1 裁判例を実務に生かす ―職務発明規程― ―平成 26 年 10 月 30 日

裁判例を実務に生かす
―職務発明規程―
―平成 26 年 10 月 30 日(平成 25 年(ワ)第 6158 号)―
2015/06/16
第1
はじめに
旧特許法 35 条では、職務発明にかかる対価が定められている場合であっても、裁判所が
旧特許法 35 条第 4 項に基づいて「相当の対価」を算定するものとされていた。同法のもと、
最三小判平成 16 年 4 月 22 日判時 1822 号 39 頁は、勤務規則等にしたがって使用者等が従
業者等に対して支払った対価の額が「相当の対価」に満たないときは、従業者等は事後的
にその不足額の支払を求めることができる旨判示した。そのため、支払額に不足が生じて
いるのか否か、裁判所で争ってみなければわからず、企業が対価の額を予測できないとい
うことが問題とされていた。
平成 16 年の特許法改正はこの問題点を解消するべく行われたものである。改正特許法 35
条においては、勤務規則等により予め「相当の対価」を定める場合には、主として、基準
の策定から支払いに至るまでの間に使用者・従業者間でとられたコミュニケーションの程
度、内容を考慮して、
「その定めたところにより対価を支払うことが不合理と認められるも
の」でない限り、
「相当の対価」の支払いであると認められることになった。裁判所は、勤
務規則等において相当の対価の定めがない場合、又は、
「その定めたところにより対価を支
払うことが不合理と認められるもの」である場合にのみ、「相当の対価」を定めることにな
る。これにより会社は、従業者等としっかりコミュニケーションをとるための『手続』さ
え踏んでいれば、発明規程に沿って算定される金額は、原則として「相当の対価」と認め
。
られるようになり、支払額について予測可能性が生まれたのである(注 1)
以上の経緯により改正された特許法 35 条であったが、職務発明に関する争いは、対象と
なる職務発明について、特許出願、審査、特許査定、発明の実施という経緯を経て初めて
その額が決まること多い上、発明者である従業員が退職した後に紛争化することも少なく
ないために、
改正後しばらくの間、
改正特許法 35 条が適用された裁判例は出ていなかった。
本件は、改正特許法 35 条が適用された初めての事案であり、現時点において唯一の事案
である(2015 年 5 月 29 日現在)
。
(注1)工業所有権法逐条解説 18 版 114 頁は、
「このように手続面を重視して、不合理と認められるもので
あるか否かにつき、全過程を総合的に判断することにより、実体面を重視して不合理性を判断することの
現実的な困難を回避し、私的自治に対する過剰な介入が防止される。
」と述べている。会社の予測可能性を
高めたということと同趣旨であろう。
1
なお、周知のとおり、特許法 35 条はさらなる改正の審議が行われている最中である。も
っとも、その要点は権利の帰属先にあるところ、特許を受ける権利が会社に原始的に帰属
する場合であっても、従業者等は「相当の金銭その他の経済上の利益を受ける権利を有す
。したがって、権利が会社に「原始的に帰属」するのか、い
るもの」とされている(注 2)
ったん従業者等に帰属した権利が会社に「承継」されるのかという法律構成に違いが生ず
る可能性があるものの、従業者等が一定の経済的利益を受けるという点に変更はないと予
想される。そのため、経済的利益をいかにして決定するかという問題はなお残る。よって、
本裁判例は今後改正される特許法 35 条の解釈においても、大いに参考になると考えられる。
そこで、本稿では、本裁判例を詳細に分析し、今後の職務発明規程の策定、そして運用
において、実務上留意しておくべき点を検討する。
なお、本裁判例では、「被告発明規程の定めにより相当の対価を支払うことの不合理性」
と、
「相当の対価の請求の可否及び金額」という2つの点が争われているが、本稿では前者
について検討を加える。
第2
1
裁判所の判断
事実関係
本件の事実関係は以下のとおりである。
時系列
事実
被告、被告発明規程1を策定。
H17.4.1
