講演資料

平成 27年 6月 5日
地域 の皆様
富 士 宮 市 立 芝 川 中 学 校
PTA会
PTA研
長
修 部長
校
長
風岡
達也
増 田知 夏 子
中野
聡
PTA教 育講演会 「卒業生 1日 先生 の 日J開 催 のお知 らせ
初 夏 の 候 、皆 様 にお か れ ま して │ま 、 ます ます ご清 栄 の こ と とお 慶 び 申 し上
げます 。
PTA研 修 部 で は 、 6月 26日 (金 )の 授 業 参 観 日に 併 せ
て 、 下記 の 通 り PTA教 育 講 演 会 「 卒 業 生 1日 先 生 」 を計 画 して い ます 。 お
さて 、 芝 川 中学 校
忙 しい時 期 とは思 い ます が 、御 参カロくだ さい ます よ うお願 い 申 し上 げます 。
記
1
6月 26日
時
平 成 27年
2会
場
芝川公民館
3講
師
4
題
日
演
清
(く
(金 )14:30∼
れ い どる)
王義
15:25
文化 ホー ル
様
「故郷 (ふ るさと)」
一 さま ざまな出会 い と古 い輝 き (シ ャイ ン)
この 会 は 、各分野 で活 躍 して い る卒業 生 の 姿 か ら生徒 が学 び の
意 味や 将 来 の 夢 に つ い て考 える機 会 と して 開催 します 。 本年 は
戦 後 70年 とい う節 目の 年 です ので 、戦 中戦 後 の ご苦 労 をお 話 い
た だ けれ ば と思 い ます 。 なお、 富 士 宮 市教 育 委員会 「 富 士 宮 の
学校 力 育成 会議 提言 ス テー ジ Ⅱ平成 27年 度 ア クシ ョンプ ラ ン 」
に 関連す る事業 で もあ ります 。
PTA教 育講演会
(教 育 の 日 卒業 生 1日 先 生 の 日)
演題 「故郷 (ふ るさと)
一
さま ざまな出会 い と古 い輝 き (シ ャイ ン)一 」
,r, rxxfrflE& rH E#
ゝ
(1
′
\}
ヽ十
″
︹
ヽ.
Z「
ffi
)
│
1重 pヽ
ヽ
│
獅
/
肝
一
ヽ
n﹄ ″
︱ 謙プ
可
税 宮
成 士
ヽ 平 富
・ c
口
粒
月 =
6 芝
審
校
6 韓
2
漁
.
‘ イ′氏ハ/
/′′ ハ
%ヱ ヽ∠
I
出生 の こ と
昭和 10年 9月 13日 生れ 。 1日 芝 富村 西 山。 現在本 門寺 黒 間近 く。 昭和 17年
に 1国 大 宮 町 よ り旧富 岡村 (大 中里 、青木 、現 在 の 中里 東 町 、大 中里)淀 師 地 区
が 富 士 宮 市 とな る。 そ の 頃 、 ち ょ うち ん 行 列 が 何 度 とな く行 われ た 。 市 に な
つ たお 祝 い。 戦争 で 勝 っ た時 に似 て い る。
2
小 学校 時代 の こ と
昭和 19年 後 半 にな る と食 料事 情 が 非 常 に悪 くな り、主食 の 米 が ものす ご く
少 な く配 給構1度 にな つ た。 非 常 に空 腹 の 時 が 多 か っ た 。 朝 早 く越 き て 、 豆腐
屋 さん の 前 に 「み そ こ し」 とい う小 さなザ ル を も つて 並 んで 、 も のす ごい 人
で込 み合 つ た 。 しか し、人 が 多す ぎ て豆 腐 が 行 きわ た るには、量 が少 な く限
りがあつた。そ こで、豆腐屋 さんは考
えて、番号札を渡 してそ の人 だけに売
る制度 を作 つた。そ の頃、各家庭 では、
代用食 が 普通 で米 がい くらも入 つてい
ない。そ の他 の食事 は、摘み草や さつ
ま芋 などた くさん入れて ご飯 を炊 き、
や っ との暮 らしだ った。 そ の頃、現在
の西富士宮駅 の南側 に│ま 、建物は一軒
もな くあた リー面 の 田んぼだ った。そ の 田んぼには レングとか、畦には雑草
がはえていたが、そ の レング とか雑草 も近 くの人 たちが摘み取 つて影 も形 も
な くな つて tン まい、土だけが残 つていた。
ある 日のこ と、 ウサ ギを飼 っていたので川 の淵 で草を刈 つてい ると、アメ
リカ軍 の小 さな飛行機がす ご く低 く飛 んで きて 、兵 士が銃 を構 えて、 こち ら
を狙 つてい るのがはっ き りわか つたので、 とっ さに堀 のふ ちへ身 を隠 した。
そ して飛行機 は行 つて しまった。命拾 い を した と大きく思 つた。次 の 日、今
度 は少 し大 きな川 へ入 り今度は川 の底 に落 ちてい るガラス と金物 を拾 いに友
だち と行 つた。 もし、昨 日の よ うな時には、水 の 中へ もぐる決 心だ った。幸
い、ガ ラス も鉄 くず も思 つていた より 3倍 近 く多 くの回収 ができ、重 くてや
っ と家 に持 ち帰 つた。次 の 日、各業者 に渡 して少ないなが らや つ とお金 を手
にす ることがで きた。 このお金で、靴 を買 うこ とができた。そ の靴 は、「たスノ
ぐつ 」と言 う。組 (ク ラス)へ 何足 か 母 「たん ぐつ 」(す べ て が ゴ ム でで きた靴 )
が配 給 され た。希 望者 で く じを 弔│き 当 た った 私 が 、や つ と手 に 持 つ こ とが で
きた。
この 頃、大人 は 、電車 に乗 るの に 、 豆腐屋 さん の よ うに、番 号札 を渡 され 、
そ の 人た ちだ けが切符 を買 うこ とがで きた。それ で も電車 は いつ もギ ュー ギ ュ
ー の満員 で 、 ひ どい 時 には 、 デ ッキまで乗 つ ていた。
3
戦争 中、ア メ リカ軍 の飛行機 が 落 ちた こ と
戦争 中にな る と B29の ア メ リカ の飛 行機 が編 隊 を組 んで 東京 の方 面 へ 飛 ん
で行 くのが ひ っ き りな しだ つ た。そ の 頃、静 岡方 面 で 打 つた 日本 兵 の 大 きな球
が B29に 命 中 して真 っ赤 に燃 えなが ら胴 体 と羽 が バ ラバ ラにな つて 、こ ち らヘ
とどん どん近 づ い て き た の で 、皆 一 斉 に散 らば っ て逃 げた。自分 は 、ず つ と見
て い た らもつ と東 へ 行 くの で つい て行 つた。す る と、飛行 機 の残骸 は 、西阿幸
地 に落 ちた。 現場 へ 行 くとものす ごい 高温 の さな かだ っ た。 す る とだれ かが 、
兵 隊 は農 学校 の 方 らしい とい うこ とだ つ たが 、先 ほ ど
西町 か ら東 へ 急 ぐ時、高州床 屋 のお じさんが「鳶 口 (と
び くち)」 を担 い で 自分 と一 緒 に現場 へ 来 た の だ。お じ
さん は 、「私 の子 ど もの かた きだ。Jと 言 つて鳶 口を持
つて 急 い だ の だ っ た。 この少 し前 、 お じさんの長 男 は
戦 死 したか らだ つ た。 さて、農学校 の 方面 へ 急 ぐとパ
ラ シュー トが 開 かな くて 田ん ばへ 頭 が 東Jさ つて しま っ
た兵 隊 が 2名 い た。 他 の兵 士 は 、軍 と警察 に 取 り押 さ
え られ ていた。後 で 分 か つ たが 、亡 くな つ た兵 士 には、二 番堀 の 東 阿幸地 と富
士 見 ヶ丘 の 地 に後 ほ ど十字 架 の墓 を立てて あ っ た。そ して 、帰 りに西阿幸地 に
立 ち寄 り、飛行機 の部 品 を探 した。 しか し、まだ熱 か っ たか ら、ボ ロ布 に包 ん
で持 ちか えた。 次 の 日、学校 に行 くと昨 日の部 品は全部 学校 へ 引 き取 られ た 。
先生 に よる と、この部 品 を溶 か して 日本 の飛行機 に使 うとの こ とだ つ た。そ の
