病気で日本国内の病院に移送するニーズ
が増えるとの予測から、1997 年セスナサイテーション V, C560 1 号機を導入、2000 年 2 月には航空
法改正に伴い、
「航空運送事業」免許(阪空振第 18 号)を取得し、国内外(中国、韓国、
東南アジア、ロシア及び地域)へのチャーター運航をスタートしました。実績としては、中国の北京、上
海、南京、延吉、瀋陽などからの救急患者搬送や、国(内閣府)からの要請による危険物
輸送などの実績があります。その他の飛行目的地としては、韓国、台湾、香港、ユジノサハリンス
クなどへの実績があります。
このような国際運航のための目的地空港の着陸許可及び関連の上空通過許可の取得、並
びに目的地空港でのグランドハンドリングサービスは、世界的なネットワークを持ち、高品質のサービスを提
供するユニバーサルアビエーション(本社:米国テキサス州ヒューストン)と直契約を締結し、迅速で的確な国際
運航サポートを得て実施してまいりました。今日においても、同国際運航で慣れ親しんだフライト
プランの作成システム(スタート時は On-Line システムではなく E-mail や Fax でやりとりを実施)は、
年々、グレードアップされ IFR による国内運航にも有益なツールとして日々活用しております。
以上のように自らの国際運航ノウハウは、後で記載いたします国際ビジネス機事業室の設立に
よる海外から県営名古屋空港へ飛来するビジネスジェット機のグランドハンドリング事業へと繋がっ
ております。
・国際ビジネス機事業室の設立と将来に目指すもの
2005 年 2 月、中部国際空港がオープンすると同時に、愛知県は国から旧名古屋空港の滑走
路以西の民間側を購入し県営名古屋空港として再出発を図りました。愛知県は、県営名古
屋空港をコミューター航空やビジネス機など小型機の拠点である「都市型総合空港」とすることに
より、日本で初めての本格的なビジネス機の受入拠点を目指すこととし、欧米先進諸国及び
アジアでは香港の事例などを参考にてビジネス機の往来に必要なインフラである FBO 施設を日本で
初めて開設しました。
また、指定外空港ではありますが、国の許可を受け外国籍ビジネス機の往来を実現し、
今日に至っております。当室は、ハードインフラの充実に沿い、税関、入国管理、検疫、植物
防疫、動物検疫各機関の関連法令に従った手続きのシステム作り、並びに飛来ビジネス機に必要
なすべての各種サービスを提供できる体制を作り、海外から飛来されるお客様に喜んでいただ
いております。
ビジネス航空及び FBO 機能の必要性は一般社団法人・日本ビジネス航空協会の努力により日
本中に広まり、成田国際空港、神戸空港、東京国際空港へと時代が要請する環境整備に発
展しました。
将来像として、弊社・当室は、自社機の国際運航経験、様々な種類の航空機の整備能力、
そして当室の海外から飛来するビジネス機のハンドリング実績などを基に、日本の企業が本格的
にビジネス機を使用する段階に至った時には、必要な海外機関の資格取得、人材の育成を図
り、それらを総合的に組み合わせてビジネスジェット機のマネジメントや購入支援等が出来ること、
また、当空港への外国企業のトップリーダーの来やすい環境を作ることにより、当地域への直接
9
投資案件の増大に寄与したいとの大きな夢やビジョンを描いています。
・航空事業の内なる国際化
過去、遡ること 10 年、取り分け最近 5 年のアジアにおける航空産業(定期航空部門を除く
ジェネラルアビエーション、ビジネスアビエーション部門)の著しい伸長は、各国の凄まじい経済成長と無縁
ではないと言えます。今や、世界の工場と言われた中国は巨大市場となり、ASEAN 諸国も
同じような道を歩んでおり、世界を牽引するポジションに成長しました。
これと相まって、そうした国々のグローバルな政治、経済活動を支えるトップリーダーの間で、
移動手段として時間の価値を最重要視したビジネス航空が活用されるようになり、航空産業
の主たるプレーヤーを監督する FAA(米国連邦航空局)の FAR(連邦航空規則)や、EASA(欧
州航空安全機関)の JAR(欧州航空規則)にプラットフォームを合わせた規則の導入をそうした国々
は進め、欧米先進国で製造された航空機の輸入と当該国での認証が迅速に行われるように
なってきています。
