「神の家族」

2015 年度2月1日
麻生教会主日礼拝説教
「神の家族」
ルカによる福音書8章16節~21節
久保哲哉牧師
1.神の家族が集う麻生教会
今日の説教題は「神の家族」と題しました。主イエスが今日の箇所で「わたしの母、わ
たしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とおっしゃられたゆえです。
学生の頃よく歌った歌で「神の家族」という歌がありました。歌詞を少し紹介すると
「主が愛されたように
私たちも愛し合う
主が許されたように
私たちも許し合う
神の家族
神の家族
神の家族
神の家族」
というものです。教会では洗礼を受け、教会員とされた者を兄弟・姉妹と呼ぶ習慣があ
りますが、これは信仰者は神にあって一つの家族であるとの信仰からです。教会の子ども
はみんなの子。幼い子どもは教会全体で育てる。弱さを覚えている人、中々教会に来るこ
とができなくなった方がいたら、みんなで祈りあい、時には電話をしたり、訪問をしたり、
互いの必要を補い合うことができるというのはすばらしいことです。僕も自身も幼い頃か
ら教会でかわいがられて育てられ、今も子どもの服をもらったり、病気の時に助けてもら
ったり、神の家族のありがたさが身に染みている所です。隣人同士が、どんな時も愛し合
い、許し合い、神の家族としていつまでも一緒に過ごす、というのは、なんと幸いなこと
でしょう。そのようなことを思いながら、説教題をつけさせていただきました。
それで、これは偶然なのですけれども今、麻生明星幼稚園では新年度から幼稚園に入園
する家族の方に対する面接を行っています。2週間かけて1家庭 30 分ほど時間をとって
約 20 の家族と面談を行うのですが、一昨日の金曜日に一応一段落いたしました。少し骨
が折れましたが、本当に様々な環境におかれた家族を目にいたします。一学年約25家族
の人生に触れますので、中には本当に牧師の目から見ても困難を抱えている家庭がありま
す。人は一人では生きていくことはできませんけれども、一つの家庭も、また同じで、単
独のただ一つの家族では生きていくのは困難なのだと思わされました。
家族で協力をすれば、どんな困難苦難でも立ち向かっていけそうなものですけれども、
関係が近しいからこそ、色々なアラが見えてきて、中々協力することができないというこ
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とはよくあることです。
創世記のアダムとエバも蛇の介入によって神が結び合わせたその絆にヒビが入りまし
た。その息子たちのアベルとカインは主なる神への供え物を巡って愛する兄弟を殺害する
という事件がありました。人間の罪が最初に露わになる、そうした事件が妻と夫の間で、
そして兄弟同士の間でまず最初に起こることを聖書は正直に告げています。
そうした中で、是非主なる神を信じて、主にある助けをいただいて様々な困難を乗り切
ってもらいたいと思いますので、ご家庭に最初に配るプリントには麻生明星幼稚園の教育
目標について記したプリントを配っている所です。教育目標、それは幼稚園が目指すべき
所であり、それと同時に麻生教会が目指している宣教の最前線がここにあります。みなさ
んは麻生教会の宣教のわざである麻生明星幼稚園の目指す所の「教育目標」についてご存
じでしょうか。今、教会総会に向けて教会と幼稚園がどうやって今以上に協力して宣教に
励むことができるかを模索している所なのですが、共に祈りを合わせて福音宣教に励むた
めに、互いのことをよく知ることは大切なことでしょう。
2.麻生明星幼稚園の教育目標「敬虔・奉仕・創造性」
これは前任の白井先生が定めたものですが、麻生明星幼稚園は「敬虔」・
「奉仕」・「創造
性」この三つを教育の目標に据えています。牧師・園長が替わりましたので、僭越ながら、
これへの意味づけを新たにさせていただきました。これは去年の教会総会の総会資料に載
せたことですけれども、「敬虔」それは神の御言葉に聞くこと・祈ることから始まる強さ
としました。「人はパンだけで生きるものではありません。神の口から出る一つ一つの言
葉で生きる」との主の御言葉を据えました。神の言葉に聞く信仰こそ、旅路をゆく杖です。
山には険しい道がありますから、御声を聞かずに一人行くと、行き先を見失うこととなり
ます。また、「どう聞くかに注意」を怠ると、道ばたに落ちた種のように、空の鳥に食べ
られてしまうことも起こります。そうではなく、まことの信仰はたとえ「からし種」ほど
の信仰であったとしても山をも動かすのですから、まことの信仰を持つ者は聖なる強さを