頃、お寺 の釣鐘 、橋 の欄干 それ に 当時 のお金 の 5銭 がす ご く軽 い の で 、これ ら
も集 め られ た。 夜 は電燈 の光 が外 に漏 れ な い よ うにみ ん な黒 い布 をかぶせ た 。
夜 、電気 が つ い て い る と、 ア メ リカ軍 にす ぐ見 つ か つて しま うの で。 そ して 、
各 地 区 ご とに 防空壕 を設 置 した。見 事 な もの だ っ た。私 の ところは 、現在 の 片
桐 医院 の ところだ つ た。学校 で も防空壕 を堀 りに出か けた。男子 が 掘 り、女子
は、そ の 上 を運 び 出す作業 だ つた。現在 の黒 田小学校 か ら南東 の 山 の 中 に 日本
O乙
火 工 とい う会社を自分 の 日で確認 した。マ ッチ の代 わ りのつ け木 を製造 してい
た。
4
小学校 日常生活 のこ と
さて、学校 ではお昼時間 に弁 当を持参 して来 る者は、一人 もいなかつた。
なぜ な ら、食糧難 で柔 らかい ご飯ばか りで弁当箱 に入 らなか つたか らだ。 し
か し、そ の時間帯にも 「警戒警報、空襲警報」 な どが どん どん発せ られた。
そんな時、先生方の心配は多分 だ つたと思 う。
朝は、学校 の円を通 る時、6年 生 と高等科
の先輩たちが本刀 を持 つて立 って い る。そ
こを通 る とまず 二富尊徳 さん へお辞儀.頭
を下げて次に奉安殿 (戦 前 の 日本にお いて、
天皇 と皇后 の写真 (御 真影 )と 教育勅語 を
納 めて い た建 物 )へ 行 き、最敬 ネLを す る。 この 頃、学 生 た ちは、
靴 はないので、皆木 の 下駄
).3年 以上は組が男女別だ つた。教室へ
(男 女共
や つ と入 り、 一ネLし て全員集 まると級長 が 「気 をつ け」 と号令。そ して、一
斉に 「誠恩を思 い、骨惜 しみせず、共 々 に楽 lノ く」 と言 う。 二宮尊徳先生 の
教 えを唱 えて着席 となる。 そ して先生 の授業 が始まる。 しか し、そ の頃の教
科書は、紙 が悪 く字が小 さく絵 をも写真 もな い粗末 な物だった。 中には、上
級生 か ら授 け られた生徒 もいた。そ して、教 室 のガラスが所 々が代用品なの
です ご く暗 い。雨 の 日は、大変だ つた。家 に帰れば、 どこの家 も裸電球 が 1
個だけだ つた。そ の頃、皆各母親手製 の防空頭 巾 (現 在 のヘル メ ッ ト)だ つた。
や がて、午後先生 の合図 で一斉に教室 の清掃。 しか し、女子 の教室はちゃん
と雑 巾が けす るので、床 が黒光 り。男子 の教案は簡単な掃除なので、 どこを
見て も自くくす え/で い る。次 の 日は、 _At校 男子 で 白い校舎 の羽 ロヘ黒 い墨 を
塗 る作業だ った。 それは 、アメ リカ軍 の飛行機 が 自ではす ぐ学校 が見つ か つ
て し′
ま うと言 うことで あ つた。次 に今度は、松根掘 りもがんばった。これは、
松 ¢)木 の根 の油を搾 つてお国のために使 うと言 うこ とだ つた。大変 な重労働
でた つぷ りの食事 を してい ないので、体 が大変 だ つた。次 に学校 の先生 と一
緒に茶 の実拾 い。この行事は、何 十回 も行 つた。次の桑 の皮むき。この皮 は、
繊維 に して服 を作 つたようである。各家庭 に持 ち帰 り、 これ をよく乾か して
3
学校 へ提出。そ して、この頃は、何年何組 と言わずに山本隊
(山 本校長先生)
鈴木隊 (受 け持ち鈴木先生)と 呼んだ。 とにか く、品物がないので、鉛筆 もす
ご く短 くなるまで使 い、山か ら竹 を切 つて きて、サヤ として使 った。 ノー ト
も真 つ黒になるまで使 つた。体育の時間は、男子は本刀。女子は薙 であった。
冬場には、男子は下着 1枚 以下、衣 1枚 以下。足は足袋。靴下はだめだった。
それは、それ くらい我慢 しないと強 い兵隊 さんになれない とされていた。そ
して困ることに男女共にシ ラミの害 に さらされて いて、 このシ ラミ害 は大変
だ つた。予防 の薬、それ か ら石鹸 の不足が原因だ つた。そ して女子特有で女
子頭 のシ ラミがす ご く多かつた。親 たちは困 つた末に、 シラ ミの付 いた服 を
熱湯 に入れて虫及び卵を煮 て予防 にあたった。 また、健康 の害が もう一つ。
それは、お腹 の回虫が大幅に多 くな り、健康状態 が非常に悪 くな り、それ に
は、後 にヘ キシル レゾルシンと言 うす ごい薬 がで きた。回虫の原因は、洗剤
がな く、野菜物などが洗えなか つた。又、流れ た川での料理.少 し良くて井
戸水だ った。水道 があつたのは、学校 ぐらいだ つた。この頃、西山地区では、
赤痢が非常に多 く発生 して しまった。現在 の警察署 の場所に伝染病患者 の収
容場所があつた。
三男 の文男が 日本脳炎 にな り当所で亡 くなつた。
私 ごとですが、
ず つ と後に、
5
小学校 の修学旅行 のこと
(昭 和
23年 )
小学校 6年 生。修学旅行 で東京に行 つた。当時 は、富士 より東京 まで 3時 間
15分 かかつた。列車の窓か ら見えた ものは、品川 あた りの地域は、一面 のバ
ラック建ての建物ばか りが建 っていた。屋根 には、どこの家 も トタンの上に石
が重 しに載せ られたようだ つた。有楽町 の毎 日新聞社屋上で、昼食 を食 べた。
母が正面 して作 ってくれたおにぎ りを食 べ た。
東京駅は、さすがに大きい。日本 の玄関 口だ と思 つた。次は、神 田駅で下車。
試 しに、地下道 へ入 つてみた。す ごくび つ くりした。何 と地面 の 中を電車 が通
つてい る。 さすが と思 った。バ スに乗 つて、上野 の動物園。思 つた より動物は
少なか った。動物園の周 りには、浮浪児 がた くさんいて、私 たちに両手をか ざ
して、「何 かあった ら私たちにください。」と小 さな声で近寄 つて きたので、親
が支度 して くれた リンゴを一個渡 した。す ると、そ の子は、ひ ざまず いては つ
きり「あ りが とう」と言 つて、そ こを動 こ うとしなかつた。友 だちも次か ら次
4
へ 同 じよ うに差 し出した。全 く同 じことの繰 り返 しだつた。衣類は薄汚れ、 し
か も破れていた。この子 たちは、夜 はどうして生活 してい るのか と心配にな つ
た。
私たち一行は、昼間、東京 の町について見学 して東京駅 へ もどり帰 りの列車
へ乗 り、焼け野原 よリバ ラック建ての住宅を左 右 に見なが ら神奈川県 と静岡県
の境 になる丹那 トンネル にさしかか つた。そ の時、山内先生か ら説明があつた。
「この トンネルエ事 の時、水 がた くさん 出た りして多 くの犠牲者 が 出てい るの
で、皆 さん もこの人たちに感謝 して通 つてほ しい。」 との説明があつた。 トン
ネル を出る時、一人 の友だちが 「今、 トンネル を出るの に 7分 かか つた。」 と
話 した。 かな り長 い トンネルで あつた。
私たち、6年 4組 (昭 和 23年 か ら昭和 24年 まで)は 78名 の生徒 がいた。
担任 の山内修先生は、すば らしい方だ った。毎 日、「 トム・ ソーヤーの 冒険J
を読み聞かせて くだ さつた。その時間、教室 の 中は静 ま りかえ り物語 に聞きい
っていた。テ レビのない時代なので、次 々 に出てくるシー ンに思 い をはせて聞
いた。「先生、もう少 し続 けて くだ さい。」と願 い なが ら、先生 の朗読 を楽 しみ
に して いた。いつ しか、私 たちの クラスは、い ろい ろな ことで トップの クラス
