能力重視という価値観について

能力重視という価値観について
コメント [y1]: 全体として、
「能力」とは何
かという考察がありませんでした。
能力主義を肯定する人がほとんどで、反対
私は能力重視というのはとても重要かついいことだと考える。
の立場を考慮する人がほとんどいませんで
まず、能力重視はよくないという人にスポーツなどはどうなるのかという質問をぶつけた
した。
い。例えば 100m 走のオリンピックにおいて、手を取り合ってゴールするのはなにも感動
日本の学校における「能力主義」について
を生まない。選手が日々努力して得た能力が勝ち負けを左右するからこそ感動するのであ
は岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会
る。今、大学入試に面接なども加点しようとしているが、よくない。大学入試も能力重視
へ』ちくま新書などを読んでみましょう。
でずっと続けていくべきである。
コメント [y2]: 日常生活はスポーツではあ
りません。能力や努力が感動を呼ぶ場合が
あるからといって、すべての場合において
それがよいものとは限らないでしょう。
私は能力重視という価値観について、賛成はできない。能力というものは生まれついて持
っているものであり、磨けば向上するものの、その上達の度合いには人によって限度があ
る。少し努力しただけですぐ反映する人もいれば、どんなに努力しても少しずつしか上達
しない人もいるなかで、能力を重視する価値観はどうしても人を差別化してしまう。つま
り怠って努力をしないひとはともかく、少しでも自分の能力を貢献しようとしていても反
映されないひとは、その努力を評価されずに終わってしまうのである。
能力を物事の判断の基準の一つとして用いることはしてもかまわないが、能力に重きをお
いて、能力が高いほうが優れており、逆に能力がない人に価値はないという考え方は極端
すぎる。能力そのものだけでなく、能力向上に向けて努力することにも価値はあるだろう
コメント [y3]: どうして努力することに価
から、それも価値判断の材料に用いるべきである。
値があるのか、というところまで踏み込ん
で考えてほしいですね。
「能力重視」というワードは、特に雇用において、よく聞かれる。
これには「厳しい昨今の経営環境(受注高減少等外部環境の悪化、従業員構成の高年齢化
等内部環境の変化)の中で、収益確保・向上」*1 が必要である背景がある。
コメント [y4]: 具体的にどんな能力があれ
これとほぼ同じ考えで、能力主義という考えがある。ここでは、能力主義について述べた
ば収益が向上するのでしょうか?
い。
現在では、優れた能力がある者を重視するというよりも、何か一つは優れた能力があって
当たり前でなくてはならないという考えが強く、重視しているというよりは、主義として
考えている節が強いからだ。
実際に、厚生労働省では能力開発を勧め、企業に対し能力開発に関する基本調査を行なっ
ており、能力があるかないかということは、神経質なほどに気にされている。
この能力主義の特徴として、報酬の差がある。もちろん能力主義のなかでなくとも、報酬
には差はあるが、
「成功した場合の報酬と失敗した場合の報酬の格差が従来の格差以上に拡
大」*2 させている。
また、能力主義の下で、年俸制を採用する企業がある。
「1996(平成 8 年)においては、461
社中 84 社、即ち 18,2%び企業において年俸制を導入」*2 しているとある。
これら報酬には、問題がある。一つは、報酬の格差による「結果の不平等」*2 である。ま
た年俸制でも、
「年俸ダウンが心配」
「短期的な業績のみを追うようになった」*2 という問
題がある。結果の不平等は、会社内の団結力の低下をまねきうるし、年俸制についても、
良い仕事をしようというよりは、自分の取り分を守るための仕事をするようになってしま
いかねない。
団結力の低い集団による仕事も、保守的な仕事も、エネルギーや展望のある結果を生める
仕事であるとは考えられない。この現状が続けば、経済の成長はあまり望めず、このこと
がさらに企業の心配となり、能力主義が更に広がることにつながりうる。しかし、能力主
義はけっして良くない考えだとも言えない。先に述べたように、能力主義的考え方には、
従業員の高齢化を打開したいという意思がある。このため、若者が評価されやすくなった
という現状がある。また、能力主義は「うまく成果を出した人がより多くの報酬が与えら
れる」*2 という考えでもあるため、従業員のモチベーションの向上にもつながる。この良
い面もまた、能力主義を広げてゆくことを手伝っているだろう。
このようにして、能力主義が広がってきた現代で、これから職を見つけようとする若者は、
特に能力を気にすることだろう。
それはコミュニケーションであったり、外国語での会話であったり、ひとことに能力と言
ってもその幅は広いが、それを何か一つでも磨こうとする。能力主義には、マイナスな部
分もあるが、良い面もまたある。また、この能力主義という価値観は現代で広く浸透して
いる考え方でもある。そのような現代の社会ではたらくとなると、能力主義に真っ向から
対立するのは難しい。
コメント [y5]: 難しいからといってやらな
われわれは、この能力主義、能力重視という価値観を使いこなすことが大切になってくる
くてよいことにはなりませんし、価値がな
だろう。
いことにもなりません。
「能力は、現在の職務に限定されずに、 種々の職務で発揮されることが期待されている潜
在的な属性」*3 という考えもあるため、われわれは自分の能力を高めてゆくことに必死に
なるのではなく、ときに自分にない能力を持つひとにまかせたり、似た能力を持つ人とと
もに仕事をすることで自分を客観的に見ることが出来るようになり、最終的には自分の得
意な能力と、その他幅広く扱える能力を持てるようになる必要がある。われわれはまた、
能力重視という価値観をそのような必要性を持つものとして認識していくようにしなけれ
ばならない。
この能力重視という価値観は、われわれが現代社会で仕事をすることを前提とした時、よ
くもあり、悪くもあるが、不可欠な価値観と言える。
*1 … … デ ラ イ ト コ ン サ ル テ ィ ン グ 株 式 会 社 「 サ ー ビ ス の 実 例 」
http://www.delight-c.com/example/01/post-7.html 7 月 24 日アクセス
*2……奥林康司「能力主義管理の課題と問題点」
『国民経済雑誌』177(2),pp.13-34.1998.
*3……安田均「富士通新人事制度における成果主義と能力主義」
『山形大学紀要(社会科学)』
No.37,2005.
能力は、誰もが持っている。能力は、個性の一つでもある。なぜならば、すべてをこなす
ことのできる人はおらず、また、向き、不向きや、得意、不得意といったことは、誰もが
持っているからだ。
社会的に能力を重視している傾向がみられる。たとえば、大学卒業者と高校卒業者では、
同じ職に就いたとしても給料に差が生じている。同い年であったとしてもそれは生じるの
である。なぜ、このような学歴の差によって、待遇が違うのだろうか。それには、学歴と
いう能力の差が生じている。企業は、能力の高い人材を求め、戦力にする。ここでいう能
コメント [y6]: 「学歴という能力」という
力は、高い学歴やその企業が活動するうえで必要な能力、たとえば、専門的な知識や資格、
表現は不自然です。
語学力やコミュニケーション能力、発想力などである。もちろん、高校卒業者にも、この
ような能力はある。しかし、大学卒業という肩書がこれらの能力をすべてではないが持っ
ているとあらわされうる。
また、医者や薬剤師など、大学を卒業しないと取ることのできない資格がある。これらは、
高い学力がなければその大学に入ることはできないため、高い学力という能力が必要とさ
れるのである。
能力を重視することは、社会で貢献するためにその能力に見合った職に就くことにつなが
り、能力を生かすことにもつながる。
能力は、職に就くことだけに価値が置かれることはない。趣味につながることもあれば、
伝統を守り、後世へ伝えていくことにもなる。
現代の社会は能力、主に知識的な面での能力を重視しているが、たとえ、その面での能力
が劣っているたと判断されたとしても、健全に生活していくことや、幸せにはなれる。能
コメント [y7]: そうですか?
力を知識だけではなく、経験で培った能力や運動能力などの能力でも高い価値を持たれる
社会を作っていくべきである。
コメント [y8]: どんな社会ですか?
コメント [y9]: なぜですか?
授業コメントですが、私は能力重視の価値観自体は悪くないと考えています。仕事をする
能力、運動する能力、様々な能力はいつどのような社会でも必要になるからです。また、
特に運動能力や学力については数字に表しやすく、その人の適性を知るために大きく役に
立ちます。そうすることで自分に合った職につく人が増えたら、社会がより円滑にまわる
でしょう。しかし能力を重視しすぎてその人の個性や、やりたいことを無視したり、能力
の低い人間を切り捨てていくような考え方の社会は、いつか人々の不満が爆発し成り立た
なくなると思います。能力重視の価値観だけではなく人ひとりひとりの個体差も尊重でき
コメント [y10]: 思うを消して根拠を書こ
る社会であればより多くの人々が過ごしやすくなるでしょう。
う。
能力重視の社会についてである。私は能力重視の社会は絶対に必要だと考える。なぜなら、
コメント [y11]: 反対の考えも考慮しまし
人間の能力の向上によって現在の世の中が作られたからである。科学の発展には能力はな
ょう。
くてはならないものである。しかし、もし能力重視の社会にしなかったら、科学技術の発
展に関わることができる人材は減少するはずである。勉強しなくても生きていける世の中
になると、勉強せずに怠けてしまう人が多くなるからである。人間はだれかと競争して能
力を高めていくことができるので、切磋琢磨し続けられる社 会が一番だと考えられる。
コメント [H12]: 「現在の世の中を目標と
するならば」という仮定のもとで、以下の
議論が続くわけですね。
では、その仮定も自分で決めてよいとした
ら、どんな議論になるでしょう?
能力重視という価値観について、知能だけを重視するのでなく、人とのコミュニケーショ
ンの取り方や技術などの能力を重視するということは間違っていない。できないよりもで
コメント [y13]: 理由を書いてください。
きる方がいいのは当然であり、多少優位に立つのも妥当だ。しかし、能力だけを重視し人
の性格等を軽視することは間違っている。パソコンに非常に長けた人がその能力を使い犯
罪を犯すこともある。能力があることは自分の自信につながる。しかし、使い方を間違え
ると大変なことになる。一部分だけを見て人を判断するのではなく、全体を見て評価すべ
コメント [y14]: 何を見て、誰が評価するの
きである。
ですか?
