ヴィゴツキーの内言理論をどのように理解すべきか: ピアジェとゴールド

ヴィゴツキーの内言理論をどのように理解すべきか:
ピアジェとゴールドシュテインのコメントにおける明らかなものと明らかでないもの
神谷栄司
I 周知のように、ピアジェはヴィゴツキーの『思考と言語』第 2 章と第 6 章に関するコメンタールを書いて
いる(1962)。この文献は、ピアジェがヴィゴツキーを論じた唯一のものと考えられるので、それだけでも極めて興
味深いものである。そのなかで内的言語(内言)の面について述べるならば、ピアジェは自己中心性の概念につ
いては、ヴィゴツキーと自分とのあいだには、相違があるとしつつも、自己中心的言語と内言の関係にかんするヴ
ィゴツキーの見解に賛意を表明している。
Vygotski, si je le comprends bien, n'est pas d'accord avec moi sur la notion de l'égocentrisme
intellectuel de l'enfant; mais il reconnaît l'existence de ce que j'appelle le langage égocentrique et il y
voit le point de départ du langage intériorisé ultérieur; qui peut d'ailleurs servir selon lui aussi bien à des
fins autistiques que logiques (Piaget, 1962, p.502).
私がうまくヴィゴツキーを理解しているならば、ヴィゴツキーは子どもの知的自己中心性の概念について
わたくしと一致していないが、しかし、彼はわたくしが自己中心的言語と呼ぶものの存在を認め、そこに、その後
の内的言語の出発点を見出している。しかも、この内的言語は論理的なものに役立つとともに自閉性の終焉に
も役立っている(Piaget, 1962, p.502)。
明らかに、20 年代のピアジェは、3〜7 歳における自己中心的言語の減少の原因を子どもの社会性の増大の
なかに認めた。そこには内的言語の位置そのものがなかった。だが、 1962 年のピアジェは、自己中心的言語を
内的言語の出発点と認めている。これは、自己中心的言語の減少は内的言語への成長を伴う、というヴィゴツキ
ーのアイディアへの賛意である。
とはいえ、ピアジェはこの内的言語の問題を深めなかった。私が思うには、その根本には、自己中心性から社
会性へというピアジェの発達図式と、社会的存在の個性化というヴィゴツキーの発達図式との相違が横たわっ
ている。さらにそのより深い基礎には、ピアジェの言語観がある。ピアジェは言語をメンタリティの「翻訳」 (p.506)
とだけ捉え、言語の積極的役割を捉えなかった。それ故、ピアジェ理論は行為や操作について大いに語るのだが
言語について語る必要はなかったのである。たしかに、ピアジェの自己中心性理論は認識過程に自我を位置づ
けつつ、魅力的な「脱中心化」のアイディアにたどり着いている。しかし、 12 歳ころに「脱中心化」が完成した直後
に、13 歳の危機(ヴィゴツキー)が起こり、自己意識の生成が概念的思考(ヴィゴツキー)や理性的認識(ヘーゲ
ル)に決定的な役割を演じることをピアジェは理解しなかった。これらは、内的言語による個性化が彼の視野の
なかに入っていなかったためであろう。
II ゲシュタルト学派の生理学者、失語症の専門家であるゴールドシュテインは、ピアジェのコメンタール
に先立つ 14 年前に、『思考と言語』第 7 章を参照しつつ、ヴィゴツキーの内的言語のアイディアにほぼ全面的に
同意していた。
I agree with the concept of inner speech developed by Vigotsky not only because it is supported
by good evidence but also because it is in conformity with the ideas about human behavior in general
and language in particular which seem to me most accurately to present the facts. It also seems
pertinent to me to understand, at least to a certain degree, some symptom complexes which we are
inclined to consider as expression of dedifferentiation of inner speech and to give hints as to how they
should be studied further (Goldstein, 1948, p.98).
ゴールドシュテインはすでに 1912 年には、失語症の核心の一つを、内的言語の変調と捉えるようになっ
ていた。彼はそれを「中枢的失語症」と呼んだ。彼は、このタイプの失語症の研究の観点から、内言を次のように
規定している。
Inner speech is the totality of processes and experiences which occur when we are going to
express our thoughts, etc, in external speech and when we perceive heard sounds as language (1948,
p.94).