また、欧米先進諸国の航空機メーカーも需要の高いアジアの国々にサービスセンターや予備部品のデポ
を設けると共に、エンジニアを駐在させるなど、航空産業を支える根幹的役割を持つ規程・規
則等の体系の浸透と人材の幅広い交流を日常的に深めています。
一方、日本はそうした国際的なプラットフォームと異なる独自の規程・規則等の体系を維持して
おり、すんなりと関係者同士が業務を進めることができない状態にあります。また、仕事
レベルの英語を使いこなせる人材も多くなく、複雑且つ高度な国際商品たる航空機の整備、
運航などについて、海外の航空機及び装備品メーカーとの直接な交渉は容易ではない状況にあ
ります。
海外の航空機メーカーは、限られた経営資源を有効に活用するため、必然的に販売が順調な
国々に人的・金銭的資源を投入します。保有する航空機の効率的で安定的な運航、整備を
実現するためには、航空局には海外の航空当局同士との切れ目のない監督行政をお願いす
る一方、事業者側としても海外の航空機や装備品メーカー、並びに部品・装備品の修理&オーバー
ホール業者と対でやりとり、交渉が出来るエンジニア、メカニック並びにロジスティクスの人材育成を急いで
行っていく必要があると考えています。
・安全運航を支える全社的なコミットメント
SMS ( Safety Management System) は世界共通の日常的に使用される航空分野での用
語として定着するようになりました。航空事業は、人命及び財物への損害を被り易い近い
ところで業を営む数少ない事業の一つであります。そうした事業環境にあることを踏まえ、
リスク要因を掘起こし、未然に回避できる業務環境、仕組みの強化を継続していく必要があり
ます。特に、そうした日々の努力にも拘わらず不測の事態が起きる可能性を完全に排除で
きないのも現実であります。その場合のフォローは極めて重要であり、不具合の発生を正確に
早く把握することにより、二次的な損失を最小限にとどめることが可能となります。
常に、不具合を発生させない日常業務に徹するも、万一の場合には、対応の初動を的確
10
に進められるよう定期的な訓練などの実施にも注力しております。
また、新しい通信技術を持つ企業とのコラボレーションにより、航空分野特有の情報を共有した
安全を確保するための情報入手を可能にするシステムの開発と導入、並びに航空機のよりリアルタイ
ムに近い運航監視システムの開発導入などを進め、地上と機上との連絡システムの充実によって、よ
り良い安全な運航環境作りにも専心しております。
弊社は、弊社の大型ヘリコプターとセスナ機が 2001 年桑名上空で空中衝突し、尊い人命と財物を
失いました。このことは、その後の弊社の航空事業体制の有り方に大きな教訓を残し、今
日の SMS の取組みに大きく活かされております。
・時代を彩ったエポックメーキングのフォトギャラリー
(2003 年作成・弊社 50 年史等から引用)
←
1964 年 8 月、当時プロペラ機最新鋭機(44 人乗り)
コンベアー CV-440 型メトロポリタンを購入
←
1961 年 7 月、水陸両用機グラマングース G12A 型機に
よる路線(不定期)の運航
1963 年 1 月、
ダグラス DC-3 型
機 2 機導入
1976 年 6 月、
YS-11 型機による空中磁気探査をスタート
1997 年 7 月、セスナサイテーション V、1 号機を導入 急患者輸送専用装備品を搭載したセスナサイテーション V
11
2002 年 6 月、サッカーワールドカップ日韓共同
2005 年 2 月結成 国際ビジネス機事業室
開催観戦者の国際チャーター運航を実施
ハンドリングチーム
2002 年 1 月、愛知県ドクターヘリ運航開始
自社機の国際運航経験が礎となる。
大型ヘリによる吊り下げ材木搬出
(愛知医科大学)
↑アクセス困難なエリアへの工事用資材の吊り下げ輸送
←
工場整備部門では新造機の組立・
対空証明取得、計画的整備の実施、
修理改造検査に係わるエンジニアリング、
認証取得など広範なサービスを提供
12
◇ 投 稿
大空に遊ぶ
(前 篇)
(公益社団法人)日本滑空協会
理 事 吉 田 茂
はじめに
この機関紙に投稿するのは、本当に気が引けました。
寸暇を惜しんでビジネス・ジェ
ットで世界を駆け巡ろうとする方々とは真逆の世界、はるばる遠くの飛行できる場所まで