特許法 35 条を改正する平成 16 年法律第 79 号が施行。
被告、被告発明規程1を改正し、被告発明規程2を策定。
H20.5.12
被告、特別選任職として原告を雇用する。
H21.6.1
原告、被告の特定社員となる。
H22.8 頃
被告、本件システムを導入した取引を行う。(後に、同取引は被告の海
外関連会社であるインスティネットに引き継がれている。)
H22.8.23
・原告、これまでに本件発明を完成。
・米国特許商標庁に本件発明に係る特許の仮出願(原告その他の共同発
明者らが出願人)
H23.8.23
本件米国出願
H24.5.23
原告、被告から解雇通知を受ける
H24.10.23
本件米国出願明細書の補正
H25.2.6
本件米国出願につき、米国特許商標庁からのオフィスアクション(新規
(注2)http://www.meti.go.jp/press/2014/03/20150313001/20150313001.html
2
性欠如)
H25.5.13
米国その他の国において、特許権を取得できないことが確定
※なお、本件発明が特許法 35 条 1 項所定の職務発明にあたることに争いはない。
2「その定めたところにより対価を支払うことが不合理と認められる」ことの判断枠組み
裁判所は、
「その定めたところにより対価を支払うことが不合理と認められる」ことの判
断枠組みについて、以下のとおり述べている。
(2)特許法35条4項によれば,使用者等は,勤務規則等において従業者等から職務発
明に係る特許を受ける権利等の承継を受けた場合の対価につき定めることができ,その定
めが不合理でないときは使用者等が定めた対価の支払をもって足りるところ,不合理であ
〔2〕
るか否かは,
〔1〕対価決定のための基準の策定に際しての従業者等との協議の状況,
基準の開示の状況,
〔3〕対価の額の算定についての従業者等からの意見聴取の状況,
〔4〕
その他の事情を考慮して判断すべきものとされている。そうすると,考慮要素として例示
された上記〔1〕~〔3〕の手続を欠くときは,これら手続に代わるような従業者等の利
益保護のための手段を確保していること,その定めにより算定される対価の額が手続的不
備を補って余りある金額になることなど特段の事情がない限り,勤務規則等の定めにより
対価を支払うことは合理性を欠くと判断すべきものと解される。
ここで裁判所は、特許法35条4項に例示された〔1〕~〔3〕手続を欠くときは、
「特
段の事情がない限り,勤務規則等の定めにより対価を支払うことは合理性を欠く」という
基準を示している。これによれば、同項に定められた〔1〕~〔3〕の手続は、単なる考
慮要素としての「例示」にとどまらない。すなわち、
〔1〕~〔3〕の手続を欠く場合には、
原則として、勤務規則等の定めにより相当の対価を支払うことは合理性を欠くと判断され
るという意味で特別な考慮要素である。
また、「特段の事情」の具体例の1つとして、
「その定めにより算定される対価の額が手
続的不備を補って余りある金額になること」が挙げられている。すなわち、対価の額はあ
くまでも、
〔1〕~〔3〕の手続を欠く場合において、補完的に考慮されるものであること
。
を明らかにされている(注 3)
(注3)本判決は、
〔1〕~〔3〕の手続を欠いている場合において、原則として発明規程による対価の支
払いが不合理であると述べたにとどまり、
〔1〕~〔3〕の手続を備えている場合において、対価の額につ
いて考慮する必要がないとまでは述べていない。この点、本文にも引用している手続事例集 9 頁は「一般
に手続がそれ自体としては不合理とは認められない場合には、対価が低額であっても不合理であると評価
される可能性は低いと考えられますが、最終的に算定された対価の額が過度に低額であるような場合には、
総合的な判断において不合理であると評価される可能性があると考えられます。
」と述べている。中山信弘
「特許法」76 頁(弘文堂、第 2 版、平成 24 年)も同旨である。しかしながら、従業者等において実質的
に発言可能な機会が与えられている場合において、発明規程に従って支払われた対価の額が極端に小さい
という状況は考えにくい。対価の額が極端に小さい場合には、実質的には法の期待するレベルの手続が付