ゴールドシュテインによれば、内言は、一方では、 ” non-language mental processes”に関連する。それ
は、”inner speechform”(語のカテゴリーの選択、構文形式、文法構造)に応じた内言の組織のなかに表される。
内言は、他方では、external instrumentalities と関連する。これは外言への内言の移行のことである。これらは、
ヴィゴツキーの内言理論にきわめて近い。
あえて、両者の相違を指摘するとすれば、語義の位置づけ方の相違であろう。ヴィゴツキーにとって語義には
二重の意味があった。語義はことばの現象であるが、同時に、一般化や概念であり、その点では心理現象でもあ
る。ゴールドシュテインは、inner speechform のなかに語義(語のカテゴリー)を位置づけ、この形式を nonlanguage mental processes と関連付けようとしているが、それは失語症の理解にもかかわってくる。失語症患
者を捉えるとき、概念は保存されているがそれを言語的に適切に表現できないのか、概念そのものがダメージを
受けているのかを区別することは、患者のリハビリテーションにとって重要な事柄だと思われるからである。
III この点を明らかにするために、事例を一つあげて説明しておこう。ある失語症患者の家族に対する私
のインタヴューによれば、その人は脳溢血の結果、ヴェルニッケ野にダメージを受けた。脳溢血の手術後、彼は家
族、つまり妻、娘、息子について、彼らが自分の家族であることは解ったものの、彼らの名前をすっかり忘れてい
た。自分の名前すら忘れ、家族がその名を教えると「変な名前だなぁ」と言うほどであった。リハビリテーションの
過程で、この患者が苦しんだのは錯語である。例えば、この患者は消しゴムの絵を見て、それが間違いだと解っ
ているのに、また頭のなかには消しゴムの像が浮かんでいるのに、何度もエンピツと答えてしまう。これを内言と
関わって、どのように解釈できるのだろうか? この場合、私は、花とバラの関係についてのヴィゴツキーのことば
を想起する。ーー子どもは一般的なことばから、つまりまず花を覚え、後にバラを覚える。もし子どもがバラの語を
先に覚えるなら、その子はバラの語を花の意味で用いている。この指摘は、この失語症患者を理解するのに役立
つ。この患者はエンピツの語をエンピツを含むより一般的なもの、文房具の意味で用いているのである。
このようにこの患者を捉えたとき、彼の内言の意味論的側面や概念は生きていることが判る。この場合、
問題は、ゴールドシュテインの表現によれば、「外的道具性」への連結にある。こうして、リハビリテーション実践
の課題はより明瞭になる。もちろん、以上のことは、あらゆる失語症患者にあてはまることではなく、この患者が属
する一定のタイプの失語症にあてはまるものではあるが。
IV しかし、ここで重要であるのは、ゴールドシュテインは失語症と内言との関係を研究することを通して、
上記のように、ヴィゴツキーの内言理論に近づいたことである。ただし、失語症研究の特質のため、彼の問題の
探究の中心は、内言の外言への移行過程にあるので、語義の位置づけもその一つであるが、内言の本質の究明
には曖昧さが残っている。
ヴィゴツキーが『思考と言語』第 7 章で述べたことの中心は、ことばの二つの側面ーー言語論的形式と
意味論的内容ーーは、直接的統一から区別されて、複雑な関係を持つようになり、ときに、この二つの側面は対
立的方向に運動することである。ヴィゴツキーはこれについていくつかの事例をあげて説明している。たとえば、
初期の有意味語と一語文における部分と全体、子どもにおける接続詞の自然発生的な使用と子どもの持つ論
理とのズレ、文法的主語・述語と心理学的主語・述語との不一致、寓話の翻案における対象の名詞の性の重視
と生態との矛盾などがそれである。
この対立と矛盾は内言においても認められる。ヴィゴツキーは次のように書いている。ーー「ことばの形
相的側面、構文法、音声論は最小限にまで達し、最大限に単純化され凝縮される。前面に現れてくるのは語義
значение слова である」(с.327)。内言における言語論的形式は極限まで凝縮されるが、意味論的内容として
は語義が前面に押し出される。だが、それだけではない。語から発生し、語義を内包する意味は、小説のタイトル
が小説の内容全体を吸収するように、膨大に拡大され発達を遂げる。
こうして、内言の二つの側面は、言語論的形式のノーマルな崩壊と意味論的内容の膨大な拡大・発達と
特徴づけられる。内言は特定の言語形式を持たないのであるから、それはあらゆるタイプの外言ーー発話、傾聴
書記、読書に、そして、それらの理解に、容易に移行することができる。だが同時に、内言は同じ理由で、つまり特
定の言語形式との連結を持っていないが故に、失語症にあっては、外言という出口を見失うのである。内言とは
言語論的形式のノーマルな崩壊と意味論的内容の膨大な発達との統一体である。そのような内言の弁証法的
本性こそ、『思考と言語』第 7 章から引き出されるもっとも主要なものであり、私が思うには、ゴールドシュテイン
がそれに近づきながらも辿りつけなかったものである。
だが、ピアジェとゴールドシュテインのコメンタールからもっとも明らかで重要なことがある。立場の異な
る 3 人の優れた学者のなかで、1 人の学者の学説が他の 2 人から賛意を寄せられているなら、その学説はすで
に真理である。ヴィゴツキーの内言理論はそのような学説であり、彼のアイディアは 1948 年ないし 1962 年以来、
真理であり続けている。これが『思考と言語』第 7 章から導き出すべきもっとも主要なものである。
文献
Goldstein, K. (1948) Language and language disturbances, N.Y. Grune & Stratton.
Piaget, J. (1962) Commentaire sur les remarques critiques de Vygotski concernant Le langage et la
pensée chez l'enfant et Le jugement et le raisonnement chez l'enfant / Vygotski, L., Pansée et langage,
Traduction de Françoise Sève, suivi de Commentaire sur remarques critiques de Vygotski de Jean
Piaget, 3 édition, La Dispute, Paris, 1997, pp.501-16.
Выготский, Л. С. (2001) Мышление и речь, М., Лабиринт