出かけ、数人以上で機体を準備し、飛び上がってまた同じ場所に帰ってくるのが基本のグ
ライダーの世界のご紹介です。
多くの方に、なんと、まあ、あほな事に時間を掛けてと
言われるとは思いますが、そんなことを趣味にしている人間がこの世に多少はいるのも事
実ですのでお時間がありましたらお付き合い下さい。
飛行の始まりはグライダーから
空を飛ぶ先駆けは、リリエンタール、ライト兄弟が有名ですが、彼らは驚くほどセンス
の良い機体を作り、ぶら下がったり腹ばいになったりして丘の上から下まで無動力で飛ん
でいますのでこれらは所謂グライダーです。
人類が空を飛ぶための道を開いたのはグラ
イダーであったことになります。
リリエンタールは、自宅の近くに 15m 程の小高い丘(飛行山)を作り、ここから自作の
グライダーで 2000 回以上の滑空飛行をしています。
ライト兄弟は、初めて動力飛行機での有人飛行に成功させたとして有名ですが、グライ
ダーを浮かせられる程の風
の吹く場所ということでノ
ースキャロライナのキテー
ホークにある砂丘を選び
1903 年の動力飛行に成功す
るまで、グライダーを使っ
て飛行技術を獲得したそう
です。 私は、グライダー・
パイロットである所為かも
知れませんが、兄のウィル
バー・ライトの次の言葉を
航空機事故のニュースに触
れる時などいつも思い出します。
Otto Lilienthal 1895 頃 "Fliegeberg"(飛行山)よりの滑空
“It is possible to fly without motors, but not without knowledge and skill.”
Wilber Wright
13
この動力機による飛行成功のあとは、飛行機の開発の方により力が注がれることになり
ました。 グライダー先進国はドイツと言われますが、1919 年第一次世界大戦後のベルサ
イユ条約により単座飛行機の製
造・飛行が禁止されたドイツでは
効率の高いグライダーの設計や
飛行の向上に努め、より遠くより
早く飛べるように自然の力の利
用を志向した結果でした。 この
ドイツの研究に刺激されたのか
も知れませんが、我国をはじめ他
の国々でもグライダーが盛んに
なっていきます。
1903 年 12 月 17 日、ライト兄弟が人類初の動力飛行機での有人飛行に成功した時の写真
戦前のグライダー活動
我国における戦前のグライダー活動は、黎明期の頃より滑空界をリードされた故佐藤博
博士(九州大学名誉教授)の口述をまとめられた、島田博雄氏の著書「青山白雲
滑翔の
詩」
(西日本新聞社)に詳しいので、そこから少しポイントを抜き出してご紹介してみます。
海軍の予備役少佐であった磯部鉄吉氏が日本グライダー倶楽部を結成し、プライマリー
型滑空機で練習を始めたのが 1930 年 6 月とあり、これに触発されて当時九州帝国大学の助
教授だった佐藤博氏と前田建一氏が翌 1931 年 6 月に「九州航空会」
を発足させたそうです。
この発足ビラには、
「滑空機は未だ吾国には2、3台しかありませんが、独逸等では 100 に
余る国中のクラブが年々、阿蘇高原の様な大自然の会場に、美しく勇ましい空のヨットを
持ち集り盛んな競技を行ひます(前後等略)
」とありますので、まさにこの頃がグライダー
の始まりであったと思います。
この「九州航空会」は、発足のビラを見て参加された志
鶴忠夫飛行士、その後佐藤博氏が九大の学生達と作った「九大航空会」と力を合わせ、阿
蘇高原をその飛行の場所として日本のグライダー界をリードしていく事になります。
佐藤博士達が九州航空会を発足させた 1931 頃の世界のグライダー記録を調べてみますと、
滞空時間 21 時間 34 分
コック(アメリカ)
飛行距離 275 ㎞
グレンホフ(ドイツ)
最高高度 2,300m
グレンホフ(ドイツ)
とあります。
九州航空会と九大航空会は、佐藤博士と前田氏のリードでこの記録を追いかけて、九帝
5型を設計・製造しますが、この機体で記録飛行をしに阿蘇行きを計画していた 1933 年に
は当時無名のクルト・シュミット(ドイツ)がワッサークッペでの大会で 36 時間 35 分の
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記録を出しており、これを知った佐藤博士と前田氏は「追いつき、追い越せ、なんていう