実に帯びて、進むことができます。この「敬虔」な信仰に生きることこそ、教会の使命で
あり、これを幼子と保護者に伝えることこそが幼稚園の使命です。この敬虔な信仰で結ば
れた絆は決して切れることはありません。
牧師として教会に仕える生活をしてまだ5年ですが、教会で色々な信仰者をの後ろ姿を
見てきました。病を得、自分の死を目の前にしてさえ「すべては神の御心です」といって、
祈る言葉にも詰まる牧師を逆に励まして天に召されていく方々を何人もみてきました。き
っとそこに至るまでには想像を絶する心の痛みがあったに違いないですし、また再び恐れ
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の中に引き戻されるということは得てしてあることなのですけれども、神が御言葉を通し
て与えてくださった「信仰」の力強さ・真骨頂をたびたび目にしてきました。教会に集う
一人一人と幼稚園の子どもたち一人一人の心にこの信仰の炎を、どんな困難にも負けずに
神の栄光を現すことができるともしびをともすことが我が教会と幼稚園の使命です。たと
え死がわたしたちの袂をわかつとも、信仰による絆は、神の家族の絆は決して切れること
はないのです。
また、麻生明星幼稚園の教育目標、二つ目の「奉仕」についても触れましょう。
今日の箇所 16 節によれば「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下
に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあり
ます。古来からここで言われているともしびは神の御言葉の宣教に例えられてきました。
御言葉は神の国の神秘として「教会の中に、すでに救われた者たちの間だけのものとして」
そのまま隠されたままにされてはいけないものです。主を信じる弟子たちによっていずれ、
外から入ってくる人々に見えるように広められるべきです。
このようにここで言われている「ともしび」とは今日の文脈でいえば主キリストの御言
葉と取るのが通常ですけれども、「神の言葉を聞いて行う人たち」の輝きととってもよい
かと思います。「神の言葉を聞いて行う人たち」は「愛の業に励みつつ」世のため人のた
め、教会のため主なる神のため、様々な奉仕をミッションとして与えられる所です。その
奉仕の業は決して隠されてはいけません。
今日のともしびの例えで語られているように、「ともしびをともして、それを器で覆い
隠したり、寝台の下に置いたりするのはよくありません。入ってくる人にその光が見える
ように、燭台の上に置く必要があります。日本人は奥ゆかしいので、奉仕の業を表に出さ
ない傾向にあるのですが、ともしびも、世の光も、大いに輝かせる必要があるというのが
聖書の発想です。
麻生明星幼稚園が大切にしている「奉仕」の心。これはもちろん教会も大切にすべき所
です。その意味づけとしては「自発的に愛をもって他者のために働くこと」としました。
創世記に目を向けますと、主なる神は「人は一人でいるのはよくない」と言ってアダムの
パートナーとしてエバをおつくりになられました。それは人が互いに助け合って生きるた
めです。「人はひとりでは生きていくことはできない」のですから、互いに助け合って行
く必要があるということでしょう。コロサイ書には「愛はすべてを完成させる絆」ですと
あります。信仰の絆は愛によって完成される必要があるということでしょう。
また、そうした互いに助け合う「善い行い」は「強いられてのものではなく、自発的に」
行われる必要があります。この点に関しては新約聖書のフィレモンの手紙を見るとよくわ
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かります。フィレモンの手紙について少し説明をいたしますと、この手紙は使徒パウロと
親しいフィレモンという男の元から逃げた奴隷、オネシモという人を赦すように促す手紙
です。当時は奴隷が主人の下から逃げるということは「死刑」に相当することなのですが、
パウロの元に逃げたオネシモは回心し、洗礼を受けたようでした。そして、その道筋がま
っすぐにされた逃亡奴隷のオネシモは、自らの不義を正しく裁いてもらうために、裏切り
の奴隷オネシモは主人のフィレモンのもとへと向かいます。その奴隷オネシモを愛する兄
弟として迎えてほしいと願う手紙。それがフィレモンへの手紙です。おそらくフィレモン
はこの手紙なしにもオネシモを自発的に赦す「敬虔」な信仰を持っていたのでしょうけれ
ども、パウロはこの手紙を執筆しました。これにより、私たちは「奉仕」のわざのなんた
るかを知ることができます。フィレモンの手紙は全部で1章しかない短い手紙で、全部で