になつた。今 は亡き山内先生に深 い感謝を しています。
6
小学校 のこ と、終戦 の 日のこと
この時は、自宅は東阿幸地にあつたので、泉町 の親友 の家 に泊 めてもらつた
のだ。そ してそ の頃は、夏は近 くの 田んぼに入 り思 い思 いに竹 の棒 をもつて稲
の害 虫を捕 る学校での行事 があつた。 一 クラス 78名 で 4ク ラス あ り、全校 で
は、約 2,000人 だ つた。 その時、先生 の説明で先生は、73人 とい うことだ つ
た。 しか し、今 とは違 い戦争 の時は、男 の先生 が lヶ 月に 1人 くらい兵隊 に出
られた。駅員 も女性駅員がかな り多か つた。この頃か らようや くと学校給食 が
始ま りかけて いた。す ご く簡単で缶詰 の鮭 を少 し入れ た御味御汁 だ つた。そ し
て、今 まで授業 の 1時 間ずつの時間 の知 らせ を学校 こず かい さん (現 在 の用務
員 さんのこ と)が 大きな鈴 を振 つて鳴 らして知 らせていた。この時、PTAの
代表者 がサイ レンを寄附 して くれた。重 い鈴 を振 らなくてよくなつたので、安
心 して、一 同晴れやか とな つた。
時を上 が つて小学校 3年 の夏。先生 の急な号令 で全校生徒 が運動場 に並んだ。
5
我 々の正面 にラ ッパ付きの大きなラジオが あ り、
何 かなと思 つた時、
先生が「頭
下げJの 合図があつた。昭和天皇 の御言葉 があ り、終戦を迎 えたのだ。その少
し前、「広 島、長崎 に原子爆弾 が落 とされてものす ごくた くさんの国民が亡 く
なつた。」 と山本校長先生か ら説明が あ り、女 の先生方 は全員大泣き、男 の先
生は、涙を隠す ために頭 が上が らなか った。女子生徒 も泣 いていた。 これ !ま 、
大きな思い出である。
その頃、お札 のお金は、印紙を貼 らなければ使用できなか った。(新 円切替)
7
中学校 のこと
い よい よ、中学校 へ入学 とな り、その頃はちょうど高等 2年 制度 と新制中学
校 の入れ代わる時 だったので、どこの 中学校 も生徒は、グラン ド整備 のために
皆 ス コップ を手に登校 した。現在 の ように土木機械 がなかつたので、全部入力
に頼 つていた。校舎 は、一寸前に建築 された。中学校は、 1年 生 の時に、親 の
仕事 の関係 で一 中へ在籍 していた。一 中では東小学校 と黒田小学校 が一つ にな
り、一 中 となつていた。同級 生の 中には、星山地域 より遠 い貫戸地区の人 も何
人 かいた。始 めは、この 2つ の学校 の解 け合 いが遅かつた。学校 は、ホー ムル
ームを中心に他 の クラス、上級生 のクラス とも色 々の面で話 し合 い をして前進
した。 2年 生,3年 生は夏になると身体検査をした上で、富士登山を実施 して
いた。そ して、あくる年、故郷 である芝川 の西山に帰郷 した。芝富村 立芝富中
学校 へ入学 したが、郷里だ つたので、知 り合 いの友 だちはいつぱいいた。芝富
中学校は、大変すばらしい。生徒会が非常に活発に行 われていた。す ば らしい
光景 だ つた。中学校 2年 生 の 2学 期 へ入 つて、思 いが けず クラスの委員長 に選
ばれた。これには、い ささかびつくりしたが、もうやる しかなか つた。丁度 そ
の頃 も、運動場 の整備及び拡張をス コ ップ を持 ち、学生 の手で行 つていた。大
変 だつた。こんな時期 に芝富小学校を借 りて運動場へ全校生徒が集まつた。表
彰のためだった。作文を上手に書 いた児童や友 だちに親切にした児童な どい ろ
い ろな事 でほめられ る生徒 に賞状 が準備 されていた。その時、自分 の名前 をい
きな り教頭先生が呼ばれてび つ くりした。その時初めて分 かつたが、多 くの賞
校長先生か らた くさんの賞状 が差 し向けられて
状をもらう児童 の代表 として、
た。校長先生が読み終わると、「以上総代、清正義」 と言われたので、もうび
つ くり。足が地面 に付 いていない感 じだった。自分みたいな生徒が どうして と
6
思 つた。 もちろん、 自分 自身 の賞状 も含まれ ていた。2歩 、3歩 前 に進んで賞
をいただいた。生徒 か らは、大きな拍手があが つた。もう、足が地面についた。
これ をいただいて同級生 の並んで い るところへ戻 つた。それか ら先生方 の話 が
あ り、学校 へ戻 つた。それ か ら、この運動場 には、強い思 い出が残 された。そ
の時 の学生服は、最低 の衣だ った。 しか し、仕方 がなか つた。小学校 6年 生 の
時に、受 け持ちの 山内先生 か らた つた一人、努力賞をいただいたの も記憶に残
つてい る。
芝富中学校 3年 生にな り、3年 C組 となつた。 この頃 になると、教室 の一番
後 ろに大 きな唐傘が約 20本 ほどつ るしてあつた。 これは、夕方にな り、急 な
雨 の為 に貸 し出 し用に用意 されていて、私なんか家 が遠 いのでいつ もお世話に
な つていた。そ の頃になるとクラスでは、進学 コース と就職 コースに分 かれ て
勉強す る様にな った。進学 コースは、英語 も入れ て勉強。 しか し、私 の家 は、
貧 しいので、とて も進学は無理だ と考えていた。受 け持ちの 山田先生 も大変心
配 して くれていた。あえて英語 の勉強は しなか つた。この時、就職 コース を選
んだので、先生は羽鮒在住 の佐野一男先生だ った。就職過程 を選んだので、こ
の コースでたまに先生所有 の羽鮒 山で草刈 りに参加 した。私 は、一度だけ参加
した。 この時 のクラスは、男女 (1ク ラス)45名 で 3ク ラスあつた。
8
中学校 の修学旅行 の こ と
い よい よ秋 にな り、修学旅行 のシーズン。我 々 も関西旅行 が決 まつていた。
しか し、私は、家庭 の事情か ら思 い切 つて職員室へ 山田先生 を訪ねた。先生に、
家庭 のこ と、親 のこ とを考 えると 「修学旅行は、先生行きません。」 とは つ き
り発言 した。これ には、先生 もび つ くりされて、少 し考 えた後 で、先生か ら答
を出 して くだ さった。先生は、「一生 の うちの大行事だか ら私 もできるだけの
事はす る。お父 さん とお母 さん とも話 をす るので、必ず修学旅行 は行 くように。」
と言われた。そ して、この 日が来たのである。本 当に先生は、これ程 と思われ
る位 の支度をして くれた。
午後芝川駅を出発、富士駅 で電気機関車に乗 り換 え。夕方 にな り浜松駅 に到
着 した。先生 のあ りがた さを感 じた。クラス メイ トとの楽 しい時間を過 ごした。
友情 が一段 と深まった。さて、
浜松駅 か らはまだ、電線 もパ ンダグラフ もなく、
蒸気機関草で出発。そ して、午後 6時 頃皆 で思 い思 いの夕食弁当を食 べた。初
η′
めは気付 かなかつたが、このダ1車 は、汽車 のため トンネル に入 ると煙 が 中へ ど
ん どん入 つて来 て、Yシ ャツが黒 くな り始めた。皆、一斉 に窓を開めた。 しか
し、あま りにも トンネルが多 い。そ して主要駅 へ着 くと、ホームで弁当売 りが
盛んだった。そんな事を繰 り返 しなが ら、汽車 │ま 、一晩中走 り続 け,早 朝薄明
るくなった時、京都駅へ到着 した。そ して、京都 の駅 がはつき り見えるように
なった。京都駅は、大きくて立派な白い建物で今でも頭 に残 つてい る。駅 を出
て、バ スに乗 り、バ スガイ ドの案内で早朝 より、二条城、清水寺等 た くさん見