が、相手はどんどん雲の上に出てしまいよる」と唖然とした思いだったとあります。
この九帝5型は、1933 年の 8 月、久住高
原で 20 分の滑空飛行を成功せると翌 1934
年の 9 月には同じ久住山上の肥前ヶ城から
飛び立って 1 時間 27 分のいずれも日本記
録を達成し、
「阿蘇号」と呼ばれることにな
ります。 いずれも、操縦は志鶴飛行士に
よるもので、1時間を超える記録飛行の達
成に関係者は大いに興奮し感激されたこと
と思います。
日本記録を目指し、久住連山を翔ぶ九帝 5 型「阿蘇号」 青山白雲より
この後の展開は、元 NHK アナウンサーの川上裕之氏の著書「日本のグライダー 1930~
1945」
(モデルアート社)に判り易くまとめられておりますので、この著書から抜き出して
ご紹介します。
九帝5型の日本記録達成はたちまち世間の評判となり、逓信大臣に表彰されることにな
りますが、この頃各所で誕生していたグライダー研究会を大阪毎日新聞社が取り纏める形
で 1935 年 5 月に「日本帆走飛行連盟」が九州航空会や九大航空会など9団体の参加を得て
発足しました。
この発足には、佐藤博士が仲立ちの労を取っていたのではないかと川上
氏は推測しています。 確かに「青山白雲」では、この年の 10 月、グライダー先進国のド
イツからウォルフ・ヒルト氏を招いて約 2 か月半、日本中で展示飛行や操縦技術の教育を
して貰うことになりますが、この計画立案者は陸軍所沢飛行学校の飛行教官だった近藤少
佐で、その実現のためには、受け皿になれるような民間組織や新聞社の後援が必要であっ
たと佐藤博士自身が語っています。
競うようにこの年の 11 月には、朝日新聞社がそれまで力を入れていた学生へのグライダ
ー支援を取り纏める形で「日本学生航空連盟」を発足させ、この東西の 2 つの連盟がグラ
イダー活動を引っ張っていく事になります。
当時の世界情勢の中、グライダー活動には
各界からの支援もあり、翌 1936 年 9 月には、朝日新聞の主催により霧ヶ峰で開かれた「全
日本グライダー大会」には 42 団体が参加し、プライマリー20 機、セコンダリー6機、ソア
ラー6機を使って 102 名が競い合い、3 日間の関係者と観客は 12 万人を超えた(朝日・長
野)とありますので、国民の関心の高いものであったことが判ります。
(注)プライマリー;初級滑空機、
セコンダリー;中級滑空機
ソアラー;上級滑空
機のこと
1937 年元旦には、朝日新聞社は国産機で亜欧連絡飛行(東京~ロンドン)を実施すると
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発表し、使用機は「神風号」と命名され、その年の 4 月~5 月に大成功をおさめて国民を熱
狂させますが、この夏には北京郊外の盧溝橋から支那事変が始まり、時代は「非常時」に
入っていきます。
こうした中でグライダー開発や訓練、競技会などは、朝日、毎日とい
った大新聞社の後ろ盾と逓信省、文部省、軍部からの支援もあって活発に行われ、1938 年
にはグライダー製造会社 5 社(翌年には 6 社になる)による「日本滑空機工業組合」も結
成されます。
1940 年に計画されていた東京オリンピックの競技種目には、グライダーによる距離飛行
が入っていました。応募機 5 機が審査され、1939 年 2 月のローマの審査会には当時ドイ
ツ留学中の佐藤博士と東大の守屋富次郎氏が参加し、DFS マイゼ(Meise ; 四十雀)が使
用機として選定されて参加各国に図面が無償支給され、それぞれの国で製造されました。
日本でもドイツからの輸入機 1 機のほか、6 機が国産されました。 第二次世界大戦のた
め、1940 年東京オリンピックは中止されましたが、この機体は戦後も各国で製造され、大
きな影響を与えました。
オリンピア・マイゼ諸元
翼幅
; 15.0m
翼面積
; 15.0 ㎡
アスペクト比 ; 15
全長
; 7.28m
重量
: 159 ㎏
沈下速度
: 0.67m/s
滑空比(L/D)
; 25
滑空速度
; 66 ㎞/h
川上裕之著「日本のグライダー 1930~1945」より
戦前 日本のグライダー記録
滞空時間 ; 13 時間 41 分 8 秒(前田式 703 型ソアラー)1941 年 2 月 7 日