今回の講義の中で取り上げられた能力重視という価値観について自分の意見を主張する。
自分は能力がよければいいとは思わない。なぜなら、能力が低くても幸せになれないと決
まったわけではないからである。現代社会では、能力の優れている人が得することが多い。
例えば、スポーツにおいてはうまい人ほど年俸や契約はいい条件であることや、就職の時
にコミュニケーション能力などが高ければ採用してくれる可能性が高いとキャリアプラン
入門Ⅰの講座で習った。また、勉学においても成績が良ければ次年度にとれる単位の上限
が増えるなどという利点がある。こうしたことを聞くと、能力が高ければよいと考えてし
まう。だが、能力が低くともいいことはある。例えば、会社の中では能力が高い人の方が
ある程度上の役に付ける。その分、平社員よりも大きな責任を課せられる。平社員に責任
が全くないというわけではないが、役がある人よりも軽い。だから、責任を負うことに対
しての能力が優れていない人においては得することではないだろうか。それでは、ただ責
コメント [y15]: そういう「平社員」を、非
任から逃れているだけではないかと思う人もいるだろう。責任から逃れないようにするた
正規雇用に置き換えようという動きが進め
めに責任の重い仕事を引き受けそれで失敗して会社が潰れたら、関係している人々の人生
られています。
の責任をとらなければならなくなる。そんなことにならなくていいためにも、自分の能力
に合ったポジションで全力で頑張ることでやりがいなどを感じることの方が周りのために
も自分のためになるのではないだろうか。こうしたことから、自分の能力に見合った環境
を見つけそこで物事をしていくことで能力の優れている人や劣っている人のどちらもが幸
せを感じることができるのではないだろうか。だから、能力が優れていればよいとは思わ
ない。
能力重視の価値観についてだが、運動神経などの身体能力があったり勉強ができるなどの
知性があったりする人というのは、例えば、将来就職する際の選択肢が増えるなど生きて
いく上で有利にはたらくことがある。この授業で遺伝子操作による子供の改造についての
話があったが、確かに、子供を改造することで、運動もできて勉強もできるようにするこ
と自体はいいことのように思える。しかし、何でもできてしまうというのは、人間の良さ
も奪うことにもなりかねない。というのも、ヒトという生物は、あらゆる種類の生物の中
で知能が高い生物であると言われている。物事を考えて行動するということができる生物
である。何かしら苦手なことであったり出来ないことであったりしても、努力をすること
で克服するというような、壁を越えて目標を達成するという人間ならではのことを経験で
きなくなってしまう。また、子供の意思も尊重されるべきだという意見に対して、子供の
権利は制限されているという話もあったが、私はその事に関して完全に納得できていない。
成人になった後の人生というのは、子供の時の過ごし方の影響もある。子供の権利は制限
されていること自体は正しいことだが、その事で成人になった後の権利も奪っていること
になっている。そのため、子供の意思も尊重されるべきだという意見に対する反対意見と
コメント [y16]: 具体的にどういうことで
して、子供の権利が制限されているということに納得できていない。
すか?たとえば本人が嫌がっても歯磨きを
以上のことより、子供を改造すること、そもそも能力を重視すること自体良いことではな
するように強要することが、大人になって
い。
からの権利を奪うでしょうか?
今回、私は能力重視という価値観について述べる。能力が高ければいいことがあるのだろ
うか。確かに、能力が高ければ社会に貢献でき、高い評価を得ることができるだろう。現
代の社会が学業等の知能を重視する社会であるということも、能力が高いほうがいいと言
われている原因でもある。
しかし、能力が高いからといって必ず幸せになるというわけではない。能力が高ければ、
能力の劣っている人と比べて幸せになりやすいのだろうか。決してそんなことはないはず
である。社会的弱者といわれる老人や障害者の多くは、授業でも取り上げたように幸せだ
と答えている。苦労はもちろんあるだろうが、幸せは能力で決まるわけではないことがわ
コメント [y17]: 社会のあり方として、
「能
かる。
力重視」という方向に進みすぎると、
「能力
の低い人は切り捨てる」という話になる恐
れがあります。
今回の授業を受けて、「どのような社会がよい社会か」について考えました。私は「経済的
な豊かさが幸せの基本であるから、優秀な人を中心に、効率的な経済成長を重視する社会
がよい」という考えには賛成できません。なぜなら経済成長を重視するよりも、社会的な
弱者をサポートする体制を整えるほうが優先されるべきだからです。経済的な豊かさが
コメント [y18]: 理由は?
人々が必要とする値を超えるとあまり意味がないので、経済成長を重視しすぎるよりも、
ある程度の経済的な豊かさは確保して、その他の資源は社会的な弱者に振り分けたほうが、
万人にとってよい社会となるのではないか。
能力が良ければ、経済や技術の発展に生かすことができ、社会に貢献できる。しかし、能
力が高いからといって、良いことに能力を生かそうとする人だけではない。犯罪に利用し
ようとする人もいる。よって、必ずしも能力が高い方がいいとはいえない。
能力には、個人差があり、能力が高い人もいれば能力の低い人もいる。能力重視だと、能
力が高い人は、会社で高い地位につけるなど、高い評価を得られる。しかし、能力が低い
人は、努力しても能力が低いために、高い評価を得ることができない。ゆえに、能力を重
視するより、結果を重視する方がよい。結果を重視している場合では、能力が低い人でも、
コメント [y19]: 努力しても結果を出せな
努力をし、よい結果を残せば高く評価される。しかし、結果を重視する場合にもデメリッ
い人のことを「能力が低い」というのでは
トがある。それは、何を評価対象とするかということである。能力や結果といった1つの
ないですか?
ことを重視するのではなく、経験、能力、結果、姿勢といった評価要素を総合的に考えて、
評価すべきだ。
今回の講義は、今までの内容をさらに発展したものだった。日頃あまり深く考えないこと
理論的に説明するのは難しいと思った。今後、何かを論じるときには必要な考え方で、自
分なりの意見を考えていくようにしていきたい。
現在の競争社会において、能力主義という価値観が社会を発展させてきたのは間違いない。
コメント [y20]: 根拠は?
しかし、授業中にもあったように能力が高いだけですべてが肯定されるのかというと違う。
能力が高いことがイコール社会の役に立てるかというとそうではない。能力が高い人でも
その能力が生かせる職業に就けるとは限らず、就けたとしても性格などの問題から能力が
生かせないというケースはよくある。一方で、能力が低い人でも社会に役立とうと努力す
る人ならば、十分に価値がある。それゆえ、能力主義という価値観自体は、能力のある人
が社会的に優位になるという合理的な考え方ではあるが、その考えだけを推奨するのは社
会の役に立つ人を野放しにするという危険性を伴うということを理解しておくべきだ。
何かについて優れた能力を持つと、社会から評価され、就職や給与などの面で優遇される
コメント [y21]: 何でもいいというわけで
ことが多くなる。また、授業でも学んだように、遺伝子操作を行って優れた能力を持つ子
はない。
どもをもとうとする者もいる。そのような能力重視の価値観は正しいのであろうか。
確かに、優れた能力をもつ者はそのような能力を持たない者よりもその能力の適する面で
活躍することができるだろう。しかし、優れた能力を持つ者だけが評価され、優遇される
のでは不平等であり、差別ある。なぜなら、生まれ持った能力はどうすることもできず、
優れた能力をもたない者は、能力をもつ者に追いつくことができないからである。優れた
能力をもたない者が社会に出てそのような差別を受けないように支援をし、また、その者
自身が自らの能力を伸ばす努力をし、能力をもつ者、もたない者の両者に平等な社会をつ
コメント [H22]: 一つの文章中に「能力」と
くるべきである。
いう言葉が 2 つの意味で使われています。
「天賦の才(才能)」と「後天的に身につく
能力(技能)」とが、読んでいる人にも区別
できるよう、言葉を使い分けるべきです。
今回の授業では能力重視という価値観について障害を持っている人は幸せになれないとい
う意見があったが、私の中学校の近くに障碍者が住んでいる施設があり、そこに通う機会
コメント [y23]: 理由は?
があったのだがそこで生き生きとしている方々を見たり、
「自分を生んでくれた両親に感謝
したい」とおっしゃっているのを聞いて、障碍があるから幸せになれないということでは
なく、その人々がおかれている環境がどうなのかが大切である。
コメント [y24]: どんな環境ですか?
私は能力重視という価値観について肯定的である。現代社会において、お金を稼ぐ能力が
最も重要な能力である。なぜなら、現代社会ではあらゆる消費活動を貨幣によって行う。
ゆえに、生きていくために貨幣は必要不可欠であり、少ないと衣食住の確保が厳しくなり
生存が危ぶまれる。また、お金は必要最低限あればよい、お金がなくても幸せな暮らしは
コメント [H25]: どこの国の?
できる、といった意見もあるだろうが確かにそうかもしれない。しかし、やはりお金がた
くさんあったほうが自分の好きなことができ、好きなものが買える。また、狩猟採集社会
コメント [y26]: 1000 億円もらったとして、
において、より多くの獲物を取ってくる個体が優秀とされた。現代社会においても同じこ
何に使いますか?
とである。野球の能力が高く総額20億ドル以上の契約を結ぶ選手、企業を立ち上げ売り
上げを伸ばす社長、これらの人間はその能力がそれぐらいの価値があると評価されて給料
を受け取っている、または何かすぐれた能力を持っていてそれによってお金を稼いでいる
のだ。したがって、お金を稼ぐことが評価される社会において個人の能力が重視されるの
は至極当然のことなのである。
コメント [y27]: 反対の立場についての考
察しましょう。
私は、能力だけ重視の価値観には反対だ。なぜなら、能力だけあっても、経験がなかった
り、ひとの心に寄り添おうとしなければ、せっかくある能力を十分に発揮できないことが
あるからだ。
今回、私は能力重視という価値観について否定的に考える。例えば、授業中に先生がおっ
しゃっていたように高い知能や実験技術をもっている人でも、その人がその能力を使って
核兵器の開発を行っているという場合もあるだろう。そのことから、能力だけでその人を
判断することはできないといえるだろう。
7月24日の授業の後半、「人間の良さ」というスライドを見て驚いた。「精神的・身体的
障害者」を指して「弱い個体」と言っていたからだ。「精神的・身体的障害者」は精神障害
者、知的障害者及び身体障害者のことを言っているのは間違いないだろう。
「弱い個体」と
いうのは書いた人に聞いてみないと正確なことはわからないが、文脈から好意的に捉える
と「生存能力が弱い人間」ぐらいの意味か?しかし、「弱い個体」という言葉は人間として
劣っているようなニュアンスが必ず残る、誤解を招く表現である。また、精神障害者、知
的障害者及び身体障害者は「社会的弱者」と言われる範疇にはいるが、行政は「障がい者」
を「生存能力の弱い人間」とはまったく捉えてはいない。身体障害者福祉法などの法律は、
障がい者の方が社会経済活動を行う上で健常者に比べハンディキャップがあるから、その
ハンディキャップに応じて支援していこうという考え方で貫かれている。決して「弱い個
体」を保護しようという戦前に存在したような慈恵的・恩恵的発想が残っているわけでは
ない。哲学の授業だから社会保障法と連動していないのは当然であるが、この宿題のテー
コメント [y28]: 最近の「生活保護バッシン
グ」を見ると、生活保護を基本的人権と見
るのでなく、慈恵的・恩恵的なものととら
える人が(国会議員の中にも)多数いるよ
うです。
マ「どのような社会が良い社会か」を考えるにあたって、どうしても違和感が消えないの
で自分の考えを述べることにした。
「どのような社会が良い社会か」の私の答えは、人間を平等に扱う社会が良い社会である
と考える。平等が自由に優先すると考えており、人間を平等に扱わなくて良いという意見
コメント [y29]: 考えるを消して理由を書
は発言する自由があっても、他から非難され、根拠が合理的であれば制限されてもやむを
いてください。
得ないと考える。また、一例にあった「経済的な豊かさにも限度があるので、これ以上成
長するよりは社会的な弱者のサポートに資源を振り向ける方がよい。
」という考え方は、前
者の何のために経済成長をするかわからない考え方よりはましであるが、経済学的には成
り立たないと考える。社会的な弱者のサポートを充実するためには、経済的な豊かさ、一
定の経済成長を実現しなければ不可能だからである。特に、日本は公債残高が異常な程高
いのでなおさらである。できるだけ早期に基礎的財政収支を均衡させなければ日本の国債
の信用力は失墜し財政はパンク、社会保障は崩壊してしまう恐れがある。とりあえず政府
は 2020 年に基礎的財政収支を均衡させる目標を立てているが、予定どおり消費税を引き上
コメント [y30]: 根拠を示してください。
コメント [y31]: なぜそうなったのか調べ
てみましょう。佐藤滋他『租税抵抗の財政
学』岩波書店など。
げた上で名目経済成長率3%が達成できたとしても無理だと言われはじめている。いずれ
にしても、経済的豊かさを求めなければ社会福祉の維持すら困難なのは事実である。また、
反対に社会的な弱者のサポートの充実をすれば経済的豊かさにつながり経済成長にも貢献
する。例えば、障がい者が会社等で働けるようになれば、障がい者の生きる喜びを高める
だけでなく確実に経済成長に寄与する。これは高齢者の雇用についても同じである。また、
コメント [y32]: 根拠を示してください。
特別養護老人ホームでの介護ロボットの活用を促進すれば経済成長と産業技術が向上する。
経済的豊かさと社会的な弱者のサポートは経済活動の中でつながっており、たえず両方併
せて進展させていくという経済政策が求められていると考える。
現代の社会は能力のあるものが上に立つ。頭のよくない人は総理大臣になれたりはしない
し、才能のない人が大会で優勝することもできない。社会では能力のある人のほうが重宝
コメント [y33]: そうですか?