学 した。京都 の町は大きい けれ どその書1に は、かな り静 かだった。や がて、夕
方 、三条通 りの伏見屋旅館へ到着 した。案 内された 2階 は、畳敷きの大きな部
屋だつた。男子 が 2部 屋、女子が 2部 屋。それぞれ の部屋 で見学 した感想が ど
こか らともなく出始め、各 々の人は、強 い楽 しい思い 出が残 された。9時 が消
灯になるので、それまでは枕 を投げ合 つた友だちもいた。私は、今回の旅行 が
実現できたのは、山田先生、同級生のお陰 と見守 って くれた皆 さんに感謝 しな
が ら眠 りについた。次の朝、6時 に起床.朝 ご飯 をいただいて、 これが京都 の
朝 ご飯だ つた。おい しかった。7時 30分 、迎 えのバ スなので、皆 で旅館 の方 々
にお礼を言 つた。皆 さんは、「静岡の皆 さんまた、ぜひ来て ください。」と柔 ら
かな京都弁で送 り出 して くださつた。窓か ら見える右左 の ゆった りした町並み
をバ スはゆっ くり走 つた。ガイ ドさんの案内もあ り、す ご く勉強になつた。こ
れが 「古都」 と思 つた。 バ スは、奈 良県へ入 り、 さすが、 こちらも 「古都」
。
大きな力が感 じられた。大きな寺院が点在す る都だ。京都 と共通する見所 も多
くあった。や は り、中でも一番強 く感 じたのは、大仏殿だ つた。年号はよく分
か らないが、この時代 に現在 のビル だった ら何階 の高 さとなるだろ うとす ぐに
感 じた。しか も使 われてい る大きな丸柱 │ま 、音 の人たちはきつ とすば らしい知
恵で取 り組 んだに違 いない。土台石 も立派 だつた。そ して午後 2時 、奈良駅ヘ
到着 した。奈 良駅 !ま 、仏教づ くりの感 じだ った。京都 へ戻 り、しば らくして京
都 の駅へ さよな らして、また、東海道線 へ。帰 りの汽車 の旅 は、慣れ てい るせ
いか、列車 の進み具合が早 く感 じられた。そ して、浜松 へ到着。 この時、もう
静岡県へ帰れたとい う安心感 が出て きた。富士までは,長 かつたが、それ でも
つ と安心 した。身延線 に乗 つて、芝川 へ到着。 こちらでは、乗 つていた人が全
部お りて しまつた感 じだつた。駅 の 中か ら外 へ 出てみ ると多 くの両親 が迎 えに
来 ていて賑やかだ った。 父が来て くれていた。
8
9
中学校 の事業後 の進路 のこ と、受験勉強 のこ と
それか ら lヶ 月 くらい過 ぎた 日の放課後.ひ ょつこ り、山田先生に呼ばれて
職員室へ 向かつた。先生が第一声を切 り出 した。「清君、君が進学 しないこ と
は、はつきり分かつている。 しか し、将来君 が後悔 しないよ うに私 も考 えてみ
たが、 ど うかな。高校 の試験 を受 けてみては。」 と先生 の強 い メ ッセージがあ
つた。少 し考えて、「先生 の御意見に従 います。」 と答 えた。 しか し、「どこの
学校ですか。」 とそ つ と問いてみた。先生は、「富士高校 へ ど うかね。」 と答
えられた。横 にいた先生方 も多 い に賛成 して くれた。「はい」 と言わ ざるを得
なかつた。先生に一礼を して職員室を出た。一生 の思 い出になるよ うに と祈 っ
た。それまでもそ うだつただが、
我 が家 には、家 に帰 つて勉強す る場所がない。
とにか く学校で先生の授業を一生懸命 に受け、話 の大切なところを残 さず ノー
トとるのが、日課だ つた。授業が終わ ってか ら友だちに問かれ る ことが た くさ
んあった。大体ノー トに書 くこ とによって私 の ような者でも覚えられ る事 がわ
かつた。秋 か ら冬になると早 く暗 くな って しま うので、仕方な く差 し迫 つた時
は、西出発電所まで行 つて、発電所 の 明か りで勉強 した。自宅 か ら発電所まで
約 1.3キ ロある。ある日の夜、風が冷 たいのを我慢 してい ると発電所 のお じさ
んが 「外は寒 いか ら中へ入 りな。」 と案内 して くれた。中に入れてもらうと中
は暖かかかった。 しか し、発電機 の回 る音 が大 きく、夜 は特に大 きく感 じた。
しか し、す ご くあ りがたか つた。仕事 の邪魔 にならない ように注意 して片隅で
や らせていただいた。明 日か らも先生 の言 う事を良く聞いて実行 しよ うと強 く
感 じた。発電所 のお じさんにお礼 を言 つて帰宅 した。自宅 では、20wの 裸電球
が 1個 あるだけだつた。発電所 の 中へ数回入れ ていただいた。そ の後は、外 で
済ませた。正月 も過ぎ、同級生は勉強本番に入 つた。 しか し、時代 が時代、 1
クラス 45名 中、進学がクラスで 8名 くらい。そ して、夜間高校 の人 もいた。
大部分 の人が就職。男子は芝川製紙 の丸太 の皮むき。材木屋 の番頭。洋服屋 の
見習 い等で、女子は、ほとん どが紡績 会社 への就職だ つた。後 は、上流家庭 の
お手伝 い さんだ った。その うちに 3月 にな り、試験 の本番 となつた。級友 と励
ま し合 いなが ら試験会場へ 向かつた。 しか し、自分 はただ実力試 しのための受
検 だつたので、気楽 に対応 で きた。大切な級友 の合格 をひたす ら祈 つた。試験
は、学科 と面接だ つた。面接 では、答 えが非 常に私 の場合難 しか つた。学科は、
勉強時間がす ごく少なか つた。英語 が大変 だつた。何 とか終了 した時は スー と
9
した。高校 の試 験 は、合格 とな つ た。私 の 高校 は 、芝 中 か ら 7名 受 検 して全 員
合格 で 先生 方 に喜 んで い ただ い た。
話 は前 に戻 るが 、夜 、西 山発 電所 へ行 く時 、この 時代 は手持 ち の 電池 式 の ラ
イ トは な く、提 灯 を使 つ た。竹 と紙 でで き て いて 、中 に ロ ウ ソク を とも して 明
る さを出 して い た。
10
橋 の 完成 の こ と
丁度 そ の 頃 、現在 の 旧橋 が 吊 り橋 か ら新設 され たが 、そ の 頃 は車 もほ とん ど
通 る こ ともな く橋 の 中 で 車 が すれ違 うこ とは で きな か つ た。橋 の 幅 が狭 か つ た
の だ。 そ して もちろん 、歩道 も無 か つ た。 しか し、そ れ よ リー 代 前 の橋 は、吊
り橋 で 、縦横 にす ご く揺れ て 非 常 に危 険 だ つ た。そ して 、下 の川 が 見 え る の で 、
身震 い しなが ら通 つ た。 このた め 、上 羽鮒 の 人 た ちは 、朝 夕会社 で 、芝川 駅 ヘ
行 くの に 、手 前 の 山 の 中 の道 を通 つ た。 この道 は、現在廃道 とな つてい る。一
部 は、 山 の 上 か ら大 きな石 が芝 川 の 方 へ 時 には落 ち る ので 、 全 体 に通 れ な い。
そ して 、現在 は 、す ば ら しい橋 が で き て い る。 年 号 は 橋 に出て い る。
ま た 、 1日 橋 も芝 富村 村長 さん を初 め 、村 の議員 さん の最 大 の努 力 で 旧橋 も
完成 とな った 。 この 時 の村 長 さん は 、 西 山 の 清 村長 さん だ っ た 。 しか し、残
念 な こ とに昔 の 役 場 (現 在 の桜 田医院 の 地 )で 、村 の 重 要課題 の 会議 中 に倒
れ 、 つ い に帰 らぬ 人 とな つて しま った 。 悲 しい 知 らせ が す ぐに届 い た。 そ
tノ
て 、数 日後 、 西 山公 民館 で 村 葬 とい うこ とに な り、学校 よ り学校 代 表 で 出席
す る よ うに言 われ た。 西 山本 門寺 の 住職 さん に よ り葬 儀 が執 り行 われ た。 非