河辺忠雄滑空士 於 九州
高度
; 3,600m(美津濃 301 型ソアラー)1941 年 1 月 26 日
常国隆二滑空士 於 本州(生駒山)
飛行距離 ; 96.2 ㎞(日本式蜻蛉型ソアラー)1940 年 8 月 30 日
朝川竜三滑空士 於 満州
因みに当時の世界記録は、順に 36 時間 35 分、6,687m、652 ㎞で、日本のグライダー記
録との差をどう見るかは皆さまのご判断です。
筆者には相手の姿を前方に見えるところ
まできたように感じますがグライダー好きの贔屓目でしょうか。
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グライダーの飛行原理
グライダーの飛行原理は、ビジネス・ジェットを含め動力のある飛行機のそれと変わり
ません。
主翼に発生した揚力で機体を空に浮かべ、尾翼でその飛行姿勢を安定させ、エ
レベータ、ラダー、エルロンの3舵でその姿勢を制御して飛びます。
ただ、グライダー
には、機体を前進させるための動力を備えていませんので、常に高度を失いながら空を滑
り下るように飛ぶしかなく、その辺りが滑空機と呼ばれる所以です。
ーは、一旦空に上がれば一日何時間も飛び続ける事ができます。
それでもグライダ
これは、自然界にはグ
ライダーを飛び続けさせる程の上昇気流が存在しているからですが、この上昇気流の発生
メカニズムを知り、それを効率よく利用して飛び続けるのはパイロットの役割となります。
このためグライダーのエンジンはパイロットの頭脳であると言われたりもしますが、同じ
性能のグライダーを飛ばしても、高く、遠くまで飛ぶことができるかどうかはこの頭脳の
性能によるからです。
グライダーを長く趣味にしている人は、
「飛ぶことは学び、自分の心と向き合うこと」と
考えていますが、動力を持たず自然の力でしか飛べないグライダーですので、気流の仕組
みを理解し、変化を予想、判断して無事帰ってくるという飛行に取り組むうちに自然にそ
んな考えになっているのだと思います。
少し格好よく言いすぎかも知れませんが、まあ
趣味とは大概そんな趣で取り組んでいるものとご容赦下さい。
それではもう少し具体的にグライダーの飛び方に迫って見ましょう。
下図は、東大名
誉教授の東博士の著書からですが、滑空する動物やグライダーがどんな滑空性能を持って
いるかを比べたものです。
東 昭 著 「航空を科学する」酣燈社より 高性能グライダーとあるのは所謂ソアラー
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図は滑空する鳥や魚、ハンググライダー、高性能グライダー(破線)などの飛行速度(前
進速度)とその時の沈下率(降下速度)を直交する座標にプロットしたもので、ポーラー・
カーブと呼んだりします。
滑空するときの速度をその時の沈下率で割った値を滑空比と
いい、L/D として表わしたりしますが、この値が 30 とすると、その動物もしくはグライダ
ーは 1m の高度があれば 30m 前に飛べる事を意味します。 この沈下率を上回る上昇気流
がありそこに留まることができれば、上昇していくこともできます。
トンビなどが羽ば
たきもせずくるくる回りながら上昇して行くのをご覧になったと思いますが、まさにこの
原理で高度を稼いでいるのです。
筆者の経験では、春から秋にかけて晴天の日に発生する日本の平野部の上昇気流は訓練
用の複座グライダーを 2m/s 位で上昇させてくれます。 それではこんな日に、先ほどの「オ
リンピア号」(滑空比 25、滑空速度 66km/h)で、どれ程の距離が飛べるのかを考えてみまし
ょう。
まず、100 ㎞を飛ぼうと考えて、100÷25=4 ㎞=4000m の高度を稼ぐ必要がありますの
で、4000÷2=2000 秒=0.56 時間は上昇気流の中でくるくる回って上昇する必要がありま
す。 あとは 66km/h で 100 ㎞を飛ぶだけですので、100÷66=1.52 時間となり、上昇の為
の時間と足すと 2.08 時間、即ち 2 時間 5 分が計算で求められる必要時間となります。 上
昇気流の強さや発生する時間帯は季節や場所によっても異なりますが、午前 10 時から午後
17 時の 7 時間もあれば 300 ㎞以上飛ぶことも可能な計算です。
実際に飛べばこんな理屈通りにはいかないし、そもそも熱上昇気流の存在とその仕組み