される。かといって、劣った人が幸せではないかというと違う。世の中は平凡な人のほう
が圧倒的に多い。しかし、別に平凡な人みんなが不幸なわけではない。幸せだと感じるに
は、ある程度の妥協が必要だ。能力のある人は上を目指して努力して幸せになればよいし、
平凡な人は自分に見合った努力をして、幸せになればよい。自分が幸せだと感じれるかど
うかの問題である。ということで、能力を重視しても何も問題はない。
コメント [y34]: 個人の心の問題にしてし
まうのではなく、社会制度の問題について
考えましょう。
7/24 の授業で「知能が高いとどうしていいのか?」という問いに対し、
「知能が高くてもい
いことはない」と答えた人が 16%もいて疑問を持ったので、私はこれから、社会が学力や
能力を重視する重要性について述べたい。
私は、学力や能力を重視することに賛成だ。なぜならば、自分の能力や学力を高めるため
に周りの人より努力をしたり、勉強することで、社会から評価してもらうのは、当たり前
コメント [y35]: なぜ当たり前なのかを考
のことであるからだ。もし、努力して、仕事や勉強で良い結果を出しても、優生思想だか
え直しましょう、というのが今回の趣旨で
らといって、社会や周りから評価されなかったら、頑張って努力した人は、努力しても報
す。
われないと思い、仕事や勉強に対するモチベーションが下がり、勉強や努力する気力をな
くしてしまうしまう。それゆえ、社会が、勉強や仕事で良い結果を出した人を評価するこ
コメント [y36]: 良い結果を出せなかった
とはその人のモチベーションを持続させるためにも、大切なことだ。
人のモチベーションは下がるのでは?
この意見に対して、もともと生まれつき知能の高い人や有名大学を卒業している人に比べ、
自分は凡人であり、彼らには、どんなに努力しても勝てないと考える反対意見があるかも
しれない。しかし、この意見は、間違っている。なぜならば、例えば、徳島大学を卒業し
ている中村修二氏が、昨年ノーベル物理学賞を受賞したからだ。歴代の日本のノーベル賞
を受賞した人々が皆、旧帝国大や国立大医学部医学科を卒業している中で考えると、徳島
大学工学部という学歴のノーベル賞を受賞者は、偏差値からすると、少し異例である(徳島
大学のレベルが低いわけではない)。それゆえ、知能がそれほど優れていなくて、平凡な人
でも、努力すれば、良い評価を社会から得ることができるので、社会は、学力や能力を重
視すべきだ。
能力重視という価値観について、私は能力を重視すること自体には、反対ではない。例え
ば、大学入試もそうであるように、努力をして得た能力は、しっかり認められるべきであ
ると考えているからだ。しかし、能力のみで人を判断することには反対である。能力も一
コメント [y37]: 考えるを消して根拠を書
つの人を判断する基準になるがそれは、あくまで方法の一つである。今後、生きていく上
きましょう。
でより良い社会を作っていくためには、人をたった一つの判断基準で決めつけてしまうの
ではなく、その人の得意なものや、長所等、様々な角度からその人の良い所を尊重してい
かなければならない。
コメント [y38]: 理由は?
能力重視の価値観は社会的に良い効果をもたらすものであり、評価すべきと考える。なぜ
なら人は自己の能力について、なにが得意で何が不向きであるかを認識していく中で、社
コメント [y39]: 全ての人がそうなのです
会で自己の能力に見合った役割を見出し、社会に貢献しようとする。そうすることで、個
か?そうでない人はどうすればよいのです
人が満足感を得られると共に、社会の発展をも促すことになるからである。前回の授業に
か?
おいて、なぜ知能が重視されるかという論点があった。授業時私は、知能を有することに
よってそれを生活のなかで生かすことが出来る、という意味で知能自体に価値があるから
だと解そうとしたが、その後結局、皆社会に貢献できるから知能を重視するのであろうと
いう考えに至った。人間として生きていくにあたり、社会参加は必要不可欠である。当然
コメント [y40]: 「社会」とは具体的に何の
すべての行動が、社会のためというわけではない。しかし社会に認められたいという感情
ことですか?
は、人間として当然の心理ではないだろうか。人間は社会に貢献すること、社会で自分の
持てる能力を発揮し他者に認められ、社会的地位を形成していくことで自己を認め、それ
により満足感を得る。自然と社会に貢献したいという思いが生まれ、自己の社会における
パフォーマンスを向上させようとする。こうすることで個人の発展と共に社会全体の発展
につながる。社会全体の発展とはすなわち、研究分野においては新たな成果が生まれると
いうこと、教育現場においては学生同士が切磋琢磨しつつ学問を究めたりスポーツを究め
たり、さらには協同性を生み出すということ、企業の生産活動においては営業利益が増大
するということ、地域社会においては地域独自の活動が活発化し町興しにつながること、
など様々である。一方、能力を重視することで、うまく能力を発揮できない人がどう社会
で自身に存在価値を与えるのかという疑問が生まれるであろう。だがどの水準で自己を認
めるかということは個人によって異なるのであり、たとえ社会的に見れば目立つ形で貢献
していなくとも、自分自身が自分に見合う能力を認めることができればそれでよいのだ。
コメント [y41]: それで、収入が得られなく
もしそこで自己の満足感、自己肯定感が得られないのであれば、それを得るためにさらに
てもよいのですか?
模索し、高みを目指していけばよいのである。社会主義のように、能力を重視せずみな平
等に扱えば、人間は社会に貢献する意味を見失い、意欲を失ってしまう。それが社会全体
の疲弊につながる。国は、経済的に余裕がないが大学に行き学びたいという人には積極的
に補助金を支給し、学習する機会を与えればよい。しかし、それでもなお社会には経済的
に困窮する人などが存在するであろう。その時は、見捨てるのではなく、人間が本来持つ
「放っておけない」という感情で援助すればよい。総合的に見て、能力重視の価値観は社
コメント [y42]: 「困窮する人」を選別して
会に良い影響を与える。ゆえに良いものである。
「援助」すると、そうした人たちにスティ
グマを与えることになります。スウェーデ
ンなどでは、選別することなくすべての人
に手当を支給し、そのかわり手当にも課税
前回の授業で人間を知能や運動能力等で測ってもいいのかということを扱っていた。その
することで、高所得層からは手当を回収す
中でも知能について、知能は学力検査で高いことに価値があるのではなく、生きていくう
るようにして、社会の分断を避けるように
えでの知識を存した知能に価値があるのだという意見があった。そこで、知能の価値観を
しているそうです。
取り上げる。
知能検査は IQ 検査と EQ 検査がある。IQ というのは従来行われてきた知能指数で、EQ と
コメント [y43]: それぞれどういう経緯で
いうのはこころの知能指数である。ダニエル・ゴールマンによると、
「高い IQ を持つ男性
出現したものか調べてみよう。IQ について
は野心的かつ生産的で、他人に対しては批判的だが慇懃無礼である。対照的に、EQ の高い
はダンジガー『心を名づけること』勁草書
男性は社会的なバランスがとれ、他人との関係においては親切で思いやりが深い」
(
『EQ こ
房などを参照。
ころの知能指数』ダニエル・ゴールマン,1996)とあり、IQ と EQ は異質の知能である。社
会では頭の知能を要求されることもあるし、こころの知能を要求されることもある。例え
ば、G8 教育大臣会合の議長サマリーは「知識社会は重要な機会を提供するとともに、現実
的な危機感をもたらすものである。高い技能レベルを身につけ維持できるものは社会的に
も経済的にも大成功を収めることができるが、そうでないものは安定した職業および、そ
の職業によって得るべき社会的・文化的生活活動に必要な収入を得る見通しも立たない状
態で、かつてない疎外の危険に直面している」と発言している。つまり、知能は必要であ
る。よって知能には価値がある。
しかし、知能が頭のいい人であるわけではない。和田秀樹によると「頭のいい人は時代の
コメント [y44]: ではどんな人なのです
変化に敏感に反応して必要な情報をいち早く吸収し、さらに時代が求めている能力を身に
か?
つけている人である」(『「頭のいい人」のしくみ』和田秀樹,2001)とあり、知能検査では
測れないものである。
したがって、現在求められているものは知能ではなく、頭の良さである。
私は能力重視の社会について正しいと考える。その理由は、この今の日本社会は世界的に
見てもかなり上位の技術力を持っている。そして、今やグローバル化が進みさまざまな国
家とうまく接していく必要がある。このことから考えて、能力のない人間を重要な現場に
立たせるわけにはいかないのである。例えば知識のないものが外交官になったとしたら、
日本という国は世界から相手にされなくなってしまうだろう。かといって、体力のないデ
スクワークばかりしているような人が鳶職をやろうものなら、作業ができずに何か重要な
施設を作ろうとしても作れないということになってしまうのだ。しかし大事なことは能力
だけではない。ある程度の社会適応力、つまり人柄なども必要ではあるが、適材適所で能
力のあるものを現場に投入する手法は正しいと考える。
コメント [y45]: 具体的にどういう能力に
ついてどのような尺度で誰が測定するので
しょうか?
今回のパネルディスカッションを聞いて、私は優生思想について考え直した。能力が高い
人間が評価される現代社会が、能力が高い人はいいという考え方に結びついていると分か
った。私は優生思想には問題点があると考える。理由は、能力が高いイコール社会の役に
立つとは限らないからである。
コメント [y46]: 「社会の役に立つ」ならよ
優生思想は「優れた人」
「社会に役立つ人」を増やしたい、また自分の子どもは「優秀」で
いのでょうか?