常 に 多 くの 方 々 が 参列 され た 。 この 時 、各 学校 の 先 生 方 、役 所 、 消 防 さん も
参 列 され 、最 後 の お別れ を惜 しん だ。本 当にお世話 にな っ た 村長 さんだ つ た。
11
中学校 の 卒 業後 、就職 の こ と
同級 生 は、 3月 末 に な る と、各 々 に 自分 の 進 路 に
すす む こ とに な つ た。 私 は 、計 画通 りに進 学 は断念
した。 しか し、 山 田先 生 の 力添 え に よ つ て 自分 の 実
力 を試 す 事 がで きた。 先生 が 言 われ た よ うに 、 これ
か らの 人 生 に非 常 に残 念 とい う事 は 一 つ も無 か つ た 。
そ して郷 里 を離 れ 東京 吉祥 寺 へ 向か つ た。叔 父 の経
10
営す る山口工務店 だ つた。東京 の生活は、芝川 と当時は差 があつた。 どち ら
を見て も知 らない人ばか り。初 めは、知人がい ないの で、無言 が多 く、 こち
らか ら 「おはようございます。」 と声 を掛ける よ うに心掛けた。その 中でも山
国家 に関係す る人 が声を掛けて くれ るよ うになつた。 この地は、昭和 17年 の
丁度夏休みに、山 国家 の次男 が生 まれて、母 とお産 のお手伝 い に来た ことが
あつた。 町は、あの 当時 よ りかな り発展 して いた。 そ の年 の秋、三鷹駅 の東
側 の現場 に入 つた。そ の時に 1日 住宅 の取 り壊 し工事があ り、そ の頃 は、 どこ
に も自動車 の所有 して い るところはな く、 ご く限 られた業者がオー ト三輪車
を所有 してい る位だ つた。 こちらには、所有 がなか つた ので、 リヤカー ヘ壊
した物 、 い らな くな つた家財、道具 な ど頼 まれ、上司より説明を受 け、 まだ
全 く知 らない町を リヤカー に満載 して積 んで 出かけた。 しか し、地理 がま つ
た くわ か らない町を重 い リヤカー を引き進 んだが街角 がほ とん ど同 じに見 え
て不 安 だ つた。何回 も案内 の地図を見て案内 して もらつた。す ると、ある一
軒の奥 さんが、「お兄ちやん、家 のこれ持 つて行 つて。」と言 つて台所 の ゴ ミ、
不要品をいつぱい 出 してきた。 これは、困ると思 い、 これが本職ではない と
は つ き り答 えて、断 つた。 この時、 自分が非常にみ じめだった。 こんな時、
東京なので、同情 して くれ る人はい ない し、11回 くらい聞いてや つ と目的地
に曇1着 。余 りの大変 さと安心で とうと うリヤカーの可動棒にへ た り込んで し
ま った。帰 りは、現場が玉川上水 の側道上にあると気付 いた ので 、 これ な ら
現場 へ帰れ ると思 つた。帰 りは、荷 が載 つて い ないので、嘘 の よ うに軽 かつ
た。 よ うや つ と、玉川上水縁 の現場 へ帰 る ことがで きた。皆他 の人 たちも仕
事 を進 めてい た。結局、 5回 も運んだ。お陰で地理にも少 しは慣 れていた。
内心、上司も心配 していた。それ か ら lヶ 月半 ほど後に、 この家 の上棟式 と
なつた。これ もまつた くわか らない まま、がんば った。そ して、夕方 にな り、
上棟式 の宴会 が始 まった。す ると、上司の言 いつ けでそば屋 へ そばを注文に
行 つて くるよ うに言 われた。す ぐそばを中央線 が通 つて い る。そ の踏切 を渡
って、そ の通 りの右側 にあると言われた。急 いで言 つてみ ると生まれて一度
も見た ことのない真 つ赤な店があ り、 ここか な と思い、店 へ入 り、店 の人 に
頼 んだ。店 の人は、 キ ョ トン として いたが、人数 は どの くらい と問かれて、
上 司の言 つた とお り45名 と告げた。そ して店 の人はあわてていた。30分 くら
いす ると物が届 いた。一 同はび つ くりした。現在 で言 うラー メ ンだったのだ。
1 1
しか し、人 々 は、 田舎 か ら来 て まだ い くらもた つてい な とい うこ とで 、 これ
をお い しそ うに食 べ て くれ た。 文 旬 を言 う人 は い なか つ た。 しか し、 自分 と
して は 、大失 敗 だ つた。 本 当 の 田舎者 だ と深 く反省 した。 真 つ赤 な店 は 、 ラ
ー メ ン屋 だ つ た の だ。 そ して 、会 の 終 わ り頃 、建 て主 の 土居 さん が本 日まで
の お礼 の 言葉 が 申 され た。 皆 大 きな拍 手 を した。 この建 て主 さん は 、高 知 県
の 出身 で 、地元 で 学校 の先 生 を され て い た と言 うこ とだ つ た。 そ して 、 上 司
か らの し袋 が一 人 一 人 に手 渡 され た 。 大切 な御 祝儀 だ つ た。 皆 一 同は、 これ
で帰 られ た。後 に残 つ た私 は 、この御 主人 と奥様 に 「あ りが と うご ざい ます 。
お世 話 にな ります 。」 と挨拶 した。す る と、奥様 が 「これ か ら長 い 間、お願 い
します。怪我 を しないで くだ さい。」 とあたたか な御 言葉。す ば らしい ご夫妻
だ と思 つ た。 家 に 帰 つ て 、 び つ く り。 た くさん の お金 が入 つて い た。 それ に
手紙 が入 つ て い た。 家 か ら建 て 主 さん の 方 へ このお 金 を両手 に して 拝 み深 く
一 礼 した。「あなたが慣れ な い東京 で も力 い つ ぱ い気持 ち よ く働 い て くれ るの
で 、 この建 物 は、永久 に発 展 します。」 と記 され て い た。
これ か ら、寒 い 冬 がや つ て来 た。 自分 が 住 まわせ て い ただ い た 山 口工 務 店
の家 は、都 会 の建物 な の で 部屋 数 が少 な い。 私 は 、 玄 関 の入 回の 部 屋 で 寝 起
き を して い た。 あ る夜 、お 客 さん が 来 られ て 、 か な り遅 い 時 間 まで の 来客 だ
つ た。 朝 は早 く起床 しな くては な らい の で 、考 えた 末 、作 業所 にた く さん の
カ ンナ くず が あ る。 これ は、手 カ ンナ か らでた もの で あ る。 この 作 業所 で こ
の カ ンナ くず に潜 つ て寝 た。 思 つた よ りず つ と暖 かか つ た。 グー と朝 まで休
めた。 こ うした事 はか な り多 くの 回数 に及 ん だ。
や がて 、土居邸 は、完成 した。 い ろ い ろな思 い 出 を残 しなが ら、完成。 土居
夫妻 には 、頭 が上 が らなか っ た。
12
弟 が 亡 くな つ た こ と
そ して 、あ る朝 、不思議 な事 が起 きた。今 日│ま 、八王 子市 内 の 現場 だ つたが 、
なぜ か仕 事 に行 く気 になれ な い。そ して上 司に この こ とを話す と、少 ししか ら
れ たが ダメだ った。親 方 は 、近 くの 現場 で働 くよ うに指示 して くれ た。八 王 子
の現場 へ は行 か ず に 隣 の 味 岡 さん の仕 事 を して い た。 それ か ら 30分 もたた な
い うちに、 芝り
│1西 山 よ り電報 が 届 い た 。「文男 キ トク
す ぐ来 い 」 だ つた。 こ
れ まで の嫌 な予感 は 、この 電報 が届 く こ とだ つ た。まず 、誰 か が急 病 と分 か り
12