与されていなかったということになり、
〔1〕~〔3〕の手続が欠けていた場合にあたるとされるのではな
いか。そうなると、本判決の射程が及ぶ。もっとも、手続重視による予測可能性の確保という改正法の趣
旨に鑑みれば、基本的には手続が整っている場合には、同じ業界の他社平均よりも対価の額が低いという
3
もっとも、判決文の「上記〔1〕~〔3〕の手続を欠くとき」という文言が、「〔1〕~
〔3〕のすべての手続を欠くとき」を意味するのか、あるいは、
「上記〔1〕~〔3〕のう
ち1つ以上の手続を欠くとき」を意味するのかは明らかではない。本件は、
〔1〕~〔3〕
のすべての手続を欠く事案であったから、どちらを意味するものと解しても、結論に影響
のない事案であった。しかしながら、例えば、対価決定のための基準を開示しており(
〔2〕
あり)
、対価の算定について意見の聴取も行ったが(〔3〕あり)
、基準を策定する際に協議
はされていなかった(
〔1〕なし)などの事案であった場合、勤務規則等の定めにより対価
を支払うことが合理性を欠くかどうかは、本判決の枠組みからは定かではない。そこで、
この点をどう考えるべきか検討する。
ます、
〔1〕
、
〔2〕
、
〔3〕のいずれかが欠けた場合について、一律に論ずることはできな
い。各手続の趣旨、意味が異なるからである。すなわち、〔1〕及び〔2〕は、対価の算定
基準の内容の合理性を担保するものであるのに対し、
〔3〕は、算定基準の存在を前提とし、
具体的な計算方法、その結果の合理性を担保するものである。
〔1〕協議の手続として、たとえば対価の算定基準を策定する段階において、使用者等
が従業者等に対し基準案の内容を説明し、従業者等がこれに対する質問や意見を述べて、
必要に応じて基準案の内容を修正し、基準を策定するというプロセスを踏むというケース
が考えられる。これにより、使用者等と従業者等の双方の意見が算定基準の内容に反映さ
れることが期待でき、基準の内容の合理性が担保される。また、〔2〕開示の手続として、
基準を社内のイントラネットに掲載したり、基準を掲載した書面を従業者等に配布すると
いうケースが考えられる。この場合、使用者等は従業者からの質問、意見を受け付けるメ
ールの宛先や、電子掲示板を合わせて案内しておくべきである。これにより、従業者等は
適時に対価の算定基準の内容を確認し、質問や意見があれば使用者等に対してそれを投げ
かけることができる。従業者等による意見が合理的であり、算定基準の改定が必要と認め
られる場合には、使用者等は算定基準の改定を行うことになるだろう。このプロセスを通
して、基準の内容の合理性が担保される。このように、
〔1〕及び〔2〕の趣旨は、基準の
内容の合理性を担保するという点にある。
これに対し、
〔3〕意見聴取の手続は、職務発明を行った従業者等が、基準に従って算定
された具体的な対価の額に対して疑問や不満がある場合に、使用者等に対してその趣旨を
質問したり、再度の計算を求めることができるという手続である。不服申立制度も、意見
聴取の手続として位置づけることができる。出願時や登録時の支払いは定額であることが
多く、その対価の額が争われることはあまりない。しかし、発明の実施に応じた報奨金を
定める場合(現在、多くの企業が実施報奨金を規定している)、理論的には、当該発明の実
ことをもって合理性を否定する事情として扱うべきではない。対価の額が極めて小さいという例外的な場
合に限り、発明規程に従った対価の支払いについて、合理性を否定する事情になるというべきだろう。
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施により独占排他的に上げることができた利益に応じて、報奨金の額が決まる。しかしな
がら、現実にはそのような利益を厳密に算定することは至難であるので、この点について
(過去の多くの裁判例がそうであったように)従業者等から不満がでる可能性がある。意
見聴取の手続は、このような場合に備えて設けられる手続であり、従業者等からの意見を
聞いて、必要に応じて再計算することにより、具体的な計算方法の合理性が担保される。
このように、