あってほしいという考え方である。裏を返せば、「劣った人」や「社会の役に立たない人」
は減らしていこうという考え方でもある。幸か不幸か、現代の科学技術では遺伝子検査に
よって生まれる前に胎児の障害の有無を高い精度でを知ることができるし、法律で禁止さ
れてはいるが遺伝子を改造し、能力が高い優秀な人間をつくることも可能ではある。しか
し、本当に能力が高ければそれだけで社会に役立てるだろうか。私は能力だけでは社会に
役立てないと考える。理由は二つあり一つ目は、社会は連帯しているからである。社会で
コメント [y47]: 能力主義を強調して、個人
生きていくには、対人関係が必要となる。能力を発揮する場であろう会社でも上司や部下
同士を競争させると、社会の連帯が破壊さ
と関係を築く必要がある。一人の能力だけではどうにもならない。
れますね。
二つ目は、その能力をどのように使うかわからないからである。たとえば、遺伝子研究で
ある。能力のある優れた人たちは、遺伝子組み換えの技術を使って植物や食物の品種改良
を行ってきた。そして、人間をも改造しようとしているのである。能力が高ければ凡人が
思いつかないような技術を使って、悪いことをするかもしれない。
以上より、私は優生思想について間違っていると考える。
私は能力重視という価値観についてコメントしようと思う。能力重視といってもできうる
能力によって価値観が変わってくると私は考えた。社会で最も重視されるのは勉強ができ
コメント [y48]: 考えるを消して根拠を。
る能力ではなくコミュニケーション能力である。いくら勉強ができる東大生でもコミュニ
ケーション能力が一般人よりも劣っていると社会で仕事をすることにおいては価値が低く
なる。このようなことから能力重視といっても価値観はそれぞれ異なる。
私は能力を重視しすぎることは良くないと思う。
私達に身近な能力重視の現場は大学入試であったり、就職などであろう。入試に関しては
試験を受け、その結果で合否が決まっているのは事実なので能力を重視していることは否
めない。
しかし、就職に関してはそうはいえないだろう。リーマンショックなどで景気が落ちた際、
ニュースなどで就職難であることが度々報道されていた。大学生の内定率など、今と比べ
ると低い値であった。厚生労働省の調べによると、新規大学卒業者の 10 月 1 日時点での内
定率は平成 23 年度に 57,6%と調査開始以来最低の値を記録した。また、平成 26 年度には
68,4%までに回復している。
私の父は某企業のシステムエンジニアとして働いているが、新卒採用のことについて家で
話していることを聞いたことがある。
「ちょっと前は完全に学歴社会だったのに今では九大
卒とか採用されても全然使えないやつがいたり、2 流大学から来た人でめっちゃ使える人が
いたりするし、一概には学歴重視がいいとは言えないんだろうな」と父は言っていた。
いくら有名大学を出たからといってその人が学歴が高いとは言えないかもれしれないが、
仕事では学歴だけでは何もできないんだな、と思わされた瞬間だった。
就職難であった当時、高卒を採用する企業は少なかっただろうし、名前も知られてないよ
うな大学を出たところで就職はできなかっただろう。しかし景気が回復しつつある今では、
コメント [y49]: 根拠を。
学歴だけでなく人間性であったり、能力とは違うほかの部分が重要視されているだろうか。
コメント [y50]: 調べてみてください。
能力重視という価値観について。知能が高いことはやはりよいことである。知能が高けれ
ば、社会に役立つ技術やシステムを創造できるし、作業も効率よく進めることができるか
らだ。
しかし、だからといって知能の低いものは排除するべきだという優生思想に移行するのは
早計である。授業のなかで、知能が高いといいという最も大きな理由は、現代の社会が、
(学
業成績を典型とする)知能を重視する社会だからという話があった。この意見の逆を言う
コメント [y51]: その社会において何が重
と時代をさかのぼれば、武道に長けていることが重要であった時代も健康で俊敏に動ける
視される価値かということを決める権力の
ことが重要であった時代もあったということだ。つまり、今現在求められている能力が、
作用について考えてもらいたかったのでし
学業成績のような知能であるだけであって、将来はどんな能力が重視されるようになるか
た。権力が重視する価値を、人々が自発的
わからない。そのような状況で、もしも優生思想にもとづく断種をすれば、重視される能
に内面化することで、強制的な力を発動す
力が変わったとき、最悪の場合人類は生き残れないかもしれない。
ることなく、低コストで社会統制が図れる
よって、知能を重視することは今日の社会においてようことであるが、優生思想は間違っ
ようになります。ミシェル・フーコーの『生
ている。
権力と統治性』河出書房、はちょっと難し
いかもしれませんが、フーコーの概説書で
いいから読んでみるとよいでしょう。
能力重視をする価値観はよくない価値観である。なぜなら能力は人を判断するのによくな
いからである。しかし授業では知能が高ければいいのかという提示私は知能が高いことは
よいと考えた。なぜなら知能が高くてデメリットがないからである。私のなかでの知能は
学問の成績ではなく将棋やチェスのような頭のキレがいかにいいのかである。学問は暗記
コメント [y52]: 理由は?
コメント [y53]: ?
であるところがある。理解しておぼえていることも文章の読み方も暗記されているところ
なので成績=知能の高さではない。考え方で先を読むようになったり発想の転換ができいる
ようになったりということに私たちの生活でのデメリットがない。しかし知能が高くない
というのであれば成績が良くても周りの考えや発想が読めないことは将来のことや自分の
身の回りのことを守ることは難しくなる。反対意見としては「知能が高い、知能程度は IQ
がいくつかというのは個人還元的で、日常的なお互いの関係とかを問わないのが、社会の
大きな流れであり、それに対しては、やはり関係性の協調に重点や軸足を持ってほしい。
「知
コメント [y54]: なぜですか?協調性がな
能」とか「学力」は上昇志向を保障していくもの、あるいは社会的にも経済的にも豊かに
くてもやたらと物理学ができる人、という
なっていくというベクトルを軸に含んだもので近代になればなるほどぜったいてきなもの
のもいますが。アインシュタインとか。
として、能力つまり「有能」であることが強調されていく。」(「新優生学」時代の生老病死、
日本社会臨床学会編、現代書館 p280、283、284)がある。確かに私の上の意見では個人的
コメント [y55]: これ以降の文章の意味が
なものであり社会からの観点としたらは乏しい。しかし近代につれて絶対的になっている
よく分かりません。
のであれば正しいや正しくない、悪いことやいいものであろうとも社会のものの中では判
断基準になる。人の価値で見れば私たちは知能や能力に判断をおくべきではない、しかし
社会では能力を中心としてとらえられている。それならば私たちは社会で能力で判断され
て入ってきたとしても、能力や知能を生かしてそのあとの社会の中で発揮すべきである。
つまり知能で判断することは悪いが知能を高めたり高いことは悪くないのである。よって
知能は高ければよいが能力重視という価値観については反対である。
科学が発展したからと言って、能力を過剰に重視しすぎているのではないだろうか。
コメント [y56]: どんな?
遺伝子操作と生殖補助技術では、命の重みを考え直した。まず、母体内で受精した卵が受
精後、無事に出生する確率が約 30%だということを初めて知り、生命が誕生することが普
通のことではなく、奇跡であるということが数値から言えた。
最近は、少子化が日本では深刻な問題として挙げられている。日本で不妊のカップルの割
合は 6 組に 1 組という結果であった。さらに日本で体外受精で生まれてくる子供の割合は
約 30 人に 1 人という結果であった。ただ日本の医療技術は発達している。以前から出生前
診断というのものを聞いたことはあったが、その中にも確定診断である方法が 3 つ、非確
定診断の方法が 3 つと出生前診断の中にも様々なタイプがあった。このような医療技術の
発達は確かに少子化問題とも関わりがあり、問題も出できていることを今回の授業で考え
させられた。出生前診断は、障害のある子供の出生を防ぐものであり、子供を出生する立
場から考えると、とても心強いものだといえる。しかし、これは行き過ぎると、抑制的優
生学だとも考えられてしまう。ヒトの受精卵に対する遺伝子治療・遺伝子操作について、
病気のためなら行ってもよいという意見が多くあったが、これも実際のところ、能力向上
のためになってしまう。科学・医療技術の発達は、社会の理解や法律をはるかに追い越し
てしまっていることを逆に恐ろしく感じた。
今後、日本の少子化はさらに深刻な問題となってくるだろう。そして日本の科学・医療技
コメント [y57]: 理由は?
術もまた発達し続けていくだろう。国は、便利で使える技術だからと言って、簡単に利用
することを慎まなくてはならない。例えば、出生前診断を国の負担にし、普及されると新
たに生まれる問題があるということを深く考える必要がある。異常が確定された場合、
97.3%が人工中絶をし、尊い命を亡くしてしまう現実があること忘れてはならない。そして
それは私たちも同じことである。どこまで利用するのが正しいのか、自分たちや生まれて
くる子どもにとってよいことなのか、深く考えて、責任のある行動をとらなくてはならな
コメント [y58]: 具体的にどのようなこと
い
を考えて、どのような行動を取るのです
か?
