東洋大学工学部環境建設学科 - 国際ジオシンセティックス学会 日本支部

ジオシンセティックス出桁清報 1
9
9
9
.
1
1
H
部暴紹介
東洋大学工学部環境建設学科
東洋大学助教授石田哲朗
1 建学の礎
目
東洋大学は、『私立哲学館』として明治 2
0年(18
8
7年)に創立されました。創立者は井上円了です。円
了は幕末の安政 5年に新潟の寺の長男として生まれ、明治 1
4年、東京大学文学部哲学科に入学 (
2
3歳)し、
ここで初めて西洋哲学に出会い、カント、ヘーゲル、ミル、スペンサーなどの研究に没頭したそうです。
このとき日本は鹿鳴館外交が花咲き、欧米主義が吹き荒れている時代でした。哲学を通じて常に物事の本
質を探究しようとする眼を養った円了には西洋化に踊らされ流されていく、この日本の姿は自正路を見失っ
た船のように見えたのかもしれません。そんなときに円了は、人々が哲学を学ぶ機会さえあれば、深いも
のの見方や考え方が備わり、ひいては真似事でない本当の日本文化の発展につながると考えました。そこ
で哲学を理念に置いた教育を普及させるための学校っくりを目指し、勝海舟をはじめとする多くの共感者
たちの賛同を得て東京は本郷龍岡町に明治 2
0年『私立哲学館』を設立させたのです。このとき円了は 2
9
歳でした。本学ではそのときの円了の言葉である『諸学の基礎は哲学にあり』が語り継がれ、現在でも本
学の基本的な教育理念としています。
2
. 工学部環境建設学科
私が所属している工学部が創設されたのは昭和 3
6年(19
6
1年)と遅く、その趣旨は聞かれた大学として
産学協同を基本理念に掲げて埼玉県川越市にオープンしました。当学科の前身である土木工学科が新設さ
れたのは昭和 3
7年 4月(19
6
2年)でした。当初、専任は現在名誉教授の岩崎訓明先生一人で、兼任として
東京大学教授の本間仁先生(東洋大学・東京大学名誉教授、のちに第二代工学部長に就任)が非常勤とし
て勤務していたと聞いています。岩崎先生は東京大学の博士課程を修了したばかりの新鋭で、まったく何
もないところへ来て実験室の建設から、専門のコンクリー卜以外の研究室の装置まで全てを手配して、教
養課程で勉学している学生たちが専門教育へ進むまでに間に合わせるように準備をしたとのことです。写
真一 lにはその頃の%!!験棟が老朽化したことに伴い昭和 6
2
"
"
6
3年度にかけて建て替えられた実験棟を示
します。かなり学生らにも居心地の良い環境になったためか、多くの学生が夜遅くまで実験をするように
なりました。土木工学科から環境建設学科へ名称を変更したのは平成 7年 4月(19
f
f
i年)からで、より
よい環境を建設するために、柔軟に対応できる思考力と独創性、そして豊かな人間性を併せ持つt
訴時者を
育成したいという目的をより明確にするために学科名称の変更に踏み切りました。
さて、この
I
G
S日本支部に深いつながりのある現 I
G
S理事の赤木俊允教授の着任は昭和 4
1年(19
6
6年)
でした。イリノイ大学大学院でテルツアーギ教授やペック教授から土質工学の教育を受け、米国のコンサ
ルタント会社に勤務したのちに帰国され本学へ就任されました。赤木教授からは何度か『当時は、いつま
でも大学の教員をしているつもりはなかったのだ、がなあ』とお聞きしたことがあります。その後のご活躍
は読者の方々に良く知られている通りです。私の個人的な
I
G
S日本支部に関する思い出を少し述べれば、
赤木先生は支部の設立当初から関わられていたために、何度か前支部長の福岡正巳先生から私のところへ
電話を頂戴したことがありました。電話の内容はいつも『赤木先生はいまどこにいますか。今後の予定は?~
-10-