が判りだしたのは、1940 年から 41 年にかけてだと「青山白雲」にありますので、戦前の
距離飛行記録は満州での 96 ㎞だったのだと思います。 国内での記録は、1940 年 8 月、
皇紀 2600 年を記念して富士山宝永山(標高 2600m)から西方にこのオリンピア号で飛行し、
大井川河口付近に着陸した小田勇飛行士の 71 ㎞が最高でしたが、先ほどの計算で機体の滑
空比 25 に飛び出した時の高度 2600m を掛けると 65 ㎞となりますので、上昇気流の殆どな
い条件での滑空飛行であったと思われます。
この頃、滑空気象研究の必要性を説いておられたのは、1932 年に霧ケ峰グライダー研究
会を立ち上げ率いておられた気象学者の藤原咲平博士であったとありますが、気象情報は
軍事情報として扱われるような時代に近づいており、この距離記録は戦後まで更新されな
いことになります。
いずれにせよ、グライダーの飛行にはその性能だけでなく、お天気
即ち航空気象の研究が欠かせないものですが、これだけの指導者を得てもそこに深く入り
込むことが出来なかった時代がやって来ていたように思います。
戦後のグライダー活動
我国の戦後のグライダー活動は、航空禁止令が解かれた後になりますが、大学のグライ
ダー・クラブ、社会人団体によるグライダー活動を当時の文部省や新聞社が後援する形で
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活発化し今日に至っています。 日本のグライダー統括団体である(公益社団法人)日本滑空
協会によれば、凡そ 3000 人の学生、社会人が日本各所にある滑空場や飛行場などで飛行し
ているとのことです。
我国及び世界の最近グライダーについては、後篇で少し詳しく述
べるつもりです。
前篇を終わる前に、これまでお読み頂いたことに感謝し、霧ヶ峰にある藤原博士の記念
碑の詩をご紹介します。
「草に臥て 青空見れば 天と地と 我との外に 何者もなし」
作 藤原咲平
この詩に込められた博士の思いは想像するしかありませんが、草原の台地で爽やかな風
に包まれながら自然の中に大きな仏様のような存在を感じられ、敢えて「何者もなし」と
詠われているような気がしてなりません。
(次号に続く)
吉田 茂 氏
1948
略 歴
新潟県産
1969
長岡高専機械工学科卒、川崎重工業(株)入社
1969 ~ 1981
XC-1 開発設計、飛行試験
C-1 フライト・シミュレータ
開発などに従事
1981 ~ 1989
XT-4 設計チーム
1989 ~ 2001
T-4 発展型、XOH-1 設計チーム)、FBL 研究に従事
2001 ~ 2015
XP-1/XC-2 設計チーム
(グライダー資格など)
自家用操縦士(上級滑空機、動力滑空機、飛行時間;2100Hr)
、
操縦教育証明(滑空機)、金章、ダイヤモンド章×2(目的地、500
㎞)
、FAI 公式立会人(滑空機)、(公益社団法人) 日本滑空協会理事
余 白
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◇ 入会案内
当協会の主旨、活動にご賛同いただける皆様のご入会をお待ちしています。会員は、正
会員(団体及び個人)と本協会の活動を賛助する賛助会員(団体及び個人)から構成され
ています。
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個人 20,000 円
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個人
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1,000 円
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個人 20,000 円以上
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個人 10,500 円以上
◇ ご意見、問い合わせ先
事務局までご連絡下さい。
(一社)
日本ビジネス航空協会 事務局
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