その後 で三男 の文男 とは つきり分 かつた。私 の直感 が、電報 より早 く、弟 の病
気を知 らせて くれたのだ った。
2年 前 の夏、次男 の明夫 三男 の文男 四男義信を連れて沼津 の東郷海岸 ヘ
海水浴 に連れて行 つた時 、兄弟 たちは非常に喜んだ。皆で トマ トを食べ た。こ
れは、自分が内職 で育 てた物だつた。サ ツマイモ もた くさん作 つて弟たちに思
い切 り食べ させた。文男 と義信 は、海 を見たの も水につ かることもは じめてだ
つた。そ して、海 の水 が塩辛 いの もは じめてだつた。八王子か ら電話 して もら
い、着 の身着 の ままバス に飛び込み、吉祥寺駅 です ぐ芝川までの切符 を買 つて、
先を急 いだ。や がて、東京駅 で約 20分 待 ちで、浜松行 きの東海道線 があった。
列車に乗 つてい る時間がす ご く長 く感 じられた。や がて富士駅到着。もう身延
のバ スは、夕方になら
線 は、待 つていた。そ して、芝川駅 を出て、西山方面 ハヽ
ない と無かつた。決心 して芝 富橋 を渡 り、川合 の交差点 まで来た時、川合 の杉
本 人百屋 のお じさんがオー ト三輪 で丁度出発す るところだつた。このお じさん
とはい くらか顔見知 りだ つた。す ぐ聞いてみ ると今 か ら西山に行 くとい う事 だ
った。しめた !!と 思 つた。お じさんは、
気持 ちよく車 の助 手席 へ乗せて くれ、
現在 の様 にシー トベル トなんてない屋根 こそついてい るが、風当た りがす ごい
助手席 で、しつか りつ かまれ る物 をお じさんが教えて くれた。気遣 いが、あ り
がたかつた。何 とい う神様 か仏様 のお示 しかともう頭 を下げ つばな しだ つた。
西山本門寺入 りロバス停 で車か ら降ろ していただいた。す ぐに黒門前 の 自宅 ヘ
急 いだ。す ると何 と言 うこ とだろ う。弟 は、父親 の付 き添 いで伝染病車へ乗せ
られて もう出発寸前だつた。「消毒 していないので、あなたはダメです。」と断
れたが、2回 3回 お願 い してやつ と乗せて もらつた。車 は、小三沢経由で 中里
山を通 り進 んだが、弟 の額 に触 つてみるとものす ごい高熱 だ つた。弟 は夢 うつ
つの よ うに 「兄 ちやん」 と一言言 つた。そ して、手を握 りしめた。手 もものす
ごい熱 だ つた。そ して現在 の富士宮警察署 の場所 に、この伝染病患者 の病棟が
あった。病舎へ入ろ うと した時、い きな り止め られ強 くしか られて父親だけが
中に入 つていつた。これが弟 との最後 の別れだ つた。私 は、歩 いて西山へ帰 つ
た。私 が帰 り着 いたこの家 は自分 もは じめて見た家 だ つた。8、
5坪 の小 さな
粗末 な家だ った。丁度半年前 に、職場 の叔父 にお願 い してお金を一時的に出 し
て もらい実現 した。近所 の大工 さん もがんば って安 く建ててくれたのだ。これ
が本家 か らの独 立だ った。そ して、夜明け方 の午前 2時 頃、弟 が亡 くな つた と
13
電報 が入 つた。す ると、次男 の明夫は、悔 しがつて弟 の学校 の鞄 を投げた。母
親 と全員 で畳 を叩いて泣 き崩れた。日本脳炎 だ つた。文男は、かな り苦 しか つ
ただろ うと強 く思 つた。次 の 日、3年 2組 で弟 の担任 の三上先生が我 も忘れ て
訪問 して くだ さつた。 三上先生 が 「残念です。」 と大泣 きされた。帰 りは、先
生を自転車 の後 ろに乗 つてもらい途 中まで送 つた。父親 も帰 つて きて、両親は、
気がふれた よ うにな り、食 事 もしなか つた。 自分は、東京に帰 らな くてはな ら
なか つたが、この有様 では、弟 たちが,い 配 で帰るこ とができなか つた。東京 の
山 口家 には、電話 があつたが、 こちらは電話 どころではなか つた。
13 火事 のこ と
そ して、7日 目に思 い切 つて再び上京 した。す ると上司の叔父 にす ごく叱 ら
れた。それは、清家 の事情 が全然理解 で きなかつたか らだ つた。なん とかよ う
や つ と許 して もらい、次 の 日は、やは リリヤカーヘ荷物 をた くさん積 んで八王
子へ 出た。かな り遠 か つた。 しか し、がんばった。それか ら荷を下ろして 明朝
の支度。そ の時は、空腹 と疲れでぎ しぎしだ った。なるべ くテ ンポ を早 く して
お休み とした。それか ら少 したつ と母親か ら手紙が来た。要す るに、お金 を送
つて欲 しい と言 う内容 だ つた。そ の時、先頃の建前 の祝儀 が大き く役 立った。
それ を全額母 へ送 つた。助 か つた と思 つた。建て主 の土居 さんの方へ深 く頭 を
下げた。 しか し、自分はまだ見習 いは じめ、この時給料ではな く、小遣 い とし
ての支給だ つた。 lヶ 月働 いて、当時 300円 。床屋大人一人 170円 の時代だ つ
た。絶対 のビンチだ つた。それで も郵便局に行 き、通帳 を作ろ うと した。 しか
しお金が少ないので、無理だ つた。いつ しか東京での生活 も 2年 た つた。冬 の
寒 い 日、中央線武蔵境駅 よりほど近 い現場 で仕事 をしていた。朝 9時 30分 頃、
近 くで子 どもの悲鳴が聞 こえた。急 いで外 へ 出てそちらへ行 くと、たいへ んだ
つた。 一階か らの火事である。 どうや ら子 どもの悲鳴は、建物 の 2階 だ つた。
急 いで 自分が今使 つてい た研 ぎ水 を頭 か らかぶ り子 どものい る 2階 へ 階段 を
探 して登 つて行 つた。子 どもたちは、1階 の火事に気がついて必死に助 けを求
めている。 こちらを見るな り、「助けて」 とか じり付 いてきた。幼 い兄妹 だ つ
た。「お じさん、助 けて」 と、二人 とも後は声にな らなか った。 ただ執拗 にか
じりついてきた。す ると不思議 と良い考 えが浮かんで きた。「今 か らお じさん
が助 けるので、必ずお じさんの言 うこ とを聞 くんだよ。」 と言 つてなるべ く安
14
全な ところへ子 どもたちを座 らせた。次 に 2階 の押 し入れを探 したが、知 らな
い家 なので、なかなか無 かつた。そ して、や つ と押 し入れが見つかつて 中にき
ちん と布団が入 つていた。 これだ。助かつた。 と強 く思 い、思 い切 り、早 い動
作 でその布団を持 ち出 し、屋根 の上か ら布団を平 らに落 としたが一枚 では、未
だ不十分.2枚 、 3枚 と重ねて落 とした。しか し、不幸 にも駆 けつ けた近所 の
人 々が,そ の布団を運び始めた。今までの事が無駄になつて しま うと思 い、そ
の人 たちに 「なんで布団をどか して しま うのか。」 と大声で騒 いだ。 そ の人た
ちは、あま りの しぐさに布団を元 の ところに戻 した ので、そ の地点まで子 ども
をだ つこして、よしと思 つた時、一人 目の子 どもを屋根 の上か ら布団 の上に落
とした。そ して、2人 目、下 にい る人たちはや つ と手順が理解 できたのだ った。
最後に 自分が飛び降 りて危険か ら逃れ ることがで きた。 15分 くらい してか ら
消防車が数台入 り、消防士が非常に忙 しく動 き回 つていた。その頃は、東京都
とい えども救急車は無 かつたのだ。大勢 の人だか り、で も子 どもたちは、私 の
手を しつか り握 つていた。非常 に力があつた。
子 どもたちは、震 えて い る。す ると少 し年配 の女性 が子 どもたちと私に毛
布 を差 し出 して くれた。そ の時は、神様 とい う感 じだつた。 大勢 の人たちが
私たち
