株式総会で見た悪しき平等

正論
2002年9月
株主総会で見た悪しき平等
しぶさわ
渋澤
けん
健 (シブサワ・アンド・カンパニー株式会社 代表取締役)
六月末に某上場企業の株主総会に出席した。期待値を限界まで下げて出席したつもりで
あったが、それを更に下回る失望感に襲われることは予想できなかった。このような会社
の株主であることが恥ずかしく、株式は総会出席後、即刻売却した。しかし、未だにその
ときの怒りが収まらない。
事前に準備した原稿を棒読みするだけで自分の言葉を持たない議長が、総会を儀式的に
進行することはある程度予想がついていた。呆れ返ったのは、余りにも低レベルなし質疑
応答である。
そのやりとりの全部を紹介しても不愉快な思いにさせるだけなので控えたい。経営陣の
情けない発言は終始続いたので、冒頭部分を紹介するだけで、そのレベルの低さが十分伝
わると思う。
質問「御社に(業務内容の報告書である)決算短信の配布をお願いしたところ、断られ
た。他社は個人投資家からの依頼であっても、快く応じてくれたのにもかかわらず、御社
は機関投資家だけに決算短信を配布する決まりになっていると言われた。情報開示を機関
投資家と個人投資家の間で差別しているのではないか?」
答え「決算短信は証券取引所での閲覧が可能なので、個人投資家はそちらのほうでお願
いしている。一部の個人投資家に特別に配布することこそ、不平等になるという判断であ
る」
この時点から、呆れて開いた口がふさがらなかった。
しかし、そんな空虚な時間の中にも案外新たな発見はあるものである。私の今回の収穫
は、創業精神の欠片も残さないこの悲惨な会社の情けない経営陣の発言のお陰で、「平等」
についての考えが整理できたことである。
日本のマスコミにも頻繁に登場するので、以前から気になっていた言葉である。二十一
世紀における日本の新しい環境に適した社会構造を構築するために、新しいビジョンに基
づいて行動を起そうとすると、必ず前に立ちふさがる「平等」という壁。税制改正などで
は、住宅購入や資産投資の促進を目指す制度を進めようとすると、「平等」を振りかざして
必ず妨害するか、骨抜きしてしまう。
それは「平等」を訴えると、いかにも弱者の見方と錯覚されがちだからであろう。この
ように相手に対する思いやりが、日本文化であるという声も時々聞こえてくる。一方、一
人勝ちした勝者の思考や活動に対しては、「不平等」、独裁的、狩猟民族的、或いは日本の
美的センスと合わないという判断が少なくない。
本当にそうであろうか?
以前から、これには違和感があった。「平等」を善しとし、他人よりも一歩も二歩も努力
することや自己表現することを束縛するような考え方を、日本文化の美徳とは思いたくな
かったからである。
しかし、あの役員の発言が頭の中をグルグルと回った数日後に気が付いた。
「平等」を軽々
しく口にする人々は、実はまったく他人のことなど考えていないことに。他人に対する配
慮など、一欠けらもない。なぜならこの種の人々は、保身のことしか考えていないからで
ある。
現代の日本は「既得権益病」にかかっているのかもしれない。自分の既得権は聖域であ
り、それを妨害するような行為は「不平等」になる。しかし、その「権利」のコインの裏
側であるはずの「義務」を求められると、急に「関係ない」、「他の係に聞いてくれ」と意
欲をまったく示さない。
今まで決算投信を出していなかったのに一人の個人投資家に配布すれば、他の個人投資
家からクレームが入ってくるかもしれない。なぜ一人にしか配布しなかったのか。と。し
かし、個人投資家に全員配布するようになると、コストがかかる。だったら全員に配布せ
ず、「平等」を訴えるほうが良い。取り引き相手や持ち合いの大口株主であれば配慮が必要
であるが、たかが個人投資家。公共の場所で閲覧できる、と自分たちの怠慢と傲慢や相手
に対する配慮のなさを正当化する。
業績分析を通じて会社を理解し、その上で投資したいと考える個人投資家に対する配慮
など、彼らの眼中にはないことは明白である。事なかれ主義でその時その時を凌ぎ、役員
になり、引退後膨大な退職金を貰い、その後も相談役や顧問として会社にしがみつくこと
が日本文化の美徳?これが「温故知新」?ふざけないでほしい。日本の今後の発展のため
に、こんなやからは総パージである。