〔3〕の趣旨は、具体的な金額の計算方法の合理性を担保する点にある。
以上のとおり、
〔1〕協議及び〔2〕開示の手続は、対価の算定基準の内容の合理性を担
保するものであるのに対し、
〔3〕意見聴取の手続は、算定基準の存在を前提とし、具体的
な計算方法の合理性を担保するものである。
〔1〕
〔2〕の手続が適切に機能することによ
り、合理性を有する対価算定基準が設けられ、〔3〕の手続が適切に機能することにより、
合理性を有する計算が行われることが期待される。その結果として、合理的な対価の額が
算定されるのである。
したがって、同じ趣旨を有する〔1〕協議と〔2〕開示の手続は、形式的に区別して履
践することが求められるものではなく、手続全体として、従業者等が基準を理解し、意見
できるだけの手続が履践されていれば足りると考えられる。とりわけ本件のように、基準
策定後に入社する従業員との関係では〔1〕協議と〔2〕開示の手続を厳密に切り分ける
ことは困難であり、その意味もない。他方、
〔3〕は〔1〕
〔2〕とは異なり、既に存在す
る基準を適用する場面において、具体的な計算方法の合理性を担保するものである。よっ
て、
〔1〕
〔2〕が充実していたとしても、〔3〕の役割を補うことはできない。
以上のことをまとめると、特に基準策定後に入社した従業員等との関係においては、次
にように考えることができる。
大きな視点としては、①基準の内容の合理性、②具体的な計算方法の合理性がそれぞれ
担保されるだけの手続がとられているかどうかが問題になる。
具体的には、①基準の内容の合理性を担保するという観点から、
・
〔1〕が不十分であっても、
〔2〕が充実しているならば、合理性は肯定され得る。
・
〔2〕が不十分であっても、
〔1〕が充実しているならば、合理性は肯定され得る。
また、②具体的な計算方法の合理性を担保するという観点から、
・
〔3〕が不十分である場合、合理性は否定されやすい。
と考えることができる。
なお、従業者等にとって、いったん完成した基準の変更を求めるよりも、新しく基準を
策定する段階で基準案の修正を求める意見を述べる方が、事実上難易度が低いということ
もありうるだろう。また、基準策定時に既に会社に所属していた従業者等との関係では、
〔1〕と〔2〕を切り分けることは容易である。したがって、基準策定時に既に会社に所
5
属していた従業者等との関係では、
〔1〕を欠くことは合理性を否定する方向の事情となる
可能性が高い点には注意すべきである。
ここで、裁判所の基本的な判断枠組みを整理すると、次のようになる。
特段の事情のうち、①の「
〔1〕~〔3〕の手続に代わるような従業者等の利益保護のた
めの手段」としては、昇格、昇給その他発明者の処遇の向上が考えられるであろう。
3
あてはめ
本件事実関係のもと、裁判所は上記判断枠組みを次のとおり適用している。
これを本件についてみるに,上記認定事実によれば,
〔1〕被告は,被告発明規程の策定及
び改定につき,原告と個別に協議していないことはもとより,他の従業員らと協議を行っ
たこともうかがわれないし(上記(1)ア),〔2〕被告において対価の額,支払方法等に
ついて具体的に定めているのは被告発明規程2であるが,これは原告を含む従業員らに開
示されておらず(同イ)
,
〔3〕対価の額の算定に当たって発明者から意見聴取することも
予定されていない(同ウ)というのである。
なお、
「上記認定事実」としては、以下の事実が認定されている(下線部筆者)
。
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ア
被告は,特許法35条を改正する平成16年法律第79号が平成17年4月1日に施
行された後,原告が被告に入社する前に,前記前提事実(5)の内容のとおりに被告発明
規程1を改正するとともに,被告発明規程2を策定した。被告が,原告の入社の際又はそ
の後に,被告発明規程に関する協議を原告と個別的に行ったり,その存在や内容を原告に
説明したりすることはなかった。なお,被告が被告発明規程を策定又は改定するに当たり
被告の従業員らと協議を行ったことをうかがわせる証拠はない。
イ
被告発明規程1は,被告が社内に設けているイントラネットを通じて被告の従業員ら