16 節しかない手紙ですから、是非お帰りになってからお読みいただけたらと思います。
たとえ進んで善を行ったとしても理解されなかったり、誤解を招いたり、評価されなか
ったりということは様々ですけれども、それでもなお、たゆまぬ忍耐をもって他者のため
に働くこと。そして教会のために働くことを主なる神は必ず喜んでくださいます。
何より、憐れみ深い人は幸いです。憐れみをもって隣人を助け、隣人の幸いを喜ぶ喜びを
知った者はもう一人ではありません。神と人とが、そして人と人とが互いに手を取り合っ
て祈り合って進むことができます。教会員一人一人、そして幼稚園に集う子供達一人一人
の心に愛の炎をともし、互いに助け合う「奉仕」に生きることが・そしてこれを伝えるこ
とが神の家族である教会の使命であり、幼稚園の使命です。
そうした神の言葉に誠実に聞く敬虔な強さをもつ人。そして神と隣人を愛するというこ
と、具体的には神と人への「奉仕」という仕方でで神の言葉を実践する愛に満ちた人物は
神の祝福の内に新しく創造され、建て挙げられ、どんな困難にも打ち倒されない強さをも
って、30 倍・60 倍・100 倍の実を結んで進むことができます。これが、明星幼稚園の教
育目標の第三のもの。「創造性」の中身です。
繰り返しになりますが 21 節で主イエスはお語りになっています。
「私の母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」
前回の「種まきのたとえ」では「立派な心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐してみを結
ぶ」ことが奨励されました。今回もその続きが読まれましたが、今日の箇所でも引き続き、
繰り返し「御言葉を聞いて行う」ことが求められています。きっとそこにのみ、私たちの
教会がまことの教会として立つための道があるのでしょう。
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しかしながら、正直、これは大変厳しい言葉です。御言葉を聞くのみならず、これを行
うことは大変、骨の折れる仕事です。御言葉に聞きつつ、祈りつつ、何年信仰の生活を送
ったとしても、今日は全く主の御心に適う日であったという日はそうそう来るものではあ
りません。日常の日々は悔い改めの祈りをしない日がないほどです。けれども、けれども
です。福音の火をともされて光りとなった私たちがもし光の働きを発揮しないなら、初め
に火がともされたことは空しくなってしまうことでしょう。せっかくともされたあかりが
「何かの器」で覆われたりしたら光を放つことができないばかりか、酸欠であかりそのも
のが消えてしまうことになりかねません。信仰者はキリストの光を輝かせる世の光であっ
て、その生活はたとえどのように控えめであっても日陰のものであってはならないのです。
今日はこの後、私たちは主の食卓である聖餐に与ります。私たち一人一人が神の家族で
あることを確認するための食事です。また、主キリストの光を「ともしび」をこの心と体
におうけしていることを確信するための食事です。私たち自身は弱く、もろい欠けた器で
ありますけれども、主のともしびがこの器に収められているならば大丈夫です。
その証しとして第二コリント4章5節以下には次のように記されています。
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリ
ストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、
このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わ
たしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦し
められても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち
倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イ
エスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために
死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
アーメン。主イエスよ来て下さい。
主イエスの命が、神の言葉を聞いて行う信仰を私たちに与えてくださいます。
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