3人 を大きな拍手でたたえて くれた。東京 でこんな事 があつたのは、
不思議であつた。や がて、 この家 の父母 が息を切 らせて、駆けつ けた。両親
は、子 どもたちを しつか り抱き しめ、無事 を喜んだ。そ して、何 とな くは つ
と私 の手をしつか り握 りしめ、離 そ うとしなか った。4人 は、大声 で泣 いた。
近所 の人たちも 「おた くさん、あ りが とう。 ほんと うによかつた。」 と女性 の
人た ちまで共泣 きを した。そ して、警察官、消防 の偉 い人 たちか ら当時 の事
を開かれ、新聞社 も来た。周 りを多 くの人に取 り囲 まれて、寒 さもあつたが、
聞かれたことにす べ て答 えた。そ の時、子 どもたちは、私 の手を一時 も離 さ
なか つた。家 の内部は、全部ダメだ った。警察 か ら 「御住所 を教 えて くだ さ
い。」 とのこ とで現住所 を伝 えた。警察 は、「随分勇気 があ りま したね。す ば
らし事です。郷里は どちらですか。」 と聞かれた ので、「静岡県 です。富士 山
の麓 です。」 と答 えた。「これは、すば らしい人命救助 ですね。 あ りが とうご
ざい ま した。」 と警察官 が帽子を取 つて頭 を深 々 と下げ られて 自分 としては、
ど うして 良いのか分 か らなか つた。 しば らくして、子 どもたちの親戚 と思わ
れ る人が見えて,私 に深 々 と頭 を下げ、子 どもたちがやは り私 の手 を離そ う
15
としなか つた。 子 どもは、小学校
2年 生 く らい の 男 の子 と 5歳 く らいの女 の
子 だ つた。 そ して 、時 間 と共 に 、水 に ぬ れ た身 体 の体 温 が 下 が り、親 戚 の 人
は、4人 を伴 つて歩 いて行 つた。4人 は 見 えな くな るまで頭 を何 回 も下 げた。
数 日後 、 両親 は吉祥 寺 の家 を訪 ね て こ られ た 。 手 には 、 の し袋 と手紙 が あ つ
た。「先 日は、ほん とにあ りが とうござい ま した。清 さんは、命 の恩人 です。
心少ないです が、 どうぞ。お さめていただ くようにお願 い します。」 と言われ
ま した。手渡 されたのです が、「お心│ま 、引き受 けます が、 こちらだけは.」
と、祝儀袋 は強 弓│に お返 しした。「お手紙はお受け します。」 として、受 け取
つた。上司の叔父 も満足そ うだ つた。丁度、叔父 の知人 の夏原 さんが見えて、
「清 さんの新聞を見 させて もらい、び つ くりした。 立派 だ つたね。」 と大きく
ほめ られた。 この時、そ うだ つたのか とは じめて事 の大きさを知 った。それ
か らしば らく、や り取 りをした。
14 仕事 で困つたこと
そ して、間もなく、吉祥寺北 口駅前 の伸見世通 りの増築 工事が始まつた。こ
ちらは、市内で最大 の商店街 だ。夕方 4時 位 になると買い物客でごつた返 した。
富士富では、見 ることので きない賑や か さだ つた。青木 堂 とい う有名 な菓子屋
さんだった。このお宅の 2階 の増築 である。屋根 の上での工事だつた。やがて、
準備 がで きて、柱を立て始めた時、隣の御 主人がす ごく怒 つて きた。富永 さん
とい う年配 の手伝 い、大工 さんもい る。 そ こで考 えた。「後 ほ ど、お宅へ謝 り
に伺 います。Jと 言 うことで、富永 さん と相談 した。す ると、富永 さんは、 さ
すがに年配者 だつた。隣の御 主人 の話 によると柱 1本 分 が境 になつてい るので、
柱半分は私 の物件、残 り半分はお宅 の御主人 の もの。ここは、土地が非常 に高
いので、柱半分 の査定は、大きな金額 になる。御主人 の計算 では、この時点で
120万 円だそ うだ つた。 しか し、 日舎者 の私は気付 かなか つた。
そ して、富永 さんの意見 により、以前通 り、隣で増築す る場合は,無 条件
でこの柱 を利用できるとい う文言を入れ て、我 が青木堂 さんにも印を押 して
いただき、2枚 作成 して、一枚ず つ共有す る事 で青木堂 さんと一緒 に、隣の御
主人 の印もいただいて平静 に事が済 んだ。
午前中だけに して欲 しい と言われた。
青木堂 の御主人 により、工事 の時間は、
次 の 日か ら、午前中の工事 とな り、朝はなるべ く音を静 かに行動 した。そ し
16
て、富永 さんへお礼 を言 つた。 よく気がついて くれた と強 く感 じた。
15 成曖学園での仕事 のこ と
その うちに青木堂 さんの仕事 が終わ り、次 の仕事は、次男 の叔父 の務 めて い
る成曖学園の仕事 だった。体育館 の床 の張 り替 えだ った。この学校 は、小学校
か ら大学まである。まず、朝行 くと珍 しい光景が 目に入 つた。それは、小学校
2年 生 くらいの子 どもが大きなすば らしい乗用車 に乗せ られ て運転手 がそ の
子 の手をとりなが ら、車か ら降 りて、運転手は、その子 に深 々 と頭 を下げて、
「いつてい らつ しゃい」 と送 り出す。や がて門番 がチ ェ ック して入校 となる。
地方 では、見 ることない有様 だ つた。それが、この子だけではなかつた。そ し
て叔父 の案内で校 内を歩 くと、何 とも新 しい 自転車や体育着、真新 しい鞄、靴
下、帽子等学年 が変 わる度 に捨 ててい るとい うので、私は学校 の許可をもらい、
た くさんある中か ら自分に一番 あ う自転車を一 台もらつた。それか ら、約一年
後、また、新 しい畳 をいただき、芝川 の実家へ送 つた。経済的 にす ごい人 々だ
と思 つた。す ごい床 工事 も終わ り、学校 の叔父 の世話 で今度 は、この学校 の高
校 の先生 のお宅 の増築 工事だ つた。昔 は、職人 は、土 日曜 日は、休 まない。月
末に手間代 をいただき、一 日休み、 14日 に手間代 をいただき、 15日 に体む こ
とになつていた。このお宅へ は、先生のお休み の 日曜 日に我 々が仕事 に出向 く
ので、先生は休憩時間には、「職人 さんの話 を聞かせて くだ さい。」といつ も仲
間入 りして共に時間をとった。先生は、文法学 の先生 で、その時 の先生 の教 え
に「
『 さしすせ そ』 の 5つ の文字 をなるべ く多 く使 つた言葉 で話す と敬語にな
り、相手 の方 へ大変良く感 じていただ くことになる。」 と言われま した。例 え
ば、「さようですか。」「紳 士」「何 々 をしま しょ うか。」「すみません。」「す て き」
「責任感 の強 いお方で」「そ うで したか」「早々」「粗品です が。」「そ うで ござ
いま したか。」等 だ つた。
16 松前先生 のお宅 のこ と
「リフォーム」
それ か ら数 日経 つた 日、
松前重義先生 のお宅へ現在用語 な ら、
を頼まれ、現場を拝見す る為にお伺 い した。上司より前か ら先生 の事は聞いて
いた ので、思 つたよ リスムーズ に先生 の御意見 をよく聞きとり、少 しだけ自分
の考 えも聞いていただいた。先生 は、「清君、それは良い。無駄 がなく、有効
17
だ。 それでお願 い。」 と先生にはめられ 、気 に入 つていただいた。奥 さんもそ
ばで、「清 さんは、ほん とによい ところに気付 いて くれま したね。」とまで言 つ
て くださつた。先生宅 の ご希望 される日に、富永 さん と施工で伺 つた。良く晴
れたすば らしい 日だつた。邸宅 の南側は、一面芝生で、ほどよ く草花 が点在 し
ている。小 さな池 もあつた。こちらのお宅は、中央線三鷹駅北 口より北へ約 2