に開示されており,原告もその内容を確認することができた。これに対し,被告発明規程
2は,従業員らに開示されておらず,原告が本件発明に係る特許を受ける権利を被告に承
継させる前に原告に個別的に開示されることもなかった。
ウ
被告発明規程には,対価の額の算定について発明者からの意見聴取や不服申立て等の
手続は定められていない。また,被告がこれまでに職務発明をした従業員に出願時報奨金
及び取得時報奨金を支払った例はあるが,事前に支払をする旨の通知をしたにとどまり,
当該従業員からの意見の聴取はされていない。
裁判所は、段落ごとに〔1〕協議に関する事実、〔2〕開示に関する事実、〔3〕意見聴
取に関する事実が認定されている。以下それぞれについて検討する。
〔1〕 「協議」に関する事実
協議について、特許法 35 条 4 項は「対価を決定するための基準の策定に際して使用者等
と従業者等との間で行われる協議の状況・・・を考慮して・・・」と規定している。条文
を素直に読むと、「基準の策定」の時点において、使用者等と従業者等とが話合いの場を設
けることを求めているようである。たとえば、使用者等が基準案を作成し、その趣旨目的
を従業者等に説明するための説明会を設けたり、社内イントラネットに掲載したり、紙の
資料を配布したりして、これに対して従業者等が質問、意見を出して、その上で修正など
を経て基準が策定されるというケースが考えられる。
しかしながら、本件では、基準策定の時点において、原告は未だ入社していなかった。
すなわち、基準を策定する時点では、原告と「協議」することはできないという事案であ
った。本件における「協議の状況」を検討するにあたっては、この点に留意しなければな
らない。
裁判所は、この点を踏まえて「被告が,原告の入社の際又はその後に,被告発明規程に
関する協議を原告と個別的に行ったり,その存在や内容を原告に説明したりすることはな
かった。」と述べている。もっとも、裁判所のいう「協議」の具体的内容は、判決文上明ら
かではない。この点、新入社員との関係における「協議」の考え方ついて、特許庁が作成
した「新職務発明制度における手続事例集」
(以下単に「手続事例集」という。)31 頁(平
成 16 年 9 月)では、
「協議の相手方とはなっていなかった新入社員に対して、策定済みの
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基準を適用する場合には、当該新入社員との関係では協議が行われていないと評価される
ものと考えられます。
」
、
「既に策定されている基準をベースとし、使用者等が新入社員等の
従業者等との間で話合いをした場合には、それは使用者等が当該従業者等と「協議」を行
ったと評価されます。」「例えば、入社前に基準の提示が行われており、当該新入社員は当
該基準が適用されることを承認して入社したと評価できるような場合には、より不合理性
が否定される方向に働くものと考えられます。」などと述べられている。
たしかに、新入社員に対して入社前に基準を提示し、新入社員がこれを承認するなどの
手続をとっていれば、「協議」があったとすることに問題はないであろう。しかしながら、
入社前にそのような運用を行うことを常に要求することは現実的ではないと思われる。特
許法 35 条 4 項の合理性を考える上で、そこまで求める必要もない。たとえば、算定基準の
趣旨目的を記載した文書を社内イントラネットに掲載している場合であれば、アクセス方
法を案内すると共に、質問・意見がある場合の窓口を案内し、現に質問・意見等があった
場合に誠実に対応するという体制を作っておけば、十分に「協議」があったと評価できる
だろう。もっとも、これらの手続は、
「開示」の手続に相当接近すると思われる。すでに述
べたとおり、基準策定後の新入社員との関係では、
「協議」と「開示」を切り分けることに
意味はない。
なお、裁判所は「協議」とは別に、
「その存在や内容を原告に説明したり」とも述べてい
るが、これも入社後に説明をして、それに対する意見を聞く体制を整えておけば、対価支
払いの合理性を肯定する事情になるという趣旨であると理解できる。この点、「説明」とい