現代は個人における能力が高い者ほど豊かに暮らしていける可能性が高くなるようになっ
ています。有名大学を出た人間は将来は安泰である、という考えがありますが、最近では
必ずしもそうではないという解釈が多いです。しかし私は結局学歴が重視されやすいと考
えています。それは多人数から少数の人間を選定するにあたっては、書類上に書かれた経
歴などを見て判断する他ないからです。また、高学歴であることは能力がある、努力がで
コメント [y59]: 学歴以外のことも書いて
きるということを他に比べて明確に提示しやすくなっているからです。それは必ずしも正
あるのでは。
しいわけではありませんが、無名の大学を出ている者よりは有利にはたらくでしょう。
ただ、議論を聞いていて考えたのは、遺伝子を操作して優秀な子供を作ったとして、それ
が世界で当たり前になってしまったら、今の世界の優秀のラインはまた変化するのではな
いかということです。優秀な能力者が溢れればまたそこに優劣が生まれるはずです。
コメント [y60]: 日本の大学入試が「一発試
験」であり、しかも各大学が試験の偏差値
という統一の尺度で明確に序列化されてい
ることが、企業の新規採用のコストを低減
つまり優秀な者を作れたとしても世界はまた元通りの道筋をたどるのではないでしょうか。
してきたというのは、
日本独自の制度です。
そこに多少のレベルの差はありますが。
優秀であることは普遍的に決めることは出来ないので、みなが優秀な子供を目指しても結
局は今と同じような状況になるのではないでしょうか。
わたしは能力重視の社会はおかしいと思う。なぜなら、能力は偏るものではなく全ての人
に平等に与えられるものであるからだ。例えば、水泳が得意な人が必ず陸上でも速く走る
コメント [y61]: 実際問題として、障害があ
ことができるだろうか。いや、そうとは限らない。数学が得意な人が必ず国語も得意だろ
ったりして、水泳も陸上もできない人はい
うか。これも、そうとは限らない。料理が得意な人が、自分の料理を宣伝することも得意
ます。数学も国語もできない人もいます。
だろうか。これもまた、そうとは限らない。誰にでも得意なことがあれば不得意なことも
ある。だから、この人は眼が悪いから社会に必要ない。この人は走るのが遅いからいらな
い。という考え方は間違っている。能力が劣っているからといって排除したり、遺伝子を
操作して理想に近づける前に、全ての人が自分の得意な面を見てもらうことができるよう
な社会にする努力をするべきだ。
日本はかつて年功序列制度を会社のシステムに導入していた。年功序列とはウィキペディ
コメント [y62]: 石水喜夫『日本型雇用の真
アによると「年功序列とは、官公庁、企業などにおいて勤続年数、年齢などに応じて役職
実』ちくま新書などを読んでみましょう。
や賃金を上昇させる人事制度・慣習のことを指す日本型雇用の典型的なシステムである」
とある(ウィキペディア「年功序列制-ウィキペディア」
、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E5%8A%9F%E5%BA%8F%E5%88%97
、
2015/7/26 アクセス)
。これにより加齢するごとに技術、能力が蓄積され結果として企業の
コメント [y63]: 以下の出典が不明です。
成績に反映されるというものだ。これは日本特有のものであり、このシステムを導入して
いたのは当初は日本に儒学的考えから年長者に年少者は従うべきとするものや組織単位で
の成果主義の考え方がうまく使えなかったことがあげられる。これは社員の確保という意
味では成果を上げたが、時間がたつにつれ、国際競争の中ではこのやり方では生き残れな
いとした。このため、成果主義へと会社の人事部が考えを変更していきより効率的に良質
な社員の成長と獲得を目指すようになった。会社に必要とされる能力を獲得、習得するこ
とで昇進、昇給されるということで社員個人個人の労働力の質的向上が望める反面、評価
が査定者の主観に頼りすぎること、短期の成果にばかり目が行き長期の目線では見れてい
ないというデメリットがあげられる。もともとはアメリカで発祥した考え方であり、日本
の集団で働くという労働の考え方とは合わなず、バブル崩壊から 2000 年代にかけて年功序
列制を維持できなくなり代わりとしてとりいれられたがうまくいかなかった。人間科学研
究所のサイトには「人間が同じだから、企業という器が同じだから、と言った理由だけで
外国のシステムを導入するのは、日本人が持つ民族固有の特性を無視しているので適応す
ることは非常に困難です」とある(人間科学研究所「日本人に成果能力主義がそぐわない
理由-人間科学研究所」、http://www.ningenkagaku.co.jp/about/about04.php,2015/7/26 アクセス)。それに対し企業が現在掲げている
のが「日本型成果主義」というものだ。労働政策研究雑誌によると「成果給の図式が機能
するためには, それぞれの作用を補完する制度や仕組みが必要となる。たとえば評価の納得
性のためには考課者訓練が, 目標設定の納得性のためには上司とのコミュニケーションが,
そして困難な仕事に対しては成果につながるプロセスの評価が重要となる」とある(宮本
光 晴 「 な ぜ 日 本 型 成 果 主 義 は 生 ま れ た の か - 労 働 政 策 研 究 雑 誌 」、
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/04/pdf/030-033.pdf#search='%E6%
88%90%E6%9E%9C%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%
9A'、2015/7/27 アクセス)
。これまでのような成果・能力以外のところにも目を向けて協力
して仕事をしていくというものだ。
コメント [y64]: 引用文は、
「日本で成果給
日本では現在このようなシステムを取り入れており、個人の能力だけが評価をされるとい
がうまくいくためには、適切な評価基準が
う時代は終わりつつある。仮に遺伝子を操作して、能力を高めたとしてもその人の人間性
重要だ」と言っているだけのようですが。
までは作ることができない。協力して仕事をしていくために必要なのは人間性の部分が大
きい。たとえ遺伝子操作が当たり前にできる時代となっても、本当に必要なものは、遺伝
子操作で手に入る能力ではなく今と同じように自分で作っていくことになる。
私は能力重視ということについて考えた。
確かに、何をするにも、能力は必要だ。料理や掃除だって才能がないよりはあったほうが
役に立つし、物を作る現場では能力を持っていることが最重視される。一般企業でもコミ
コメント [y65]: 時代認識として間違いで
しょう。
ュニケーション能力をはじめとする能力があったほうが周りとの円滑な関係の構築や営業
ができるだろう。
しかし、そういった能力の多くは後天性である。中には先天性のものもあるだろうが、成
コメント [y66]: たとえば「知能指数」への
長していく中で能力は身につくものが多いだろう。成長過程で能力を得ることに大きく関
遺伝の寄与率は 50%以上と言われていま
係してくるのは親や家族、学校といったまわりの環境が一番大きいだろう。
す。
安藤寿康
『心はどのように遺伝するか』
例えば、小学生が野球を習ったりピアノを習ったりするとき、趣味の範囲までの子、プロ
講談社などを読んでみましょう。
を目指す子、いろいろな目標に出会う。プロという目標に出会えばそれに向け努力をする
し、あくまでも趣味、といっても野球ができる・ピアノが弾けるという能力をもっている
ことに変わりはない。つまり、能力を得るとき、必要なのは第一に環境、第二に本人の努
力が必要ではないか。
コメント [y67]: 努力できるかどうかにも
とはいえ、現在の日本では、教育や所得をはじめとする格差が広がっている。このままで
遺伝が関わっていますし、環境も関わって
は、適切な教育や家庭環境を構築することができなくなり、結果として犯罪に手を染めた
いるでしょう。
り反社会勢力と結びつくことも考えられる。
能力を重視することは悪いことではないし、職によっては必要不可欠なものだ。しかしだ
からといって、能力がないことの背景を考えないことは、さらに能力を持たない人間を育
成することに少なからず関わってくるだろう。そのため、今必要なのは、家庭環境改善が
必要な家庭への支援や、公正で平等な教育、さらにそれに必要な財源の確保や法整備では
コメント [y68]: 「困窮する人」を選別して
ないか。
「援助」すると、そうした人たちにスティ
グマを与えることになります。
私は能力重視という価値観については、「それは違う」という反対的な意見を持っている。
確かに、今の社会でも過去の社会でも、人の能力は必ずと言ってもいいほどその人を評価
する際に見られてきたと思う。私は別にそれが悪いことだとは思わないが、ただそれだけ
コメント [y69]: あなたの文末にはすべて
を重視してその人を判断したり決めつけたりするのは違うと思う。能力の他にもその人を
「思う」が付いています。今回が最後の授
表すことができる何かがあると思う。それを探そうともしないで、人を勝手に決めつける
業だと思うと大変残念です。
のはダメなのではないか、と思う。
現代の社会では知能が低い人より高い人を必要としているが、劣った人が幸せになれない
わけではない。幸せになるために精一杯努力して、それでも幸せになれなければ、自分が
考える別の幸せを見つけて頑張ればいい。しかし、幸せになるための努力をしていない劣
っている人は、幸せになれなくてもそれは自分の責任であり、自分の知能の低さのせいに
してはいけない。
コメント [y70]: すべてが自分の責任とい
うことはありません。個人的なことは社会
的なことであり、社会的なことは個人的な
ことです。
能力重視の価値観は、能力のある人材が社会で活躍することなので、社会を発展させるの
にいいことだ。勉強的に、技術的に、人間的に能力のない人が社会に出てもメリットは少
コメント [y71]: 誰にとってのどのような
ないだろりうし、そのような人に付いていく人もいない。ゆえに私は能力重視の価値観を
メリットですか?なぜメリットが少ないと
肯定する。
言えるのですか?
しかしあまりにも能力重視を主張しすぎると、優生思考が強くなる。遺伝子操作で子供を
優秀に組み替えることが横行したり、競争が激しくなりすぎる。すると貧しい人や、遺伝
子操作をしたくない人がちゃんとした職に就けないといった問題が発生してしまう。また
お金がないから十分に教育を受けられない、といった人にとっては、能力重視の社会では
生きづずらい。
能力重視の価値観は社会を物質的に豊かにすることはできるが、その価値観に伴って優生
思想も激しくなる。
コメント [y72]: 理由は?
優生思想は過去にナチス政権を産み、多くのユダヤ人を虐殺しことから肯定はしない。
能力重視で社会を豊かにしつつ、優生思想を激化させないようにすべきだ。
そのためにまず遺伝子操作に制限をかけるのがいい。病気と病気でないのに線を引くのは
コメント [y73]: 既にかかっています。現実
確かに難しいし、例え引いたとしてもそれが普遍的で絶対正しいとは限らない。それでも
的に言って、他にすべきことがもっとたく
ある程度線引きをして規制をかけることで、遺伝子操作による優生思想も少なくなるし、
さんあるのではないですか?
行き過ぎを防ぐこともできるだろう。また、能力が足りず、生活が豊かでない人をサポー
トする社会保障は必要だ。
能力重視の価値観を肯定しつつ、優生思想を激化させず、能力重視に負けた人たちの生活
を保護することが、よい社会である。
どのような社会がよい社会か
私が思うよい社会は、経済の成長よりも社会的な弱者のサポートに力を注いでいく社会だ。
山口先生の意見と同じで、私も人間のよいところは弱い個体でも保護するようにしている
ところだと思う。動物界では、弱肉強食が当たり前で、自分一人では生きていけないよう
な弱い個体は真っ先に見捨てられてしまう。そんな中、人間は母子家庭や高齢者、障がい
者などの社会的な弱者へのサポートを社会政策などで行っている。この政策のおかげで生
活できている人は多くいるだろう。そして、このような人達の笑顔を生むことのできる、
人間のよさを兼ね備えた弱者へのサポート社会が素敵でよい社会だと思う。しかし、この
ようなサポートがあっても、まだまだ足りないのが現状である。現在、日本ではオリンピ
コメント [y74]: 学生のコメントでした。
コメント [y75]: 以下、思うと考えるを消し
て理由を書くように。
ックの競技場の予算でもめている。確かにオリンピックに向けての準備を行うことも大事
だが、競技場のために多額の費用を用意するくらいなら、弱い個体でも保護しようとする
人間のよさを十分に発揮されるような、新たな補助政策の費用として使い、一人でも多く
の人が救われるよい社会を目指すべきだと考える。
よい社会とは社会福祉が充実しており、子供がよい教育を受けられる環境が整っているよ
うな社会であると思う。また、政治に関しても独裁政治ではなく、民主主義が守られてい
コメント [y76]: 思うと考えるを消して理
なくてはならない。精神的な面からすると、人々のモラルが高く、道徳的であるというこ
由を書くように。
ともよい社会には欠かせない条件であると考える。そのためにはやはり充実した教育を受
けなければならないが、今学校に教育費を払うことができない家庭が多く存在している。
貧困の格差をなくし、国民が平等に教育を受ける環境も必要であると考える。
よい社会とは、個人を尊重できる社会である。世界には様々な宗教を信じている人がいて、
考え方や思想もバラバラで、文化も全く違う。それらを統一するのではなく、尊重しあい
共生できる社会にしていくべきである。もちろんこの個人の尊重とは、異国間の話だけで
コメント [y77]: 理由は?
