豊 栄稲荷神社

と
や
ま
鉄
線
道
線
風
幹
山
の
新
高
い
陸
神通
川
の手でささやかに守られてきた。
昭和 年の富山大空襲で社殿が
焼 失 し、星 井 町 の 旧 神 社 地 に は 簡
まさとし
素 な 仮 の 社 殿 が 建 て ら れ た。そ の
呉 羽 山 に、富 山 の 薬 の 祖 で あ る
前 田 正 甫 公 ゆ か り の 宮、豊 栄 稲 荷
年 前 の 創 建 で、富 山
神 社 が あ る。宝 永 元 年( 1 7 0 4
年 )、今 か ら
年、先 代 の 宮 司、五 十 嵐
た。そ の 後 引 き 継 い だ 人 々 の 努 力
「 薬 」に 注 目 し、富 山 売 薬 を 展 開 し
正 甫 公 は、幅 広 い 分 野 か ら 富 山
の発展に貢献したが、その中でも、
の御分霊を祀ったことに始まる。
都の伏見稲荷大社から稲荷の大神
穣と殖産興業の守護神」として、京
の 財 政 基 盤 を 築 く た め に「 五 穀 豊
当時の富山商工会議所会頭の成田
と社務所を建て、
遷座した。
この時、
奉 賛 に よ り、現 在 の 場 所 に 新 社 殿
県下の有力会社や商店などからの
元富山藩主・前田家の子孫や、先祖
という経済界の盛り上がりがあり、
ち返って、
立派な社殿を建てよう」
正治氏の時に、「正甫公の思いに立
後、昭 和
により、「薬都富山」
として、
今日の
政次氏や、朝日印刷㈱ 朝日重剛会
藩二代藩主・前田正甫公が、
富山藩
富山の発展の一翼を担っている。
守 社 長 の 先 代、当 時、大 東 交 易 ㈱
大家・前田利保命、
反魂丹の処方を
く、明治維新の後は、
近隣の人たち
の 宮 」と な っ て い た た め 氏 子 が な
会 で、前 田 章 利 氏 が 奉 賛 会 の 名 誉
章 利 氏 が 家 族 と 参 拝。そ の 後 の 総
は、富山藩前田家十六代当主・前田
前 田 正 甫 命、十 代 藩 主 で 本 草 学 の
社 殿 に は、主 祭 神 の 稲 荷 大 神、
配祀の薬祖社
(医薬の神・少彦名神、
らが中心となった。
長 の 先 代、北 陸 中 央 食 品 ㈱ 澤 田 悦
が藩士を勤めていた人々が相談し、
も と も と 豊 栄 稲 荷 神 社 は、富 山
藩の主要な米蔵であった
「千石蔵」
( 現・ダ イ ト ㈱ )社 長 の 笹 山 梅 治 氏
創 建 さ れ た。広 さ は 1 4 0 0 坪 も
伝 授 し た 万 代 常 閑 命、他 )、富 山 藩
会長に、
朝日重剛氏が会長に、澤田
じょうかん
すくなひこ な の か み
前田家の先祖の神・成就天満宮
(菅
悦守氏が副会長に就任した。
は た の い ろ ぐ
は い し
原 道 真 公 )が 鎮 座 す る。ま た、天 照
あ っ た と い う。藩 政 時 代 は、「 藩 祭
大 御 神 を 祀 る 摂 社 と、伏 見 稲 荷 大
豊栄稲荷神社では、 年前
なお、
から 月 日に春の七草を粥とと
としやす
社 を 創 建 し た 秦 伊 呂 具 公、百 済 か
あ や は と り
康祈願祭」
を行なっており、多くの
も に 頂 き 健 康 を 祈 願 す る「 七 草 健
く れ は と り
ら織女として日本へ帰化して呉羽
神を祀る摂社・呉羽社がある。
前 田 家 ゆ か り の 場 所 と し て、観 光
前田家墓所や
また、呉羽山には、
正甫公建立の武運山長久院があり、
人が訪れるようになっている。
れ、近 年 活 動 を 休 止 し て い た 奉 賛
面でも新たな展開が期待される。
月
あきふさ
宮司 五十嵐顕房氏
富山県の発展を祈る
神社であり続けるよ
う、お 守 り し て い き た
いと思います。
皆 様 の 思 い と、神 様
のお力で奉賛会が再
興 し、夢 の よ う で す。
日の奉賛会結成記念大祭に
昨年 月 日、遷座 周年、創建
周年の節目の記念大祭が行なわ
山 に 住 ん だ 呉 服 女 の 神、綾 服 女 の
10
北
に隣接する稲荷高と呼ばれた所に
48
7
JR
あ
20
1
会 の 再 興 の 気 運 が 高 ま っ た。今 年
40
▲七草健康祈願祭より
今年5月、
奉賛会が再興
富山大学
311
1
駅
前田正甫公
22
2015.10
2015.10
23
11
31
富山
線
旧
富山城
310
5
豊栄稲荷神社
8号
まさとし
富山藩二代藩主
まさとし
豊栄稲荷神社
と よ さ か
附属小
富山観光ホテル
峠茶屋
富山の薬の祖
前田正甫公ゆかりの宮
県立図書館
■取材協力:豊栄稲荷神社 ■参考文献:豊栄稲荷神社発行のパンフレット等
富山遺産