う一方的なコミュニケーションは、従業員等が基準策定後に入社したという本件事案を前
提に言及されているのであり、基準策定時に会社に所属している従業員等との関係におい
ても、
「説明」という手続が対価支払いの合理性を肯定する事情になると考えるのは危険で
あろう。
次に、裁判所が「なお,被告が被告発明規程を策定又は改定するに当たり被告の従業員
らと協議を行ったことをうかがわせる証拠はない。
」と述べている点について検討する。か
かる認定からすれば、裁判所は、規程策定及び改訂の段階において、被告の従業員ら(原
告を含まない)と協議を行ったことは、対価支払いの合理性を肯定する方向に事実になる
と考えているようである。
規程策定及び改訂の段階において、被告の従業員ら(原告を含まない)と協議を行った
事実は、原告の手続保障という観点からは、何ら意味のあるものではない。原告が協議の
主体でない以上、原告の意見は基準の内容にまったく反映されないからである。それにも
かかわらず裁判所がこの事実を問題としている以上、裁判所が特許法 35 条 4 項の趣旨を、
純粋に原告の手続保障に求めていると考えることはできない。裁判所は、会社として誠意
をもって対応をしたかという点も、対価支払いの合理性を判断するうえで考慮すべき事情
と位置づけていると考えられる。妥当である。この点、手続事例集 31 頁は、
「一般的には、
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対価を決定するための基準を策定した時点で従業者等であったにもかかわらず敢えて協議
が行われなかった場合と、基準の策定後に当該従業者等が入社したような場合を比較すれ
ば、前者の方がより不合理性を肯定する方向に働くものと考えられます。
」と述べる。手続
事例集がそのように考える根拠は不明であるが、結論として同旨である。
以上のことから、基準策定後に従業員等が入社した事案においては、従業員等の入社前
に使用者等が他の従業員らとの間で協議をし、当該従業員が入社した後に、規程の説明を
し、さらに、基準開示手続において、従業員等の質問や意見を受け付ける体制を構築して
おけば、
「協議」あるいはそれに類する手続があったものとして、全体として対価支払いの
合理性は肯定されると考える。
〔2〕開示に関する事実
裁判所は、
「従業員らに開示されておらず,原告が本件発明に係る特許を受ける権利を被
告に承継させる前に原告に個別的に開示されることもなかった」という事実を認定してい
る。まず、
「従業員らに開示されておらず」という点であるが、これは例えば、社内イント
ラネットにより従業員ら(原告含む)がアクセス可能なページに規程を掲載したり、従業
員ら(原告含む)にとって閲覧自由の書面として、規程の備置きなどを行っていなかった
ことを意味するものと考えられる。続けて裁判所が「原告に個別的に開示されることもな
かった」と認定しているのは、関係する従業員等に対する開示がなくとも、原告との関係
で開示があれば、原告との関係では対価支払いの合理性を肯定する事情になるという趣旨
であろう。原告が手続的利益を享受できているならば、原告との関係において対価支払い
の合理性を肯定できるのは当然である。
〔3〕意見聴取に関する事実
意見聴取に関連する手続として、裁判所は、「被告発明規程には,対価の額の算定につい
て発明者からの意見聴取や不服申立て等の手続は定められていない。
」と述べている。中立
的な機関による不服申立て手続を設けておくことは、合理性の積極事情になると考えられ
る。もっとも、職務発明規程の中には、取締役会が対価を算定し、支払時点では取締役会
が意見を聴取し、さらに不服申立ての審査を行うのも取締役会といった規程もある。しか
しながら、同じ機関が意見を聴取し、不服申立ての審査を行うのであっては、再審査の機
会を付与する意味がない。このような場合には、形式的に不服申立て手続を備えていると
しても、職務発明規程により対価を支払うことの合理性を積極に考える事情にはならない
だろう。
中立性の担保された機関として何を置くかという点については、検討の必要がある。コ
ストを抑えるならば、審査機関を社内の従業員又は役員により構成することが考えられる