はなく、私たちの隣人や家族にも適応適用される。これまで科学と人間の授業の第二部で
は人間の測り方について学んできた。その中で出てきた話題として、アメリカの人種差別・
出生前診断・優生学が主なものとしてあげられる。これを通じて考えたのは、すべての人
間に人権があり、それを尊重すべきであるということだ。なぜならば、たとえば人種につ
いてであるが、人種というのはあくまでも後から植え付けられたものであり、生物学的に
は人種は存在せず、優劣をつけることはできないのにも関わらず、白人が優れているとし、
黒人を奴隷として扱ったり差別するというのは間違っているからだ。個人それぞれを尊重
する、平等な社会が良い社会である。
わたしは、経済的な豊かさには限度があるので、これ以上成長するよりは、社会的な弱者
のサポートに資源を振り向ける方が良いという考えに同意する。
なぜなら、まず第一に、この世界を動かしているのは紛れもなく人間であり、人間は必要
コメント [y78]: 全ての人間が同じように
不可欠な存在である。人間がいなくなれば、世界の動きは止まってしまうのと等しいので
動かしているわけではないでしょう。
はないだろうか。
第二に、たしかに経済的な豊かさは大切であるが、豊かさを成長させる国ができればでき
るほど、逆に貧困層が生まれ、格差が拡大されるだろう。
コメント [y79]: 根拠は?
これらの理由から、この世界になくてはならない存在の”人間”をサポートすることが、
一番優先すべきことだと考える。サポートが充実している例にスウェーデンをあげたい。
スウェーデンは育児サポート、老人サポート、医療サポート、教育サポートの全てが充実
コメント [y80]: 具体的にどのような制度
している。そのかわり税金が日本と比較して高めではあるが、国民はそれらのサポートに
なのか、日本との違いは何かなどを調べて
満足し、高めの税金も受け入れているのである。このような社会が良い社会なのではない
みましょう。先に上げた『租税抵抗の財政
だろうか。
学』などを読んでみましょう。
参考文献
コメント [y81]: 根拠は?
http://www.dir.co.jp/souken/research/report/overseas/europe/cho1201_01all.pdf
よい社会とはどのような社会なのだろう。経済的な豊かさを追求するために優秀な人を中
心とした効率的な経済成長を重視する社会が良い社会、もしくは、弱者に対してのサポー
トが行き届く社会が本当に良い社会と言えるのだろうか。どちらも違う。前者の方だと優
秀な人だけが経済的な豊かさを得てしまい、それ以外の人が置いてけぼりになってしまう。
後者の方だと、社会的弱者とそれ以外の人との間に不公平ができ、実際に、大阪市立大学
大学院創造都市研究科の教授である柏木宏氏の論文「米最高裁のアファーマティブ・アク
ション判決」にも述べられているように、マイノリティ派を優遇する政策は不公平である
とするためにアメリカのミシガンで裁判が起こされるという事例(①大阪市立大学大学院
創造都市研究科の教授である柏木宏氏の論文「米最高裁のアファーマティブ・アクション
判決」による)が発生している。
なので私の思うよい社会とはすべての人が生まれながらにして平等で、すべての人が生涯
コメント [y82]: 具体的にどういう意味で
で一度も人種や部落、障害などを理由の差別や迫害を受けないような社会である。
すか?生まれながらにして能力差が存在す
ることや、経済格差が存在していることが
ほとんどすべての社会における現実ですが。
私は、全ての人に対して平等な社会がよい社会であると考える。
コメント [y83]: 具体的にどういう社会か
なぜかというと、経済的な豊かさは現代の社会だけが、豊かさの基準であるとは言い切れ
不明です。平等については、
「結果の平等」
ない。また、経済的な豊かさの成長のため優秀な人を中心に重視してしまうとそれら以外
と「機会の平等」の違いなどが吉岡先生の
の人の生活が困難になっていくからだ。また、今の日本では、経済を成長されるというよ
授業でもふれられていたように思います。
りは、社会的弱者が幸せに暮らしていくためにサポートしていくほうが大切であるからだ。
したがて、私は全ての人に対して平等な社会が良い社会だと考える。
私は、平等な社会をよい社会と考える。
確かに、自由な社会は自分にとって便利であり、思い通りに生活できて楽しいであろう。
しかし、自分の好き勝手で生活するということは、それだけ自分に大きな責任がかかって
くる。自分に大きな責任を背負いながら生活するのは、簡単なことではなく、自由と言い
ながらも行動に制限がかかってしまう。
コメント [y84]: たとえば?
一方、平等な社会では、もちろん自分の行動には制限がかかる。しかし、制限がかけられ
ている分、自分が負担する責任の大きさは、自由な時に比べて小さくなる。
以上のように、どちらの社会にも、行動に制限がかかってしまう。
それなら、平等な社会を目指すほうが、皆で責任を分担できるため、メリットが大きいの
コメント [y85]: 「責任」を逃れたいのです
で、私は平等な社会をよい社会と考える。
か?
どのような社会がよい社会かについて考察する。
私は、経済的な豊かさが幸せの基本だとは思わない。経済的な豊かさは、基本というより
幸せを構成する一要素にしか過ぎないと思う。豊かな人に比べると、自分の好きなことが
コメント [y86]: 思うを消して根拠を。
できないなど多少の我慢は必要であるかもしれないが、経済的に苦しいからといって、そ
の人が不幸であるとは限らない。
幸せの基本は、その人を取り巻く環境を要素とする、心の豊かさである。パネルディスカ
コメント [y87]: 社会問題を心の問題に還
ッションでは、障がい者の方々は、生きていて良かった、生まれてきて良かったとよく発
元することを「心理主義」といいます。小
言する、という話があった。障がい者の方々は、経済的な豊かさからではなく、心が豊か
沢牧子『心の専門家はいらない』などを読
さからそういう発言をするのだと思う。
んでみましょう。
また、高校三年生のとき、現代社会の授業で、日本では産業を基盤としての社会資本を重
視してきたために、住宅や公園などの生活基盤としての社会資本がまだ十分とはいえない、
と習った(第一学習社『高等学校 改訂版 現代社会』
,2013)
。
それゆえ、心を豊かにして幸せになるために、経済的な豊かさを追求することよりも、生
活基盤としての社会資本の整備や、社会的な弱者のためのサポートをしていくべきだ。
どんな社会が良い社会だろうか、という問いに対してコメントとします。その社会とは誰
コメント [y88]: 人は誰でも夢を持つ義務
もが望んだ夢を叶えられる社会といえます。誰もがといってもその夢を叶えるために本気
があるのですか?
で取り組める人をふるいにかける必要があります。本気で望んで自分のなりたい職業やし
たいことができる社会であれば、人々は幸福であるからです。現在の世界では紛争による
コメント [y89]: そうしたら「誰もが夢をか
なえられる」わけではなくなりますが。
貧困などで教育がままならず、夢を追うことを断念せざるを得ないひとホとが大勢います。
すくなくともそんな人たちが夢を追いかけられるような環境を整えていることが良い社会
の条件であります。
今回の講義では、知能が高いとどうしてよいのかについて考えた。「努力は認められるべき
だから」、「社会に貢献できるから」、「知能自身に価値があるから」など知能が高いとよい
理由は次々に挙げられるが、その背景として存在するのは、
「現在の社会が知能を重視する
社会であるから」という価値観の広がりである。しかし、このような価値観の広がった社
会では、アファーマティブ・アクションの問題点ように現在の成績だけで選別する制度や、
コメント [y90]: AA は現在の成績だけでな
遺伝子改造や人工妊娠中絶などの優生学につながりかねない行為がますます行われる。そ
く、それまでの環境の劣悪さを配慮して選
の結果、努力したくてもすることができない心身障害者や、貧困で教育を受けることがで
別する制度です。
きない人々は自ずと社会から切り捨てられていくことになる。また、各種産業の生産性や
社会保障費の減少といった社会、国家全体の観点から利益を追求する結果、多くの命が生
まれることさえ許されなくなる。そこで、私たちが目指すべき社会はどのような社会かに
ついて考える必要がある。よって、今回は②のどのような社会がよい社会か、についてコ
メントさせていただく。
どのような社会がよい社会か、それは福祉が行き届いている社会である。では、福祉が行
コメント [y91]: なぜ?
き届いている社会とはどのような状況か。それは、社会生活において個人が社会生活の障
害を感じない状況であるだろう。しかし、生まれてから死ぬまで全く生活の障害を感じな
い状況を作るというのは理想像であり、簡単に実現できるものではない。よって、医療保
障、年金支給、心身障害者の生活保障、老齢者サービス、児童サービス、無料教育などあ
らゆる分野の社会保障の見直しを国民と政府が一体となってしていく必要がある。しかし、
このような社会保障の安定・充実から作り出される福祉状態の実現には、戦争がなく、平
和が維持されていることが大前提である。そこで、過去のような戦争を二度と繰り返すこ
コメント [y92]: それはそうですが、それ以
となく、国民一人ひとりの心の平和を追求していくという前提のもとで社会保障が安定・
前にかなり高額の税金を納めることが必要
充実している社会が真の福祉が行き届いている社会であり、私たちが目指すべきよい社会
です。
であると言える。
参考文献:中村金治
『高齢化と社会保障
スウェーデン vs 日本』
1981
中本博通 『現在の社会保障』 青木書店 1976
倉敷印刷株式会社
私は,良い社会とは経済的な豊かさにも限度があるので,これ以上成長するよりは社会的
な弱者のサポートに資源を振り向ける方がよいと考える。
経済的な豊かさが幸せの基本だから,優秀な人を中心に,効率的な経済成長を重視する社
会がよい,と考える人もいるが,経済的に豊かであるからといっても,その人がその現時
点での状況で幸せとは限らない。むしろ,さらなる豊かさを求め続け,幸せになることが
コメント [y93]: 「幸せ」って具体的にどう
できないこともある。
いう状態ですか?
従ってよい社会とは,どこまでも経済的な豊かさを追い求めて成長し続けようとする自由
な社会ではなく,限度のある経済的な豊かさを社会的な弱者のサポートに資源を振り向け
る,平等な社会である。
高齢化が急速に進む中、良い社会、即ち、住みやすい社会を作っていくためには福祉をよ
り充実させる必要がある。何故なら、そうすることで、自分が年を取って弱者となった場
合にも安心して生活することができるからだ。
実際に、日本経済新聞のホームページによると、
「東京都と周辺の3県で高齢化が急速に進
み、2025 年に介護施設が約 13 万人分不足する」という。ここから、日本の介護不足の現
状が分かる。
経済的な効率さを重視するべきだという意見もあるかもしれないが、そのような政策は、
働けなくなったお年寄りには大きな負担となってしまう。
ゆえに、良い社会を作るためには、福祉政策を充実させること、具体的には、介護施設の
増設や介護について学んでいる学生に対する補助金の支給などが必要である。
コメント [y94]: 最大の問題は介護職員の
給料が異常に安いことでしょう。
どのような社会が良い社会なのかについて述べる。経済的豊かさにも限度があるため、社
会的弱者のサポートなど社会保障に資源を振る社会が良い社会であると考える。
国民の幸福度が高いと言われるブータンは、近年は近代化しつつあるものの、未だに経済
コメント [y95]: ブータンにせよ、北欧諸国
的に非常に豊かであるとは言えず、経済的豊かさで人々の効用が高くなるとは必ずしも言
にせよ、出典を示してください。
えない。また北欧諸国の幸福度が高いのも、個々人が財産を多く持っているというよりは、
学費が無料など社会保障が充実していることからきており、税金は高いがその点を補える
社会保障の充実がある。つまり経済的豊かさに重きを置くよりも、皆が一律で受けられる
保障がある方が幸福をより感じやすいのである。よって経済成長を追求するよりも、贅沢
ではないが一定以上の豊かさを感じられる生活水準を保ち、かつ社会保障を充実させるべ
きである。
経済的に満たされたら幸せを感じるときもあるが、人に優しくされたり、家族と過ごした
りすることでも幸せを感じることができる。だから経済成長だけが幸せの基本ではなく、
精神的な豊かさも必要だと考えた。精神的に豊かであれば、幸せを感じることが多くなる。
コメント [y96]: 具体的にどのような豊か
幸せを感じることが多くなれば仕事のモチベーションにもつながり、効率もよくなる。幸
さですか?