キ ロほどのところだつた。先生 より、「先頃の人命救助 の新間を何回 も読み直
した」との御言葉 があつた。それか らは、当工務店に何人 かの職人 がい る中で
「清君を」と先生 か ら指名 をいただけるよ うになつた。いままでの辛かつたこ
ともどこかへ行 つて しまつた。そ して、これは郷里に帰るまで続 いた。一生涯
忘れない。
17 経済学 の先生のこと
ある日、
成険学園 に勤 め る叔父 の紹介 で同 じ学校 の経済学 の先生 のお宅 の仕
事をす ることになつた。こちらのお宅でも松前先生 の形で話を進 めさせていた
だいた。す ると、先生は、「清 さんは、どちらの学校 の卒業 です か。」と聞かれ
たので、「実は、郷里の芝川 中学校 (芝 富)」 と答えた。先生は、「もつたい な
いか ら、今 か らでも勉強 しな さい。」と急に言われた。やは り、び つ くりした。
しか し先生 に 「現状 では無理です。」 と答えた。 しか し、「学校 に行 くばか りが
必ず新間を読みな さい。
勉強ではない。一番良い方法は、時間をは じき出 して、
新聞を読む ことによつて、資格 は無理だが、大学生 と同 じ実力 が身に付 きます
よ。」 ときちん と教 えていただいた。 それか らは、毎 日とはいかないが、月 に
5回 くらい新間を買つて読 んだ。そ して、駅 の売店 で リー ダーズ ダイジ ェス ト
の本 も多 く読んだ。短 い文での 日記 もつ けた。日記を書 く時間は、ほとん ど無
かった。
18 大雨で人に助けられ たこと
そ して明くる年 の夏、
職友 の橋本 さん とい う福島出身 の人 と中央線 の高円寺
駅 より南 700メ ー トル くらいの現場 より、仕事 が終 わ り、帰る途中、二人 で自
転車 の後ろへ大きな道具箱を付けて、吉祥寺の町まで帰 つてきた時 のことであ
る。急にあた リー面 が暗 くな り風 も出て来た。す ると、急に大粒 の雨が強 い勢
いで降 って きた。大雨だ つた。辺 リー面が水浸 しにな り、道路は、川 の ように
18
な り、私 た ち 2人 、自転 車 、道 具箱 もび つ し よ りにな り、身 に付 け て い る もの
は、芯 までび つ しょ りぬれ た。そ して 、 よ うや つ と、ア ー ケ ー ドの屋根 の 下 で
「あなた た ちは この ままで は、
たたず んで い た。す る と、一 人 の お ば あ さんが、
風邪 を引 いて しま う。丁度 目の前 が うどん屋 な の で 、こ ち らで温 か い うどん を
食 べ て身 体 を温 めな さい。」 とお金 を スー と出 して 「遠 慮 は い りませ ん。 ど う
ぞ。」 と差 し出 して くれ た のが真新 しい 千 円札 だ つ た。 私 た ち 2人 は仕 事 な の
で 、少 しの お金 も持 つてい なか つ た。 そ して 、お ば あ さん は、吉祥 寺駅 の方 に
向 か つ て見 えな くな って しま っ た。何 とい うあ りがた い こ と。身震 い して い る
ので 、お ば あ さん の住 ま いや名 前 を聞 く こ とに気 が 付 か なか つ た。思 わず お ば
あ さん の 方 向 へ 手 を合 わせ た。 橋本 君 もそれ に つ れ 、手 を合 わせ た。 そ して 、
店 の 中に入 つ た。「イ ラ ッシ ャイ。」 と元気 な声 で迎 えて くれ た。そ して温 か な
うどん を 二 人 で い ただ く こ とにな っ たが 、ズ ボ ンがか な りぬ れ て い るの で 、店
の 人 に新 聞紙 を頼 んで敷 い た。椅 子 が 完 全 に ぬ れ て しま うか らだ つ た。支払 い
の 時 に、店 の人 も私 た ち の身体 を心配 して いた。会 計 をす る と、か な りの金 額
が残 つ た。そ の 時、またお ば あ さん の顔 が 浮 かんで き た。そ して 、この残 金 は 、
世 の 中へ 返 そ うと決 心 して 、つ い で に市 役所 へ 入 つ た。受付 の人 に今 まで の こ
とを一 切 話す と、「わか りま した。 福 社 の 関係 に回 わ させ て て い ただ きます の
で 、 お宅 の御 住 所 、 氏名 を」 と うい こ とで 、署名 した。「後 ほ ど、 関係機 関 か
ら手紙 が届 きます。」 との事 で丁度 3日 目に手紙 が届 い た の で 橋 本 君 に も見 せ
た。あ の 見知 らぬ お ば あ さんか らす ば らしい人 生勉 強 を させ て い た だ い た。東
京 吉祥 寺 に も こん なす ば ら し人 が住 まわれ て い る。そ の 時 のお ば あ さんか らの
1000円 は 、現在 の 1万 円以上 と思 われ る。
19
成 人 式 の時 の こ と
昭和 32年 に成 人式 を迎 えた。東 京武 蔵 野 市 の大 野 田小 学校 の 体育館 に行 つ
た 。 背 広 は 、 三 越 デ パ ー トで買 い そ ろ えた。 そ の 頃 は、お給料 も少 し上 が っ
て 、何 とか買 うこ とが で きた。 体 育館 は 1000人 ほ どの 人 で い つ ぱ い だ つ た。
後 に総 理 大 臣 にな っ た 中曽根 康 弘 氏 が 、 当時通 産 大 臣 と して祝 辞 を述 べ られ
た。 そ の 中 で 、「沖縄 は 、 日本 の もの ではな い。 で も、 いつ か 日本 と して復 帰
す るの で 、安 心承 知 をす る よ うに。」 とい う内容 を今 も覚 えて い る。
19
参考
松前 重義 (ま つ まえ しげよし)1901年 (明 治 34年 )10月 24日
‐1991年 (平 成 3年 )8月 25日 )は 、 日本 の官僚 。政治家・ 科学
者・ 教育者・ 工学博 士。東海 大学創 立者。 日本社会党衆議院議員。
内村鑑 三 に師事 した。 日ソ交流 を進 めた。世界連邦建設同盟 (現 、
世界連邦運動協会 )会 長。
清様 が若 い ときか ら、心 の支 え としてきた言葉
目に見え ぬ
神 の心 に通 う こそ
人 の心 の
︵
小学校 の時、教頭先生が
毎朝読み上げられた言葉︶
員 ︵
ま こと︶ な りけ り
清 く 日 一日と
勉 励 す べし
歳 月 は人 を 待 た ず
︵
珠算 の先生佐 野俊郎先生 の言葉︶
20
.,
.,
だれ だっ てつらいん だよ。
だれ だっ て苦 しいん だよ。
それ を 言 葉 に だ し た ら 、 な お 心 が さ み し く な る よ 。
も う 一度 が ん ば っ て ご ら ん 。
きっ と 明日 夢がみえる よ。
苦し い と き ほ ど 明 る く 対 処 で き る 人 聞 が 、
本当 の す て き な 人 で す 。
逃 げ る と 逃げ た だけ の 人 生が次 に くる 。
甘 える と 甘 えた だけ の人 生が次 に くる 。
自 分 の力 で 正 面からぶ ちあ た れ 、
それ を の り こ え て ゆ け 、
自 分 をみつめ る 時はい ましかな い。
自分 を き た え る 時 は い ま し か な い 。
自分 を だ し き る 時 は い ま し か な い 。
必ず や る
わた し が や る と 決 め た こ と は 、
必ず や り と げ で み せ ま す 。
すべ てに感謝 する 。
つら い 時 も 、 苦 し い 時 も
これ が 自 分 を 大 き く さ せ る
試練 と 思 え ば こ れ ほ ど 強 い 心 の
さ さ えはあ り ません 。
|
[ 清様久云a �0)-S�f��G it:た詩です o