だろう。この場合、不服申立制度が形骸化しないよう、実質的に中立的な判断が可能であ
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るという状況が必要であろう。他方、現実に不服申立手続が利用されることはほとんどな
いという状況であれば、社外の人間、たとえば弁護士などにより構成された審査機関を設
けることも考え得る。中立性、ひいては相当対価の支払の合理性を肯定する程度としては、
社外の人間を用いた方が優れている。もっとも、協議、開示、意見聴取その他の手続が適
切に機能している場合に、不服申立の審査機関が、社内の人間により構成されており完全
に中立ではないという一事をもって対価支払いの合理性が否定されるとは考えにくい。審
査機関を社内の人間により構成しつつ、基準の開示と質問・意見の受付け、及び意見聴取
手続を充実させることが現実的であるように思われる。
また裁判所は、
「被告がこれまでに職務発明をした従業員に出願時報奨金及び取得時報奨
金を支払った例はあるが,事前に支払をする旨の通知をしたにとどまり,当該従業員から
の意見の聴取はされていない。
」と述べる。
ここでは、一般的な運用として、職務発明をした従業員から意見を聞いていない事実が
認定されているが、個別に原告との関係で意見聴取があったかどうかという点は認定され
ていない。しかし、意見聴取は、すでに発生している具体的な権利の承継時点において履
践される手続であり、その対象者も特定されているから、他の従業員との関係において一
般的に意見聴取を行っているという事実が、対象者との関係で、対価支払いの合理性を肯
定する方向の事情になるとは考えにくい。裁判所の意図するところは、従業員一般との関
係における意見聴取の状況が直接、原告に対する対価支払いの合理性に影響を与えるとい
う意味ではなく、従業員一般に対して意見聴取を行っていたという事実が認定された場合
には、それを間接事実として、原告との関係における意見聴取という事実の存在を推認す
ることができるという意味であろう。
次に「
〔4〕その他の事情」について、裁判所は次のとおり述べる。
さらに,
〔4〕その他の事情についてみるに,まず,対価の支払に係る手続の面で,被告
において上記〔1〕~〔3〕に代わるような手段を確保していることは,本件の証拠上,
何らうかがわれない。
裁判所は、「〔4〕その他の事情」には、手続面の事情と実体面の事情を峻別し、手続の
面については、証拠上「その他の事情」に該当するものはないと認定している。
続けて、実体面の事情としては、次のとおり判断している。
次に,対価の額及び支払条件等の実体面については,被告発明規程2の定める出願時報
奨金及び取得時報奨金の額(特許1件当たりそれぞれ3万円及び10万円。前記前提事実
(5))は,いずれも他の企業と比較して格別高額なものとはいえない(上記(1)エ)。
また,実施時報奨金については,上限額の定めはないものの,この点は多数の企業と同様
の取扱いをしているにとどまり(同上)
,被告において他社より高額な対価の支払が予定さ
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れていたとは解し難い。
「被告発明規程2の定める出願時報奨金及び取得時報奨金の額(特許1件当たりそれぞ
れ3万円及び10万円。前記前提事実(5)
)は,いずれも他の企業と比較して格別高額な
。
」と判断している点が注目される。「上記(1)エ」の
ものとはいえない(上記(1)エ)
内容は次のとおりである。
エ
独立行政法人労働政策研究・研修機構が上記特許法35条の改正後に上場企業を対象
に行った平成18年7月7日付け調査結果によれば,回答企業のうち87.5%が特許等
の出願時に,81.8%が特許権等の登録時に報奨金を支払うとしており,その約8割が
定額制を採用しているところ,その額は出願時が平均9941円(最大10万円,最小1
000円)
,登録時が平均2万3782円(最大30万円,最小1200円)であった。ま
た,自社実施又は他社への実施許諾等があった場合にいわゆる実績補償を行う企業は76.