せを感じることでよりよい社会を作ることが可能になるだろう。
今回の授業で、私の授業コメントを取り上げていただいたが、「障害を持つ人はやはり苦労
する」と約4割の人が答えていた。確かに,私達がしなくて済む苦労をしなければならな
い。しかし、人は生きていく上で、すべての人が何かしらの苦労は経験している。障害を
持って生まれてきても、自分の趣味や興味のあることに熱中して、楽しく生きていく人も
いる。そもそも生まれてきたこと自体に対して、
『生きていることが幸せだ』という考えの
コメント [H97]: アンケートの選択肢も、
人もいる。逆に、私達の障害を持つ人は「生まれてこない方がずっと良かった」という思
「やはり苦労する」
とはなっていましたが、
い込みが、
『障害者には大きな苦労が存在する』などの発想が定着していると言える。
「やはり不幸だ」とはなっていませんでし
また、出世前診断の是非について、『あまりにも大きな障害の場合は、苦難が大きいので、
たね。
親の判断で子供をおろすことが間違った考えであるとは思わない』に対して、約6割の人
今、これを読んでいる他の皆さんは、意識
が賛成の立場であった。
『私たちがしなくて良い苦労をするから、親の判断で胎児の命を奪
していましたか?
って良い』という意見は、暴論である。
しかし、その一方で『弱い個体でも保護するようにしている。私はそこが知性を持った人
間の良さだと思っている』という意見に対しては、7割の人が賛同している。つまり、こ
のことは、7割の人が弱者を保護すべきであるという立場をとっていることを示している。
コメント [y98]: そういう感性は人間にか
ナチスが行った「抑制的優性政策」や「優生学思想」を擁護するよりも、何かしらのハン
なり広くみられるのですが、政治経済の話
ディキャップを背負って生きていかねばならない人達を何らかの形で援助したり、そうい
になると「利己的な人間」モデルに基づい
った人が住みやすい社会を形成することが大切ではないだろうか。誰もが安心して、生き
た話になってしまいがちです。
ていける社会のほうがずっといい。
日本の租税負担率は、他の先進諸国と比較しても、最低の水準である。この原因は、高所
得者層に対する減税制度にある。たとえば、開業医の場合では、全所得の7割が控除され、
残りの3割から税金が徴収される。また、保険制度の問題もある。しかし、野球選手など
のスポーツ選手の場合は所得の半分以上が税金として徴収されている。この不平等を是正
すれば、更に弱者に対する保護を手厚く行うための財源確保につながり、私たちが考える
『苦労している人達』の困難を減らすことにつながる。
コメント [y99]: 出典を示してください。
私は「よい社会」について、ジョン・ロールズの考え方を全面的に支持する。
コメント [y100]: 批判する意見も大量にあ
ロールズは正義を考えるときに、市民すべてが無知のベールをかぶった状態を仮定する。
ります。ノージック『アナーキー・国家・
この状態において、人々は自らの能力や社会的地位が全く分からない。そこで、自分が社
ユートピア』木鐸社などを読みましょう。
会的弱者になった時に不利な社会制度を作るのはやめようと考える。
一見、利己的だが、これは現代の民主主義を支える根拠となっている。
自由至上主義の立場からは、財産の再分配は財産権の侵害である、と反論がある。しかし、
格差拡大の現状を見ると、
「自己責任」の一言で社会の下層にいる人々を切り捨てるわけに
はいかないだろう。
②どのような社会が良いのか
能力で判断して入ることに重きを置くのではなく入ってからその人が能力の高さにこだわ
らず自身の能力を使ってどのようなことをしたかによって卒業したり結果をみて判断でき
コメント [y101]: どのようなことですか?
るような社会が良い。
第一に、平等な社会について。
歴史の中で私たちの祖先は「平等」を要求するとき、身分の平等や賃金の平等、生活の平
コメント [y102]: 具体的にどういう歴史的
等を求めてきた。現代においては、権利の平等などといった、憲法でいうところの本質的
出来事を念頭に置いていますか?出典も示
平等が存在しており、それを世界に広げる動きもある。長きにわたって私たちは自分たち
してください。
がよりよく生きるために「平等」を求めてきた。
では、私たちは”痛み”や、”不幸”といった、いわゆる「損害」に対する平等は求めてき
コメント [y103]: リスクの平等は求めるの
ただろうか。私たちは平等に「損害」を被ってきただろうか。答えは否である。私たち人
ではないですか?
間というのは、自分の「損害」にあたる部分からは逃避する傾向にある。自分から「損害」
を持ち込むというのは愚かである。
このことは平等であるといえるのだろうか。自分たちの利益になることは要求し、自分た
ちの不利益となることは回避する。こういった選択をしている時点でもはや「平等」であ
るとは言えないだろう。
「平等」というのは自分たちにとって「利益」となる部分も、自分
たちにとって「損害」となる部分も受け入れて初めて成し遂げられるものであろう。平等
に幸せであり、平等に権利を持つ一方で、その幸せと平等に不幸で、権利を持つのと平等
に義務を背負う必要もある。それこそが本当の意味での「平等」であるだろう。
「平等」と
コメント [y104]: なぜですか?
コメント [y105]: それは違います。たとえ
ば収入が少なければ納税の義務はのがれま
すが、だからといって基本的人権が奪われ
たりしません。
いうものを肯定する社会とは、自分達の利益を求める一方で、自分たちにとっての不利益
コメント [H106]: 「自分」と認識する範囲
をも飲み込む覚悟が必要な社会であるだろう。
の問題かもしれません。
例えば、全人類にとっての不利益ならば、
続いて、自由な社会について。
誰も飲み込む必要はないですよね?自分の
誰もが何物にも束縛されず、あらゆる行動のできる社会。自由な社会と聞いて最初に思い
社会にとっては利益があると思うからこそ、
浮かぶのはこのようなものだろう。だが、実際にこういったことは実現できるのだろうか。
個人的には不利益でも我慢するのでしょう。
答えは否である。ある人が自由を求めると、別のある人は不自由を強いられることはよく
とすれば、どこの空間、どこの時代までを
あることだ。それは歴史が証明している。例えば古代中国の王朝の1つである隋。隋の煬
「自分」と見るかが問題になるわけで…
帝は大運河を建設したり、度々隣国の高句麗に出兵したり、そのほかにも贅沢の限りを尽
くしてきた。煬帝は自分の自由がままに生きてきたが、その裏で隋の国民は自由には生き
ることはできなかった。大運河建設のために休みなく働かされ、高句麗出兵の際には徴兵
され、煬帝の贅沢のために理不尽に徴発を受け、自由な生活はおろか、現代人の感覚でい
う”当たり前の生活”ですら送ることはできなかったのだ。
上記で述べた例は極端すぎるが、もっと小さなレベルでの、いわゆる”手にしたもの”と、
”
奪われたもの”の対立は存在するだろう。つまり、自由を求めるということは、ほかの誰
かに不自由を被らせるという、利己主義的な面が存在するのだ。自由な社会とは、自分の
自由のために他人の自由を侵害する一面のある社会であるといえる。
自由と平等の対立というのは、資本主義と社会主義の対立に似ている。アメリカン・ドリ
ームのもとに自由を提唱してきた資本主義と、格差のある資本主義を批判して平等を目指
した社会主義。歴史の上では社会主義の中では人々は、どれだけ頑張っても同じだけの報
コメント [y107]: 現実に存在した社会主義
酬しかもらえない、ということから労働意欲をなくすということがあった。そして現在、
国と、理想(理念)としての社会主義とは
世界で主流となっているのは資本主義である。そこには、他者との切磋琢磨が社会を繁栄
異なります。
させるという意味があるのだろう。各人が不自由を被りたくないがゆえに努力し、何らか
の形で自由を得る。自由を重んじる社会の方がよりよい社会を作り上げていくように思え
る。
コメント [y108]: 「歴史の必然」というよ
りは、
「冷戦」という力の対決の結果だった
のではないですか。
よって、私は自由を求める社会がよりよい社会であると考える。
コメント [y109]: 前段で論じた自由のデメ
リットにはどのようにして対応するのです
か?
「どのような社会がよい社会か」について、私は平和でみんなが笑って過ごせる社会が良
い社会だと考える。しかし、それは幻想に過ぎない。おそらく平和な社会が訪れることは
ないだろう。だが、笑えない人を最小限に止めることはできる。そのために、力のある者
コメント [y110]: 理由は?
や人の上に立つ者の細やかな対応が必要だ。少数の笑えない人をみんなが笑わせようとす
るような社会が理想だ。力のない者を救うことができるのは力のある者だけだ。現在の資
コメント [y111]: 根拠は?
本主義が主流の世界において、格差が生まれるのは当然のことだが、格差を埋めようとし
ないことは問題である。
コメント [y112]: 理由は?
「どんな社会がよい社会だろうか」について、私はみんな一緒に平等ではない社会がいい
と考える。
今の小学校では運動会の徒競走でゴール直前で皆で手を繋いでゴールするという現象が起
コメント [y113]: そういう話が一時話題に
きている。これは子供達の闘争心を削ぐ現象である。あの子に負けたから今度は勝つ、そ
なりましたが、どれぐらいの割合で存在し
のためにはもっと練習しよう、という闘争心が重要なのである。であるからみんな一緒に
たのでしょうか?資料がありますか?あな
順位を付けず平等に扱うというこの社会の風潮に私は反対だ。
たの小学校はそうしていましたか?
順位をつけ、個人個人の闘争心を燃やすように促す社会を作っていかなければならない。
コメント [y114]: 現実認識として、現在は
身も蓋もない競争社会になりつつあります
が。
今回私は、どのような社会がよい社会なのかということについて考えた。私は、障害を持
った人など社会的に弱い立場にある人を保護するべきだと考える。多くの人がスライドの
コメント [y115]: 「困窮する人」を選別し
質問で、
「自分が断種の対象や社会保障の切り捨ての対象になったら困る」と答えたように、
て「援助」すると、そうした人たちにステ
私も保護が必要な時に何も助けてくれるものが無ければ、生活に困るから、保護してくれ
ィグマを与えることになります。
る社会であってほしい。実際、実家で祖父と曾祖母を介護していた時、様々な制度やサー
ビスがあった。人によっては不十分だと感じたり、改善が必要だと考える人もいるかもし
れないが、そのような制度やサービスが助けになっていたと実感している。介護のため、
母はフルタイムで仕事ができず、私は現在奨学金をもらっている。しかし、経済的な豊か
さだけが幸せではなく、制度やサービスに加え多くの人に支えられて最後まで家で介護を
続けられ、家族みんなで生活できたのも幸せだったと感じている(決して在宅介護だけが
良いという意味ではない)
。効率的な経済発展だけを重視するのではなく、弱者を保護して
くれる社会であるべきだ。
私は平等な社会よりも、自由な社会の方が良い。平等な社会では、かえって個々の能力が
制限されることに繋がる。また、自由な社会では個人がそれぞれ幸福を追求することで、
社会の発展が望める。
しかし、自由な社会では、必ず社会的な弱者が出てしまう。そういった弱者への最低限の
サポートは不可欠である。そうすることで、誰もが経済的な豊かさを求める自由な社会が
コメント [y116]: 「困窮する人」を選別し
出来るのではないだろうか。
て「援助」すると、そうした人たちにステ
ィグマを与えることになります。
どのような社会が良いかについて、自由であることと、平等であることの良いところを使
っていくべきである。たとえば、経済的な豊かさが幸せの基本とするならば誰でも自由に
経済活動を行うべきである。そうすれば国全体の豊かさにつながる。しかし、全てを自由
にしてしまっては今の社会のように貧富の差が増大し、一部の人間が富をもつと、自由の
悪い面がでてくる。つまり、弱肉強食のような社会になってしまうのである。そうならな
いよう累進課税を例とする所得再分配機能をもっとつかうべきである。
コメント [y117]: ここ 30 年間、日本は累進
課税を緩和して逆進性のある消費税を導入、
さらには減税を繰り返してきました。神野
直彦『税金 常識のウソ』文春新書などを
社会は自由社会がいい社会である。なぜなら自由社会なら競争効果によって製品の品質が
良くなり、また、安くなるからだ。民主主義であった西ドイツと、社会主義であった東ド
イツでは圧倒的に西ドイツの方が産業は盛んで、品質も良かった。この結果を見ても自由
読んでみましょう。
コメント [y118]: デメリットはありません
か?
社会(民主主義)の方が平等な社会(社会主義)よりも優れていることがわかる。
確かに経済的な豊かさには限界があり、それ以上成長するよりは社会的な弱者のサポート
に資源を振り向けた方がよいという意見もある。しかし電子機器類などはまだまだ成長の
限界には遠く需要があるので新しい技術もあればあるだけ有利になる。自由主義社会なら
コメント [y119]: 経済は無限に成長するも
成果に値する対価を支払うことができるが、平等な社会だとたとえ素晴らしい技術を開発
のでしょうか?
しても並みの成果と受け取られてしまう。よって成果に値する対価のある自由主義社会が
いい社会である。
コメント [y120]: 評価はお金だけではない
でしょう。
その他
昨日の講義の際に、
「出生前診断で生まれてくる子どもに障害があったとわかった時、障害
を持っている人が幸せでないとは言い切れないが、あまりにも大きな障害な場合は、苦難
が大きい~」(スライド 13 枚目-14 枚目)とあり、それに対してもっともだと答えた人が
60%いました。
私は「経済的要因」や「苦難」を理由に、間違った考え方ではないと肯定するのは反対で
す。
「経済的要素」と「苦痛」に注目した場合、もっともだと答えた人は、もし交通事故で身
体不全や脳性麻痺に陥った場合、その人は家族の経済的要素と本人の苦痛が認められれば、
死んでもいいと答えるのでしょうか?
いま、日本で議論されているのは尊厳死法制であって安楽死法制ではないです。
おそらく、家族や本人には計り知れないくらいの苦痛や苦難が待ち受けていると思います。
はやり、この考え方は、現在の日本では安楽死は禁止されていますし、授業で取り上げて
コメント [y121]: 「尊厳死」という言葉は、
「安楽死」というと社会的に抵抗があると
考えた人々が作った日本独自の概念です。
『生命の臨界』人文書院所収の大谷いずみ
の論文などを読んでみてください。
いるのはダウン症などの遺伝的障害であることからこのことや。先天的に障害を持ってい
る人と後天的に持った人とを同じように考えることに論点がずれているとは思います。
しかし、やはり「障害者の人生が苦しい」や、「親の経済的負担」ではやはり後天的な要因
と絡めて論じるべきだと思います。
「事故で介護の必要になった息子が、私に殺してくれと頼んだから殺した。私も精神的に
も肉体的にも限界だった」という事件が起きたとき、
「じゃあ仕方ない!」とはならないし、
刑法でしっかり裁かれます。
(この例には同意殺人などの社会的秩序の要因などが含まれて
コメント [y122]: 脳性まひの子どもを殺し
いるのであまり良いとは言えませんが)
た母親が執行猶予つきの判決を受けたこと
「障害」によってもたらされるであろう「苦難」
「経済的要因」を中絶(一つの人生を絶つ
があります。昨年度の授業の総括のスライ
こと)を認めるとするのであれば、それと同レベルな「苦難」「経済的要因」を「障害」に
ドを見てください。
よってもたらされた場合も考慮しなければいけないと思います。
http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/shin-ko
kusai/scienceandhumanity/2014/0718dis
cussion.pdf
私は今回のメールコメントで③その他を選択する。その中で前回の授業で取り上げられた
「障害があれば苦労するのか?」という話題について意見を述べる。
健常者と比べると、障害者は苦労が全くないとは言い切れない(身体を自由に動かすこと
ができない、周囲と違う行動をとってしまい迷惑をかけてしまうなど)。しかし、そのこと
だけで障害があるから苦労が絶えないとは限らない。実際に私は、障害のある生徒と同じ
学校、クラスで過ごしたことがあり、小学 4 年生の頃には学校の行事の一環で近所の養護
学校に行って、そこの生徒と何度か交流をするなど、障害者の人達と交流する機会が多か
った。同じクラスだった障害のある生徒は、いくつかの授業は別だったができることを一
生懸命にやっていた。養護学校の生徒達と交流しているときは生徒達はもちろん先生方も
楽しそうだった。障害があることで悲観的になっているようには見えなかった。
また、障害のある人達との交流があったからこそ障害者についてより深く考える機会を与
えられたし、色々な人と交流できたことは私にとってプラスになっている(色々な人と交
流することはコミュニケーション能力の向上につながるので)
。障害者の人達は健常者に比
べて苦労をする面はあるが、周囲の人達を結びつけたり、障害について考えさせる機会を
与えてくれる存在である。
以上により、障害があれば苦労するとは言い切れない。
コメント [y123]: 障害があることを直接の
原因とする苦労がないようにするための社
会制度を考える必要があるでしょう。
私は以前、急性骨髄性白血病を患い入院し、治療を受けたことがあり、その時に私は末梢
血幹細胞移植を受けた。その時のドナーは妹だった。骨髄・末梢血幹細胞移植では、HLA
型(白血球の血液型)が適合していないと行えない。適合度が低いと拒絶反応や GVHD(移
植片対宿主病)が起こったり、強くなったりするのでなるべく適合度が高いほうがドナー
には望まれる。実際、私自身も現在 GVHD の治療中である。私の場合妹と HLA 型が一致
したため、主治医がすぐに移植に踏み切り、今の私がある。こうした経験から、救世主兄
弟が美談として扱われるべきでない。私の妹は私のドナーとして生まれてきたわけではな
い。では、D はどうだろうか。D は C のドナーになるためだけに生まれてきたのだろうか。
コメント [y124]: iPS 細胞を使えばクロー
D にはすくなくとも一生 C を助けるために生まれてきたという事実はついて回る。C が白
ンを使わず、胚性幹細胞も使わずに、患者
血病にならなければ自分は生まれなかったのかもしれない。このことが D にどれほど重く
本人の細胞から治療用の臓器が作れるので
のしかかることになるだろうか。この話が美談になるなら、さっさと人間のクローン技術
はないかということで、大きな期待がされ
を実用化して iPS 細胞など使わずに、患者のクローンから移植をすればいい。その人間の
ています。
生まれた意味がドナーとしてレシピエントの命を助けることならば同じことではないか。
コメント [y125]: 現在の日本の経済規模で
既に十分賄えるはずなのですが、日本の租
税負担率が OECD 加盟国中最低水準であ
ることから困難になっています。先に上げ
た『租税抵抗の財政学』や『税金 常識の
私は、よい社会には、社会的な弱者へのサポートも大切だとは思うが、それよりも優秀な
人材を中心に、効率的な経済成長を重視するべきだと考える。というのは社会的弱者への
サポートを厚くするだけでは社会全体としての経済成長が停滞しそのサポートを賄うだけ
の財源を確保するのも難しくなるはずであると考えるからである。なのでまずは社会全体
として成長していくために経済成長を重視していくべきだと考える。
ウソ』などを読んでください。
コメント [y126]: あのとき私が言いたかっ
たことを補足すると、農民としてやってい
くためには、現在の尺度から見れば知能と
呼ばれるであろうものが必要だったに違い
ないにせよ、江戸時代当時においては農民
の能力や努力は「知能」
(という言葉はなか
今回の授業で「知能」について論議された。現代の日本をはじめとする世界は知能に重点
を置いた考え方が一般的となっており、そのため知能が高ければ高いほど評価されるとい
う仕組みになっている。ここで、知能について考えてみたい。まず、知能とは勉強ができ
るということなのだろうか。桑原先生が言っていたように、江戸時代の農民は様々な経験
を通していかに効率よく、たくさんの作物を収穫することができるか考えてきた。それが
できたのは、彼らに学習する知能があったからではないのだろうか。江戸時代の農民とあ
れば、漢文の読解や高度な計算などはできないはずである。しかし、それらができなくと
も、農民たちは経験から学習してきた。このような経験を通して学習することも知能に入
るのではないだろうか。むしろ、漢文の知識は農作業にほとんど役に立たない。これらの
知能は社会を支えるのには役に立っていない。農民たちの経験からの知識のほうがよっぽ
ど社会を支えたといえる。確かに、現代は江戸時代と違い、様々な高度な技術を駆使せね
ば使用できない、扱いきれないものも増えている。そういった科学技術の進歩も、知識重
視の社会を築き上げる原因になっているのではないだろうか。
っただろうが、
「価値ある知」
)と認められ
ていなかったのではないかということです。
ヨーロッパにおいても、
「職人の知」が評価
されるのは 18 世紀、ディドロの『百科全
書』あたりからだろうということになって
いますが、それは欧州諸国の軍拡競争や経
済競争の中で職人の知(技術の知)の価値
が高まったからという背景があります。
権力が重視する価値を、人々が自発的に内
面化することで、強制的な力を発動するこ
となく、低コストで社会統制が図れるよう
になります。ミシェル・フーコーの『生権
力と統治性』河出書房、はちょっと難しい
かもしれませんが、フーコーの概説書でい
いから読んでみるとよいでしょう。