8%であり,その大部分が評価に基づいて金額を決定しているところ,過半数の企業は上
限を設けておらず,上限額を設けた企業の平均値は約1208万円(自社実施時)ないし
約2292万円(他社への実施許諾又は権利譲渡時)であった。
すなわち裁判所は、独立行政法人労働政策研究・研修機構が行った調査結果(注 4)を証
拠として、一般的な企業の報奨金の平均値を認定し、本件被告の職務発明規程2に定める
報奨金の額が「いずれも他の企業と比較して格別高額なものとはいえない」と判断した。
裁判所が上述調査結果のみをもって「他の企業」の報奨金を認定していることから、今後
報奨金の額を考える場合には、当該調査結果に示す数字が参考になるだろう。
裁判所は、結論として以下のとおり述べる。
以上によれば,本件発明について,被告が原告に対し被告発明規程の定めにより対価を
支払うこと(出願時報奨金のみを支払い,実施時報奨金は支払わないとすること)は不合
理であると判断するのが相当である。
この判決文の言い回しにはミスリードがあるように思う。このカッコ書きの部分からは、
およそ「出願時報奨金のみを支払い,実施時報奨金は支払わないとすること」が不合理で
あると判断されるかのように見える。
しかしながら、判決文全体からすれば、裁判所の論理が、
『被告発明規程による対価の支
払いは、特許法 35 条 4 項に定められる手続を欠くものであり、それに代わる特段の事情も
ないから、不合理である』というものであることは明らかである。したがって、仮に、従
業員との協議を行った上で職務発明規程を策定し、規程を従業員がいつでも閲覧できるよ
(注4) http://www.jil.go.jp/institute/research/2006/027.html
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うに開示し、随時従業員からの意見を受け付けた上で、職務発明の発明者に対する支払の
段階においても、抜かりなく意見聴取を行っていた場合において、当該職務発明規程に定
められる支払基準が、
「出願時報償金のみを支払い、実施時報償金は支払わないとすること」
であったとしても、被告発明規程による報奨金の支払いは合理的であると判断されると考
えるのが裁判所の理屈に沿うし、また改正法の趣旨からすれば、合理的であると判断すべ
。本裁判所も、およそ「出願時報奨金のみを支払い,実施時報奨金は支払
きである(注 5)
わないとすること」を不合理とする趣旨ではないだろう。
第4
資料(証拠)の保管について
後日の紛争に備え、協議、開示、意見聴取を行った、又は、行う機会を与えたことにつ
いて、それを証明できる文書を保管しておくべきである。たとえば、基準策定の際に説明
会を行っていたならば、そこで配布した資料や、従業者等から出た質問等を記録した議事
録など、基準を社内イントラネットに開示していたならば、開示の期間、方法についての
記録、開示期間中に従業者等から質問や意見が出た場合には、その個人、意見の内容、対
応の内容等を記録した書面、意見聴取を行った場合には、意見聴取の対象者、その内容な
ど、手続を履践したことを証明できる資料を保管しておかなければならない。
第5
本判決から実務上学ぶべきこと
本判決は、改正法を適用した初めての事例である。改正法の趣旨にのっとった判断がな
されており、裁判所がその趣旨を確認した意味は実務上大きい。最後に、本判決を実務に
生かすという観点から、参考になる点をまとめる。
今後は、以下の点に留意し、職務発明規程の運用を行うべきである。
・ 協議、開示、意見聴取の手続は単なる一考慮要素にとどまらず、それらの手続が欠けた
場合、特段の事情がない限り、職務発明規程により対価を支払うことが不合理であると
判断されるという意味で、特別な考慮要素である。したがって、協議、開示、意見聴取
の手続を充実させるべきである。
・ 本裁判所の判断からは、協議、開示、意見聴取のすべてが欠けた場合に、原則不合理と
判断されるのか、その1つでも欠けた場合にも、原則不合理と判断されるのかが明らか
ではない。私見によれば、協議、開示は補完的な役割を担うが、意見聴取は協議、開示
によりその役割を補うことはできない。
・ 支払対価の額は、手続が不十分である場合に、対価支払いの合理性を肯定する事情にな
りうるという意味で、補完的に考慮される。支払対価の額としては、「独立行政法人労
働政策研究・研修機構が行った調査結果」を参考にすればよい。
(注5)前掲中山「特許法」82 頁は、企業による職務発明管理の負担を軽減するという観点から、特許を受
けるべき権利の承継時において、対価を全額支払うという算定方法を提案する。
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・ 「協議」について。基準策定後に入社した従業員等との関係では、基準策定時に他の従
業員等と協議をしていたか、入社時又は入社後に新入社員に基準について説明をしたか
が合理性の積極事情として考慮される。
・ 「開示」について。職務発明の発明者との関係では、従業員等全体に開示してもよいし、
当該発明者に個別に開示していてもよい。
・ 「意見聴取」について。意見聴取だけでなく、不服申立制度を設けることが、対価支払
いの合理性を肯定する方向の事情となる。
・ 特段の事情としては、支払金額の大きさのほか、従業員に対する処遇の向上などが考え
られる。
弁護士・弁理士 寺下雄介
以上
※この記事は一般的な情報、執筆者個人の見解等の提供を目的とするものであり、創英
国際特許法律事務所としての法的アドバイス又は公式見解ではありません。
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